Facebok近藤裕子さん投稿記事 ☘️対立を超えてこそ☘️
「而二不二」 ににふに 而二不二は、仏教用語で、一つのものを二つの側面から見る「而二」と、二つの面の本質が一であるという「不二」という〈ふたつの言葉〉から構成されています。
表と裏のような、切っても切れない関係を意味し、世の中には表ばかりのものや、裏ばかりのものはないことを指すのだそうです。
つまり「不二(ふに)」とは、二つの面があっても、その本質は「一つ」である、ということを意味するのです。
仏教語としての意味は
清浄な悟りと 不浄な煩悩とは対立するものと思われますが、真如の上では差別がなく同一であることを言うようです。
「生死一如」と言う言葉があります。生きるも死ぬもひとつごと と言う意味です。
出会いは別れの始まりであり、別れはまた出会いの始まりです。
別れは辛く悲しいけれど、その悲しみから学ぶ事が出来るのが人間のすばらしさです。
「 自他不二」の視点もあります。
他人の喜びや苦悩を、自分のものとして感じ取ることで、相互理解が深まります。
対立を超越することから素晴らしい世界が広がります。(引用を含みます)。
http://www.hashikura.or.jp/?p=427 【第12号特集-而二不二(ににふに)のお話-】より
○はじめに
今回は「而二不二」という言葉をご紹介しようと思います。「而二不二」は、後の半分だけをとって「不二」と呼ぶこともあります。この言葉、普段はなかなか耳にすることの少ない言葉ですが、真言宗の中では、最も大切な言葉の一つです。
○一つは二つ、二つは一つ
それではまず、言葉の意味をご紹介して行きたいと思います。
「而二不二」とは、「而二」と「不二」の二つの言葉がくっついたものです。
・「而二」とは、一つのものを二つの面から見ることで、
・「不二」とは、二つの面があっても、その本質は「一」である、ということです。
一枚の紙を例にとって考えてみましょう。
・「紙には表と裏がある。」というのが「而二」にあたります。そして、
・「表と裏がそろって初めて一枚の紙になる。」と言うのが「不二」にあたります。
つまり、紙には表と裏という二つの面があり、その両方があるからこそ紙が存在しているというわけです。
このような、表と裏のような、切っても切れない関係が「而二不二」です。世の中には表ばかりのものや、裏ばかりのものはありません。また、表のないものには裏はなく、裏のないものには表はありません。裏は表があるから生まれ、表も裏があるからこそ生まれてきたものです。
○「知恵」と「慈悲」
言葉の意味のご紹介の次は、仏教の中で説かれている「而二不二」のご紹介です。
私たちの宗派、真言宗では、仏様の世界を大きく二つに分け、その二つの世界が「不二」であると説いています。
一つ目の世界は、仏様の持つ「知恵」の徳を表す「金剛界」、もう一つは「慈悲」の徳を表す「胎蔵界」です。
参考までに、檀家の皆さんが法事の前に箸蔵寺に取りに来られるご本尊様のお軸(三本)のうち、向かって左に掛けられるお軸が「知恵」の仏様の世界(金剛界マンダラ)のお軸で、向かって右に掛けられているお軸が「慈悲」の仏様の世界(胎蔵界マンダラ)を表しているお軸です。
どちらも大日如来様を中心として、たくさんの仏様が描かれています。
「知恵」の世界と「慈悲」の世界、これら二つの世界は別々に描かれていますが、実際には一つに融合しているものです。
つまり、だれか救いたいという気持ち(慈悲)があっても救う方法(知恵)を知らなければ救うことはできませんし、救う方法を知っていても、救いたいという気持ちがなければ、やはり救われません。
人間のお医者さんに例えると、病気の人を治したいという気持ちを持っていても、医学の知識や技術が不足していれば、正しい治療を行うことができませんし、どんなに腕のいいお医者さんでも、人を助けようという気持ちに欠けていれば結果は同じです。
「慈悲」を離れては「知恵」の徳はなく、「知恵」を離れては「慈悲」の徳は存在しません。
このように、仏様の世界では、「知恵」と「慈悲」は「不二」なのです。
私たちが仏様をお手本に、より良く生きていくためには「知恵」と「慈悲」どちらの心も併せ持ち精進していくことが大切です。
しかしながら、現代社会で問題となっている色々な出来事は、「知恵」を追い求めることを優先して、「慈悲」をおろそかにしているために起こっているものが多いように感じられます。
面白そうだという理由だけでパソコンを駆使して偽札を作ってみたり、爆弾を作ってしまったりする人々。
利益を上げるためならば、法に触れなければ(時には法に触れてでも)どんなことでもする企業など。
