松岡正剛の国語力

https://www.tokyo-shoseki.co.jp/books/81453/ 【松岡正剛の国語力】より

なぜ松岡の文章は試験によくでるのか 著:松岡 正剛 + イシス編集学校

解説:

過去20年間で中学校、高等学校、専門学校、短期大学、大学、大学院と幅広く90校以上の入試問題で出題されてきた松岡正剛の文章。なぜ、入試国語は松岡正剛を求めるのか?

松岡正剛自ら、その入試問題について徹底分析。何が書かれ、何が問われ、何が求められたのか?加えて、実際の出題者へのインタビューを敢行し、松岡の文章を選んだ理由について迫っていく。さらには、著者自ら監修した模擬問題を多数掲載!今後の入試問題作成のヒントが満載。

AI時代に必要な国語力を追究する!

AI時代の国語力 ー 松岡正剛

 20年ほど前から、折々に書いてきた私の文章が全国のいろいろな学校の入試問題や模擬試験につかわれる例がふえてきた。小説やノンフィクションは書いてこなかったので、すべてエッセイか評論である。事後に承諾書とともに問題文が届くので、そのときになって「ふうん、あの文章がこんな問題になったのか」と初めて知るのだが、毎年花の便りのようにこの知らせに出会うのがだんだん愉しみになった。

 自分の文章がいくつかの部品に解体されて、また組成されていくのを見るのは、まるで国語工場や国語医療か何かの検査診断装置を見ているようで、意外に興味深いのである。ときどき解いてみると、本人なのにマークシート式の選択問題にまんまと惑わされることがあって、これはこれで悩ましい。

 そんな話をスタッフやイシス編集学校の諸君と話していたら、「松岡さんが気になった入試問題についての本をつくったらおもしろいんじゃないか」というふうに話がふくらんで、これを東京書籍のみなさんが引き受けてくれた。『試験によく出る松岡正剛』が仮のタイトルになった。こうして太田香保が指揮棒を振って、いくつかのチームも動きだした。過去問をかたっぱしから解いていくチーム、問題作成の傾向を分析するチーム、なぜ松岡正剛の文章が入試になりやすいのかを探るチーム、日本の国語問題はこれでいいのかということを議論するチームなど、いろいろだ。

 私は国語教師ではないし、学生諸君の国語力向上のために文章を書いてきたわけではないけれど、ずっと「学校の国語」がもたらしてきた功罪については気になっていた。たとえば作文、たとえば読書、たとえば読解。もっと大胆な指南や励起(れいき)があってもいいように思ってきた。

 現代文を素材にした入試問題では、大きくいって3つのタイプの設問が取っかえ引っかえ工夫されてきた。言葉づかいや文中での当該の概念をめぐる設問、素材文を正しく言い換えられるかを試す設問、文意を理解したうえで自分の感想や意見を組み立ててみる設問だ。しかし、この3つの設問に終始していいのかどうか。

 これらはいずれも私が長らく編集工学として研究し仕事にしてきた「編集力」とたいへん縁が深く、したがっては国語力を試すには編集力を身につけるのが一番だと思うのだが、しかしそうなると、実はもっと多くのスキルをエクササイズしておいたほうがよかったのである。

 たとえばニュース記事を高速に把握する能力、曖昧な表現から言いたいことを察知する能力、世の中の世界観や社会観や歴史観に波乗りしている文章の理解の仕方、相互に交わされていくコミュニケーションを集約する能力、言及されていない問題を想定する推理力、映像の流れが喚起する意味を掌握する手立て、こういったことも必要なスキルなのである。

 ただ、こういうことをいきなり「お題」にするには、そのための授業もあらかじめ組み立てられていなければならず、それにはまだ時間を要するとも思われる。それでもできれば、少しずつはそうした「未知の国語力」を巧みに先取りする問題づくりがあってもいいはずなのである。

 というわけで、本書は現状の国語の出題問題をベースにしながらも、そこから躍り出てくるかもしれない新しい国語力を随所に予感させるような組み立てをめざしてもらった。存分にご活用いただきたい。

 いま、世界中でChatGPTなどの生成AIがもたらす可能性と限界とが急速に話題になっている。人工知能による編集力が大きな姿をあらわそうとしているわけだが、私はこういう日がおっつけやってくるとずうっと予想していた。この現象は機械が「意味」を内側でもっているという幻想に、さあどう向かっていくのかということである。国語の問題があるから意味に出会うのではない。学生諸君も私たちも、すでに2000年にわたって読み書きのAI化をなしとげてきたはずなのだ。国語力とは、このすべての回復に向かっていくということでなければならない。

