Facebook藤井 清史さん投稿記事
【諺から考える健康学 85】
『猿猴月を取る(えんこうつきをとる)』という諺があります。
これは、「猿が水面に映った月を取ろうとし、木の枝が折れたために落ちて水死した話しから、分不相応のことをして大失敗するたとえ。身の程を知らない行為は災難のもとだということ」という意味です。
昨日、中国外相が、「米国が、世界最大の不安定要因」などと、台湾問題などで非難した、という記事を目にいたしましたが、「全く逆さま」ではないのか!?と思ってしまいました。
世界の覇権を争う姿勢でやってきておりますが、中国は「自分の主張や行為は正当化するが、その結果に伴う責任については他国に転嫁する」というダブルスタンダードの姿勢を改めない限り、世界の中心になることはあり得ない、と私は思います。
万が一、そうなってしまったら、地球は終わりではないかとも思います。
チベットやモンゴルなどへのやり方を見ても、中国主導の世界は、地球を滅ぼすことになるのではないか、と私は思います。
基本的な姿勢を正さない限り、諺通り、「身の程を知らない行為は災難のもと」でしかないと私は思っています。
皆様は、いかが思われますか?
健康においても如り、であります。
病気を治したい、健康になりたい、という一心で、ネットやSNS、YouTubeなどから情報を取って実践してみるのは自由ですが、かえって健康を害したり、病気を悪化させてしまうことが最近多く見受けられます。
これは、昨今の情報発信が実に無責任であるという事にも起因は致しますが、それを選択しているのは自分自身だ、ということも忘れてはなりません。
身の丈を知る、というのは病気においては「病状を正しく見極める」ということです。
それを無視して、または、無知のままで突っ走ってしまいますと、必ず災いが起きるのですね。これは、医療を施す側にも言えることです。
仏教の八正道の中でも初めに来るのは『正見』です。
『正しく見る』ということは、自分自身を理解し、知ることです。
ここから全てはスタートしてきますから、そこを間違えては後は、壊れていくしかなくなってしまうのですね。気をつけなければなりません。私自身も、もちろん正見ができているわけではありません。どんな方でも、完全にマスターしているわけではないのです。
だからこそ、大切なことなのではないか!?と私は思っています。
健康だけではなく、様々なことにおいて、正しく自分を理解し、把握することから全てはスタートするのでしょうか。
また、人生はそれの連続なのではないだろうかと、私は思っています。
【諺から考える健康学 87】
『諍い果てての乳切り木(いさかいはててのちぎりぎ)』という諺があります。
これは、「間に合わないこと、時期に遅れることのたとえ」のことです。
昨今、少子化対策で様々な問答が行われています。「少子化財源は茨の道」「子育てへの国からの補助の充実」などなど、本当に少子化を乗り越えて人口減少に歯止めをかけようとしているのかどうなのか、いささか疑問に思う事が多々あります。
本来、もっともっと経済的な繁栄がとっくに実現されていれば、このような問題は解決しやすい、否、このような問題すら起こらなかったかもしないのではないか?
今頃になって慌てても、それこそ「諍い果てての乳切り木」ではないのではないか?
と考えてしまうのは私だけでしょうか?そもそも、バブル崩壊のは誰の差金だったのでしょうか?バブル時代が、真っ当な正気の時代とは言うつもりもありませんが、今から比較すれば、国民は暮らし易かったのではないだろうか!?と思ってしまいます。
昭和時代の人口が増え続けた時代は、好景気とともにありました。
好景気だけが、人口増加の元とは申しませんが、少なくとも大きな条件にはなっていたと思われます。
そう考えたなら、やはりまずは現在の経済状態の脱却から本気で手掛けていかなくてはならないのではないでしょうか?
世界的にみても経済から、戦争も始まってまいります。
エネルギーの確保、という観点からも大きいとは思いますが、それも経済的な豊かさがあるうちは、そのような発想にも至らなかった、という歴史的な証明もあります。
最低賃金を上げたところで、どこの国民が豊かになるのでしょうか?
もう少し、骨のある政策を考えられる方はおられないのでしょうか?
コロナ騒動でもそうですが、まともな策はいくらでもあったはずなのに…、と思うのは私だけでしょうか?
