https://ameblo.jp/pinebrook-dr/entry-12801616908.html 【西海市崎戸町の北緯33度線へ】より
西海市の大島と崎戸を訪ね、更に最果ての北緯33度線展望台まで行きました。
長崎市から海岸線(サンセットロード)を通って西海市に入り、西海町から大島に渡り崎戸町の最果てに北緯33度線展望台(●)があります。
途中、大瀬戸町の海岸線の干潟地帯に鯉のぼりが泳いでいました。以前、テレビニュースで見て写真を撮りたいと思っていましたが、たまたま見つけてビックリ。
向うに見えるのが、これから渡る大島大橋です。
大島大橋は初めて渡りましたが白くて綺麗な斜張橋でした。
橋のたもとに公園があり、そこにピンクの可愛い花が咲いており白い大橋とのコラボが良い感じでした。
この花は今回のドライブの途中の道端などにしばしば咲いており、調べて見ると「昼咲き月見草」という北米原産の外来種との事でした。
大島の基幹産業の大島造船所。最近、三菱造船から香焼工場を買い取ったりして、益々発展している優良企業です。
造船所が経営する大島トマト農園でトマト狩りをしました。物凄く甘くて味が濃くて、フルーティな金賞受賞トマトでした。
大島から蠣浦島に渡る寸前で北の方に行くと、「中戸の浜」と言う綺麗な浜があり、浜には石畳の様に切れ目が入った岩がたくさんありました(写真左下)。彼方には世界遺産のある黒島や平戸島が見えていました。
さらに北に行くと、カトリック太田尾教会がありました。長崎の外海から五島に渡ったのと同じように、当時の大島にもキリシタンの人が渡って来ていたのだと言われています。
崎戸町に入るとフルーツバス停ならぬ「お魚バス停」がありました。島に4基あるそうですが、これが最も有名なカサゴのバス停です。
正面からは気付かなかったけど、後ろから見ると仲の良い2匹のカサゴなんですね。
こちらのバス停では、正面からは何なのか良くわからなかったけど、裏から見るとタイのオブジェだと分かりました。
最後にだどり着いたのが崎戸島の果て、北緯33度線展望台です。彼方には江島、平島、五島列島があり、晴れていれば見事なサンセットが見られそうです。2012年には全国夕日サミットが開かれ「北緯33度の奇跡」と呼ばれました。
NAGASAKI SAIKAI SAKITOのフレームの手前にあって、2人が見ているのがこのパネルです。この地と同じ北緯33度線にある世界の都市が示されていて、モロッコのカサブランカ、イラクのバクダッド、アメリカのダラスが有名でした。
同じ長崎県なのに大島や崎戸には行った事がありませんでした。大島造船所、大島トマト、甲子園に行った大崎高校など最近話題になっていたし、お魚バス停、大島大橋、北緯33度線展望台なども見てみたかったので、ようやく念願が叶いました。長崎から約2時間のドライブなので簡単に夕日を見には行けませんが、先で時間ができてた時に「北緯33度の奇跡ー真紅の宝に出会う瞬間」(サミットのテーマ)を見に行きたいものです。
Facebok滝沢 泰平さん投稿記事
2000年前、ベツレヘムで生まれナザレで育ったイエス・キリストが30歳から33歳までの3年半、弟子たちと共に真理の布教活動を過ごした新約聖書の舞台の中心であるガリラヤ湖。
「イエスが山上の説教をしていた丘はここ」
「ここは、イエスがよく腰をかけて休んでいた洞窟」
まるで映画のロケ地のように、ガリラヤ湖畔にはイエスの軌跡が至るところに残っています。
その多くが教会などが建てられて立派な観光地として整備されていますが、このガリラヤ湖の見どころは教会だけでなく、人も人工的な建造物もない平野の中にいくつもあります。
5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹にしたという奇跡を起こした平野の丘の上には、いくつもの巨石が寄せ集まった磐座のストーンサークルがあり、世界中の人々が教会を訪れても、ここを訪れる観光客はまず誰もいません。
そんな古代の天然祭祀場とも思われるこの場所を貸し切りで使わせて頂き、五色の石笛とディジュリドゥ、そして祝詞によってガリラヤ湖で最初のご神事。
