言葉を超えた俳句の普遍性

https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/jugyou/003-05-01.html 【三章 俳句】より

夏三句

a 白牡丹といふといへども紅ほのか  高浜虚子

①「といふといへども」――表現に寄り添う

 この句の発見は、「白牡丹」という大ぶりで華やかな初夏の白い花に紅色を見て取ったということです。しかし単なる紅色の発見ならば、「白牡丹ほのかに紅の差しにけり」ぐらいでもいいのかもしれません。なぜ、「といふといへども」という回りくどい言い回しの表現になるのでしょうか。ここにこの句のヒミツがあるのです。

 一見すれば意味のなさそうなこの表現には、作者の紅色の発見の過程が表れているのです。白牡丹の美しさに目を惹かれ花に見入れば、ちょっと待てよ、白牡丹といいながら何か他の色味がほのかに差している。そしてさらに目を凝らして見入った時に発見したのが「紅」なのです。その発見の時間的な経過、それまでの心情の流れが「といふといへども」というのらりくらりとした手探り感に表れているわけです。そして、白牡丹の白を引き立て、その美しさを引き出しているヒミツの答えがほのかにさす紅色であるという発見・驚きが、下五の「紅ほのか」に表れているのです。

 俳句は十七音の短詩ですが、俳句の実作の時にはその十七音が長いと感じることがあるようです。極端な例ですが、「青空に白球の飛ぶ甲子園」という句を添削する場合、「甲子園」には、「白球」も「青空」も「飛ぶ」さえもイメージとして含まれていますから、それらに朱を入れ再考を促すわけです。生徒は自分の句が朱だらけで「甲子園」しか残っていないのに驚きます。そこで表現の難しさと厳密さ、深さを実感し、十七音は長いという思いに至るわけです。一語一語がいかに意味のある大事なものであるかということに気づくとき、この句の場合の「といふといへども」という素っ気ない言い回しの背後にある作者の工夫に思い至るようになるのです。

②「紅(こう)ほのか」――対比を押さえる。

 「牡丹(ぼたん)」は漢名です。したがって「白牡丹」もそれに倣って「はくぼたん」と音で読みます。ですから「紅」も「白(はく)」との関連で「こう」と読むわけです。この紅白の対比も虚子が白牡丹に発見したものです。

 俳句の作句法に「取り合わせ」があります。一見無関係と見えるものを取り合わせることでそこに新たな関係を「発見」するのですが、十七音という限られた短詩ですから、その組み合わせの関係は詳述されないため、俳句の鑑賞はそう簡単ではありません。

玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり   中村草田男

 昭和八年、作者三十三歳の句です。なぜ「玫瑰」が「今も沖には未来あり」という感慨や発見をもたらしたのでしょうか。これがこの句の取り合わせのヒミツです。難解な句ですが、取り合わせの句の多くが対比の発見に基づいているということを知っていればそれが糸口になります。

 「玫瑰」は、浜辺に自生する野生のばらで、茄子のような実をつけるので「ハマナス」といいます。玫瑰は、故郷の浜辺や、その赤い実を食した子ども時代の思い出を喚起するのでしょう、それには郷愁が寄り添います。つまり、玫瑰による郷愁と対比されて「今」がより意識され、一つの発見が生まれるということなのです。玫瑰を見て、昔日に沖を見て抱いた未来への熱い思いを回想しながら、今、沖を見て未来への思いを新たにしている自分を発見しているのです。またこの取り合わせには、玫瑰の咲く「浜」と「沖」、近景と遠景の対比も生まれています。このような時間的な対比、空間的な対比に心情が寄り添うことで、短詩形の俳句が奥行きあるものになっているのです。

