https://azalea-4.blog.ss-blog.jp/2010-03-08 【ガス灯のあかり [その他(雑感など)]】より
賢治の作品には、さまざまなものが出てきます。「あかり」もその一つだと思います。
洋燈(ラムプ)や電灯は言うに及ばず、ちょっと思いつくだけでも「秋田街道」に出てくる岩手公園のアーク灯、「祭の晩」や「ポラーノの広場」に出てくるアセチレンランプ、「銀河鉄道の夜」や「グスコーブドリの伝記」に出てくるアルコールランプ、「ひかりの素足」に出てくる蝋燭、「家長制度」に出てくる灯明(火皿)・・・ほかにも細かく見ていけばたくさんありそうです。
今回は「床屋」に出てくる「瓦斯の灯」ことガス灯を取り上げてみました。
文語詩〔われはダルケを名乗れるものと〕で「そのとき瓦斯のマントルはやぶれ/焔は葱の華なせば」とあるのも、ガス灯の描写です。
賢治が滞京中の大正時代の東京では街灯や官公庁などではガス灯がずいぶん普及していたようですが、賢治も上野公園や図書館の中などでガス灯の明かりを目にしていたことと思います。
そう思うと、ガス灯の明かりというのはどんな感じなのだろう・・・・と好奇心が湧いてきます。
好奇心を抑えきれず、しばらく前に見に行きました(笑)
今では全国でも限られた場所でしか見ることができませんが、その一つが横浜の桜木町駅のすぐ近くにあります。
(有名な「みなとみらい21」とは反対側です)
このガス灯は、1872(明治5)年、横浜瓦斯会社によってガス灯が事業として始められたことを記念して、その発祥の地である横浜市立本町小学校の校地に設置されたもので、校門の脇にあるので誰でもいつでも自由に見ることができます。
ガスのあかりというと、家のガスコンロの炎からもっと青白い光を想像していたのですが、意外と赤っぽく、暖かな感じがしました。
寒い日でしたが、ゆらゆら燃えるガス灯は何とも幻想的な感じがして、いつまで見ていても見飽きませんでした。
とはいえすぐ側にコンビニがあり、繁華街で人通りも多いため、あまり呆然と立ちつくしてガス灯を眺めていては、このご時世では不審者と間違われて警察に通報されかねないかも・・・と思い、名残惜しかったのですが適当なところで帰ってきました。
http://totsanhp.la.coocan.jp/kenji.htm 【宮沢賢治の青い照明(清水脩)について】より BASS 坂川 典正
仏教には、「刹那生滅」(せつなしょうめつ)という考え方があります。これは、人間の命は、一刹那、一刹那、生滅を繰り返すことによって生命体として生きつづけているという考え方です。ある人の計算では刹那とは1/75秒という短い時間となるらしいのですが、パチンと指をはじいたこの短い時間のその中でさえ、人は生死の世界を何十回も往復しているのだ……という考え方を宮沢賢治は採りました。つまり「私という現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」と彼は「春と修羅」第一集の「序」に書きつけたのです。そして、自身が真宗大谷派寺院で生まれた作曲家・清水脩はこの「青い照明」ということばを、賢治が心象スケッチと呼んだこの「春と修羅」の中から選んだ五つの詩からなる組曲のタイトルに選びました。
彼の生家は二百年余、代々続いた浄土真宗の信徒でありました。しかし人一倍感受性(霊感と言った方が適切かもしれません)の高かった彼は浄土真宗の教えに満たされず、より多くの人々の救いを願い、他派の仏門を訪ね歩き、聖書をひもとき、ついに法華経に熱心に帰依します。そして、もうひとつ、彼の心を捉えたものは西洋科学の知識でした。その当時の科学水準は、相対性理論の発表や、銀河系外星雲の発見等で人々に夢を与え、あるいは逆に、人々を脅迫する道具(兵器)の発展には役立ったとしても、大自然を彼の希望する方向に動かすことが出来るレベルには達していなかったのですが、彼はこの知識の普及と自分なりの実践に全生涯を捧げました。法華経の智恵と科学的知識の融合こそが彼の目指す理想郷だったのです。
