http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/nakamichi/33_3_01.html 【3-1. 内なる自然の喪失】より
高度経済成長期以降急激に工業化、都市化が進行し、併せて農業も工業化し、農村生活も都市化した。これは国土経営を不安定にするばかりでなく、人間性の形成にも大きく影響を与えた。脳学者養老孟司は次のように指摘している1)。
・ 人工とは、人間の意識がつくり出したものを言う。都市はその典型である。都会には、人間のつくらなかったものは置かれていない。樹木ですら都会では人間が「考え」て植える。
・ 自然と人工が対立するものとなり、世界が二つに分かれるようになったのは、都市化が進んだためである。
私の見方は意識対身体、都市対自然ということである。意識と都市は同じもので、身体と外の自然は同じものである。
・ 意識がつくり出した世界、頭で考えてつくった世界を、私は「脳化社会」と呼んでいる。具体的には都市のことである。
・ 「ああすれば、こうなる」型の思考が、脳化社会の基本である。「ああすれば、こうなる」式の思考がはびこるようになったのは、人間が自然とつきあわなくなったからである。自然はたくさんの要素が絡み合う複雑なシステムである。だから、自然に本気でつきあっていれば、「ああすれば、こうならない」ことが体験できる。
でも人工環境では、そのことに気づかない。教わる機会を逸するからである。人工環境とは、むしろ「ああすれば、こうなる」が成り立つ世界のことである。
1(1)で述べたように、かつては「都市は大きな村落」であり、また周りに農村が共存していたので、都市の人間にも農村や農業が身近にあった。また農村は自然のなかにあり、そこでの営為も含め、自然のリズムに従っていたことから、巧まずして自然とつきあう機会に恵まれていた。
都市の急激な膨張は、都市からこの機会を奪っただけではなく、工業化した農業が営まれる、生活が都市化した農村でもこの機会は減少し、国民は内なる自然と外なる自然の両方を失くした。
JT 生命誌館館長の中村桂子2)は外なる自然として
①面倒で脅威になるので、それを制御・支配下に置きたいと考える自然
②便利さを支える建造物や機械などをつくるために必要な物質やエネルギーを供給してくれる自然
③花鳥風月、心を慰め、体を休ませてくれる自然を挙げ、自然はこの使い分けを許してくれないとしている。 また、内なる自然として生命誌の立場から④人間を挙げ、
「環境問題とは、自然を勝手に使い分ける対処の仕方に限界が見えてきたということであり、それは単なる限界ではなく、内にある自然を含めた自然の破壊につながる危険を見せている・・・。本来自然は一つのものであり、しかもヒトはその一部であると言う事実を再認識し、価値観や暮らし方を変える必要がある。」と指摘している。
2 つ例を挙げよう。
① 昭和40 年代の電子計算機の急激な進歩にあわせて、農業水利の計画・設計・管理技術に資するため数理モデル・シミュレーション手法の開発にかかわったことがあるが、聞きなれない「シミュレーション」を説明する例示に「インスタント・コーヒー」を用いた。インスタント・コーヒーは本物のコーヒーを淹れるのに比べ効率的で、しかも本物に近い味がする、しかし本物のコーヒーの代替にすぎない。高度経済成長と科学技術の進歩は多く代替品をもたらし、私達はそれを享受し、一見豊かな生活を愉しんでいる。
かつては海や川で泳いだが、現在はプールが主である。プールは都市の中にあり、いつでも泳げるし、安全であり、早く泳ぎを覚え、どこもいつも均一の条件であるので記録も比べやすく、泳ぐという単一機能を達成するには確かに効率的である。しかし、海や川での泳ぎに比べ、生物を観察する、干満や流れの速さを感知し、お互いに危険に備える等を習うことがない。このように単一機能達成の効率を追求した結果、ヒトは自然から離れ、またヒトが自然の一部であることを忘れ、ヒトとしての感性を喪失してきている。
② この傾向は一見豊かな生活を享受している世代の子どもに顕著に現われている。表1、資料1は、このことを的確に示している。
高層階に住む幼児は、低層階に住む幼児に比べ生活が自立できていない割合が格段に高い。これは表2 にみるように高層階が利便性に優れ(一般購入価格も高い)ているが、外部に、特に自然や人に接する機会が恵まれないことによるのであろう。残念ながら、庭付き戸建てや農村居住との比較がないが、そこに大きな格差があることは容易に想像できる。
