Facebook田中 宏明さん投稿記事
世界と一つになった時そこには誰もいません 「あなた」すらもいません
むしろ「あなた」が世界や宇宙と自分を区切っていたからです
わたしとあなた わたしと世界 わたしと宇宙 これがいわゆる 分離と言われる感覚です
僕がいつも話しているのは この「わたし」という 認識こそがあらゆる不足や不安を 生み出しているという変てこな話しなんです
でも簡単に考えてみてください「あなた」がいなければ誰が不足や不安を感じることが出来るのでしょう?ただこれは全くイカれた話しです
「わたし」を創り出している「エゴ」にとっては絶対に信じられない話しです^ ^
それは水中の生き物が 陸に上がって生きようとするようなものです
芋虫が蝶になって 空を飛ぶようなものです 水中にいる魚が 陸に生きることなど
想像出来ません 芋虫が空を飛ぶ ことなど想像出来ません ただそれは 起こります
生命の進化の 自然のプロセスの中で それは実際に 起こって来たことです^ ^
人間にとっての 進化のプロセスの中にも この「エゴ」からの 脱皮があります
水が干上がり 生きる場所を 失いそうになった時 魚は陸に上がる より生き延びる術は
ありません 芋虫はその限られた 葉っぱを食べ終えたなら 蝶になって空を飛び 花の蜜を生きる糧にします 今人類が 迎えているのはまさに そんな状況です
「エゴ」があらゆる 資源を消費し続け 絶え間ない欲望のために 環境を汚染し、身体を汚染し 心を汚染しています
「わたし」が幸せになるために 「わたし」が快楽を得るために 「わたし」が生き延びるために 相手から搾取し 相手の土地を奪い 相手の時間を奪い 相手の平安を奪います
そのためには殺し合いすら 厭うことはありません
そのためには 「社会」という檻を作って 絶え間ない搾取のシステムを 継続し続けます
今世界は疲弊の極みにあります あらゆるシステムが その限界を上げています
いや、システムというよりは そのシステムの中で人間が 悲鳴を上げています
でもこの極みこそが 次の進化を生み出すための「産みの苦しみ」そのもののように思えます
「わたし」から「わたしたち」へ「わたしたち」から「一つ」へ
一つなるものは あらゆる小さな生命から 地球や宇宙までを含んで います^ ^
今人類が迎えているのは ワンネスという意識 への進化です
それは突拍子のない 話しではなく とても自然な 進化のプロセスです
伝説のように 語られる アトランティスや ムー大陸が実在したかは わかりません
ただ仮にかの文明が 崩壊し終わりを迎えた としたら それは意識の変容 つまりは次なる進化に 適応出来なかった結果 なのだと思います
今この世界を 生きる我々にとって これから先も この同じ意識のままの進化発展が可能だと 思っている人がいたら それはこんな精神的な 話しを見ずとも 世界のニュースを
自分の目でつぶさに 見ていくだけで 不可能だとわかります^ ^
それでも わからない人には 人類が「核」を所有している という事実だけで十分です
一度に何百万人を殺すことの出来る兵器を 必要とする とてつもなく未熟な 意識なのです
今我々人類の意識の レベルを認識するために それ以上の物的証拠は ありません
全ては 一人一人の意識の進化に かかっています^ ^
というよりも 一人一人からしか 始めることは出来ません
なぜならあなたが あなたの世界を 創り出しているから あなたが平安なら 世界も平安です そしてそんな 一人一人の平安が 世界の一定の割合に 達した時世界は変わります^ ^
それ以外の変化はありません
では、今日もシャンティな一日を🌈らぶ💓
Facebok斉藤 一治さん投稿記事 「子 」に込められた親の想い
昔の女の子の名前でよく見る「子」という字にはただ単に子供の「子」ではなく、
「一」(はじめ)から「了」(おわり)まで、自分の人生を全うできるようにという意味が込められているそうです。
昔の親たちはきちんと、それを意識して明子さんなら、生涯、明るく過ごせますように、
栄子さんなら、生涯、栄えますように、智恵子さんなら生涯、恵まれますように、
和子さんなら、生涯、和やかに過ごすように、と名前を付けていたのかもしれませんね。
(作者不詳)
Facebook若林俊彦さん投稿記事 この世界はワンネス
つまり全てで一つ 最終的には全てを受け入れて 愛することです
その時あなたは宇宙そのものになっています
この言葉を全ての目覚めた人、ライトワーカー、スターシードに捧げます
お盆ということでお盆にちなんだお話をしましょう 仏教で盂蘭盆教(うらぼんえきょう)の中でのお話です お釈迦様には個性や特色のあるお弟子様が多くいました
その中でも特にお釈迦様の弟子として著名な方達を10大弟子と呼んでます
盂蘭盆教では、その中で神通第一と言われた目連尊者というお弟子様について書かれています 目連尊者は非常に強いサイキック能力、超感覚の持ち主でした
亡くなった母親の現状を確認した時に餓鬼界に堕ちているのが見えたのです
そこで持ち前の神通力を使いお母様を救おうとしたが救えない
それをお釈迦様に相談したところ、母親だけにこだわらず同じ苦しみを持った者たちも救いなさいと言われます
そこで修行者達のお世話をしたところ、その功徳が回向、つまり回り回ってお母様が救われたというお話です
ですから子孫の生きる行いが、その心が重要で先祖供養になるというお話です
そこに日本古来の先祖崇拝などもあって現在のお盆の風習となったようですね
つまりは先祖供養で重要なことは現在を生きる私たちのあり方が重要だとお釈迦様は述べられて教えを垂れたということです でも祖先を祀る風習は素晴らしいと思います
自分が今ここにあること そしてDNAも先祖ありきですね
これは肉体、霊、魂である自分を愛することです
自分を愛すること これはとても大切で素敵なことです
https://fukushima-jinjacho.or.jp/monoshiri/pc/section7.html 【第7章 先祖のまつり】より
日本人は死んだらどこに行くのですか?
