https://note.com/keigo_moegi/n/n9572a4904ad2 【夕暮れ・・・心象風景のエチュード】より
「夕暮れ」と聞いて、季節を思い出す方はいますかね。四季のいつでも「夕暮れ」はあるので
何を言ってるのと思われるかもしれませんけれどどうも自分の感覚だと「夕暮れ」にぴたりくるのは夏。冬の「夕暮れ」は寒いし、寂しい。春のそれは、あまり印象がない。
秋は物悲しくなるから、あまり夕焼けには触れない。夕暮れの時間帯になると、半世紀前は
夏でも少し涼しい風が感じられたような気がします。ヒグラシの声が聴こえてくるとそろそろ暗くなる。「ご飯だよ」の声でみんなそれぞれの家へ。そうそう美味しいものは無かった。
ご飯に漬物・煮物か焼き魚汁ものは朝だけ。その前から父親は仕事が終わっていれば
ステテコ姿で酒を飲みながらテレビを見ている。さぁ、子供もご飯だ。「頂きまぁす」
テレビのチャンネル権は当然父親。それでもたまに面白いものが映っていたりすると
ご飯そっちのけで手と口が留守になっていると食べ物を食べながら、テレビなんか見るもんじゃない。と、母親。子供心にも釈然としない気持ち。
そんなこんなの夏の夕暮れ。奥の部屋には蚊帳が吊ってあって外からの風に揺れている。
毎日おなじ事が繰り返される夕暮れの想い出。幼稚園の頃に住んでいたのはヨットハーバーもある街だったのでヨットには憧れがありましたけれど結局まもなく65年の人生
一度も乗れないできたので、まだ憧れてつい絵に入れ込んでしまいます。
https://tm-imaging.jp/blog/7571 【関東平野の夕景は心象風景】より
人それぞれ心に残る幼き頃の心象風景というのがあると思うが、個人的には秋から冬にかけて関東平野で眺める夕景がまさにそれ。
秋の日はつるべ落としそのままに暗くなるまで外で遊んでいた小学校時代、部活で遅くなって家路を急ぐように歩いて帰った中学時代、カメラ片手に天狗様やカワセミを探して夕方までチャリでうろついていた高校時代等々。
それら傍らで記憶から蘇るのが、オレンジ色に染まった西の空と、そこに浮かび上がる浅間山から妙義山、荒船山など西上州に連なる山々とその背後の八ヶ岳連峰である。
特に国内最大の広さである関東平野の、その広大な空が夕焼けに染まって作り出すグラデーションの美しさは、大気の澄む寒い季節ならではだろう。
暗くなるから家路につくという、ある意味生きものとして当然の帰巣本能的なものではあるが、人は歳を取るとどこかそういった風景に懐かしさを覚えるようになるようだ。
OM-D E-M1 MarkIII / M.ZUIKO DIGITAL ED 8mm F1.8 Fisheye PRO
いかにも感傷的な投稿っぽいが、JINSでメガネを新調してそれを受け取りに高崎のイオンモールに立ち寄った際に屋上Pに車を駐めたので、たまたま夕焼けの良いタイミングに当たったという話。
下界でこの時間帯だと大抵は車で走行中..まさに出先から家に戻るため..であるか、平野部なのでそもそも高い位置に身を置くことがなく、良い感じの夕景をカメラに収めるのは結構難しいのである。ま、それ故にたまたまということになるのだけれども。
とは言え、メガネの仕上がりが遠近両用のジジィ仕様なんで仕上がりに時間がかかっている..JINSは通常は当日に受け取れる..はというのはここだけの話w、やっぱり歳取ったんで感傷的になっている可能性も否定できないなw
https://note.com/yosga/n/n4cd1117b6284 【心象風景】より
皇紀二千六百八十四年卯月最後の日が暮れた かけがえのない一日 二度と巡らぬ一日
同じ日は無いことは不思議で 暦も時も尊いものでおもしろい
時は只ひたすら景色を連れてき 五感に触れては感情を生み心を動かす
思いは変わる示唆を伝えては去り 新たな心を創ろうと藻掻く
蒸し暑い一日の終わりに静かに心象風景を綴る
https://ameblo.jp/poetryweb/entry-12300623165.html 【心象風景を書く】より
