【追悼】「玄」松岡正剛の面影によせて

https://edist.ne.jp/nest/andoakiko_renpenki_7/ 【【追悼】「玄」松岡正剛の面影によせて】より   

編集工学研究所の社長・安藤昭子のコラム連載「連編記」の第7回をお届けします。今回は、代表・安藤昭子による松岡正剛追悼号をお送りいたします。

「連編記」 vol.7「玄」 松岡正剛の面影によせて  2024/8/22​

俳号は⽞⽉、座右の銘は「少数なれど熟したり」(フリードリヒ・ガウス)、

モットーは「⽣涯⼀編集者」。

松岡正剛のプロフィールに添えられている一文です。

2024年8月12日、松岡正剛は「一編集者」としての80年の生涯を全うし、旅立ちました。

⽣涯⼀編集者

松岡正剛の近況を伝え続けてきた「セイゴオちゃんねる」では、その最期の様子をこう記しています。

今年になってまた新たな癌を抱えることになりましたが、あいかわらず休養もせず、日々、言葉を紡ぎ、イメージを編み、それを多くの場で多くの人びとに伝え続けました。2カ月前に肺炎を患ってからは療養生活が続いていましたが、それでも片時も本とペンとノートを手放したことはありませんでした。

「セイゴオちゃんねる:(訃報)松岡正剛 逝去のお知らせ(太田香保)」より

松岡の仕事信条のひとつに、「宇宙には日曜日がない」という言葉があります。単に「休むのが嫌い」という意味ではおそらくなく、「宇宙」のスケールで自分の仕事のリズムを考えるというのは、人間があとからつくったルールや仕組みを取っ払ったところで世界をどう見るか、という松岡の編集思想の深いところを支える態度であったのだと思います。そういう意味において、自身の「療養中」という状況すら、「生涯一編集者」であることの前には小さなことだったのでしょう。

松岡が座長を務めるHyper-Editing Platform[AIDA]の席で、ボードメンバーのおひとりである社会学者の大澤真幸さんが、こんなことをおっしゃっていました。

「松岡さんはずるい。松岡正剛の仕事は”松岡正剛”という以外に言いようがない。これに僕らは憧れるんです。」

「生涯一松岡正剛」を貫いた、一切ぶれることのない最期の日々でした。

少数なれど熟したり

編集工学研究所の「本楼」には、天井に近いところに「Pauca sed Matura」という文字が刻まれています。松岡がモットーとしてきた、フリードリヒ・ガウスの墓碑銘「少数なれど熟したり」です。

松岡にとっての「Pauca sed Matura」は、単に少数・小規模・少人数を礼賛するものではありません。「少数精鋭」をうたいたいわけでもない。本当に大切なことにはある微細さをもってしか挑めない、という編集の摂理のようなものではないかと思います。かすかなゆらぎを察知し合いながら自由闊達な相互編集が起こりうる、その小さな単位にこそ「世界」が映り込むのだと松岡は考えていました。そうした壊れやすい面影に切り込んでいくことに自らの存在と思想と方法をかけたのが、松岡正剛の編集人生であったと思います。

松岡は常々、「どんな仕事も、世界と対峙していると思ってやりなさい。」とスタッフを励ましていました。「“自分”などというつまらないサイズに仕事を落とすな」という叱咤でもあり、「“自分”という断片だからこそ相手にできる全体がある」という激励でもあったと思います。

断片とは部分ということである。では、部分は全体を失った不幸な負傷者かといえば、そんなことはない。部分はその断片性においてしばしば威張った全体を凌駕する。部分は全体よりも偉大なことがある。

『フラジャイル』松岡正剛

俳号は⽞⽉

松岡は、たくさんの書を書きました。大切な場面での場の設えとして、大切な人々への贈り物として、松岡の「少数なれど熟したり」を体現するその結び目として、常に書がありました。そして書にはしばしば、「玄月」という落款が押されます。

「玄月」というのは、「お月さまが欠けていってなくなって新月になっても、まだそこに黒い形を残している月のこと」だそうです。30代のときに自らつけた俳号です。

俳号「玄月」が誕生した一夜のことが、千夜千冊にこんなふうに綴られていました。

 渋谷のブロックハウスで何人もと共同生活をしているころ、まりの・るうにいと謀って中井英夫・長新太・鎌田東二・楠田枝里子・山尾悠子・荒俣宏・南伸坊・羽良多平吉らと「ジャパン・ルナソサエティ」を満月の夜に催していたのだが、それがときどき趣向の句会になって、ある例会の夜に残念ながら小雨が降ったので、それならと、その見えない月に因んで玄月とつけた。玄とは黒よりも濃いという意味である。