もうすでに『諍い果てての乳切り木』となっている感はとてもありますが、本当にそうならないよう、褌の紐をぜひ、締め直していただきたいと願うばかりです。
健康においても如り、であります。
健康とはかけ離れた生活を送り続け、身体を壊している方は山ほどおられます。
壊しかけで、気がついて修正をかける方も多くおられますが、「壊れていても気が付かない」方も多数おられるのも事実です。
そして「諍い果てての乳切り木」となってトコトン、身体を壊す、害される方が多すぎるように思います。
予防医学とは言うものの、現代の予防医学でわかる範囲は、「病気になった状態」まで来ないとわからない、というのが現状です。
本来は、未病(病気として顕現される前の段階)で予防していくのが予防なのですね。
それにはどうしたら良いのか!?
それは、日々の「自らの身体との対話」しかないのです。
健康食品を摂っていれば良い、とか
健康のために毎日運動をしていれば良い、とかいう問題ではないのです。
もちろん、それもとても大切なことではありますが、的外れな健康食品や運動に頼っていても、かえって逆効果になることも多くある、ということも知っておいていただきたいのですね。
ですから、毎日毎日、1日の終わりや1日の始まりに、「自分の身体の声を聴く」という習慣をつけていただきたいと思います。
そして、毎日毎日、文句も言わず働いてくれている自分の身体の細胞、器官、組織に、感謝していくという習慣をつけていただきたいと思います。
身体が壊れ始めている時、必ず、身体はサインを出しています。
そこにいつ気がつくかが、健康と不健康の分かれ道なのです。
ぜひ、このことを知っていただき、理解していただいて、本来の健康生活というものを身につけていきたいものです。
【諺から考える健康学 88】
『一日千秋の思い(いちにちせんしゅうのおもい)』という諺があります。
これは、「一日が千年もの長さに感じられるほど長いということ。未来の事柄を待ちこがれる気持ちの表現」のことです。
最近、ハマスによる武力行使や、依然として続くロ・ウの戦闘、世界各地での天変地異など、「地球が病んでいる」とも言えるような状況が続いております。
これも文明開化以降の、人類の功罪の結果であることには間違いはありません。
明るい未来を描きたくても、なかなか描けない、という状況が続いてしまっており、「本当にまた明るく健在な世界は訪れるのだろうか」という先に希望がなかなか見出せない、まさに諺通り、安心立命で過ごせない時期が続いております。
しかし、社会が、国が、世界状況が、と嘆いていても事は改善してきません。
一人一人の個の集合体が社会であり、国であり、人類であるのです。
さすれば、今、一人一人に出来ること、求められていること、また、出来ることは何なのか?と、考えてみますと、自分自身の中の、悲観的な世界状況と合い通ずる部分を見出だし、そこを修正していくほかないのでは無いか!?と私は思っています。
日常生活の中にも、嫉妬や独占欲、自分さえ良ければよい、というような思い、そして、怒りや戦闘性など世界の人類の縮図が潜んでいるのではないでしょうか?
ひとり一人で、出来ることは本当に小さい。いや、むしろ無いに等しいかもしれませんが、自分自身の心を正していくことだけは可能ではないかな、と私は思います。
個々の集合体が、社会であり世界であるなら、その個々が日々修正を心がけたなら、計り知れない時間はかかろうとも、世界が、地球全体が幸せな方向に舵を切り直すことは可能ではないかと信じています。
皆様は、どう思われますでしょうか?