心象風景を書くには自己との格闘が必要です。この格闘は、すでに行われている必要があります。すでに行われてきた格闘を延伸して、さらに格闘して決着をつけていくことが重要です。
心象風景とは心の景色です。この景色は、当然、自分が見た景色であると同時に自分を含めた景色を自分が見たものでもあります。自分の心が見た景色をもう一人の自分が見たものであるともいえます。
それを読者が見た時、詩の中に流れる時間や言葉がどう機能して、どう見えるかを計算しなくてはなりません。
計算と言っても数式ではなく、言葉の響き、意味の積み重ね、可視範囲、経験則の適正利用などさまざまに検討して心象風景が再現されるかを検証するのです。ここに私が先程かいた詩があります。書き出しはこうです。↓
洞窟の入り口には 何も書いていない 暗くて 中のようすは分からない 入りたいけど
入ってもいいものか 先程から迷っている いや 何度もここに来ては 迷っているのだ
書きたい心象風景のモチーフを提示しています。
暗めのトーンの景色が描かれていますね。さらに続きます↓
入り口は 突然現れ立ち上がる 鼻先に迫る勢いだ 黴(かび)の匂いがして 中から風が吹いているのが分かる どんな入り口なのかがフォーカシングされていきます。
そしてその存在が具体的イメージとして描かれていきます。
夕闇のカーテンが覆い紫の煙が立ち込める 人のささやき声が中から聞こえてくる
聞き覚えのある声だ 母かもしれない こうして 立ち尽くしてしまうのは 私の癖(くせ)だ 何度 立ち尽くしてきたことか 自分との関係性が語られ 自分と強く結び付けられていきます。 母が出てきたのはどうしてでしょうか。
このあたりは、謎として詩に味わいを付加します。
心臓の鼓動が聞こえるほど 心?が聞き耳を立てている時 右から左へ 左から右へ
斜めに横切る刃(やいば)の光 私は中に入るべきかもしれない 戸惑う理由はないのかもしれない とりかしのつかないことを しなければならないのかもしれない
いや きっともうその中に入ってしまった 自分という 未来の洞窟
最終行は「おち」を分かりやすく書いていますが 分かりやすくしないほうがいいかもしれません。
この詩は未完成です。詩を完成させるまで推敲が必要なことがほとんどです。
心象風景の詩は特に難しいのです。
他人には分かってもらいにくいことを分かってもらうという感じのジャンルです。
普遍性というものがどのあたりにあるか探りながら推敲し完成させます。
ここに生贄にした詩もたぶん変わった姿になっていくことでしょう。
https://haiku-ashita.sakura.ne.jp/zuisou04.html 【第4回 写生句と心象句】より
舞台では賑やかなバンドの後にコミカルなコントが演じられています。もう4つも続いた喧騒とドタバタに、観客は笑いながらも生あくびを繰り返しています。ところがコントが終わると突然舞台は闇に包まれ、やがて一筋のスポットライトが、ギターを抱えたソロシンガーを浮き上がらせます。ギターの音色に合わせて抑えの聞いた澄んだ声がスローバラードを歌い始めました。観客が息を呑んで見守る中、今までと丸で違った静謐な時間が流れはじめます。そして歌が終わった瞬間、割れんばかりの拍手と賞賛の嵐に包まれます。しかし、もしもこの後、同じような趣向の出し物が長々と続けば、観客はまた先ほどの賑やかであった舞台が続いた時のように飽き飽きするでしょうし、再び賑やかな笑いを切望するかも知れません。
