ほしい論

https://blog.anafinds.anatc.com/n/nbd73c225cec2 【洋服って、ロマンチック。だけど、化け物さ。(俳優・竹中直人コラム “ほしい”の想い出01)】より

憧れのコム・デ・ギャルソン……

“物欲”というテーマですか…… どうしよう……。ぼくの大好きな洋服にしますね。

ぼくは『COMME des GARÇONS(コム・デ・ギャルソン)』が昔から大好きです。コム・デ・ギャルソンという音の響きも好き。洋服が好きな人はみんな、ギャルソンにはかならず憧れると思います。

でもね……

最初の頃、ギャルソンのお店に入るのはとっても緊張したんだ。呼吸をお店の前でしっかり整えて、「さぁ 入るぞ」と心の中でつぶやいてからじゃないと入れなかった。理由? 理由は…… やはりコム・デ・ギャルソンだからさ……。

この年になってなんとか気負わずに入れるようになれたかな……。

ギャルソンがパリコレデビューした頃、ぼくは多摩美術大学の学生だった。当時、ギャルソンの服と川久保玲さんの存在、そして川久保さんのあの瞳に、だれもが衝撃を受けたと思う。すごい人が現れた! って。それから川久保さんと同じスタイル、同じ髪型、全身黒ずくめの人たちが徐々に増殖していった。

その頃のぼくは全身古着。毎日同じUSアーミージャケット、パンタロン。髪はまだ沢山あったからアフロヘアだった。突然現れた全身黒ずくめの人たちのテーマ性の強さに圧倒された。でもね、1984年に『COMME des GARÇONS HOMME PLUS (コム・デ・ギャルソン・オム・プリュス)』ができて、その服に初めて手を触れたとき…… たまらない衝撃を受けた。

素材と色合いとそのシルエット……。綿麻混合なんてそのとき初めて知ったんだ……。

洋服ってなんてロマンチック

その頃のぼくは新劇の劇団員からお笑いでデビューしたばかり。ギャルソンの服なんて一生買えないと思ってた。

当時のぼくの夢は、風呂付きのアパートに住むこと。

その夢を27歳で実現したばかり、服は好きでもギャルソンの服を身にまとうなんて全く想像もしていなかった。それに、芸能界という世界に息ぐるしさも感じていた。

名が少し知られて、周りが急に優しくなって、自分は持っても1年で消えると思っていた。

ぼくが初めてテレビに出たのは、まだ多摩美の学生のときだよ。まだ20歳。当時の人気番組、『ぎんざNOW!』の『しろうとコメディアン道場』のコーナーだった。テンションを上げるため、何を着て出ようかと考えてた。

ある日高校の同級生、井澤晃の家に遊びに行ったときのことを思い出したんだ。井澤のお父さんの革ジャンが衣紋掛けに掛けてあった。かなり着込んだもので色は深い茶色、風合いがとても良い感じだった。

これを着たら、かなりテンションが上がるなと思い、井澤に電話したんだ。

「もしもし井澤、今度ぎんざNOWに出る事になってさ。」

「本当かよ?!」

「うん、本当さ! それで、あの、お父さんの革ジャン、貸してくれないかな?!」

「いいけど、なんで?」

「あの革ジャン着たらテンション上がると思って」

「よし! 分かった! 貸すよ! でもすぐ返せよ!」

「うん、すぐ返す。ありがとう!」

その革ジャンのおかげで気の小さい自分を隠せたぼくは5週連続勝ち抜いてチャンピオンになったんだ。服は弱い自分を守ってくれるこころの支えだ。その革ジャンはねとっても着心地が良くて、かなり気に入ってしまって、まるで自分の物のように毎日着ていた。

井澤が忘れてくれるんじゃないかな…… と期待しながら。しかし…… 残念ながら井澤から電話が入った。

「竹中、革ジャンいつまで着てるつもりだ!いい加減返してくれ!」と……。

「あ、ごめんよ。分かった! すぐに返すよ……」

手放すときは身体の一部がなくなってしまったようなせつない気分だった。

高橋幸宏さんはめちゃくちゃオシャレだったんだ

27歳でデビューしたとき、あのスネークマンショーを作った桑原茂一さんのプロデュースでアルバムを出すことになったんだ。参加ミュージシャンは高橋幸宏さん、細野晴臣さん、鈴木慶一さん、上野耕路さん、立花ハジメさん、最高に豪華なメンバーだった。