健康においても如り、であります。
一つ一つの細胞が、組織を作り、器官を作り、臓器や骨格を作っています。
その一つ一つの細胞が、良くなろう、調和とバランスを取ろうとしてきた時に、健康体というものが形成されるのではないか、と思います。
その長たるものが自分自身であるわけですから、そのようにいつもいつも、号令をかけ続けるのが大事なのではないか!?と私は考えています。
悪いものを取り除くだけでなく、いかに、更生していってもらうか、バランスをとって調和していってもらうか、そこを考えて自分自身の心を見直していくのが長たるものの役目ではないか、と思っています。
自分の身体の長は、自分自身です。
そこを忘れることなく、置き去りにすることなく、しっかりと取り組んでいきたいと、私は考えています。
不幸な、不安な一日は、長く長く感じるかもしれませんが健全で幸福な日を待ち焦がれて、確実な一手一手を打つしか、明るく幸福な未来を創るにないのではないか!?と私は思います。
【諺から考える健康学 89】
『浮世の苦楽は壁一重(うきよのくらくはかべひとえ)』という諺があります。
これは、「この世の苦楽は隣り合っていて変転極まりないものであるから、苦境にあっても悲観することなく、楽境にあっても楽観は禁物であるという教え」のことです。
ここのところ、「税収が増えた分の還元」などとのたまわっていらっしゃる首相がおられます。
何だか何をしたいのかさっぱりわからいですよね。
税収を増やすために、増税、増税とやっていたのではないでしょうか!?
目的がちゃんとあって、増税していたはずなのに、税収が上がれば今度は「返します」とは…。
だったら初めから、増税などしなければいいだけの話ですよね。
「返す、返す」はいいですけれども、それにも余計な人件費と、手数料がかかります。
普通、本当に還元するなら次期分から差し引けば良いだけのことです。それが一番、効率的ですよね!?
なのに、わざわざ「現金を返還する」などというのは、どう考えても
次期選挙のためのパフォーマンス以外の何物でもないでしょう。
そんな稚拙なやり方で人気回復を願うなら、本当に国のため、国民の生命のために、ちゃんとした政策を打ってもらいたいと思うのは、私だけでしょうか?
私たちは、政治家を判断する上で、諺通り、その場その場のことだけを考えていてはいけない、もっと俯瞰的な見方をしてもらいたい、と思う次第であります。
皆様はいかがお思いでしょうか?
健康においても如り、であります。
新しい健康食品が出れば飛びつく、
新しい健康法が出れば飛びつく、
マスコミで「健康〇〇」と言われたら鵜呑みにする、
そのような事では、健康は手に入れる事は出来ないでしょう。
古の健康法や、健康食品、健康を保つための言い伝えなどには、本当に優れたものが多々あります。
ただ、それは手が掛かったり、コツコツと継続してやらなくてはならない事もあり、現代の生活スタイルには、少しそぐわない事もあるのは事実です。
しかし、それを踏まえずに、短絡的に、楽に、合理的な方法などに飛びつくのは、いささか、知恵が足りないのではないか!?と私は思います。
【諺から考える健康学 90】
『禍福門なし唯人の招く所(かふくもんなしただひとのまねくところ)』という諺があります。
これは、「禍福や幸福がやってくるのには、初めから定まった門があるのではなく、悪をなせば禍がくるし、善をなせば幸福がくるのであって、幸不幸は結局その人の行いが招くものだという教え」のことです。
最近、パフォーマンスと思わしき政治家の行動が多すぎる様に感じます。
先般申し上げた「税金の還元」や、先日の議員報酬の引き上げ決定後の「自主返納」などなど、明らかに「私たちは、国民のためを常に考えています」的な言動が目につきます。
その反面、某国で日本人がスパイ扱いされて実刑になっても、遺憾である以上のことは何も出来ないという不甲斐さも露呈してきております。
この様な出来事を見ていて、どれだけ本気で国民のことを、そして日本という自分の国を大切にして守ろうとしている方々がいるのでしょうか?!っと、考えてしまうのは私だけでしょうか?
投票率の低下などを、若い世代の政治離れ、と一言で片付けてしまう帰来がありますが、まるで「若い世代だけが悪い」的な発想になってしまうのは如何なものか、と思います。
若い世代の方は、ある意味、中年層、壮年層よりドライな感覚であるのは確かですが、それだけ合理的で、かつ無駄のないスタイルを好まれている、とも考えられます。
ひと昔前では、考えられない様な情報を得て収捨選択する能力には長けている、と私は思うのです。
であれば、利己のための無駄なパフォーマンス的なことばかりしている政治の世界に興味を抱かなくなるのは当然の理りの様な気が致します。
それを「世代のせい」だけにしてしまうのは、自己責任が無さ過ぎるのではないだろうか?!と私は思っています。
諺では幸不幸になっていますが、全ての事柄にこの諺は当てはまるのではないかなぁ、と私は思います。
皆様はどう思われるでしょうか?
