「ダビデの星」が内接する

https://renaissance-media.jp/articles/-/595 【歴史を探偵する  ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国 【第1回】】より

石川 雅晟

日本古代史最大の謎へ立ち向かう新説立証!

日本各地に存在する、ユダヤを連想させる地名や家名。古代日本史実に数多く残されている、ユダヤの足跡。しかし、その関連性はいまだかつて解明されていない……。古代史の謎に挑み続ける歴史探偵・石川雅晟によるユダヤシリーズ第4弾!

はじめに

老境に達した筆者は、そろそろ残り時間を気にする頃合いになった。既に3冊を出版し、以下の二と三は店頭にも並んだ。

第一作『古事記』の中のユダヤ平安京に隠された「ダビデの星」2017年3月第二作隠された「ダビデの星」東寺曼荼羅と平城京外京2018年4月第三作魏志倭人伝の中のユダヤ出雲大社に隠された「ダビデの星」2019年4月(必要な時は、1=第一作、2=前々著、3=前著と略記する)

偶然と幸運にも恵まれ、それらの中で、4つの「ダビデの星」を発見することができた。

①平安京に内接する「ダビデの星」、②東寺曼荼羅の下絵として隠されたもの、③平城京外京に内接するもの、④出雲大社境内遺跡の巨大本殿遺構に内接するもの。その存在はたった一つの数学的公式を当て嵌めることで、機械的に判断することができる。

すなわち、もし「ダビデの星」が内接する長方形があれば、その長辺と短辺との比は、2:√3(=1・1547)となる。逆にその比が1・1547か、それに非常に近い値が得られるなら、その長方形には「ダビデの星」が内接していると言える。だから長方形の長辺・短辺の長さが分かれば、誰にでも簡単に検証ができるのである。

「ダビデの星」の使用は近世になってからであるというように、古代の日本にそれが在ったとすること自体が疑問視されているが、そんな歴史の常識とは別に、数学的な検証によって「在るものは在る」のである。すると、ユダヤ系秦氏を活写した古代史が書かれなくてはならないのだが、歴史学者には、精密な学問的裏付けがないものを書くことは許されないであろう。この一点に、歴史には素人ではあっても、騎馬民族渡来説やユダヤ的視点などとも合わせて、複合的に歴史を見ようとする著者の、存在意義がある。

また前著からの繰り返しにもなるが、本書に掲げる地名などはユダヤ系のものに偏って挙げている。だから朝鮮半島経由のもの、例えば高句麗、百済、新羅、加羅、伽耶、安羅など、またそれらから派生している地名や人名は、もう数えきれないくらいであるから、一々それらを網羅的に述べることはしていない。このことを著述のどこかで、なにかいい訳でもしたくなる時があるので、あらかじめお詫びしておくことにした。

副題にもしたが、神話や魏志倭人伝の相互関係を調査するには、主に次の3点の書物を参考にした。何れも岩波文庫版である。『古事記』、『日本書紀』、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』。

そしていつものことながら、この本の結末がどのようになるのか分からない。過去に学んだことがふっと蘇ってきたり、新しい疑問点が出てくれば、次々に史料を繰っていく。

そのうち著述内容が次第に固まってくる、それが著者のやり方である。よく考えたら、趣味の範囲ではあるものの、もう50年も同じようなことをしてきた。著者の過去は、いつの間にか長くなってしまった。

だから筋道の途中で横道に逸れたり、余談で道草をしたり、通常の書籍とは異なることが多いが、歴史を探偵するというのは、結局そういうことである。さて、何処に辿り着けるのか、着けないのか。毎度のことながら、不安混じりの愉しい船出である。


https://renaissance-media.jp/articles/-/597 【『古事記』は、古代ユダヤの『旧約聖書』が下敷きになってできている】より  ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国 【第2回】

第一章 伊都国と日向神話

1.ユダヤ系秦氏と『旧約聖書』

渡来人として知られる「秦氏」は、「ユダヤから来た(YUDU+KI)」という意味の「弓月君(ゆづきのきみ)」がその祖である。従って、秦氏は『旧約聖書』の神話とともにやって来たといえる。

わが日向神話の系図と旧約聖書の系図を比べてみると、その類似に驚くだろう。ここに、第一作から両神話の系図骨格を抜き出して、再掲・比較した。「別紙1 アブラハム以下の系図」と、「別紙2 アマテラス以下の系図」である。

写真を拡大 [別紙1] アブラハム以下の系図

写真を拡大 [別紙2] アマテラス以下の系図

以下も第一作からの引用で、両神話が密接な関係にあることを述べた部分である。世代構成としては、アブラハムからヨシュアまでの十五世代とアマテラスからスジンまでの十五世代が比較され、世代数が同じであることを確かめた。ユダヤ側の世代数と同じにするためには、日本側系図に、いわゆる「欠史八代」を挿入する必要があったことも確認した。