 この「白牡丹」の句の場合は色彩の対比です。白牡丹というぐらいだから白一色と思っていたら、そこには反対色の紅があったという驚きなのです。つまり、「白」が白として美しく艶やかなのは、そこに対照的な「紅」があるという発見なのです。そういう意味でも「こうはく」という読みが対比を際立たせることになるのです。俳人の鷹羽狩行氏などは、この対比をより意識的に「対立」とし、そこに緊張関係を見て取っています。氏の「摩天楼より新緑がパセリほど」では対比の発見が即俳句になっているのがわかります。俳句の鑑賞のみならず、実作指導としても「対比」「対立」の発見は有効な方法だと思います。

b 万緑の中や吾子の歯生え初むる  中村草田男

①「万緑の中や」――「取り合わせ」を押さえる

 「万緑」という季語を定着させた有名な句です。なぜ「万緑や」と上五で切らずに、中七途中の中途半端な「万緑の中や」なのでしょうか。これがこの句のヒミツです。

 まず作者の位置を考えていくと、「万緑や」では滴る新緑溢れる光景を前にした印象が出てきます。しかし「万緑の中や」になると、はっきりと新緑に囲まれていることがわかります。「万緑」という季語にもそういうニュアンスはあるのですが、やはり新緑に囲まれているということを強調し、「吾子の歯生え初むる」と取り合わせようとしているのです。

 取り合わせの句には「対比」があることが多いことを先述しましたが、この句もそうです。空間的には「万緑の大自然」と「子ども」、色彩的には「万緑」と「歯の白さ」が対比されています。大自然の緑と小さな子どもの口元からのぞく汚れのない白い小さな歯。子どもは力一杯泣いているのかもしれません。それとも笑っているのでしょうか。自然の生命力あふれる「万緑」に囲まれたとき、その自然の生命力に引き出されたように子どもの「歯」が生えたのです。それは偶然なのでしょうが、我が子が自然と一体になったような感動、我が子が大自然に祝福を受けたような喜びがそこにはあります。それが対比的に描かれることで印象を鮮明にしているのです。

 また、「万緑や」に比べ、「万緑の中や」は五七調ではなく、かなり散文的です。「松島やああ松島や松島や」というように五七五の調べにのせれば何でも俳句的に響くのですが、それが逆に俳句を通俗的なものにし、句の本質を見誤らせていることがあります。この句は「万緑の中」の強調によって散文的になることにより、五七調の持つ通俗性から脱し、斬新な内容にふさわしい、新しい響きを獲得しているといえるのです。とはいえ、切れ字を用いているところに、やはり散文ではなく、韻文としての俳句へのこだわりが見えます。

②「吾子」――特殊から普遍へ

 散文的な調べとともに、この句には俳句的でない特徴がもう一つあります。「吾子」という表現です。俳句では「吾子」という表現はそれほど一般的とは言えないのです。例えば、我が子を扱った中村汀女の「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」「咳をする母を見上げてゐる子かな」も「吾子」ではありません。俳句においては、視点は常に「自分」にあることが前提ですから、「子」は「我が子」を指すのは当然であり、あえて「吾子」とするのは短詩形にとっては無駄であり、蛇足でもあるのです。それでもなぜ「吾子」なのでしょうか。これがこの句の二つ目のヒミツです。

 草田男は人間探求派といわれています。昭和十年代という安穏としてはいられないような時勢もあったのでしょう、伝統的な花鳥風月を対象とするホトトギス派への反発もあり、社会や作者自身の境涯を句の対象とします。そこには、人間に焦点を当てることでその背景である社会を描くという意図もあったのでしょうが、特に作者自身の境涯を探求することで、社会や人間の本質に迫ろうとしたのです。徹底的な個人への探求こそが普遍性をもたらすという逆説がそこにあります。短詩形という制約を持った俳句が普遍性を獲得するためには、逆に個人の探求を通じて人間の本質を描き出す必要があるということなのです。

 この句の場合も、作者の実感はまさに我が子に起こったことに根ざしています。この奇跡のような自然との一体感、自然からの祝福は、自分の子どもに起きたことだからこそ手放しに嬉しいのです。自分の実感に忠実であろうとすれば「吾子」になるというわけです。個人という特殊に起きたことを追求すれば、すべての人に共通する普遍に到達するという思いが「吾子」という語に集約されているのです。

c 子を殴ちしながき一瞬天の蟬  秋元不死男

①「ながき一瞬」――実感から表現へ

 「ながき一瞬」という矛盾した表現(これも「対比」です)が、この句のヒミツです。誰にも「一瞬」がとても長く感じられるような経験はあります。この句は、読む者にそのような経験を思い起こさせてくれます。しかし、いざこのような感覚を自分の言葉で説明しようとすると簡単なことではありません。なぜ「一瞬」が長いのでしょう。「一瞬が長く続いたから」という発想では説明がつきません。それでは「一瞬」ではないからです。生徒は思っていることが十分に表現できずに思い悩みます。これが「表現」の一歩なのです。そしてこの句のヒミツは、この表現にあるのです。