健康においても如り、であります。
若い世代の方ほど、健康に対してストイックさをお持ちの方が増えている感じがいたします。
「今の若い世代は、働くということがわかっていない…」的に嘆く、私たちオジサン世代は多くおられますが、「無理をしたくない、プライベートを大切にしたい」という発想はあながち間違いではありません。
「自分は無理してでも、家族は犠牲になってでも仕事優先」としてきた世代の方は、やはり健康破綻は早いのではないか、と私は思います。
ですから、若い世代の数が減って、年金破綻などが言われている昨今だからこそ、今の若い世代の方々はセルフマネジメントが長けている感じが私には思えます。
さぁ、今一度、自分自身を振り返り、自分軸が何処にあるかを再考して、幸不幸の元となる自分の行いや、自分の考え方を見直してみる必要もあるのではないでしょうか?
全ての事象は、人生の学びの課題です。人のせい、環境のせいにする傾向性を止め、今一度、自らを振り返る良い機会にしていきたいですね。
かく言う私自身も、その世代です。襟を正して、セルフマネジメントを再構築していかなくては、と考えています。
「浮世の苦楽は壁一重」
この中には、知恵を持って世の動向を考える事の大切さも、含有されているのではないかと思っています。
本当の健康の意味、そして本当の健康の大切さを鑑みてみた時、即席カップ麺のような「手軽で簡単!」さを求める事は、安易であり浅はかな事であることは自ずと明白になるのではないか、と私は思っています。
全ては自分自身の心の投影です。
浅はかな心は、浅はかなものしか生み出せません。
逆に、思慮深く、深く考えて智慧となったものからは、本物しか生まれない、ということなのです。
何につけても、思慮深い、智慧深い日々を送っていくことが大切なのではないでしょうか?
そのための努力は、やはり惜しむべきではない、と私は思っています。
諺から考える健康学 93】
『猪も七代目には豕になる(いのししもしちだいめにはいのこになる)』という諺があります。
これは、「変わらないようでも、長い年月の間にはそれなりに変化していることのたとえ」のことです。
2024年がスタート致しました。
年末から続く、安倍派議員の取り調べの中で、100人にも及ぶ不記載が明るみ出てきました。
何とまぁ、揃いも揃って…、という感じではありますが、これも長い間の慣習だったのでしょう。
諺通り、ずっと変わらず自由にできる裏金を作り続けて、未来永劫、この慣習は続くと思ってはいたのでしょうが、少しづつ変わってくる世の中や政界のウエイトバランスなどなどで、今回は明るみに出たのでしょう。
悪いことだけが、この諺に当てはまるわけではありません。
コツコツと、努力してきたことが当たり前のようにしている日常が、大いなる偉業になっていることもあるわけですね。
毎日毎日、変わらぬ日常の積み重ねが、変わらぬようでも積み重なることで大きな「徳」にもなれば、「犯罪」にもなる、ということなのではないでしょうか?
日々、生々流転し続けて「変わらないものは何もない」と言えるのではないでしょうか?
健康においても如り、であります。
身体の細胞ひとつ一つは、日々、生々流転の中にあります。
容姿は同じようでも、中の細胞は生死を繰り返しているのですね。
その変わらない、と思われる容姿においても長い年月で全く違う容姿になっていくのです。
人は、この生々流転、生老病死の法則からは逃れることは出来ないでしょう。
さすれば、病にあるある方は「もう、ダメだ、この病は治ることはない…」と諦める必要はなく、また病のない方も「私は元気だから、丈夫だから大丈夫!」と健康の奢りに浸っていてはいけない、ということです。
昨日より今日、今日より明日、同じルーティンの中にあるようでも、少しでも良くなるように、前進するように心がけていくことは可能なわけです。
これは老若男女、問わずであるのですね。
人の身体は、死を迎えるまで、この法則の中にあるのですから常に流動的なのですから。
さぁ、このように考えてみますと1日1日を大切に、一瞬一瞬を大切にすることが、変わらないと思われる毎日の中でも一番大事なことなのではないか、と私は思います。
当たり前、と思う中に発展進歩の種は沢山あるのではないか!?と思っています。
【諺から考える健康学 95】
『人参で行水(にんじんでぎょうずい)』という諺があります。
これは、「高価な漢方薬の朝鮮人参を浴びるほどたくさん飲む意から、金銭を惜しまずに、あらゆる手を尽くして治療することのたとえ」のことです。
「子育て支援に、健保料を微増させて財源を確保する」
ということに、巷では論議が交わされてきますが、そもそも、子育て支援をしなくてはならなくなった背景には、政治の失敗があるのではないかと私は思います。
何だかんだいって、国の人口は国力に比例します。
その人口が減少していく事に関しては、30年以上前から明確だったのではないでしょうか?