俳句の中には、写生句と人情句、叙景句と抒情句、具象句と象徴句などがありますが、どちらが優でどちらが劣という優劣の関係ではなく、バランスの問題ではないかと思っています。したがって、俳句を鑑賞する立場に立てば、すべてが写生句の句集を詠みたいとは思いませんし、全て抒情句の句集もまた同じことであると思います。それ故、俳句は全て写生句であるべきという主張に与するつもりはありませんし、全て心象句、象徴句でなければならないという主張にも与したくはありません。世には様々な事象があり様々な人間模様があります。思わず一句ひねりたくなる風景もあれば、打ち明けたい心情もあるでしょう。それらを自分なりに自由に詠むことこそが俳句の醍醐味であると思っています。今回は「写生句と心象句」をテーマとしますが、それは心象句や象徴句と対比される写生句や叙景句との二者択一の問題ではなく、あくまでもケースバイケースであり、自由に選ぶことのできるものであるべきと思っていることをまず申し上げたいと思います。
この立場に立って、近代俳句の提唱者、正岡子規、その精神を受け継いだその後の日本の俳句結社の系譜を考えれば、心象句を述べる前に、やはり何故写生句に拘るのか、という点についても考察する必要があるように思います。
洞穴をねぐらにしていた原始人がその洞穴に描いた動物の絵を絵画(芸術)のスタートとするならば、やはり初めは目についたものの描写から始まるのは当たり前のように思います。やがて、単なる描写から、動物の怖さを強調した絵、動物の気持ちを汲んだ絵、その抽象化したもの等と発展するはずです。人間が文字を生み出した後の詩歌や文学も同じステップを踏んだのではないでしょうか。
十九世紀にヨーロッパで生まれた潮流であるリアリズム(写実主義、文学では自然主義)は絵画や文学において客観写生を高々と標榜していました。またその後のシュールリアリズムは、超現実や非現実(もっとちかい現実、現実の向こうにある現実)を表現しようとする運動でした。十九世紀末の日本は、明治維新後、列強からの侵略の脅威を前に脱亜入欧とばかりに、まずは西欧を真似るところから始めて急速な近代化を進めていました。明治期の著述には、岡倉天心や新渡戸稲造などの例外はありましたが、おしなべて西欧礼讃亜細亜蔑視の傾向があったと思います。そのような潮流の中、子規の俳論に西欧のリアリズムが影響を与えないはずはなかったと思います。子規の「病牀六尺」の中に大要、次のような記述があります。「写生は画を画くにも、記事文を書くにも極めて重要である。西洋では用いられていた手法であって、日本ではこれをおろそかにしている。理想をとなえるひとは写実を浅薄なこととして排除するが、その実、理想の方がよほど浅薄である。なぜならば、理想は人間の考えを表すのであるから、その人間が非常な奇才でないかぎり類似と陳腐を免れないのは必然である。これに反して写生は天然を写すのであり、天然自然が変化しているだけ、写生も変化できる。写生に弊害がないとは言わないが、理想の弊害ほど甚だしくはないように思う。理想というものは一呼吸に屋根の上に飛び上がろうとして、かえって池の中に落ち込むようなことが多い。写生は平淡である代わりに、そのような仕損いはない。」
かつて、あしたの会の句会において、宇咲冬男先生が船で世界一周の旅に出られて不在の折、代行を務めさせていただいた時期がありました。その時、心象句と称して、「心」「思い」等、心象そのものを安易に表す言葉の句は採らないという方針を打ち出したことがありました。その主旨は、このような言葉を使うと、子規の言う「類似と陳腐を免れない」句のオンパレードになりかねないと危惧したからでした。話を子規に戻します。子規は俳句の改革の核に「客観写生」を据えて、その実践もしました。しかしその後の句には「幾たびも雪の深さを尋ねけり」のような写生を超えた主観の佳句もあまた残しています。俳句は客観写生でなければならないと主張する一方、生きる上での心情の吐露を俳句で行おうとするならば避けられなかった当然の帰結かと思いました。
