http://www.rsch.tuis.ac.jp/~ito/research/yuhi/yuhi.htm 【「映画の中の夕日」考】より
東京情報大学 教授
伊 藤 敏 朗
映画において、夕日(夕陽)や夕景は、重要なモチーフ(物語の構成要素となる事象や出来事)となっている。映画の中の夕日や夕景は、あるときは舞台の状況設定や時間経過の説明などのために、あるときは登場人物の心象風景などとして、効果的に、ときにドラマチックに用いられる。そこには、映画としてのどのような表象や演出意図がこめられているのであろうか。古今東西の映画から、思いつくまま、夕日や夕景の場面をひろって考えてみたい。(なお、本稿では「夕陽」は太陽の日輪そのものを、「夕日」は夕陽をふくむ夕空のことを指すものとするが、とくに厳密な使い分けをおこなってはいない。)
Ⅰ.外国映画編
1.『風と共に去りぬ』 (原題:Gone with the Wind、1939年、ヴィクター・フレミング監督、アメリカ映画)
初期のモノクロ映画の時代にあって、映画キャメラのレンズを太陽に向けることは、画像の解像度を低下させることが一般であったので避けることが多かったが、カラー映画の時代になると、夕日や朝日の情景は、映画の物語にきわめて効果的な舞台を提供するようになった。
その嚆矢が、世界初のテクニカラーによる超大作、『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル原作)であることに異論はなかろう。
物語の前半、夕暮れの農場で、ヒロインのスカーレット・オハラ(ビビアン・リー)に向かって、父親のジュラルド(トーマス・ミッチェル)が、この物語の核心的主題ともいえる台詞を語る。
「土地こそがこの世で価値のある唯一のものだ。土地は永遠だ。わしらにとって土地は母親も同然なんだ。お前もいつか土地を愛するようになる。」
父娘の見つめるタラの地平線が、夕日によって真紅に染まるこのショットは、本作の舞台となった古き良きアメリカの幸福感、「郷土への愛着と誇り」を象徴する名場面であるのと同時に、歴史的事実として目前に迫った南北戦争による南部の「没落の予感」の暗喩とも解釈できよう。
ちなみに、本作の最も有名な場面は、物語前半のクライマックスに現れる。南部の敗戦によって全財産を失ったスカーレットが、夜明け前、荒れ果てた農場で涙にくれながらも、拳を握って立ち上がって叫ぶ。
「神様、見ていてください。私は二度と餓えません!私の家族も飢えさせません!その為なら人を騙し、盗み、殺してでも生き抜いてみせます!」。そして、彼女の背後の夜明けの空が、広大な朝焼けに染まるのである。本作における、このタラの丘の夕焼けと朝焼けの場面は、その強烈な色彩のコントラストをもって、世界中の映画観客の心に焼きついた。
2.『捜索者』 (原題:、1956年、ジョン・フォード監督、アメリカ映画)
ジョン・フォード監督、ジョン・ウエイン主演の西部劇。西部の大地に雄大な夕日が落ちていく美しいカットがあり、「西部の大自然」の象徴となっていた。インディアンに対する偏見を抱き、孤独で独善的でマッチョな男性主人公の人物造形は、ジョン・ウエイン的ヒーローの一典型であり、モニュメント・バレーの奇観を、強烈な光と影のコントラストでとらえた映像美とともに、「これぞ西部劇」という強い印象を残す。室内のドラマ部分はセットで撮影されているが、夕日の赤い光が、室内に満ちているライティングも美しい。
3.『夕陽のガンマン』 (英題:For a Few Dollars More、1965年、セルジオ・レオーネ監督、イタリア映画)
クリント・イーストウッド主演のマカロニ・ウェスタン。ラストの決闘の後、ガンマンが馬にまたがり、夕陽にむかって去っていく印象的なカットがあり、西部劇の夕陽といえばこの場面が思い浮かぶ定番シーンとなっている。
もっとも、このカットのガンマンは主演のイーストウッドではなく、もう一人のガンマン、リー・ヴァン・クリーフである。イーストウッドが夕陽を背負って立っているというようなカットは本作の中にはない。原題を直訳すれば「もう少しのドルの為に」なので、夕陽とは関係がない。(同じレオーネ監督、イーストウッド主演の『続・夕陽のガンマン』という邦題の映画が1967年に日本で公開されたが、これには夕日のカットがまったくない。)このような邦題は、むしろ日本映画の『赤い夕陽の渡り鳥』(1960年、斎藤武市監督)などに通じる便宜的なものであり、その日本のシリーズと同様、本作も、アメリカの西部劇を、イタリアの映画人が、スペインの砂漠に西部の町のセットを建てて撮影した、いわば無国籍映画である。本作では全編にわたって、砂漠に照り付ける太陽光線の表現が力強く、荒くれ男たちの熱気がみなぎっている。本作のラストシーンの夕陽は、したがって、「殺伐と荒涼」、ないし「ギラつく熱気」の象徴といえようか。
4.『男と女』 (原題:Un homme et une femme、1966年、クロード・ルルーシュ監督、フランス映画)
’50~’60年代フランス映画におこった新しい映画表現の潮流、ヌーベルバーグを牽引した一人、クロード・ルルーシュ監督が、大人の男女の恋愛を斬新な演出で描いてカンヌ映画祭グランプリを受賞した作品である。鬼才ルルーシュの長編デビュー作であり、彼自身の撮影(パトリス・プージェと共同)による流れるようなカメラワークは、その後の世界の映像表現を一変させるほどの衝撃があった。カーレーサーのジャン(ジャン・ルイ・トランティニャン)と、アンヌ(アヌーク・エーメ)が、ヨットに乗るシーンが美しい夕日に包まれる場面は、今でいえば劇映画というよりコマーシャルかプロモーション・フィルムのような、洗練された優美な映像である。この場面の夕日には、「洒脱と優美」を感じさせられるし、登場人物の男女の心情を掬ってみるならば、「求めあう心」の象徴ということになるであろうか。