表1 居住階層別にみたよう時の生活習慣の非自立状況3)
資料1 国立青少年教育振興機構「子どもの体験活動の実態に関する調査研究」(中間報告)
(平成22 年5 月)抜粋)
幼少期から中学生期までに「動植物とのかかわり」、「地域活動」「家事手伝い」等の体験が豊富な高校生ほど、「友達がとても幸せな体験をしたことを知ったら、私までうれしくなる」といった「共生感」、「経験したことのないことには何でもチャレンジしてみたい」といった「意欲・関心」、「けんかをした友達を仲直りさせることができる」といった「人間関係能力」が高い。
子どもの頃の「自然体験」や「友達との遊び」、「地域活動」等の体験が豊富な人ほど、「経験したことのないことには何でもチャレンジしてみたい」といった「意欲・関心」や「電車やバスに乗ったときお年寄りや身体の不自由な人には席を譲ろうと思う」といった「規範意識」、「友達に相談されることがよくある」といった「人間関係能力」が高い。
高度経済成長期以降核家族化が進み、地域社会との結びつきが弱くなった。これは国民や地域に長く培われてきた先祖教4)の力が弱くなり、人や他の生きものとのつながりで人は生かされている実感を失い、先祖教の伝統である正月、七夕、お盆の行事も形骸化してきた。都市にはこれに変わるものを醸成されず、人や社会を極めて不安定なものにしている。
また地域や兄弟姉妹間における交わりや野外遊びがなくなり、親はこれを補うことなく、漠然と学校教育に委ね、学校は全人教育に腰が引ける等の悪循環が生じている。これらは都市に限られたことではない。いまや農村でもプールで泳ぎ、先祖教に由来する行事・習慣も消えかかっており、生活も都市化している。
かつて農村には、家族総出で複合経営をする、家畜も飼う、農閑期には山仕事をやる等賑いがあったが、今は機械化・化学化・単作化された農業が休日に世帯主により静かに営まれている。農家の子弟は農作業、地域の管理に関わることもなく、唱歌「故郷」に謳われた「兎追ひし かの山 小鮒釣りし かの川」の情景も思い浮かべることはできない。野外体験活動は農村在住者にも必要となっている。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
まだ二十代前半の頃たまたま飲み屋で隣りに座っていた人から「君ならきっと面白く読めるよ」と、1冊の本をもらったことがあります
それは弁護士の遠藤誠さんという人が書いた「解説 般若心経」というイラストのたくさん入った本でした
たしかに読んでみるととても面白くてふと思いだすたびに繰り返し読んだ記憶があります
その中で特に印象に残っている言葉があります
遠藤氏が坐禅をはじめてしばらく経った頃同業の弁護士から「遠藤誠という弁護士ほど
浅薄で低能で白痴な 弁護士を見たことはない」と名指しで批判されたことがあったそうです それを受けた遠藤氏は「はい、まさに自分ほど 浅薄で低能で白痴な 弁護士はおりません」と返したそうです^ ^
彼はその応答が 自然に出来たのは坐禅を通した気づきのおかげだと書いていました
当時それを 読んだ僕は「ほー、いつかは そんな心境になって みたいなぁ」と、感心したのを覚えています
人生を生きていると自分に好意をもってくれる人もいれば何をしていなくても自分に敵意をもつ人もいます^ ^
当然ながら人は褒められたら嬉しくけなされたり下に見られたりすると腹立たしいものです
僕もたまにそういう人間の敵意を感じることがあります
その時は「罪を憎んで人を憎まず」ではありませんがその人のエゴの働きだと思ってやり過ごすことにしています もちろん瞬間的にはめっちゃ腹が立ちますが^ ^
さて^ ^理屈では それで怒りは治まる ようになっています
ただ人間というのは 不思議なもので「思い出し怒り」のようなものがあって ふいに
「やっぱりあいつ シバイタロカナ」みたいな気分になるものです😊
そんな時僕は自分に言い聞かせる言葉があります それは「水になれ」という言葉です
水のように自在に形を変えてどこまでも低く流れていく
水の性質というのは老子が「上善水の如し」と表現したように人間にとって一番大切な在り方だと思っています
もし自分が水であったなら目の前に大きな岩があろうと 滝壺があろうとただ流れるままに
落ちるがままに流れていくだけです
それはつまりそこに受け手がいないということです
水にどうして闘いを挑むことが出来るでしょうか?
