https://voice.php.co.jp/detail/6531 【深まる「米中冷戦」、日本生存のヒントは地政学にある】より
#茂木誠 2022年03月02日 更新
茂木誠
<<米中覇権争いが本格化する中、日本は中国、韓国、北朝鮮とどう対峙すればよいのか?
人気世界史予備校講師の茂木誠氏が上梓した『日本人が知るべき東アジアの地政学』(悟空出版)では、欧米のエリート層が学ぶ『地政学(地理+歴史+イデオロギー)』を武器に、日々のニュースだけでは見えてこない国際情勢の本質を読み解く。本稿ではその一節を紹介する。>>
※本稿は『日本人が知るべき東アジアの地政学』(悟空出版)より一部抜粋・編集したものです。
地政学でなぜ国際情勢がわかるのか
明治維新以降、日本は清、ロシア、中華民国、そして米英をはじめとする連合国と戦争してきました。戦後は西側陣営の一員として米ソ冷戦を「戦い」、これに打ち勝ちました。
日本とドイツの敗戦で平和な世界がやってきたのかというと、現実はまったくそうではありません。
9・11同時多発テロ事件やアフガニスタン派兵、イラク戦争、対IS作戦に代表される「対テロ戦争」が続き、ロシアやイランが中東に勢力を拡大しています。
東アジアでも、北朝鮮による核・ミサイル開発、韓国では親北朝鮮派の文在寅政権の誕生、そして中国の覇権国家化に対する米中貿易戦争が火ぶたを切り、「米中冷戦」とも言える状況になってきました。
長い目で見れば、国家間の対立は切れ目なく続いているのです。
地政学ではそもそも、対立が起きることを当然と考えます。国家も民族も宗教も、人間という生き物が集まった集団であり、生き物の根本的な行動原理は「生存競争」だからです。
深く考えるまでもなく、生命をつなぐためには獲物をとって食べなければなりませんし、作物を育てるには水資源や肥沃な土地が必要になります。周囲に自分の行動を邪魔し、縄張りを侵害する集団がいれば敵視し、排除することが当然のこととなります。
こうした流れを国家に当てはめ、生命体のように考えるのが、「国家有機体説」なのです。古くは古代ギリシアの哲学者プラトンが唱え、19世紀のドイツ統一期に主流となった国家観です。
明治日本はドイツ憲法学を導入しましたから、大日本帝国憲法の解釈にも国家有機体説が採用されました。これが美濃部達吉博士の「天皇機関説」なのです。
人間が生きている以上、集団や国家が生まれ、近くにいる集団や国家同士には軋轢が生じるのは当たり前、というのが国家有機体説から導かれる結論です。
地政学では、この原則に「地形」という要素が加わります。ある集団が占拠している場所が、敵対勢力から見て地続きなのか、川や山を挟んでいるのか、海を隔てているのかなど、さまざまなケースが考えられます。
同じような地理的条件であれば、たとえ民族が異なっていようと、同じような行動パターンをすることが多くなります。
日本人はなぜ地政学に疎いのか?
