https://www.youtube.com/watch?v=8y2o7glcciM
http://intsct.com/ja/archives/1180 【近代身体とその表象をめぐって】より
2014.01.30 (thu)講師:相川宏 文芸学/日本大学芸術学部芸術教養課程教授
■講座概要
文明開化この方、われわれに自明として慣れ親しまれた身体表象は、ひとつの歴史的起源を持っている。その起源は、近代の知の展開を開始する画期に位置づけられる。その画期とは、いうまでもなく、コギトの誕生時にほかならない。
デカルトの仮借無き「方法的懐疑」によって、ついに疑い得ぬ知の拠点としてコギト(思惟する事象)が主体として定礎されたとき、近代身体の数奇な運命がはじまった。それは、まず、外延体として、近代的な主体から疎外され、客体に組み込まれて、近代医学をはじめとする近代諸科学の対象となった。だが、身体はやがて主体のもとに呼び返されることとなる。
近代国民国家の国民を形成するためには、近代的な主体に帰属した「合理的に機能する身体」が不可欠だったからである。
近代身体は、一方で、客体として表象され、他方では、主体化されて機能に還元された。
しかし、我々は、主客に重層化された身体を自明としながら、同時に生きられる身体を生きている。この生きられる身体は、客体としての身体とも、機能としての身体とも一致しない。
この非還元的な身体は、それが主客いずれにも還元不可能であるが故に、主客対項の構制をとる近代知において、近代身体の自明性のうちに隠蔽された。
この隠蔽された身体は、いかにして露開されるのか。身体をめぐる芸術的探究は、この課題に向けた試みのうちにある。
■レビュー
人の身体は、主体と客体に分けられる。客体は、意識から独立して存在している外側のことである。それを認識、対象化、表象することは可能であるが、それ自体が主体と離れて生きることはできない。主体とは、「思うこと」である。その場に起こっていることや物は、幻覚かもしれないがそれを見ていると「思う」ことは、事実であり、それは他人が計れるものではない。つまり、「感じる」ということは、他が疑うことはできないのである。この感覚は、様々な器官を媒介としている。対象物によって感覚は変化するため、一番騙されやすい部分でもある。ならば、外部の触発なしに感じること、感覚器官を介さずに感じることとは何か。それは、『生きている』ことを「感じている」ことということになる。だがそれは、外部ではないため、認識、対象化することはできない。客体は、それ自体が生きることができないため、身体と対置することはできない。ならば、主体をいかにして表出、表現するか。それが、肉体をめぐる身体表現において対置するための方法である。この講座では、近代身体における身体の捉え方、映像を通して見る様々な身体の表現方法を学んだ。[須田有希子]
■講師プロフィール
日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻修士課 程修了。
主な研究領域として<美は思想足りうるか、思想は美足りうるか>を基底的な問いに据えた、
美的理念の思想的解明と思想史上の美的結実の追究。
また文学概念の諸制度を文芸に即しつつ内在的に解析する試みや、身体と肉体の相克をめぐる言説集蔵体の文芸学的解読など。
https://www.kogeistandard.com/jp/insight/serial/editor-in-chief-column-kogei/mujokan/ 【「無常観」】より
「無常」とは、物事が流転し永遠ではないということであり、「諸行無常」と言えば、ありとあらゆるものは無常であることを意味する。「無常観」とは、流れゆく物事に触れながら、人や万物の生について思う人生観的思想である。この無常とは仏教における教義の一つであるが、日本では学校教育の過程で、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一文を学び、日本の美的観念の一つとして広く知られている。
仏教から生まれた無常観だが、日本は四季があることで暮らしに常に変化があり、そこから独自の無常観を作りあげてきた。日本では、花は咲けば散るものであり、雪は積もれど溶けていくものである。日本の各地にある河川は、その流れが急であり、止まることのないものであることから、しばしば無常の例として用いられる。鎌倉時代の随筆『方丈記』は、その時代の無常観を映し出したものとして有名であり、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という書き出しによって、人生の儚さが表現されている。
永遠と無常
西洋では無常とは異なり、「永遠」というものが重んじられてきた。神は永遠であり、それゆえ人間は永遠なる存在に憧れる。ミイラはその象徴とされ、人が永遠の命に憧れたことで作られたと言われている。一方、日本では地震や台風などの自然災害が多く、あらゆる物事は永遠ではないという意識があり、永遠性への憧れよりも、物事の儚さを思い、些細なことに意味を見出すことを追い求め続けてきた。