千夜千冊517夜:紀田順一郎「ペンネームの由来事典」

「黒よりも濃い玄」とは、どんな色なのでしょう。

この「玄」は「黒のまた黒」という意味で、真っ暗闇のような黒のことではない。むしろ逆で、その手前の黒なのである。まさに墨がもっている黒に近く、いってみれば動きを残す黒である。

千夜千冊343夜:篠田桃紅「私というひとり」

動きを残す黒、未萌の黒、そのようにある月。Yohji Yamamotoを好んで着た、松岡のシルエットのようです。

月贔屓だった松岡は、本当に「月」のような人でした。アイデンティティを嫌い、オリジナリティを疑い、イデオロギーよりも方法に加担することに徹しました。

「僕はね、常に自分をどんなものからも影響されやすい状態にしてるんだよ」、たわいもない雑談をしていたときに、松岡がふと言った言葉です。「どうしてですか?」と聞くと、「だって自分なんてつまらないじゃない」とのこと。「松岡さんは面白いですけどね」という調子っぱずれなこちらの返答には「そりゃどうも」と笑っておられましたが、このときの会話はその後の私にとって、「編集とはなにか」について考える際の指針のひとつになっていきました。

松岡が40代のときに書いた『ルナティックス』には、こんな一文があります。

われわれには「当のものになりたい」という欲望がある。天台教義では「当体全是」といったりする。その当体を何に求めるかというとき、太陽的な自己を設定するという強い方法がある。これはどんな人間にもひそんでいる光輝ある欲望だ。しかし他方、それとはうらはらに自分を別のものに託してみたいという欲望もある。これを私は「自己の他端への投企」とよんでいる。これは月的な自己ということだ。いちばんわかりやすい例は「恋」である。

『ルナティックス━━月を遊学する』松岡正剛

熱源としての太陽よりも、ただ反射によって存在する月のほうに、松岡の編集の分がありました。

不特定多数より特定少数を重んじ、実存より面影を慕い、太陽より月を愛で、孤高のようでいて常に人と関わりながら、数々の仕事に向かっていました。

「見えない月」に因んで名付けられた「玄月」は、いまや自ら見えない月となりました。ただ見えないのではなく、「動きを残す見えない月」です。きっといまごろ、空高くのどこかに座り心地のいい椅子を見つけて、世界という本をめくりながら煙草をくゆらせているでしょう。その面影を求めて目を凝らす者の上には、これからもずっと、そっと月光を落としてくれるはずです。

編集工学研究所は、松岡正剛が遺していった数々の大切なものを携えて、月灯りの道を力強く歩んでいきます。

一編集者としての松岡正剛の活動を一番近くで支え続けその仕事を後世に遺していく「松岡正剛事務所」(代表:太田香保)、校長としての松岡正剛の編集的世界像と方法を継いでいく「イシス編集学校」(林頭:吉村堅樹)、松岡正剛の新しい挑戦を率先して引き受け続ける「百間」(代表:和泉佳奈子)、そして全国で編集工学の火種を燃やし続けるたくさんの仲間たちと、編集工学研究所はこれからもともに進んでいきます。

生前松岡正剛にご厚情をお寄せくださったみなさま、ありがとうございました。これからの編集工学の歩みを、温かく見守っていただけましたら幸いです。

安藤昭子(編集工学研究所 代表取締役社長)


https://1000ya.isis.ne.jp/0035.html 【加藤郁乎 日本は俳句の国か】より

角川書店 1996

 永井荷風は「白魚や発句よみたき心かな」といった絶妙の俳諧味をもっていた。日野草城には「うぐひすのこゑのさはりし寝顔かな」がある。

 こういう一句を抜け目なく拾う眼力は、よくよく俳句に親しむか、ないしは書や陶磁器を一発で選べる性来の趣味をもっているか、そのどちらかによる。加藤郁乎にはその両方があった。

 本書は厖大に出回っている俳句に関する本の中でも白眉の一冊といってよい。

 それが加藤郁乎の初のエッセイ集であったなどとは、まったく信じられない。ぼくはまた、郁乎さんならもうとっくに何冊も俳諧論をはじめとする含蓄の書を出しているとばかりおもっていた。