一、日本人は死んだらどこに行くの?
日(ひ)の本(もと)に生(あ)れ出(い)でにし益人(ますひと)は 神より出(い)でて神に入(い)るなり (江戸時代の伊勢の神宮の神官 中西直方)
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というこの歌は、日本人の死についての昔からの考え方を明確に表現しています。民俗学の草分けといわれる柳田国男は、著書『先祖の話』のなかで、「日本人の死後の観念(かんねん)、即ち霊(れい)は永久に、この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰(しんこう)が、恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」と述べています。
つまり、日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではないのです。死後、人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。
ここで、日本人の「死」についての観念をもう少し詳しく考えてみましょう。
二、死んだらすぐ神さまになるの?
皆さんのお住まいの近くに、ハヤマ(葉山・羽山・麓山・端山・早山等)とよばれている地名や小高い山・丘はありませんか。古くより、私たち日本人の「霊(みたま)」に対する考え方は、人は死後、はるか彼方(かなた)へと旅立つのではなく、生前に家族と一緒に暮らしていた家を望むことのできる場所、つまり、小高い山、しかも始めは山頂ではなく、麓(ふもと)に近い峰の端(はし)っこ、つまり「端っこの山」=「端山(はやま)」へと往(い)き、歳月とともにしだいに高い山に遷(うつ)っていくと考えてきました。その祖霊(それい)は、子孫の行う「祭(まつ)り」(冠婚葬祭のうちの「祭」で先祖祭りの意味)を受けることにより、歳月とともに浄化(じょうか)され、子孫を守り、家を守る「氏神(うじがみ)」として、またその土地・地域をもお守り下さる「産土(うぶすな)の神」として昂(たかま)っていかれるのです。
三、「神」と「ほとけ」
民俗学の世界では、亡くなってから間がない人や、不慮の事故、異状死を遂げた人は「ほとけ」と呼ばれても決して「かみ」とは呼ばれません。しかし、死の穢(けが)れの清まる期間を経て、(三十三年、地方によっては五十年)弔(とむら)い上げを済ませた「ほとけ」は「かみ」となるのです。「ほとけ」はひとの個性がまだ残っており、この世に未練がありますが、死者から個性が消え、祖霊として一括される神性を獲得すると無条件に子孫を包み込む神と昂(たかま)っていくのです。
ここで重要なのは、人の御霊(みたま)は、歳月の経過によって、浄化されるとともに、家族をはじめ人々からの「まつり」を受けることによってさらに浄化と昇華をし、神格性を持つということです。稲魂(いなだま)を育て、水を配り、子孫の生活を温かく見守る守護神・氏神となるのです。
四、祖霊崇拝(それいすうはい)って、仏教の渡来以前からあるの?
「草葉(くさば)の蔭(かげ)から見守る」という言葉がありますが、ご先祖さまの御霊(みたま)は、常に私たちの身近にいらっしゃって、私たちを見守っています。この祖霊(それい)を慰め、霊威(れいい)が昂(たかま)っていただくために行う「祭(まつ)り」を「先祖まつり」といいます。お盆や春秋のお彼岸の行事などは、今では仏事のように一般には思われていますが、祖霊(それい)をおまつりすることは、もともと仏教にはない我が国の固有(こゆう)の習俗(しゅうぞく)です。
五、お彼岸やお盆はもともと神道の行事なの?