また双方の系図骨格線も非常に似かよっていて、ほとんど同じと断言できる。物語については当然ながら登場人物の名前がそれぞれの国で違っているものの、話のあらすじとしては、大枠が一致していると認めざるを得ない。そしてこれらの事実から、どのような結論が導かれるのか。

『古事記』は、古代ユダヤの『旧約聖書』が下敷きになってできている、これが結論である。異を唱える人が多いと思われるが、では日ユ神話・系図と同様の例題に挑戦してほしい。

例えばアフリカかどこかの民族神話の世代数とそれぞれの世代特有の物語において、その神話を知らない人が自らの想像(創造)でそれを創作してみてほしい。だれがやっても、類似の神話を作り出すことは不可能である。

従って『古事記』の編纂者のなかに、ユダヤに精通した人物がいたか、あるいはユダヤ人そのものがいたか、またはユダヤに関する知識を伝授するグループ人脈が存在していたか、その他さまざまな類推が可能である。『日本書紀』の編者の一人でもある太安萬侶こそ、その要素を兼ね備えた人物である。(『日本紀竟宴和歌』序)

両系図を比較することによって、山幸彦や海幸彦などでお馴染みの日向神話は、その下敷きとしてユダヤ神話の系図が利用されていることが分かった。この事実は驚くべきことであり、ユダヤ系秦氏の介在を前提にしないと絶対に納得できないことである。後述するが、日向は秦氏が住んでいた国(移住させられた国)であることは、明らかである。

しかし古代においてユダヤと日本には歴史的関連性ありという、どちらかといえば首を傾げる人が多い題材を選んで議論するには、双方の系図が相似形であることや同世代間の物語が類似していることのほかにも、一層の慎重さが必要になる。すでに第一作では、『旧約聖書』の中のアブラハムからヨシュアまでの15世代と、『古事記』のアマテラスから崇神までの15世代とを比較して、その記述量をベースにして双方の相関を調査している。

「別紙3 記述分量比較表」がそれである。一目して分かることは、他の世代が同じような相対的記述量になっているのに対し、6代目のベリアとジンムのところが大きく違っている。[ベリア≒0% ⇔ ジンム=28・4% ]と、大きな差が生じている。これは違和感が漂う差異であるから、少し詳しく見ることにする。


https://renaissance-media.jp/articles/-/668 【神の土地であるヤマトを平定したのが崇神】より  ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国 【第3回】

第一章 伊都国と日向神話

1.ユダヤ系秦氏と『旧約聖書』

ベリアの子はレバ、その子はレセフ、その子はテラ、その子はタハン、その子はラダン、その子はアミホデ、その子はエリシャマ、その子はヌン、その子はヨシュア。

綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化

15代目のヨシュアには、『旧約』「ヨシュア記」に多くの戦闘記録があって、その記載分量比率は36.9%に達する。彼は戦術的な騙し討ちさえ駆使して、神がイスラエルの民に約束した土地「カナン」(ヨルダン川・死海の西側で、地中海までの間の地)を獲得するのである。

このヨシュアと比較するのが相応しいのは、ヤマトを戦い取った⑥神武や⑮崇神である。その尊称は二人ともに「ハツクニシラススメラミコト」であり、初めて日本(や まと)という国を肇(はじ)められた天皇という意味である。二人の記載量を合わせると、ほぼヨシュアの記載分量に合致するのだが、しかしなぜ「ハツクニシラススメラミコト」が二人もいることになったのか。

なぜ「ハツクニシラススメラミコト」が二人もいることになったのか

前著『魏志倭人伝の中のユダヤ』では、ヤマトの意味を以下のように解釈した。《ヤマト=ヤ+ウマト=神ヤハウェの土地。神に選ばれた民・国》。

さてカナンも、神がアブラハムとその子孫に与えた土地であった。「乳と蜜が流れる」約束の地である。そのカナンを征服したのがヨシュアであり、神の土地であるヤマトを平定したのが崇神であった。

〇比較の第一段階………約束の地を征服する

約束の地を征服する

説明

・国譲り戦の対戦相手は、出雲本国が大国主とその後継者事代主、建御名方

・邪馬台国は政教分離国家。卑弥呼を支援する出雲系饒速日(大物主)も対戦相手            

・従って崇神の国譲り戦は、主として対出雲本国と対大和戦の二局面から成る

・対戦相手の崇神と大国主・饒速日は同時代人。神話形成は第二段階へ→神話をユダヤ側に合わせて、全15世代に再編する


https://renaissance-media.jp/articles/-/833 【出雲がユダヤ系首長の支配する国であった】より  ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国 【第8回】

第一章 伊都国と日向神話

2.古代ヤマトの軍事的地勢

これまでの著書で、『記紀』神話は、『旧約聖書』をベースにして、ユダヤ系秦氏が深く関与していることを立証してきた。続いて魏志倭人伝の記述を精査して、邪馬台国時代の軍事的地勢についてもはっきりさせなくてはならない。

特に九州の自然環境は、その山河を要塞・攻守の要として利用することで、覇権国がその優越性を維持していくためには、不可欠の軍事的要素になるからである。そこで「倭人伝」が記した倭国内の軍事対立と、政治支配体制について再検討する。