賢治の詩のなかにしばしば登場するエステルや弧光(灯)…アーク(ライト)等の科学用語はこの賢治の科学者としての一面を表しています。そして、もうひとつの面で、たとえばお月様は法華経の行者を守護してくれる虚空蔵菩薩の化身である三光天子、中でも普香天子として彼の詩に現れます。月が普香天子ならば、星一杯の夜空は曼荼羅であると解釈しているひともいますが、いずれにしても彼の心に浮かぶあらゆる事柄を(その中にはおどろおどろしい異界の幻想や死者の世界、臨死体験と思われる表現も含まれます)、その折々に心象スケッチとしてノートに書きつけずにはいられなかったのです。そして、それにとどまらず、自費での詩集の出版まで行います。また、この地上こそが即ち理想の極楽浄土であるという日蓮聖人の信念に共感して、若い頃から余り身体が強いほうではない賢治でしたが、農地の改良や開墾に汗を流した時期もありました。いずれも金持の息子の道楽として捉えられがちな行動だったことでしょう。熱心な商人であり、また真宗の敬虔な信徒でもあった彼の父は、そんな賢治を心配して、より実効のあがる方法をとるようにと何度も説教をし、また、自分の法友に相談もしたようですが、賢治はその短い生涯を自分の信ずる大統一理論とも言うべき法華経への信仰で貫いたのでした。
Ⅰ 普香天子
賢治はある春の土曜日の昼から、見学を兼ねて北上山地に小旅行に出かけ、山中を歩きながら日曜日の夜明けの月を詩にうたいました。その晩は満月でしたから、夕方から夜明けまで「お月様」に見守られながら彼は過ごしたのです。そして、明け方、月の姿が消えていく時の賢治の悲鳴にも似た叫びで締めくくられます。なお、石竹(せきちく)は「からなでしこ」で春の薄紅色の花、孤光は炭素棒の間のアーキングによる光です。
Ⅱ 未来圏からの影
寒い冬の日曜日、汽車に乗ってどこかの町へ出かけ、出先で吹雪となり、その吹雪の中で未来圏からの自分の影を見たさまをうたっています。相対性理論発表の2年後(1907)にミンコフスキーによって唱えられた四次元世界(時空世界)を想起させます。シューベルトの歌曲にあるドッペルゲンガーを連想される方も多いのではないでしょうか。
Ⅲ 森
賢治は当然のことながら牧畜にも関心があったことが、このヨークシャー種の大きな白豚の表現でわかります。ちなみにバークシャー種は近頃はやりの黒豚です。賢治の心には、この世の現象がこの詩のように(メルヘンとして)投影されたのでしょう。曲はわらべ歌のように繰り返されつつ、実は急激に歪んでいきます。夕日はまるでダリの絵のように描かれています。
Ⅳ 開墾
賢治の詩は美しい自然をよんだものが多いのですが、それはイーハトブ、つまりこの世が、すなわち法華経の浄土を意味するものと、彼が信じていたことによるものと思われます。その一方で「空」はがらんと暗い、まるでその上には漆黒の銀河系があることを暗示するような存在として描かれます。曲は6/8拍子で、まるでウエルナーの「のばら」のようにゆったりと流れます。
Ⅴ 高原
山に登って、遠くの山々を見た人達は、みな、賢治と同じように「あれは海なのではないか」と感じたことがあるのではないでしょうか。作曲家はドビュッシーの「海」のような和音でこれを表現しました。そして、「やっぱり光る山だった」というフレーズに続く時、「全てこの世界は光明(こうみょう)から成っている」と賢治は考えていたのではないかと思ってしまいます。そして、すべての物質がエネルギー(光)から出来ているという理論物理学の成果をすでに賢治が知っていたかどうかを考えてしまいます。
なお、Ⅰ~Ⅳは昭和34年(1959)に東海メールクワイアー初の委嘱作品として作られ、同年9月に初演されました。Ⅴは同年の全日本合唱コンクール課題曲として作曲されたもので、メールは山田昌弘の指揮によりⅠとⅤとを歌い、初の全国コンクール入賞(第二位)を果たしました。その意味でも、この「青い照明」はメールにとって記念すべき組曲です。
