Facebook愛知 ソニアさん投稿記事
祈りとは、私たちの内なる静けさと宇宙の広がりを結ぶ橋です。それは、言葉に表すことができない感謝や願い、そして心の深いところから湧き上がる思いを、目に見えない存在へと届けるための行為です。祈りは、個人的なものでもあり、同時に普遍的なものでもあります。
手を合わせ、目を閉じることで、私たちは自己を超えた存在とつながり、心の平穏と共鳴します。祈りは、時間や場所を超えて、私たちを支え、導いてくれる大いなる力と接触する瞬間です。
祈りの中で私たちは、自分自身と向き合い、他者のために、または世界全体のために思いを馳せます。それは、愛と平和、癒しと赦しを求める行為であり、私たちを人間としてより良い存在へと導いてくれるものです。
祈りは、言葉にできない感情や思いを、心の中で形にする行為です。そして、それがどれほど個人的なものであれ、その祈りは必ず宇宙のどこかに届き、私たちに必要なものを返してくれると信じることができるのです。
このように、祈りは私たちの心の奥深くに根付いており、私たちが生きる意味を見つけるための道標であり、常に私たちに寄り添ってくれるものです。
Facebook長岡 美妃さん投稿記事
ある時、面白い体験をした。20年くらい前のことだろうか。10日間のヴィパッサナー瞑想に出かけた時のこと。来る日も来る日もひたすら瞑想だけをする。座っているだけなのだが、これがもう苦痛極まりない。なぜなら辻褄の合わない考えが次から次と浮かんできて止まらない。数年前に処方した内容が気になったり、子供の頃に飼っていた犬が出てきたり、家族のことが心配になったり、、、あっちこっちと考えが止めどなく浮かんでくるという有り様。自分が精神疾患にでも罹ったのではないかと思うほど、瞑想するのが苦痛で苦痛で仕方がなかった。
しかし4日目の朝、「また苦痛の1日が始まる」と思いながら仕方なく瞑想に入った。その時・・・「あれ?あれれ?あれれれれ?」と、あれだけ浮かんできた考えが一つも浮かんでこない。何かを考えようとしても考えが出てこない。それはまるで考えを組み立てる材料が枯渇してしまったような感覚。ただ「ん?」としか浮かばない。
それからの瞑想は楽ちん極まりなく、とてつもない集中力が都度都度起こった。この耳は1km先で針が落ちた音も拾うだろうと感じるほど。感覚が鋭敏そのものになり、食事の味も混じり合った食材の味が個々に味わえ、下手すれば食材が植っていた土の味(感覚)も感じるのではないかと思うほど。
・・・心が凪いだ。明鏡止水を観た。どれだけうるさかったのだろうか。
どれだけ消耗していたのだろうか。どれだけ濁っていたのだろうか。
善悪を判断する材料も、正誤を糺す材料も、勝敗を決める材料もすべて湖面のさざ波。「うるさい」・・・の一言。
戦争や人間同士の争いの種はすべてさざ波から生まれる。今の教育はさざ波を増やすことに注力している。だから高学歴の物理学者が原爆を作り原爆を使うという愚行をしでかす。教育のベクトルが真逆なのだ。
武士道は死ぬこととみつけたり。
武士道というのは、さざ波を起こさせない真の和を教えている。それゆえ、日本の世界戦略は武士道の体系化であり、教育の道である。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
怒りに耳を澄ます 悲しみに耳を澄ます ただ静かに 自分の内側に 沸き起こる感覚に
耳を澄ます すると不思議なことに 荒れ狂う波のような心の奥に何にも干渉されて
いない静かな部分に気づく その内なる静寂 それは人生のいかなる場面に おいても
絶えず人の心の 奥を流れていてその静寂を聴くだけで心が収まっていく
誰の中にもそんな深い静けさがあります 静寂とは聴くもの さっきふと見かけた
瀬戸内寂聴さん という名前を見ると いつもそんなことを 想起します
本当に素敵な名前ですならぶ💓
Facebook佐川 治奈さん投稿記事
そこではじめて、そこでようやく、みずからの言葉を行為によって実証するという奇蹟を行なうことができるようになる。
そうなったら「君を愛しているよ」と言うだけでなく、あなたの存在そのものが愛の証となる。そうなったらあなたの言葉は無力なものではなく、そのなかに魂を宿すようになる。
あなたの言葉と行動が一致するとき、あなたの言葉と行動がちぐはぐにならないとき、
あなたの言葉が誠実さで満たされるとき、あなたが自分の言った通りのものになるとき
そのような生のみが生きるに値する。それまでは、あなたは一種の分裂した状態で生きている。口ではあることを言いながら、別のことをやってしまう。あなたの精神は分裂したままだ。言葉と行動がもはや分離せず、同じ現象の二つの側面になる地点に到達しないかぎり、
人類はみな精神分裂症にかかっている。
あなたは感じる通りのことを言葉にし、言葉通りのことを感じるようにならなければいけない。言葉通りのことを行い、行なう通りのことを言葉にするように。
そうなれば、あなたを観察するだけで、あなたの実存がまがいものでないことが見えてくる。
静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、酔ったような、湯を浴びたような感じがつづく。これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾が芽生えはじめる。静けさのなかですばらしい確認のしるしだ....