それに対して、何の抜本的な策も功じず、行き当たりばったりの支援しかしてこなかった、言わば、「票取り支援」しかしてこなかった政治の失敗に他なりません。
今回の子育て支援に関してもそうなのだはないでしょうか?
私は、子育て支援をすることの是非ではなく、はたまた、その微収方法の是非ではなく、そもそもの「抜本的解決の無策」を問うべきではないのかなぁ、と思っしまいます。
諺通り、お金をかけてあらゆる手を尽くして治療したとしても、目的が間違っていたら無駄にしかなりません。
人参は万能ではありません。
正しい用い方をしなければ、いくらお金をかけたとしても、治療の効果は得られないのですね。
政治手腕においても如り、ではないでしょうか!?
人口減少を食い止めるための抜本的な解決案が無いのに、いくら行き当たりばったりで支援したところで人口減少は食い止めることは出来ないでしょう。
未来に展望がない、衰退しか見えない国に、頑張って子孫を残していこうと考える人は、少なくなって当然です。
そこから、スタートして考えなければならないのでは!?と思うのは、私だけでしょうか??
皆様は、いかがお考えでしょうか?
健康においても如り、であります。
まさに諺通り、あらゆる手を尽くして治療にあたる方は数多くみられます。
しかし、あらゆる病気になった原因を考え抜く人は、そう多くありません。
拙書「心主身従」でも、詳しく論じておりますが、病気になるには「病気を引き起こす心」というものが必ず存在します。
ここを見ずして、病の抜本的解決はあり得ません。
財産を投入して、一つクリアしたとしても、また次なる病が訪れて来るのですね。
自らの心を深く見つめ、深く考え、病の源となる自らの心のあり方探ることは、一円もかかりません。
しかし、財産を投入するよりも正念の要ることでもありますし、苦しいことでもあり、ある意味、大変なことでもあります。
でも、これを行じ、実行できたなら、人生の宝を手に入れることが出来るのですね。
病の本当の意味を知ることができ、かつ、人生の意味を知ることが出来るのでは、ないでしょうか!?
人生の根本治療、この観点が大切だと、私は常々、考えております。
【諺から考える健康学 96】
『蒲柳の質(ほりゅうのしつ)』という諺があります。
これは、「生まれつき弱く、病気にかかりやすい体質のこと」という意味です。
近年、政界を見ているとこの諺がピッタリな気がします。
政界の場合、「誘惑に弱く、悪事に手を染めやすい体質のこと」という感じでしょうか!?
ある日を境に急に代議士は「先生、先生」と呼ばれ、周りから急に持ち上げられるようになります。
そして、利権、利害を念頭に近付いてこられる人々が一気に増えます。
そうなると、よほどの政治信条がない限り、そちらに流されてしまう、というのもある意味、仕方がないのかもしれませんが、やはりある日突然「先生」となる以上、そうであってはならないと、私は思います。
これも一重に「俯瞰視が出来ない」ということに他ならないと思っています。
街のため、県のため、国のため、と言っていても、目の前の自分のためが最優先になってしまうのは、全体が見えていないことに他ならないと私は思うのです。
視点を高く持ち、上空から俯瞰視出来るなら、大きく道を逸れることはないと思います。
自らを常に客観視し、世の中を俯瞰視できれば、歴史に残る政治家として政治生命を全うできるのではないでしょうか?
