https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/10/25/kiji/20231025s00041000415000c.html 【谷口キヨコ 夕焼けを眺める時の「あの世とこの世が一瞬混じりあうような感覚」に思うこと】より
【谷口キヨコのごきげん!? SOLOライフ】何日か晴天が続き、見上げる秋の空。ほんまに秋の空って、きれいですよね。真っ青で高い空。ぽっかり浮かぶ真っ白なひつじ雲。うろこ雲やすじ雲。真っ赤な夕焼け…。特に夕焼けを見てると泣きそうになる…。知らないうちにツーと涙が出てくることもあります。「夕焼け見て泣けてくるなんて、私の心もまだまだピュアなのね」と、心の中でつぶやいてみる(失笑)。
この自然現象って、何千年も前から続いてるんやなぁ、なんてこともふと思います。特に西の山に沈む太陽を眺めているときは、時空なんか越えちゃって、自分が何歳かも、性別も飛び越えちゃって、ただ夕焼けの中にいる人になってることがあります。
もっといってしまうと、その間はあの世とこの世が一瞬混じりあうような感覚といいましょうか…。私にとっては亡くなった人たちを一番近くに感じる時間でもあるんです。この夕焼けの中に彼らもいるんじゃないか、と。もちろん見えはしませんが、話しかければそれを聞いて応えてくれるような、そんな感覚になることがあります。
それと同時に、私が知らない昔の人もこんな夕日を見て、会ったこともない遠くの人もこんな時を過ごしている…そんな気持ちにさせてもくれます。時間や距離を超えて同じものを見ている感覚、それを共有している感覚があるんです。
過去とのつながりはご先祖様だけでなく、この大きな自然や自然現象がわたしたちをつないでくれているんやな、と夕焼けの中にいると思います。子供のいない私にとっては「未来へつなぐ」という感覚は、50年後、100年後の未来を自分の子孫目線で想像することができないということもあり、正直そんなに身近に感じられるものではありません。でも、未来の誰かもこんな気持ちで夕焼けの中にいてることで、この私の思いを共有する人がきっといるだろう。
それが時代や国や性別や年齢や、とにかくいろいろな違いはあってもつながっていくものであると感じるし、そう信じたいのです。私はこれからも続く、大きな大きな命の一員であるというつながりを夕焼けの中にいると感じます。
そう思うとき、これからの自分が何をしたいか、すべきなのか…。この感覚が確かな指針になるような気がします。
https://heiseibasho.com/heiseibasho-comment-miiraku/ 【あの世を感じる長崎県の国境の島】より
地蔵菩薩はあの世への導き手であると同時に、旅の道中を見守ってくれる道祖神でもあります。私が若い頃に、散々旅をした三重県の旧街道沿いには多くのお地蔵さんがいらっしゃいました。
導きの道祖神
私は旅を住処としてきましたので、見るべきものは見て、聞くべきことは聞いたつもりでした。そこで先日、帰省した際、伊勢本街道沿いの道祖神に「お陰様で歳をとってからもこうして元気に旅することができ、もう行っていないところはあの世くらいです」と疫病退散の祈願と共に感謝の気持ちを伝えると、お地蔵さんはまだ「あの世の下見」はしていないだろう?と聞いてきたように感じました。
伊勢本海道
そこで、私は本当のあの世を訪れる前に、その空気を感じられる「あの世の下見」に行こうといろいろ考えてみました。
「あの世」すなわち霊や死後の世界という概念が歴史上、初めて登場したのは古代エジプトの『死者の書』です。
古代エジプトでは、霊魂は死後、「バー」という鳥の姿になって肉体から飛び立ち、「あの世」の楽園アアルで永遠の生を送ると考えられていました。
今日、この「あの世」という概念は、宗教的立場によって解釈が異なり、日本の神道においては海の向こうの「常世の国」と死人のいる「黄泉の国」や「根の国」、仏教においては「極楽浄土」という世界です。
日本の極楽浄土「五島列島福江島の三井楽」
そして仏教における極楽浄土は太陽の沈む西方かなたにあるとされ、「あの世」に近い場所としては長崎県五島列島福江島の最西端の「三井楽(耳楽)」の地が有名です。
平安時代の『蜻蛉日記』にも
ありとだに よそにても見む 名にし負わば われに聞かせよ みみらくの島
(耳楽の島よ、耳を楽しませてくれる島なら 何処にあるのか聞かせておくれ。
早速行って亡き母がいるならせめて遠くからでもお会いしたいものよ)
という歌が詠まれており、福江島の三井楽は、西方浄土との境で「亡き人に逢える島」「此岸と彼岸の交わる場所」とされています。
この地はまた、遣唐使船の最後の寄港地でもあり、804年、空海(弘法大師)も命を賭してこの日本最後の地を去ったことから「辞本涯」(本涯とは日本の果ての意)という碑が建っています。
三井楽の「辞本涯」の碑
よって、私の「あの世の下見」はまず、日本遺産に登録されている長崎県の「国境の島」から始めることに決めました。
そして6月20日に出版した私の令和の旅指南シリーズの最新刊『日本遺産の教科書 令和の旅指南』においてもこの「国境の島」というストーリーを紹介しました。
国境の島「福江島 大瀬崎灯台」
徒然草第52段「仁和寺にある法師」の「すこしのことにも先達はあらまほしき事なり」と書かれているように、日本遺産のようなストーリーを理解するには適切な指南書またはガイドが必要です。
そして、「あの世」の下見が終われば、やはり最後は故郷を訪ねましょう。故郷という場所は法事や同窓会などの用事がなければ、なかなか訪れる機会はありません。しかし、あえて何もない時に訪れることで、自分が育った街並みをゆっくり巡ることができ、懐かしい景色に心を打たれる瞬間があるのです。そして、もし元気な旧友や旧知の人と出会うことができれば、「あの世」へも安心して旅立てるような気がします。
日本の縄文文化「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産!