5.『イージーライダー』 (原題:Easy Rider、1969年、デニス・ホッパー監督、アメリカ映画)
ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが演じる2人のヒッピー青年が、改造オートバイに乗ってアメリカ大陸を横断する姿を追いながら、苦悩する現代アメリカ社会の断層を描いたアメリカン・ニューシネマの代表作。彼らがLSDを吸って幻覚に陥る場面で、夕陽のカットが「幻惑」のように挿入される。次のシーンでは、二人の走るオートバイから見る風景の中に夕日が沈んでいく。その夕日は、ベトナム戦争の後遺症によって分断され、苦しむアメリカ、「沈みゆくもの」の象徴のようにも見える。
6.『激突』 (原題:Duel、1971年、スティーヴン・スピルバーグ監督、アメリカ映画)
砂漠の1本道のハイウェイを、不条理にいつまでも追跡してくる大型タンクローリーから、ただひたすら逃げ続ける主人公・デイヴィッド(デニス・ウィーバー)の恐怖を描いたカーアクション・サスペンス映画。若きスティーヴン・スピルバーグ監督の出世作となった。物語はすべて日中の照りつける太陽の下で繰り広げられるが、最後に謎のタンクローリーは谷底へと転落し、主人公は悪夢の一日から解放される。彼は、しかしそこから立ち上がる気力も失せて、谷底を見下ろしたまま、いつまでもうなだれる。ラストカットは、そんな主人公の姿を包み込む夕日の情景となる。この夕日は、それまでの「時間経過」と、主人公の「安堵の心情」を表現しているわけだが、なぜと問うても答えの得られない「底知れぬ不条理」の不気味さが、私たちの日常と背中合わせにあることを、夕陽があざ笑っているかのようにも見える、印象的なシーンである。
7.『屋根の上のヴァイオリン弾き』 (原題:Fiddler on the Roof、1971年、ノーマン・ジュイソン監督、アメリカ映画)
帝政ロシア領のユダヤ教徒たちの家族と生活を描いたミュージカルの映画化である。タイトルバックでは、ロシアの大地に沈む夕陽を背に、屋根の上で、ヴァイオリン弾きがヴァイオリンを奏でている。前半のクライマックスの場面の最初に、夕陽を背に村人たちが蝋燭を手に手に、若い村人の男女の結婚式へと歩いてくる。
この結婚式で歌われるのが、かの名曲「サンライズ・サンセット(Sunrise sunset)」である。「陽はのぼり陽は沈む/歳月は飛び去り/季節は移り変わる/喜びと涙とともに」が流れる(シェルダン・ハーニック作詞、ジェリー・ボック作曲)。この詞こそ本作のテーマであり、夕陽の意味そのものであろう。
結婚式はユダヤ人を迫害する官吏に蹴散らされ、やがて村人たちは国外追放となる。主人公のテヴィエ(トポル)が、自分のもとを去っていった娘のことを回想する場面で、踊る娘たちの姿が夕日に重なる。本作における夕日は、「繰り返し積み重なる月日」の象徴であり、「故郷と家族」のメタファーとして、哀しいほどに美しく、村人たちの日々の営みを包み込んでいるのである。
8.『時計じかけのオレンジ』 (原題:A Clockwork Orange、1971年、スタンリー・キューブリック監督、イギリス映画)
アンソニー・バージェスによる同名のディストピア小説(ユートピアの逆に、全てが抑圧され苦しみに満ちた社会を描いた物語)を、鬼才・スタンリー・キューブリック監督が映画化。退廃した全体主義国家の中で、欲望のおもむくままに生きる若者が味わう不条理を描く。主人公・アレックス(マルコム・マクダウェル)は、暴力性が嵩じて殺人を犯して服役するが、精神改造の実験台となった結果、いかなる暴力にも抵抗できない心を植え付けられた末に釈放される。アレックスが誰からの暴力にも抵抗しないことを知った昔の悪友たちが、彼をひきずり廻して虐待しようとする場面。疎林に沈む夕日が、暴力になされるがまま、無抵抗に引き摺られていくアレックスに突き刺さる。この場面の夕日は、「狂気と絶望」としか言いようのない、冷たく残酷な光をたたえていて、おぞましい。
9.『ソイレント・グリーン』(原題:Soylent Green、1973年、リチャード・フライシャー監督、アメリカ映画)
膨れ上がる人口に対し、究極の食料資源の確保をおこなっている未来社会を描いたSF映画。原作は、ハリイ・ハリスンの小説『人間がいっぱい』。
主人公の刑事・ソーン(チャールトン・ヘストン)は、親しい老人・ソル(エドワード・G・ロビンソン)が、ホームとよばれる施設(実は公営の安楽死場)に入ったことを知って潜入するが、ソルはそこで緑あふれる田園風景のパノラマ映像に囲まれながら、死へと旅立つところであった。ベートーベンの交響曲「田園」が流れ、この世のものとも思えぬ美しい夕日の情景が上映される。ソルは、この映像を見ながら「美しい」とも「恐ろしい」とも言う。ここでの夕日の意味は、「終末」、あるいは「臨終」そのものである。なお、安楽死させられた死体は加工され、ソイレント・グリーンというウエハス状の食料となって、人口爆発した社会の貴重な食料源として配給されるという、怖しいオチがついている。
10.『スターウォーズ』 (原題:Star Wars、1977年、ジョージ・ルーカス監督、アメリカ映画)