車の運転でも目的地までのルートがわかっていればナビの指示が遅れて道の選択を迫られてもおかしな方向には行かなくて済むものです。
ぜひ、これから政治に携わる人々は、この視点を忘れないで頂きたい、と願ってやみません。
健康においても如り、であります。
「生まれつき弱く、病気にかかりやすい体質」であったとしても、人生を俯瞰視出来るなら、逆に無理をせず、無茶をせず、ある意味、効率的に人生航路を歩んでいくことが出来るのではないでしょうか?
病気にかかりやすい体質、というのはあながち損な体質のようにも聞こえますが、常々、自分の健康に気を配る事ができるようになりやすい、とも考えられるのですね。
下手に丈夫すぎて、無理や無茶をされる方は「志半ば」で、断念せざる得ないことにも陥りやすい、ということです。
それだけ、自らの状態を客観視し、人生という長い道のりを俯瞰視する、というのは大切なことであるのです。
反対に出来そうで、出来ないことでもあるのは確かですが「行じ難しを行じていくこと」が人生を勝利していく必勝法でもあるのではないでしょうか?
健康生活を行ずる際に、これは必須条件になると思っています。
「客観視と俯瞰視」
ぜひ、挑戦していって頂きたいと思います。
かく言う私自身も、襟を正して取り組み続けたいと考えております。
【諺から考える健康学 97】
『浮世の苦楽は壁一重(うきよのくらくはかべひとえ)』という諺があります。
これは、「この世の苦楽は隣り合っていて変転極まりないものであるから、苦境にあっても悲観することなく、楽境にあっても楽観は禁物であるという教え」のことです。
これは、仏教で言う「諸行無常」とも同意義であるかと思います。
科学の進歩により、さまざまな生活環境は変わりました。
10年、いや5年前から比べても、暮らしは便利になり、ペーパーレスも進み、資源の無駄遣いや、ゴミの削減なども進んでいるかと思います。
が、しかし一方では、電磁波問題や、スマホ依存などの精神疾患の複雑化などを引き起こしてしまっているのも残念ながら事実であります。
コミュニケーションが苦手な人たちが増えているのもそうかもしれません。
人間が人間らしく余裕を持って生きていくためのものが、逆に、人間を人間関係から遠ざけている面もあるような気が致します。
そんな中でも、より高みを目指し、幸福感を増していく方法を探し求めている姿勢というのはとても大切なことであると思います。
「もう、これで充分」と、立ち止まってしまった時に、転落は始まっているのかもしれません。
常に謙虚であり続ける、常に探究心を忘れずに精進し続けることが
常に変転する世界で、幸福感を持続してゆく秘訣なのかもしれません。
皆様はいかがお考えでしょうか。
健康においても如り、であります。
一つの病を克服し、2度と辛い思いをするもんか」としばらくは気をつけて過ごしていても、時間と共にまた、元の木阿弥で次の病がやって来ます。
これはある意味、「健康に対する奢り」が引き起こす業でもあるのですね。
「私は大丈夫」
「もう、元気だから大丈夫」
「少しくらい〇〇しても、大丈夫よね!?」
と、思ったことのない方はいないと思います。
しかし、そこで立ち止まって考えてみるか、そのまま勢いで進んでいくかで、先の未来は大きく変わるのです。
「いやいや、そうは言っても…」という謙虚な姿勢や、より元気な身体創りのためには何が必要なのか、を常に考えるという事が大切なのですね。
「日常に流される」という事は、常にある事であり、誰でもある事なのです。
しかし、流され続けるという事は生命に対する奢りであり、怠け心(探究心がない)であるということを、知らなくてはなりません。
まさに「浮世の苦楽は壁一重」であり、諸行は無常なのです。
「これでいいんだ」と、奢ることなく、日々、謙虚に精進する事が大切なのですね。
実に、簡単で当たり前のように思えますが、それが一番難しいことでもあります。
「有る+難しい」で「ありがたし」です。与えられた身体で幸福に暮らしていく事は誠に有り難い事なのですね。
与えられた身体に感謝して、謙虚に精進していきたいと、最近、改めて私は思っています。
皆様はいかがお考えでしょうか?