 句に寄り添って考えましょう。これは父親が子どもに手を挙げた瞬間です。子どもへの愛情によるものなのでしょうが、感情的になって子どもに手を挙げてしまって、頭が真っ白になった瞬間なのです。「しまった、やってしまった。」という思いでいっぱいになり、思考停止に陥った瞬間を、まるで時間が停止してしまったように感じているのです。瞬間が長いというより、その瞬間に時間が停止したということなのでしょうが、その心理的な時間を、対比的に「ながき一瞬」と表現しているのです。説明より先に実感として伝わる力のある印象的な表現ですね。自分の表現に思い悩んだ末、このような表現に出会ったとき、生徒は言葉の奥行きの深さを改めて思い知り、自らの表現の幅を広げる契機となり得るのです。

②「天の蟬」――二物衝撃

 草田男などの人間探求派は、伝統的な季語に寄りかかり花鳥風月を詠むだけにとどまらず、「二物衝撃」という作句法を追求しました。前述した「取り合わせ」なのですが、「切れ」を活かして二つのものを対比させ、そこから生まれる従来の季語にはない象徴的な意味を主題と関係づけ、俳句の世界を広げようという試みなのです。

 不死男は人間探求派ではありませんが、この句もまた二物衝撃法に基づいています。「蟬」については、従来の季語の背景からは「天」というニュアンスは感じられません。「天の蟬」は「子を殴ちしながき一瞬」と対比されて初めて感得されるものなのです。したがって、「ながき一瞬」の後の「切れ」は、時間が停止した瞬間という意味でも、二物の間に衝撃を与えるという意味でも非常に効果的だといえます。

 ではなぜ「天の蟬」なのでしょうか。

 「子を殴ちしながき一瞬」は、思わず子どもに手を挙げてしまったときの後悔、自責の念、思考停止の瞬間です。感情は高ぶってはいるのですが、そういう自分を冷静に見ている自分がいる。それまでは大声で言い争っていたかもしれませんね。殴った時の音を境に訪れる静寂。蟬の鳴き声は、この静寂とも対比されています。思考停止した長い静寂の空間に、頭に響き渡るのが蟬の鳴き声なのです。自分の非を知っているのは自分だけです。その自分を責めるかのように鳴く蟬は「天」からのもののようだと感じているのです。「天」と「自分(人間)」が対比されているわけです。殴った親も殴られた子どもも動こうにも動けない時間が止まった夏の日、ただ鳴り響く蟬の声をともなってその情景が鮮やかに浮かんできます。

 この句は教室では人気のある句です。「ながき一瞬」や「天の蟬」という表現は生徒の実感に寄り添いやすく、わかりやすいからです。そういう意味では二物衝撃といいながらも少し説明的な句でもあるといえます。教材のヒミツを考えるのが私の授業スタイルでもありますから、例えば「子を殴ちしながき一瞬蟬の声」ぐらいで、「子を殴ちし一瞬」と「蟬の声」の二物衝撃から、蟬の声を天からのものだということを生徒に発見させたいと思ってしまいます。芭蕉に「謂ひおほせて何かある。」(去来抄)という言葉がありますが、言い尽くさない表現の背後にあるものが一つのヒミツとなり得るわけですから、この句は「天」という断定に作者の心情が出過ぎて入るようにも私には見えてしまいます。まあそれも自分の授業スタイルに引きつけすぎた、無い物ねだりなのかもしれません。


https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202206/202206_12_jp.html 【小林一茶:弱い者に寄り添う俳人】より