このような事件以外でも「自分さえよければ」や「自分のことで精一杯」は、あちこちに見られるように思います。
様々な情報や誘惑にふりまわされて自分を見失いそうになる世の中。
合理的に効率を追いかけるあまり、いろいろなものを切り捨ててしまう世の中。
一番最初に切り捨てられるのは、「○○のために」という「慈悲」の心なのかもしれません。
しかしながら、このような時代だからこそ「慈悲」の心を大切にしなくてはならないのではないでしょうか。
○生かされている
私たちは自分の力だけで生きているわけではありません。
たくさんの人々に助けられ、たくさんの人が作り上げてきた社会の仕組みに守られ、また、大自然からたくさんの「いのち」を分けて頂くことによって「生かされて」います。
私たちは「生かされている」ということに気づき、感謝をする気持ちを持つことができたならば、自然と「誰かのために」とか、「より良い社会にするために」とか、「自然に優しく」といった、「慈悲」の心が生まれてくるのではないでしょうか。
そして、「慈悲」の心から生まれる「知恵」は、さらにすばらしい知恵なのだと思います。
○おわりに
仏教に説かれる「而二不二」は他にもたくさんありますが、今回は「知恵」と「慈悲」だけを紹介させて頂きました。
機会があれば他の「而二不二」もご紹介したいと思います。
また、皆さんの周りにも「表」と「裏」のような「而二不二」の関係のものはたくさんあると思いますので、探してみてはいかがでしょうか。
https://tutahu.com/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4%E3%80%80document/%E4%BA%8C%E9%A0%85%E5%AF%BE%E7%AB%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%84%B1%E5%8D%B4/ 【二項対立からの脱却】より
☆世の中の物を見たり感じたりするときに、どうしても二項対立で物事を見てしまいがちです。善と悪、勝と負、右と左、上と下、中と外、などなど、数えだしたらきりがありません。
立ち回りでいうと、刀と自分ですね。普通に思考するとこの二極論に陥りやすくなります。
これは、二次元的で、つまり平面的で机上の空論になりかねません。
しかし実際に我々が生きている世界は、三次元以上の世界です。このことを、先人たちは智恵として戒めてきたようです。
この二項対立からの脱却こそが、技の世界や創造の世界への入り口のような気がします。
何かの参考になれば、よいのですが。。
*二項対立からの脱却を図るために、あえて三つの物を設定した経緯があるのでは?
三点三極を取るという手法
・三種の神器 ・序破急 ・じゃんけん
※序破急は普通、起承転結に対して、物語の進め方をより劇的にする方法と考えられていますが、あえて僕は、序(物語の構成)、破(状態や情況)、急(時間軸の調整)ではないかと考え、ここに加えました。
文献
・二項対立からの脱却を感覚的に捉えた感じの文献
☆おのが身は有無のみやこの渡し船
行くも帰るも風にまかせて 二宮尊徳
この世界は、有無に代表されるように二元に埋め尽くされている。
もう一つ、有無のない世界も実は知っていてそこを往復している。
それは、風まかせである。
・二項対立を両方を捨てることで、脱却しようとしている文献
☆内外を両忘するに若かず(しかず)。両忘すれば、即ち澄然無事。(ちょうぜんぶじ)
程明道(ていめいどう) 「定性書」(ていせいしょ)
☆慧能の偈
菩提本樹無し(ぼだいもとじゅなし)
明鏡も亦台(まただい)に非ず
本来無一物(ほんらいむいちもつ) 六祖壇教
身と心を対応させ、迷いと悟りをライバル視するのではなく、本来無一物と否定した。
☆心頭滅却すれば、火自ら涼し 快川和尚
寒暑苦楽と自分とを対立させない、心(相対的認識)を同化して昇華させる。
☆蓋し(けだし)兵法者は、勝負を争わず、強弱に拘らず、一歩を退かず、
敵、我を見ず、我、敵を見ず。天地末分、陰陽不到の処に徹して直ちに功を得べし。
澤庵禅師 「太阿記」
仏法を通じて兵法の意義を説いた書物
おまけ
敷島の大和ごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらばな 本居宣長
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【苦楽表裏一体・全ては選択 】
「可愛い子には旅をさせろ、」「若い頃の苦しみは買ってでもしろ」って お聞きになったことありませんか?本当に「苦しみは買う価値がある」のでしょうか?
