松茸に太古の空の湿りあり

http://chibakin.la.coocan.jp/hagimotoall.html 【菌遊屋の独り言—キノコに始まりキノコに終わる—】より

萩本宏

(前略)

 私がキノコと出会ったのは、今も梅林で有名な京都府綴喜郡靑谷村(現在の城陽市靑谷)の中ノ郷に住んでいた 4歳のときです。父が当時、京都府営繕課にいて陸軍の療養所(現在の国立京都南病院)を設計し、その建設の監督のために 1年足らず住んでいました。幼児の記憶であるうえに、大方の家が建て替わり、塀がめぐらされ、屋外にあった特徴的な浅い井戸は埋められているので、旧居の場所は確定できませんが、おおよその見当はついています。それでも靑谷は 70年以上も昔の面影を色濃く残しています。ともかく和やかな良いところでした。そこで、近隣のお爺さんが椎茸の榾木栽培をしていました。ここで見た幼い日の農村の情景が後の進路にいろいろと影響したと思います。

 京都に引きあげてきて徒然草の著者、吉田兼好が隠棲した双ケ丘の近くの花園に落ち着き、間もなく北野天満宮の少し西、白梅町(京大農学部の前の今出川通りの西の端)というところに住みました。引っ越してきてすぐだったと思いますが、家の前のわが家の専用小路に小さな黄褐色のキノコが群生しました。これを栽培してみたいという気持ちになったのを覚えています。また、ある日、庭に赤黒い棒状のものが立ちあがってきました。しばらくすると倒れてしまいました。キノコかな、それにしても変だと思いました。キツネノ○○だったのでしようが、とても気味悪かったです。

 京都は、昭和30年代前半まではマツタケの大産地でした。戦前には年間 1,200t以上も採れたそうです。最盛期には蹴飛ばすくらい生え、縄張りが解けた後でも結構採れたと聞きました。京大農学部のすぐそばの標高 125mの吉田山にも生えていたことを濱田先生の標本で知りました。私のマツタケについての幼児の記憶は、秋になると八百屋の店頭がマツタケで埋め尽くされて、焼松茸、土瓶蒸、吸物、松茸御飯などが日常的だったことくらいです。マツタケにこの程度の印象しかないのは、山に生えているのを見たことがなかったからだと思います。生き物は野生状態で見てこそ感動するものと思います。

 京都ではマツタケは「マッタケ」と発音し、圧倒的な存在感をもっていました。濱田先生のたまわく「松茸はキノコの王様や」です。子供の頃のキノコの分類は、マッタケと毒マッタケ(マツタケ以外のキノコ)あるいはマッタケ、シメジ、シイタケ(乾物)、毒マッタケです。「あ、毒マッタケが生えている」といった具合です。わが国でのツクリタケ(通称マッシュルーム)の栽培技術の確立者、菌床栽培の基本原理の発明者、更にシイタケの榾木栽培用種菌の発明者でもある森本彦三郎氏がツクリタケを「西洋松茸」、フクロタケを「シナシメジ」と命名されたのは、分類学を無視した無茶苦茶なやり方だと思う反面、京都では仕方がないと寛容にならざるをえません。

 北野天満宮では毎月25日に沢山の露店が並んで賑わいます。植木屋も出店しており、そこで椎茸の生えた榾木を売っていました。細いもので1本1円50銭、太いものは2~3円もして高価でした。是非欲しいと思いましたが、お小遣いは 10~20銭ですからとても買えるものではありません。ちなみに、1銭でどんぐり(飴玉)1個、10銭でアンパン1個が買えたように記憶しています。国民学校卒業までのキノコ体験はこの程度です。

 中学校は、府立京都第一中学校(一中)は、府立京都第一高等女学校(府一:日本最初の公立女学校)とともに父が設計に関わったこともあって憧れでしたが、湯川秀樹氏や朝永振一郎氏などを輩出した名門校です。両氏や濱田先生の頃は、一中は現在の京大の総合人間学部(元第三高等学校敷地)の南側にあり、熊野から百万辺までの約 1kmを通るのに11年かかる道と言われていたそうです。一中、三高、京大というのが京都の秀才コースで、濱田先生は一中の南側にある錦林小学校時代からこの道を辿られました。

 しかし、一中は私の学力ではとても無理、なんとか近くの三中にと思っていましたが、学制改革で中学は義務教育になり、 1947年5月に新制中学として発足した市立北野中学校(北中)に入学しました。校舎は市立京都第二商業学校(二商)に間借りです。「新生」(安物の煙草)や真鍮(金の贋物)と同じ音の「新制」や「新中」と呼ばれるのは、意識過剰と言われるかもしれませんが、高校、大学、大学院と旧制よりも格下という意識が 60年以上経った今も抜けません。

 2年生になった年に、二商が引っ越して北中がすべての校舎を使い、男女共学になりました。3年生の時にN君が転校してきました。彼は長じて電気工学の技術者になりましたが、今は大丸京都店の東向かいの和菓子の老舗「大極殿本舗」の経営者です。彼は勉強がとてもよくできました。府内一斉に行われる共通の高校入試の成績が、正解率 94%、十数クラスもある学校で一番でした。したがって、彼はよく教員室に出入りしていたようです。その際、我々のクラスの理科担当の先生の机の上にシァーレに入った寒天で固めた菓子が置いてあるのを見つけました。彼はその目的を先生に尋ねました。女生徒が家庭科実習で作った菓子を持ってきてくれたので、それにどのような微生物が生えるか観ているというようなご返事をされたそうです。

 そこで、彼は、それを是非やらせて欲しいとせがみました。中学が義務教育ということと占領軍の指導もあって、理科教育は実用主義に貫かれ、教科書は分冊ごとに「電気はどのように役立っているか」といった類のものでした。その中に「人と微生物のたゝかい」という書名の教科書を使った授業がありました。理科の教科書といっても保健衛生的な要素の濃いもので、感染症と病原菌についての記述がほとんどでしたが、肉汁を使って寒天培養基を作り、細菌を培養するというようなことが書いてありました。この教科書で Louis Pasteur、Robert Koch、北里柴三郎、志賀潔などの名前を覚えました。敗戦の年の1945年にはAlexander Flemingがペニシリンの発見でノーベル賞を受賞していましたし、 1944年にはSelman Waksmanが不治の病であった肺結核に効くストレプトマイシの開発に成功していました(1952年にノーベル賞受賞)。

 私は、このような時代背景もあって微生物には大変強い関心をもっていました。それで、N君の誘いにのったのだと思いますが、彼を中心に男子生徒 4人が先生の指導を受けて微生物学実験の真似事を始めました。その後、女性のグループもできました。先生は、二十歳になられる前後で、熱心に指導して下さいました。シャーレや試験管は粗悪ながらも学校にありましたが、オートクレーブはありませんし、都市ガスは十分に供給されませんので、家からコンロと木炭と蒸し鍋を持参し、コッホの滅菌法よろしく時間をかけて滅菌しました。白金耳は無論ありませんので、ニクロム線を割り箸に取り付けたもので代用しました。培地は、牛肉の煮汁や貴重品の市販の砂糖を、綿栓は布団綿を使用しました。兎も角とても楽しかったです。しかし、先生は生徒に暗くなるまで実験をさせているということで、事なかれ主義の教頭から睨まれておられたようです。

 私は、1年生の時から美術部にいました。図画の教師で部顧問の上原卓先生は、後に京都芸術大学の教授に、同期部員の吉村年代さんは現在、日展評議員・審査員で活躍されています。日展で吉村さんの馬を主題にした作品を拝見するたびに微生物実験が思い出されます。他方、私の絵はたいしたことなく、微生物が面白くなって美術部からは自然に足が遠のきました。実験の結果は京都市主催の理科研究発表会で発表させていただきました。N君が前半を、私が後半を話しました。これが私の初めての講演です。しかし、私は、微生物として細菌とカビは認識していましたが、キノコは全く意識していませんでした。教科書では病原細菌についての記載がほとんどで、 Pasteurとの関係で葡萄酒酵母のことが少し書いてあったことは覚えていますが、カビやキノコについての記載は記憶していません。

 先生は、1949年に大学に合格されたうえで休学して教師をされていたのです。 1950年の入学を最後に旧制大学がなくなることになったので、1年間で職を辞されて復学されました。私も先生のご退職と同じ年に三中の後継に当る山城高校に入りました。そして、N君とともに生物部に所属して微生物学の真似事をして 3年間を過ごしました。N君とオートクレーブを借りに京大農学部にお邪魔したことがあります。実験室には大きな火鉢が置いてあり、学生・院生が何人かおられました。その中にボスとおぼしき人がいて「君はここに来るのか」と尋ねられました。なんと返事したかは忘れましたが、その人は鹿児島大学から内地留学中の田島良男氏でした(関西菌類談話会 50周年記念誌, 2008)。実験室の隣の部屋に白衣を着た背の高い人がおられるのが部屋を繋ぐ扉の向こうに見えました。 5年後に分かったことですが、濱田先生でした。

 クラブ活動は卒業まで続けました。受験勉強は早朝の5時間半から7時間半まで、夜は20時から22時までの 1日4時間、休日は4+α時間、正月も休みなしの365日の1年間、これがすべてでした。3月の始めの大学入試が終わった後だったと思いますが、中学の時の理科の先生の卒業論文のご執筆のお手伝いという名の邪魔をしました。卒論は、タイプライターを個人で持てる時代でなかったので手書きでしたが、英語だったことに驚くとともに、内容はよく分からないまでもこのように順序立てて書くものかと感心しました。私が先生に「大学の先生は英語が達者なのですか」と尋ねますと、先生は「もの凄い」とお答えになったので、これはえらいことなると思ったのを鮮明に覚えています。

 大学は、はじめは理学部を考えていましたが、高校の先輩から「植物学なんかやったら食えないぞ」と言われたことと高校の入試の模擬試験で常に一番、京大にも全学部統一の試験問題で、 1300人中1番で合格した人の志望学部だったので農学部に変えました。彼の希望学科は私とは別でしたが、こんな人と数学や物理の授業を教養部(今はないが1,2回生)時代だけとはいえ一緒に受けるのはかなわないと思いました。その結果は、植物学科以上に喰えないところに行くことになってしまいましたが・・・。当時は、医学部を受験するにはどこかの大学に 2年間いて所定の単位を修めることが必要でした。医学部志望者の多くが農学部を受験するので合格最低点が高く、難関学部でした。

 ところが有難いことに、私の受験の年から医学進学コースができて、医学部志望者の多くはそちらを受けましたので、競争は緩和されました。医学部は、しばらくは他学部や他大学からも受験できました。大学受験はこれだけです。京都市内に住んでいて京大を受けるのは不公平ではないかと思わるほど有利でした。若い先生はほとんど全員が京大(旧制)出身者でした。彼らの多くは、しばらくして新制大学の先生になって消えてしまいました。京大教授を講演に招くこともしていました。京都学派四天王の一人、哲学者高坂正顕教授の講演は難しかったです。生徒の中には教官の子息で子供の時から大学に親しんでいる者もいました。

 私も戦時中に兎の餌に困り、近所の友人と農大グランドにクローバの採集に行ったことがあります。また、先述のように高校生の時に大学を何度か訪ねました。このようなことで受験に対する恐怖感はありませんでした。受験は3日間、 8科目でしたが、沢山の生徒が模擬試験を受ける気分で受験しました。ちなみに農大とは京都帝国大学農科大学の意味です。おかしな話で、農学部は、 1919年に帝国大学令の改正により、帝国大学の各分科大学がそれぞれ学部となった後の1923年の設立であるにも関わらず農大であり、市電の停留所も「農大前」のままでした。「学位記」(卒業証書)も分科大学時代の遺物で、学部長が学士試験の合格を証明し、総長が承認すると書かれていました。それに京都大学ではなく「亰都大学」でした。学長は未だに法的根拠のない総長のままです。

 3回生から専門課程となり、農学部のある北部構内に移り、各学科に分かれますが、希望者が多い学科では選考試験が行われます。中学の時の先生から農林生物学科はよした方がよいと言われたのですが、私に一番向いているような気がしてそこを志望しました。 4講座で定員9名のところに11名が希望し、3月8日に試験になりました。しかし、筆記試験の翌日の面接で私の番のときに実験遺伝学講座の木原均教授(H. Winklerが1920年に唱えたゲノムの再定義によるゲノム説の提唱、ゲノム分析法の確立、パンコムギの進化の系譜の解明、種無西瓜の発明などで著名な遺伝学者、第 8回、9回冬季オリンピック日本選手団団長、第 10回札幌大会での組織委員)が「心配いらないよ。全員入れるから」と言われて事なきをえました。

 農学部入学者153名の中の紅二点も 11名の中に入りました。実は、分属試験を受ける前に農学部の事務所で入試の得点が理学部の最低点を超えていることを確認し、コーナー博士と親交のあった郡場寛先生[ E. J. H.コーナー『思い出の昭南博物館』 (1982) ]の後継者の A教授に定員5名の植物学科に転入させていただける可能性を聞きに行きました。私は子供の頃から琵琶湖淀川水系の釣りに興じていたので、動物学科で淡水魚の生態の研究をしていることを知っていたらそちらに進んでいたかもしれません。ちなみに農林生物学科は理学部の動・植物両学科の講義の単位を認めていました。私の専門課程の単位の半分くらいは理学部からのものでした。

 本格的にキノコに出会ったのは、1955年、 3回生になってからです。3回生の前期には植物生理学実習がありました。これが濱田先生から受けた最初の授業です。先生は応用植物学講座の所属でしたが、「応用」は名ばかりで実体は植物生理生態学講座でした。この実験ではキノコに関するものはありませんでしたが、 6月13日に濱田先生から川村清一博士の『日本菌類図譜』 (1929)をお借りしたメモが残っています。植物病理学を専攻することになるM君としばしば理学部附属植物園でキノコ観察をしたり、如意ケ岳(大文字山)に採集に行ったりしていたからです。 9月には彼と3回も行っています。また、10月に植物園でスッポンタケの幼菌を見つけてその成長を観察しました。