この原則を踏まえると、日本が歴史的に地政学から遠ざかっていた理由もわかるのではないでしょうか。
6~7世紀に隋・唐から軍事的圧迫を受けたヤマト政権は、「敵に学べ」と律令国家となり、その後、国内での内戦は何度かあったものの、外国勢力との戦いは11世紀初頭の「刀伊の入寇」、13世紀後半の元による日本遠征「文永・弘安の役/元寇」や、16世紀末の豊臣政権による朝鮮出兵「文禄・慶長の役、朝鮮側では壬申・丁酉の倭乱」など、ごく限られてきました。
幕末の開国以降、日本は欧米列強との熾烈な勢力争いに挑み、地政学も積極的に学びましたが、残念ながら米国との戦争に大敗しました。敗戦後はその反動からか、地政学をタブー視する風潮が広がりました。
戦後日本の歴史学者のなかには、アイデアリズムを信奉し、日本が敗北した理由は「理想が間違っていたから」と決めつけたがる人もいます。これは裏を返せば、「正しい理想を持っていれば戦争には負けない/戦争は起きない」ということになります。
ただ、その考え自体が単なるアイデアにすぎないことは、最近の中国や朝鮮半島の行動が如実に物語っています。
同時に、現在の日本が仮に中国や朝鮮半島よりいくら「倫理的に正しい行動」をとっても、生存競争に勝てる保証はないことを示しています。かつての敗戦の理由を探り、今後どのような戦略をとるべきかは、リアリズムに基づいて追求されなければなりません。地政学はその助けになります。
https://www.youtube.com/watch?v=KD9DGcI6t9Ihttps://www.youtube.com/watch?v=doxkKFvyP5c
https://www.youtube.com/watch?v=5libvZTXiwM
https://www.japt.org/abc/country/detail/id=2429 【アゼルバイジャン】より
アゼルバイジャンの首都バクーは中東湾岸国が産油国として今の地位を占める以前からの古い石油の街です。中央アジアと言ってもいろいろな人種が混在しており、アゼルバイジャン人はトルコ、中東系の人々とよく似ています。歩道の脇はカスピ海の波打際。
アゼルバイジャン
バクーの中心部分はソ連邦時代の現代風建築物が並んでいますが、少し外れの旧市街は昔の趣を残しています。
アゼルバイジャン
旧市街にある遺跡で昔の浴場跡だそうです。日本の銭湯というより西のトルコにあるものを思い浮かべればよいのでしょうか。バクーの昔の風景が偲ばれます。
アゼルバイジャン
バクー旧市街は狭い路地が入り組んでいて車社会には馴染めそうも無い所です。
アゼルバイジャン
バクーとは「風の街」の意味だそうで、その名の通りカスピ海西側のコーカサス地方から海に向けて常に強風が吹いています。高台から眺めたバクーは未だ旧ソ連時代の古ぼけた街並みですが、眼前のカスピ海に世界中の石油会社が注目する今後は、どのように変貌してゆくでしょうか。
アゼルバイジャン
アゼルバイジャンの南にあるイランはペルシャ絨毯で有名ですが、この国も絨毯はお土産の目玉の一つです。旧市街の観光客が通る道端にはこのような絨毯屋が店を出しています。興味の眼を向けるとそそくさと何枚か広げてくれるのは何処の絨毯屋も同じです。
アゼルバイジャン
バクーから車で小高い丘に登ると「燃える山」があります。天然ガスが地中からしみ出しているのですが、確かにこの地には資源が眠っているのがわかります。この場所の管理人に「いつから燃えているの?」と由来を尋ねた所、「私が来た時には既に燃えていた」との返事でした。
アゼルバイジャン
バクー旧市街の中心にある古城で観光スポットにもなっています。当時の装飾用壁板?が雑然と並べてありますがこれも展示の一部です。
アゼルバイジャン
誰しも世界史の時間で一度は耳にしたことがあるでしょうが、ゾロアスター教(拝火教)の寺院がバクー郊外にあり、今も御神体である火が灯っています。ひっそりと訪れる人も見られませんがガイドの人がいます。もちろん言葉は通じません。
アゼルバイジャン
拝火教寺院には火を取り囲むように小部屋が連なっており、この暗い石作り部屋から御神体の炎を臨むことができます。そこで信者は祈りか瞑想に沈みます。石油開発の喧騒もここでは無縁です。
素材提供:石油公団
https://globe.asahi.com/article/12335708 【石油が枯渇してもアゼルバイジャンは生き残れるか? 転機を迎える「第二のドバイ」】より
アゼルバイジャンの首都バクーの独特の景観。左手前にあるのが絨毯博物館で、右奥に見えるのが「炎のタワー」(撮影:服部倫卓)
岐路に立つ産油国
旧ソ連諸国の中で、つい最近まで最も羽振りが良かったのが、アゼルバイジャンでしょう。南コーカサス地方の一角を占め、ロシア、ジョージア、アルメニア、イランと国境を接し、また世界最大の湖として知られるカスピ海に面した国です。2000年代、アゼルバイジャン経済はカスピ海沖の石油ガス開発で急成長を遂げ、首都バクーはバブル景気に沸き、「第二のドバイ」などともてはやされました。
しかし、アゼルバイジャンでは早くも2010年に石油生産がピークを迎え、その後は減産フェーズに入っています。石油資源が枯渇に向かう中で、今後アゼルバイジャンは生き残っていけるでしょうか?