さて、子規が客観写生の先達として大いに持ち上げた蕪村に対して、子規が酷評した、心象句、象徴句の先達である芭蕉は、宇咲冬男先生の言をお借りすればシュールリアリズムの先駆者ということになりますし、現在の俳句史の中でもその見解はすでに定まっているように思います。しかしこの芭蕉ですら、初めからシュールリアリズムに到達していた訳ではありません。連句の精神同様、一歩も後戻りすることなく猛スピードで変化し続けました。「マグロとイワシは会話ができない」という喩え話がありますが、新幹線並みのスピードで泳ぐマグロと自転車やオートバイ程度のスピードで泳ぐイワシは、ほんの一時点では接点があっても、あっという間に離されてしまいます。芭蕉には沢山の弟子がいましたが、彼の生涯を通して師事できた弟子がいなかったことは、その証明になるかも知れません。それだからこそ昇華された俳諧が残ったとも言えます。生き残るため、何かを進化させるためには自らが変わらなければならないのは、人も企業も同じであることを、この激動の世にあって、しみじみそう思います。そんな中、客観写生に拘り続けることの適否は、やはり改めて問い直されるべきではないかと思わずにはいられません。
さて、わが『俳句同人誌あした』は、その掲げた旗に「心象から象徴へ」と記しています。では写生句は詠まないのか、という問いが出てくるかも知れません。この問いに私はこう答えたいと思います。「俳句が俳句である限り、森羅万象の全てを詠みます。その中で、むろん心象も詠みます。そして心象を超えた象徴性の高い、心に響く句を目指したいと思います」と。
https://ncode.syosetu.com/n2873ck/ 【極私的俳句論。 その24 客観写生?それとも、、心象風景?】より
作者:舜風人
子規、、虚子から始まるいわゆる近代俳句に於いては写生が重視された。
写生とは、、読んで字のごとく、見たありのままを俳句にするということです。
さらに、もっと写生を突き詰めると「客観写生」とか言って見えた通り見た風景だけを俳句にしなさい、なんて一派が輩出するのである。
この一派は、たとえば、、猫の歯茎をよーく見たら、、なんとそこに猫蚤が一匹張り付いていた、なんて句を作ってこれこそ客観写生の神髄だなどと唱え出したのである。
だがさすがにここまで至るとそんな些細な、、細かすぎる際日だけの俳句ではたして良いのか? という疑問が噴出して次第にこの一派は衰退したのだが、、。
まあ、あまりにも細かすぎて、、顕微鏡でのぞいたような俳句ばかりでは、、困りものですよね。穏当なところでせいぜい「花鳥諷詠」くらいで良いでしょう。
さてところででは?俳句で虚構を、、つまりフィクションを歌ってはいけないのだろうか?
見たもの、みた風景だけを素直に詠いなさい。まあこれはこれで結構な提言ですが。
そもそも俳句も創作でありつまり大きいくくりではドキュメントとか新聞記事でなないですね。あくまでも作者の感性というフィルターを経て生み出された創作物であり 創造物であり
つまりということは、、フィクションなのですよ。
言うまでもなく事実そのままの報告が俳句ではないです。
見た風景 見えた事物を 一端、作者の感性の中に取り入れて、それを咀嚼して
作者なりの色付け?を施して つまり脚色して敷衍して、そののちに 575の俳句形式で吐露する。 表白する。 それが俳句ですよ。
見た事実そのままを新聞記事のようにただレポートしてもそれでは俳句になりませんね。
その過程で錯書の感性のせんっべつ作業が施されてこそ俳句となりうるのです。
ということは、俳句とは、、つまり有り体に申せば「フィクション」そのものです。
写生といってもタダそのままの生煮えの?風景描写では誰も感動しませんよね。
そこに作者なりの情意とか、空想とか、敷衍とか、、そういう創作活動を施さなければ俳句にはなりません。
というわけで俳句とは「創造されたフィクション」である。という結論になります。
それで正解というかそうしなかったら、先ほどの猫蚤のような句ばっかりになって味気ないこと限りないですよね。
あの芭蕉だって実際経験したことに+想像を敷衍して脚色してあの名句に結晶させているんですからね。
たとえば「古池や蛙飛び込む水の音」というあまりにも有名な句がありますが、、
あれなど虚構の最たるものですね。
芭蕉が古い池に来てカエルがぽちゃんと飛び込んだのを見て作った?と信じますか?
そもそも。池に小さなカエルが立った一匹跳びこんだくらいでは、、音なんか聞こえないでしょ?それが芭蕉には聞こえた?