 この成長は旧制大学院生の衣川堅二郎氏が研究されたキヌガサタケと同じく折りたたみ式梯子の伸長です(衣川 日菌報 2:94-98,1960)。濱田先生からオランダ語で書かれたF. W. Went(著名な植物ホルモン研究者、ファイトトロンの開発者)のキヌガサタケに関する論文( De Tropische Natur. No.3,1929)のタイプコピーを参考になるから読めと仰って渡され、『オランダ語 4週間』の即席勉強と蘭英辞典でなんとか大意をつかみました。応用昆虫学実習の時間に害虫採集に行ってキノコを採集してきて担当の助手からお目玉を食らいました。

 12月に入って理学部附属植物園のアカマツ樹下で松毬に生えるキノコをみつけました。土中に半分埋まった松毬から長い根のような柄が伸びて地上に現れ、垂直に立っているキノコです。他方、地中に潜らないものは松毬に沿って垂直に立っていました。濱田先生ご所蔵の川村清一『日本原色菌類図鑑』第4巻(1954)で簡単にマツカサツエタケCollybia conigena (Pers.) Brés.と同定できました。このキノコは面白いと一目ぼれしました。

 その理由は二つあって、このキノコが松毬からしか生えないのであれば、松毬にはこの菌に必須の物質が含まれているはずであり、今から思えば痴人の発想ですが、この物質を見つけて他のキノコに応用すれば発蕈誘導万能薬ができるのではないかというのが1つ、地中をにょろにょろと伸びる柄と地上部の垂直に伸びる柄の光と重力に対する反応の相違を利用したキノコの環境適応性を解明するというのがもう1つです。

 まだ濱田先生の研究室に所属する前でしたが、先生にお願いしてこのキノコの培養を始めました。分離法さえ教えていただければ、培養操作は中学で習得済みです。わくわくしながら実験しました。他方で、4回生での卒論実験に備えて、卒業に必要な単位は殆ど全部3回生で取ってしまいました。講義には出なくても試験さえ通れば単位は取れるのですから1駒に2つの講義を登録し、自習して試験だけ受けました。しかし、このキノコはいろいろと私の運命に絡む妖怪キノコで、様々な幻覚を引き起こしました。

 中学時代の理科の先生は農林生物学科に進んだ私の将来を心配して下さり、応植に行くことだけは絶対にやめておくように仰っていたので、私は、昆虫学研究室はどうかと思っていました(「講座」は旧文部省が省令で定めた教官の専攻単位であるから院生・学生を含めた研究集団として「○○研究室」の用語を使用する)。その理由は、植物病理学は主体が病気だから嫌だし、遺伝学は、交配と算数と染色体の観察だけのようで、生き物を扱っている気がしそうにないので選外という他愛のないものでした。この消去法と虫好きで少年時代には大北山(左大文字山)の山麓(今は金閣寺の駐車場)や衣笠山の麓(今は立命館大学衣笠キャンパス)のクヌギ林でよく昆虫採集をしたことの結果です。今西錦司氏や可児藤吉氏が川釣りの餌のカゲロウ類の研究をされたのを理学部の生態学の講義で知っていたので甲虫もよかろうと思っていましたが、農学部の昆虫学は害虫生態学であって、蝶やクワガタムシを愛でるような学問ではなかったのです。

 結局、妖怪キノコが、理科の先生のご忠告を無力化して私を強力に応植に誘引しました。研究分野もさることながら、今村、濱田両先生のいささか世間離れしたところと研究室の雰囲気がなんとなく自分に合いそうだと思ったことが大きかったと思います。先生への挨拶に困りましたが、あとはどうなろうが自己責任です。「なんとかなる」と甘く考えていたことも確かです。振り返ってみると、私は高校の時に先輩の忠告で志望学部を変えておきながら、将来の生活のために専門分野を選ぶという視点がまったく欠けていたようです。兎も角、好きなこと、子供の時に遊んだことや面白かったことに関係する学問を専攻することばかり考えていました。「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん」の梁塵秘抄の世界です。まったく幼稚なことで恥じ入るばかりです。

 前年には希望者が皆無だった応植に女性1名を含む 4名がお世話になり、私以外の3名は教授の今村先生について顕花植物を、私だけが助教授の濱田先生に師事して菌類をテーマにしました。前者を高等族、後者を下等族と呼んでいました(写真 1)。今時、キノコを下等植物などと言えばキノコが怒ります。当時の下等族は旧制大学院生2名、新制大学院生 2名、研究生?1名と私で6名でしたが、それぞれが別々の研究テーマに取り組んでいました。濱田先生は弟子の論文の最終原稿は今村先生を通しておられましたが、殆ど独立のような形でした。先生の理学部の後輩の奈良女子大学教授らが濱田稔助(ねんすけ)・教授と言っていたのを耳にしたことがあります。

 卒論のテーマを決めなければなりませんので、濱田先生にお伺いを立てました。「今やっているのをやったらええやないか」のお一言で決まりです。私は、マツカサツエタケの子実体形成の生理学を目指したのですが、これは失敗でした。敗戦から 10年しか経っていないこともあって研究費は乏しく、研究室にはオートクレーブと木製の恒温器くらいしかありません。培養基用に自宅から蔗糖を持参して置いておくとひとりでに減ってしまう時代です。自宅にすらあった氷冷式の冷蔵庫もありません。夏場には恒温器の温度制御は不能で、濱田先生は暑さに弱いマツタケ菌を比叡山に避難させておられました。とはいえ野生生物を研究対象にするには、研究設備よりも先ずその自生地での生の姿をしっかり把握すべきでした。 

 私はマツカサツエタケを培養すれば、気温の下がる秋には子実体が発生すると期待して、ブドウ糖を蔗糖に代えた濱田氏寒天培地を基本培地にして、培地組成を様々に変えて培養しました。しかし、エノキタケやヒラタケのように簡単にはゆきませんでした。子実体の出ない培地に松毬の抽出物を加えて発生させることができれば、雀踊りして喜ぶところでしたが、幻想に終わりました。子実体の発生時期が卒論研究には極めて不適な 11~12月とはいえ、生態学的な手法に徹して発生地の調査や発生時期、発生パターン、土壌や他の様々な生物との関係などを調査すべきでした。また、純粋培養も寒天培地に終始したのは大失敗でした。インタクトな松毬それ自体を培地に使うことや非無菌的な培養も試みるべきでした。卒論を 1年間で立派に仕上げねばという欲望と焦りが私の視野を狭くし、研究の土台作りをないがしろにしました。

 この卒論には更なる幻覚が襲います。ある日、本郷次雄氏にマツカサツエタケの話をしたところ、氏は「川村先生の図鑑は間違いです。 2つあって・・・」と仰って、紙切れにマツカサキノコモドキ(写真 2)、ニセマツカサシメジ(写真 3)とお書きになりました。和名が2つあっても英語の卒論には関係はないと高をくくっていました。その秋には、私を嘲笑うようにマツカサツエタケは発生しませんでした。代わりにと言うのは変ですが、マツカサタケ(写真 4)が生えていました。卒論は菌糸の成長と培養基のC-N比の関係やその際の菌糸内成分を顕微化学的に調査して“ Physiological Studies in Collybia conigena (Pers.) Brés.”(前置詞inかonで濱田先生と議論、inにされてしまった)と題してまとめましたが、まったく達成感がありませんでした。

 夏頃だと思いますが、濱田先生から「卒業したらどうするのだ。行くところないぞ(大学院へ行けの意)」「やりたくないことやって生きているくらいなら死んでしまえ」と言われて大学院の入試を受けました。定員2名のところ、恋仲の2人と私の3名が受けました。今回も全員合格させていただきました。この際も中学の時の理科の先生には大変ご心配をお掛けしました。1957年3月に卒業して翌月から大学院生になりました。応植には野球のチームが 3つできるほど院生・学生がいて、本来は個室のはずの濱田先生の部屋に同居させていただきました。席は衣川氏の隣で、机と椅子は農林省林業試験場(現在の森林総合研究所)に移られた古川久彦氏が使用されたものでした。

 その年の秋に濱田先生から「本郷君が図鑑を出したから買わへんか」と勧められて『原色日本菌類図鑑』(保育社、 1957.11.10発行)を11月26日に濱田先生を通じて著者割引の千円(当時の大学の年間授業料は学部が年間6千円、大学院が年間9千円)で購入しました。この図鑑を手にとって真っ先にマツカサツエタケを探しました。松毬に生えるキノコとしてマツカサキノコモドキとニセマツカサシメジの2種類が掲載されており、マツカサツエタケの名前は括弧付でもありませんでした(関菌報No.27,2009)。晴天の霹靂です。卒論は紙くずになってしまいました。濱田先生から卒論を投稿するように2度も勧められましたが、マツカサツエタケではいかんともしがたく、生返事をして投稿せずじまいです。

 私は、属まで異なる2種類のキノコの形態的相違を同一種の環境条件に由来する相違と誤解していました。分離に用いた子実体の乾燥標本と胞子紋は残してありましたが、培養した試験管を混ぜてしまったので、両種を判別できませんでした。何をおいても、実験材料こそあらかじめ本郷氏に同定していただくべきであったと後悔しました。

 大学院でも松毬に生えるキノコの研究を続けるつもりでしたが、濱田先生から先輩のU氏(故人)が副テーマとして始めたツクリタケ子実体の成長を制御するホルモンの研究(Bot. Mag. Tokyo , 1956)をするように命ぜられました。彼はPsilocybe  panaeoliformis Murrillを培養していて、細菌が混入した培地を捨てようとしたところ、濱田先生から注意されて、そのまま培養を続けていたら子実体ができきたので(本人談)、細菌の生産する物質を追求することを主テーマにしている人でした。

 私は、人の手がついた研究は真っ平御免であっただけでなく、U氏は学部を他の大学で終えた方で、個性の強い濱田門下生の中にあっても考え方や行動が異色の人でした。彼は、当然とは思いますが、テーマを手放すのを非常に嫌がり、いろいろの形で私に跳ね返ってきました。松毬に生えるキノコの研究はいわば子実体形成誘導物質の発見を目指したものです。他方、ツクリタケ子実体の成長ホルモンの研究は、細胞分裂を終えた細胞の成長の研究です。従ってこのテーマは顕花植物の成長ホルモンIAAやジベレリンの研究と同じことで、キノコの研究を選んだ意味がないという思いで抵抗を感じました。しかし、私が強く拒否しなかったために濱田先生は半ば強制的に決めてしまわれました。

 ツクリタケは大学では栽培できないので、森本養菌園のキノコを使わせていただき、二代目園主森本肇氏をはじめご家族、従業員の皆さんに5年もの間大変お世話になりました。濱田先生に連れられて養菌園に挨拶に伺い、初めて栽培室を見せていただいて、ここで実験するのかと愕然としました。試験管培養での研究にあこがれていた私には驚天動地です。栽培舎は 2棟、栽培室は各3室で6室あり、半地下式で幾段にも重なった栽培床が左右にあり、その真中に通路として板が渡してありました。上下移動には斜めに渡した板を伝います。まさに工事現場です。実験は重なっている栽培床の間に首を突っ込んで、裸電球の下で成長を測定したり、鏡を見ながらヒダを切り取ったりします。

 この作業は労力的に大変なうえに危険でもありました。大きな栽培舎には窓がないので真っ暗です。電球 1個を持ってコードを引きずりながら移動します。板と栽培床の間にはその板に座って足を伸ばして栽培作業ができるように隙間があります(前掲の『原色日本菌類図鑑』Ⅷ頁参照)。そこから墜落して運悪く最下段のスチームの太い鉄管に当ると大事故に繋がります。実は初代園主が戦後、栽培の再開のための栽培床の点検の際に最上段から墜落し、それがもとで亡くなられました(日菌報 3:144-147,1962;関西菌類談話会50周年記念誌 :53-70、2008)。私も板と栽培床の隙間から何回も落ち、栽培床の分厚い木枠や蒸気鉄管や柱に頭や腰をぶっつけましたが、若かったこともあって大事に至らずにすみました。この実験の副産物ですが、全長が 15㎜以下のごく若い子実体の傘をヒダが露出するように切断しますと、傘の切断面から既存のヒダに誘導されるようにそれに隣接してヒダが発生してきました(日菌報 7:103-110,1963)。

 実験は栽培床の一部を区切ってお借りするのではなく、栽培中のキノコの中から適当な生育段階にあるものを使わせていただくのです。従業員の方達は口にこそ出しませんが、作業の邪魔です。実験には使用する子実体の高さを極力そろえなければなりません。覆土の表面が見えないくらい沢山生えた子実体の中から垂直に生えていて大きさの均一なものを選びます。そのために栽培室の中を上下左右と動き回ります。実験で切除した部分を大学に持ち帰り、ホルモンの生産場所と考えられるヒダを集めてホルモンの抽出を試みました。子実体に対する様々な操作で起こる反応をホルモンで説明しようとするものです。寒天の小さな板とヒダの抽出物の水溶液を自宅に持ち帰り、寒天片を水溶液に浸漬して冷蔵庫に保管して翌朝養菌園に持参する毎日です。

 しかし、ツクリタケは気温の関係で夏場は栽培不可能です。実験期間は10月下旬から5月までです。夏場はもっぱら論文執筆です。濱田先生が戦前にお買いになったタイプライターをお借りしてガタガタと大きな音を立てて打ちます。気が引けて仕方がないので「できるだけ先生が席におられない時に打ちます」と言いましたが、先生は「勉強だから構わん」と仰いました。結局、父に頼んで 5万5千円、大学卒者の初任給数カ月分くらいもするドイツ・オリンピア製のタイプライターを買ってもらいました。それ以来、タイプは自宅で打つことにしました。先生からもう一つお借りして大変助かったものに乾板用の写真機があります。ツアイス‐イコンのレンズ付きのコンテッサだったと思います。蛇腹の長さを加減してキノコを等倍に写すことができました。

