【宇宙は偶然に生まれたものか。それとも創造されたものか。】
万有引力の法則の発見で有名な、イギリスの大科学者アイザック・ニュートンの逸話に、次のようなものがあります。
ある時ニュートンは、腕ききの機械工に、太陽系の模型を作らせました。
その模型は、歯車とベルトの働きで、各惑星が動く仕掛けになっている精巧なもので、ニュートンの部屋の大テーブルの上に置かれました。
ある日、ニュートンがその部屋で読書をしていた時、ひとりの友人がやって来ました。
彼は無神論者でしたが、科学者だったので、テーブルの上のものを見て、すぐそれが太陽系の模型であることを見てとりました。
彼は模型に近づくと、模型についているクランク(手動用金具)を、ゆっくり回しました。
すると、模型の各惑星が、様々な速度で太陽のまわりを回転するのでした。
それを見た彼は、いかにも驚いた様子で、
「うーむ。実に見事だ。誰が作ったんだい」と尋ねました。
ニュートンは本から目を離さずに、「誰でもないさ」と答えました。
「おいおい、君はぼくの質問がわからなかったらしいな。ぼくは、誰がこれを作ったのかと聞いたんだよ」。
するとニュートンは、本から顔を上げて、まじめくさった調子で、これは誰が作ったのでもない、いろいろな物が集まって、たまたまこんな形になったのだ、と言いました。
しかし驚いた無神論者は、やや興奮した口調で、言い返しました。
「ニュートン君、人をばかにしないでくれ。誰かが作ったのに決まってるじゃないか。
これを作ったのは、なかなかの天才だよ。それは誰かと聞いているんだ」。
ニュートンは本をかたわらに置き、椅子から立ち、友人の肩に手を置いて、言いました。
「これは、壮大な太陽系を模して作った粗末な模型でしかない。
太陽系を支配する驚くべき法則は、君も知っているはずだ。
それを模して作ったこの単なるおもちゃが、設計者も製作者もなく、ひとりでに出来たと言っても、君は信じない。
ところが君は、この元になった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったい何故、そんな不統一な結論になるのか説明してくれたまえ」。
こうしてニュートンは、宇宙の背後に、知性を有する偉大な創造者がおられることを、友人に得心させたということです(『ミネソタ工芸より)。
ニュートンは、その著書『プリンキピア』の中で、次のように書きました。
「太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。
・・・・至上の神は、永遠、無窮、全く完全なかたであられる」。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/kagaku02.htm
それでは 太陽系の設計者・製作者とは?創造主・神とは?どのような方なのでしょう?
(ヨハネ福音書 1:1~1:5 )
初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は、光を理解しなかった。
(創世記1:1~1:5 )
初めに神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ」こうして光があった。神は光を見て善しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と名づけ、闇を夜とされた。夕べがあり、朝があった。第一日目のことである。
旧・新約聖書における 創造エネルギーは「言葉・言波・事波」であると言えます。
Facebook能村 聡さん投稿記事【「火」と「土」のまつり合わせで、ひとに成る】
私たちの生存にとって、欠かせないものは何でしょう?
なぜ、”ひと”は”ひと”になれるんでしょうか?
神の世界(ガイア)は陰陽二元のまつり合わせ(くくり・統合)での姿です。それは何でしょうか?