仏教が日本へ伝来したのは六世紀半ば頃といわれていますが、この時に伝わってきた仏教は、インド発祥の本来の性格とは異なり、中国・朝鮮など経由してきた地域の影響を色濃く受けたものでした。その後、我が国の神祇(じんぎ)信仰や祖先祭祀(さいし)の影響を受け、これを取り入れたために、仏教は日本の宗教の一つとして、広範に普及することができました。「彼岸会(ひがんえ)」という言葉は、世界最古の小説ともいわれる「源氏物語」にも見られることから、かなり古くから行われてきた行事と思われますが、実は我が国での「先祖まつり」は、かなり以前から行われていました。古事記・日本書紀にも皇祖(こうそ)の御霊(みたま)をまつった例が見られ、現在でも宮中では、歴代天皇(れきだいてんのう)の霊をまつる行事(春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)・秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)が厳粛に行われています。
このようにお彼岸は、仏教渡来以前からの日本古来の祖霊信仰が深く根づいているのです。「お彼岸」は、今日ではお墓参りをして先祖の供養(くよう)をする日とされています。ところが、こうした行事の意味を知らずに、休日であるからといって結婚式を挙げたり、行楽に出かけたりする方を最近多く見受けますが、このようなことは慎まなければなりません。春・秋の中日は、お墓参(はかまい)りをしてご先祖さまをお慰めし、感謝をする大切な日であることを忘れてはなりません。
六、お盆と正月って同じ行事なの?
お盆(ぼん)の行事は、旧暦七月十五日を中心とする、もともとは祖霊(それい)をおまつりする日本古来の神道の行事で、現在では新暦の八月に行う地方もあります。各家庭のご先祖さまが「精霊(しょうりょう)」として帰ってこられるのをお迎えし、手厚くもてなすために、盆棚(ぼんだな)を飾り、提灯(ちょうちん)をともし、門口に迎え火を焚(た)き、花や手料理を供えて、家族皆でご先祖さまをお慰(なぐさ)めします。盆踊りも精霊をお慰めする行事の一つなのです。ところが、仏教を布教(ふきょう)するため、日本古来の七月の祖霊祭(それいさい)に、仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を結びつけたために、現在では仏事であるかのように思われているのです。
きわめて古い時代の日本では、旧暦の一月十五日と七月十五日ごろの満月を中心として、年に二回、神さまのご来臨(らいりん)を願い、祖霊(それい)の祭りを行っていました。私たちは、大層にぎやかな時、あるいは楽しい時には「盆と正月がいっぺんに来たようだ」などと表現しますが、実は「お正月」は、祖先神(そせんしん)や歳神(としがみ)さまといった「神々」をお迎えして行う「お祭り」であり、一方「お盆」は、祖先神までには昂(たかま)っていない「精霊(しょうりょう)」をお迎えして行う「お祭り」なのです。ともに、感謝と祈りを捧げるための対(つい)をなすお祭りです。それゆえに、お盆の行事とお正月の行事は、ほとんど共通する要素からなっています。
七、仏式の葬儀は死者の慰霊ではないの?
仏壇の飾付を見ますと、中央最上段に本尊仏(ほんぞんぶつ)が安置され、その手前下段に「位牌(いはい)」が置かれています。このことは何を意味しているのでしょうか。仏式葬は、天台宗、真言宗、曹洞宗では「得度式(とくどしき)」を意味しており、日蓮宗では、日蓮聖人の元へ送り出す「引導(いんどう)」が中心となり、浄土真宗では阿弥陀仏の本願力(ほんがんりき)によって、救われることを祈る「勤行(ごんぎょう)」の形式になっています。つまり仏式葬は、仏の教えを聴(き)き学び、仏の徳を称(たた)え、帰依(きえ)して僧侶になるための「出家(しゅっけ)の儀式」なのです。
多くの方は、日々仏壇(ぶつだん)のお釈迦様(しゃかさま)ではなく、ご先祖さまに祈り、お盆やお彼岸にはお墓参りを行います。本 来仏教では現世(げんせ)の煩悩(ぼんのう)から人々を救うことが目的であり、そのためには、現世への執着(しゅうちゃく)を断つことが必要なのですから、極楽(ごくらく)に行ってしまえば、死者の霊の居場所となる仏壇・位牌やお墓は要らないはずです。仏式葬を行われても、ほとんどの方は、死者が仏弟子となって修行に励んでいるとは考えていないでしょう。また、仏壇は死者が仏弟子(ぶつでし)となるための修行の場であり、お墓は死者の記念碑・遺品倉であるとは考えていないでしょう。そこは、死者・祖霊(それい)の鎮まる「神聖(しんせい)な所」と考えるのが日本人の素直な感情なのです。死者の霊・祖霊(それい)は、私たちの生活する場の近くにとどまり、お盆には毎年、家に帰って来られると信ずるからこそ、盆棚(ぼんだな)を作り、迎え火(むかえび)を焚(た)いてお盆の行事を行うのです。