https://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/61/04_miyazawa/kenji.htm 【対談 「宮沢賢治の銀河世界」】より
おしゃれでユーモアのあった賢治さん
鍋島 私たちはテロ、凶悪犯罪、虐待など、信じられないような現実に直面しています。今、必要なのは宮沢賢治さんが見た美しい世界ではないでしょうか。その世界の背景には仏教が存在します。今日は、賢治さんの弟・清六さんのお孫さんで、賢治さんにまつわるさまざまな取り組みをされている、林風舎代表取締役の宮澤和樹さんに岩手県花巻市からおいでいただき、賢治さんの仏教観や宇宙観をお話いただきたいと思います。
宮澤 宮沢賢治というと、ストイックで暗いというイメージがあるようですね。私が甥の子どもだというと、「ああ、あの薪を背負っている人」と言われることがありました。二宮金次郎さんと間違えてるんですね(笑)。しかし、私の家では「賢治さんはユーモアのある面白い人だった」と伝わっているのですよ。
鍋島 うつむいて歩いているこの写真からきたイメージでしょうか。
宮澤 これはクラシック好きの賢治さんが、新しいカメラを買った友人にベートーベンの真似をして撮ってもらった写真です。
鍋島 おちゃめな方だったのですね。
宮澤 そうですね。それにとてもおしゃれです。歩くのが好きで体格もがっちりしていました。
鍋島 賢治さんは浄土真宗の篤信の家庭で育ち、子どもの頃から暁烏敏など、そうそうたる仏教学者の講義を受けていました。しかし、青年期には法華経の世界に入っていった。その理由はなんでしょうか。家への反発からでしょうか。
宮澤 私は研究者ではありませんので想像でしかありませんが、やはり父親との葛藤でしょうね。賢治さんは子どもの頃から常にお寺に出入りしていましたが、当時、花巻の真宗門徒には裕福な家庭の人が多く、賢治さんの家も質屋を営み、貧しい農民を相手にしていました。そのギャップを生活の中で感じ、仏教とは?という疑問が生じたのでしょう。
鍋島 なるほど、当時の花巻には豊かな人々のための浄土真宗というイメージがあったのですね。
宮澤 日蓮宗は現世利益、この世の理想社会を実現することを打ち出しています。賢治さんは岩手県を「イーハトーブ」、つまりドリームランドにしたかったのでしょう。当時、日蓮宗のお寺がなかった花巻にお寺を造ったほどです。いやあ、しかしこういう話を龍谷大学でするのは、なんだか抵抗がありますね(笑)。
鍋島 賢治さんはかなり反抗したようですが、お父さんの愛情も深いですね。
宮澤 そうですね、両親の愛情がなかったら、素晴らしい作品は生まれてなかったでしょうね。
宮澤和樹氏
■宮澤和樹(みやざわ・かずき)(株)林風舎代表取締役。宮沢賢治の弟・清六の孫にあたる。「雨ニモマケズ」を記した手帳を復刻
鍋島 和樹さんは、あの『雨ニモマケズ…』が記された手帳を復刻されましたね。その中の「ヒドリノトキハ」の部分ですが、私たちは「ヒドリ」ではなく「ヒデリ」と習いましたが。
宮澤 これは作品として発表するつもりではなく、自分の心境を手帳に書いただけなのでしょう。手帳には確かに「ヒドリ」とありますが、祖父が高村光太郎氏らと一緒に編集するときに、「ヒデリ」と改訂したそうです。一説に「ヒドリ」とは岩手県のある地域の方言で「日雇いかせぎ」を意味するそうですが、祖父も「ヒドリ」という言葉は知らなかったそうですし、前後を考えて「日照り」とした。他の部分には方言が入っていなかったからということもあります。
どっちが正しいか、というより僕はどちらでも良いと思います。それよりも「玄米四合」を戦時中は「二合」に直されたと聞いています。そうした改訂の方が問題だと思っています。
鍋島 何かに偏ってしまうと、イメージが損なわれてしまいますからね。仏教は偏りのない心を大切にしています。「ヒドリ」「ヒデリ」、どちらもそれぞれに深い意味がありますね。
