https://sinsined.com/%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%a0%e3%81%af%e4%b8%bb%e4%ba%ba%e3%80%81%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%af%e5%bc%9f%e5%ad%90/ 【からだは主人、自分は弟子】より
ひらがなで「からだ」書くとき、それは肉体とは意味が違います。からだは単に骨や筋肉や血液の集まりではありません。常にからだ全体の調和が取れるように機能していますし、からだを取り巻く環境・状況・人間関係に働きかけてwin-winの関係を築こうとしています。それが生きているということであり、「からだ」とは「生きているからだ」なのです。からだには何億年という進化の過程を経た知恵が蓄えられています。自分の思考など遥かに及ばないほど賢いのに、自分の方はそれに気づこうともせず、常に自分中心に考え続けています。
からだは言葉を持ちません。それに対して思考は言葉そのものです。そして「自分」という意識(自我意識)を持っています。自我意識が自分中心思考になるのは当然なのですが、からだは「自分」を持ちません。広く大きく調和を保とうとするのみです。ですからもし私たちが自我意識をなるべくなくしていこうと望むなら、からだの意向に耳を傾けるようにしたら良いのです。すると必ずあらゆる面において調和が取れるようになります。
からだは言葉を持ちませんから、その意向を汲み取って実現に向けてサポートするのが自分の役割と考えたら良いでしょう。主人はからだであり、自分はその忠実な弟子なのです。落語家の弟子は師匠の身の回りの世話を、師匠に命じられなくても気に入られるようにできるようにならなくてはならないのですが、これと同じことです。簡単なことではないのです。自分勝手な欲求や価値観に囚われていては決して弟子は務まりません。
からだは自然と同じです。からだの意向を汲み取ることと、自然の草木や動物の声に耳を傾けることとは同じです。ただ、自然の場合は対象となる動植物の様子を詳細に知ることがその声を聴く上で肝要なのですが、からだの意向は「感じ」によって汲み取る以外にありません。知識は全く役に立ちません。
例えば瞑想のときに最初に姿勢を作ります。その姿勢が混じり気なしに「いい感じ」を感じられるよう、弟子として背筋の伸ばし具合、手足の位置を調整してやるのです。これはからだの意向を汲み取るとても良い練習です。「良い姿勢」のお手本や知識は全く役に立ちません。
日常のあらゆる場面で、主人たるからだの感じに注意を向けるようにしてみましょう。会話しているとき、食べているとき、スマホを見ているとき、からだは「いい感じ」でしょうか。「いい感じ」にもいろいろあります。「心地よさ」「落ち着き」「奮い立つ感じ」「楽しい感じ」などなどです。もし「いい感じ」でないなら、どうしたら少しでも「いい感じ」に近づけるのでしょうか。弟子として試行錯誤してみてください。
https://sinsined.com/%e4%bd%93%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%af%be%e8%a9%b1%e3%80%81%e5%bf%83%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%af%be%e8%a9%b1/ 【体との対話、心との対話】より
一心塾のヨーガは体との対話と感謝を心がけてきました。
筋肉の一つ一つが私たちのために献身的に働いてくれています。それは母親が幼子のために献身的に世話をするのと全く同じことだと思います。ところが幼子は母親から世話されるのはあまりにも当たり前のことで、感謝もなく、むしろ腹を立てたりします。子どもが大きくなって、「お母さんいろいろありがとう」と言ってくれたときには本当に胸が一杯になることでしょう。
私たちが体に感謝するとはそういうことだと思います。感謝された体の方は、お母さん同様に幸せな気持ちになって、もっと献身しようとするのではないでしょうか。
また一心塾ヨーガでは、心の使い方についてお伝えしたいと思っています。
体に対して感謝するのも一つの心の使い方です。感謝するには体は自分の「もの」ではなく、付き合うべき「相手」と認識する必要があります。そうでないと対話も感謝もできませんから。同じように、感情も思考も、付き合うべき「相手」と認識することをお勧めします。