神事が終わると湖面に不思議な光がチラチラと輝いてモールス信号のようにしばらく光っては消えてしまいました。
地球上で重要なポイント地点であり、歴史的な事件や出来事が起こることでも知られる北緯33度ラインは、イスラエルの北部ガリラヤ湖も通過しています。
イエスの布教活動だけでなく、北緯33度ラインとしても知られるガリラヤ湖では、近年湖底に謎の古代遺跡が沈んでいることが発見されました。
その遺跡は、玄武岩を円錐形に積み上げたピラミッドのような構造になっており、土台部分は70メートル、高さ10メートル、重さは推定6万トン。イギリスのストーンヘンジの巨石建造物の2倍の大きさがあり、この湖底ピラミッド遺跡が造られた年代は今から1万年以上も前とも言われています。
個人的には今回の文明よりも以前の建造物であり、ここは別世界とのポータルの入り口、扉となっており、様々な存在やエネルギーがこの遺跡を通して今もなお行き来していると思います。
というのも、昨年に2度目にイスラエルを訪れた時、このガリラヤ湖の遺跡がある場所の目の前の岩山の上で、見たこともないほど美しく、そして立派な尻尾をいくつも持っている白い九尾の狐と対面したからです。
この世界、このいつも認識している空間の中で、夢や妄想でもなく、この目で確かに見て耳でも確かに存在を確認したほどはっきりと目の前に出現したのでした。
イエス・キリストも出会い、彼を導いたとも言われる九尾の狐。
この正体はマグダラのマリアと呼ばれた地球に降りた1人の女性の本体でもあり、その日から自分の中には九尾の狐、マグダラのマリアの意識がいつも側にいるようになりました。
ガリラヤ湖北西岸には「ミグダル(Migdal)」と呼ばれる小さな村があります。
このミグダルこそが、マグダラ(ミグダル)のマリアの出身地であり、実はイエスや弟子たちだけでなく、ガリラヤ湖はマグダラのマリアとも非常に縁が深い場所でもあります。
昨年にここで九尾の狐と出会ってからは、マグダラのマリアの残留思念を回収する旅が始まり、スペイン&ポルトガルをはじめ、アメリカにも飛び、そして先日にトルコを訪れて今回再びガリラヤ湖に戻ってきたことでひと段落したように思えます。
映画「君の名は。」にも関わるイエス・キリストとマグダラのマリアという2人の存在。
統合の時代を迎えた今、この2つの意識エネルギーは確実にまた1つへと統合されたように思えます。
イスラエル滞在3日目、自分にとって最も大切な場所であるガリラヤ湖で過ごす最後は、モーターボートをチャーターして、湖底ピラミッド遺跡の上にまで行き、そこで九尾の狐と出会った岩山と三日月を望みながらのお祈り。
「シリウス第七船団?」
昨年は円盤に導かれて岩山へ夜中に呼び出されましたが、今回もまた円盤が出現。何が起こるかわかりませんが、いずれにしても“ガリラヤのゲート”は開いたようです。
行き当たりバッタリ、スケジュール表通りに1つも進んでいない不思議なメンバーの不思議な旅は、まだまだ続きます。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220306-OYT1T50156/ 【「九尾の狐」伝説の「殺生石」が真っ二つ…SNSでは「狐が復活しないといいけど」】より
栃木県那須町の国指定名勝史跡「殺生石」が、真っ二つに割れているのが確認された。自然現象とみられるが、「九尾の 狐きつね 」の伝説があるだけに、SNS上で話題となっている。
真っ二つに割れた殺生石(5日午後、那須町湯本で)=那須町観光協会提供
殺生石は那須岳の斜面にある巨大な溶岩で、平安末期に九尾の狐が美女に化けて鳥羽上皇を殺害しようとしたところ、 陰陽師おんみょうじ に見破られ、その後、退治されて石になったという伝説がある。松尾芭蕉が訪れて詠んだ句もあり、町の観光名所となっている。
割れる前の殺生石(2014年6月撮影、那須町湯本で)=那須町観光協会提供
那須町観光協会によると、5日午後、観光客がSNS上に殺生石が割れている写真を投稿し、協会職員らが現地で確認した。石には以前からひびが入り、しみ込んだ水が凍るなどして割れた可能性があるという。