 夏場にも実験をしないと時間がもったいないと思うとともに、年中、それも大学で扱える実験材料の開拓を目指してウシグソヒトヨタケやコキララタケを調べました。ウシグソヒトヨタケはエビオス・蔗糖寒天培地( pH約5.2)を用いて約25℃で培養すると低温処理の必要もなく、数日で子実体が形成されます。これは好都合と馬糞培地で大量栽培しました。馬術部から馬糞をもらってきて大型のビーカーに入れ、新聞紙で覆って滅菌し、試験管で培養したウシグソヒトヨタケの菌糸を植えて30℃におくと5日後には多数の子実体原基ができました。これに散光をあてて正常に発育させ、柄の根元が少し膨らんでその先が細くなった部分を少し残して切り取り、湿った鋸屑に垂直に立て、傘の一部を切り取って 30℃の湿室に数時間置くと柄は屈曲しました。それで残りの傘を取って印画紙の上に並べて光を照射し、現像して屈曲角度を測りました。

ツクリタケのシーズン・オフの実験でもう一つ面白いことがありました。前記のマツカサタケは 1本しか生えていなかったので、松毬をその場に残すために傘にごく短い柄をつけて切り取り、研究室に持ち帰って胞子を採取しました。しばらくして残した松毬はどうなったか見に行ったところ、なんと傘が再生中でした。再生物質のようなものがあれば、マツタケも抜き取らずに柄の途中から切り取って再生物質を塗り付けておけばまた生えてくるのではないかと妄想しました。マツカサタケは、試験管の中で純粋培養すると子実体は簡単に発生しましたが、傘はできません(写真 5)。このことを植物病理学講座のS助教授に話すと「そんなこと当たり前や」です。訝る私に「試験管の中では雨降らへんやろ」でした。

 再生物質は傘形成物質ではないかと考えて、細菌濾過用の素焼きの筒を寒天培地の入った2Lのコルベンに装着して滅菌し、マツカサタケの菌糸を植え付けて傘のない子実体が生えたところで松毬の浸出液を素焼の筒を通して無菌的に加えました。雨降りも兼ねていたわけです。しかし、傘はできませんでした。諦めてコルベンをそのまま定温器内に放置しておきました。初秋に思い出してコルベンを取り出して見ますと傘ができていました。培地は干からびてきています。これは大変と濾過器を通して注水しました。しばらくして観察したところ仰天です。傘からまた柄が出ていました。それも 1つの傘から数本です。イソギンチャクのような格好になり、その柄の1本 1本にまた不完全な傘ができました。なんとこの傘は日傘でした。

 これは面白いと早速、英語で論文原稿を執筆しました。このような珍妙な研究をしている人はまさかいないだろうと思いながらも、濱田先生に原稿のご校閲をお願いする前に文献を当りました。ところが物好きが他にもいたのです。英国菌学会報の最新号に英国 Cardiff大学のR. Harveyという人がマツカサタケの傘形成と湿度の関係の論文を発表していました( Trans. Brit. mycol. Soc. , 1958)。しかし、彼の論文には傘再生や純粋培養での傘なし茸の記載はありませんでした。さっさと投稿しておけば、先を越されなかったものをと残念でしたが仕方ありません。原稿は 2度目の没です。

 森本養菌園でお世話になっていてツクリタケの栽培をつぶさに見学できました。昼食は持参の弁当を作業室で従業員の方たちと一緒に食べるので、いろいろと話が聞けました。10畳くらいの事務室には、初代園主森本彦三郎氏の白衣姿の写真や御大典時に昭和天皇に献上されたエノキタケの写真、菌床栽培法のアメリカ特許証、ツクリタケの種菌などが無造作に飾ってありました。それで森本彦三郎氏に大いに関心をそそられました(写真 6)。この件は、濱田先生と共著で日本菌学会報に簡単に発表しました(日菌報3:144-147, 1962)。

 この報文は濱田先生と私の唯一の共著です。執筆にあたって濱田先生はご自身で森本氏の欧米における足跡をたどって地図を作製されたり、大正時代の新聞で曜日を確認されたりされました。それで、報文に是非お名前を入れていただきたいとお願いしました。しかし、調査不足や不注意から森本氏による菌床栽培の始まりが1927年のシイタケであるのを1928年のエノキタケとする重大な誤りを犯してしまいました(写真 7)。

 多くの著書・論文から子供向けと思われる伝記までもがこの報文を直接、間接に引用してくれたことで皆様に大変ご迷惑をかけてしまいました。シイタケと分かっておれば、中村克哉氏の名著『シイタケ栽培の史的研究』(1983)や広江勇氏の大著『最新応用菌蕈学』(1982)や菌床栽培の発明に関する報文(Trans. Mycol. Soc. Japan 17:583-586, 1967)もかなり違ったものになっていたはずです。お詫びの積りでその改定版を「関西菌類談話会50周年記念誌(2008)」に掲載させていただきました。   

  

 大学院の修士課程1回生の時、1958年2月1日(土)に濱田先生のご尽力で関西菌類談話会が発足しました。応植のメンバーだけでなく、植物病理学講座の助手、院生・学生も一緒に協力して開催にこぎ着けました(日菌報1:107-108,1958)。赤井重恭、赤穂重雄、今関六也、岩出亥之助、印東弘玄、小林義雄、紺谷修治、獅山慈孝、椿啓介、中沢亮治、永友勇、広江勇, 本郷次雄、箕浦久兵衛、森本肇、山本和太郎、吉見一子氏などが参加されました。参加者は40名でしたが、そのうちの10名は応植と植物病理学講座の大学院生でした。私が修士課程の1年目ですから、後に大活躍する応植下等族の後輩諸君はまだ顔を出していません。また、この会の設立計画のごく初期から深くかかわっておられた衣川氏のお名前がないのは不思議です。 

 談話会は、現在とは様子がかなり違いました。アマチュアの方もおられましたが菌学者の集まりです。研究対象は酵母菌や放線菌を含めて広い分野にわたっていました。また、菌学、植物生理学、植物病理学、発酵学と菌類の関わる広い領域を包含していました。ところが、濱田先生のご意向もあってアマチュアの方の参加が次第に増え、会合は専門家中心の講演会とアマチュア中心の採集会(現在の観察会)に分かれてゆきました。後者の流れを汲んだのが現在の談話会であると思います。この会からは立派なアマチュアが大勢でました。中には図鑑の執筆に関わるアマチュアと呼べないような人も何人かおられます。私は大学を去るまで談話会の庶務会計など事務全般を引き受けていました。会の開催時には、無論、多くの方が応援して下さいました。

 私は、濱田先生から「この人に案内状を出しといて」とメモを渡される人にアマチュアが多いことと採集会(現在は観察会)の頻度が多いことにはいささか不満でした。しかし、年に数回も会合を開けば直ぐに講師難に陥りました。濱田先生が一中、三高、京大の伝手で講師をお願いされ、私が代理で講師のご自宅にお礼にマツタケをお届けするというような有様でした。更に、先生の「会員の裾野を拡げよ。アマチュアは純粋や」というお言葉もあって言われる通りにしました。演者不足は助手や院生も講演するようになり、次第に緩和されました。

 先生のご尊父、濱田耕作(号は青陵)氏(1881~1938)は、京大の第11代総長を務められた方ですが、日本最初の考古学講座の初代教授、日本考古学の創立者です。しかし「考古学では飯は食えない」と言って専攻を希望する学生を断られたので、約20年間の教授ご在職中の考古学専攻の学生は20名ほどだったといわれています。他方、アマチュアには広く門戸を開放し、毎夕彼らを集めて茶話会を催されたそうです。その中から同志社普通学校卒(現在の高卒)の梅原末治氏(考古学講座2代目教授、文化功労者;当時の帝大教授の社会的地位は、今とは月とスッポンの違い)や小卒の末永雅雄氏(橿原考古学研究所初代所長で高松塚古墳の発見者、文化勲章受章者)など我が国の考古学の先達が輩出しました。先生にもご尊父のこのようなアマチュアに対する処し方が影響したのかもしれないと思います。濱田先生は「研究は大事だが、人を育てることも大切だ」と常日頃仰っていましたが、これもご尊父の影響かもしれません。

 キノコの成長ホルモンの話に戻ります。私は、U氏の前記の論文には引用文献が一切ないので、キノコの成長ホルモンは先輩が初めて提唱した説と思っていました。他方、顕花植物では1920年代からホルモンの研究が盛んでした。従って、当時は植物の仲間、隠花植物と思われていたキノコの成長もホルモンによって制御されていると考えるのはU氏ならずともごく自然なことと思いました。それで、文献を調べたところ、悪い予感は的中しました。A. H. R. Buller が『Researches on Fungi 』Vol.6 (1934) でPiloborus の胞子嚢柄の向日性を説明するのに成長ホルモンの概念を導入し、H. Borries がPlanta (1934) の長い独語論文にCoprinus lagopus Fr.の若い子実体の傘を除くと成長が止まることから、傘は成長ホルモンを分泌し、柄の成長帯に作用すると結論づけていました。  

 英国のBristol 大学の菌学のReader (Leaderではない)、Lilian E. Hawker女史にいたっては『Physiology of Fungi』(1950)に未発表データとして「若いエノキタケ子実体の傘を半分除去すると柄は屈曲する。また、傘を切り取り、その代わりに子実体抽出物を含ませた寒天塊を切断面の片側に寄せて置くと柄は曲がる」とまで書いているではありませんか。U氏はなぜこれらの文献を引用しなかったのか大変不思議でした。文献の見落としですまない大事です。私は、あらかじめこれらの文献を知っていたら、この研究テーマは絶対にお引き受けしなかったと思います。

 そのうえ、この研究を始めて1年もしないうちに、キノコには縁もゆかりもない人が「植物ホルモンは私の専門だからキノコのホルモンの研究も私の分野だ。私が指導する」と言い出しました。なぜこのような話が唐突にでてきたのか、今村・濱田両先生のご指示なのかどうかも分からず仕舞いですが、私は植物ホルモンの最先端の知識や実験法などを教えてもらえると単純に思って異を唱えませんでした。しかし、指導といっても燕麦試験法とIAAの抽出方法で、これらを詳述した実験書も既に出ており、ちょっとしたコツはあるものの指導が必要なほど特別な技術ではありません。しかも、IAAはキノコに作用しないことをU氏が論文の中で述べていましたので、まったく意味のない話で、当て外れでした。

 ホルモンの実体を明らかにするために、ヒダの抽出物を有機溶媒で分画して、それぞれの画分を水に溶かして寒天片に含ませてヒダを除去した子実体に与えると、非極性溶媒による画分には活性がなく、水やエタノールの画分に高い活性が出ました。また、イオン交換樹脂で分画すると両性電解質の画分が高い活性を示しました。この活性は熱にも比較的安定でした。両性電解質ですぐに思い浮かぶのはアミノ酸です。ツクリタケにはアミノ酸が多量に含まれているので、子実体の成長には栄養として関わっても成長ホルモンであるはずはないと思って、アミノ酸は効かないというデータを出すために子実体にアミノ酸を与えたところ、数種類のアミノ酸が10-3~10-4Mという比較的高い濃度で活性を示しました(日菌報4:103-110 ,1963)。

 アミノ酸の種類が複数であることや、その濃度の高さからホルモンとはとても言えません。アミノ酸が効くと分かって「これじゃ仕方がない」と気持ちが一気に萎んでしまいました。植物学会で発表せよと言われて嫌々ながら講演だけはしましたが、『蛋白質 核酸 酵素』(1961)で「第25回植物学会見聞記」として私の講演が取り上げられて「萩本ら(京大)が、たまたまツクリタケの子実体の生長にそのヒダから抽出したアミノ酸類が特に顕著な効果をもつことから、アミノ酸自体を生長ホルモンとして扱っている。これは分析のうえで多少せっかちな結論であるが、アミノ酸の役割をつかまえている点興味を呼ぶ」と恐れていた通りの批評をされる始末です。

 私の頭の中ではホルモンの存在を前提に研究を進めてきたのは誤りであったのではないかという疑念と後悔が噴出してきました。ヒダが成長ホルモンを作るというような皮相的な考え方でなく、子実体の本質的な役割を担うヒダが物質の代謝や移動を介して傘や柄の成長とどのように関わっているのか、いわば子実体が正常に発育するための統御機構を総合的に追求すべきであったと思えてきたのです。ともかく単純な物質主義の破綻です。「キノコの成長ホルモンは実在するか」と悩みました。当時の開花ホルモンの研究と同じような壁にぶつかりました。マツカサツエタケの妖怪性がツクリタケに乗り移ったのです。時既に遅く大学院博士課程も1年を残すだけの頃です。

 それで、大急ぎで子実体の成長、各部位のアミノ態窒素と蛋白窒素の定量分析、遊離アミノ酸の種類とそれぞれの量の解析を始めました。高速液体クロマトグラフィーやアミノ酸分析計などのない時代です。夏の暑いさなかにケールダール法での測定です。また、アミノ酸混合物を2次元濾紙クロマトグラフィーで分けて誘導体にし、分光光度計で濃度を測定しました。さらに、グルコサミン、キチンの生合成とのかかわりの実験を計画しましたが、これは計画倒れになりました。

 私が大学に入学して12日後の1953年4月25日は、James WatsonとFrancis CrickがDNAの二重らせん構造を「Nature」に発表した記念すべき日です。日本ではまったく注目されず、新聞にも載りませんでした。私がDNAの構造モデルを知ったのは、1956年9月の東京と京都での国際遺伝学会が終わった翌月に発行された『科學』10月号(特集 現代の遺伝学)にBeadleが寄稿した“遺伝子とは何か(What is gene?の吉川秀男・桑名譽共訳)”によってです。しかし、大学院に進んだ頃には日本でも分子生物学の研究が盛んになりました。1961年の博士課程最後の年にはFrançois JacobとJacques Monodのオペロン説の提唱やMarshall Nirenbergによる遺伝暗号の解明がありました。