というか芭蕉の心の耳には聞こえたという、、そういうイマジネーションの句なんですよ。
実際の風景なんかではないです。
あくまでも芭蕉の創作であり終えて言えば完全なフィクションです。
まあとはいえ芭蕉には見えた?というか芭蕉の心象風景にはそう見えたということに於いては
事実?でもあるわけですよね。
まあざっくりまとめてしまうと、、俳句とは作者の心の眼とか心の耳に、、見えた、、聞えた、、心象風景である、、、。という結論であるといえるでしょう。
https://www.keiomcc.com/magazine/review50/ 【ありのままを感じる―フォーカシングが教えてくれること―】より
4月、桜の開花とともに、入学・入社・異動・転勤など、新しい環境で新たなスタートをきっていらっしゃる方も多いことと思う。ここ丸の内でも、真新しいスーツに身を包んだ新入社員らしき一群を見かけるとともに、プログラム修了生の方々からも異動や転勤、転職のご連絡を頂き、皆さんの新しい門出を感じている。
新しい環境に入る方も、また受け入れる方にとっても、春は、心新たに頑張ろうと、期待や希望に胸を弾ませる季節だろう。
しかし、その反面、慣れない環境、場所、人間関係のなかで、以前と同じようにスムーズにいかないことに戸惑い、悩み、疲れを感じ、自分らしさを見失いそうな方も多いのではないだろうか。
そんな皆さんの参考になれば幸いだが、私は、自分らしさを見失いそうな時、そこまで大げさでなくとも、ちょっとホッとしたい時には、空を見上げ、雲を観察するようにしている。
東京は高層ビルが建ち並び、空が狭いと言われているものの、オフィスの窓から、通勤途中の電車から、ふと見上げる空は高く広がり、刻々と変化していく雲の姿はいつまで見ていても飽きることがない。時間にしてみれば、それほど長い時間ではないかと思うが、日々の忙しさに流され、自分の目の前にあることばかりに圧倒されそうな時には、貴重なひとときである。
空を見上げ、雲を観察しながら、私はふと想う。
「いま、私は何を感じているのだろう・・・」と。
生活をしていくうえで、仕事をしていくうえで、悩みや問題、葛藤はつきものである。しかし、私達の多くが、より大きな成果をあげるため、成功をめざすため、自分の夢に邁進するためには、いつもポジティブに前向きな思考を心がけ、自分のこころの中にある悩みや問題、葛藤からくるネガティブな側面は、嫌なもの、考えてはいけないものとして奥底にしまいこみ、蓋をしているように思う。あるいは、逆にそれら悩みや問題ばかりが大きく膨らみ、他のことを考える余裕がなく、悩みや問題からくる強い気持ちや感情に押しつぶされそうになっている場合もある。
心理学のなかに、「フォーカシング」という療法がある。
1960年代初めに、シカゴ大学のユージン・ジェンドリン(1926-)という哲学者・心理学者が見いだした療法と言われているが、成功した心理療法の多くが、カウンセラーの行為よりも、相談者自身に大きな特長があるという。その特長とは、相談者が自分のなかにある何か違和感に気づき、最初は言葉にできないものであっても、その“なんとなく感じるもの”に目を背けることなく、蓋をすることなく、見つめ、引き出し、そこにあることを感じ、“なんとなく感じるもの”と対話をしてみるという力である。ジェンドリンは、成功した心理療法の相談者の多くがもつこの力を、カウンセリングの技法として「フォーカシング」と名付け、カウンセリングの場のみならず、自分自身でこころを癒すセルフヘルプ(自己援助)の技法として、また大きな決断をする際の正しいと思う選択をするための手がかりとして、創造的な仕事を生み出す際のきっかけとして活用され、広められている。
おそらく、多くの方にとってこのフォーカシングとはどのようなことなのかイメージしにくいことと思う。
例えば、時折、もやもやとした何か漠然とした不安を感じることはないだろうか。スポーツなどでストレス発散をしても、旅に出て日常の風景と違うものを見ても、それらは対処療法にしかすぎず、その“もやもやとした感じ”はいつまでも自分の中に残り続ける。フォーカシングでは、その“もやもやとした感じ”を否定したり、見て見ぬふりをするのではなく、思いきってその感じとつきあい「どのようなものなのか」味わってみようというものである。