序   松岡正剛はこんな人

 松岡正剛といえば、WEB上で「千夜千冊」という壮大なブックナビゲーションを延々と連載しつづけている人物として知られ、博覧強記、知の巨人などともよく言われます。でもいったいどんな仕事をしている人なのか、少しわかりにくいと思われているようです。

 松岡さんの名刺には肩書が何も書かれていません。ただ「松岡正剛」と名前だけが書かれていて、裏面に松岡正剛事務所と編集工学研究所の連絡先が記してあるだけ。では本人はなんと名乗ってきたのかというと、「生涯一編集者」です。最近のメディア上の肩書は、たいてい「編集工学者」となっています。

 松岡さんは1944年、京都で生まれました。子どものころから本が好きで、また両親の影響で俳句を詠んだりしていました。小学生のときに詠んだ俳句が「赤い水のこして泳ぐ金魚かな」。すでに図抜けたイメージと言葉のセンスがあったようです。一方、自然観察や科学実験に夢中な「リケオ」くんでもあった。

 高校時代には新聞部で腕を磨き、大学時代は学生運動に参加しながら文章修業。卒業後に勤めた広告代理店で、大手出版取次の東販(現在はトーハン)が発行する高校生向けの読書新聞「ハイスクール・ライフ」の編集をまかされたことをきっかけに、松岡さんの編集人生が動き出す。このタブロイド紙は前衛的な思想やアートも取り上げる知的なメディアとして、寺山修司さんや五木寛之さんから絶賛されました。

 この仕事で編集力と人脈を培った松岡さんは、1971年、27歳という若さで工作舎という出版社を興し、オブジェマガジン「遊」を創刊します。古今東西の「知」を自在に組み合わせた独創的な編集とデザインワークによって、今日では伝説となりました。80年代に入ると、欧米の知識人たちの動向や認知工学やシステム工学の行方を注意深く観察し関心を深め、本格的に「方法の冒険」に着手すべきだという確信をもちます。仲間たちと新たに編集工学研究所をつくり、情報編集の技法を体系化するとともに、情報文化と情報技術を融合するようなユニークな企画や研究開発に着手していきます。

 2000年には「千夜千冊」をスタートさせ、インターネット上で松岡さんの編集メソッドを伝授する「イシス編集学校」(後述)を立ち上げました。このネット上の学校では松岡さんの考案した「編集稽古」という、さまざまなお題やエクササイズを通して言葉とイメージの技法を学びます。これまでに900人近い編集師範代を輩出しています。

 松岡さんは、日本の歴史文化にも深く傾倒していきます。きっかけは講談社の日本美術全集「アート・ジャパネスク」(全18巻)を企画編集したことでした。日本人のイメージの源流や方法的な特徴を解き明かしていく松岡さんの日本文化論は多くのファンを獲得し、政治家向けから企業人向けまで、たくさんの「私塾」も開催してきました。

 このように松岡さんは、編集という仕事を通して、たくさんの情報と情報、人と人とを結びつけ、そこから新しいメディアやイベントやスクールをつくってきた人なのです。松岡さんが名刺にひとつの肩書も記さず、ただ「生涯一編集者」とか「編集工学者」とか、わかりにくいことを名乗ってきたのには、そういう賑やかな背景があるのです。

イシス編集学校

 松岡の編集術をインターネット上で学べる学校。基本的な技法を学ぶ「守」、文章術やプランニング術を学ぶ応用コース「破」、松岡の世界知と方法知を専門的に学ぶ「離」の3つのコースを基本とする。24時間いつでも学べる学校とあって、学衆(受講者)は年齢層も職業も居住地も多岐にわたる。カリキュラムの基本は「お題」形式の編集稽古で、10~15人ずつがネット上に用意された「教室」に集い、「お題」に回答したり師範代(編集コーチ)から指南を受けたりしながら編集のコツを習得していく。師範代養成のための特別コース「花伝所」では、ネットを介した編集指南のために必要なあらゆるノウハウを伝授している。ほかに、ユニークなプログラムで俳句・短歌を学ぶ「遊・風韻講座」、物語編集を学ぶ「遊・物語講座」、読書術をトレーニングする「多読ジム」なども開設している。

著者情報

松岡 正剛(マツオカ セイゴウ)

著者情報

イシス編集学校(イシスヘンシュウガッコウ)


https://1000ya.isis.ne.jp/0122.html 【石川桂郎 俳人風狂列伝】より

角川選書 1974

 この人の文章は達意の名文である。淡々と時代や光景を描写した名文ではなくて、奇怪で非常識な人生を歩んで、他人に迷惑をかけつづけた俳人たちの日々を拾って、それで名文だ。こういう書き方はなかなかできない。アルトーやセリーヌが自分で自分の破壊を綴ったわけではないのである。