みんな本当にオシャレで。生き方のセンスを感じるオシャレさ。ぼくなんかは服に着られちゃうタイプだから恥ずかしい限り。でも幸宏さんはどんな服でも完璧に着こなしてしまうんだ。本当のオシャレを知っている人だと思う。

幸宏さんは瞬時に人の服をチェックするんだよ。足元から頭のてっぺんまで一瞬にして見るんだ。毎回お会いするたびにぼくの服装をチェックするんだ。本当に洋服が大好きな人だったな。あんな素敵に『Thom Browne(トム・ブラウン)』を着こなせるのは幸宏さんしかいないんじゃないだろうか……。

映画の世界だと、小津安二郎監督もかなりオシャレだったと思う。まず背が高い。これはかなり大事なポイント。

当時の撮影現場での写真でしか知らないけれどスーツの着こなしが本当に素晴らしい。そしてソフト帽やパナマ帽の似合うこと! 顔もたまらない顔つきだものね! 人間性が滲み出てるんだよな……。ぼくなんかが撮影現場でソフト帽なんて被ってたらなんとも安っぽくなってしまう……。

それから黒澤明監督もさりげなくおしゃれだったんじゃないかな。やはり背が高い! あのハンチングとサングラス。

たまらない佇まいだ。

岡本喜八監督もオシャレだ。子どもの頃に映画のパンフレットで見る喜八監督は全身黒ずくめで真っ黒なサングラス、どこかダークヒーローのようでかっこよかった。

『EAST MEETS WEST』(1995年)で初めて喜八監督とご一緒したとき、あの頃の記憶のまま全身黒ずくめ、黒いバンダナに黒いサングラス、めちゃくちゃカッコ良かった。喜八監督は日本映画の歴史をつくってきた監督だけれど全く偉ぶらず、優しくてさ、ただただ映画が大好きな最高の監督だった。

でも本当のおしゃれさんは誰か? と言われたら…… やはり加藤和彦さん。そして高橋幸宏さん、この2人は特別だったと思う。

そして浅野忠信くん。

洋服はね、ある意味化け物さ

洋服を買うときパッと目に入るのは色。

「うわ、なんだこの赤は…………?!」と思うと、家に帰ってからもその色が頭の中から抜けなかったりして、自分の持っている他の服との組み合わせを頭の中で考えてしまう。あとはその洋服のシルエットと素材。

いちばん好きな色は赤。あるとき、ベルギーのデザイナーの服でとてつもなくきれいな赤のコートを見つけて……。なんとも言えない深い赤で、試着してみるとサイズもピッタリ。「うわ、これは絶対にほしい…………」と思い値札を見ると、なんと50万!!!

でも、もう少しでセールになるということでそのときを待つことにしたんだ。どうかセールまで売れませんように…… と願いながら。そして、いざセールになった頃、ぼくはちょうど地方ロケ。しかもそのロケが長引いてしまい……。

店員さんは「待ちますよ」と言ってくださった。それなのに撮影のタイミングで中々連絡ができず、買い損ねてしまった。きっと縁がなかったんだ。服を買うのもタイミングと縁だよね。

『Schott(ショット)』と『JUNYA WATANABE MAN(ジュンヤワタナベ・マン)』がコラボした赤のライダースは見つけた瞬間にこれはもう絶対買う! と決めていたのでしっかり買ったのだ。仕事でもプライベートでもよく着るのだ。

でも…… やはり赤い服を着るのは勇気が必要なのだ。赤い服を着て下北沢などに飲みに行くと、「うわっ さすが芸能人、普段から目立ちたいんですね。」とか言われてしまう。それが嫌でつい黒い服が中心になってしまう。でも赤は着たい。派手な服はたまらなく好きなのだ。でも周りから干渉されるのはつらい……でも人目にマケナイよう勇気を振り絞って着るのだ。

昔から赤は好きだった。多摩美時代も平面構成ではよく色違いの赤を重ねて塗ったりしてたな。本能的に赤は好き。

映画作りはいつも直感

直感には邪念がないでしょう? 昔、『119』(1994年)という映画を撮ろうと思ったのもドラマの撮影で小樽に行ったとき、海岸線を旧式の消防車が走っているのを見て「火事の起こらない街の消防士の映画を撮りたいな」と直感的に思った。