お盆の心とは、亡くなられた方の霊、ご先祖の霊が、心おだやかに鎮(しず)まられるように慰霊を行い、先祖(せんぞ)の霊に感謝の誠を捧げ、家や家族をお守り下さるよう祈ることでありましょう。この心こそは、まさに日本固有の神道の「祖先崇拝」の考え方なのです。
コラム
私たちは「いのち」をつなぐリレー選手
近年、若者の心の乱れと、それによって引き起こされる、悲惨で凶悪な事件が大きな社会問題となっています。
若者に、心のなかに崇高(すうこう)な理想をえがき、人生を充実させながら社会で立派に活躍して、美(うる)わしい幸せな家庭を築いていただくために、私たちに課せられた責任には大きなものがあります。
日本人は遠い昔から、神さま、ご先祖(せんぞ)さまを敬い、感謝をする心を大切にしてきました。平穏な生活に感謝をしたり、日々の出来事を報告するなど、神棚(かみだな)や祖霊舎(みたまや、仏壇)に頭(こうべ)を垂れ、手を合わすことは、ごく自然な感情であり清らかな心のあらわれでもあります。 このような「敬神崇祖(けいしんすうそ)」の心をもって、神社のお祭りを守り伝え、あるいはお墓参りやご先祖の祭りを行ってきましたが、お祭りを行う大きな意義とは「感謝(かんしゃ)と慰霊(いれい)」の誠を捧(ささ)げることで神さまやご先祖さまと、自分との間の命の繋(つな)がりを確認し、家族の絆(きずな)を深めていくことにあります。
親を通じて、遠いご先祖さまからの命を継承している私たちは、また社会的存在として決して一人で生きているのではありません。自分を取り巻く、家族や地域の人々とのいろいろな関係のもとに日々の生活を送っているのです。
古来、日本人は家族や地域の共同体の「和」を大切にし、名誉を重んじてきました。何気無い不用意な自分の行為が、家族や地域の人の和を損(そこ)なわないように、自分を律(りつ)する自制心を高めるために、常に身を修(おさ)め、家を斉(ととの)えてきたのです。
近年は個人主義の考え方が非常に強くなり、遠いご先祖から続いてきた家の意識や家族や親族の絆(きずな)の意識が希薄になってきています。その結果、自分さえよければ、他人の苦しみや痛みをまったく無視するような風潮さえ生じてきました。被害者と加害者の間に、なんの関係も見られない殺傷行為や、社会に対する犯罪の多発傾向は、まさにこのことを証明しているように思えます。
また、経済優先・物質万能主義による現代人の生活形態は、限りある界観天然資源を枯渇(こかつ)させ、環境を破壊させて止どまる所を知りません。
日本人は、「人もまた、自然の一部である。」という世界観(せかいかん)のもとに、自然に優しく抱かれながら、山川草木はもとより、すべての生きとし生けるものと共に、生活をしてきたのです。
人の心に自制心を回復し、共生の思想の重要性に気付くために、いま「お祭り」の効果に大きな期待がよせられています。
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【命】
和多志たち人間は 一人一人ユニークで独自な存在のように見えながら 相互作用、相互依存する 関係存在です。
細胞から構成される人体は 元素によってできています。宇宙の全てと 回転体として 相似形です。 そのことは 全ての存在は 遠心力・求心力のバランスであるエネルギー(波動)であることを示します。波動干渉、波動共鳴しながら全てが存在するとも言えます。
命の循環
命の営みそのものは 代謝機能を持ち、元素のやり取りを常に行っています。それは全てが循環することを示します。
循環しあうということは この和多志は吾であり・宇宙全体であり、実であり・虚であり、有であり・無であり、二元であり・一元であるという意味です。
タオの概念に沿うと この和多志は陽と陰 光と水、遠心力と求心力、義と愛、男性性と女性性、西洋と東洋、左脳と右脳、分析と和合etc.の調和、バランス として存在するということです。
命という字は人が一を叩くとかきます。
和多志は一を求める歩み、真実の一に出会う歩み、命の歩みを 歩み続けてきました。
それは調和・バランス 統合・止揚を志向する歩みとも言えます。
みなみ心理健康オフィスはこのような真実の一との出会いを援助する働きをしたいと願っています。潜在意識と顕在意識が一つになること、吾であり、宇宙である実感を体験していただくこととも言いかえることができます。
心理学的には A・マズローの提唱したトランスパーソナル心理学の立場に立っての活動をしています。
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