 ところが、そうではなかった。そのことをあらためて知ってみると、そうか、浩翰な本というものは、やはりむやみに執筆をしている連中にはとうてい書けないのかなどともおもえてくる。郁乎さんの親友でもある松山俊太郎がやはり、なかなか本を書かないインド哲学者なのである。

 本書を読む愉楽は、選びぬかれた俳句を次々に見る醍醐味にある。そのうえで加藤郁乎が言葉を凝結して織りなす評釈に心を奪われる快感がやってくる。

 ただし、この本はよほどの俳句好きか、さもなくば、よほどの江戸趣味、それも野郎歌舞伎くらいまでの時期の前期江戸趣味の持ち主ではないかぎり、また現代の俳句でいうなら、富沢赤黄男や永田耕衣ばかりがやけに好きな者でないかぎり、あまり遊べないかもしれない。けれども、そこが極上なのである。

 では、加藤郁乎が本書に紹介した俳句から、ぼくが気にいった句を何句かあげておく。本書に出てくる順である。

 雪とけや八十年のつくりもの  竹島正朔

 西行も未だ見ぬ花の郭かな  山東京伝

 何の木の花とはしらずにほひかな  松尾芭蕉

 散花に南無阿弥陀仏とゆふべ哉  荒木田守武

 紅梅やここにも少し残る雪  中村吉右衛門

 しらぬまにつもりし雪のふかさかな 久保田万太郎

 雪の日の世界定めや三櫓  細木香以

 竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな  永田耕衣

 沈丁もみだるるはなのたぐひかな  永田耕衣

 しばらくは雀まじへぬ冬の山  永田耕衣

 いづかたも水行く途中春の暮  永田耕衣

 この道を向き直りくる鬼やんま  三橋敏雄

 柏手を打てば雪降る男坂  角川春樹

 露草のつゆの言葉を思うかな  橋間石

 憤然と山の香の付く揚羽かな  永田耕衣

 淋しさに二通りあり秋の暮  三橋敏雄

 猫の恋老松町も更けにけり  三橋敏雄

 何か盗まれたる弥勒菩薩かな  火渡周平

 襲名は熟柿のごとく団十郎  筑紫磐井

 むめのはなきそのゆめみしゑひもせず 角川春樹

 秋天に表裏山河の文字かなし  加藤楸邨

 白扇のゆゑの翳りをひろげたり  上田五千石

 おとろへてあぢさゐ色の齢かな  草間時彦

 この国の言葉によりて花ぐもり  阿部青蛙

 一ぴきの言葉が蜜を吸ふつばき  阿部青蛙

  ろはにほへの字形なる薄哉  西山宗因

 日本語はうれしやいろはにほへとち  阿部青蛙

 或るときは洗ひざらしの蝶がとぶ  阿部青蛙

 うかんむりの空を見ながら散歩する  阿部青蛙

 炎天をゆく一のわれまた二のわれ  阿部青蛙

 尾を上げて尾のした暗し春雀  永田耕衣

 むさし野のさこそあるらめ馬場の月  大田南畝

 五月雨やただ名はかりの菖蒲河岸  永井荷風


https://sengohaiku.blogspot.com/2013/08/haikujihyo08301.html 【【俳句時評】 僕たちのもう怖くない「加藤郁乎」について / 外山一機】より

加藤郁乎句集『了見』(書肆アルス)が刊行された。二〇〇五年から亡くなるまで(二〇一二年)の全句を収録した遺句集である。巻末に付された「編集余禄」によれば、加藤は「句はまとめてある」と遺言し句集の題も「了見」と定めていたという。

 ぼんじやりと酒しみわたる蝸牛の忌    色里は色かくしてやひとしぐれ

 さはやかに程よく勃ちてめいりやす    しぐるゝや銀座に古書肆あるべかり

 松に月こゝろないぞへ月の松       俳諧は十六むさし父の恩

 巻を措くわたしは俳句けふの月

 仁平勝は『了見』所収の「しぐるゝや七つ下りの雨女」をとりあげ、江戸時代の洒落を恋の句に仕立てた加藤の手腕を「解説」しているが(「俳句時評」『読売新聞』二〇一三・七・二九夕刊)、「加藤郁乎」についてのこの種の評言によって自らを慰めようと企む目ざとい小心者ははたして僕だけであろうか。