物質世界で、私たちの命を維持するのに欠かせないものそれは「食べ物」ですね。では、お米やお野菜は何で育つんでしょうか?そうですね、太陽の光(光合成に必須であり、暖かい環境も)、そして、「土」ですね。
もちろん水も二酸化炭素も要りますが‥‥二酸化炭素は温暖化を起こすだけのワルモンにしたらあか~~ん。アマテラスである太陽が与えてくださる光エネルギーは「火」を象徴しています。お日様パワーの缶詰が食べものですね。
私たち人は、「生命エネルギー」をお日様からいただいて生かされています。古代の人が太陽を神として崇めていたのはちゃんと理由があるのです。太陽を敬い感謝することを忘れないでいたいものです。食べものには、私たちの生命の素がたくさん含まれています。
土は、植物(野菜やお米など)を育てる栄養素の宝庫です。この土(土壌)は、科学でもちゃんとまだ解明されていないミラクルワールドです。
小さな虫や細菌が、共生し、生かし生かされる「ミクロコスモス(小宇宙)」です。
スプーンひとすくいの豊かな土にはなんと5億匹以上の微生物がいると言われています。
自然農法は人智がまだ及んでいない生態系を生かした「宇宙的農法」です。
この素晴らしい命が繋がりあった生態系を、近代農業は、耕したり、化学肥料や化学農薬を撒いたりすることで、土の中のたくさんの命を虐殺してきました。その結果は様々な病気という形で、返ってきています。無知とはいかに恐ろしいことか。
その死んだ土でできた農産物を食べていて健康な体を作れるはずがありません。
農業のあり方、農作物=食べものが、人々の健康や医療の歪みを決定付けています。
食事に注意することが病気を予防する最善の策であるとする「医食同源」であり、「地産地消」である「身土不二」が真実です。その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動であるスローフード運動の根拠もここにあるのです。
そのことに一日も早く気づいて方向転換する必要があります。
「火」+「土」=ひ+と→ひと=人 が存在できるのです。
そして、水の存在も必須です。この水を汚す行為は、私たちの細胞の中の水を壊す愚行です。体内の水が汚れて、低波動に落ちてしまうと、様々な病気の原因になります。
だから、「火」+「水」=か+み→神です。
火は陽、水は陰です。この火と水がバランスよく陰陽統合(二元性統合)される世界が、神の創造した本当の世界です。
このバランスが大幅に崩れてしまった今の地球では、世界各地で猛暑や干ばつが頻発する一方で、同時に、大洪水も頻発しています。
ひと、や かみ に籠もる言霊に基づく古代からの叡智を現代に取り戻す必要がありますね。
https://book.asahi.com/jinbun/article/12840215 【旧約聖書に秘められた人類誕生の謎に迫る 長谷川修一『謎解き 聖書物語』より】より
旧約聖書に記された人類誕生の場面は誰もが知る有名な物語です。しかし、従来の聖書には、じつは重要な誤訳がありました。気鋭の聖書考古学者が、物語の裏側を解き明かし、それを生み出した人びとがそこに秘めた、人間への、そして自然への思いを探ります。『謎解き 聖書物語』より一部を紹介します。
なぜ人は土でつくられたのか
創世記では、神は土(ヘブライ語でアダーマー)のちりを使って人をつくります。なぜ土なのでしょうか。これにはおそらくふたつのことが関係しています。ひとつ目は、この物語を書いた人たちにとって、土がもっとも身近で自由に形をつくることのできる材料だったということ。そしてふたつ目は、人間の肉体が死後に土中で分解されていくことです。
旧約聖書の冒頭に収められたこの人類誕生の物語が書かれたのは、いまから2500年ほど前の西アジアです。当時はもちろんまだプラスチックなどはありませんでした。金属はありましたが、人間の肉体が硬い金属でできていないことはあきらかです。人びとは神々の像を青銅でつくりましたが、同時に神々や人間、そして動物の像をつくるのに粘土も利用しました。土器は調理や食事のときに当時の人びとが毎日使う日用品でした。土器をつくる職人も身近にいたことでしょう。そして何よりも、ちょうど粘土が崩れて土に還るように、人間も土中に埋葬してしばらくすると、やがて骨だけを残して形を残さなくなることを、土葬が一般的だった当時の西アジアの人びとは、自らの観察によって知っていたのです。
しかし、たんに土をこねて形をつくっただけでは、それは動くものにはなりません。そこで神は土でつくった人の鼻に「命の息吹」を吹き込みます。すると人間は生きるものとなりました。鼻に神が息吹を吹き込んだことによって生きることになった、という描写も、古代の人びとによる人間観察に基づいているのでしょう。神はこうして生きるようになった人間を「アーダーム」と呼びます。
「アダム=人」のことば遊び
当時の読者は、ここにことば遊びが隠されていることに気づいたことでしょう。「土(アダーマー)」から「人(アーダーム)」をつくったのです。この後、このアーダームという単語はこの物語に何度も出てきます。ただ、面白いことに一部の例外を除き、これらすべてには「ハ」という定冠詞がついて、「ハ・アーダーム」という形で出てくるのです。