後に、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』とよばれることとなる人気SFシリーズの第1作。主人公のルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)は、惑星タトゥイーンで養父母に飼われるようにして農場の仕事をしている。ふと彼が見つめる地平線には、2つの赤い太陽が、まさに沈もうとしているところである。この場面で主人公の気持ちを汲めば、自分はこれからもずっとこうして農場に縛り付けられているのだろうか、自分が宇宙を駆けめぐる夢は永遠に実現しないのではないかという「満たされない心」、もしくは「寂寥感と焦燥感」の反射であるかのようにも見える。
沈む太陽が2つあるという、まさにSF的、しかも叙情的な場面が丁寧に描かれていることで、その後の壮大なスペース・オペラの世界が豊かに膨らむこととなる。シリーズ中でも屈指の名場面といえよう。
11.『黄昏』 (原題:On Golden Pond、1981年、マーク・ライデル監督、アメリカ映画)
老夫婦(ヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーン)とその娘(ジェーンフォンダ)の家族らが、美しい湖畔の家でともに過ごす日々を描いた心あたたまる作品。
保守的なハリウッド男優であったヘンリー・フォンダと、ベトナム反戦運動にも加わった実の娘のジェーン・フォンダや、息子ピーター・フォンダ(『イージーライダー』に主演)とは、実生活の上でも大きな溝を抱えていたといわれる。この映画は、娘と父親が確執を乗り越えて和解するというストーリーだが、実際に、ジェーン・フォンダが父のために映画化権を取得して実現した企画であり、ヘンリー・フォンダは本作で史上最高齢(76歳)でのアカデミー主演男優賞の受賞を果たした。撮影後のヘンリー・フォンダは病床に就いてしまい、受賞式ではジェーン・フォンダが代理として受け取った。その数ヵ月後に、ヘンリー・フォンダは、ジェーンやピーターに見守られながら死去した。
そのようなフォンダ親子の実像のエピソードもだぶり、この作品では、湖の上で輝く夕日の残照の美しさに、人生の黄昏を迎えた者の心のあり方が重ねて描かれ、深い味わいをもって迫る。この映画の夕日には、「人生の輝き」や「成熟」、あるいは「和解」という意味が明確にこめられているといえよう。
12.『ブレードランナー』 (原題:Blade Runner、1982年、リドリー・スコット監督、アメリカ映画)
フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』をベースとしたSF映画。遺伝子操作技術などが極端に進化した陰鬱な風景の未来都市を舞台に、人間と人造人間(本作ではレプリカントと呼ばれる)との死闘を描く。
ブレードランナー(レプリカント専門の刑事のようなもの)を職業とするデッカード(ハリソン・フォード)が、殺人事件の捜査のために、レプリカントを製造しているスーパー企業・タイレル社の会長室を訪問する。酸性雨が降りしきる都市の中で、その会長室からだけは夕陽を見ることができる。この都市において、夕日を見るという行為そのものが、一握りの資本家の「特権」の象徴なのである。夕日に満たされた室内、人工生命のフクロウが止まり木から飛び立つ。まるで、「ミネルヴァの梟(フクロウ)は黄昏を待って飛び立つ」という言葉(ヘーゲル)をそのまま可視化したような、美しくも退廃的なシーンである。
この夕日の光には「虚無と退廃」、「耽美な未来」といった雰囲気が濃厚に漂い、映画全体のフィルム・ノワール(虚無的な雰囲気をもった犯罪映画)のタッチを印象づける名場面となっていた。
13.『紅いコーリャン』 (原題:紅高梁、1987年、チャン・イーモウ監督、中国映画)
ベルリン国際映画祭で金熊賞受賞作品。中国山東省を舞台に、主人公の女性・チウアル(コン・リー)が嫁入りした地で巡り会った男たちとの神話的で苛烈な運命。全編にわたり紅の色を基調とした大胆で力強い映像美が鮮烈な印象を与える。物語のクライマックス、侵攻してきた日本軍によって村人が殺され、復讐を誓ったチウアル、夫のユイ、村の若者たちは、手製爆弾で日本軍のトラックを襲撃する。日本軍もチウアルも若者たちも絶命し、残されたユイと子供が、血に染まったコーリャン畑に立ち尽くす背後に夕日が突き刺さる。「大地の血」の象徴、あるいはもはや「怨」とでもいうしかない、悲劇的な夕日である。
14.『緑の光線』 (原題:Le Rayon Vert、1987年、エリック・ロメール監督、フランス映画)
ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞受賞作品。パリで働くひとりの女性が、自分さがしのヴァカンスの旅に出て、自分や他者と向き合うこととなる。
ヴァカンスでの出逢いもすれ違いばかりで気が晴れない主人公・デルフィーヌ(マリー・リヴィエール)が、海岸の丘の上で、老婦人たちの会話に耳をとめる。婦人たちは、ジュール・ヴェルヌの小説『緑の光線』(1881)をめぐって屈託のないおしゃべりをしている。澄んだ空気の日、太陽が水平線に沈む一瞬、緑の光線が放たれるのが見えるのだという。それは幸運の印ともいい、それが見える人は他人の心が読めると言ったりする。デルフィーヌは、彼女たちと一緒に沈む太陽を見るが、その日は見えない。やがてデルフィーヌは、自分と同じ本を読み、心が通じそうなひとりの青年と巡り会うが、彼女には、なおも不安な心がうずいている。しかし、ラストシーン、二人の目のまえの海で夕陽が水平線に沈み、デルフィーヌにも緑の光線が見える。彼女は嬉しそうに涙を流して青年の肩に顔を埋める。
