https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%E7%AC%AC15%E5%9B%9E-%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0 【第15回 パラダイム】より 筆者: 三省堂編修所
どういう意味?
ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。
もう少し詳しく教えて
パラダイム(paradigm)とは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。狭義には科学分野の言葉で、天動説や地動説に見られるような「ある時代を牽引するような、規範的考え方」をさします。このような規範的考え方は、時代の変遷につれて革命的・非連続的な変化を起こす事があり(=天動説から地動説への変化など)、この変化をパラダイムシフトと呼びます。シフト前後の考え方に対して、優劣などの価値判断を行わない概念である点に注意してください。
ところでパラダイムと呼ばれる「物の見方や捉え方」には、いくつかの特徴があります。第 1 にパラダイムは、ある時代や分野において「多くの人に共有されて、支配的な規範として機能」します。また第 2 に、異なるパラダイムの間では「互いの考え方が相容れない」場合もあります。そして第 3 に、パラダイムは時に「革命的で非連続的な交代」を遂げることがあります。以上のような特徴を持つ「物の見方や捉え方」を表現する場合に、パラダイムの語が好んで用いられるようです。
どんな時に登場する言葉?
科学・思想・産業・経済など、さまざまな分野で用いられる言葉です。例えば科学(物理学)の分野では、かつて「ニュートン力学からアインシュタイン相対論へ」のパラダイムシフトが起きています。また産業の分野では、現在「大量生産・大量消費社会から持続可能な社会へ」のパラダイムシフトが起きているようです。総じて「現状を打破するような、現状とは異なる枠組み」が求められているような時に、パラダイムの語が用いられているようです。
どんな経緯でこの語を使うように?
現在の意味のパラダイムを最初に用いたのは、科学史家のクーン(Thomas S. Kuhn)でした。クーンは著書『科学革命の構造』(1962年)の中でこの語を登場させ、「科学とは累積的に一定方向に成長するのではなく、時代によってパラダイムを変化させるもの」という新しい史観を提示したのです。この考え方が、科学のみならず思想・哲学の分野においても大きな影響を与え、最終的にはその他のあらゆる分野でも用いられる言葉になりました。
パラダイムの使い方を実例で教えて!
パラダイムシフト
その時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」が、革命的かつ非連続的に変化する場合、そのような変化を「パラダイムシフト」「パラダイムの転換」などと呼びます。
パラダイムシフトの背景には、以下のような動きが起こっています。まず旧パラダイム(例; 天動説)が支配的な時代は、多くの人(科学者)がその前提の下に問題解決(研究)を行い、一定の成果を上げます。しかしながらその前提では解決できない例外的な問題(惑星の動きがおかしい)が登場します。このような問題が累積すると、異端とされる考え方の中に問題解決のために有効なものが現れ、解決事例が増えていきます。そしてある時期に、新パラダイム(地動説)を拠り所にする人(科学者)の数が増えて、それを前提にした問題解決(研究)が多く行われるようになるわけです。以後、以上の動きが繰り返されます。
○○パラダイム
ある特定の分野におけるパラダイムを表そうとする場合、「○○パラダイム」という表現を用いる事が出来ます。例えばビジネスパラダイム、経済パラダイムなどの応用例があります。ちなみに近年、ビジネスや経済の分野では「年功序列主義から成果主義へ」「地域経済からグローバル経済へ」などのパラダイムシフトが多く起こっています。
言い換えたい場合は?
辞書などでは「規範・模範・範例・典型・理論的枠組み」などの訳語が用いられていますが、どれもパラダイムを表すには不十分な言葉かもしれません。また残念ながら、定まった訳語も存在しないのが現状です。ここは面倒でも「パラダイム(ある時代や分野において支配的な物の考え方)」などのような注釈表現を考えてみてください。もっとも、パラダイムのニュアンス(共有性/規範性/排他性/非連続性)を厳密に表さずに済むような場合も多いので、その場合は「枠組み」などの代替表現を試して下さい。
雑学・うんちく・トリビアを教えて!