定冠詞というのは、英語だとtheに当たり、原則として、一般名詞について固有名詞にはつきません。英語にはアーダームというヘブライ語に由来するAdamという人名があります。人名は固有名詞ですので、「私はAdamです」という文はI am Adam.であって、I am the Adam.ではありません。
このことは何を示しているのでしょうか。定冠詞がつかないアーダームは固有名詞、すなわち人名ではなく、一般名詞であることを示しているのです。そうなると、「アーダーム」を「アダム」という人名として訳すのはじつは誤っていることになります。正確には「人」と訳すべきでしょう。つまり、神は自分が土のちりでつくり、命の息吹を吹き込んで生きるようになったものを「人」と名づけたのです。
なぜ人間が生みだされたのか
ところで、なぜ神は人間を創造したのでしょうか。人間をつくった目的について、創世記は直接語りません。西アジアに伝わる『エンキとニンマハ──人間の創造』や『エヌマ・エリシュ』、『アトラ・ハシース』といった古代の文学作品には、やはり神々が人間をつくる描写があります。そのなかでは、人間をつくった目的が、神々の苦しい労働を代わりに行うため、とはっきり述べられています。人間をつくる前、神々自身が自分たちの食べるものを得るためにはたらき、自分たちの家、すなわち神殿をたてていたのです。
創世記の物語のなかで、神は自分がつくった人間に命令を与えます。そこから人間がつくられた目的を読みとることができます。すなわち「うめよ、ふえよ、地に満ちて、これをしたがわせよ」というものです(1章28節)。人間が地上で行うべきこととして神が命じたのは、地上で数を増やし、大地を「したがわせる」ということでした。
このことばだけ読んでも、人間がつくられた目的はあまりはっきりしないかもしれません。しかし創世記の他の箇所とくらべてみると、「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」という部分が神の祝福のことばであることがわかります。数が増えることを、古代の西アジアの人びとは神からの祝福と考えていました。飼っている家畜の数が増えることも、子どもがたくさん生まれることも、自分が神から祝福されたしるしだ、と考えていたのです。この点は、他の古代西アジアの神話とずいぶんちがいます。人間は神々の労働を肩代わりするためにつくられたのではない、と創世記はいっているのです。
地をしたがわせる人間
次に「したがわせよ」ということばについて考えてみましょう。大地をしたがわせるとはどんなことを意味するのでしょうか。「したがわせる」という動詞は、『旧約聖書』のほかの箇所で使われている用例などとくらべることによって、ここでは「支配する」という意味で使われていることがわかります。つまり、人間に大地を支配するよう、神が命じているのです。
創世記が書かれたころ、すでに西アジアでは農耕がさかんに行われていました。農作物の成長には水が欠かせません。西アジアでは日本よりも雨が少なく、年間降水量が東京の三分の一以下のところもあります。こういう地域で農作物が育つことのできる場所はかぎられていますから、人びとはやがて灌漑を行うようになります。川の水を畑に流して作物を育てるようになったのです。自然に流れている川の水を畑にひくには大工事が必要です。人びとは集まり、力を合わせて作業しました。おおぜいの人が集まって作業するためには指導者がいります。こうした指導者がやがて王などの支配者になっていったと考えられています。
このようにして、人はそれまで乾燥していた大地にはたらきかけ、それに新たな役割を与えることに成功しました。この様子を観察し、まるで人が大地を思うがままにしている、と当時の人びとは考えたのかもしれません。創世記ではこうした人間による大地へのはたらきかけを「したがわせる」という表現であらわしたのではないでしょうか。
土に仕える人間
この部分だけを読むと、あたかも人間は自然を好きに使っていい、といわれているようにも思えるかもしれません。実際、これまで人間は自然にはたらきかけ、その姿を大きく変えてきました。私の故郷にはセメントの材料となる石灰が採掘される山があるのですが、採掘によって年々山の姿が変わっていくのを帰省するたびに目にします。ニュースで耳にする環境破壊も、人間の直接的・間接的な自然へのはたらきかけの結果によるものです。はたして、創世記は人間による環境破壊をゆるしていることになるのでしょうか。
今日の自然破壊の原因はキリスト教の自然観にある、とする声が、しばらく前にヨーロッパで、そして少し遅れて日本でも叫ばれるようになりました。その自然観は、『旧約聖書』、とりわけ創世記のこうした記述に根ざしているというのです。しかし、創世記のなかには人間のつとめを次のように記す箇所もあります。
神ヤハウェは彼(人)をエデンの園から追い出し、彼(人)がそこから取られた土に仕えさせた。(3章23節)