周辺で観光案内を担うボランティア団体「那須高原湯本ガイドクラブ」の菅原正晴会長(83)は「自然のことなので仕方ないが、地元のシンボルなので残念」と話した。
SNS上には「(九尾の狐の)封印が解かれてしまうのでは」「悪事をはたらく九尾の狐が復活しないといいけど」といった投稿が相次いでいる。
https://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0801200004?f=1 【三浦杉と九尾の狐】より
原文
茨城県の北端で栃木県との県境に近い常陸大宮市の旧美和地区にとても立派な大杉があります。山の上にある吉田八幡神社へ上る参道階段の両側に植えられたその二本の杉の木は途中に曲がった節もなく真っすぐに天に向かって伸びています。
時は鎌倉時代になる少し前のころです。那須野に強力な悪狐(あっこ)が出現して困っておりました。これを退治するために派遣された三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したのです。そして無事に退治することができたため、この杉の木を神社に奉納しました。
この話しを聞いた水戸光圀が、それならば、この杉の木は「三浦杉」と呼ぶのがよかろうとおっしゃり、それ以来神社の御神木として守られてきました。
さて、この話を調べていくと壮大な妖怪狐「九尾狐」の話しにたどり着きました。ではこの東洋世界を股にかけた最強の妖怪「九尾狐」を順にお話しましょう。
(その一)妲己(だっき)(中国)
中国の殷国の時代の最後(紀元前十一世紀頃)のことです。九尾の狐が絶世の美女「妲己(だっき)」に化け、国王の寵愛を受けるが、国王は妲己の気を引くために欲望の限りや残虐な見せしめなどを行うようになってしまいました。この欲望の限りは後に「酒池肉林」などの語源として伝わっていきます。しかし、この悪徳政治は武王の反乱で終わりを告げ、捕らえられた妲己は打ち首ときまりました。しかし斬首の執行人はあまりの妖気に刑を執行できなくなってしまいました。そこで釣りでおなじみの「太公望」の登場です。
太公望は周の武王を補佐していた軍師で、妲己を妖怪と見破った太公望が「照魔鏡」をかざすと妲己は九尾の狐の姿を現し、雷雲が天をかけめぐり、飛び去ろうとしました。逃さじとばかり、太公望が投げた宝剣が体に当たり、九尾狐の体は三つに割れて死んだといいます。
(その二)華陽(かよう)(インド)
しかしこれで、この妖怪は滅びていなかったのです。次は天竺(インド)に登場します。中国の九尾の狐が滅んだ700年後のことです。
インドの耶竭陀(まがだ)国に華陽という絶世の美女にこの妖怪は変身して登場しました。ここでも九尾の狐が変身した華陽という美女に魅せられた王子は九尾の狐に操られて100人もの人民を惨殺してしまいました。これを救ったのが名医の耆婆(きば)です。正体を見破り霊験あらたかな杖を使って華陽の体を打つと、九尾の狐は正体をあらわして北の空へ飛んで逃げていきました。
(その三)褒似(ほうじ)(中国)
次は再び中国です。周の武王が国を治めて12代目の幽王の婦人となった「褒似(ほうじ)」がこの九尾の狐といわれています。この褒似は美人だがなかなか笑わない。しかしそれまでに一度だけ笑ったことがありました。それは敵が侵入してきた時に合図で打ち上げた狼煙(のろし)を見たときでした。そこで国王は褒似の笑い顔見たさに、この狼煙を何度も打ち上げました。
狼少年と同じく、狼煙が上がっても誰も敵が侵入してきたなどとは思わなくなりました。しかしついに本当に敵が攻めてきたのですが、狼煙を上げても見方は誰も集まりませんでした。そしてとうとう国は滅びてしまいました。そしてこの褒似も国とともに死んでしまいました。
(その四)玉藻前(たまものまえ)(日本)