例えば京都では、美しい街並みや独自の文化を守るため、「変わらないために変わり続ける」という考え方が存在する。進化論のダーウィンが言ったともされるこの言葉だが、一見すると何年も変わらないように見える京都の景観や建築物も、常に細かな手入れや修復が行われており、その時々に最も美しくあるように日々更新され続けているというものだ。これは、物事が無常であると観ずるからこその姿勢であると言える。
人生は儚いもの
人は暮らしが豊かになると、どこまでも不自由なく人生を歩んでいけると考えがちであるが、そのようにうまくはいかないものだ。今も昔も同じように悲しい出来事は起こり、そのたびに道を塞がれたような気持ちになる。これだけ科学が進歩する中で、たった一つのウイルスによって、世界中の人々が混乱し、移動の制限さえも受けることを誰が想像できたであろうか。そうした疫病以外にも、気候変動による自然災害も年々増えているとされ、私たちの人生にはさまざまなことが起こり、その儚さを感じざるをえないときがある。
日本では、身近にある自然が時には脅威となることがあり、それにより多くの困難を経験してきた。豪華絢爛な暮らしをしていても、いつかは質素な生活をするときが訪れ、地位や名誉を追い求めても、それらは大自然の前では頼りない存在となる。人生は儚く無常であるとする無常観は、変化の大きな自然と向き合う上で、多くの日本人の心の支えとなっており、日々慎ましく、謙虚であろうとする姿勢へと繋がっている。
無常観と美意識
散りゆく桜は、無常の美として象徴的な存在であり、満開を過ぎた桜にも感情移入し美しさを感じるのは、日本人ならではと言われる。また、月の満ち欠けを美として捉えることも、日本の無常観の表れと見ることができる。
工芸というものは、天然素材を用いた手仕事であり、経年変化や個体差があるという点では、無常観とは切っても切り離すことができない。現代では、陶磁器のうつわは割れることに抵抗を感じる人もいるが、そもそも陶磁器は陶石や陶土からできているものであり、割れるものである。不変ではないからこそ、丁寧に手入れをしながら使っていくことで、愛情を深めていくものである。
変わらないことを願うよりも、物事は変わりゆくものとして、些細な変化の美しさを感じることが、無常観的な美意識と言える。変化というのは、良いときもあれば悪いときもある。雨の日も晴れの日も、川の流れのようにその時々の物事を観ずること。それは、日本だけでなく、世界の多くの人々にとって、この先の変化の激しい未来には必要な美学なのだ。
https://www.kogeistandard.com/jp/insight/serial/editor-in-chief-column-kogei2/ 【「日本の風土」】より
2024.7.15
これまでこの連載では、工芸の魅力を伝えていくうえで大切な、日本の伝統的な美意識について紹介をしてきた。ここからは、日本の工芸の進むべき道を考えるため、国際的な社会課題や問いを踏まえながら、工芸というものの価値を捉え直していく。まずは、日本の工芸の成り立ちに深く関わっている「風土」について紹介をしたい。
日本の工芸品は、風土というものと切っても切ることができない繋がりがある。工芸品は、有田焼や輪島塗、西陣織など、その多くに地名がついていることからもわかるように、それぞれの土地に深く根ざしており、その土地の気候だけでなく、生活文化や美意識など、多くのものが色濃く映し出されている。日本にはさまざまな工芸品があるが、それは日本の風土が多様だからであり、風土を語ることなくして、工芸品の魅力を語ることはできない。
日本は海に囲まれた島国であるが、国土の約67パーセントを森林が占めており、この森林率は先進国の中ではフィンランドに次いで2番目である。国土は南北に細長く伸び、北は寒冷でありながら、南は熱帯であり、南北で気候が大きく異なる。山地が多く川が急流であることも特徴で、地方では山地に囲まれた盆地に暮らす人々も多い。また、日本では四季があることで、季節ごとにも暮らしに変化があり、それゆえ日本の風土は他国に比べ、多様で複雑であると言えよう。日本で生まれ育つと当たり前のように感じてしまうが、日本の各地にさまざまな地域文化があり、異なる郷土料理や自然の景色を楽しむことができるのは、日本の大きな魅力なのである。
風土とは何か
風土という言葉は、土地の気候や地質を意味しつつ、その土地の生活文化や風習を含んだ言葉である。つまりは、この言葉自体に人の存在が含まれている。土地以外でも、「会社の風土」という使われ方もされ、この場合は人が働く上での環境全般を意味する。それを踏まえれば、風土とは、人々が社会的な集団を形成し活動するうえで、長く影響を与える環境のことであると言え、人が自然に溶け込み、短期的に野宿をする際には、風土という言葉は該当しない。