『東京日和』(1997年)も、たまたま立ち寄った本屋さんで荒木経惟さんと妻の陽子さんの写真エッセイを手にしたときに「これを映画にしたい」と思った。ぼくの映画作りは直感が多いんだ。

子どもの頃は服になんて興味はなかった。中一のときに母が赤いセーターを買ってきてくれたのをよーく覚えてる。そのときのぼくは「赤なんて派手だよ、目立つから嫌だ」って言って、着てすぐ脱いだんだ。

それなのに、なぜかそのとき父が撮った写真が残っている。それも家の前でね。猫背で横分けの中学一年だったぼくは気持ち悪さ爆発! ものすごく嫌そうな顔でカメラを見てる写真はまるで妖怪のようだ。せっかく母がぼくに似合うと思って買ってきてくれたセーターだったのにね。

母はオシャレだった。区役所で働いていた母はいつも着物を着て仕事に行っていた。母は同じ色合いの着物を何種類も持っていて、父からは「似たような着物ばっかり買って……」って言われていたんだ。

でも、同じような色合いの服を何着も持ちたい気持ちは良く分かるんだよな。微妙な色違いの服、ぼくは大好きさ。緑色にも色々違う色んな緑色があるからね。

本当はめちゃくちゃ派手な服が好きなんだよ

ぼくが派手な服に興味を持ったのはさっきも書いたけれどデビューした27歳のときさ。ぼくがデビューしたのは、テレビ朝日の番組『ザ・テレビ演芸』のオーディションコーナー『飛び出せ!笑いのニュースター』さ。

それでグランドチャンピオンになって、どんどん仕事が入るようになって、夢だった風呂付きの家に住めるようになったんだ。でもさ…… たいして面白くないぼくが“面白い人”として注目されてしまったことで、物凄いプレッシャーに押し潰されそうになっていたんだ。そんな自分をどうやって守っていくかと考えたら…… やはり服しかなかった。自分で選んだ服を着ることで違う自分になる……。

当時はいろんなブランドの服をいっしょうけんめい探した。それなりに稼げるようになっていたからね。自分の車が欲しいとかバイクが欲しいとかは思わなかった。とにかく洋服が欲しかった。

プレッシャーに押しつぶされず、テンションを上げるために当時良く着ていたのが赤のコートだった。どこのブランドの物か忘れてしまったけれどそのコートを羽織って必死な思いでテレビ局に向かっていた。派手な服を着ることで自分とは違う人間になって厳しい芸能界を生き抜いていこうと思っていたんだ。

ぼくにとって着飾ることはパワーを吸収する手段。気が小さくて、情けなくて、無様な自分を隠すことができる。バットマンにバットスーツがあるように!

ぼくにとっての【物欲】とは…… 自分自身に対するコンプレックスから生まれるものだと思う。常に自信がない自分が自分ではない誰かになるため。それが【洋服】と言う化け物を欲するのだ。

いつかぼくも高橋幸宏さんや、加藤和彦さんのように、服に着られる人間ではなく、【服をちゃんと着こなせる】人間になりたいと思っている。


https://blog.anafinds.anatc.com/n/ncd7004880564 【「“ほしい”は恋のような“ときめき”に近いかもしれない」—俳優・竹中直人のほしい論】より

——このFINDSメディアの合言葉は「"ほしい"に出会いたくなる場」ですが、竹中さんは普段どんなものを「ほしい!」と思うことが多いですか?

僕の場合は、やっぱりフィギュアですね。特に『バットマン』が大好きで何体も持っているんです。マイケル・キートンが演じたバットマンや、ジャック・ニコルソンが演じたジョーカー。ヒース・レジャーのジョーカーなんて5体も持っているし、ヴァル・キルマーやクリスチャン・ベールのバットマンも持っていますね。それとロバート・パティンソンが最近演じた『THE BATMAN-ザ・バットマンー』のバットマンも!

——それら全部、ご自宅に飾ってあるんですか?

はい。ホラー映画のフィギュアもたくさんあります。『フランケンシュタインの花嫁』『吸血鬼ノスフェラトゥ』『大アマゾンの半魚人』『狼男』『李小龍』と増えすぎてしまって、もうショップに絶対見に行かない! そして、もう買わない!!! と決めていたんです。ところが、ロバート・パティンソンの『ザ・バットマン』がたまらなく良くて…… 結局、買っちゃいました。

——竹中さんにとってフィギュアの魅力はどんなところにあるんでしょうか?