まず軍事的対立を述べた部分は、邪馬台国の南に在った「狗奴国(くなこく)」のことである。

その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭(の)載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

方位を示す「南」のことであるが、邪馬台国の位置が近畿でも北九州でも、「その南」は現在の熊本県である。肥後菊池郡に比定できる。狗奴国の官が「狗古智卑狗」となっているが、男王の名前であると思われる。

菊池郡を本拠とする「キクチヒコ」が、女王卑弥呼の争う相手である。

あとの引用文では、その男王の名前が「卑弥弓呼」であると述べている。学説では「弥」と「弓」が入れ替わっていて、「卑弓弥呼(ヒコミコ)」が正しいと言われる。

「キクチヒコ」という名前の「ヒコミコ(男性のミコ=覡)」が狗奴国の王であったことを、「倭人伝」は伝えている。そして両国が相戦った様子を、邪馬台国の遣いである載斯烏越((戴斯烏越)たいしうえつ=武内宿祢(たけしうちのすくね))が、帯方郡に上って報告したのである。

狗奴国の王=ヒコミコ(覡)のキクチヒコ。邪馬台国の女王=ヒメミコ(巫)のヒミコ。相戦う二つの国は、神に仕えるカムナギを王とし、また神意を伺う特殊な宗教政治体制にあったことが理解できる。

カムナギとは巫覡(ふげき)のことであり、巫は女性・覡は男性のシャーマンである。

前著で述べたことであるが邪馬台国は、宗教分野を女王卑弥呼が担当し、出雲本国の大国主や大和の饒速日(大物主)が政治分野を受け持つ、いわば政教分離の国であった。だから神降ろしは卑弥呼が行ない、それが「戦え」という神意なら、今度は出雲の出番になったのである。

ところが出雲はユダヤ系首長の国(前著)であり、狗奴国との戦いの報告にも、出雲圏のユダヤ系人材が遣魏使として選抜された。先の「載斯烏越( 戴斯烏越(たいしうえつ)=武内宿祢(たけしうちのすくね))」もユダヤ系であり、この前途有望な若者はその後、邪馬台国の政治的な中心人物として、数代の天皇側近となって活躍するのである。

出雲がユダヤ系首長の支配する国であったことは、前著「追記9:発掘された出雲大社本殿と「ダビデの星」」の中で、数学的公式を使用して証明済みであるから、これを参考にしてほしい。

すなわち発掘された巨大本殿(長方形)の長辺(東西梁間13.4m)÷短辺(南北桁行11.6m)=1.1552であり、長方形に「ダビデの星」が内接する場合の理論値は、2÷√3=1.1547ある。1.1552-1.1547=0.0005である。

100mにつき5㎝の誤差に収まる精度で、発掘本殿には「ダビデの星」がピッタリ内接しているのである。

さてここで難しいことは、邪馬台国と出雲国が「政教分離国家」であると同時に、両国がその宗主国である「漢」や「魏」の間接支配を受けていたことによって、倭国内の政治情勢は一層ややこしくなってくることである。

ここは非常に大切な部分であるから、慎重に筆を運ぶ必要がある。魏による「間接支配」の文献証拠が、「倭人伝」に残っている。

a.東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐(とど)まる所なり。

b.女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚(いたん)す。常に伊都国に治(ち)す。国中において刺史の如きあり。

aの読み方で問題になるのは、「世々王あるも、皆女王国に統属す」のところである。この原文は「丗有王皆統属女王国」となっており、「皆統属女王国」の部分を主語+動詞+目的語と並べる漢文の標準的な語順通りに訳せば、《(伊都国王の各王)「皆」は、「女王国」を「統属」する》のである。

代々の伊都国の王たちは、女王国(邪馬台国)を「統属」させて、間接支配下に置いた、と述べているのである。

またbの文は主語の明示がないが、「女王国」ではない。「倭人伝」では伊都国から遠く、多くの日数をかけて水行・陸行したのちに到着する「女王国」である。

従って「常に伊都国に治す」=「常に伊都国に(都して国を)治める=間接支配する」のが魏であるなら、文脈に不思議はないが、それが女王国・邪馬台国とすれば、「倭人伝」と矛盾する。

https://renaissance-media.jp/articles/-/1463 【スサノヲを騙して、スセリヒメと一緒に遠くに逃げる】より

第二章 渡来人に支配された古代ヤマト

7.ユダヤ系同士の覇権争い

次に御刀の本(もと)に著ける血も亦、湯津石村に走(たばし)り就きて、成れる神の名は、甕速日(みかはやひの)神。次に樋速日(ひはやひの)神。次に建御雷之男(たけみかづちのをの)神。亦の名は建布都(たけふつの)神。亦の名は豊布都(とよふつの)神。三神