語形変化表 パラダイムには「語形変化表」という意味があります。日本語では、用言の活用表がこれにあたります。例えばカ行五段活用「書く」の場合、未然形「か・こ」、連用形「き・い」、終止形「く」、連体形「く」、仮定形「け」、命令形「け」となります。
https://note.com/104007rm/n/n8a35f467c929 【「俳人から学ぶパラダイムシフト」 】より 井上 亮平
本ブログは、何か新しいことを始めるきっかけになることを書いていきます。
プロフィールは以下の通りです。
https://note.com/104007rm/n/nbb31358271e4
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最近、毎日こうゆう本を読んでいます。
「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」(致知出版社)
https://www.amazon.co.jp/1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書-藤尾秀昭/dp/4800912474
オススメです。毎日、著名人の熱い物語に触れることができます。今日は、その中から俳人のお話をします。
俳人というのは、吟行というものをされているそうです。それは、和歌や俳句の題材を求めて出かけることです。様々な場所にいって感じたことを俳句させているのですが、そういった場所だけで感じるのかというと、そういう訳ではありません。
日常生活から、目や耳など五感から入ってくる情報で自分のアンテナに触れるものは、自分でメモされているのです。
つまり、日頃から高いアンテナがずっと立っているということです。
それだけ、自分の琴線に触れたものを逃さないようにする。その感じたことを言葉にして表現する。何よりも言葉にしにくいものや感情を言葉にする。
そう考えると、俳人は「ことばの達人」だなとも思いました。それだけ、言葉に対して敏感だということです。
そういった中で、私が1番心に響いたのが、俳人は「生憎(あいにく)」という言葉を使わないということです。
それは、なぜか?
一例として、桜を見にきたが雨が降って見れなかったという場合。
一般的には、「生憎の雨で今日は桜を見ることができませんでした」という感覚になります。
俳人の場合、「これで雨の桜の句が詠める」という感覚になるそうです。
つまり、一般的にネガティブな捉え方をするものをポジティブに解釈します。
だから、俳句は、不幸、病気、苦しみ、憎みなどのマイナス要素をプラスに変える作用があるということです。それも全てことばの力です。
実際に、引きこもりの人が俳句を読むようになって外の世界にでるようになった事例もあるのです。それだけ、俳句にはポジティブなことばの力があるということです。
個人的には、俳句とは、ただ感情をことばに乗せるものとしか思っていませんでしたが、捉え方にとってこれだけ世界が変わるのかと感じました。この話を聞いて、俳句に対する見方がガラリと変わり、まさにパラダイムシフトでした。
だから、少し俳句についても興味・関心が湧いてきました。
そして何よりも大事なのが、パラダイムシフト。自分の今までの考えや価値観を180度変えてくれる感覚。これがあるからこそ、新しい考え方や価値観に触れることができ、それが自分の学びになっていくのだと思います。
だから、様々なことに興味・関心をもてば、自分の知らないことを知り、そして、新しい考えや価値観に出会える。そして、パラダイムシフトが起こっていくはずです。
やはり、新しいものに触れ経験していくことで、多くの学びがあることを実感しました。
ぜひ、今日からでも何か新しいことを初めてみましょう!
・新しい考えや価値観に触れることで、パラダイムシフトが起こっていく。
・つまり、様々なことに興味・関心、いうならば森羅万象に興味をもてば世界は広がっていくはず
https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/03/20093.html 【俳誌を読む〕 『俳句』2009年3月号を読む 上田信治】より
●大特集「実作の鏡としている10句」 p.59-
特集タイトルにあるとおり、作家に、他人の10句を「鏡」として自己を語らせる、という企画。
「愛誦句は多いが、選んでみると、私の師○○と、師の師××の句となった」とおとぼけをかます人あり、さりげなくご自分の詩作品が寺山修司に「聖句だ」と言ってほめられたという話を(10句と関係なく)叩き込んでくる人あり。と書くと俳誌にありがちな作文大会のようですが、がっかりはそれくらいで。
林桂さんの10句が、新興俳句系から10人10句選ぶとしたら、こうなるという教科書的なチョイスであること、中岡毅雄さんが、同世代の作家から3人を選んでいること、依光陽子さんの選んだ10句が凝っていること(〈手をうたばくづれん花や夜の門 水巴〉なんて、なかなか出てこなくないですか?)、小林貴子さんが威勢がいいこと(〈とかげ瑠璃色長巻く日本の帯銀無地 鷹女〉おもしろ)、など、楽しみどころはいろいろありますが、自分としては、細見綾子の句を4人の方(福神規子、伊藤伊那男、加藤かな文、津川絵理子)が取り上げているところに注目。