 交配と算数と染色体観察の学問と思っていた遺伝学は、親から子への遺伝の学問であるだけではなく、親自身が生きていることの学問であり、生理学はもとより、進化学や分類学など生物学のあらゆる分野に深刻な影響を及ぼしそうな気がして慄然としました。そうなると自分のやっているキノコの成長ホルモンの研究は益々色褪せて見えました。さりとて、キノコの研究を分子生物学的に実施するようなことは応植ではとうてい不可能でした。  

 ある日、後輩のO君が「核酸の勉強をしませんか」と言ってきました。後輩と言っても年齢は殆ど違いません。よしきたともう一人のO君と3人で空いた講義室や附属植物園でJames N. Davidson『The biochemistry of the nucleic acids』(1960)を輪読しました。勿論、途中で挫折することなく完読しました。しかし、応植の多くの人には核酸は無縁の話でした。核酸を知らなくても当時の植物生理学や菌学はさして困ることもありませんでした。この事はすっかり忘れていましたが、一昨年末の「マツタケ懇話会」で久方ぶりに彼らに会って思い出しました。  

 私は、マツタケの研究にはまったく関わっていません。大学1回生の1953年10月に『自然』(8, 1953)に濱田先生がマツタケの地上部の成長曲線を地下部まで延長されて原基形成時期を推定され、その時期と地温との関係を論じておられるのを読んでこういう推理方法があるのかと強い印象を受けたこと、続いて2回生を終わった1955年の3月に衣川氏にご自分の研究フィールドである亀岡市矢田山の京都府マツタケ試験地の測量に連れて行っていただいたこと、濱田先生のお供で先生の研究フィールドの尼吹山にマツタケの傘を伏せるお手伝いをさせていただいたことがマツタケに触れたごくささやかな経験です。

 衣川氏は、矢田山で前記の『自然』に記述されている濱田先生の先駆的研究を継承され、真夏に毎日、山に氷を運んで地面を冷やして子実体を発生させることによって原基形成と温度の関係を実証的に解明されましたが、大阪府立大学に職を得られて後は応植でマツタケをテーマにしている院生はいなかったように思います(大阪府立大学紀要、農学・生物学14, 1963;『マツタケ―研究と増産―』1964)。

 濱田先生は、マツタケは難し過ぎて成果がでにくいので若い人にはテーマとして与えないという意味のことを話されたのを覚えています。しかし、そこへ二人のO君やS君が大学院にきて尼吹山でマツタケの研究を活発に推進しました。それで応植のマツタケ研究は衣川氏以来の活力を取り戻しました(写真 8)。彼らのインパクトは強烈で、S君の記述によると尼吹山のある岩倉(岩倉具視卿隠棲の地)に由来して呼ばれた岩倉学派が派閥を組んでいるように見られ、疑心暗鬼や被害妄想のタネになったらしいのです(『洛北岩倉誌』1995)。

 しかし、個性が強くて団結力は乾いた砂より脆い応植下等族の諸君が派閥を組むようなことはあろうはずがありません。彼らは全員立派な菌学・菌根学者になりました。私などは彼らやその後輩、さらに今回千葉菌類談話会の入会に際してお世話になったS君のお弟子さん(お名前をご著書で知っているだけです)まで含めてその足元にも到底及びません。仰ぎ見るような先生方ばかりですが、ここでは、後輩はすべて○○君にさせていただきます。

 その頃、今村先生から某製薬会社が植物成長調節の研究者を探しているから行かないか、設備もよいし研究費も大学とは1桁違うくらい潤沢だからとお声をかけて下さいました。植物病理学講座を介しての話だったようです。「私は高等植物の研究はやっておりませんし、それに会社には向かないので行きません」と一旦はお断りしました。それで先生はオーキシンやジベレリンの研究をしている、それこそ専門家の先輩に代えることを考慮されましたが、「彼は会社に向かないから駄目だ。やはり君に行ってもらいたい」ということになりました。結果的にみると先生の眼力が確かだったのか、私の適応力が高かったのか(これも先生の眼力の内?)分かりませんが・・・。

 応植は会社に向かないと自認している人たちの専攻する研究室です。会社へ就職した人は、私が隣の部屋に移ったあとの席を使った1年後輩のK君だけです。彼は博士課程の途中で会社に就職しましたが、その会社でも立派にマツタケなどキノコの研究を続けていました。クロレラの研究をしていた院生のY君から「なぜ会社などへ行くのですか。理解できません」と言われました。応植では会社員は命令に従って働くだけの奴隷と同じで、会社は落ちこぼれの行くところと思われているようでした。まして大企業とはいえごくごく小さな、出世にはおおよそ縁のない職場です。O君は「一乗寺のあんなとこね、皆長靴はいて畑やつてますよ。あっはは」と笑っていました。

 私は、応植での研究に限界を感じていただけでなく、指導に名を借りた限りなく寄生に近い片利共生にも嫌気がさしていました。会社への就職は、乗り気はしませんでしたが、とりあえずの転機に利用しようと思って今村先生のお話を受けることにしました。濱田先生は「一旦断ったのだろう」と怖いお顔をしておられました。今村先生には「将来、植物成長調節剤研究の指導者になりうる・・・」という当然のような推薦状を書いていただきました。この件を出戻りの旧制の院生に話しましたら「それだけ書いてもらえるのは大変なことですよ。僕なんか『ふらふらしていて使いものにならない』と書かれ、会社からこんな推薦状は困ると言われましたよ」でした。

 博士論文の原稿『Studies on the Growth of Fruit Body of Fungi』(1962)は、成長ホルモンの実体は分からないもののその存在を前提とした子実体の成長現象の説明ということで、私なりに出来上がっていました。その内容は既に発表したもの(Bot. Mag. Tokyo、1959; 同1960)と投稿準備中のもの (Bot. Mag. Tokyo, 1963a, b; Trans. Mycol. Soc. Japan, 1964) を編集し、さらにその後の新しい知見を付け加えたものです。濱田先生にご校閲していただいた原稿を今村先生に提出するために教授室に行ったところ「君は何歳だ。会社に博士号などもってゆけば嫌われるだけだ」です。しかし、原稿の受け取りまでは拒否されませんでした。他の研究室では、受け取りを拒絶されたうえに就職の門戸までも閉ざされてしまった人がいました。細かい事情は知りませんが、今だったらアカハラ、人権問題で裁判沙汰です。

 ところが、会社では「博士号はどうなっているのか」と言われて困りました。会社にとっては前年初めて薬学博士1名、この年に理・農・薬学博士各1名の3名を採用したつもりが博士でないのは困るわけです。他の大学の教授達は自分の弟子に早く学位を取らせるように会社に迫っている有様で、その違いに驚きました。ある日、化学部門の部長が「ジベレリン研究会で君の先生にお会いしたら、先生が『あんなのを採用されてさぞお困りでしよう』と言っておられたぞ」でそこにいた皆で大笑いになりました。

 私の学生時代は、学位の取得者は少なく、教授でも持っていない人がおられましたし、助教授の博士は濱田先生だけでした。先生方の頭の中には「末は博士が大臣か。学士様なら娘やるぞ」の明治の残影がおありだったのか、ともかく博士になるのは大変でした。博士号を授与できるのは旧7帝大にほぼ限られていたようでした。濱田先生はよく「子供は作ってからが大変だが、博士論文は作るまでが大変だ」と言っておられました。

 濱田先生はツチアケビの菌根とその共生菌であるナラタケに関する長いドイツ語の博士論文2編(Jap. J. Bot. 10:151-211, 1939; 同10:387-463, 1940)を出されて5年で学位を取得されました。しかし旧制の方々は一般に10年以上かけて分厚い博士論文を書き上げました。今村先生の学位取得も40歳台でした。気孔の開閉機構に関するドイツ語の大部の論文(1943年)で、あまつさえ戦時中であったために海外で読まれることなく過ぎ、先生の晩年になってようやく脚光を浴びました。

 博士号の取得には大学で職に就いているか資産家の子弟か妻の稼ぎや持参金があるなどよほど恵まれていないと生活に困るので、定時制高校に勤めて昼間に研究する昼行性院生と昼間は正規の教員の夜行性院生がいました。私は自宅から通学していたうえに博士課程から奨学金を貸与されたので大いに助かりましたが、念のために高校と中学の理科の教員免許状を取得しました。濱田先生から「資産家の○○さんが財産さえ守ってくれれば何をしてもよいから養子に来てくれる人はいないかと言ってはるぞ」と聞いた記憶があります。そのようなわけで先生方はなかなか新制度に馴染まれなかったことや旧制大学院の人達の新制度での学位取得が先だったという理由などもあったのでしよう。

 ところが、先輩から「今村先生は君の原稿を既に大学の職についている旧制の卒業生に見せて『これを見ろ。君はなにをぼやぼやしている』と叱咤激励しておられるぞ。君は先輩から恨まれているぞ」と言われました。結局、博士号は翌年の6月にいただきました。お世話になった両先生には申し訳ありませんが、炭酸の抜けた生温かいビールの味で特段の感慨も湧きませんでした。現在では博士号は研究者の免許状です。博士号は足の裏について飯粒と同じで取らないと気持ちが悪いが、かといって取っても食えない代物になりました。大勢の博士が高学歴プァーに泣き苦しんでいる時代です。応植出身の博士は、高度経済成長期の真っただ中でも職がなく、ボネリムシ(Bonellia)の雄になって研究に専念したいという先輩がいるような状況でした。ボネリムシの雄が専念しているのは生殖であって研究ではありませんが・・・。

 会社に入って間もないころに㈶発酵研究所の椿啓介氏から「勿体ない事をする」と言われましたし、本社の人から目黒の林業試験場(現在の森林総合研究所)で保護部長の今関氏(今関・本郷のきのこ図鑑で有名)にお会いしたら「勿体ない。勿体ない」と繰り返しておられたと聞きました。有難いお言葉ですが、価値がある研究であれば誰かが続けてくれるでしょうし、価値がなければ消え去るだけです。従って、私は菌学界のために勿体ないとはまったく思っていません。他方、自分のことを考えると、菌学から全く別の分野に変わることは「勿体ない」と言えば確かにその通りですが、キノコ研究では職のないことは中学の時の先生からご心配いただいていたことです。食料不足の時代にあってキノコで博士号というと嘲笑さえされた時代です。菌学に拘泥していては方向転換はできません。

 その頃、様々な菌学研究者から私の研究があちこちに引用されていると知らせてくれましたが、濱田先生から直接見せられた“Encyclopedia of plant physiology”の旧版での引用以外は一切見ておりません。アミノ酸については日菌報に投稿した総説「帽菌類子実体の発育の生理」(日菌報1963)で「印刷中」として一寸触れただけで、本論文は出していませんので、詳細なデータは未公開のままです。私の後で応植の誰かが実験を続けたという話も聞いていません。論文のことは、引用された文献を見るのも嫌、人から聞くのも嫌、自ら話すのはもっと嫌で、日本植物学会第28回大会(1963年)でのシンポジウム・菌類・での話題提供もお断りしました。キノコの成長ホルモンの研究はどうなったのかは今も知りません。

 

 今から振り返りますと、アミノ酸の位置づけには大いに問題があるとしても、アミノ酸が効いたのは事実であり、それがヒダから供給されなければならないということ、イタチタケ、コキララタケ、ヒメヒガサヒトヨ、ウシグソヒトヨの若い子実体の傘(ヒダだけをを除くことは不可能)を半分除去すると柄は傘の欠けた方に曲がること、さらにニガクリタケとウシグヒトヨの傘やマツタケのヒダのエタノール抽出物がツクリタケに作用したということは重要な知見ですから、学位論文に載せた未発表の成果も含めて論文として出版しておくべきだったと思います。

 会社の職場は、研究所の付属機関の課レベルの農園で、東山三十六峰の山麓にあって山あり、谷あり、渓流ありの変化に富んだ10haほどの敷地を占めていました(写真 9)。春の桜と秋の紅葉は見事でした。1950年代には標高100m余りのアカマツ‐コバノミツバツツジの山にマツタケが発生しました。戦前(1933年)から薬用植物の試験栽培をしているところに、1955年に農薬の生物試験部門を併設しました。農薬関係には30名ほどの人がいたと思います。京都府西北部の福知山市にも30haを超える広大な技術本部付属の農場があり、ここでも薬草の試験栽培と農薬の圃場試験をしており、マツタケの生える場所があったようです。その後、農薬の試験部門は農園、農場ともに薬用植物部門と切り離されて農薬試験部になり、さらに大阪にあった研究企画、合成、安全性、分析、製剤などの研究部門と一つの組織になって農薬研究所になりました。

 農園は研究施設を増築したばかりで、害虫制御や植物病害制御のグループの設備はなかなか立派でした。しかし、設備の内容は大学とはかなり違い、生理学や生化学の研究というよりは化合物の有効性を判定するための飼育・栽培・培養などの施設が大半でした。今村先生はこれらの設備をご覧になられ、そのうえ、研究や研究費(人件費、減価償却費、税金などさまざまな経費を含む)を大学と同じように理解されて立派な設備と潤沢な研究費と思われたようです。しかし、私のお世話になった植物成長制御グループは、実験室は新しかったのですが、古い電気乾燥器と定温器、顕微鏡が1台あっただけです。メンバーも年配の農学校出身の方がリーダーで、農業高校や中学校を終えた人達ばかりでした。

 