 加藤郁乎は遊び過ぎて、俳句の何も信じていないのである。昔江戸に遊び呆けた俳人がいて、その俳人が愚直に遊びの日々を信じてものにした句集が『江戸櫻』であると、加藤郁乎は偽書をでっちあげてみたのである。(中上健次「文芸時評」『ダ・カーポ』一九八九・七)

 「滑稽の初心を終生わすれずにいた点、鬼貫は芭蕉をこえている」(滑稽の初心)と看破した加藤郁乎の第11句集『初昔』は現代俳句の異風にして正統である。前句集『江戸櫻』において「当たり前を吐くのが江戸前の俳味である」と俳諧風流の本筋、無用の用、無楽の楽を語ったイクヤワールドの展開を矜持して余すところがない。(大井恒行『図書新聞』一九九八・九)

 こうした世界がやはり『了見』においても揺るぎなく構築されているかのような気がするのは、それが間違いであるかどうかということ以上に、おそろしいことだ。こうした「偏見」は、一方で加藤自身が欲してきたものであるけれども、僕たちもまたそのように読むことで自らを慰撫し続けてきたのではないか。

あらためて思うのは、加藤の作品や営為を「俳諧」という言葉で語ることの不毛さである。それは結局ほとんど何も言っていないのに等しい。高柳重信は「加藤郁乎を評すると、それは古今の俳人の誰とも似ていないということであろう」といい(「編集後記」『俳句研究』一九八三・七)、江里昭彦は加藤を「エイリアン」と呼んだが(「俳句の近代は汲み尽くされたか」『未定』一九九〇・五)、「俳諧」などという評言をもって加藤を語ることは、「エイリアン」の襲来をなんとか自分たちの手持ちの言葉で解釈しようとした彼ら自身の苦悩をそのまま曝すような何とも痛ましい行為ではなかったか。

郁乎には、彼を前衛俳句の一員のごとく見なす誤解が永らくつきまとっていまして、それが誤解であることをこれから説明しますが、でもその誤解のおかげで彼は俳句界に着地できたともいえる。(前掲「俳句の近代は汲み尽くされたか」)

僕は加藤郁乎が「俳諧」や「江戸」という言葉で評されるときその座りのよさのなかに、加藤を「前衛俳句」と評したときのそれとは異質でありながらも、しかし「俳句界に着地」させようとする評者の不用意さを感じるのである。とはいえ、こうした事態がどこか見えにくいのは、「エイリアン」自身が「俳諧」で解釈してくれと言わんばかりの振る舞いをしていたことにある。

 俳句の生みの親とでもいうべき俳諧、その俳諧の根本義である滑稽の風をさしおいて俳句を云々するなど、じつに、いや、実は滑稽というものだろう。極言するまでもなく、どこかがおかしいからこそ「俳」の趣があり、従ってどこもおかしくないような俳句なんか成り立つわけがない。(加藤郁乎「自作ノート」『現代俳句全集』第一巻、立風書房、一九七七)

だが、たとえば『出イクヤ記』以降の加藤について、それがいかにも「Uターンともいうべき、一八〇度の捻り」らしくみえはじめたとき(木村聰雄「連続それとも………」『未定』一九九〇・五)、安堵した俳人がいなかったとは僕には思えない。しかしそれは加藤の作品が提示していたはずの「俳諧」や「江戸」などという言葉では本来いいおおせるはずがないものを、そう呼ぶことで隠蔽してしまっているだけで、結局のところそのような批評など評者と加藤の出来レースに過ぎまい。

 そういえば『豈』(二〇一三・一)が「加藤郁乎は是か非か」なる特集を組んでいたが、ずいぶんと悠長な問いである。僕たちの現在はそのような問いがもたらした正と負の遺産のなかにこそあるのであって、だから、そのような問いが成立したかつてへと思いを及ぼすことの方がよほど重要ではないかと思う。換言すれば、「加藤郁乎」をいかようにも見限れるこの種の問いが成立するまさにそのとき、より具体的に言えば、「加藤郁乎以後などという価値観の神話が本当は何の意味も持たなくなった」(夏石番矢「うたげのあとのよだれ」『未定』一九九〇・五)という認識が持たれるようになったそのときのそれぞれの作家のまなざしの精度と性質について考えることこそが、僕たちにはより切実な問題なのではないだろうか。