聖武天皇の頃に、九尾狐は若藻という名前の美少女に化けて、ひそかに遣唐使の帰国船にまぎれこんで博多にやってきました。しかし、博多に到着してまもなく、いつの間にか姿が消えてしまいました。それから350年後に若藻に化けていた九尾の狐は、今度は捨て子に姿を変えました。この捨て子は北面武士が拾い上げて「藻(もくず)」と名づけられ、美しい女性に成長していきました。そして18歳になった時に宮中に仕えると、たちまちその美貌で鳥羽天皇をとりこにしてしまいました。そして藻(もずく)は「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれるようになります。しかし、天皇は病に罹り、この寵愛が深まるにつれ、天皇の病は重くなっていきました。天皇の病の原因を調べていた陰陽師安倍泰成(晴明の子孫)が、この玉藻前が妖怪であること看破します。陰陽師に見破られた玉藻前は九尾の狐の姿を現し、辰巳の方角(東南)に姿をくらましてしまいました。
都から逃れた九尾の狐は下野国那須野で今度は、か弱い娘に姿を変え、十念寺の和尚をたぶらかして食べてしまいます。ここでの悪さを知った那須野領主の要請で、鳥羽上皇は陰陽師安部泰成を軍師として三浦介義明と上総介広常を将軍に8万の軍勢を集め、那須野に悪狐(九尾の狐)退治に派遣しました。しかし、九尾の狐の術に翻弄された軍勢の多くは戦力を失ってしまい、軍勢は窮地に追い詰められてしまいました。
やっとここでこの「三浦杉」の登場です。悪狐退治で窮地に立った三浦介義明は横須賀に城を持っていた三浦半島を領地とする豪族です。この三浦杉に伝わる話では「那須野の悪狐(あっこ)退治に苦戦していた三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社(八幡神社)にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したとあります。三浦介と上総介は、犬の尾を狐の尾と見立てて悪狐退治の訓練をし、三浦大介の射た2本の矢が九尾の狐を射止め、悪狐を退治することができました。この犬での稽古が、後の鎌倉時代の武家社会で行われた「犬追物(いぬおうもの)」などのはじまりといわれています。現在の愛犬家たちには考えられないことです。)三浦大介は那須で悪狐を退治した半年後に、再びこの八幡神社を訪れ、勝利の報告をしました。そしてこの子孫がこの地に住み着いたとも伝わっています。
まあこのお話は、妖怪退治でもあり、色々な読み物などとなっていくうちにストーリーは変化しているでしょう。
さて、この悪狐退治の話しはまだ終わりではありません。三浦介(みうらのすけ)と上総介(かずさのすけ)の活躍で退治された(白面金毛)九尾の狐は巨大な毒を出す石(殺生石)に姿を変え、そこに近づく住民を始め、やってきた多くの高僧たちをその毒で何人も殺してしまいました。三浦介たちが悪狐を退治してから200年以上経った南北朝時代に会津の喜多方に示現寺という寺を再興した高僧の「源翁(玄翁)」が一三八五年八月にこの殺生石を破壊することに成功しました。そして細かく砕かれたこの殺生石は各地に飛散し、毒は小さくなったのです。この「玄翁」の名前からトンカチ(金槌)のことを「げんのう(玄能)」と呼ぶようになりました。さて、この全国に散らばった殺生石ですが、どういうわけか「高田」という地名のところに飛んでいきました。
美作国高田(岡山県真庭市)、越後国高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)(一説には美作高田)、豊後国高田(大分県豊後高田市)などです。この日本の九尾の狐といわれる「玉藻前」は鳥羽上皇の寵愛を受けた藤原得子(ふじわらのなりこ)、後の美福門院(びふくもんいん)がモデルといわれています。
さて余談になりますが、この悪狐の話をもとに「悪狐伝(あっこでん)」という神楽が安芸高田市(広島県)に伝わっています。この地は毛利元就が治めた土地で「吉田町」といいます。毛利元就が小さなところから中国全体(特に広島)を制した非常に優秀な武将がこの地で城を構えていました。そして、常陸国の宍戸氏が安芸に渡って土着した安芸宍戸氏と手を組んで広島全土を手中に収めました。そして江戸時代の広島藩と常陸の真壁藩や笠間藩は赤穂の浅野家の歴史を見ると皆つながってきます。これも面白い事柄です。
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