この場面の太陽が沈んでいく長廻しカットは、映画館の観客も、スクリーンでその一瞬の緑色が見えるのか、見えないのか、固唾を呑んで見守ることとなる。ある観客はスクリーンの上に見えたと言い別の観客は見えなかったと言って上映後も論議がおこったらしい。夕日の一瞬の光を「幸運の印」の象徴としつつ、幸福とはそれを感じられる自分の心の持ち方次第なのではないか、夕日を見るというのは、そんな「自らを省みる時間」なのではないかと考えさせられる映画。
15.『太陽の帝国』 (原題:Empire of the Sun、1987年、スティーヴン・スピルバーグ監督、アメリカ映画)
J・G・バラードの同名の自伝的小説を、スティーヴン・スピルバーグ監督が映画化。日中戦争のさなか、香港で育った少年・ジムとその家族が、日本軍の侵攻によって味わった混迷の日々を描く。
飛行機好きのジム(クリスチャン・ベール)にとっては、たとえ敵国であっても日本の戦闘機・ゼロ戦はあこがれの的だった。収容所生活のある日、ジムはついに整備中のゼロ戦の機体に手を触れる。警備兵が銃口を向けるが、やってきた日本軍のパイロットたちに、ジムは尊崇のおもいをこめて敬礼する。その姿に思わず背筋を正して敬礼を返す日本人パイロットたちの背に赤い夕陽が沈んでいく。ここでの夕陽は、「日の丸」そのものであるが、太陽の帝国(日本)がもたらした人生の不条理、彼自身も整理のつかない少年の心の憧憬を、優しく見つめる「神の目」のようにも見える。
16.『イングリッシュ・ペイシェント』(原題:The English Patient、1996年、アンソニー・ミンゲラ監督、アメリカ)
第2次世界大戦中の北アフリカを舞台に、男女の複雑で、謎めいた愛の物語が展開する。映画の冒頭、主人公・アルマシー(レイフ・ファインズ)の乗った飛行機が、ドイツ軍に撃墜されて砂漠に墜落する場面から夕景である。地元民に助け出されて搬送されるアルマシーが、顔に被せられた紗を透かして見る砂漠の夕陽は、これからはじまる「不安な物語の予感」を象徴するかのようだ。
本作では、その後に展開する砂漠の情景のほとんどが夕景であり、その美しくも暗鬱なゴールデン・アンバーの色調が、この「狂おしいまでの愛」の物語に見事なまでにふさわしい。映画後半、重傷を負った恋人を砂漠の洞窟に残し、助けを呼ぶために砂漠をさまよい歩く主人公の背に沈む巨大な夕陽が、主人公の「焦燥と不安」を否応なくかき立てる。
17.『タイタニック』 (原題:Titanic、1997年、ジェームズ・キャメロン監督、アメリカ)
豪華客船タイタニック号が処女航海中に氷山に衝突、沈没した史実(1912年)を舞台に繰り広げられるラブロマンス。アカデミー賞作品賞など11部門を受賞。世界中で大ヒットし、後年、同じ監督による3D映画『アバター』(2009年)が登場するまで、世界映画史上最高興行収入記録の第1位の座にあった。主人公のジャック(レオナルド・ディカプリオ)とローズ(ケイト・ウィンスレット)が、この巨大な船の舳先(へさき)に立って、両腕を広げて風を受けとめる有名な場面は、深紅の夕日に包まれ、二人の愛のたかまりにふさわしい舞台を提供し、シーンそのものが「愛の賛歌」となっていた。しかしいっぽう、次のシーンで、年老いたローズが、「それが、タイタニックが見た最後の太陽の光でした」と語るように、この血のような夕日は、「大惨事の前ぶれ」でもあった。
本作の製作に際しては、いくつかの船体のセットが組まれたが、舳先に立つ人物から船の全体像にカメラがワンカットで引いていくところでは、CG(コンピュータ・グラフィックス)が巧妙に駆使されており、映像技術の長足の進歩を思い知らされる作品であった。実写の映画製作において、夕日や夕景を撮影することは常に困難がともなうものだったが、『タイタニック』以後のハリウッド映画はCG全盛時代をむかえ、映画の中の夕日もいささか安易に多用されるようになってきたように思われる。
Ⅱ.日本映画編
1.『喜びも悲しみも幾歳月』 (1957年、木下恵介監督)
日本各地の灯台を赴任してめぐる灯台守の夫婦(佐田啓二と高峰秀子)の半生を、戦前・戦中・戦後を通じて描いた映画。若山彰の同名主題歌も大ヒットした。灯台守の物語なので、灯台が点灯する前の薄明りの残る時間帯の場面が多いが、灯台と夕陽をひとつのフレームにとらえたカットは本作にはない。そのかわり、夫婦が石狩灯台で勤務している時、石狩平野の雪原を走る馬橇の中で、同僚の妻が息を引き取り、馬橇がUターンをして帰っていくところで、雪原いっぱいに夕日が広がっているという悲しい場面があって、観客の胸に迫る。ここでの夕日は、「悲しみ」と、「大自然の厳しさ」を伝えるものとなっている。
2.『夕日の丘』 (1964年、松尾昭典監督)
石原裕次郎と浅丘ルリ子の共演による歌謡ドラマ。同名のヒット歌謡曲が流れるラストシーンは、夕日に染まる海岸の砂丘を、石原裕次郎がトレンチコートに身を包んで歩き去っていく長いカットとなっている。この場面の夕日は「侠気(おとこぎ)」の象徴とでもいうべきであろうか。
3.『メカゴジラの逆襲』 (1975年、本田猪四郎監督)
宇宙人(ブラックホール第3惑星人)のゴジラ型ロボット兵器「メカゴジラ」と、怪獣チタノザウルスとの死闘を繰り広げたゴジラが、夕日に染まる海へと去っていくラストシーンに、「終」の文字が重なる。まさに「エンドマーク」としての夕日である。このシーンは、ヒロインのサイボーグ少女・桂(藍とも子)が、主人公の青年(佐々木勝彦)の腕の中で亡くなるという場面でもあり、伊福部昭(作曲)の荘厳な音楽とともに、闘いの果ての「送別」の夕景となっていた。本作はゴジラシリーズ第15作目にあたるが、興行的には不振で、その後の「平成ゴジラシリーズ(1984~)」で再スタートするまで、シリーズは長らくの休止を余技なくされた。つまり、「昭和ゴジラシリーズ」の最終話であり、また、第1作の『ゴジラ』(1954年)から同シリーズを手がけてきた本田猪四郎監督の最後の監督作品ともなった。その意味で、夕日に染まる大海原を去っていく昭和ゴジラの後ろ姿と、それに重なる大きな赤い一文字の「終」というエンドマークには哀惜の感を抱く。