ここでは先ほどの「地を支配する」という表現とは対照的に「土に仕える」という動詞が使われています。この動詞については「耕させる」という日本語訳もあり、むしろこちらのほうが一般的です。しかし、この動詞は基本的に「(人に)仕える」を意味し、名詞になると「家来」や「奴隷」という意味になります。先ほどは人間が大地の支配者でしたが、今度は人間が土の世話をする存在になる、と記されているわけです。まるで逆のことをいっているように思えるかもしれません。たしかに、このふたつの記述だけをくらべてみると、矛盾しているように見えます。
仕える支配者
このふたつをあえて同じ意味合いで使っているとするならば、支配者とは、任されたものを世話する存在なのだ、ということになるでしょう。「支配する」ということばを「仕える」ということばでいいかえることによって、支配するものと支配されるもの、というふたつの対立する存在の見方そのものを変えることができます。まったく別の角度から見ることによって「支配する」の定義を変更しているのです。「仕える」ということばを用いることによって、自然対人間という対立関係が消えてしまいます。
この一見矛盾に見えるふたつの考え方がともに創世記のなかに収められていることこそ、私は大切だと思います。人間は自然を支配するもので、それは神の命令なのだ、という考え方と、神は人間を自然の世話をするものとしてつくったのだ、という考え方です。こうした矛盾は、読者の間でその意味をめぐって議論となります。ある問題をめぐって議論をするということは、その問題についてよく考えることにつながります。こうして考えてみるとすでに古代において、自然破壊という問題に人びとは気づいていたのです。
(『謎解き 聖書物語』より抜粋)
https://ootunomiko.blog.fc2.com/blog-entry-68.html 【言霊について(1)】より
(1)言霊信仰について
言霊とは、言葉に霊魂が宿っており、不思議な霊力があるという意味です。
犬養氏は「万葉の人々」という書で「言霊信仰というのは、言葉には霊魂があり、命がある。だから、良い言葉を言えば良いことが実現し、悪い言葉を言えば悪いことが実現するという信仰といったらいいと思うのです。」と分かりやすく説明し、万葉集は、初めからしまいまで言霊ということを抜きにしては考えられないと述べています。
折口信夫は、枕詞が古代地名に冠せられることの多いことに触れ、その言葉に含蓄せられた深い信仰から来ていることを指摘しています。枕詞がはいることによって、生命の指標ともいうべき地名を聞くとともに、(霊的な感銘が)具体化して人の胸に広がったと言うのです。
中西氏も、鳥巫(ちょうざ)の祭儀という祭式起源を論じていいます。天空の彼方と交流しうる霊の所有者(鳥巫)がいたとするのです。そのシャーマンの語りが、言霊そのものであった。その中でも、リアリティを持った真実味のある言葉は、祭儀を離れても人々の心に宿って伝わったと言うのです。それが詩的(文学的)起源であると繫がっていくのです。
このような方々は、万葉集にある「言霊」という歌言葉を説明するに当たって、言霊の起源を太古に掘り起こして行きます。アニミズム的な呪的世界に始まり、長い時代の祭祀を経過して、さらにそこから伝誦された言葉であると言うのです。万葉集の歌には、そのような万葉人の信仰が内在していると言うわけです。この一方では、同じ長い時代を経て来たところの「歌謡の伝承」が存するのです。「言霊信仰」と「歌謡の伝承」は、万葉集研究者の間で広く支持されている考え方です。
でも、この二つは矛盾しないのでしょうか。「言霊信仰」は、遡れば「神語」や「呪詞」にたどり着くのです。「歌謡の伝承」は、遡れば「民謡」や「歌」にたどり着くはずです。祭祀の言葉と歌謡の言葉が長い年月をもって合流し、万葉の歌言葉を形成したことになるのです。奈良時代を見れば、雅楽寮の舞楽と神祇官の祝詞は、全く別次元のものでした。
また、言霊信仰に基づく言葉に、文学的な価値を見出すことができるのでしょうか。この言葉が盛られる、誉め歌や寿ぎ歌は、「善き歌」「美しい歌」を発展させるでしょうが、悪しき言葉や忌むべき言葉を排除していく理屈です。その心においても、周囲が受容しない言葉を口に出すことは、自己規制が働くことでしょう。「神ながら」という言葉は、個々の思いを心の中に閉ざして、神に委ねることを指していました。極端なことを言えば、万葉集に「言霊信仰ありき」では、万葉の歌は生まれなかったと思うのです。
だからこそ、大伯皇女の歌と仮定する3250番歌が、「神ながら」を打ち破って「言挙げ」したことに意義があったのです。歌の流れから言えば、この「言挙げ」の後に、大伯斎宮の歌と仮定する3253番歌があり、「言霊信仰」が入る理屈なのです。
重ねて言えば、万葉集で文学的な価値を見い出すべき歌は、「神ながら」から「言挙げ」した歌にあるべきだと言いたいのです。その歌が、相聞歌であろうが、大伯皇女であろうが、かまわないのです。ただ、このような歌は、大伯皇女の相聞歌を置いて他にないだろうと考えるのです。
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