これまで人は、世界中のさまざまな土地で暮らしてきた。それにより、食や住まい、衣服や日用の道具に至るまで、多様なものが存在している。これには国や村などの集団単位で育まれてきたものもあるが、土地ごとの個性も大きく影響を及ぼしてきた。海には海の、山には山の暮らし方があり、気候や地形などによっても、その暮らし方は異なっている。しかしながら、現代の都会の暮らしの中では、それらの土地の個性というものは感じづらくなってきている。日本だけでなく、世界のどの都市に行っても、同じようなビル群が立ち並び、生活スタイルも似たようなものとなってきている。それでもなお、物事の考え方や美意識などは、その土地の気候や景色などに大きく影響を受けているはずで、人が住む土地というものは、この先も重要であり続けるであろう。
日本の風土
風土と人との関係性は、時代や地域によって異なるとされるが、日本の風土というものは、その特有の自然観を背景に、常に人々と密接に関わってきた。風土論としては和辻哲郎の著書『風土―人間学的考察』が有名であるが、彼はこの本の中で「風土は人間の自己了解の仕方である」と説いた。例えれば、人はそのときの気候を寒いと感じるとき、その寒さの中に自己を見出しており、このように自然環境を介して自己了解するのが風土であるという。どの土地であれ、そこに住む際には、気候や環境に合わせて自身の生活を調節していく必要があるが、そうした人と自然環境との関係性こそが、風土と呼ぶものなのである。また、和辻哲郎は、世界をモンスーン型、砂漠型、牧場型の三つに分け、日本はモンスーン型に位置するとした。確かに、日本では台風の存在は大きく、これが地震とともに自然の脅威として、日本独自の無常観を形成する一つの因子となっている。また、日本では、古くから万物に神が宿っているというアニミズム的な思想があった。自然は脅威でありながら、恩恵を与えてくれるものであり、共存していくべきものという姿勢があったのである。これは、自然に常に向き合い、その個性を大切にすることであり、工芸品以外にも郷土料理や祭りなど、さまざまな地方文化に影響を与えていった。
風土というものについて、和辻とともに名が知られているのはフランスの文化地理学者であるオギュスタン・ベルクであるが、ベルクは自然と人間の共生についての研究を行ない、日本や中国でのフィールドワークを重ねながら、風土を通常の英訳である「climate」とは異なる「milieu」という言葉で表現し、新たな学問として「風土学 (mesologie)」を打ち立てた。milieuとは、フランス語で人の社会的な環境を意味し、これは風土というものが、あるがままの自然環境とは異なり、人間が暮らす中で人と自然とが互いに影響しあって変化していくものという視点に基づいており、日本人が持つ自然観に近い考え方である。
世界の風土
世界を見渡してみれば、土地から生まれた農作物について考えてみると、風土についてより理解することができる。ワインの世界では、「テロワール」という言葉がある。この言葉は「土壌」という意味を持つが、土壌以外にも、その土地の気候や気象など、ぶどう作りに必要な環境全てを表すと言われる。ワインは、フランスのボルドーやアメリカのナパ・バレーなど地名で呼ばれることも多く、風土を映し出したものとして代表的なものの一つである。なお、テロワールは、ワイン以外にもコーヒー豆や茶の栽培にも使われる言葉であり、その土地ならではの農作物の個性を伝える際に用いられる。
現代では、輸送の向上や経済のグローバル化によって、ものづくりは世界中で行なわれるようになった。人件費が安いという理由で生産地が選ばれ、そうして作られたものは、世界中にまた散らばっていく。それにより世界経済は発展し、途上国も豊かになっていくかもしれないが、行き着くところは、風土なく均質化した世界である。人にも個性はあるが、人は多様な生物の一つであって、自然というものはさらに多様で奥深い。その魅力を忘れてしまえば、本来あった世界の多様性は、急速に失われていってしまうであろう。
工芸品はその土地を知ることから始まる
工芸品とは、単なる手仕事の呼称ではなく、伝統的な美しさを持つものである。工芸品は、その土地に住む人が伝統技法を用いて作る美しい日用品であり、一時的に各地から人が工場に集まって作られるものではない。単純なことのように思うかもしれないが、その他の産業では、忙しい時期にのみ人が集まり、作業をするということは珍しくはない。工芸品は、そうでないところに奥深い魅力がある。
工芸品に興味を持ったならば、その作られた土地に目を向けてみてほしい。工芸品が作られている場所は、どのような土地であり、どのような人々が住み、どのような景色が見えるのか。その土地を訪れてみると、必ずその工芸品がどうしてこのような工芸品になったのかが腑に落ちる瞬間があるはずだ。土地に興味を持つと、その土地ならではの、人々の自然への向き合い方や愛情が見えてくる。それは、これからの時代に何より必要な視点であり、姿勢なのだ。
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