例えば、1930年代にボリス・カーロフが演じたフランケンシュタイン。30年代に、あれだけの特殊メイクを施した技術の素晴らしさ、そして圧倒的なデザイン、造形物としての美しさがあります。フィギュアはそれをかなり精巧に再現しているんです。

感動するほどに本物とそっくりなフィギュアがあるのだから、何体も欲しくなってしまう……。自分が憧れた造形物が「こんなにリアルに存在するんだ」という喜び。

フィギュアに興味のない人にとっては、なんでもない話ですが、やっぱり僕は感動しちゃうんですよね。そしてそれを所有できることがうれしくてたまらない。今も舞台があるときは、自分の楽屋の化粧台にブルース・リーとバットマンとジョーカーのフィギュアを置いて気持ちを高めています。

——今みたいにフィギュアを買うようになったのはいつ頃からですか?

自分でお金を稼げるようになってからなので、お笑いでデビューした27歳からですね。昔、渋谷に『ZAAP!』という洋物のおもちゃ屋さんがあって、そこでピーウィー・ハーマンのフィギュアに出会ったのが最初でした。

それから『13日の金曜日』のジェイソン、『エルム街の悪夢』のフレディ、『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズ、ベニチオ・デル・トロが演じた『ウルフマン/狼男伝説』の狼男、ベラ・ルゴシの『魔神ドラキュラ』と集めていってね。公開当時はあまり話題にならなかった『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のジャックとサリーも、誰より先に見つけて買いました。この喜び、わかるかなぁ…… わかんねぇだろうなぁ……(松鶴家千とせ風)。

大学生の頃はお金もなかったし、フィギュアの存在も知らなかったです。当時の欲求といえば「風呂付きのアパートに住みたい」だけでした。自分が将来、家を建てるなんてことも想像していなかったし。「映画を見るための部屋を持てたらいいなあ」なんて思ってはいたけれど、そんなのただの夢でしかないと諦めていました。

でもそれが実現できたとき、今度は「この部屋に自分の大好きなキャラクターのフィギュアを置きたいな」と思うようになったんです。好きなものに囲まれたらさ、家に帰ったとき、夢の中にいるようでしょう……。

「“ほしい”は何かを望むことだから、手に入らなくて傷つくこともある。それを恐れて自分で鎧を作ってしまうのかもしれない」

——竹中さんのように“ほしい”ものが昔から一貫している人もいれば、「“ほしい”ものが分からない」という人もいますよね。

そういう人って欲がないのかな? 欲がないのは素晴らしいことかもしれないですよね。まっさらな人間、という感じがする。でも、欲望がないとなんだかそれじゃあつまらない…… と僕は思ってしまうな。そういえば昔、アコーディオニストのcobaさんと対談したときに、彼に「好きな言葉はなんですか? と尋ねたら、「そりゃあ、欲望ですよ、欲望! それしかないでしょ!」と答えてくれたのを思い出しました(笑)。

欲がない人は「これおいしそう!」とか「この香りを部屋に置きたいな」とかも思ったことがないのかな……。そういう思いが自分を支えてくれる気がするし、自分の心を駆り立ててくれると思うんだけど……。もしくは、自分に期待しない生き方をしているとか……。欲を持つということは、つまり何かを望むことだから、それが手に入らなくて傷つくことも前提にありますよね。それを恐れて自分で鎧を作ってしまうのかもしれない……。傷つきたくないしね……。

——それは少しもったいない気もします。

うん。たった一度の人生だから、自分を発見するためにも“ほしい”って大事だと思うけど、自分を発見したくない人もいますもんね。誰かの人生を束縛する権利は誰にもないから、あまり強くは言えないなぁ。

でも、「欲がない」と自分で言いながら、豪邸に住んでいたり高級車に乗っていたり、こだわった服を着たりしている人もいますよね? だから本当のところどう思っているのかは分からない。自分の欲望さえも錯覚かもしれないし、本当の自分なんて一生分からないわけだから。恋と同じで、興味がなかったはずのものにときめいちゃうこともある。人生って、何があるか分からないですからね。「え!? こんな感情になるなんてわたし、初めてだわ!」とかね。

——竹中さんは20代の頃にお笑いでデビューして以降、俳優、映画監督、ミュージシャン、作家など、常に表現に関わる仕事をされてきました。その原動力や動機は何なのでしょうか?