ここにはユダヤ系の地名・神名が三つも出てくる。

湯津石村=YUTU-IHA-MURA → YUTU=ユダヤ

建布都神=TAKE-HUTU-NO-KAMI → HUTU=ユダヤ

豊布都神=TOYO-HUTU-NO-KAMI → HUTU=ユダヤ

「湯津石(ゆついは)村」は、ユダヤの石村(いわむら)の意であろう。HUTUはもう、これまでに何度もでてきているので、ユダヤ系の言葉としてはお馴染みである。このように、天孫・伊都軍の主将である建御雷には、ユダヤ系の特徴が顕著に出ている。

相手の出雲はというと、前著(『魏志倭人伝の中のユダヤ出雲大社に隠された「ダビデの星」』)で明らかにしたように、ユダヤ系首長の国であった。すると伊都国と出雲国との戦いは、ユダヤ系同士の争いではないか。実際に戦ったのは、騎馬民族首長の崇神とその将建御雷のグループが、出雲の大国主とその子事代主および建御名方のグループに相対したが、双方ともにユダヤ系であった。

出雲側にはもう一つ、大和の饒速日と長髄彦のグループがあるが、これもユダヤ系である。古代ヤマトでの戦いは、その上層部がユダヤ系で占められている、という結果になったが、どうも常識とは違う。史料的には一つ一つ積み重ねて、当然の帰結のように見えるが、本当に大丈夫であろうか。

出雲がユダヤ系首長の国であることは、スサノヲが大国主に呼びかけた声にも反映されている。大国主は、スサノヲの娘「須勢理毘賣(すせりびめ)」の入り婿であり、頼りにしつつ、スサノヲにはちょっと憎らしい存在であったことが、その叫びから理解できる。

婿入りのためには、舅スサノヲのさまざまな試練を乗り越えつつ、そして最後には、寝込んでいるスサノヲを騙して、スセリヒメと一緒に遠くに逃げるのである。追いかけたスサノヲが黄泉比良坂(よもつひらさか)まで至ったとき、彼の叫び声のなかに、出雲がユダヤ系である証拠を見ることになる。

故ここに黄泉比良坂(よもつひらさか)に追い至りて、遥(はるばろ)に望(みさ)けて、大穴牟遲神(おおなむちのかみ)を呼ばひて謂(い)ひしく、「その汝(いまし)が持てる生大刀と生弓矢をもちて、汝が庶兄弟(ままあにおと)をば、坂の御尾(みを)に追い伏せ、また河の瀬に追い撥(はら)ひて、おれ大國主神(おおくにぬしのかみ)となり、また宇都志國玉神(ウツシクニタマノカミ)となりて、その我が女(むすめ)須勢理毘賣を嫡妻(むかひめ)として、宇迦(うか)の山の山本に、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴(やつこ)。」といひき。

最後の「この奴(やつこ)[此奴(こいつ)め]」という呼びかけには、大国主への愛情さえ感じられる。そして「おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となり」というのは、「お前よ、大国主となって、またユダヤの国(出雲国)の王になって」ということである。


https://renaissance-media.jp/articles/-/1488 【正直に言えば、古代ヤマトの上層部は、ユダヤ系サークルといった感じがある】より

宇都志=UTU―SI=ユダヤ―の 國玉=国の王

ここに至ってもまだ「UTU」が出てくる。『記紀』神話は、「UTU」とその類語に溢れていると言ってもよいくらいだ。

一般的には「UTU」は美称の接頭語として理解されているが、種々様々な人名・地名・モノの名前などに付随して出てくるので、美称としての統一性に欠け、一般論としては不適切である。

かくしてユダヤ系同士の国譲り戦が始まるのである。結果は、崇神側が圧勝する。敗れた大国主は出雲大社に鎮まり、饒速日は三輪山に祀られた。

両神が祟り神になったことは、前著などで既に述べてある。崇神は、出雲に代わって新たに卑弥呼と結び、戦いの結果を伊都国経由で、魏に報告(遣魏使)したのである。

正式には卑弥呼からの第一回遣魏使として、難升米が朝鮮半島に出かけた。その帯方郡太守劉夏の仲介で、卑弥呼は魏から「親魏倭王」の称号を受けたのである。

また正使の難升米は率善中郎将に、次使の都市牛利は率善校尉に任じられた。国譲り戦では、攻める側の《伊都国王+崇神》は、阿曇氏と結んで制海権の確保を目論み、一方の出雲側は、宗像氏と組んで海の戦いに臨んでいた。

しかし両軍の構成メンバーには、どちらも秦氏が複雑に絡んでいて、布陣内容を一覧表にしないと混乱を来たす。次表は、国譲り戦前の倭国の体制である。

ここでは宗像氏は、出雲国の協力氏族として載せているが、宗像三女神がそれぞれ、出雲系首長たちと婚姻関係にあったからである。大国主には多紀理毘賣命と田寸津比賣命の二人が、そして饒速日には市寸島比賣命が嫁いでいる。大国主は、多紀理毘賣との間に阿遲鉏高日子根(迦毛大神)を、また田寸津比賣とは八重事代主を儲けている。