槍で突こうが 弓で打とうが 水は何一つ損なわれることなく ただそこに あります
それは 水の柔らかさであり 水の受容性の なせる技です
水に闘いを挑んだ人はやがて疲弊してその闘い自体が無意味だったと気づくでしょう
相手の反応がなければそれは全て自分の一人芝居に過ぎないと分かるからです
つまりそれはただ自分自分の中で起こっていた怒りであり 執着であり憎しみでしかなかった
という事に気づくのです
そしてその気づきがその人を自分自身の捉われから解放してくれるのです
この世界の争いの全てはこの「反応」からしか生まれません そして反応しているのはあなたのエゴなんです エゴは反応の名手であり それを唯一の糧にして 生きています
今日一日 あなたの世界や他人への 「反応」が起こらなければ どれくらい 平和な一日になるか 試してみてください^ ^
そしてもし「反応」が起こりそうになったら 必死で水を槍で 突いて打ち負かそうとしている マヌケな 人を思い浮かべて見てください^ ^
きっと、あまりのアホっぷりに笑いが溢れてくるはずです
でも、その姿こそ我々人類が飽きることなく毎日繰り返している大小含めた争いの全てであり本質なのです
全ての葛藤は自分の中に起こっているものだとわかれば相手を攻撃し屈服させる必要はありません
内なる気づきこそ平和の第一歩であり それ以外に平和に至る道はありません
そんなわけで皆さまも今日は一日水のようにどこまでも自在にお過ごしください✨
きっと平和な一日になりまっせ^ ^では素敵な一日を🌈ワハハ😆らぶ💓
http://web.agr.ehime-u.ac.jp/~water/water.htm 【水の教え】より
水を的確に表した、昔から有名な詩があります。
「水五訓」
一.自ら活動して他を動かすは水なり
二.障碍に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり
三.常に己れの進路を求めてやまざるは水なり
四.自ら潔うして他の汚濁を洗い、しかも清併せ容るるは水なり
五.洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨と変じ、 凍っては玲瓏たる氷雪と化す
しかもその性を失わざるは水なり
老子は水の働きを例に引いて自然を語っています。
上善若水 (老子第8章)
上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。
上善は水の若し。
水は万物を善く利して、而も争わず。衆人の悪む(にくむ)所に居る。
故に道に幾し(ちかし)。居には地を善しとし、心は淵なるを善しとし、
與(まじわり)には仁を善しとし、言には信を善しとし、正(政)には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。それ唯争わず、故に尤(とがめ)無し。
最上の善を例えるなら水だ。
万物に利沢を与え育て上げ、水自体は利を争おうとしない。
それどころか一般の人が避ける場所、例えば低い土地に居る。
目立たず、万物を潤している。これが自然の法則に最も近い。
居場所を良い大地にし、澄んだ淵のような静かな心境で、仲間には仁を、語らいは信頼を、
善いまつりごとで治め、仕事は良く機能し、時を失するような事は無い。
水の偉大さは万物に順じ争わないこと。だから咎められるような事は無い。
(越玄『孩根譚 自然法則研究 老子編第一節~(三)』より)
ギリシャ哲学の祖タレスは「万物の根源は水である」と言っています。
タレスは,アリストテレスにより,素材(質料)因を万有の原理とした最初の人物として哲学史の発端に位置づけられている。彼の思考のうちに,神話的思考からの脱却,ただ理性によってのみ世界を理解しようとする合理的思考の始まりを認めたからである。タレスは,超自然的な神々の名を持ち出すことなく,自然のうちに遍在し,われわれが日常経験する〈水〉によって万有の生成変化と構造の在り方を説明しようとした。すなわち,水から万有は成立し,また水へと還っていくとし,この意味で水は永遠であり(したがって神的でもある),万有の構成素であると考えた。しかし,タレスの〈根元者〉としての水は,たんに生命なき物質としてのそれではなく,アリストテレスも注目したように,万有のうちに遍在し,万有に生命と活動を与える生命原理――〈プシュケー〉(いのち,魂)――でもあったことが注意されねばならない。(広川洋一『平凡社 世界大百科』より)
このように「水」については様々な格言・思想があります。