4.『幸福の黄色いハンカチ』 (1977年、山田洋次監督)
刑務所帰りの男・島勇作(高倉健)が、妻の光枝(倍賞千恵子)が待っていてくれているはずの我が家へ向かう道中、若い二人の男女・欽也と朱美(武田鉄矢・桃井かおり)の車に乗り合わせて北海道をひた走る。
日本のロードムービーを代表するといわれる本作には、北海道の山や大地に沈む美しい夕日のカットがいくつかある。それは、北海道の「自然の雄大さ」を示すのとともに、登場人物たちの心の中を去来するさまざまな想いや不安を優しく包みこんでいるようにも見える、「包容と慰め」の夕日である。
5.『鬼畜』 (1978年、野村芳太郎監督)
松本清張の同名小説の映画化。愛人に生ませた3人の子の扱いに困ったあげく、この子らを“処分”しようとする鬼畜の如き親の所業と狂気を描く。
主人公・宗吉(緒形拳)が、愛人との長男・利一を2度殺そうとする2つのシーンが、いずれも夕日の場面である。最初は、東京・上野の森の中で、毒を盛ったあんパンを利一に無理やり食べさせようとする宗吉。不忍池が夕日に染まる。このときは目的を果たせず自宅に戻るが、妻のお梅(岩下志麻)に追い出され、宗吉は再び利一を連れて、あてもない“子殺しの旅”に出る。たどりついた能登半島の断崖の上で、宗吉は何度かためらった後、ついに利一を断崖から落とす。宗吉に日本海の夕日が突き刺さる。この夕日は、宗吉の行為の一部始終を見つめる「お天道様の目」のようであり、宗吉の「追い詰められた狂気」の象徴のようでもある。
本作の夕日は、2シーンとも、日本映画に描かれた夕日のなかでも最も「痛ましくも悲惨」な場面ではないかと思われる。
6.『マルサの女』 (1987年、伊丹十三監督)
国税局査察部、別名マルサに勤務する女性査察官・板倉亮子(宮本信子)が、知恵の限りを絞って税を免れようとする人々と渡り合う。ラストシーン、脱税を暴かれた会社経営者・権藤(山崎努)と亮子が、競輪場の観客席のデッキに立って最後の対決をする場面が、美しい夕日に包まれる。権藤は、亮子とどこか心通うものがあるが、自分の敗北を認めると自らの指先をナイフで切り、ハンケチに血文字を認める。それは自分の隠し口座の暗証番号だった。この場面の夕日は権藤の「血の色」であり、彼の「敗北」のサインともいえるし、お金に狂奔する現代日本の「爛(ただ)れた風景」の表象とも、そんな物語の「大団円」とも感じられるショットである。
7.『となりのトトロ』 (1988年、宮崎駿監督)
里山に棲む不思議な妖精トトロと、子供たちとの交流が、楽しくこころ豊かに描かれて、もはや国民的ともいうべき日本アニメーション映画の傑作である。
病気療養中の母親のもとへ、栄養のつくトウモロコシの実を届けようと、幼い妹・メイが、田舎道を一人、遠い療養所へと歩いて行ってしまう。メイが迷子なったことがわかって、村の人々は大騒ぎとなる。姉のサツキは、必死に妹の姿を追って、夕方の田園地帯(埼玉県の狭山丘陵がモデルとされる)を駆けていく。焦るサツキの気持ちを逆撫でるかのように、日は刻一刻と落ちてゆき、畑のうえに長い影を描く。
この場面で広がる美しい夕景色は、日本の原風景そのものである。とともに、このシーンを観る者の誰もの心の中に、幼い頃、これと似たような夏の夕暮れを、同じように「痛切な想い」を抱えて見つめていた思い出がこみあげてくるのだ。ただ美しいというのではない、「幼き日の思い出」の夕日を見事に描いている。
この名場面は、宮崎駿の初期の作品『パンダコパンダ』(1972)によく似たシーンがあり、『となりのトトロ』は、これを満を持して昇華させたものともいえよう。
本作に限らず、宮崎駿とスタジオジブリのアニメ作品には、多くの美しい空・雲・太陽が登場し、世界の観客を魅了し続けている。
8.『Always 三丁目の夕日』 (2005年、山崎貴監督)
これから高度成長を遂げようとする時代の東京の下町(港区愛宕町界隈を想定したものという)を舞台に、住人たちの心温まる人間模様を描く。
昭和33年の東京の町並みを、ミニチュアやCG(コンピュータグラフィックス)を駆使して、情感豊かに再現した映画。散文的な本作の基調テーマとして、夕日が描かれている。
ラストシーン。完成したばかりの東京タワーの後ろに夕日が沈んでいく空を、それぞれの登場人物が万感の思いを込めて見上げる。鈴木オートの社長の親子の会話。
母(薬師丸ひろ子)「今日も(夕日が)きれいね」、父(堤真一)「きれいだなぁ」、子(小清水一揮)「あたりまえじゃないか。あしただって、あさってだって、50年先だって、ずっと夕日はきれいだよ」、母「そうね、そうだといいわね」、父「そうだといいなぁ」。
おそらく、この台詞は、「高度成長が続けばいいなぁ」「ずっと続くよ」「そうだといいわね」という暗喩として解釈されることをねらっているのであろう。そして、そうはならなかった、ということを言いたいのであろう。夕日は、ここでは「未来の希望」であったろうし、映画の観客にとっては、あの頃はよかった(のに)という「ノスタルジー」、「回顧と郷愁」の象徴である。
9.『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』 (2006年、太田隆文監督)