 私の仕事は、リーダーの指示で皆さんの試験成績の報告書や特許原稿を校閲することやスクリーニング試験の手伝いをすることくらいでした。実験をしようにも生物試験がヒエラルキー化した人員配置の中でルーチン作業として行われており、殆ど不可能でした。敢えてささやかな実験をすると「遊んでいる」という批難があがりました。飛び出さなかったのは、リーダーが正義感の強い、誠実な人だったことと自分で職場を作り変えるしか道はないと思ったからです。農園長は手荒な事をして波風を立てることを極度に恐れていましたので私なりに大人しくしていましたが、それでも「波風ばかり立てる困り者」と疎まれ、嫌われていたように思います。

 私は、おもに雑草学や植物化学調節学、農薬学といった分野で仕事をしました。そのためには有機化学、製剤学、毒性学、作物学、園芸学、土壌学など専門以外の幅広い知識が必要でしたが、知識は本や文献を読み、現場に出れば一応は分かることです。応植は潰しのきかない最たるところと自他ともに認めていましたが、怖気つかないで何にでも取り組めたのは、応植のお蔭だと感謝しています。キノコの研究の経験も大いに役立ちました(関菌報No.27,2009)。大学は勉強を習うところではなく、勉強の仕方を教わるところだということは、濱田先生のご指導の賜物です。先生の大事なお一言を聞き逃さないようにしながら師のお姿をみて学ぶのです。よく言えば放牧、悪く言えば放任です。

 アメリカの蝉ではありませんが、17年経って京都の農薬部門の長になり、苦労してなんとかやれるようになった研究もやめざるをえなくなりました。蝉と研究者は下にいるうちが花、上に出れば寿命は短いのです。キノコも同じです。それから3年半後には京都は無論のこと、研究企画、合成、製剤、安全性、分析の各部門と福知山のフィールドグループを統括する立場になりました。徒歩8分の職場からバスと電車で1時間40分かかる職場に変わり、朝6時10分に家を出る毎日です。当時、学園紛争で学生が先生を揶揄して「専門馬鹿」と言っていましたが、研究所長になって「専門馬鹿でないのは本当の馬鹿」だと確信しました。馬鹿になりついでに歴代所長の懸案でありながらどなたも実現できなかった3か所に分かれた研究所の筑波への統合を計画しました。

 研究所長で会社を終えるはずでしたが、たまたま所長に早くなり過ぎたために、在任5年半で予想しない東京本社への転勤を命ぜられました。事業部長室長という肩書で部下は次長の男性と秘書の女性各一人だけです。昼はアグロ事業(農薬・動物薬などの農業関連事業)の長期事業戦略の策定と研究所の建設の仕事をし、夜と休日は研究所の移転に備えて茨城県に出かけて農場用地の買収を手掛けました。10ha、50戸を超える農家を対象に地上げ屋をやらされるとは思っても見ませんでした。「素人にそんなことできるか」と馬鹿にしていた人もいたようですが、馬鹿でないとできない仕事です。次長や協力者の大変な努力と地元の皆さんのご理解を得て2年余りで目処がつきました。また、この2年間に経営を懸命に勉強しました。経営学と生態学には沢山の共通点があることを知りました。今日では環境、共生、競争、棲み分け、適応、ニッチなどの生態学用語が経営でも使われています。

 長期事業戦略といっても、皆さんは目先の事で精一杯のうえに、私の部署には予算配分権と人事権がないので、最高責任者が本気で私共の立案した戦略を実行しようという気になってくれなければ画餅にすぎません。実行されそうもない事業計画の策定で多忙を極める単身赴任の窓際生活は空しい限りですので、研究所の竣工を見届けて転身を図ろうと考えていました。その間、あちこちからお声をかけていただいたりもしました。ところが、窓際族のはずが一転、農薬・動物薬両事業(アグロ事業)の最高責任者として経営に当ることになり、研究開発から生産、国内外の営業まで仕事が広がって更に多忙な分刻みの毎日が始まりました。

 事業はどん底で、有難迷惑の(苦)渋役です。本当に不眠不休で働きました。欧米への海外出張さえも2~3日の日程でどんなに遅く日本に着いても、翌朝は定時出勤です。会社の仕事以外では日本農薬工業会の安全対策委員長や㈶緑の安全推進協会の安全推進委員長にも数年間就いていました。併せて日本雑草学会や植物化学調節学会の評議員、前者の副会長を務めました。これは、安全とはなにか、自然とはなにか、自然保護とはなにかを考える良い機会で、今も考え続けています。

 心身ともによくもったと思いますが、もう少し続けておれば癌があちこちに転移して危ないところでした。大企業の重役は傍目には優雅に見えるかもしれませんが、報酬は成績次第どころか成績不振で就任1期目で退任させられたり(新入社員として再入社した人もいた)、病気の発見が遅れて命を落としたりです。まさに「斃れて後已む」です。特権は飛行機の1等に乗れるのと死ねば社葬にしてくれることだけだと言っていた重役がいましが、その人は間もなくその通りになりました。私は、墜落する時は1等もエコノミーも一緒ですし、1等はやたらと高いので空席にサービスで乗せてくれる以外には殆ど乗りませんでした。

 振り返りますと私はどこの部署でも不振になると引っ張り出される貧乏籤引きの再建屋でした。研究や事業がうまく立ち行かなくなると日頃は疎まれている私にお鉢が回ってきます。仕事が安定し、うまくいきだすとお払い箱です。撹乱地適応型人間、やさしく言えば雑草型人間、樹木ではアカマツです。S君は怒るかもしれませんが、彼の打ち建てた大金字塔のアンモニア菌みたいです(吹春俊光『きのこの下に死体が眠る?!』2009)。過去の柵がないうえに失うものがないので現状がどうなっていようが怖くありません。「大凶は大吉の始まり」「改革の最大のチャンス」と思うしかありません。勿論、損得抜きで協力してくれた多くの熱意溢れる部下がいたことや社内の諸部門の協力、先輩方の励ましがあったからこそできたことです。  

 会社に行ってキノコの事はまったく忘れたわけではありません。朝日新聞がヒラタケをシメジといって栽培している記事を写真入りで大きく報道していたのを見て投書をしたことがあります(写真10)。日本菌学会も関西菌類談話会も引き続き入会していました。会社で新規事業を立ち上げる話が持ち上がり、何をするかの議論で3Mを提案しました。マグロ・マツタケ・マツバガニです。しかし、嘲笑を浴びただけです。有機合成研究者や物理化学者のような純粋に化学物質を相手にする人と生き物を相手にする人では、思考の根底に根本的な違いがあるような気がします。その一つは曖昧さに対する許容度の違いです。3Mは曖昧さの最たるもので、事業計画の立て難い代物であることは確かです。

濱田先生から「S君がな、山に鯖を置いてよる。すると面白いキノコが生えてくる。君もやらへんか」と仰っていました。ピカソの若いときの作品に、裸婦に鯖がぶら下がっているちょっと際どい絵があります。題名は「Le maquereau」(1902-03作)です。これには意味が二つあります。この絵の意味するところは、当時の応植の院生の願望にかなうような気がしないでもありません。S君はまさかこの絵をヒントにしたわけではないと思いますが、わが道を行く彼らしくユニークな発想に感服しました。後年、彼から論文の別刷を送られて、アンモニア菌も大発見ですが、生物多様性の重要性を絵にかいたようなモグラ(動物界)、ブナ科植物(植物界)、ナガエノスギタケ(菌界)の見事な3界共生の発見に驚きました。「モグラは家の建築費が高くつくので家を長期に使用する必要があり、そのためにキノコに便所掃除をさせるのではないか」とはまったく恐れ入りました。

 S君の研究に対する徹底ぶりはよく分かっていたので、山への鯖撒きをして彼の邪魔にしかならないようなことをする気は毛頭ありませんでしたが、松毬に生えるキノコをもう一度見直せばよかったと思わぬでもありません。しかし、休日も出勤して実験をしていた時代でしたので、そのことは思いつきませんでした。それでも、関西菌類談話会の講演会や採集会(観察会)には時たま出席していました。関西菌類談話会50年記念誌(2008)に「濱田先生の写真と採集会参加者サイン」という記事があり、1975年6月15日の採集会の際の私と長女(当時7歳)の署名が残っています。しかし、いつの間にか学会も談話会も退会してしまいました。製本した学会誌も友人に譲ってしまいました。今所蔵しているのは、濱田家から寄贈されたものです。

 応植を去って38年後、2000年6月末に勤めを辞した機会に自宅でできる研究課題をいろいろ探しました。昭和天皇のヒドロ虫類のご研究の真似ではないのですが、誰も相手にしそうにない生物で、従って他人の邪魔をせず、併せて、この点は俗人の私は天皇陛下とは違いますが、他人からも邪魔されないという基準で探して松毬に生える3種類のキノコの研究を再開することを思い立ちました(関菌報No.26, 2006;同 No.27,2009)。晩年の今村先生のお姿と重ね合わせて可笑しくなりました。

 先生は、甲子園大学学長を辞められてから水中で特殊な進化を遂げて苔のような形になった顕花植物カワゴケソウ科植物の研究を何十年振りかで再開され、ご自宅から近いこともあり、春から秋には私の職場の中を流れる渓流(水温は高い方が好ましいが、急流が必要なために渓流を利用)で栽培しておられました。先生はこの植物をご郷里の鹿児島県の川内川の支流久富木川で子供のころから見慣れておられましたが、郡場先生の話を聞かれてカワゴケソウ科植物と認識され、大学院の1年目の夏休み(1927)に確認されて帝国学士院紀要に英文で発表されました(Proc. of the Imper. Acad. 3, 1927;採集と飼育34, 1971;植物と自然11, 1977)。先生は鹿児島や宮崎に出かけられてカワゴケソウ科植物の自生地でも研究をされていました。お土産にかるかんをわざわざ私の家にご自分で届けて下さいました。  

 

 松毬に生えるキノコの研究の再開で問題になるのは、発生地を探すことです。京都の松の多くは、マツノザイセンチュウに侵されて枯死してしまっています。松が残っているのは神社仏閣や公園ですが、下草や松葉、松毬がきれいに除かれていいます。結局、その年は松毬に生えるキノコに出会えずに終わってしまいました。ところが翌年の7月に四手井淑子著『キノコ物語』(かもがわ出版、2001)という救いの神が現れました。この本の「京都御所のキノコについて」の中にマツカサキノコモドキ、ニセマツカサシメジ、マツカサタケの3種類が御苑に発生することが書かれていました。景観や見栄えを重んずる京都御苑での発生は無理であろうと推察したのは間違いでした。あまり人手を入れないようにしておられる場所には目的のキノコがよく発生することが分かりました(写真11)。

 しかし、御苑のキノコは観察することはできても採取することができません。そこで、鴨沂高校(元府一)の向かい側、梨木神社・清和院御門から寺町御門にかけて、寺町通沿いの松並木の下を丹念に探しました。御苑の松毬腐生茸の胞子がここまで飛んできて松毬についているはずと思ったからです。その推察どおり寺町御門付近で3種類のキノコを見つけました。ここではキノコは踏みつけられ、また雑草と一緒に刈り取られて放置されており、採集禁止の立て札もないので「ここならよかろう」と勝手に判断してキノコや松毬を頂戴しました。この付近も御苑の管理地で採集禁止だということはずっと後になって知りました。また、宇治市の黄檗山万福寺を訪ねた折に1年間学んだかつての宇治分校(現在の宇治キャンパス)に松があったのを思い出して調べさせてもらいましたところ、マツカサキノコモドキを見つけました。

  こうして2001年11月4日(日)から松毬に生えるキノコの研究を46年振りに再開しました。とはいえ、菌学・キノコに関する本格的な論文は、菌遊を始めるまではK君やS君が時たま送ってくれたもの以外は何十年も読んでいません。「キノコの研究をしています」というのはおこがましい限りですし、さりとてアマチュアですというのもアマチュアの方に申し訳ない気がします。それで「菌遊屋です」、もう少し上品に表現する時は「菌遊学をやっています」と言うことしています。誰もサラ金業者をしているとは思いませんが、「元経営者だから金融学か」と勝手の思ってくれる人が稀にいます。私は、キノコに関してはプロでもアマでもなく、野次馬と思っています。だから「菌遊屋」「遊び人の菌さん」が一番ぴったりです。

 具体的に何をしているか少し紹介することにします。その前に松毬に生えるキノコをもう少し格好よく表現するために、マツ科の毬果に特異的に腐生するという意味で松毬腐生茸ないしは松毬絶対腐生茸という私的造語を使っています。松毬腐朽茸も考慮したことは勿論です。腐生は寄生や共生と同じ栄養摂取法からみた概念ですが、腐朽はキノコの生活の結果を意味する概念であり、さらに人間的価値観の臭いがするので、前者を採用しました。また、松毬はマツ科全般に通用する用語なのか、あるいはマツ属の毬果だけに対する言葉なのか、議論の余地がありそうですが、マツ科全般の毬果に対する呼称として用いました。

 菌遊の再出発は、学生時代に懲りましたので、培養一点張りはやめて松毬に生えるキノコの生態をじっくり観察することにしました。観察は4つのレベルで行っています。即ち、①フィールド観察(京都御苑)、②自宅の屋外での観察と実験、③自宅室内での培土を使わない実験、④純粋培養実験です。①は10月から3月までは月曜日ごとに娘が乗り古した自転車で約5kmを30分ほど走って京都御苑の東北域、京都迎賓館の辺りで調査します。調査といっても、キノコを数えることと観察だけです。最高最低地温や雨量を測りたいのですが、機器の設定はとても無理です。すぐなくなるか壊されてしまいます。

 私が観察の対象にしている松毬腐生茸は、マツカサキノコモドキStrobilurus stephanocystis (Hora)Sing.、ニセマツカサシメジBaeospora myosura (Fr.:Fr.)Sing.、マツカサタケAuriscalpium vulgare S. F. Grayの3種類です。この他にMycenaの1種(複数種?)(写真12)やカエンタケと同属のPodostroma属の1種(写真13)が稀に観察されます。前者はM. seynesii Quélによく似ていますが、私には同定できません。なお、MycenaとPodostromaの属の同定は著名な京都のキノコアドバザーの小寺祐三氏によるものですが、種の同定にまでは至っておりません。それで、同定について皆さんのご協力をえるために、今年の2月13日の関西菌類談話会第477回例会で小寺氏と一緒に「京都御苑の松毬に生えるMycena属キノコについて」の題名で発表させていただきました。  