「やれ打つな蝿が手をすり足をする」の句と人物(自画像)を一茶が自筆で書いた扇面

国の史跡に指定されている、一茶が最期を迎えた土蔵

1990年、長野県信濃町に建立された一茶の銅像。一茶を慕う地元の人々によって、一茶の一族の墓の近くに1910年に建立された俳諧寺(はいかいじ)の前に立つ。

一茶の門人の村松春甫(むらまつ しゅんぽ。1772-1858年)が描いた小林一茶の肖像画(一茶記念館所蔵)

厳しい境遇の中、平易な表現を使い、ユーモアのある俳句を数多く残した小林一茶(こばやし いっさ。1763-1828年)を紹介する。

1763年、現在の長野県信濃町の農家に生まれた小林一茶 (以下、「一茶」)は、1828年に65歳*で亡くなるまで、およそ2万句以上もの俳句を作ったといわれる。

一茶は、3歳で母親を亡くし、8歳で新たに迎えた継母にはなじめなかったという。15歳で江戸(現在の東京)へ奉公に出された後、奉公先を転々としながら、20歳を過ぎた頃から俳句の道を志すようになった。俳句修行の旅や俳人との交流を重ねた。一茶が52歳の時、28歳の妻を迎え、4人の子どもに恵まれたものの、いずれの子も幼くして病で亡くなり、妻も37歳で亡くなってしまう。最晩年の1827年には火災で住んでいた母屋を失い、焼け残った土蔵で、その年、65年の生涯を終えた。こうした体験が、一茶の創作に少なからず影響を及ぼしているものと想像される。

一茶の故郷である信濃町に建つ「一茶記念館」学芸員の渡辺洋さんは、「一茶は、常に弱き者、小さき者の視点に立って創作をした俳人だった」と言う。

「一茶自身の身に降りかかった数々の苦難、俳句における才能が認められながらも裕福な暮らしとは無縁の生涯を送ったことなどが作品の背景にあることは確かです。しかし、それらを悲壮感のある表現ではなく、むしろユーモアの感覚を持って描いている点に一茶らしさがあるといえます。後年、近代俳句を確立した俳人の正岡子規(1867-1902年)は、一茶の句の特徴は主に『滑稽・風刺・慈愛』の3点にあると評しています。また、客観的な風景描写に自分の気持ちを託すような作句手法が主流だった当時の俳句の世界において、自我を直接的に表現する独特の作風が異彩を放っています」

生きる上で誰もが感じるであろう喜びや悲しみ、あるいは苦難。一茶はそれらを誰にでも分かる平易な表現で俳句にした。そのことで、一茶の句には、時代や生活環境の違いを超えた普遍性を備えたものとなった。それが、一茶の句が今も多くの人々に愛されている理由と言えるだろう。

* 年齢は全て、伝統的な「数え年」での年齢。生まれた時を1歳として、1月1日を迎える毎に1歳ずつ加える。

やせ蛙まけるな一茶これにあり

1816年、一茶54歳の作。季語は「蛙」で春の句。一茶の中で最も有名な句である。2匹の雄の蛙が1匹の雌を巡って格闘する様子を見た一茶が、弱い痩せた蛙を応援して詠んでいる。一茶の弱い者の側に寄り添う視点がよく表現された句だが、この蛙は一茶自身の姿のようでもある。また、一茶は、この年、長男を幼くして亡くしている。長男を悼む気持ちが、やせ蛙への応援につながっているようにも読み取れる。

やれ打つな蠅(はえ)が手をすり足をする

1820年、一茶58歳の作。季語は「蠅」で夏の句。「おい、殺すな。蠅が手を摺(す)り、足を摺り合わせて命乞いしているじゃないか」という意味のユーモラスな句である。蠅のような小さな生き物にも命があり、むやみに殺すべきではないと言っているが、命が惜しいと祈るかのような蠅の姿は老境に差し掛かった一茶自身の心情を託しているとも読み取れる。

名月をとつてくれろと泣く子かな

1813年、一茶51歳の作。季語は「名月」で秋の句。「空に輝くあのきれいな月を取ってほしい」とせがんで泣く子どもの姿を詠んでいるが、この時、一茶にはまだ子どもはいなかったため、熱を出して起きることができない一茶自身の姿を泣く子どもに託したものとされている。子どもと子どもを持つ親なら、世界共通で理解できる光景だろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000