「夕陽の美しい町・和歌山県田辺市」の魅力を伝えるために製作された青春ファンタジー映画である。全シーンが太田隆文監督の出身地の田辺市内で撮影され、地元行政からも全面的な協力を得たという。美しい自然や、ノスタルジックな街並み、レトロな木造校舎などの魅力的な情景を盛り込んだ青春ファンタジー映画であり、夕日をモチーフとしたまちおこしの先例といえる。太田監督自身のブログでは、海に沈む美しい夕景を狙った苦心談が繰り返し述べられている。
本作のなかに夕日のカットは数多く、全体としては「友情の印」として、夕日というものが描かれている。最も印象的な夕陽が登場するのは、交通事故で亡くなった友人が、いちどは蘇って主人公のもとにやって来るものの、再び天国へ戻る時間が来て、死神に連れ去られる場面である。このシーンについていえば、夕陽は「黄泉の国」の象徴ということになろう。
10.『ザ・マジックアワー』 (2008年、三谷幸喜監督)
三谷幸喜監督のコメディ映画第4作。写真や映画の世界では、日没後の残光によって照らされ、周囲が最も美しく輝いて見える時間帯のことを「マジックアワー」と呼ぶ(ゴールデン・アワーという言い方もある)が、本作では、この言葉に、「人生で最も輝く瞬間」という意味が重ねられているという。
日没後のことだから、夕陽そのものを指してはいないが、本作の冒頭部分で、主人公の一人・村田大樹(佐藤浩市)は、真紅の夕焼け空の前に立ち、一人悦にいって朗々と宣う。
「太陽が消えてから周囲が暗くなるまでのわずかな時間、それがマジックアワーだ。昼と夜の間、世の中が一番きれいに見える瞬間、その時間にキャメラをまわす。幻想的な淡い光に包まれた、いい絵が撮れるんだよ」。
そんな彼にマネージャーがぶっきらぼうな声をかけて現実にひきもどされる。カメラが引くと、彼が背にしていたのは、夕焼け空を板に描いた映画の書き割りであったことがわかり、その後に続く虚実錯綜したコメディドラマが幕を明ける。その意味で、本作のこの場面の夕日は、「お楽しみはこれからだ」という表現にもなっている。
11.『沈まぬ太陽』 (2009年、若松節朗監督)
山崎豊子の同名小説を映画化。大手航空会社で辛酸をなめながらも懸命に耐えて働く主人公(渡辺謙)が、世界最大の航空機事故の事後処理にあたるなかで会社再生を誓う。
ラストシーン、サバンナに沈む夕日を見つめながら、彼は手紙の中で語る。「何一つ遮るもののない悠久の大地では、厳かな大自然の営みが、繰り広げられています。それをぜひあなたにも観て頂きたいのです。地平線へ黄金の矢を放つアフリカの太陽は、荘厳な光に満ちています。それが私には、不毛の日々を生きざるを得なかった人間の心を慈しむ、明日を約束する、沈まぬ太陽に思えるのです」。
物語の文脈としては、ここでの夕日は「復活の誓い」、「不屈の精神」の象徴といえるであろうが、もしかしたらその赤い光は、仕事に心血を注いだ者が必ずのぞきこむことになる「灼熱地獄」の色なのかもしれない。
12.『劒岳 点の記』 (2009年、木村大作監督)
新田次郎の同名小説を映画化。明治時代、陸軍参謀本部陸地測量部(後の国土地理院)の測量官・柴崎芳太郎(浅野忠信)らは、それまで未踏峰とされていた剱岳に登頂して測量を行い、日本地図最後の空白地帯を埋める。日本映画きっての名カメラマン・木村大作が初めて自ら監督して実現した執念の作品であり、空撮やCGによるゴマカシのない、オール現地ロケによって完成した。
出演者とスタッフが苦心惨憺の山行の末にカメラにおさめた山岳風景の映像美は圧倒的で、息をのむような美しい夕日のカットが惜しげもなく登場する。
夕陽を背に雪山を歩く測量隊の隊列のシルエットに柴崎のナレーションが重なる。
「ひれ伏してしまうほどの、自然の厳しさと美しさの中で、生かされている自分たちを実感している。今まで人を拒み続けてきた剱岳の登り口を我々はどうやって探すべきだろう。必ずあるはずだ」。
ここでの夕日は、「人知のおよばぬものへの畏怖」の象徴であるとともに、主人公たちの「決意と情熱」、「仕事の覚悟」の象徴といったもののようにも見える。
13.『ハナミズキ』 (2010年、土井裕泰監督)
歌手の一青窈の同名の大ヒット曲を、吉田紀子の脚本と土井裕泰の監督(森山良子の歌「涙そうそう」を映画化したコンビ)によって映画化した。
本作においては、岬の灯台とその先の海に沈む夕陽の情景が、デートをしていた主人公たちの大切な場所として描かれ、ラストシーンではふたりの再会の場所として大切な役割を果たしている。夕日は「約束の場所」のシンボルといえようか。
この場面のロケ地は、北海道の湯沸岬(霧多布岬)、厚岸郡浜中町湯沸の灯台である。
以上、外国映画と日本映画、それぞれの中に登場する夕日や夕景が、どのように表現されていたかを述べてきた。もちろん、夕日や夕景のシーンのある映画は世界に何百とあるだろうから、これらの作品の選択は恣意的なものだし、その意味性の解釈は、一観客としての筆者の独断にすぎないことを、おことわりしておかねばならない。それぞれの映画の演出家の意図を正しく斟酌できているのかどうかは、わからない。
しかし、筆者自身が、映画作家として自ら製作した映画について解説するのであれば、これは監督自らの演出意図を述べるものであるから間違いのないものとして、次にご紹介させて頂くことにする。
Ⅲ.自作映画編
『カタプタリ~風の村の伝説~』 (2008年、伊藤敏朗監督、ネパール映画)
本作は、筆者が、ネパールにおいて現地のプロの映画俳優やスタッフを指揮し、筆者の脚本・監督によって完成した中編劇映画(51分)である。ネパールの美しい山村を舞台に、山から降りてきた妖精と、人間の子との心の交流を描いたファンタジーである。
映画、『カタプタリ~風の村の伝説~』の物語は3部構成となっているが、夕日の場面はその第1部、主人公の幼年時代の体験の中で描かれる。なお、カタプタリ(Kathputali)とは、ネパール語で「操り人形」の意味である。