 実はMycena属やPodostroma属のキノコは、自宅で発生したことによって御苑でも発生するはずと確信して御苑内を探して確認したものです。Mycena属のキノコは、通常は灰褐色ですが、赤褐色や赤紫色のものがごく希に自宅のプランターの松毬に発生します。また、この2属2種類以外にも3種類のハラタケ類のキノコが夏季に自宅のプランターに発生しました。自宅で栽培しますと、栽培地が異常高温になったり、松毬の乾燥を恐れて頻繁に灌水したりするので自然状態では見られないキノコが発生するということでしようか。自宅での栽培は野外観察に貴重な情報を提供してくれます。

 マツカサキノコモドキ、ニセマツカサシメジ、マツカサタケは、御苑内のあちこちに発生しますが、迎賓館の周辺には特によく生えます。その理由は、ここではマツ類と競合して夏緑広葉樹がよく茂り、春から秋にかけて下草も生えるにまかされ、落葉も除去されずにそのままにされているので気候が緩和されているだけでなく、松毬の乾燥が防がれているからです。他の場所では、夏緑広葉樹の密度が低くて、直射日光に晒され、下草は刈取られ、そのうえ松毬や落葉は除去されるので、松毬腐生茸は生えないか、生えてもごくわずかです。

 松毬腐生茸に好適な環境は、当然ながら調査する私にはありがたくない環境です。10月から11月中旬まではカの襲来とクモの巣、さらにイノコヅチの種子に悩まされます。11月末からはキノコは落葉に覆われてしまうので、調査に多大の労力と時間がかります。その上、太陽は早く沈み、林の中は暗くなります。曇天の日にはなおさらです。冬になると多数のカラスが飛来して落葉をかき混ぜ、松毬をほじくり出し、跳ね飛ばします。雪に埋まって調査ができなくなることもあります。高い木々からは半分氷になった雪が落ちてきます。しかし、これらはいずれも自然現象であり、大部分はキノコ発生の好適条件として甘受しなければなりません。さらに、カやクモ、イノコズチは調査地への人びとの立ち入りを阻んでくれるので、有難い生き物、私の共生生物と積極的に評価することにしています。

 私にとっても松毬腐生茸にとっても一番厄介な生き物は、ヒトです。環境省京都御苑管理事務所は母と子の森を成行きに任せているわけではありません。景観の維持と来訪者の安全のためにいろいろと配慮してくれています。秋から冬にかけて機械による下草の刈取りや樹上の枯れ枝の剪定、枯れた木の伐採などが行われます。しかし、下草が刈取られる際には、地表の松毬だけではなく、土中に埋まった松毬まで掘り起こされてしまい、キノコも切られてしまいます。私には大いに迷惑ですが、御苑は私のためだけにあるわけではないので諦観するほかありません。

 枯れ枝の処分や枯木の伐採時、自然観察会の開催時などにも攪乱がつきまといます。ある日、自然観察の一団がやってきました。「面白いキノコを見つけましたね。これは裏がひだではなく針になっています。マツカサタケと言います」と聞いたことのある講師の声がします。「さては・・・」とすぐに見に行くと案の定、繁殖を促すために新しい大きな松毬で囲っておいたマツカサタケがなくなっていました。また、ある時は、伐採されたケヤキかムクの大木に大きなヒラタケが沢山発生していたので、笑われそうですが、松毬にヒラタケが発生するかどうか調べようと思ってヒラタケの傘の下に沢山の松毬を集めて置いておきました。胞子がたっぷり落ちたところで、その松毬を松毬腐生茸の発生地へ移す予定でした。ヒラタケは採られても松毬が残ればそれで私の目的を達するので安心していましたが、2,3日後に松毬の回収に来たらヒラタケは無論のこと、なんと松毬まですっかりなくなっていました。

 御苑は生きた動植物といわず、銀杏や椎の実、松毬、落ち葉など一切の持ち出しが禁止されているそうですが、私がいつも通る石薬師御門の内側の看板には「植物をとらないで下さい」としか書いてありません。来苑者はキノコ、銀杏・シイ属やコナラ属の堅果、松毬などを採集しています。ご夫婦共に宮中歌会始の選者を務められた有名な歌人の奥様が、昨年、新聞に一時期家族全員キノコにはまって御苑でさまざまな種類のキノコを採集して食べたというようなことを書いておられました。まさか、生物五界説でキノコは植物ではないから採集お構いなしと考えておられる訳ではないだろう思いますが・・・。私がキノコの観察中に通りがかりの人から尋ねられるのは殆どが「食べられますか」です。「松茸を探しているのでしよう」と執拗に尋ねられて困ったこともあります。

 このように調査に苦労はつきものですが、緑に包まれた、静かな御苑での調査は、思考にも健康にも大いに有益であると感謝しています。大都会の中にこのような場所があるのは本当に素晴らしいことです。しかし、私は御苑の松毬腐生茸の今後については、松毬腐生茸がよく生える環境は松林の遷移が進みつつある状況を意味しており、早晩、松毬腐生茸が生えなくなることを心配しています。松毬腐生茸の生える環境を維持するには、それに相応しい手入れが必要で、そのためには環境や景観、さらには自然をどのように認識するかというむつかしい問題に直面します。  

 松毬腐生茸の菌糸にとって、いつも鱗片が閉じているほどに松毬が湿っている必要はありませんが、鱗片が長期に亘って開いているような乾燥地では成長できません。そのうえ、子実体形成期には十分な湿りが必要です。従って、キノコの発生地は樹木、それも高い木々に覆われていて直射日光が遮られ、夏と冬の気候が緩和されるのが良いようです。さらに松毬が落葉で直接覆われていたり、背の高い草本植物が密生したりする中にあるのが理想的です。しかし、日陰であれば、初冬になって夜露がよく降りるようになると、キノコは地面を覆うように低く生えている草本の下からでも生えてくるようになります。

 秋に雨の多い年には、下草や落葉のないところでさえもマツカサキノコモドキが生えていることがありますが、その際の松毬は小型です。大型の松毬は土の表面で乾燥したり、人為的に除去されたりしますが、小型の松毬は土壌表面のわずかな窪みにはまり込み、適度な水分を保持して子実体を発生させることができるようです。それでは松毬は、湿った場所がよいのかというと、必ずしもそうではありません。キノコがよく発生する松毬を水はけの悪い土壌中に埋めると朽ちて崩壊してしまいます。松毬腐生茸の菌糸の成長や子実体発生には、松毬を取り巻くミクロの環境が非常に重要なように思えます。

 発生地の松毬を観察すると、マツカサキノコモドキとニセマツカサシメジの子実体が生える松毬は土中に半分くらい埋まっており、その上を砕けた落葉片が薄く覆っているような状態です。更にその上を晩秋から初冬にかけて新しい落ち葉が覆います。落ち葉は、胞子の発芽や菌糸の成長に必要な保温と保湿に重要な役割を果たしているように思えてなりません。私は、今までの実験データから松毬の中で成育している菌糸はよく乾燥に耐え、雨や雪が降って松毬が湿れば菌糸は成長し、乾けば耐えるような繰り返しの中で、9月末から10月初旬の気温の低下と秋雨や台風の雨によって10月初旬に子実体原基が形成され、11月初旬から発生し始めると推察しています。

 マツカサキノコモドキとニセマツカサシメジの発生は11月下旬から12月中旬にかけて最盛期を迎えますが、前者の発生期間は後者よりも明らかに長く、年が明けても数は少なくなりますが、落ち葉の下、場合によっては雪の下でも発生しているのが見られます。発生数は、マツカサキノコモドキが圧倒的に多く、次いでニセマツカサシメジです。従って、各地の観察会ではマツカサキノコモドキの報告はあっても、ニセマツカサシメジの記録がないことが間々あります。マツカサタケは夏の酷暑(乾燥)時と冬の厳寒期を除けばいつでも発生しますが、数はわずかです。Mycena sp. とPodostroma sp.の数はそれよりも更に少ないです。

 松毬には松毬腐生茸以外の多種類の菌類(笠井一浩「アカマツ毬果の分解過程における菌類相の変遷と菌類バイオマス」『広島大学総合科学部紀要Ⅳ理系編、第22巻』1996)やハエの仲間(?)、トビムシ、アリ、シロアリ、ダニ、線虫、ミミズ、ヤスデなど様々な小動物が生活しています。松毬はミクロコスモスと言ってもよいような気がします。松毬の乾燥は松毬腐生茸が他の競争者との生存競争に打ち勝つ好機ではないかと想像しています。  松毬腐生茸が生えるような条件を満たす松林は、遷移が進んで夏緑広葉樹が大きく育った林、言い換えれば松が終焉を迎えつつある林を意味します。若山牧水が千本松原を詠んだ「茂りあう雑木のすがた静かなり抜き出で立てる老松はなお」の情景です。事実、御苑の母と子の森ではアカマツとクロマツは枝枯れが多いだけでなく、少しずつですが、枯死して伐採されています。林床にはマツ類の幼植物の姿はありません。これはマツ類が陽性植物であることのほかに、下草とともに刈取られているのかもしれません。松毬腐生茸の発生は、まさに松の挽歌という気がします。これはとりもなおさず松毬腐生茸にとっても衰退への序曲です。

 2番目は私の家の屋外での観察と実験です。御苑には正月でも、少しくらいの雨でも定期的に行きますが、やはり不便です。自宅で栽培するのが最も便利です。清和院御門から寺町御門、梨木神社周辺の寺町通り沿いで拾い集めた松毬を庭の周辺の木陰において発生を待ちました。キノコは翌年の2002年から3種類とも生え始め、年々徐々に増加しています。今では大変便利に観察や実験に使っています。毎年、近隣から採集した松毬を供給して発生を絶やさないようにしています。さらに、近年は環境省京都御苑管理事務所のご厚意で御苑内からも松毬(栂毬果を含む)をいただいています。  

 自宅の松毬腐生茸の調査地は、2㎡と5㎡の二つです。一つはツバキとレンギョウの樹下、もう一か所はツツジ類の下です。庭には調査地を覆う大木がありませんので、夏場はよく乾きます。それで仕方なく散水します。それでもマツカサキノコモドキ、ニセマツカサシメジ、マツカサタケ、Mycena sp.、Podostroma sp.の少なくとも5種類が生えます。その他に実験に使うキノコや菌糸の繁殖した松毬を採取するための栽培場を設けています。実験に応じて使い分ける様々なプランターも用意しています。プランターには前記5種類以外のハラタケ目の松毬腐生茸が生えるようですが、私には同定できません。

 今、庭で実施している観察・実験は、御苑の観察に対応した4種類の子実体の発生消長、松毬が地上に落下してから子実体が発生するまでの期間、胞子を接種した松毬から子実体が発生するまでの期間、同一松毬上での2種類以上の発生割合(混合発生割合)、子実体原基形成と地温の関係、松毬の大きさ(風乾重)と子実体形成の関係、松毬の子実体発生能力の回復期間、覆土深度と子実体発生の関係、採集松毬の松毬腐生茸感染率、子実体発生可能松毬の風乾期間と次年度発生の関係、マツカサキノコモドキの地下部の柄の長さと子実体の大きさ・重量との関係、樹上の松毬に胞子が付着しているかどうか、マツ属の松毬にはマツカサキノコモドキの方がはるかに沢山生えるのに、ツガの毬果にはなぜニセマツカサシメジが圧倒的に多いのかなど原因の究明や調査、マツカサタケの傘の再生や分枝、柄による他の松毬への移行の有無(特殊な条件で育てると柄が他の松毬に取り着く)の調査など沢山あります。

 その他、ナメクジの3種類のキノコに対する嗜好性を調べています。ナメクジはマツカサキノコモドキしか食べないようです。これがなければ他のキノコで代用するのかどうか分かりません。市販のキノコはまだ試していません。2007年の記録によると、プランターに埋め込んだ松毬から子実体が地上に現れた11月3日から9日までの7日間に98頭のナメクジを退治しました。よほど美味しいのか12月中旬でも夜間に出てき来て食べます。胞子は糞に混じって松毬に感染するのでしようか。  

 3番目は培土を使わない室内実験です。松毬に胞子を接種して食品用の容器で栽培しています。マツカサキノコモドキ、ニセマツカサシメジ、マツカサタケのいずれも胞子接種で発生しますが、発生ムラが大きくて悩まされています。他方、前シーズンに子実体が発生した松毬とツガ毬果の栽培は比較的うまくゆきます。これを利用して恒温器内で温度と子実体形成の関係や暗黒条件下での子実体形成について調べています。子実体形成には光の存在は絶対条件ではなさそうです。これらの実験では、子実体数を数えますが、ニセマツカサシメジでは1つの松毬に多い時には千個近い原基ができます。多数の原基を数える調査は高貴高齢者にはとても応えます。しかし、そこから成長する子実体は数本が普通です。  

 ツクリタケ子実体も栽培床が見えなくなるくらい発生しますが、そのまま放置しますと胞子を散布するまで成長するのはわずかで、殆どの原基は成長せずに死んでしまいます。マツカサキノコモドキの子実体原基の数はそれほど多くなく、発生した原基は概ね成長します。ただし、この両者の原基は人の目に触れる時期にかなりの違いがあります。といいますのは、ニセマツカサシメジの原基は、通常、松毬鱗片の表面から発生しますが、マツカサキノコモドキの原基は鱗片の内側に形成され、肉眼で見えるのは閉じた鱗片内でかなり成長してからです。この原基の発生場所の違いは、両種の同定に利用できます。どちらの種類か分からない時は、胞子を検鏡すればよいのですが、野外で手っ取り早く同定したい場合は、鱗片を剥がしてみると大抵判断できます。