アゼルバイジャンの首都バクー郊外に残るノーベル兄弟の館(撮影:服部倫卓)
ノーベル兄弟も活躍した伝統的産油国
石油は19世紀半ばに本格的な採掘が始まりましたが、今日のアゼルバイジャン共和国の首都であるバクー近郊に設けられたのが、世界初の油井だったと言われています。一獲千金を狙う資本家が世界中からこの地に集まり、ロスチャイルド家やノーベル兄弟が石油覇権をめぐり争いました。20世紀初頭には世界の石油生産の半分がバクー油田に集中していたというのは、有名な話です。
バクーの郊外には、当時ノーベル兄弟が拠点としていた館が残っています(上掲写真参照)。1878年、スウェーデン出身のアルフレッド・ノーベルは兄弟のルドビグ、ロベルトとともに帝政ロシア・アゼルバイジャンのバクーで「ノーベル兄弟石油会社(ブラノーベル社)」を設立し、当地の石油開発に多大な貢献を果たしました。アルフレッド自身は1896年に63歳で亡くなったものの、同社は1920年にボリシェビキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続しました。なお、1901年にノーベル賞が創設された際に、その資金の12%はアルフレッドのブラノーベル社の持ち株からもたらされたということです。
社会主義体制下にあっても、バクー油田はソ連の石油生産の大半を占めていました。ナチス・ドイツが第二次大戦時にソ連南部コーカサス地方に侵攻したのも、バクー油田を奪うことが目的だったとされます。ただ、バクー油田は長年にわたる操業がたたり1960年代に減産に転じ、ソ連の石油生産の主役はロシアのボルガ・ウラル油田、さらには西シベリアに取って代わられました。ちなみに、ロシアではボルガ・ウラル油田が「第二バクー」、西シベリアが「第三バクー」などと呼ばれますので、それだけ「バクー=元祖大油田」というイメージが根強いということでしょう。
現代のアゼルバイジャンで主要宗教はイスラム教シーア派だが、バクー郊外にはこのようなゾロアスター教(拝火教)の寺院跡も残る(撮影:服部倫卓)
「世紀の契約」で大躍進
産油国として斜陽化していたアゼルバイジャンでしたが、1991年暮れにソ連邦崩壊に伴い独立を果たすと、新たな飛躍を遂げるようになります。資源が底をついていた陸上のバクー油田に代わり、ソ連時代は技術的に困難だったカスピ海沖の油田開発を、外資を導入して実現したのです。1994年に当時のヘイダル・アリエフ大統領の下、アゼリ・チラグ・グナシリ(ACG)油田を開発する契約が国際コンソーシアム(AIOC)との間で締結され、その大きなインパクトから「世紀の契約」と呼ばれました。また、その石油は2006年に操業を開始したバクー~トビリシ~ジェイハン(BTC)パイプラインを通じてトルコ経由・地中海方面に輸送されるようになりました。
かくして、アゼルバイジャンはこの地域において、ロシアの代替となる石油供給国であり(量はロシアには及びませんが)、なおかつBTCパイプラインによりロシア領を通らずに欧州方面への供給が可能になるということで、国際的にもてはやされることになったわけです。当国はヘイダル・アリエフ大統領による強権政治で知られ、2003年にヘイダルが死去するとその息子イルハム・アリエフが大統領に就任しましたが、あからさまな政権世襲にもかかわらず、欧米各国政府はアゼルバイジャンを好意的に扱ってきました。
もともと経済や人口の規模が大きくないアゼルバイジャンにとって、カスピ海油田の開発による経済効果は絶大でした。ACG油田で生産が始まった2005年は国内総生産(GDP)の成長率が28.0%に達し、2006年にはさらに伸びて34.5%、2007年も25.5%を記録しました。アゼルバイジャン政府は、同国のGDPが過去15年間で3.3倍になり、これは世界でトップの成長率だったと強調しています。
潤沢なオイルマネーは、運輸等のインフラ整備や、都市部の不動産開発などに投下されました。首都バクーには奇抜な巨大建造物が多数出現し、「第二のドバイ」などと呼び称されるようになります(冒頭の写真参照)。