苦しみって何でしょう?
自分が作り出していると言ったらどのように思われますか?
卑近な例で説明しますと のどが渇いて水を探すとします。コップに半分の量入った水が見つかりました。「半分しかない」は苦しみを選択することになり、「半分もあるは」楽しみを選択することになります。
でき事は受け取る自分の選択次第で 苦・楽が決まると言えます。苦楽表裏一体です。
であれば 人生・自由自在なはずです。
このことを人間関係の原型とも言える親子関係で 見てみたいと思います。
例えば幼い頃 母を無くするとします。こんなこと誰でも起こって欲しくないことです。
殆どの人にとって苦しみです。
幼い時に目の前で母を交通事故で亡くし 哀れな子として生き、40歳を過ぎても閉じこもったままの男性を知っています。
亡くなった母に執着し 父の愛も、新しい母の愛も受け取る意志を持たないで被害者として生き続けてきました。
また死産をした女性が 亡くなった子以外の 健康に生まれた子どもを愛することができず ネグレクト(育児放棄)せずにはおれないケースを幾例も知っています。
多くの場合 母としての自責の念が 亡くなった子への執着心に繋がります。
執着心は過去に生きる在り方と言えます。
二例とも 自分の期待を裏切る出来事に圧倒され つまり自分の願いに執着し 苦の裏にある楽を知ることができず 苦しみの情に溺れています。
母を亡くした幼子の苦しみはどのように楽に転じられるのでしょうか?
母を亡くした故に 身辺自立を早くできた。それ故に愛の大切さを知るものとなった。それ故に人の痛みを理解できるものとなった。
人が憂うと書いて優の字になります。優しい、優れていると読みます。
苦が楽に転じられると 慈悲が培われ始めることがよく分ります。
死産をした女性は 失ったものに執着しないで「足るを知る」知恵があれば育てる責任のある愛子を 愛し育む喜びを得ることができたはずです。
和多志も長男の出産は難産で 生れてはじめて救急車で病院に運ばれ 医師からは母子ともども命の保証はできないと宣言されました。一晩中 押し寄せる陣痛に苦しみぬきました。
ようやく生まれた愛子に「よく生まれてきたね」と心からの感謝と喜びを伝えずにはおれませんでした。これも苦楽表裏一体です。
それはさておき「苦しみは買うほどに価値がある」とまで言えるのでしょうか?
みなさんは筋肉トレーニングを知っていらっしゃいますね?使うほどに筋肉は強くなります。
楽をして身体を動かさなければ 身体の機能は停滞し、遂には使わない機能は失われてしまいます。楽の裏の苦しみを示唆します。
転ばぬ先の杖を用意する子育てに警鐘 が鳴らされています。
過保護過干渉な大人が 子どもが失敗から学ぶチャンスを奪い取り ストレスに弱い軟弱な子ども 新型鬱の予備軍育てをしているからです。
子どものために心を砕いて 慈悲を注いでいるかのような錯覚を持ち 、ありのままの子どもを尊重しないで 自分の枠にはめようとするからです。
そのような関わりからは真楽は生まれません。
一方子どもは 親の関心を貪るために 相手の期待先取りで頑張ります。
いい子が危ないと言われてきた所以です。
いい子とは普通周りの大人にとって都合のいい子を指します。
楽の裏の苦に警鐘が鳴らされているとも言えます。
ネグレクトも溺愛も 愛の誤用 誤った愛 誤った楽の追及 つまり アブ(否定の接頭語)・ユース=アビューズ、虐待です。
過去に執着せず、未来の先取り不安に翻弄されず 現在を生きて要約楽は訪れます。
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