【諺から考える健康学 98】
『歯亡び舌存す(はほろびしたそんす)』という諺があります。
これは、「堅い歯はなくなっても柔らかい舌はなくならない意から、剛強なものはかえって早く減び、柔弱なものが長く生き続けることのたとえ」のことです。
最近、ようやく隣国の原発の汚染水が垂れ流しになっていた事実が浮き彫りになってまいりました。
東日本の大震災の際、福島に対してあれだけヤイヤイ言ったり、復興の邪魔立てをしていた国が、です。
何とも早、怒りを通り越して呆れるばかりです。
嘘で塗り固めているにも関わらず、それを堅固に貫き通すという、その姿勢には呆れ果てます。
なぜ、そんなところが国際社会で存在していられるのかが不思議で仕方ありませんが、これも膨大な人口による国力の為せる技なのかもしれません。
諺通り、剛強と思われているこの国が、早く新しい風の吹く新国家に生まれ変わってほしい、と切に願う次第です。
健康においても如り、であります。
「絶対この方法の方がいい!」
「絶対、この食品を摂り続ければ病気が治る!」
「絶対、絶対…」
といったフレーズは、よく耳にするでしょう。
しかし、この「絶対」という剛強な姿勢が、身を滅ぼすことは多々あるのですね。
たとえば、今流行りのマクロビなんかでもそうです。
「絶対、身体にとって自然のものの方がいい」
というのは真実ですが、それが偏りすぎて全ての病気が食生活だけに原因がある的な発想になってしまっては、偏狭過ぎるのですね。
それは、私も玄米食養コンサルタントでもありますので、より良いものを摂る大切さは、よーく存じ上げているつもりです。
確かに、現代の食生活にはかなり問題はありますが、どのような心持ちで食に接するかで、身体への悪影響は変わってくるものなのです。
逆に、その「偏狭さ」が自身を攻撃するアレルギーを呼び込んだり、正常細胞が悪性化して体を蝕む癌を呼び込んだりしてしまうのです。
『真実を知った上で、柔軟に対応する』という、諺通り、柔軟さが大切なのですね。
そして、その柔軟さを生み出すものは「感謝の心」であるのです。
あらゆるモノには、モノづくりに携わる方々が多数、いらっしゃるわけです。
食事なら、食事を作る人、原材料を作る人、店頭に売られてあるモノならそれをパッケージングする人…等など。
沢山の方々の、仕事の集大成がひとつのモノになるのですね。
それに携わる方には、「積極的に健康を害してやろう!」と考えながらしている方は、かなり少数派だと思います。
「少しでも美味しいものを、少しでも喜んでもらえるものを」と思って与えられた仕事に専念している方々が殆どなのですね。
それを「身体に悪い、これは毒だ!」的に、製造に携わる人も悪魔のような扱いをして一刀両断して排除するのはいかがなものでしょうか!?
選択するしないは、本人の自由ですから、それを摂らないことには全く批判するつもりもありませんし、良い選択でもあると思いますが、必要以上に「悪魔化」してしまうのはいささか、お門違いの気が致します。
そのお心根を、治された方がいいのではないか?と考えてしまうのは、私だけでしょうか?