自分じゃない人間になれたら…… と思っていました。コンプレックの塊でしたからね。俳優なら自分じゃない人間になれます。どこかには自己顕示欲もあったんだろうけれど、俳優は憧れの仕事でした。今も憧れています。最近は、浅野いにおさんの『零落』という漫画を読んだときに、「この作品を映画にしたい」と、本能的に思ったんです。この作品が完成したら、誰にどう届けるのか、どの世代をターゲットにするのか、僕の中にはそういう考えはいっさいなかったわけです。ただただ「映画にしたい」、その思いだけでした。原作者の浅野いにおさんに向かって撮った、ラブレターです。

映画監督としてのデビュー作である『無能の人』を映画にしたときも、僕はただただ原作者のつげ義春さんに向かって撮っただけです。あるプロデューサーには「この映画、いったい誰が見るの?」と言われたけれど、僕はつげ義春さんの大ファンで、つげ義春さんの世界を映画にしたかったんです。もちろん、多くの人に見てもらいたい気持ちはあるけれど、変な言い方ですが決して多くの人には分かってもらえないよな…… って気持ちもありました。

——たしかに竹中さんの監督作品は原作にかなり忠実なので、「原作者に向けて撮っている」と聞いて納得です。『無能の人』はロマンチックな映画だと思います。

ありがとうございます。企画が通ったときはうれしくてうれしくてたまりませんでした。原作の大ファンでしたからね。「ぼくが原作を実写化するならこうなる……」という思いだけでした。ぼくのイメージした無能の人の世界です。

「大きな“ほしい”のために、ときには小さな“ほしい”を諦めて工夫する」

——昨年でデビュー40周年を迎えましたが、活動を長く続ける秘訣を「いろんなことを諦めて生きていくこと」だと答えている記事をいくつか読みました。「諦めることで見えることがあるのだ」と。

そのときの発言は、たしか映画制作に例えたんじゃなかったかな。例えば、本当はセットを作って撮りたいシーンなのに予算がない場合、どう撮ればイメージしている世界を表現できるのかと考える。そうすると「あ! こういった形でもいけるな!」と、それまで見えていなかったことが見えてくる。できないことはしっかり諦めて、予算がないことを逆手に取って、どうやったら理想に近いものにできるかを考えて工夫してみるんです。その作業がとても面白いんです。

——一番大きな“ほしい”を手にいれるために、他の小さな“ほしい”を諦めて工夫する、ということですか?

そうなのかな。そのバランスをどこでうまく取るかということですね。

——すごく良いヒントをいただいた気がします。最後に、読者にメッセージをいただけないでしょうか。

毎日忙しく過ごしていると、「毎日同じことの繰り返しだ」「特にほしいものもない」って落ち込むことがあるかもしれない。でも、それで自分が安定しているならそれでいいですよね。でも、慎重になりすぎるのもつまらない。でも「毎日同じ繰り返しの人生だからいいんだ」という考え方もあります。

ただ僕は、恋だけはしたほうがいいんじゃないかと思うな。だって、ときめきがあるから。初めて好きな人の手を握ったときの“ときめき”とか、そういうものを大事にしたい。でも、恋愛は別れがあるから恋愛。そう考えると、切ないし臆病になってしまうよね。だから、人に対しての想いだけじゃなくて、例えば、風景や香りでもいいかもしれない。「またこの風景を見たいな」とか「この匂いを嗅ぎたいな」とか。それも“ときめき”ですよね。僕にとってのフィギュアみたいに。

——“ときめき”といえば、竹中さんってたしか過去に恋した相手のフルネームを全部覚えているんですよね? 小学1年生のときは〇〇さん、2年生のときは△△さん、というふうに。

そりゃあ好きになった人のことはみんな覚えていますよ! そういうものでしょ。

——でも、高校を卒業するまで好きになった人とはほとんど一言も喋ったことがなかったと著書に書かれていましたね。

はい!

——過去の恋愛についてはエッセイなどで詳しく書かれているのに、奥さまの話はあまり具体的に 語っていないような気が……?

あっ、うちの話!? それは書いていないし、照れ臭いし、話せないです。ではこのへんでさようなら!

「作りたい」という本能的な欲求から、さまざまなフィールドで表現を追求してきた竹中さん。その根底には、欲求こそが自分を支えてくれたり自分の心を駆り立ててくれたりするものだ、という考え方がありました。「自分は何が“ほしい”んだろう?」と思ったとき、まずは身近な“ときめき”に目を向けてみるといいのかもしれません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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