https://news.yahoo.co.jp/articles/e045afcf384e1cc5530d709673faa61cfa91f94b 【「元気で生きていることが信じられない」…竹中直人が語る「68歳の生き方」】より
7月26日公開の映画『もしも徳川家康が総理大臣になったら』など話題作に次々出演、5年半ぶりの個展「なんだか今日はだめみたい」を開催中の俳優・竹中直人に密着取材。知られざる過去、そして68歳の生き方について、迫っていく。
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「笑い」で学費を荒稼ぎ
撮影:高山浩数
「(多摩美術)大学時代は内気な自分にいら立って、その裏返しの感情が前に出て来ました。いつか必ず映画の世界に行くと決めていたので就職は考えなかった。
卒業はギリギリ。英語の試験が全くできなくて、苦し紛れに答案用紙の裏に『燃えよドラゴン』のブルース・リーの台詞を英語で書いたら何とそれでオッケーだった! そういうのが許された時代でした」
不安定な道に進むことを決めた竹中に対して、家族はどんな反応だったのか。
「父は僕を何一つ束縛することはありませんでした。自分のやることを否定されたこともないです。僕も照れくさかったので相談はせずに全て自分で決めていましたが。
病気がちだった母は、僕が17歳の時に突然に亡くなりました。身近な人の死を体験したのは初めてだったから、もう毎日泣いていましたね」
4年生の頃から状況劇場や黒テントなど様々な演劇に触れ、俳優の道を志すように。大学卒業後、『劇団青年座』に入団する。
「しかし学費が一年で30万円! そんなお金はありません。ところが! 雑誌『ビックリハウス』主催の“3分間で人を笑わせたら賞金30万円”というイベントで優勝してその30万円をゲットしたんです!」
「授業料はこの賞金で賄えた」とニヤリ。しかし、本科での1年を経た後、実習科に残れた竹中はまた1年間の授業料を稼ぎ出さなければならない。そこで頼ったのが、広告代理店に勤める多摩美の先輩たちだった。
「ぼくは色んな声が出せるのでCMのナレーションのお仕事をたくさん頂いたんです。本職の声優だったらすごい金額だと思いますが、僕なら安く使える。と言っても当時声の仕事だけで5万円も頂けたんです。あと店舗用のビデオカメラの説明のナレーションや、動画撮影では10万円も! バイトじゃ一気にそんな稼げないですからね。それで授業料は払えちゃいました」
コメディアンとしても活躍しテレビ界を席巻したが、実は芸能界は苦手だったと明かす。
まだまだ生きなきゃ
「僕なんか絶対に1年で消えると思っていました。いろんなテレビの仕事をしましたが、明るい照明の下でたいして面白くもないぼくの芸にみんなゲラゲラ笑ってくれる。自分がやっていることがそんなに面白いはずがないという不安がいつも根底にあった。そして注目されるのが恥ずかしかった。バラエティが苦手だったので、デビューしたばかりの頃がいちばん辛かったです。そんな情けない不安定なぼくにお仕事をオーファーして下さる人がいた」
役を「断らない」理由は、そんな過去の経験にあった。
売れっ子になってからも驕ることなく、内気さを持ち続けている竹中。多忙な日々を送っているが、プライベートでは「お酒」が安らぎとなっているという。
「将来のことはずっと不安です。でも出会った人たちが僕を支えてくれています。一番大きかったのは、僕にお酒を教えてくれた東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦、そして大貫妙子さん。
実は僕は47歳までお酒を飲めなかったんです。それまではお酒をおいしいと思ったこともなかった。それにめちゃくちゃ弱かった。ビール3口で、顔が真っ赤になってしまった。そんな僕に、酔う楽しさを教えてくれたのですから、このお2人には一生感謝です」
俳優としては、当初はわき役が多かった。が、徐々にシリアスな役や小市民役、悪役と役柄を広げていき、1996年、NHK大河ドラマ『秀吉』で主演の豊臣秀吉に抜擢されて以降は順調にキャリアを積んでいった。90年代はもちろん、2000年代になってもその勢いは衰えることなく、年に10本近い映画に出演するなど、竹中曰く「あの頃は映画の神様がぼくについてくれていたのかな…」というのも頷ける。
芸能生活も40年を過ぎた。今振り返るとあれが転機だったというものはあるのか。
「転機なんてものは考えたことがない。(自分を変えたのは)今まで出会ってきた人々です。家族やともだち、学校の先生。それまで見てきた優しい人、めちゃくちゃ嫌なやつ、許せないやつ、大好きな人、忘れられない風景。 ある人の言葉、声、音色、佇まい。肌の温もり、手の感触、眼差し……大切だったものを失うこと……。そして、映画の監督やスタッフ、大好な映画館や、音楽、文章、絵画、写真、が常に自分を支えてくれています。 落ち込むことも多いけれど、まだまだ生きなきゃ……ですね」
「しかめっ面して生きている68歳」
竹中自身も現在68歳、老いについてはどう考えているのか。
「元気で生きていることが信じられないです。68にもなればいろんなところにガタがくるはずなのにニコニコして生きている人もいます。僕は『やってらんねえー! 』って言いながら、しかめっ面して生きている68歳です(笑)。ただ生きている。いや、しがみついて生きている。自分は一体どんな死に方をするのだろうといつも考えます」
老いていいことはないと呟く竹中だが、より幅広く積極的に活動を続けている。映画監督としては、若手お笑いコンビを起用した映画『たてこもり』のメガホンを取った。
「8ミリ映画を撮っていた頃から無駄な時間をかけたくないという思いが強かったので、カメラワーク、カット割りは前もって決めておきます。竹中組の撮影は巻き巻きだからスタッフはみんなニコニコして帰っていきます」
6月24日からは5年半ぶりの個展も開催。猫、やおじさん……誰かに似ているように感じられる画もあるが、「すべて想像で描いた」そう。ロケや撮影の合間に、早ければ数分で一気に完成させる。
「今回の個展の話は3年前にお声をかけて頂いた。まだ先だと油断していたら、あっという間に3年! 個展の当日まで、一生懸命描きまくります」
幼少期の将来の夢は漫画家。鍵っ子だった竹中は両親が帰宅するまで、ひたすら家で漫画を描いていたという。絵を机いっぱいに広げる竹中の姿には、少年時代の面影が重なった。
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