 この他、子実体の発生可能な松毬を一定の温度に置いて後、定期的に16-17℃に移し、いつ頃から発生能力を回復するかをみたり、1つの松毬に複数種の胞子を着けたりしています。松毬に生える前記4種類が、共同生活者なのか、隣人を知らないマンション族なのか、仲の悪い隣人なのか是非知りたいところです。でも今のところうまくゆきません。いたずらのような実験も沢山あります。子実体が発生した松毬から鱗片を剥がして、その1片1片からの翌年の発生を調べますと、極めて小さな子実体が発生します。ニセマツカサシメジでは複数個が発生することも珍しいことではありません。子実体原基の発生した松毬を逆さにしたり、瓶内に糸で吊るしたり、松毬にエノキタケやヒラタケの胞子を接種したりもしています。マツカサタケの黒変、固化した古い子実体を適当な温度と湿度のもとに置くと柄が新たに発生してきて傘ができ、正常な子実体になります。まさに菌遊・菌楽の世界です。

 実験をしていますと、ときどき迷惑なオマケがつきます。植え付けてもいないマツカサタケやMycena sp.、Podostroma sp.が生えてきます。どこからやってきたのか、松毬に胞子や菌糸が着いていたのか、それともわが家には5種類のキノコの胞子が飛びまわっているのか、なんとも不思議です。松毬を水に浸して十分吸水させ、水を切った松毬の上にニセマツカサシメジの傘を24時間載せて、綺麗な胞子紋を確認して栽培すると2‐3年して生えてきたのがマツカサキノコモドキだったり、マツカサタケだったりしたことも度々あります。

 無論、生きた胞子や菌糸が何年も風乾貯蔵した松毬にあらかじめ着いていたり、キノコの同定を間違えていたりすれば、そのようになりますが、まず考えられません。空気中の胞子が着いた可能性は否定できませんが、ニセマツカサシメジの何万個もの胞子に競争して勝てるのでしようか。マツカサキノコモドキもニセマツカサシメジも、胞子の生存期間はかなり長くて数カ月に及びますので、ニセマツカサシメジの何万個もの胞子が全て死んでいたということは考えられません。また妖怪のお出ましかと悩んでいましたが、ちょっとしたアイデアが浮かびましたので、現在、実験中です。結果が出るのは2~3年先ですが、それまで元気で長生きを心がけます。  

 最後の4番目は、純粋培養実験です。マツカサキノコモドキ、ニセマツカサシメジ、Mycena sp.は寒天培地や森本彦三郎氏発明の米糠・鋸屑培地では発生しません。Podostroma sp.は現在のところ純粋培養の対象にしていません。先ずは、松毬を培地にして発生させるのが先決と考えて何度も繰り返し実験しています。オートクレーブは大き過ぎて兎小屋のわが家に置けません。仕方がないので高圧鍋を使っています。松毬が入るような適度な培養容器としては、様々な食品の空瓶を利用しています。わが家では、味や値段よりも容器がキノコ栽培に使えるかどうかが商品選択の第一基準です。従って、当然のことながら一度決めたら数を揃えるために同じメーカーのものばかり買います。しかし、メーカーが、時たま容器を変更するので困ります。

 困りついでに言えば、家中に書籍、文献、培養瓶などが散らかっています。会社を辞めて菌遊をするのであれば、地下室を作っておくべきであったと悔やまれてなりません。妻に将来はバリヤーフリーでないと困ると言われていますが、バリヤーフリーにすると早く呆けるから駄目だ、バリヤーリッチが脳にも健康にも良いと言っています。もう一つ困りますのは、旅行ができないことです。特に気温が下がり始める9月中旬から年内は毎日、何か所かの最高・最低気温を測りますし(それ以外の時期は毎週1回)、発生したキノコの観察・調査で超多忙です。キノコ離婚というのもあるそうですから・・・。

 純粋培養では培養基を長く置く必要がありますので、培地の乾燥に困ります。特にツガの毬果をそのまま培地に使いますと直ぐ乾燥します。途中で滅菌水を補給しますと、無菌室もない状態ですから、雑菌の混入が起こります。それで、培養器をプラスチック製の蓋つきの箱に入れて蒸散を防いでいます。この9年余りの間に純粋培養を何十回となく繰り返しました。マツカサキノコモドキの寒天培養菌糸を2003年12月下旬に松毬に接種して2005年11月初旬に子実体の発生を見ました(写真14)。続いてニセマツカサシメジの子実体形成にも成功しました(写真15)。さらに、胞子から培養して子実体を形成させることにも成功しました。しかし、マツカサキノコモドキとニセマツカサシメジを並行的に培養しても、どちらかの種類しか生えないことが多いです。自然界では両種が一つの松毬に生えることも決して珍しくありません。

 両種が一緒に生える条件がどういうものか今は分かりません。両種を安定的に、かつ同一条件で同時に生やすことが現在の課題です。これが克服できれば、両種あるいは3種、4種の混合培養を試みる積りです。自然界あるいは栽培では様々な組み合わせの混合発生を観察しています。実は、先走りして何回か混合培養を試みましたが、失敗でした。なお、純粋培養では松毬の破砕片の培地でも子実体は発生しますが、松毬の場合と同じ問題にぶつかっています。松毬に生えるキノコを松毬の培地で純粋培養して子実体ができるのは当然ではないかという声が聞こえてきそうです。しかし、これらの純粋培養の成功によって両種が土壌からも養分を吸収したり、他の微生物が産出する代謝産物を利用したり、両種が排出する自己中毒物質を他の微生物が排除したりして子実体ができる可能性は否定できないまでも、それらは必須ではないということが分かりました。  

 これも遊びですが、松毬を培地にして野生種のエノキタケやヒラタケを培養すると果たして菌糸は成長するか、子実体は発生するのか試してみましたら、両種とも見事に発生しました。両種の菌糸は松毬や松毬破砕片の表面を速やかに、濃密に覆い、子実体を形成しました。そして発生は3~4年続きました。珍種マツカサエノキタケとマツカサヒラタケですが、両種は松毬の表面に滲出した物質を養分にして菌糸を成長させ、松毬表面ないしは鱗片の浅い部分に繁殖した菌糸だけで子実体を形成したと思われます。

 マツカサタケも松毬培地で速やかに子実体を形成しますが、同じことと思います。「滅菌とは何をしているのか」と考えさせられます。これに反して、マツカサキノコモドキとニセマツカサシメジの子実体形成には松毬鱗片の組織の内部が菌糸で満たされなければならず、菌糸は比較的速く松毬の表面を覆っても内部にまで浸潤するにはかなりの日数を要するのではないかと推察しています。しかし、困ったことに数年待っても生えてこない場合が多いので、家の中は培養瓶だらけになっています。盛り沢山なことをいろいろとしておりますが、期待通りにいかないことが殆どです。  

 ところで、様々な人から「マツタケならともかく、松毬に生えるキノコを研究して何になりますか」としばしば尋ねられます。「何の役に立つか分かりません。面白いから研究しているだけです」と答えると「何が面白いのですか」と続きます。「転がされたり、蹴飛ばされたり、干されたり、湿らされたりする不安定な、しかも極めて限られた狭い環境に生きている、なぜこんなところで生きているのかが面白いです」と答えています。松毬腐生茸は好きで松毬にとりついたのか、他所から松毬に逃げ出してきたのか分かりませんが、私が観察している5種類はすべて別属です。系統的に関係の薄い種が太古の昔に新天地目指してやってきたのではないかと空想しています。更に、その目的は環境変動による松毬の状態の変動を利用して他の生物との競争を勝ち抜く戦略ではなかったかと想像しています。そしてこの想像が正しいか否か確かめることを楽しみにしています。  

 今年の12月18日は濱田先生のご生誕100年に当ります。先生と私の年齢差は丁度2周りでした。先生のご略歴については、小川眞君が『マツタケの話』(築地書館、1984)に詳しく書いておられますので、ここでは触れませんが、そのお人柄で門下生に大きな影響を与えられました。先生は声を荒げて怒ったり、逆にねちねちと説教されたりされるようなことは決してありませんでした。短いフレーズで注意されることと睨みつけられるだけです。迂闊に質問をすると「人にものを尋ねるには礼儀がある。まず自分で調べてから来い。これを読め」です。私は、ドイツ文字のWilhelm Pfefferの大著『Pflanzenphysiologie』(Leipzig ,1881)の1,2巻をどさっと渡されたことがあります。読まないとお返し出来ないので、苦労して必要な個所だけ読みました。

 ある時は「これを読んでみろ」と先生の目の前でドイツ語の本を読まされました。原論文からの引用部分がどうしても訳せないで困っていると先生がお読みなり、やはり翻訳不能、先生の博士論文になったナラタケと共生するツチアケビを生涯かけて研究しておられて、ドイツ語に堪能な院生のNさんに翻訳を命じられましたがやはり駄目でした。そこで、Nさんが大急ぎで原論文を理学部植物学科に借用に行き、転記間違いであることが分かりました。ともかく徹底することを教えられました。私はものになりませんでしたが・・・。

 安易に質問することを注意されてからは質問はやめて短い会話でした。「高等植物のツチアケビがナラタケから栄養を摂るとは不思議です(弟子)」「芸者から搾り取る男もいる(師)」、「今時、分類学ですか・・・(弟子)」「分類学は生物学の基礎や(師)」、「これからは分子生物学です(弟子)」「分子生物学で松が説明できるか(師)」「西欧のキノコ研究者には女性が目につきます(弟子)」「女はあんな格好をしたものが好きなのと違うか(師)」。「それでは男の研究者は・・・(弟子)」最後の問答は冗談半分ですが、先生は個々人や男女の趣向性に大きな違いのあることに大変興味をおもちでした。これと関連して共生における相手の選択をマツタケから人間まで統一的に理解されようとされていた形跡があります。[「マツタケの縁談」『洛味』(1956)、「恋愛学序説―寄生・共生の化学」『マツタケ日記』(1974)〈『生命現象の化学Ⅱ』(1961)のための原稿であったが、掲載を断られた〉]。「なぜキノコが好きか」の探求は面白そうです。手始めにどこかの談話会や愛好会でアンケートを取ってみたらと思わぬでもありません。

 先生ご一家がまだ禅林寺(永観堂)の近くに住まわれていた時代の話ですが、夏に先生からとんでもない微生物観察を強いられたことがあります。奥様がお子様をお連れになって仙台のご親戚に行かれた留守中に先輩二人とともに先生から夕食に招待されました。飲み過ぎた私は、申し訳ないことにお宅の座敷の縁先で吐いてしまいました。その夜は泊めていただいたので翌朝、掃除すると申しましたが「そのままにしておけ」です。数日たって「面白いカビが沢山生えているから見に来い」と言われました。これには全く恐縮し、閉口しましたが、観察にお邪魔しました。後始末をどうしたのか記憶にないところをみると、多分、先生が自ら片付けられたのでしょう。

 私が高校生の時に応植に内地留学しておられたお姿を拝見した田島良男氏(当時鹿児島大学助教授)が「浜念はコワいよ」と言っておられたそうですが(関菌菌類談話会50周年記念誌、2008)、確かに厳しくて怖かったです。旧制の院生にはもっと厳しく、先生のご在室中には部屋に絶対に入ってこない人がいました。その怖さは人を見透かされる畏怖です。しかし、先生と弟子との年齢差が広がるのにつれて怖さは減っていったようです。怖いと思っていたのは私の1年後輩のK君までです。その後の連中は、いまは偉くなっていますが、酒の席とはいえ、先生に向かって「よう言うな」と驚くようなことを平気で言っていました。Y君にいたっては「先生は萩本さんらには厳しかったそうですが、僕らにはなぜ優しいのですか」と尋ねました。私は横から「『人を見て法を説け』だよ」と口を挿みました。先生の「その通りだ」で終わってしまい、Y君から文句を言われました。

 これから述べることは、菌学者やキノコ愛好家の皆様が不思議に思っておられることです。門下生は誰も触れたがりませんので、敢えて少しだけ触れておきたいと思います。実は、私が研究所長に就任した時に、今村先生から「会社は随分乱暴なこと(年功序列の無視)をするね」と仰っていましたが、先生のご退官の際の後継者の選考は、私には乱暴と愚挙の極みと思えました。応植の教官は、当時、教授(1903年生)、助教授(1910年生)、講師(1917年生)、2人の助手(共に1927年生、おひとりは中学、高校を1年ずつ飛ばして入学されたために1948年卒、他のおひとりは正規入学で1950年卒)まで10歳を超えない年齢差でした。助手のお二人は今村先生の弟子です。その1950年卒業の助手のT氏が次期教授に指名されたのです。

 私は、その5年前に応植を去っていたので、その本当の理由は知りません。応植にいても今村先生を除いた3人の教授方が密室でお決めになることですから分かるはずがありません。一見、教授の大幅な若返りです。これは決して悪いことではありません。理学部の動物学科や植物学科では教授の年齢に近い方は、後継を後輩に譲っておられました。問題なのは、その推察される動機とその人事がもたらした結果です。後継者のT氏は研究一筋の方で、今村先生の最晩年までよく正月に先生のご自宅でご一緒しましたが、教授をT君と呼ぶ3人を配下において講座を思い通り運営することは、3人のご協力のもとでも容易ではありません。「名誉教授が3人おられるみたいだ」と言った先輩がいました。T氏も困難な事態は十二分に推察されていたはずで、当然教授就任の要請は固辞されたと思います。