まだ4歳の主人公のラメス(グルヒナ・グルン)は、首都のカトマンズから、祖母の住むバタセ・ダラ(風の村)に帰省してきている。村祭りが開かれ、ラメスはそこで祖母のマヤ(マヤ・プラダハン)に一輪の風車を買ってもらう。村の子供たちは羨ましがて寄ってくる。ラメスは得意になって先頭をきって走り、子供たちは楽しく一緒に遊ぶ。しかし、村の子の一人が、風車を小川の滝で廻してみたら面白いと言い出し、ラメスはその子に風車を渡してしまう。案の定、風車は滝に流されて失われる。悪びれることもなく、村の子たちは立ち去ってしまう。ラメスはその場では平然としてみせ、村の子らにむかって文句もいわず怒りをぶつけることもない。けれども祖母の家への帰り道、ラメスは、大切なものを喪った悲しさ、村の子らへの悔しさ、祖母への申し訳のなさなどが、ないまぜとなり、大泣きしながら歩く。そのラメスの後ろで、夕日が山に沈んでいく。
この夕日に、筆者は、第一に「時間経過の説明」、第二に、ラメス少年の「心の中の葛藤」、第三に「家路と郷愁」という意味を重ね合わせ、ここでは夕日カットにするほかにないと早くから決断していた。そして、この場面の次のシーンは、祖母の家の中となるが、そのカットは、カメラが蝋燭のアップショットから、ズームバックとトラッック撮影によって引いてきて、少年と家族が食事をする場面へとオーバーラップさせてシーンを接続した。そのことによって、夕日に、「家庭のぬくもり」と重なる意味も持たせたかった。
このようなカットのモンタージュは、すべて監督として明瞭な演出意図のもとに撮影し編集したものなので、以上の説明には間違いようがない。
もちろん、このような演出家の意図が、映画の観客にどれだけ伝わったかどうかという問題は残る。
けれども、観客には、ひとつひとつのカットやモンタージュの意味性を、その都度、明確に意識してもらう必要はなく、全体としてのこれらのシーンの連続が、物語の展開にあった雰囲気となって、漠然と、無意識的に感じとられていき、作品の全体としての印象やメッセージの理解に貢献していれば良いのである。そういう仕掛けとして、おおくの風景や人物のカットやシーンが映画の中で次々に積み重ねられて展開していくのが映画表現というものである。
実際の撮影現場において、夕日を撮るということは、時間との勝負であり、大量の機材とスタッフ・キャストを機敏に移動させなくてはならず、大変な作業である。『カタプタリ』の上記の夕景のシーンはわずかに2カットだが、1カット目はクレーンの上にカメラを据えておこなう大がかりな撮影だったために手間取り、次のカットへのカメラの移動は、スタッフを大声で叱咤しながら全速力で行わなければならなかった。なんとか、夕陽の日輪が山の端の雲に隠れる、ぎりぎりのタイミングを撮影することができた。
筆者は、日本で脚本を書いていた段階では、ラストシーンでも、雄大な夕日がヒマラヤの山に沈んでいくなかを、牛車に乗った妖精が山へと帰っていくという演出を企図していたのだが、これは現地に行ってみて、山と太陽の沈む方向が逆だったので早々に断念した。また、実際に現地に行ってみると、ヒマラヤの山を撮影できるのは午前中までで、午後は水蒸気があがって雲が湧くため、山に沈む夕日は滅多なことでは撮影できないということを知った。脚本や演出のイメージで夕日というものを想定していても、撮影現場では、相当な計画性と実行力。機動力がなければ、よい夕日カットは得難い。フィルムや撮像板の感度が上がり、機材の性能やスタッフの技量の高くなった現在でも、夕日の撮影には苦労するものである。
今回のレポートをまとめながら、過去の映画には意外に夕日のシーンが少ないように思われ、近年の映画に優れた夕景シーンが増えているように思われた。
その理由は、むろん過去の映画についての調査が十分でないせいではあるが、いっぽう、たとえ脚本家や監督が、イメージとしての夕日のカットを要求していたとしても、映画で実際の夕日を撮影するということの技術上・活動上の困難さが案外に大きいものであるということは、映画をつくる者として指摘しておきたいところではある。
Ⅳ.考察
以上、外国映画17本、日本映画13本、計30本に加えて、筆者の映画1本の中の夕日について見てきたが、「夕日」が映画の中に登場する場合、そのカットの意味性というものは、物語の展開や文脈によって、きわめた多様なものだということが理解できるように思う。
もの言わぬ夕陽が映っているショット、それだけを単独でとりあげても、そこに意味が発生しているわけでなく、そのカットと前後するカットとのモンタージュ(編集)、コンテクスト(物語としての文脈)やレトリック(修辞、構成)というものによって、さまざまな異なるメッセージになるということである。すなわち、物語のその場面において登場人物がどんな心情や境遇になっており、物語がどのように展開しようとしているのかによって、夕日というものの意味するところは、まったく違うものになるのだ。
さらに、映画の物語は、登場人物の想いから読み解く場合と、彼らを観客の側から突き放して、物語全体として俯瞰する視点で読み解く場合とでは、同じカットの解釈が異なってくる、あるいは反対の意味(明るさと暗さなど)が同時に両義的に成立することもある。
たとえば、『Always 三丁目の夕日』(2005年)は、本稿でとりあげた映画の中でも、もっとも夕日を「未来の希望」としてポジティヴに描いている作品だとは思うが、その夕日の輝きはけして永遠のものではないという暗喩を同じ場面から同時に感じることができる。