『古事記』には、その三女神の誕生が次のように述べられている。天の安の河における、天照大御神と建速須佐之男命との誓約(うけひ)によって、神々しくも生まれてきた。

天照大御神、まづ建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の佩(は)ける十拳劔(とつかつるぎ)を乞(こ)ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打ち折りて、瓊音(ぬなと)ももゆらに、天(あめ)の眞名井(まなゐ)に振り滌(すす)ぎて、さ嚙(が)みに嚙みて、吹き棄(う)つる氣吹(いぶき)のさ霧(ぎり)に成れる神の御名(みな)は、多紀理毘賣(たきりびめの)命。亦の御名は奥津島比賣(おきつしまひめの)命と謂ふ。次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命。亦の御名は狭依毘賣(さよりびめの)命と謂ふ。次に多岐都比賣(たきつひめの)命。 三柱

故(かれ)、その先(さき)に生(あ)れし神、多紀理毘賣(たきりびめの)命は、胸形(むなかた)の奥津宮(おきつみや)に坐(ま)す。次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣(たきつひめの)命は、胸形の邊津(へつ)宮に坐す。この三柱の神は、胸形君等(むなかたのきみら)のもち拜(いつ)く三前(みまへ)の大神なり。

天孫軍と出雲軍との戦いがユダヤ系同士の覇権争いであることを、一層明確にするためには、宗像氏が秦氏の一族か、または秦氏そのものであることを証明しなくてはならない。書くことは楽しいのだが、次々と難問が待ち構えているので、ゆっくりお昼休みをとっている暇もない。

それを証明できたとしてもさらに、古代ヤマトには秦一族の人数が多過ぎはしないか、という懸念がでてくる。言い換えれば、政治的・社会的な上層部において、秦氏の占める割合が多過ぎないか。ユダヤ系の人々ばかりが目立っていないか。正直に言えば、古代ヤマトの上層部は、ユダヤ系サークルといった感じがある。


https://renaissance-media.jp/articles/-/1556 【ユダヤ系同士の覇権争いであることを明確にする】より

考えても仕方がないので、まずは宗像氏を調べてみる。同氏が祀る三女神のうち、市寸島比賣命を中心にして、その血縁関係から探っていきたい。

前著(『魏志倭人伝の中のユダヤ出雲大社に隠された「ダビデの星」』)では、丹後一宮の籠神社にはその絵馬の中に、夫婦神として、天照国照彦火明命(饒速日)と並んで立つ比賣のお姿があった。既にここでは、宗像氏と出雲国首長の一人である饒速日(スサノヲの子)とが、婚姻によって結ばれていることを理解した。

そして市寸島比賣命は、秦氏の松尾(まつのお)大社ご祭神としてのお姿を見せてくれる。同大社のご祭神は、大山咋神(おおやまくい)と中津島姫(なかつしまひめの)命(市寸島比賣命の別名)である。『古事記』にあるように、「次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命は、胸形の中津宮に坐す」女神であることから、「中津島姫」は宗像三女神の二番目の神=市寸島比賣命のことである。

では大山咋神はというと、相殿のご祭神である中津島姫命(市寸島比賣命)の子どもとしては登場していない。二柱のご祭神の場合、普通は夫婦か親子である。相並ぶお二方が血縁関係にないということは考えにくいが、大山咋神の父は大歳神、母は天知迦流美豆比売(あめしるかるみづひめ)という聞き慣れないお名前である。『古事記』「大年神の神裔」によって、その系図を示す。

宗像氏を調査中であるが、先に「大歳神」と「天知迦流美豆比売」のことを確認する。『消された覇王』(小椋一葉/河出書房新社・1988年)から、ニギハヤヒのことを調べた一文である。彼(ニギハヤヒのこと:筆者注)がスサノオの子供のオオトシであることを突き止めたのは、京都の大原野灰方町にある大歳(おおとし)神社の記録からであった。

社名から明らかなように、祭神は大歳神である。記録によると、代々石棺や石材を造っていた古代豪族の石作連(やざこむらじ)が祖神を祀った神社だとされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という」と、はっきり記されている。

念のため石作連について調べてみると、岐阜県岐南町に石作(いしつくり)神社があり、記録に「石作連は尾張氏と同祖で天火明命の裔孫である」と書かれていた。京都の八坂神社にスサノオの八人の子供が祀られている。そのうち第五子に「大年神」の名前が見える。

スサノオの出身地である島根県にはオオトシを祀る神社が多い。飯石郡三刀屋町にも大歳神社があるが、『神国島根』(島根神社庁発行)によると、「須佐之男命出雲に於て大歳を生み給い…………………」と書かれている。オオトシがスサノオの子供だったことはまちがいない。

こうして、ニギハヤヒは、またの名をオオトシと言い、スサノオの子供であることが判明したのである。オオトシ=ニギハヤヒということが分かると、先の系図も変化する。

ニギハヤヒと市寸島比賣命とが夫婦神であることを考慮すれば、②を市寸島比賣命とすれば、②と③は松尾大社の祭神である中津島姫命と大山咋神にぴったり重なってくる。しかし天知迦流美豆比売が、中津島姫(市寸島比賣)であるという証拠は見当たらない。これは筆者が知らないだけかもしれないが、常識的には天知迦流美豆比売=中津島姫(市寸島比賣)であって、系図も以下のようになる。

