松岡正剛が説く、なぜ「別日本」でいいのか

https://book.asahi.com/jinbun/article/15253764 【セカイを語り直す風穴を穿つ――松岡正剛が説く、なぜ「別日本」でいいのか(上)】

記事:春秋社

松岡正剛と近江ARSの仲間の活動と思いをまとめた1冊

 日本を語るためには何をすればよいのか。仏教とサブカルチャーを通して近江から語る。『[近江ARSいないないばあBOOK]別日本で、いい。』(春秋社刊)の編著者・松岡正剛先生に本書刊行に至った経緯と意図をご寄稿いただきました。

いま私は八〇歳なのだが、いろいろやり残したことがあって「ああ、しまった」と思うことがあまりに多くて困っている。とはいえ、これまでの準備不足のせいで、いまから着手してもまにあわないだろうことも少なくない。たとえば複雑系の科学や数学についての考え方を展望する、意識の正体を抉えぐるための脳と心についての見方を確立したい、性や配偶子の生物学に新たな推理をほどこす、言語の発生についての有力な仮説を提案することなどは、とうてい組み立てられない。

 けれども、これまで何度かアプローチしながらも、私の怠慢でその詰めを放置していたこともある。数年前から、この放置案件だけはなんとか仕上げに向かわなければならないと思ってきた。荷物はまとめると三つ、あった。

 ひとつは日本という国の問題である。いったい日本って何なのかというのではなく、日本についての語り方が昭和期にひどく歪んでしまって、そこを修繕する方法が敗戦・占領以来ずうっと低迷したままになっている事情、あるいは欧米型のグローバルスタンダードに向かうだけになっている事態に、それなりの風穴をあけて、この荷物の中身をあからさまにしたいということだ。

 もうひとつは、日本仏教をどのように語っていけばいいのかということである。たくさんの僧尼たちがいて、各地各寺で日々の行事が維持され、学識者の研究成果もありながら、現状の日本仏教は活動力を失速したままにある。そこをなんとかしたい。この荷物は重くて、ちょっと厄介だ。

 三つめは、和歌・能・茶文化・書・三味線音楽などの遊芸の真骨頂、およびマンガ・ファッション・ゲームなどのサブカルチャーの面白さを、いまあげた日本の語り方や日本仏教につなげるために、私がかかわってきた編集的なイメージ・エンジニアリングを駆使した工夫をそこに集中して加えることである。これならなんとか着手できる。

 では、どのようにしていくか。理論的な構築だけでは足りない。あるとき、三井寺の福家俊彦長吏らの案内で園城寺から逢坂山に及ぶ界域に散在する別所を訪れているうち、以上の課題を近江に注いでみたい、近江でこれらの荷を解きたいと決断した。こうして、名付けて「近江ARSアルス」プロジェクトが始まった。ARSと銘打ったのは日本・日本仏教・サブカルズをアートで染め上げたいという気持ちをあらわしたかったからだ。四年ほど前のことだ。

 ただちに福家長吏、石山寺の鷲尾龍華座主、ファウンダーの中山雅文、プロデュースの和泉佳奈子を中心に、近江各地から「近江ARS」賛同者が集まった。私は隈研吾・田中優子・樂直入・熊倉功夫・本條秀太郎・山本耀司・小堀宗実・森山未來らに声をかけ、一方で末木文美士に日本仏教史講義「還生げんしょうの会」全八回を三井寺でしてもらう用意にとりかかり、他方で近江を代表する菓子司の叶匠壽庵での節会せちえを毎年ひらく手立てを組み立てた。

 二〇二一年十二月三日、キックオフ・イベント「染め替えて近江大事」をびわ湖ホールで開いた。舞台に「別」と大書した壁代かべしろを立てた。別所の「別」であり、「別様の可能性」を告げるための「別」だった。私はコンティンジェンシー(別様の可能性、偶有性)こそ、今日の思想の最前線に躍るべきだと確言したのである。

 近江ARSの活動はすこぶる多様になった。その活動はそのつどカメラワークによって刻々記録され、末木さんの講義録を春秋社が刊行することにもなった。二年ほどたつと、プロジェクトがかなり多彩に広がっていき、そこに「日本」と「日本仏教」が問われていることの意図が静かに波打つようになっていた。しかし、その意図の中身はやや複雑すぎて、なかなか核心が伝わらない。とくに「近江」と「仏教」が掛け算されているところがわかりにくい。

 これはドキュメンタリーなプロジェクト・ブックにして伝えるべきだろうと私は判断し、ここから『別日本で、いい。』の編集制作が起動した。「近江ARSいないいないばあBOOK」というメディア名を付けた。

 六十人をこえるスタッフやライターによる本づくりは、壮観だった。一年半ほどをかけて全容が整っていった。私も編集の腕を奮い、返す刀で私が言いよどんできたことをこのさい本気で吐露するべきだと思い、八〇ページにわたる「世界の語り方を近江から変えてみる」を書き、そのほか「どうする?日本仏教」や「近江ARS十七景」を添えた。私自身の「いないない・ばあ!」のつもりだった。


https://book.asahi.com/jinbun/article/15257716 【ワンネスに向かわないための「ARS(アルス)」という方法――松岡正剛が説く、なぜ「別日本」でいいのか(下)】より