 本書に登場している俳人たちは、自分ではアルトーやセリーヌになれず、もちろん一休にも子規にもなれずに、そのかわりいくばくかの俳句だけを残したという、そういう俳人たちである。それを俳人であって、俳句雑誌の名編集者でもあった石川桂郎が拾って、文意をつなげて蘇生した。蘇生にあたっては本人たちの情熱や「狂気」に与せず、あたかも写経をするように批評を殺している。それが効いた。本書が読売文学賞を受賞したのも頷ける。石川は散髪屋でもあったから、他人の髪を切る。それも相手の頭の恰好にあわせて整えるのは、たぶんお手のものなのである。

 しかしながら、本書の内容を紹介するのはちょっとむずかしい。なにしろここには高橋鏡太郎、伊庭心猿、種田山頭火、岩田昌寿、岡本癖三酔、田尻得次郎、松根東洋城、尾崎放哉、相良万吉、阿部浪漫子、西東三鬼といった、11人のすこぶる異常な乗客が乗りあわせている。それぞれに変節に満ちた人生がある。それを石川が淡々と蘇生させ散髪しているのだが、それを紹介するにはその蘇生術だか散髪術をなぞるしかないからだ。

 今夜は、以上の11人のなかから任意な断片と俳諧をつまんでいくことにする。それはそれで、ひとつの趣向というものになるのだろう、か。

 高橋鏡太郎「蛸の脚」=はまなすは棘やはらかし砂に匍ひ

 鏡太郎が重症の結核患者の痰を飲んで病状を悪く見せたという身の毛もよだつ行為をしたのは、それまでさんざっぱら知友に迷惑をかけ、愛想をつかされてきた鏡太郎にとって、肺結核で入院できる療養生活というものが〝天国〟に見えたからだった。

 「モオツァルト青田のはての楽となる」「枯木さへ厨にあればうつくしく」。ほかに「生別と死別といづれ冴えかへる」「生と死をあざなふごとき冬に入る」という生死の境涯を詠んだ句があるのだが、まるでこの気分を受け入れるかのように、四九歳のときに崖から転落死した。

 伊庭心猿「此君亭奇録」=蚊ばしらや吉原ちかき路地ずまひ

 石川桂郎は心猿を、生涯にわたって偽筆根性から抜け出せなかった男と見ている。しかし一方で、心猿が樋口一葉集や新村出の辞典増補や文明事典などの編集に携わってすぐれた業績を発揮したことを評価して、特筆する。ぼくは永井荷風・佐藤春夫・新村出を動かした、そういう心猿の編集的才能を買う。

 俳句は若い富田木歩についた。高熱で両足が麻痺して歩行困難になった俳人だ。木の杖に頼ったので木歩と号したが、関東大震災で焼死した。26歳だった。心猿はその木歩を少年のように憧れた。「あてもなく仲見世にきて日記買ふ」「香水やすこし酔ひたる京言葉」「かつしかは都の果やはたた神」。

 種田山頭火「行乞と水」=あの雲がおとした雨にぬれている

 酒狂いの山頭火を救ったのは熊本の望月義庵という和尚だった。山頭火は44歳で得度して、托鉢に出る。行乞だ。本書のなかでは叙述の仕方がちがうエッセイになっているが、石川の山頭火に対するときの厳しい句評がなかなか読みごたえがある。たとえば「死ねない手がふる鈴をふる」の「をふる」は無駄だろうとか、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」はこんなふうに前触れだけで句にしてはいけないとか。山頭火に聞かせたかった。 

 岩田昌寿「靭かずら」=泣けば雨笑へばダリヤをどりくる

 しばしば狂人といわれた岩田は、波郷の「鶴」の周辺の俳人である。「狂人日記」という連作もある。子供のころに父母を失い、肺結核で入った療養所で俳句をおぼえた。あのころはそんな結核俳人がどこにでもいた。

 岩田は他人を自殺にまで追いこみかねないほど、周囲に迷惑をかけたらしい。45歳で病院で死んだ。「春を待つ靴底にゴム厚く貼る」「夜の蝉ひとり寝ることまつとうす」「百日の夏をまぢかに椎の群」。

 岡本癖三酔「室咲の」=ほほづき一ツ真赤な弱い男

 碧梧桐が「俳句三昧」を提唱したとき、癖三酔はあえて「俳諧散心」を唱えた。虚子・蝶衣・東洋城が加担したのを見ても、すでに虚子の先を走っていたのがわかる。有季自由律の俳誌「新緑」をのちに「ましろ」と変えたあたりも独得である。