また、アゼルバイジャンは国際的な文化・スポーツイベントを次々と誘致し、それらにも惜しげなく資金を投じました。代表的なものとしては、2012年のユーロビジョン・ソングコンテスト、2015年のヨーロッパ大会(欧州版のオリンピック)、2016年以降毎年開催されているF1レースなどが挙げられます。結局落選はしましたが、2025年の国際万博誘致ではバクーが日本の大阪、ロシアのエカテリンブルグと最後まで争いました。
一転して低成長国に
しかし、アゼルバイジャンの石油生産は、ACG油田稼働からわずか数年でピークに達し、それ以降は減産フェーズに入っています。最盛期の2010年には生産が日量100万バレルを超えていましたけれど、2018年には79万バレルに低下し、2019年も78万バレルと予想されています(上のグラフ参照)。アゼルバイジャン石油生産の今後の長期的な見通しについては、微減に留まるという見方もありますが、今後15~20年ほどで資源が急激に枯渇に向かうという指摘もあり、将来的な不安は拭えません。
なお、石油が減産を辿る中で、グラフに見るとおり、ここに来て天然ガスの産出が伸びていることは好材料でしょう。アゼルバイジャンのシャフ・デニズ・ガス田からジョージアを経由してトルコまで伸びるTANAPパイプラインが2018年に開通したことが効果を発揮しています。ガス分野はまだしばらく活況が続くと見られます。
いずれにしても、石油が減産に転じ、2015年以降は油価下落のダメージも加わって、アゼルバイジャンでは低成長が続いています。同国では、輸出の9割ほどが石油・ガスであり、国家歳入でも石油・ガスに由来する収入が4分の3を占めていると言われますので、無理もありません。2000年代には旧ソ連地域の中で成長リーダーだったアゼルバイジャンが、2018年の成長率はわずか1.4%に留まっており、一転して旧ソ連地域で最も成長率の低い国になってしまいました。
産業多角化の成否
一般に産油国というのは、将来的な石油の枯渇を見越し、余裕があるうちに石油以外の産業を育成し、経済の多角化を図ろうとするものです。かつての中東諸国がそうでしたし、現在のロシアなども然りです。アゼルバイジャンも、製造業のテコ入れや、外資の導入などを進め、石油への依存度を軽減しようとしています。
しかし、経済多角化は思うように進んでいません。統計によれば、アゼルバイジャンの非石油部門の成長率は、2015年:1.0%、2016年:マイナス5.0%、2017年:2.8%、2018年:2.1%と推移しているということです。ここ2年ほどは一応、非石油部門の成長が石油部門のそれを上回っていますけれど、経済全体を牽引するほどの力強さは見て取れません。
アゼルバイジャンの石油以外の産業で期待されているものに、農業、食品産業、軽工業といった伝統的な部門がありますが、石油ブームの時代に通貨マナトが増価し、結果としてこれらの産業の国際競争力が低下しました。産油国でよく見られる「オランダ病」という現象が、アゼルバイジャンでも起きたわけです。
また、石油価格が底だった2016年に、非石油部門も5.0%のマイナスを記録している点が、憂慮されます。これは、アゼルバイジャンにおいては、石油部門がドナーとなっており、同部門の収益が他部門に(主に政治的な裁量によって)投資されるという構図があるからだと考えられます。むろん、石油部門が他部門にとっての需要を創出するという側面もあるでしょう。石油部門が衰退しても大丈夫なように他部門を育成したいのに、実際には石油がつまずくと他部門もつまずくという、悩ましい状況にあるわけです。
そうした中で、アゼルバイジャンが活路を見出すとしたら、サービス部門、とりわけ輸送部門のポテンシャルなのではないでしょうか。アゼルバイジャンは古代のシルクロードの時代から交易路として栄えた土地柄であり、その伝統を継承するかのように、現代でも東西および南北の物流ルートが交錯する要衝であると自任しています。近年ではオイルマネーをつぎ込んで高速道路、空港、港湾を積極的に建設してきましたし、「鉄のシルクロード」ことバクー~トビリシ~カルス鉄道も2017年に開業しました。製造業育成は現在のところ苦戦していますが、同国の輸送路としての優位性と組み合わせれば、より可能性が広がるかもしれません。
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