言うまでもなく松尾大社の祭神は②と③の母子神であるから、①の父神ニギハヤヒも近くに鎮座しているに違いない。先に引用した部分には「京都の大原野灰方町にある大歳(おおとし)神社」とあって、その祭神オオトシがニギハヤヒであることは、もう証明済みである。

①のニギハヤヒはまるで母子神を優しく見守るように、松尾大社南方5〜6㎞のところに坐して、大原野の大歳神社祭神となっていたのである。ニギハヤヒは出雲系首長の一人であるので、秦氏がお祀りする松尾大社の直接的な祭神とはなり難い。実際の松尾大社の祭神は中津島姫命であるから、秦氏がお祀りする理由は、姫の血筋である。

そして彼女の子の大山咋神である。因みにニギハヤヒを祀るのは三輪山であり、そのオオモノヌシこそニギハヤヒである。

天孫と出雲の戦い(国譲り)が、ユダヤ系同士の覇権争いであることを明確にするために、宗像氏が秦氏の一族か、または秦氏そのものであることを証明した。これでやっと、国譲り戦の真相に迫ることができる。


https://renaissance-media.jp/articles/-/1775 【銅鐸は音を出すことから、神の声を聞くための楽器として利用された】より

第二章 渡来人に支配された古代ヤマト

7.ユダヤ系同士の覇権争い

文献史料による古代史探査を続けている筆者には、出土品としての青銅祭器(考古学)をテーマにするには不向きであるが、大枠としての古代史を自分用にスケッチすることは、今後の研究テーマを探すという意味でも、許されるであろう。

青銅器の出土分布には、大きな特徴がある。傾向として、出雲国を中心にした分布が見てとれる。

倭国における最初の覇権国である出雲国を基点にして、それら青銅器が同心円状に並んでいるように見える。この様子・結果を、一般的な仮説によって説明するのは不可能であるが、著者のような歴史素人には、よそ目を気にせずそれを箇条書きにすることができる。それを銅鐸の謎に絞って以下に記すが、史料的には曖昧であることは否めない。

・銅鐸は朝鮮半島経由の小型の馬鐸を起源として、音を出す馬具であった

・銅鐸は音を出すことから、神の声を聞くための楽器として利用された

・銅鐸は音を出すことから、周りの人々への警報(敵方来襲など)として利用された

・銅鐸は順次大型化し、実用から祭祀用据置型へと変化した

(ここまでが第一次利用の段階↓覇権国出雲の敗退によって埋納)

銅鐸は音を出す道具として、時報の代わりをした

・その時報は作業監督によって鳴らされ、労働作業の開始・休憩・終了の合図とした

・銅鐸は作業効率の向上に寄与し、蘇我氏がその方法を駆使した

・労働作業の効率化は、大規模な土木工事(古墳・河川・道路など)を可能にした

・作業効率化による経済的成果は、蘇我氏の政治的立場を強大にした

・蘇我氏は大型銅鐸表面に絵文字を刻み、自身が大王になったことを記した

(ここまでが第二次利用の段階→乙巳の変=蘇我氏滅亡によって埋納)

銅鐸の第二次利用の部分は、『銅鐸の謎』(大羽弘道/光文社・1974年)を参考にした。また第一次の埋納のあとでは、出雲に代わって新覇者となった崇神の意向に沿って、信仰形態が銅鐸祭祀から神社祭祀へと移行し、中心的な祭具も銅鐸から三種の神器や神宝へと変化していった。

[図] 弥生時代中期の青銅祭器の分布

「出典:寺沢薫『王権誕生』に基づき作成」から転載

次には制海権のことを考えるのだが、ここでも想像力を駆使することになる。制海権争いの主役は、天孫側が阿曇氏とその海人であり、出雲側は宗像氏とその民であった。両氏はともにユダヤ系の人々であった。

しかし阿曇氏が海に潜ったりして、海に特化した氏族(海神)であったのに対し、宗像氏は同じ海でも海運(交易)を得意としていた。宗像氏が祀る沖ノ島にある祭祀遺跡からは、大陸との往来・交易の安全を祈願した奉献品の数々が発見されている。

それらは宗像氏が海戦向きというより、海運向きの人たちであったことを証明している。日本海や瀬戸内海の制海権の行方は、自ずと阿曇氏へと傾いたのである。

海に潜る阿曇氏の民は、阿曇目をした猛者たちであり、その信仰する神々は海の深さを三区分した神々、すなわち志賀海神社に祀る底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神である。また住吉大社では底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三神である。

阿曇目の海人は、海の深さによってそれぞれが異なる怖さを持っていることを、実感として知る人たちでもあった。この海の三区分は、天孫降臨のときにニニギを先導して道案内をした神が猿田毘古神であるが、その神が海難事故に遭われた記事にも、同じ形式で出てくる。この神もやはり、海に潜って漁をする海神としての性格をもっていたことになる。