宮澤 祖父は「中庸」という言葉を使いました。そのときの状況に合わせて柔軟に考えていけば良いということです。
鍋島 仏教では、一つの言葉にしがみつくのを「煩悩」といいます(笑)。
宮澤 齋藤孝さんの本『声に出して読みたい日本語』がヒットして以来、日本語ブームというか、賢治の作品もまたまた注目を集めています。それで『雨ニモマケズ』をコマーシャルに使いたいという依頼がしょっちゅうあります。リフォーム会社だったり、消費者金融だったり(笑)。
私どもの林風舎は、宮沢賢治の作品、写真などのイメージを守るために設立しました。没後50年で著作権はなくなりますが、特定の会社のPR道具になるのは別です。賢治さんの人格を守るのは私たちの役目。写真にも必ずコピーライトのマークを入れてもらっています。
手帳「雨ニモマケズ…」
■手帳「雨ニモマケズ…」
手帳の51~59ページに記入。
昭和6(1931)年11月3日の日付。病床での密やかな悲願自戒の記録。死後に発見された。
書くことは仏教の心を伝えること
鍋島 本当の賢治さんの心を守っていくということですね。もう一つ尋ねたいことがあります。その手帳の詩の最後に「南無妙法蓮華経」とあります。これはこの詩のまとめの言葉なのでしょうか。
宮澤 「南無妙法蓮華経」がたくさん書いてある、曼荼羅ですね。「南無妙法蓮華経」が『雨ニモマケズ』の作品に含まれるかどうかは、書いた本人にしか分からない。でも限定されないほうがいいと私は思っています。
鍋島 身近な仏さまを手帳に書きとめて、守ってもらいたいと思っていたのかも知れませんね。
宮澤 この詩で重要なのは、「東ニ病気ノコドモアレバ」「西ニツカレタ母アレバ」などの次に続く「行ッテ」という言葉だと祖父は言っていました。待つのではなく、行って実践するということです。
鍋島 お祖父様は賢治さんの死後、ものすごい努力ですべての作品を出版されました。
宮澤 賢治さんは37歳で早逝しましたが、その代わり祖父は97歳まで生きました。世の中に宮沢賢治を紹介しようという一念だったと思います。第2次世界大戦の空襲では、作品や手紙をもって防空壕に飛び込み、味噌や醤油をかけて火から守ったそうです。そして、実家が全焼した時は「せいせいした」と言っていましたね。やはり賢治さんと同じように、質屋や古着商の名残がある家が嫌だったのでしょう。祖父はずっと古道具や古美術が嫌いで、ガラスやプラスチックが好きでしたね。
鍋島 童話『どんぐりと山猫』では、比べられない命をテーマにしています。この作品には仏教の世界観が流れていると感じます。
宮澤 それを伝えたいために書いたのだと思いますよ。賢治さんは国柱会という宗教団体に入りたいと東京へ行きましたが、そこで「あなたができることで教えを伝えていきなさい」と諭されました。それが文章を書くことだったのです。賢治さんは思春期の人に読んでほしいと言っていたそうです。
鍋島 教えを伝える信仰の仕事がすなわち、童話だったのですね。僕は思春期が遅いのか(笑)、最近になって『注文の多い料理店』の序文が大好きになりました。「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます…」。
宮澤 教科書で習った時は、暗い印象で宮沢賢治が嫌いだったけど、大人になってから好きになったという人も多いですよ。年齢やその時の状況で受け止め方が違いますね。
鍋島 何度でも読めばいいのですね。ところで「桃いろの日光」は、岩手県には本当にあるのですか。
宮澤 ええ。花巻市は盆地で広い平野があります。朝もやの中、日が昇ってくると太陽の周りにモワモワと光の筋が見えてきます。これが、チンダル現象というものなのでしょう。賢治さんは「光のパイプオルガン」と表現しました。
鍋島直樹 法学部教授
■鍋島直樹
(なべしま・なおき)
法学部教授。人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター副センター長。専門は真宗学。