記事:春秋社

 「なんちゃってニッポン」を脱却し、「セカイ」に向き合うための提案とは。前編に続いて、『[近江ARSいないないばあBOOK]別日本で、いい。』(春秋社刊)の編著者・松岡正剛先生に、本書の編集について書き下ろしていただきました。

 いま、日本は臆面もなく迷走している。グローバル世界に「いい顔」をしたくて右顧左眄しているうちに、何に立脚しているのかを決められなくなった。サンフランシスコ条約以降は日米同盟の一角の国になりきって、その立脚点はよそさまの預金通帳の中でスコアされているだけなのだ。

 では、立脚点はどこから掘り起こせばいいのか。新たな自主憲法の制定なのか、加速する資本主義の列車を意匠替えしてみることなのか、それともアジア的なるものの再検討からなのか、あるいは神仏習合の捉え直しなのか。

 私はこれらの判断をするには、芸術や仏教を徹底したバロメーターにするのがいいと考えてきた。この場合の芸術とは、芸能や遊芸や職人技を含めたすべてのARSアルスのことをさす。連歌からアニメまで、複式夢幻能からJポップまで、茶道・武道・落語からプロレス・おねえ言葉・コスプレまで、すべてだ。

 仏数をバロメーターにするというのは、いま世界中で仏教独特の多様性が矛盾を孕みながらも保持できているのは、日本二〇〇〇年の歴史が示してきた流跡と現在の混合状態だけだろうと思えるからだ。大乗性、念彼観音力、密教感覚、浄土思想、利他性、仏像のたたずまい、無常観、日本禅、神仏習合の妙、日蓮主義、他界観などが一緒くたになっている。こんなところはほかにない。

 ただし、そのことを日本人があまり関心をもっていないようなので、だからこそ、ここで一気に仏教的多様性(不可思議)をARSとして捉え切るのがいいはずなのである。

 しかしながら芸術も仏教も、多くの者にとってはいまやヴァーチャルな成果物や表示物にしか感じられなくなってもいて、ここを抉り出す方法が際立たなくなってきた。うっかりすると仏教全般が東洋的メタヴァース扱いなのである。寺院の日々も淡々とするしかなくなっている。私はそれなら、これらを「別日本」として取り出して、既存の「なんちゃってニッポン」と対峙させてみたほうがいいのではないか、別様の可能性から切り出しなおしたほうがいいのではないかと思うようになったのである。近江はその「うつわ」になってほしいのだ。

 もっとも別日本は近江だけにあるわけではない。たとえば東北の奥六郡も、信州の戸隠も、高密度都市の福岡も、奄美大島も、別日本の可能性をもっているだろう。いやいや、どこにも別日本はありうるはずだ。ただいったんはそう決断してみないと、たんなる「なんちゃってニッポン」では預金通帳ばかりに目が引き寄せられて、芸術も仏教もモノ言わない。

 べつだん、別日本を独立させたいと言っているわけではない。条件が揃うならそれもいいけれど、それ以前に別日本たらんとする思索とエクリチュールと技倆を磨いておくのがいい。『別日本で、いい。』はこのような意図をもって編集した。

近江が秘める本来と将来に「まだ見えていない日本」がある

 たくさんの寄稿も仰いだ。髙村薫は朦朧とした風景をもって、大谷栄一は吉永進一の見出した近代仏教改革案の意志をもって、樂直入は桃山バロックの乱打をもって、髙山宏は雑密のルイス・キャロルをもって、藤田一照は道元の感応道交をもって、柴山直子は十三本の川をもって、福家俊彦は森山大道のモノクロ写真をもって、永田和宏は亡き河野裕子の近江の短歌をもって、田中優子は遊行の八景をもって、いとうせいこうは「新しき村」のための土地をもって、ヴィヴィアン佐藤は『闇の奥』をもって、田中泯はフラジリティをもって、川戸良幸は琵琶湖をもって、山本耀司は南無阿弥陀仏のコートをもって、それぞれ参画してくれた。

 私は、別日本がグローバリズムと分断主義のくりかえしばかりを演じるセカイに向き合うには、第一に「世界」(抱いて普遍)と「世界たち」(放して普遍)の両方を相手にするべきだ、第二にできれば今日の日本は「世界たち」のほうを重視するべきで、第三にとくに芭蕉の「虚に居て実を行ふべし」をモットーにするといいという主旨を、いろいろの角度で解いてみた。

 別日本を標榜するなんて、少しくアナーキーな訴えのように感じるかもしれないが、むろんそういう気味もあるけれど、本来の意図はワンネスに向かわずに、one(同)とanother(異)とを最初からもつことを奨めたいのである。昨今の日本は「異」を唱えることを怖れたままにある。あえて「別日本」を表明するのは、ここを打破したいからだった。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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