 なにしろ稀代の変人で、前半生は豪邸を閉めきってまったく外出せず、好きなもの、たとえば麻布十番山中屋の「松茸ライス」が気にいれば、明けても暮れてもこれを注文して食べた。ともかく何もしないというか、どんな暇つぶしの方法もない男で、そのかわり紙芝居のようなお気にいりがあると、これを毎日のように庭に呼んでふるまった。夜は睡眠薬でしか眠らなかった。

 こんな癖三酔も20年ほどたつとやっと外出に慣れ、今度は銀座プランタン、豊島園、江戸川、多摩川などに通った。それでも、いつも「淋しい、淋しい」と言いつづけた。「町が淋しくなり電信のはりがねの凧」なんていう句がある。

 田尻得次郎「屑籠と棒秤」=白桃や女形が家の塵箱に

 小中高校をすべてトップで出ていながら、「蟻の町のマリア」として有名な北原怜子の「バタ屋部落」で暮らしていたようだ。酒乱のせいと、人嫌いのせいだった。ただ久保田万太郎だけを敬慕していた。得次郎が横領の罪で追われているとき、石川は彼を交番に引っ張っていったらしく、こうした石川の得次郎を扱う「切れ」と「つなぎ」がこのエッセイを奇妙な味にしている。「紙屑を拾ふ掌をもて木の実愛づ」。

 松根東洋城「葉鶏頭」=黛を濃うせよ草は芳しき

 四国宇和島の家老の家に育って、松山中学五年のときには漱石が赴任してきた。以来、漱石を慕って句作に没頭した。その姿は俳諧接心あるいは俳諧道場の厳しさがあったという。宮内省の式部官になったことも手伝って、しきりに国民俳壇を指導したがったが、いつしか虚子と割れた。芭蕉の道を復活すべく「渋柿」を主宰するも、むしろ俳句よりも、家を構えず、句集をもたず、俳壇に参加しないことによって、古武士めいた独自の生き方を貫いたようなところがある。大正天皇に俳句とはどういうものかと問われて詠んだのが、「渋柿のごときものにては候へど」だった。

 尾崎放哉「おみくじの凶」=入れものがない両手でうける

 石川桂郎にしては手こずっている。放哉については、すでに書かれるべきものがほとんど出尽くしているためだろうが、しかし井泉水との師弟愛はどうか。これは格別だったはずだ。また一燈園における放哉ももっと書けるはずである。

 一高・東大を出て、自由律俳句の鬼才とよばれた放哉が、酒浸りを脱せなかったとはいえ、あれだけの俳諧の日々を徹したのはそれだけの理由ではないはずで、きっと何か大きな力に押されていたのである。喜び勇んで〝寺男〟になっていったことについても、やはり「俳句は作務か」といった視点で、もっと書いてほしかった。「鐘ついて去る鐘余韻の中」「仏にひまをもらつて洗濯してゐる」「足のうら洗へば白くなる」。

 相良万吉「水に映らぬ影法師」=鬼は外乞食は内か豆を撒く

 写真家の内藤正敏が乞食の写真を撮るために乞食の仲間入りをしたところ、あんなに気分がゆったり落ち着く日々はなかったと感嘆していた。相良万吉も一高を出て労農芸術家連盟の「文芸戦線」の同人になり、その後は結核に苦しみながら炭焼きをへて、結局は数寄屋橋名物の俳句乞食になった。「死ぬときも炬燵を抱いて一人哉」と詠んだとおり、自裁した。「施すも施さるるも花吹雪」「大寒の陽の美しき畳哉」。

 阿部浪漫子「日陰のない道」=馬みがく青柿おもき水あかり

 虚構俳句は、あっていい。浪漫子は「寒雷」に依拠して、ずっと角川賞を狙う俳人だったが、しばしば虚構のほうに棲んで句を詠んだ。けれども馬や牛は写生した。どうもぼくには計りかねる俳人である。「かたき皮膚張り台風の夜を越す牛」「鎌の冷たさ抱く萱山に雲あつまる」。

 西東三鬼「地上に堕ちたゼウス」=水枕ガバリと寒い海がある

 三鬼は歯医者である。神田共立病院の歯科部長にもなっている。医者には俳人が多い。水原秋櫻子を筆頭に、相馬遷子、水田のぶほ、井上士朗などがいる。病院俳界というジャンルがあるほどだ。

 三鬼の句はあまりにも有名すぎて、またその神戸時代の自伝も知られすぎていて、さすがに石川桂郎は三鬼の女癖くらいのところで話をつないで、三鬼刈りとでもいうべき散髪風情をなんとかつくったが、本書のなかでは東洋城・放哉・浪漫子ともども、冴えない。ゼウスの意味もいまひとつ判然としない。いずれにしても、三鬼は乾いていて、小さくごついのだ。「算術の少年しのび泣けり夏」。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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