 理由は若返りではなさそうです。あくまでも私の推察にすぎないので、間違っておれば大変失礼ですが、応植は農学の基礎になる高等植物の生理学をやるところで(高等植物だけが農学の分野ではないことは現在では極めて明白ですが)、菌類や菌根はおろかクロレラ、ヘルミントスポリウムやセンチュウなどを野放図にやられては困ると思われたことや濱田先生の思考のスケールの違いではないかということです。私は、研究対象を院生・学生の好きなように無制限に拡げるのは、研究室全体としては、教育、研究予算、研究成果、研究室の学会におけるプレゼンス、学生の就職などにおいてマイナスであると思っていました。研究範囲をどのように限定するかは教授のフィロソフィーの問題であり、研究室のポリシーとして具現化されるはずのものです。それで研究のある程度の集約化の必要性を恐る恐る濱田先生に申し上げたことがありましたが、先生は「そんなことしたら『一将功成りて万骨枯る』だぞ」と仰いました。

 応植の後継人事問題の予兆は、はるか以前からありました。1960年の卒論発表会で前記のY君がクロレラをテーマにした卒論研究を発表した時にA教授から「その研究は応植とどのような関係があるのだ」という質問がありました。私には「応植の範囲を逸脱した研究ではないのか」と聞こえました。その教授はT氏の就任後も「マツタケの研究は駄目だな」と言っておられました。私が会社へ行くと決まった時に、下等族殲滅作戦の始まりだと穿った見方をした後輩がいましたが、私以外にも敏感な人がいたということです。このように「農林生物学とはなにをするところか」という議論は、学科設立当初から常につきまとっていたようです。通常は、「農学の基礎をやるところだ」ということになっていましたが、なにが農学の基礎かと議論すれば明快な答えが得られるのでしようか。

  『京都大学農学部四十周年記念 歴史を語る』(1964)にアメリカの高校・大学を卒業し、現地で職についていて京大に招聘された昆虫学講座の初代教授・理学博士の湯浅八郎氏(同志社総長に2回就任、後に国際基督教大学初代総長)が次のように書いておられます。「(農林生物学教室は)教室の内容・教育理念・指導方針・教授と学生との人間関係においてもかなり進歩的であり、革新的でさえあったといえよう。」「異色のある農林生物学教室で、いわば最も忠実にわが国学界の伝統を重んじ、人事の統制を厳にし、克明に研究テーマを守り、重厚な学風の樹立に努力して成功されたのは逸見教授であっただろう。万事に自由放任に終始した私にとって、植物病理学講座は常に驚嘆と尊敬の的であった。」「農学部に属する講座であるから応用昆虫学に重点を置くべきであったかも知れぬが、私は害虫そのものについてすらもむしろ実用的な技術や知識よりも昆虫を活きた生物として生態学的に観察し理解し研究し対処することが、最も根本的な研究の仕方だと考えていた。」「農林生物学という看板に対してはやや不忠実という批難があり得るといわねばなるまい。もっとも私は今日なお当時の私の理解や方針が本質的に間違っていたとは考えない。ただ批判の余地があったなと反省しているのである。」

 菌類や菌根の研究は立派な農学の基礎になる研究であり、同時にキノコや林木の生産そのものに直接役立つ応用研究でもあります。今やわが国のキノコの生産額は他の林産物を凌ぐほどです。さらに熱帯林も含めた森林の保全、里山の再生、日本の伝統的景観の維持など広い範囲に深く関わっています。そのことを最も雄弁に語っているのは、小川眞君の日本林学賞(1980)、日本人最初のユフロ(国際林業研究機関連合)学術賞(1981)、日経地球環境技術賞(1998)、日本菌学教育文化賞(1999)、愛・地球賞(愛知万博)(2005)など数々の受賞です。私が職業としていた農薬の分野では、近年、マツカサキノコモドキと同属(Strobilurus属)のマツカサシメジからstrobilurin AおよびBという抗菌物質が発見され、その様々な誘導体が農業用殺菌剤として開発、上市されています。様々なキノコ由来の物質が研究され、人々の役に立っている例は沢山あります。

 近年、基礎研究と応用研究を区別することは益々難しくなっています。有用動植物や病害虫を研究材料にしておれば応用研究でしょうか。そして、それは農家の病害虫管理に役立つのでしょうか。植物病理学、昆虫学、雑草学を標榜する研究室の成果がそのまま農家の病害虫・雑草管理に役立つことは、今日では稀なことです[萩本宏『生物資源から考える21世紀の農学』第3巻(2008)第9章2(4)]。大学に対して農業に直ぐに役立つ研究を要求するのであれば、理学、文学、芸術学のうちで人類の知的財産の形成が主な学問、当面役に立ちそうにない純粋研究とでも言うべき分野や教育研究だけを国立大学法人に残して、他の領域はそれぞれ関係省庁所管の独立行政法人に移したうえで既存の研究機関と統合すればよいのです。私は、生物学が生命科学として抽象化・記号化・普遍化され、生き物の姿が見え難くなる方向にあって、大学における応用研究は具体的・個別的な生き物や生態系の姿を描くことによって農林・水産技術、食品技術、環境保全技術などへの活用の道を開くもので、基盤研究とでも呼ぶべきものだと思っています。

 基礎研究と応用研究の多くは、純粋研究と実用化研究ないしは開発研究を両極としてその中間に位置しており、個々の研究が基礎研究か応用研究かを分けるのは研究者の意識の問題であるとすら思えるのです。資源に乏しいうえに韓国や中国などの新興国に追われるわが国は、目先の改良的発明ではなく、大きな領域を包含する発明・発見に基づく高付加価値製品とソフトや情報などの形のないもので生きていくことを考えなければなりません。この基盤を担うものこそ大学であるべきです。「基礎深ければ応用広し」が私の持論です。原子と遺伝子の基礎及びそれらの応用研究の歴史がそのことを如実に示しています。

 戦前、水稲の耐冷品種陸羽132号を育成した某国立農事試験場長が木原教授の染色体の研究を指して「理学部でやることだ」と非難されたという話を聞いたことがありますが、現在の育種学をみればいかに的外れの批難であったかが分かります。昆虫学研究室でも湯浅教授が学生に海中に棲む微小な双翅目昆虫や渓流の水生昆虫の研究(今西錦司氏や可児藤吉氏の棲み分け理論に発展)など農業に関わりのない研究を好きなようにやらせたことが祟ったのか、教授の推薦された後継者は拒絶されたそうです。そして、二代目教授が㈶大原奨励農会・大原農業研究所から就任し、農業に直接関わりのない研究を締め出したことで、後に立派な業績をあげる今西氏、岩田久仁雄氏、森下正明氏などが卒業後、理学部大学院に移ってしまったと言われています(大串龍一『日本の生態学‐今西錦司とその周辺』1992)。

 三代目のU教授はその際に昆虫学講座に残られた方だそうですが、無論、これは一つの見識です。U教授について大串氏は前掲の著作で「U(本文は実名)の指導方針は研究対象と方法をきびしく限定して、典型的な実験生態学の研究室になっていた。(中略)また本当の自然を知りたい学生に狭い対象と方法を強制することによって、個々の学生の創造的能力を圧殺するという批判もあり、不満をもつ学生も少なくなかった。しかしUは一見おとなしそうな、むしろ気弱な外見にもかかわらず、この点では頑固に自分の方針を通した。それはちょうど同時期の理学部の動物生態学研究室の教授の宮地の自由奔放な研究室運営とはっきりした対照を示した。」と書いておられます。この文章の動物生態学研究室はそのまま応植に置換できます。U教授はご自分が理想とされる研究室のあるべき姿を応植にも強要されたのでしようか。  

 濱田先生は、他の人が考えないようなことを考えられることが往々にしておありでしたので、教授方は「農林生物学とは」という命(迷?)題と併せてこのような人物を教授にすると和を欠いて学科の運営が円滑にゆかないと考えられたのかもしれません。また、先生のグループの院生・学生は様々な分野にインベーダーのように侵出するのではないかと危惧されたのかもしれません。さらに、農学を自然科学でもなく、人文・社会科学でもない第三領域の学問とみる他の学科の教授から応植での研究課題と院生・学生に対する対応について批判があったのかもしれません。もし異質性の拒絶や自分達の領域が脅かれるというような杞憂が原因だとすれば、恐るべき肝っ玉の小ささです。

 教授方は、T氏をどのように説得されたのかは無論知るよしもありませんが、私はT氏も被害者だと思っています。T氏は教授でありながら自ら実験をされていたようですし、退官後も他大学に再就職されることなく、個人の実験室を借りられて花芽形成の研究に勤しんでおられたほどの研究一筋の学者です。助教授に就任されておられれば、教授達を標的にした学園紛争に遭遇されることもなく、研究に専念されて花芽形成の研究は大いに進んだはずと残念に思います。要するに高等族と下等族の関係を逆にするだけでよかったのです。濱田先生とT氏との年齢差は17歳と十分にあり、すべてがうまくいったはずです。

 新しい学科や講座がどんどんできた1960年台から70年台にかけて講座が1つも増えなかったのは農林生物学科だけだったように思います。反面、増えたのは学科の定員9名が15名になったことと、それにもかかわらず競争率は十数倍の最難関学科になったことでした。この時代に応植を高等族と下等族の2講座に分割し、衣川氏、S君や0君などに農芸化学系の人材も混じえて植物菌類共生学講座を開設する、もっと欲を言えば全学部横断的な大学附属菌学研究所を編成し、キノコ栽培所でも附属させて研究費を稼げればさぞ素晴らしい菌学・菌根学研究の場ができたろうにと思います。当時の農林生物学科の教授陣にそのようなことを期待するのは痴蕈(?)の夢ですが・・・。

 今村先生は七高文科から東大法学部に入学され、1?年後に「自分には向いていない」と言って京大理学部に転学されるという異色のご経歴の持ち主です。私は後任人事の一件については先生の晩年に若干のお話を伺っていますが、後任者については、濱田先生と思い込んでおられたようです。それに、先生はマネジメント下手を自認しておられました。先生は、私や私の兼務先へのご対応の例でも明らかなように、万事に大変遠慮がちでした。そのような先生に「なぜ念には念を入れて根回しをしっかりとなさらなかったのですか」とは申し上げ難いことでした。「当時、O君と廊下ですれ違ったら顔をそむけて通り過ぎたよ」と仰っておられたのが今も記憶に残っています。

 濱田先生は闊達で、地位、名誉、金銭など俗なるものには無論のこと、ご自分の命に対してすら淡泊でした。お一人超然としておられるところがありました。弟子が論文原稿を先生との連名にしておくと「君が一所懸命やったのだから」と言ってご自分の名前を消してしまわれたほどです。このような人物は俗世間では一番始末が悪くて持て余されるものです。群れるのを極端に嫌う個性の強い弟子たちは、就職のないのを十分に承知のうえで先生のお人柄に惹かれて集まってきたのです。今村先生が「骨のある奴は皆、濱稔の方に行ったね」と仰っていました。「皆」は大げさですが、そのような傾向はうかがえました。

 この人事の最大の問題は、濱田先生の処遇ではなく、T教授の困惑や難渋でもありません。日本の否、世界の菌学の有力な拠点を潰してしまったことです。生物多様性や物質循環が重要な問題と認識されるようになっている今日、益々残念なことです。この人事で高等族の研究がいやがうえにも進歩したということもなさそうです。このような結果をみると下等族を潰すこと、さらに濱田先生を排除して統制的な教育・研究を行う学科に仕上げることが目的であったとしか思えません。これは学問に対する冒涜です。そのことは、濱田先生の弟子たちの活躍をみれば極めて明白です。

 

 このような暴挙を主導したと推察されるお二人の教授はもうこの世にはおられませんが、ご存命中にこの結果をみてどのように思っておられたのでしようか。今や濱田先生の弟子達もあらかた退職してしまわれましたし、幾人かは冥界の人です。退職された多くの方は今なお活躍しておられるようですが、孫弟子の時代に移りつつあります。私も含めて大勢の弟子たちがよくお邪魔した想い出の多い北白川の先生の邸宅も昨年夏に更地になり、今年になって新しい持ち主による邸宅の建設が始まっています。「昭和は遠くなりにけり」です(写真16)。

 

 今関六也氏は早い時期から菌類、それも日頃は食用菌や植物病原菌などとして注目されることのない「ただの菌類」が地球生態系の物質循環に大きな役割を果たしている不可欠の存在であることを様々な機会に啓蒙してこられました。それから半世紀余、生態系や生物多様性の重要性が叫ばれながら、菌学研究を推進するような科学技術政策は不在です。それどころか研究拠点は次第に少なくなっているように思えます。せめてもの救いは、この間、各地に菌類談話会やキノコ愛好会などが百近くもできて、私の推定で1万人くらいのアマチュアが活動していると思われることです。全国の植物病理学や害虫学の研究室のいくつかは、病原菌や害虫から解脱して、ただの昆虫や菌類が生態系の中で果たす役割の解明にも取り組む必要があると思います。

   カードの1枚目  応植は、T氏のあと、たまたま私の高校、それも生物部の後輩で理学部化学科生化学講座の助教授のI君に引き継がれ、1996年の学部改組に伴い大学院生命科学研究科に移行しました。さらに彼の後継者は東大理学部出身で京大理学部を経由して就任され、花芽形成の分子機構の研究などを精力的に進めておられるようですが、私は面識がありません。濱田先生がご退官になって後、大学に残された先生の書籍やJulius Oscar Brefeld (1839 -1925)の菌学の大著などはどうなったかと心配したりしていますが、余計なことかもしれません。

 学者、特に理科系の学者がこの世を去られるとご遺族は書籍などの処置にお困りになるのが常ですが、弟子が困惑するのは原稿やメモ書きなど恩師の遺産です(写真17)。捨てる訳にはいかないし、さりとて残しておいてもどうしようもありません。なんだか神様が宿る神社のお札を処分しあぐねているような気持ちになります。郡場先生の遺稿は、タバコの箱に書かれたメモまで濱田先生が丹念に調べられて、『郡場寛遺稿集』(1957)として郡場寛遺稿集刊行会から、またご健在な頃の弟子たちとの会話は、濱田先生の克明な記録により木原均編『郡場寛博士 生物学閑話』Ⅰ-Ⅳ1962-1970)として出版されていますが、誰にでもできることではありません。

 (略)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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