「北海道と北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録されることを記念して、私はこのたび『縄文人からのメッセージ』というタイトルで令和の旅を語り、Amazonの電子本として出版しました。人生100歳時代を楽しく旅するために縄文人の精神世界に触れていただければ幸いです。日本人の心に灯をつける『日本遺産の教科書』、長生きして人生を楽しむための指南書『人生は旅行が9割』とともにご一読下さい。
https://www.ne.jp/asahi/suiyou/keiko/pages/144.htm 【中村苑子作品鑑賞(13)】より
あの世を見た句
広道へ出て日の高き花野かな 与謝蕪村
見わたすかぎりの花野に自分ひとり立っていて人の姿は見えない。日は中空に高くしんかんと照っているばかり。蕪村はただ眼前の景としてこの句をよんだのであろうか。私は一見、写生のように見えながらあの世を見たのだと思う。(桂信子「あの世この世」)
枯野道童女が赤く唄ひ過ぐ 中村苑子
(『花狩』昭和51年刊)
枯野道を夕焼けに染まりながら幼い女の子が唄い過ぎていく……。
これは写生句だろうか。
私には、ここに描かれている景と我々の間には、何か目に見えない膜のようなものがあるように思えてならない。情景はくきやかに見えるのに、その空気や人の気配、物音といったものを肌で感じることができないのだ。私の耳には童女の唄う声がまるで聞こえてこない。ただひとつ感じるのは、童女をじっと見つめる作者の視線だ。その視線が静かでひんやりとしていてどこか怖いのは、この視線もまたむこう側にあるからだろうか。怖くてしかも遠い懐かしさも感じられるような不思議な気配の句である。
〈枯野道、童女、赤〉という用語に注目したい。これらは墓、死といったイメージを濃厚に感じさせる言葉だ。やはりこれも“一見、写生のように見えながらあの世を見た”句なのではないだろうか。
私自身いままであの世での句を数多くつくった。
ふりむかぬ大勢に射す春の日矢 水くぐり夜は白鯉と遊ぶかな
雪見舟ゆき交しつつ音立てず 河骨のところどころに射す日あり
沖くらくこもれり月の波がしら
これらの句は感じないひとにはただ単なる写生の句と思われるかもしれない。霊魂はいつもわれわれのまわりにいて呼びかけるが、気づかずに通り過ぎるものにはそのままで後を追いかけるようなことはしない。私はいつも神経をとぎすまして外からの魂のよびかけを待っている。(桂信子「あの世この世」)
桂信子「あの世この世」: 1992年10月9日付朝日新聞夕刊に掲載された文。
http://oikawaroom.blog46.fc2.com/blog-entry-465.html 【あの世とこの世がつながる場所】より
朝の時間
水面の夕焼け夕べの時間
あの世への通路は,どこに,どのように存在しているのでしょうか。これは異次元への接点という言い方でも同じです。東北の恐山等,全国にそうしたあの世とリンクできる場所が古来から存在していました。
宮澤賢治は亡き妹と交信するために,樺太の栄浜という北の地を選びました。妹トシとの交信を真剣に考えていたからこそ,賢治は交信可能な「時」と「場所」を吟味していたのだと思います。それらの考察は萩原昌好氏の『宮澤賢治「銀河鉄道」への旅』に詳しいので省略します。今日取り上げるのは折口信夫『死者の書』からです。この本だけにと特定している訳ではありませんが,あの世への通路の開かれ方が書いてあります。
彼岸中日秋分の夕。とあります。つまり昼と夜のバランスが最もとれている夕日です。
西の山です。「死者の書」では二上山の雄岳,雌岳の間です。神やあの世への道筋は,水によって開かれます。つまり沢筋が大切です。昔から死んだ人の魂は離れるだけで,呼び戻すことによって生き返ると思っていました。だから葬式は行わず,魂呼びの儀式を行っていたのです。あの世から帰ってこないようにする葬式は新しい考え方でした。言わば,あの世とこの世は交通可能で,場所や時を特定して,正しく儀式を行うことで離れていった魂を呼び戻せると思っていたわけです。
そして強い風,嵐です。
これらの条件がそろうとき,そして強く願う心があるとき,浄土との回路が開かれます。このイメージが『山越阿弥陀図』です。というより,折口信夫は『山越阿弥陀図』を見て,「死者の書」を書いたのです。
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