https://guccie-hitorigoto.amebaownd.com/posts/1882922/ 【火の教え】より
松田稔先生(元日本キャンプ協会会長)の著書に「キャンプファイヤーの火について、4つの教え」が書いてあります。この言葉が、先生が感じられた先生の言葉なのか、何かに基づく言葉なのかについては結局お聞きすることができませんでした。
1.火は光をはなつ
火は、世の中を明るくする光であり、道しるべである。
社会の担い手の一人ひとりとして、世の中の光となり、社会を明るくする役割のあることを 学ぶ。それは、人間として、無意味な人生を送るのではなく、目標を持ち、人生の道しるべと なる、意義ある生き方を学ぶ。
2.火は熱を与える
火は、人々を抱く暖かい熱を与える。
熱は冷え切った身体に、暖か位置を甦らせ、心に通わせる。それは、わがままを捨てて、他を省み、人を愛する温かい心をもつことの尊さを学ぶ。
3.火は力を示す
火は、全ての醜きものを焼き尽くす力である。
あかあかと燃える火も、一本一本の薪が、お互いに組み合わされてこそ、小さな炎から大きな明るい熱を持った力強い炎となる。それは、人と人との協力と強調の中にこそある力強い生き方を学び、また、人間の勇気と清らかさを学ぶ。
4.火は自らを焼き尽くす
火は、自らを焼き尽くして、光と熱を与える。
火は、黙々として、自らを焼き尽くして働くところに、謙譲とかくれた善の行ない、犠牲と献身の尊さを学ぶ。それはまた、奉仕の精神にもつながるのである。
岩手県にある曹洞宗の寺院のホームページで見つけた「火の教え」は、次のような文でした。
一.火は自らを燃やして周りを明るく照らす (人に周りを明るくしなさいと教える)
二.火は自らを燃やして周りを暖かくする(人に周りを暖かくする情熱をもちなさいと教える)
三.火は薪一本・炭一本では明るくも、暖かくもならない(人に協力しなさいと教える。)
四.火は自らの身を焦がして燃える(人に献身の精神を教える)
https://sinsined.com/%e5%bf%83%e3%81%af%e6%b0%97%e4%bd%93%e3%80%81%e4%bd%93%e3%81%af%e6%b6%b2%e4%bd%93/ 【心は気体、体は液体】より
「ヨーガ」という言葉は「つなぐ」を意味しています。自分(我)と聖なる存在(梵)、とがつながること。これを梵我一如といいます。ちなみに宗教を英語で「リリジョン(religion)」と言いますが、これも語源は「つなぐ」ということで、神様と人間のつながりを意味しているようです。
ちょっと考えてみてください。つながるということは、自分という存在と聖なる存在が別々に存在していることが前提になります。
しかし、お釈迦様はそうは考えなかったようです。そもそも自分というのは1個の存在なのかとまず疑いました。確かに体を見れば一つのまとまりです。しかし心はどうかと言えば、状況によっていろいろ変化します。好きな人の前ではほわほわし、嫌なことの渦中ではどよんとする。どちらかと言えば気体みたいな感じではないでしょうか。そういえば「気」と言いますしね。
体だって、肉体という外見を支えているのは摩訶不思議な生命現象であって、イメージ的には液体です。その液体は、海、川、地下水、樹液、生き物の血液など自然界の液体と混ざり合っています。
心という気体と、体という液体。これらが何かとつながることで霊的な高みに至るというのは何となく変な感じです。むしろ、「状態が安定している」、「良いように混じり合っている」というような方向性が求められるのではないでしょうか。こういう考えは道教的なのかもしれませんが。
生命現象も心も、混じり合うことで少し乱れて、やがて新しい安定状態に達するというプロセスを常に営んでいます。食べること、人と出会うこと、学ぶこと、読書すること、新しい文化に触れること、映画や動画を見ること、全てそういうプロセスであり、人間はそうしないと生きていけないし、そうしたくてしょうがない生き物だと思います。
ただ、安定状態に至ることについては、大抵は自然に任せておけばそうなるのですが、悪い習慣、余分な情報、そして変な欲求から不安定状態が助長されてしまうことは多々あります。だからヨーガの目指すべきは、心身が高い安定状態に至れるよう意識や技術を磨いていくことであると私は考えています。
特に大事なことは、自然そのものに安定状態に至ろうとする作用があり、それに気づいて感謝し、逆らわないようにするという姿勢だと思います。その自然の意志に「つなぐ」ことがヨーガなのかもしれません。
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