しばらく静かに、その“もやもやとした感じ”と向き合ってみると、その感じは何かを伝えはじめる。最初は言葉にできない、単に漠然としたものが、次第に、形がみえ何かを訴えかける。
それは、もちろん人それぞれであり、一様に説明をすることは難しいのだが、私の場合、「最近、忙しくて嫌だ。何かに追われているような感じでイライラするなぁ。」といった時、肩から背中にかけて何か重いものを背負っている感じがある。それを嫌なものとして無視するのではなく、また仕事の進め方やタイムマネジメントが悪いからといったように自分を責めるのではなく、ただ単に“何か重い感じ”をじっと感じるのである。そうすると、その“何か重い感じ”は少しずつ形を変えて、姿をみせる。
自分の心のなかにはさまざまな部分があって、「頑張ろうという前向きな自分」「イライラしている自分」「仕事に忙殺されそうでビクビクしている自分」「ダラダラとのんびりしたい自分」・・・いろいろな面がある。これらすべてが“私”そのものなのである。
ここまで説明すると、フォーカシングとは特別なことではなく、人間誰もがもちうる力なのではないかと思われる方も多いはずだ。その通り、フォーカシングとは、誰もが自然に身につけている技能であり、新たに発見するものでも、発明されたものでもなく、ましてや特別な道具が必要なわけではない。
現在のように激しい環境の変化、数多くの情報のなかで、時代の流れに遅れまいと必死に適用し対応しようとするがあまり、私たちが従来は自然におこなっていた「ありのままを感じる」という力が弱くなっていると言われている。特に、ビジネスという具体的な成果や結果が求められるなかにおいては、ポジティブな自分ばかりを尊重し、ネガティブに考えていく自分を卑下し押しやる傾向が強い。もちろん、このポジティブな面は自分のもつ大切な一面であり、さらに伸ばしていくに越したことはないかもしれない。ところが、それを長期にわたって続けていくうちに、一方の気持ちばかり重んじるがあまり、自分が本当はいったい何をしたいのか、何を求めているのかがわからなくなり、自分の気持ちについても、ひいては他者に対しても鈍感になり感じる力の弱い人間へとなっていく。
フォーカシングという技法は、「ありのままを感じる」ことを意識的に行うことによって、日常しまい込んでいる自分の新たな一面に気づいてみようというものである。悩みや問題、葛藤のなかにある強い気持ちや感情に押しつぶされるのでも、否定するのでもなく、それを認め、ほどよい距離を置き、そこからどんな感じがするのかじっと耳を傾けることが大切なのである。問題や悩みは、それにあまりにも近く寄りすぎると全体が見えないものであるが、距離を置いて少し離れたところから見ることにより、その問題の新しい側面や、その問題に対して強い感情や意識をもっている自分に新しい発見があるかもしれない。
4月、新しい環境のなかで、何か漠然とした曖昧な気持ちを抱えているのであれば、ふと空を見上げ自分に問いかけてほしい。「いま、何を感じているのかな・・・」と。自分自身に向き合い、対話をすることによって、きっと新しい自分を見つけ出すことができ、今まで気付かなかった自分の持つ力にめぐり会えることができるはずだから。
(保谷範子)
空や雲を眺めるときのハンドブックとして
『雲の名前の手帖 改訂版』 高橋健司著、ブティック社、2001年、ISBN:9784834753486
フォーカシングを始める際の入門書として
『やさしいフォーカシング 自分でできるこころの処方』 アン・ワイザーコーネル著、大澤美枝子・日笠摩子訳、諸富祥彦解説、コスモス・ライブラリー、1999年、ISBN:9784795223745
『マンガで学ぶフォーカシング入門 からだをとおして自分の気持ちに気づく方法』 村山正治監修、福盛英明・森川友子編者、誠信書房、2005年、ISBN:9784414400205
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