宇都宮城の歴史

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/12526577?categoryIds=4521595  【お城の櫓の種類や役割】

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https://utsunomiya-8story.jp/wordpress/wp-content/themes/utsunomiya/image/archive/contents08/pdf_02.pdf 【宇都宮城の歴史】より

近代の宇都宮城①「役割を終えた宇都宮城」

明治2年(1869年)の版籍はんせき奉還後ほ う か ん ごも,旧宇都宮藩主・戸田と だ

忠ただ友ともは藩知事として旧宇都宮藩の領地を治めていましたが,明治4年(187

1年)の廃藩はいはん置県ち け んによりその職を免ぜられ,東京に移住しました。

城主を失った宇都宮城は,このとき約800年にも及んだ「城」としての役割を終えたといってよいでしょう。

明治5年(1872年)に陸軍は宇都宮城内に兵営を設置。宇都宮城跡は軍用地となりました。しかし,明治17年(1884年)軍隊は佐倉さ く ら(千葉県)に移転していき,兵営の建物はすべて撤去されました。

明治22年(1889年)に陸軍は,空き地となっていた宇都宮城内の軍用地を払い下げる方針を決定。翌年には9万坪以上の広大な土地が旧藩主・宇都宮町・町民などへ払い下げられました。こうして宇都宮城跡は徐々にその姿を消していくこととなるのです。


宇都宮城の歴史 近代の宇都宮城②「変わりゆく宇都宮城跡地①」

明治24年(1891年)には現在の「みはし通り」が開通し,二荒山神社と宇都宮城御本丸跡とが南北に往来できるようになりました。しかし同時に三の丸北東部の堀が埋め立てられて消滅しました。明治26年(1893年)には,現在の中央小学校付近にあった三日月み か づ き堀ぼり(太鼓門た い こ も んの外側にあった半円形の堀)が埋め立てられました。

また,明治27年(1894年)には曲師町から宇都宮城南 館みなみだて跡に通ずる,現在の「本丸西通り」が開通し,それに伴い二の丸の堀の一部が埋められました。

明治30年代になると,本丸跡は「公こう楽園らくえん」という園地となり,以後,いろいろな催し物が開催される市民の憩いの場となっていきました。

また同じころには,本丸東側にあった「蓮池はすいけ」という堀が埋め立てられ,耕地として利用されるようになります。


宇都宮城の歴史近代の宇都宮城③「変わりゆく宇都宮城跡地②」

明治33年(1900年)には,西館にしだて跡(現・宇都宮市役所付近)に宇都宮市立伝染病院が設置され,昭和9年(1934年)まで存続しました。

大正時代には,宇都宮城の東半分の堀と土塁はほぼ消滅して市街化しました。

宇都宮城の北部から北西部にあたる範囲には,大正15年(1926年)の地図を見ると,市役所(現・NHK宇都宮放送局付近)・陸軍の連隊区司令部(現・産業会館付近)・税務署(現・中央郵便局付近)・中央小学校(現存)・県立病院(現・中央生涯学習センター付近)・警察署(現・総合福祉センター付近)・刑務所(現・東武宇都宮駅付近)など,公共施

設が立ち並んでいる様子が分かります。

昭和10年(1935年)には本丸周辺が「風致地区」(緑地などの景観を保全する場所)になったものの。範囲が限られていたこともあり,残っていた城の西部にも開発の手が入っていきます。

百 間ひゃっけん堀(現・栃木農政事務所付近)は,埋め立てによって昭和14年(1939年)ごろには消滅し,堀の内側の土塁の上にそびえる「旭町の大イチョウ」を残すのみとなりました。


宇都宮城の歴史近代の宇都宮城④「生き残った旭町の大イチョウ」

戦争が激しくなってくると,宇都宮城の敷地内にも数多くの防空ぼうくう壕ごうが掘られました。その多くは,深さ2m,幅2m,長さ5~10m程度の長方形の穴を掘り,板や材木で覆って土をかぶせた半地下式のものです。

しかし旧二の丸に掘られたもののなかには,地下をトンネル状に掘り進んで,本丸の堀まで避難できるようにしたものもありました。

昭和20年(1945年)7月12日深夜,宇都宮はアメリカ軍による焼夷弾しょういだん爆撃ばくげきを受けました。焼夷弾は市街地の東半分に多く投下され,まちは広範囲に焼失。死者は620人以上にのぼりました。

旧二の丸部分の住民の中には,東側から迫ってきた火災を避けるため,本丸西側の堀に飛び込み,堀の水を浴びながら土塁に身を寄せて難を逃れた人もいたそうです。

宇都宮城跡は,現在の宇都宮城址公園や市役所本庁付近など,西側に三重の堀が残っていました。焼夷弾の落下が少なかった市街地の西半分でも,延焼によって焼失した部分もありましたが,堀・土塁が残っていた場所は西側への延焼が少なかったようです。

宇都宮城ゆかりの木である「旭町の大イチョウ」は,火災で黒く変色し,枯死が懸念されましたが,生き残ることができました。現在もその姿を見ることができます。


宇都宮城の歴史近代の宇都宮城⑤「ほぼ地上から姿を消した宇都宮城」

宇都宮城跡のうち,本丸から西側には,戦後になっても三重の堀が残っていました。

それらの堀のうちのひとつ,三の丸外側の堀である西舘にしだて堀の一部は,昭和28年(1953年)に埋め立てられ,市体育館(通称スポーツセンター,現在の市役所本庁舎付近)が建設されました。

西舘堀の残りの部分と地蔵じ ぞ う堀(現在の旭1丁目から2丁目にかけて)は,昭和36年(1961年)から埋め立てが始まり,昭和40年代のはじめごろには完了しました。

本丸跡(本丸町)の一部では,昭和41年(1966年)にスケート場と遊園地が建設されました。そして,最後まで残っていた本丸の南西側の堀も昭和47年(1972年)ごろから埋め立てが行われました。

こうして堀・土塁などの宇都宮城の遺構は,昭和40年代にほぼ地上から姿を消し,御本丸

ご ほ ん ま る公こう園えん(現・宇都宮城址公園)内や大イチョウ付近などに残った土塁の一部に昔を偲しのぶのみとなりました。


宇都宮城の歴史 近代の宇都宮城⑥「宇都宮城跡の発掘調査の開始」

堀・土塁の大部分が消滅した後も,宇都宮城ご本丸ほんまる跡の一部は,御本丸公園として市民に利用され,親しまれていました。公園内には,噴水や園路が設けられ,樹木や草花が植えられた緑豊かな公園で,散策する人々の姿が数多く見られました。

宇都宮城跡は,それまで埋蔵文化財包蔵地(遺跡)としての取り扱いがされていませんでしたが,御本丸公園となっている部分が昭和58年(1983年)に遺跡として登録されました。

昭和の終わりごろ,御本丸公園を造り替えようという構想が立てられました。その工事によって,地下に眠る遺跡に影響が及ぶことが予想されたため,発掘調査を実施して記録を残すことになりました。掘調査は平成元年(1989年)から開始されました。


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