宇宙世界を知っていた科学者
鍋島 今日は『銀河鉄道の夜』に書かれている世界もお聞きしたいと思っています。タイタニック号で亡くなった人たちも登場してきますね。
宮澤 ちょうどその頃、タイタニック号が沈んだことがニュースになっていた時でした。ちょっと前にはアインシュタイン博士が日本にやって来ました。その相対性理論と仏教観を科学的に結びつけて、4次元、5次元の世界を構築していった作品です。タイタニックで亡くなった人が銀河鉄道に乗り込んでくるわけですが、ハレルヤが聞こえる途中の駅で降りていく。天国はそこにあるが、仏教はまだまだ先にあるということを言いたかったのではないか、と思っています。
ますむらひろし氏が漫画化したものがアニメになり、その音楽を元YMOの細野晴臣さんが担当した。細野さんのお祖父さんは、タイタニック事故で日本人でただ一人助かった人ですが、大変なバッシングを受けたそうです。それで細野さんはこの仕事は偶然じゃないと喜ばれました。
鍋島 なるほど。自分だけが生き残った罪責感もあったでしょう。孫が偶然、作曲にかかわったとなるとうれしいでしょうね。『銀河鉄道の夜』では、どこまでも続いている循環している命や、相互に支え合い自分と他人の区別を超えた世界が感じられますね。そして、農民の幸せを願って書いた『農民芸術概論』も印象的です。
宮澤 祖父は『農民芸術概論』が賢治さんの作品の“根っこ”だと言っています。そこから童話などに枝葉が広がったのだと。
鍋島 思想の根源がそこにあるわけですね。「まずもろともに かがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばろう」という部分は、特に大切にしていた言葉だそうですが。
宮澤 微塵というのは肉体が死ねば宇宙に散らばり、再び、混沌として散らばっている状況から核になることを繰り返す、エントロピーの法則のようですね。
鍋島 相互相関の世界ですね。
賢治さんと弟・清六さん
■宮沢賢治さん(右)と弟・清六さん
陸軍大演習を終えて。(大正14(1925)年10月頃、仙台にて)
宮澤 賢治さんは科学者でしたね。ある日、宇宙飛行士の毛利衛さんが岩手に来られました。『銀河鉄道の夜』を読んだことが宇宙飛行士になるきっかけになったそうです。「私はスペースシャトルに乗ったけれど、賢治さんはなぜ宇宙の姿が見えたのでしょう」と祖父に聞くと、祖父はじっと考えてから「たぶん、見えたのでしょうな」と答えた。すると毛利さんも「ふんふん」とうなずかれました。
賢治さんはゴッホの絵が好きなんですが、ゴッホの作品に空が渦巻いた絵があります。それが銀河系の渦と非常に良く似ているのです。ゴッホはなぜ空に渦があることを知っていたのでしょう。ゴッホも生前は作品が売れず、没後に弟の手によって世に出ました。賢治さんと非常に似ていますね。
鍋島 清六さんが書かれた文章に、賢治さんは晩年、衰弱した身体で「もう大循環の風の中に溶け込んでしまいたい」とつぶやいたとあります。それが以前よりも明るい顔だったと。
宮澤 「風を感じていなければいけない、世の中が風で動いている」と賢治さんはよく言っていたそうです。童話『グスコーブドリの伝記』では、火山を爆発させて冷害を防ごうという描写があります。CO2を噴出させることで気温が上がることを知っていた。つまりは温暖化を防ごうという知恵を賢治さんはすでに持っていたといえます。これからもアッと驚くことが次々と分かるかも知れませんね。
鍋島 火山を爆発させるには人が一人必要。そこでブドリという子が手を挙げる。自分自身は宇宙の微塵になって……いつ読んでもいい物語ですね。
宮澤 賢治作品もある時期が来れば忘れ去られると思いますが、ここ100年ぐらいは読み継がれるでしょう。曲げたり、変な利用のされ方をせずに、ニュートラルに伝えていきたいですね。その窓口として、いろいろな方に助けていただいています。今日も貴重な機会をいただいたことに感謝しています。
0コメント