『タイタニック』(1997年)の中の夕日の場面も、愛し合う二人の「愛の賛歌」である一面、主人公に、「これがタイタニックが見た最後の太陽の光だった」と言わせることで、あとわずかに迫った「大惨事の前触れ」としての意味を持ってくるし、『風と共に去りぬ』(1939年)でも、あの広大な夕空は、「郷土への愛着と誇り」の象徴であるとともに、「没落の予感」をはらんでもいた。
このように、映画というのは、ときに同じ場面から正反対の意味を同時に感じさせることもある多義性・両義性をもった表現メディアである。あるいは、そのような多義的・両義的な解釈や「深読み」すらも、観客が楽しむことのできる知的快楽をともなった娯楽なのである。
もっとも、映画の観客はワンカットごとにそれほど深い読解や解釈をおこなったり、いちいち抽象化・言語化しながら映画を観ているわけではないのであって、それぞれの場面の意味性や演出意図というものは、観客のなかに無意識に積み重ねられていき、映画全体としての物語や雰囲気として、観客にある種の感慨や印象を残すことに貢献するようにつくられている。
映画の中の夕日の意味には、さほど明快で明示的なケースばかりではなく、作り手の側にしたところで、単なる時間経過の説明くらいの意味しか与えていない場合もあるだろう。観客としても、さほど意識しないこともあるだろうが、それでも、何らかの印象とか心象が、物語の流れの一要素としての役割を果たしているというものだろう。
もとより映画のなかに登場するモチーフとは、観客の過去の経験や本能を呼び覚ます記号として作用するものである。そしてモチーフによっては、その意味性との対応が強く明快なものと、弱く曖昧なものがある。
ここでたとえば、「朝日」というモチーフを考えてみると、映画の中の朝日には、そのほとんどが「希望」とか、「昇りゆくもの」のアイコン(記号)として作用し、物語のポジティヴな展開の舞台装置として登場することが大半であろうと思われる。朝日に「失望」や「悲惨」の意味合いをこめる演出があり得ないではないが、それを一般的な観客の感覚にそって理解してもらうには、見せ方にも工夫が要ることだろう。
それに比べれば、「夕日」の意味は多様で多義的であることを述べてきたわけであるが、それはつまり、(朝日に比べても)われわれが、現実の夕日というものを見つめるときの気持ちに、さまざまな場面や状況があるということの反映なのだろう。私たちは、すなわち現実の夕日というものを、悲喜こもごもの想いで見つめているということなのだろう。
このような「映画の中の夕日」の意味の多義性について理解したうえで、これまで本稿において、それぞれの映画の中の「夕日」の意味性や象徴性を解釈してきた言葉を一覧してみよう。
そしてあえて、これらの場面の両義性についても、無理やり足して二で割るような断定をもって、夕日が明るく前向きなものとして描かれた場面のある映画、すなわち、夕日の場面が肯定的(ポジティヴ)なものとして描かれている映画を上位に、逆に夕日が暗く後ろ向きなものとして描かれた映画、つまり、夕日の場面がネガティヴなものとして、または必ずしもポジティヴなものとしては描かれていない映画を下位になるようにしてランキングした表をまとめてみよう。
このように、いささか乱暴な断定のもとにまとめたのが、次頁の「夕日映画ランキング」である。
表は、その映画の中の夕日の場面の雰囲気が、明るい感じのものから、暗く感じさせるものへの順に並べたということであって、映画作品としてのランキング(作品としての評価)ではないことは言うまでもない。
このように一覧してみた場合、夕日の描かれ方や、その象徴する意味性というものは、古今東西の映画において、まことに様々であり、地域や時代の違いによる何らかの傾向というものも見いだし難い。
ただ、このランキングのかなり下位においても(24~25位くらいまで)、映画のなかの夕日というのは、それほどには悲しく暗い場面として描かれているわけではないことなどが理解されるであろう。
Ⅴ.おわりに
以上の考察を通じて、映画のなかの夕日とは、総じて、美しく雄大で、あたたかく優しく力強く、人間の営みの希望や誓いや夢をうけとめてくれる、どこまでも心の広い「お天道様」のまなざしをたたえて、映画の物語の展開や登場人物を見守る大きな存在であり、重要な風景カットとして出現するものであるといえるだろう。
映画の中の夕日は、現実よりもドラマチックにすぎると指摘する人もあるかもしれない。また、その夕日のいくつかは、実はスタジオの背景にペンキで描かれた書割にすぎなかったり、合成であったり、CG(コンピュータ・グラフィックス)の夕日であったりするのかもしれない。
しかし、だからといって、映画の夕日が偽物で、あるいは映画の物語はすべて虚構だということにはならないであろう。私たちは、映画の中に描き出される人物や社会のあり方や風景というものを通して、人生の深淵に触れたり、世の中の真実や大自然の美しさというものを、実際の体験以上に学ぶことがある。あるいは実際には体験し難いから、映画というものを求めてもいる。
映画の感動に触れ、映画のなかの美しい夕日に感銘を受けたあとで、私たちは現実の暮らしのなかにあっても、しみじみと夕日を味わう心豊かな時間というものを、とりもどしたいものである。そう思わせてくれる映画こそ、優れた映画ということになろうか。なにより映画を観るということと、夕日を見つめるということは、ともに私たちが心静かに光とむきあう、至福のひとときであることに違いないのだから。
謝辞 本稿をまとめるのに際して、多くの方々のご協力とご教示を頂戴しました。深く感謝申し上げます。
(本稿の中で用いたカット写真は、インターネット・ホームページで公開されている静止画像や動画像からダウンロードしたものです。)
0コメント