精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ……。まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
普段の生活では、喜びを感じるときには何らかの理由がある。
美しい女性に会ったので嬉しいとか、前から欲しかった金が手に入ったので嬉しいとか、きれいな庭のある家を買ったので嬉しいとか....だが、こういった喜びは長続きしない。
それはつかのまのものだ。それが途切れずつづくということはない。
聞いた話だが……ムラ・ナスルディンが、家の前で、ひどく悲しげな顔をして坐っていた。
隣人が尋ねた。「ムラ、 どうしてそんなに 悲しそうな顔をしているんだい?」するとムラは言った。「というのもね、 十五日前に叔父が死んで、 五万ルピー残してくれたんだ」
隣人は言った。「それで悲しむなんておかしいよ。 喜べばいいじゃないか」ムラは言った。
「とにかくまず 話を最後まで聞けよ。 七日前にまた別の叔父が死んで、 七千ルピー残してくれたんだ。 でも、それっきりで、 もう何も起こらないんだ…… 誰も死なないし、
何も起こらない。 一週間が過ぎていって、 僕は本当に悲しいよ」何かによって
引き起こされた喜びは消えてゆく。それはつかのまのものであり、すぐにあなたは深い悲しみのなかに取り残される。
喜びはすべてあなたを深い悲しみのなかに残してゆく。
だが、確認のしるしとなる別の種類の喜びがある。まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。その理由をつきとめることはできない。
誰かに「何を喜んでいるのです?」と問われても、答えることができない。
私は自分がなぜ喜びに包まれているのか答えることができない。理由はない。ただ喜びに包まれているのだ。さあ、この種の喜びは乱されることがない。何が起ころうと、それはつづいてゆく。それは昼も夜もそこにある。あなたは若者かもしれない、年老いているかもしれない、
元気かもしれない、死を迎えつつあるかもしれない....が、それはつねにそこにある。
周辺が変化しても持続する、不変の喜びを見いだしたら、あなたは確実にブッダの境地に近ついている。これが確認のしるしだ。来ては去るような喜びに大した価値はない。
それは世俗的な現象だ。喜びが持続するなら、途切れることなく持続するなら....
まるで陶酔したような、麻薬なしで酔いしれたような気分になるなら、まるで風呂あがりのような、朝露のようにすがすがしく、春の若葉のようにさわやかで、池の蓮のようにみずみずしい気分になるなら、まるで湯を浴びたばかりのような気分になるなら....
そのすがすがしい気分がどこまでも途切れずにつづくなら、あなたは紛れもなくわが家に近づいている。これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
今や、あなたの全身は調和のとれた統一体として働いている。あなたの全身は調和がとれている。あなたはもはや分裂していない。あなたはもはや断片ではない。これが個性化だ。
あなたはひとつの全体としてまとまり、部分はすべて共振しながらともに働いている。
どの部分も実存というオーケストラの一員を演じている。調和からはずれているものは何もない。肉体、心、魂、最も低いものと最も高いもの、セックスからサマーディまで……
すべてがこのうえもない調和のうちに、一糸乱れずまとまりながら働いている。
このとき黄金の華の蕾が芽生えはじめる。さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。さらにマインドだけではなく、すべての窓、すべての感覚が静まると……頭脳は内なる感覚器官だ。
まずそれを静めなければならない。さらに頭脳に餌を与える五感、目や耳や鼻などすべての感覚器官がある。
それらは外界から絶えず情報を送り込み、それを内側に、頭脳に蓄えつづけてゆく。
その感覚器官も静まり、何も持ち込まず、物音ひとつ立てず、受動的になっているとき……
目は眺めているが、何も持ち込もうとしない。
耳は聞いているが、聞こえるものに執着しようとしない。
舌は味わっているが、味をむさぼろうとしない。あなたの感覚はすべて静まり、銀色の月が
中天にかかっている……銀色の月とは女性原理の象徴だ。銀色の月が中天にかかり、
すべての感覚が鳴りを潜め、頭脳が受動的になり、静まるとき、あなたは受け身で待つという
女性原理を達成している。あなたは子宮になっている。満月の夜だ。すべてが涼しく、静かで、ひそやかだ。何も身動きしない。その喜びは果てしない!
この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。
Osho - The Secret Of The Secrets
Facebook石川 真樹夫さん投稿記事「愛の静けさの中で」
こちらには耳を傾け、あちらは無視する。必要もないのに心の中で一つのことを別のことに対立させる。こういったことから自由な人はいるのだろうか?いつになったら、それから自由になれるのだろう?頭を鎮めて、よく見つめてみなさい。感情に流されず、何にも、誰にも執着せず、手放しなさい。愛しいわがこよ、人のありさまを正しく観察し、快楽と知識への欲望、そして人生そのものへの欲望を手放し得る人は希だ。その人は祝福されたのだ。
何一つ存続しない。何一つ事実ではない。すべては苦しみ、果てしない三重苦だ!
まったく何の価値もない。これを知りなさい、すべてをあきらめなさい、そして静かに在りなさい。人はいったい、いつになったら、ひとつのことを切り刻み、別のことを作って対立させるのを止めるのか?
あらゆる対立を棄て去りなさい、何が起ころうとただ今にいて幸せでありなさい、その幸せであなた自身を満たしなさい。
教師や聖者や探求者たち、彼らはみな違ったことを言う。
しかし、だれにも教えられなくても、これを知る人は、無執着とともに静かになる。
真の教師は冷静に考え、すべてはひとつだと見なす。彼はものごとの本質、覚醒の本質を理解したのだ。彼が選べば、彼はふたたび生まれ変わることさえない。変化するものごとの中に、愛の純粋な姿だけを見なさい。自己の本性、『 ( i )= 愛 』の内にとどまりなさい。
そしてあなた自身を解き放ちなさい。世界はただ、偽りの印象の集まりにすぎない。あきらめなさい。幻を手放しなさい。世界を手放しなさい。そして自由に、歓びの内に生きるのだ。
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