もっと、柔軟な、柔らかい心を養っていくことが、社会をより良く
身体もより良くなっていく秘訣のような気が致します。
『あらゆるモノに、感謝できる心』
これを培っていきたいと、私は思っています
【諺から考える健康学 99】
『見たと嘗めたは大違い(みたとなめたはおおちがい)』という諺があります。
これは、「見ただけと、実際に味わってみたのとは大きな違いがあることから、外見と内容がひどく異なっていることのたとえ」のことです。
最近、〇〇製薬の健康食品問題が取り沙汰されておりました。
紅麹が、発酵過程で何か健康を害するものが混ざってしまっていた、という事でした。
その道のプロなら、ましてや製薬メーカーさんなら、量産発酵途中で起こるリスクは、ある程度把握していたのではないか!?と、考えてしまいます。
まさに諺通り、見た目は「健康のため」の食品が重度の腎障害を引き起こしてしまう、という外見と中身が異なるどころか真逆の状態となってしまいました。
ただ、これは他人事ではなく、「医師の〇〇先生推奨」とか、「モニター〇〇人の検証結果」などという常套句で売り出されているモノの中にも、ここまで害がないにせよ、『益の無い」モノ、というのは沢山あるので注意しなければならないな、と思っています。
健康産業の中には、この『見たと嘗めたは大違い』は多数存在するので、皆様、お気をつけてくださいませ。
健康においても如り、であります。
見た目が、元気でハツラツとしていても、実際は病に侵されている事も多々あります。
また逆に、見た目はか細く、青白く見えて、病弱そうでも病気知らずの疲れ知らず、という方も多々おられるのですね。
これは、他人の目から見て、ということでもあり、中には自分の目から見てもそう見える場合もあります。
「気づかないうちに、こんなになってて…」というパターンがまさにここれですね。
また、「自分は体が弱いから…」と、何でも消極的になり神経質になってしまい、やりたいことも何も出来ずに日々過ごしている、というパターンもあります。
そうならないためにも、自分自身の身体の声、というものに耳を傾ける時間を取っていくことが大切です。
自分の身体が、何を訴えているのか、何を求めているのか、しっかりと把握しておくことが大事です。
思い込みや、過信、逆に過度の心配性や恐怖心、これらを一切排除して、『フラットに自分の身体の声を聴く』という時間を、習慣を身につけていくことが大事です。
心を澄まして、身体の細胞ひとつ一つに語りかけ対話すること、これが本当に大切です。
その時、大事なのが、毎日毎日、文句も言わずに働き続けてくれている自分の身体に心からの感謝、心からのありがとう、を忘れないでください。
さすれば、身体も嘘のように素直にお返事してくれるのですね。
「心を開いて、素直に自分自身を確かめる」
ぜひ、やってみて頂きたい、と思っています。
【諺から考える健康学 100『最終話』】
『春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)』という諺があります。
これは、「春の夜は気候も温暖でこころよく、そのすばらしい興趣は、短い時間が千金にも値する」という意味です。
昨今、本当にさまざまな事件、事象が起きております。
国内でも政治家の裏金問題、製薬会社の健康被害サプリ、天変地異や異常気象などなど、世界的に見れば、長引く戦争や、大規模なテロなど、この地球上でまるで「膿み出し」の様な出来事があちこちで起きていますね。
これはある意味、地球という生命体を構成する人間という細胞群がかなり病んで来ているがために、自然治癒力が働いて病を治している姿なのかもしれません。
これは、長い地球の歴史から考えると幾度もあったことなのかもしれません。
その度に、私達人間は痛い目に遭っては反省して、より良い方向へと舵取りをしてきたのではないだろうか!?と考えてしまいます。
そして、また進歩と調和の日々を繰り返し、また進歩が行きすぎては、病となり…の繰り返しの歴史だったのかもしれません。
そう考えると本当に平和な時期、調和された時期というのは、有史、また有史以前も、諺通り、本当に短い期間で本当に有難い、千金の時だったのかもしれません。
このような千金に値する時間を、少しでも多く創っていくのが、私達人間の本当の仕事なのかもしれないな、と思う今日この頃です。
皆様は、いかがお考えでしょうか?
健康においても如り、であります。
人生の中で、本当に心身ともに健康でいられる時間というのは、短いのかもしれません。
本当に諺通り、春の心地よい夜、といった感じなのかもしれません。
そこから、どう対応するか、また、どう維持していくか、これがポイントなのかもしれません。
千金に値する時間を少しでも伸ばし、ある意味、ずっと千金の時をどの様にしたら過ごせるか?
人生を「健康大金持ち」として過ごしていくかは、このことを深く理解しておく必要があるのではないでしょうか?
有難き時を、心から感謝し、その時間を少しでも長く、維持し創造することが、私達人間としての報恩行なのかもしれません。
感謝と報恩、この観点はとても大切なことであり、忘れてはならないことだと感じています。
皆さま、長きに渡り「諺から考える健康学」を拝読いただきありがとうございました😊
今回で一応、100話になるので、一旦最終回とさせて頂きます。
また、続編をやるかもしれませんので、その時はよろしくお願いします!
4月中旬からは、実践的なお話をまたシリーズでしていきたいなぁ、と考え中ですので、どうぞ宜しくお願い致します!
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