細見綾子くるかも。〈つばめ\/泥が好きなる燕かな〉(伊藤さん選・以下同)〈鶏頭を三尺離れもの思ふ〉(福神)〈峠見ゆ十一月のむなしさに〉(加藤)〈山茶花は咲く花よりも散つてゐる〉(津川)
●連載「現代俳句の挑戦 第3回 深さと浅さ」高柳克弘 p.156-
同時代の若手作家を紹介し、表現および理念上の転換について考える連載(今後は知らず、ここまでの流れは、高山れおな、谷雄介、鴇田智哉と名前が挙がっているので、そういうことなのかな、と)。今回は、榮猿丸さんを論じています。
高柳さんが猿丸さんをフィーチャーするのは『現代詩年鑑2009』に続いてのことです。
ペットボトル、Tシャツなどの、大量消費社会における代替可能な「商品」が、別の用途に使われることで「“かけがえのないもの”として」「一句の中でいきいきと存在を主張してくる」(〈若草や手紙をしまふ菓子の罐〉〈湯を入れてペットボトルや湯婆となす〉〈愛されずしてTシャツは寝間着となる〉)。
また「肉体」が「代替可能なツールとしてではなく、自分だけがその美や価値を承認しているものとして“かけがえのない”存在となっている」(〈指の肉照る箱庭に灯を入れて〉〈愛かなしつめたき目玉舐めたれば〉)。
間違ったことを言っているわけではないと思いますが、「代替可能」=非人間的現代社会 v.s. 文学という、かなり古い図式、猿丸さんの評価として正鵠を得ているかというと、微妙かもしれません。
Tシャツも肉体も、ただ、あるから詠んでるんじゃないかな、猿丸さんは。微細なところを攻めることで、「表現上の」唯一性と、(それとパラレルなものとしての)体験の一回性を主張している、ということはあると思いますが。
この句(※〈受話器冷たしピザの生地うすくせよ〉)のベクトルは、俳句に向いている。「宅配ピザ」という、普通に考えれば俳句の「外」にあったものから、俳句へと手を伸ばしている。(…)「受話器冷たし〜」という句、そして榮猿丸の句の多くは、素材ではなく気分に立脚し、そこから俳句へとにじり寄っていく。(さいばら天気「宅配ピザのある暮らし」ウラハイ2009/1/24)
どうしたって、猿丸さんはこっちでしょう。
猿丸さんは、いわゆる俳人らしさに自分を明け渡すことなく、「現代に生きるサブカル的素養を持つ一青年」のまま、俳句を書いてみせる。
もちろん、その「一青年」としての猿丸さんも、半面は、俳句を書くことによって打成されたといえるわけで。たとえば〈カーラジオ鳴りつぱなしや畑返す〉(2008年 角川俳句賞候補作より)などからも、現代的一風景として季語を眺めている、濃厚な趣味性(俳句+サブカルのアマルガム?)にひたされた作者像が見えてくる。
それを「無感動な日常に向き合いながら、そこに新しい美と情動の萌芽を促そうとしている」(同高柳p.160)と言ってしまうことは、猿丸さんが半分は(大量消費社会の表徴である)「サブカル」育ちであることを考えると、間違いではないにしろ、ずいぶん大づかみだと思われるのだ。
じつは、前回2回目でも〈浮いてゐる金魚の鉢を運びけり 鴇田智哉〉の読みが少々おかしく(高柳さんは「なるほど金魚鉢とは浮かんでいるかのように、透明で重量感のないものだ」と書くのですが。この句は「浮いてゐる金魚」のその「鉢」を運ぶ、としか読めない。その、行為というか事態の間接性が、あらためて妙な浮遊感を生んでいる)、高柳さんは若手随一の評論の書き手という評価があると思うのですが、ちょっと、けっこう荒っぽい。
とはいえ。
「パラダイムシフトに際しては、それ以前にマイナス視されていた特質がプラスの価値を持つものとして見直されていく(…)ひとりの作者の句をめぐり、「浅い」という否定的評価と「浅いよさ」があるという肯定的評価が両立している批評空間は、まさに振り子が振られつつある現状を、端的に物語っているのだ」(同p.162)
実は「平成俳句は俳句のパラダイムシフトを行ったのだ」とは猿丸さんのかねてからの主張なんですが(鼎談「サバービアの風景」前編)、現在もう一段の理念的転換が起こりつつあるというのが、高柳さんの状況認識なら、その予言の遂行的であることを信じて、全力で乗っかりたい。ならば、その荒っぽさは必要なものとして「あり」なのだと思います。
●合評鼎談 p.165
今回もおもしろい。
●俳句作品より
弾初の君よ眼鏡を変へたるか 松本てふこ
「替へた」じゃなくて「変へた」。「あ、変わってる!」なんですね。
蓮池の一面枯や訪ね来よ 藤田哲史
初富士に天の分厚しかつ青し 〃
7句それぞれ手堅い。安全、艶消しっていうんじゃなくて、地味かつ充実している。それはこの人の情緒の質がそうなんだろう。
目正月銭のかからぬものを観て 中原道夫
作者名つきで。
地につかぬ蹄の凍てて木馬かな 大木あまり
霜柱踏めば歯痛のにはかなる 鶴岡加苗
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