ほとんどの人が感情や思考を「自分自身」と信じていることと思います。だけど私たちは、「怒っている自分」を認識することができますし、今晩の献立について考えている自分を認識することができます。ということは、認識するということが上位の「自分自身」であって、感情や思考は付き合うべき「相手」なのです。「相手」として認識し、受け入れ、理解してあげることで感情や思考はより良い方向に変化していきます。これが心の使い方です。それは主に瞑想中に行います。
ところで「認識」には癖があります。何でもネガティブに認識する癖、何でも「大丈夫、問題ない」と楽観的に認識する癖、何でもひねくれて認識する癖。これらの癖も、少し引いたところから冷静に眺めることができれば、「自分にはそういう癖があるなあ」と認識することができます。つまり認識の癖についても付き合うべき「相手」とすることができます。
ここまで至れば最も上位に位置する「自分自身」であって、ここに至っているときはとても穏やかで、透明な感覚を味わえることでしょう。瞑想するとは、最も上位な「自分自身」でいることなのです。
穏やかで透明な感覚を維持しながら、自分というものを眺めていると、筋肉と同じく、一つ一つの思考や感情や認識の癖などの心の働きが、良かれと思って一生懸命働いてくれているのがわかります。そのことに感謝して、心の中で「いいね」と言ってあげます。「ありがとう」と言ってあげるのももちろんいいと思います。それだけで少しずつ素直になれます。
「もっと穏やかにならなくちゃいけない」とか「もっとしっかりしなきゃいけない」などと自分を責めて、マシな自分になろうと努力する人もいると思いますが、現状の自分を否定的に捉えるのは、一つの認識の癖です。最上位の自分自身は「いいね」と受け入れ、理解するだけの存在なのです。そして理解と受容が最も自然な変化を導いてくれます。
https://sinsined.com/tayori027/ 【フェルトセンスと体験過程】より
一心塾だより 第27号
「よくわからないけど、何だかモヤモヤするような感じが胸の奥の方にある」というように、フェルトセンスがすでに感じられているとき、フォーカシングの手順としては、それがどんな事柄と関連したフェルトセンスなのか問いかけたり探ったりしてみます。また、そのモヤモヤの位置や大きさ、形、色、材質などを確認していき、取り扱いやすい一塊になってきたら、それが何を自分に伝えようとしているのかを、フェルトセンスの立場に立って推察してみます。そのようにして、そのフェルトセンスとの良い付き合い方ができるようになれば、からだ全体がいい感じになります。
私たちのからだは常に何かを感じています。この「感じ」、別の言い方では「今体験していること」のことを「体験過程」とフォーカシングでは言います。
体験過程を、例えば億万のプランクトンが漂う海のようなものとイメージしてみましょう。暑さが続いて海の環境が少し変化し、一部のプランクトンが死にかかって海が変色しています。ちょっと様子が変だとある女性が気づいて、海に声をかけたら、瀕死のプランクトンが集まってフェルトセンスが形成されました。彼女が「どうして欲しいの?」とフェルトセンスに尋ねたら、「冷やしてほしい」と訴えているような気がしました。彼女が大きな氷で海を冷やすと、海は元の輝く青さを取り戻しました。
フェルトセンスは、体験過程に意識を向け「最近どう?」と声をかけ、いろいろ話を聴くことでようやく形成されます。常にからだのどこかに存在しているわけではないのです。一方、体験過程は私たちの存在の基本です。自分と関係しているあらゆる対象に反応して、暗黙の意味を宿しています。体験過程は敢えて言えば神のような存在ですが、フェルトセンスは体験過程から生まれた子どものような存在で、駄々をこねたり、拗ねたりして甘えています。
日頃からセルフ・フォーカシングなどで体験過程と向き合っている人は、フェルトセンスを経由しなくても、体験過程の暗黙の意味から言語的に意味を抽出できるのではないかと私は考えています。あるいは体験過程をフェルトセンスではなくイメージや絵、物語などに一旦置き換えてから意味を見出すことも可能でしょう。
ですからフォーカシングにおいて大事なのは、フェルトセンスを見つけることではなく、何かについて、なんでも良いのですが、体験過程尺度が深まるように話すこと、自己探求することであり、相手の体験過程尺度が深まるような聴き方、応答の仕方をすることであると言えるでしょう。
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