猿田毘古の妻となったのが天宇受賣命であり、彼女の名前にはユダヤ系の「UDU」―MEがあるから、猿田毘古にもユダヤ系の匂いがあり、天孫とユダヤ系海神(海人)の組み合せは、切り離しては考えられない。「道案内」とは、海の道=制海権に通じる道案内であったと思われる。


https://renaissance-media.jp/articles/-/1886 【名前から判断して、彼がユダヤ系の何ものかである可能性が高い】より

猿田毘古と天宇受賣の夫婦神は、現在は三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社のご祭神になっている。ここの地名にも「UDI」が付いているので、ユダヤ系の人たちが居たのであろう。そこから伊勢湾に沿って北に進むと、「阿邪訶(あざか)」の海岸(三重県壱志郡)に着く。

故、その猿田毘古神、阿邪訶(あざか)に坐(ま)す時、漁(いさり)して比良夫貝(ひらぶかひ)にその手を咋(く)ひ合わさえて、海鹽(うしほ)に沈み溺(おぼ)れたまひき。故、その底に沈み居(ゐ)たまひし時の名を、底(そこ)どく御魂(みたま)と謂ひ、 その海水(うしほ)のつぶたつ時の名を、つぶたつ御魂と謂ひ、そのあわさく時の名を、あわさく御魂と謂ふ。(『古事記』)

青銅器類の埋納のことであるが、出雲国に関しては、ごく最近までその実態が分からなかった。1984〜85年にかけて発掘調査された荒神谷遺跡(島根県出雲市斐川町)から出土した大量の青銅器(銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6口)から判断して、古代国家出雲 の軍事的、経済的実力が再確認された。財宝所有においても古代の覇権国出雲は、突出して豊かであったと想像できる。

また加茂岩倉遺跡(雲南市加茂町岩倉)からは、一か所からの出土としては過去最多の39口の銅鐸が見つかった。考古学的にはこれも仰天もので、古代出雲への認識が一変することになった。

そんな出雲の神宝を、国譲り戦の勝者崇神は、見たいと命じた。『日本書紀』崇神紀六十年からの引用であるが、崇神は出雲臣の祖である武日照命が、出雲大神の宮に蔵(をさ)めた神宝を見たいと宣わったのである。

「(武日照命(たけひなてるのみこと)が)天(あめ)より将(も)ち来(きた)れる神宝(かむたから)を、出雲大神(いづものおほみかみ)の宮(みや)に蔵(をさ)む。是(これ)を見欲(みまほ)し」とのたまふ。(中略)是(こ)の時(とき)に当 (あた)りて、出雲臣(いづものおみ)の遠祖出雲振根(とほつおやいづものふるね)、神宝(かむたから)を主(つかさど)れり。是(ここ)に筑紫国(つくしのくに)に 往(まか)りて、遇(まうあ)はず。其(そ)の弟飯入根(いろどいひいりね)、則ち皇命(おほみこと)を被(うけたまは)りて、神宝を以て、弟甘美韓日狭(いろどうましからひさ)と子鸕濡渟(こうかづくぬ)とに付(さづ)けて貢(たてまつ)り上(あ)ぐ。(『日本書紀』)

筑紫から帰った出雲振根は、兄の自分に相談もせず、崇神に神宝を貢納したことに立腹して、弟飯入根を騙し撃ちして、殺してしまった。何か崇神側の策謀に掛かってしまった感がある。

則(すなは)ち吉備津彦(きびつひこ)と武渟河別(たけぬなかはわけ)とを遣(つかは)して、出雲振根(いづものふるね)を誅(ころ)す。故(かれ)、出雲臣等(いづものおみら) 、是(こ)の事(こと)を畏(おそ)りて、大神(おほかみ)を祭(まつ)らずして間有(しましあ)り。

この神宝事件を畏れて、出雲臣たちは暫くの間は、出雲大神を祭らなかったのであるが、この事件では、勝者崇神に対する出雲側の反応に、二通りあったことが理解できる。すなわち抗戦派と帰順派である。

前者の代表が兄の出雲振根であり、後者が弟の飯入根であった。兄弟間の考えの違いを利用して抗戦派の勢力を削ぎ、国譲り戦のあとの出雲国を崇神派に塗り替えていったのである。身内の抗争を政治的に利用するのは、世の常套手段ではあるが、崇神の側近がこれをよく見極め、的確な情勢判断をしていた証拠にもなる。

この神宝は三種の神器のような重要な財宝であって、青銅器製の武器や祭祀品ではないと思われる。しかし抗戦派の動向に注意すると、出雲側には、いつか崇神にリベンジしようという思いが伝わってくる。

そのための金属製品・素材の確保は、それらの埋納という形で、崇神側の目を欺いたのであろう。出雲におけるあの大量の銅剣・銅矛、そして銅鐸の整然とした埋納は、そんな意志を今日に伝えて余りある。