 新興俳句運動そのものは、はなはだ雑多な性格を有していたものではあったが、富沢赤黄男を代表とする優れた幾人かの俳人における新興俳句運動に対する認識の中には、俳諧連句の発句の概念(遺制)をもって俳句を規定しようとする、それまで流布されていた俳句観を根本から問い直し、発句とは直結しない新たな俳句への創造と言う方向が、はっきり見据えられていた。高柳重信の戦後の多行表記への試行も、言えば、富沢赤黄男らとのこの試みを、さらに拡大・実践したものということができる。ところが、こと加藤郁乎は、富沢赤黄男・高柳重信が紡ぎ出し、事実、戦前から戦後への俳句を代表するに足る仕事として定立したこの方向に、必ずしも沿ったものとして自らの句業を位置づけてはいないのである。位置づけないというより、それは、むしろ逆の方向と言うべきところから、富沢赤黄男・高柳重信に遭遇する結果になっているのである。(沢好摩「句集『球体感覚』と加藤郁乎」『俳句研究』一九八〇・四)

 僕は、ひとり加藤郁乎の「俳諧」「発句」という言葉を畏怖する。(略)

 加藤が「俳諧」と言い「発句すなわち俳句」と言うとき、それは従来の俳句享受史を経てきていないものであり、加藤の内部で俳句原初の可能性を把握し得た故のものである。芭蕉を経た従来の俳句享受史ではなく、加藤郁乎を経ることによって始まる享受史を、「滑稽」の中に加藤は見据えようとしているのではなかろうか。(林桂「加藤郁乎掌論」『俳句研究』一九七九・七)

『出イクヤ記』以降の加藤が「俳諧」という語をもって論じられることは少なくなかったが、同時代の評言を読んでもその「俳諧」なるものの内実ははっきりしない。というよりもむしろ、いまだ名付けえない何ものかについて、それを「俳諧」の名で呼んでいたようにさえ思われる。思えば、加藤郁乎の「俳諧」が取り沙汰されていたちょうどそのころ、三橋敏雄の「俳諧」もまた彼らにとって重要な問題として見えてきていたのであったが、沢は坪内稔典が三橋敏雄について論じるなかで用いた「俳諧的技法」という言葉について次のように述べていた。

俳句が俳句として成立するためには、いわゆる反俳句的なものとの葛藤をエネルギーとするような地平に立たねばならない。(略)そういう葛藤を持続している時だけ、俳句は新たに更新され、輝く。そのような葛藤が沈潜したあとには、いわゆる俳句的熟成が進み、また、そのぶんだけ俳句の危機がつのってゆく。(略)その作品の熟成ぶりと安定性において、三橋敏雄は結果的に俳諧的技法を内に呼び込んでいる。(「昭和40年代と三橋敏雄Ⅰ」『俳句研究』一九八一・九)

沢はまた「「俳諧的技法」とは或る固有の技法を指し示すことばとして受けとめるのではなく、俳句が今日という時代の詩としての根拠を見出しえないままに書かれる俳句作品をその内側から支えている言語規範の総称として理解する方がいいのではないだろうか」とも書いている(「続・戦後派の功罪」『俳句研究』一九八三・五)。まだなにも見えてきていないことをもってようやく自恃となしえたような彼らの現在にあって「加藤郁乎」や「三橋敏雄」とは重要な問題の謂であったにちがいないが、「加藤郁乎」や「三橋敏雄」を思考するなかで見えてきたものをそれぞれ「俳諧」という名で呼ぶとき、それは名付けえないはずものを名付けていくような危うさをはらんでいたように思う。そうした営為は坪内稔典の『過渡の詩』(牧神社、一九七八)や仁平勝の『詩的ナショナリズム』(富岡書房、一九八六)に見られるような定型論を生み出した営為とも無縁ではない。彼らはあのとき俳句形式の本質的な部分を問うていたのであり、林のいう「畏怖」とはそのように問う者こそが知ることのできるものであったろう。いわばこの「畏怖」は加藤のみならず俳句形式に対する「畏怖」でもあったのだが、不思議なのは、彼らがその「畏怖」を「畏怖」のままに自らのうちに抱え込み続けることができなかったことである。「俳諧」にせよ、坪内の「過渡の詩」や仁平の「幻股」にせよ、彼らは自らの「畏怖」をそのように解釈する言葉を持つことで自らのその後を準備していたようにも思う。あるいは表現行為とはこの種の賭けに身を投じていく行為の謂であるのかもしれない。しかし、そうであればこそ、僕には彼らのこうした言葉がついに何ものをも示していなかったのではないかというおそれと向き合うことで、ようやく彼らの―ひいては僕たち自身の―表現行為への批評の端緒を見出せるように思われるのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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