『日本書紀』(岩波文庫)の注書には、「出雲振根」について簡潔に述べている。「他に見えず」とだけ。崇神に逆らった人物名としての出雲振根は、ここのみに登場する勇者である。その名前を分析すると、「出雲のHURU-NE」であり、ユダヤ系に特徴的な「HURU」が出ている。「HURU」はまた、石上神宮の主祭神「HURU」であるに違いない。

すると「HURU」=饒速日(大物主)=出雲振根ではないのか。しかし他には説明的な史料がないので、分からない、とするしかない。名前から判断して、彼がユダヤ系の何ものかである可能性が高いのである。


https://renaissance-media.jp/articles/-/2309 【その戦いはユダヤ系同士の覇権争いであった。】より

第二章 渡来人に支配された古代ヤマト

複数回にわたるユダヤ系の分散渡来

崇神の渡来と出雲との国譲り戦は、230年代の出来事であった。この一つの戦いが、天孫降臨神話の中で三分割された事情は、既に何回も述べた。しかしこれらの分割された戦いが、それぞれユダヤ系同士の戦いであるとは、前著までの認識にはなかった。以下の①から④は、そんな戦いの素描である。

①天孫神話の最初に登場するのが、ニニギの露払いとしての建御雷神である。彼が出雲国を平定するのだが、そもそも出雲は、ユダヤ系首長が支配する国であることを前著で証明した。そして建御雷神も、ユダヤに特徴的な「HUTU」をその名前に持っている、れっきとしたユダヤ系の武将であったから、これはユダヤ系同士の戦いであった。

次に建御雷之男(たけみかづちのをの)神。亦の名は建布都(たけふつの)神。亦の名は豊布都(とよふつの)神。

②国譲りの次の局面である対ヤマト戦では、天孫側の主人公は神武、出雲側は饒速日であった。神武の和風諡号である神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこの)命には、「YA―UMATO」=「神ヤハウェに選ばれし者」という意味があり、さらに后のお名前「富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめの)命」にも、ユダヤを示す「HOTO」が付いている。

「HOTO―TATARA」とは、ユダヤ式蹈鞴製鉄を意味する。一方の対戦相手である饒速日(大物主)は、これも前著で「HURU」の名前をもつユダヤ系出雲の、大和における首長であることを書いた。従って②においても、その戦いはユダヤ系同士の覇権争いであった。

③の戦いで、やっと崇神の指示による地方戦が戦われたものの、自らの陣頭指揮ではなかった。たとえば北陸方面には大毘古を、東海道方面は彼の子建沼河別を派遣して、和平を実現させたが、この大毘古は稲荷山古墳出土の鉄剣銘によって、ユダヤ系の将であることを述べた。崇神自身は騎馬民族の大王であって、彼の武将にユダヤ系人材がいたのである。

これら地方戦の相手がユダヤ系であるという史料はないが、吉備津彦を派遣した山陽道には、ユダヤ系と思われる「URA」(温羅)が居た。昔話では、吉備津彦(桃太郎)が温羅(鬼)を退治したのである。「URA」がユダヤ系に繋がっていることを述べた、前著からの引用である。③にも、ユダヤ系同士の戦いがあったのである。

製鉄技術をめぐる争奪戦にこそ、吉備戦の真相があった。だから温羅は吉備に製鉄関連産業を持ち込んだ人物、多分出雲系の首長クラスであったと思われる。彼の名前にも、出雲系が見てとれる。

HUTU(布都)→HURU(布留(饒速日))→ (H)URU→URA(温羅)  

天孫降臨のときばかりか、出雲が倭国に覇権を確立する以前にも、ユダヤ系の人々は海を渡っていた。その証拠が、諏訪湖の畔にある。洩矢(もりや)神にまつわるお話が、アブラハムとイサクの物語に類似しているからである。第一作から、その該当部分を引用する。

菅江真澄の『すわの海』から、その「御頭祭」の部分を引用することにする。癖のある読みづらい文章ではあるが、江戸時代後期に実際に観察された「御頭祭」の記録であり、民俗的資料としてもたいへん貴重なものであるので、慎重に取り扱う必要がある。検討項目ごとに、「御頭祭」とアブラハム・イサク物語とを比較してみる。しかしその前に両者の簡単なあらすじを記述して、比較の準備をしなくてはならない。比較のもとになる、『創世記』の方から見ていくことにする。

遅くからできた幼子イサクの成長ぶりを喜ぶアブラハムに、神は試練を与える。「あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(はんさい)としてささげなさい」というのが、神からの指示であった。

燔祭に捧げるため縛ったイサクを祭壇のたきぎの上に載せ、まさに刃物でわが子を殺そうとしたとき主の使いが天からアブラハムを呼んで、「わらべを手にかけてはならない。(中略)あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と告げた。アブラハムが見ると、やぶに角を掛けた雄羊がいたので、わが子の代りに燔祭として捧げた。

これが、アブラハムとイサクの物語の要旨である。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000