堂崎教会

https://goto.nagasaki-tabinet.com/junrei/332 【堂崎教会】より

禁教令が解かれたあと、五島キリシタン復興の任を帯びて、フランス人宣教師フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって、五島における最初の天主堂(木造)が建てられました。

その後着任した、ペルー神父によって1908年に、現在のレンガ造りの教会堂が完成しました。建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれ、内部は木造で色ガラス窓、コーモリ天井などの教会堂建築となっています。

現在は、弾圧の歴史や資料を展示する資料館として、一般公開されています。

1974年に、県の有形文化財(建造物)の指定を受けました。

堂崎の海岸で干潮時に姿を見せる2つ並んだ丸い石。地元の人からは「リンゴ石」と呼ばれていて、その正体は、地層中の鉄分が長い年月をかけて一か所に集まることで丸い形をつくり、その周りが波や風などで削られることでできたものです。自然がつくるおもしろい光景です。


https://christian-nagasaki.jp/stories/10.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第10話 潜伏キリシタンが移り住んだ島】より

五島列島の北、小値賀島の東に野崎島という島があります。現在、この島はほぼ無人状態となっていますが、かつては3つの集落があり600人ほどの人々が暮らしていました。

3つの集落のうち、「野首」と「舟森」は江戸時代後期に潜伏キリシタンが移り住んで形成された集落でした。それは急斜面で決して肥沃とはいえない土地を切り拓いた、とても厳しい環境の中につくられたものだったのです。明治時代に入り禁教が解けると、集落の住民はお金を出しあって教会堂を建設します。やっとの想いで作り上げた集落と教会、そしてそれらが手放されて無人の島となるまでの過程を追います。

野首に移住した人々

野首の地は1716年、捕鯨で財を成した小値賀島の豪商・小田家が開拓をしたことにはじまりますが、ここには長いあいだ人は住み着かなかったようです。平地が少なく急な斜面ばかりで、住むには不便な土地だったのです。

その後、1797年に五島藩は大村藩に対し、領民を土地開拓民として移住させるよう要請します。大村藩主はこれを快諾し、外海地方から100人あまりが五島へ移住しました。そのほとんどが潜伏キリシタンだったといわれています。彼らに開拓地が与えられたことが伝えられるとさらに移住者は増え、最終的には3,000人を超える人々が五島に渡ったと伝えられています。

このうちの2家族が下五島を経由して野崎島に渡り、野首の地に住み着いたのが野首集落のはじまりだといわれています。

明治初期の迫害

野首の人々は急な斜面を苦労して切り拓きながら生活を送っていました。人里離れたこの地でひそかに信仰を継承しながら半世紀以上が経ったころ、長崎から大きな報せが届きます。1865年、フランス人のために建てられた長崎の大浦天主堂にて、浦上の潜伏キリシタンと神父が出会ったというのです。

これに感激した野崎島の潜伏キリシタンも大浦天主堂の神父たちと連絡をとり、1867年には6人が大浦天主堂にて洗礼を受けました。しかしまだこのときはキリシタン禁制が敷かれている時代です。これが小値賀の役人に知られると、野崎島のキリシタン約50人全員が平戸に連行され、改宗の拷問を受けることになってしまいました。

拷問に耐えかねて島民は皆そろって改宗を申し出ます。ようやく野崎島に帰ることが許されたものの、彼らを待っていたのは荒らされた集落に家財は何一つ残っていないという惨状でした。時代は明治に入って数年経っていたものの、キリシタンへの迫害は根強く残っていたのです。迫害から解放されるのは1873年のキリスト教禁制の高札撤去まで待たなければなりませんでした。

悲願の教会堂建設

1882年、野首集落で木造の教会が建てられました。ようやく手にすることができた信仰の拠り所です。その後、1907年には信徒18戸が結束して本格的なれんが造りの教会堂を建設する計画が立ち上がります。

設計と施工は鉄川与助に依頼されました。信者たちは建設費捻出のために食事を減らし、自分たちで建材を運ぶなどして、貧しくても一致団結して教会堂の完成をめざします。建設に携わった職人は、信者たちの生活を見て「この人たちは建設費の三千円を払うことができるのだろうか?」と心配したといいます。

集落全員の多大なる苦労の末、1908年10月に悲願の野首教会堂は完成し、司祭から祝別されました。丘の上に青い海を臨んで建つ教会堂は、小さいながらも大変美しいたたずまいでした。

舟森の集落

野崎島のもうひとつのキリシタン集落、舟森のはじまりは1840年頃だといわれています。このころ小値賀島の問屋・田口徳平治が大村藩の外海を訪れ、悲しそうに海岸にたたずむ三人の男に出会ったという伝承があります。

話を聞くと彼らは潜伏キリシタンで、翌日には処刑される運命にあるとのこと。徳平治は気の毒におもい、彼らを船にかくまって小値賀に連れ帰ろうとしました。出航の際に役人の検問にあうなどの危機もありましたが、どうにか小値賀まで連れ帰ることができたそうです。そして当時無人だった野崎島の舟森に住まわせ、雇用人として仕事も与えたといいます。

その後、久賀島や奈留島などからもキリシタンの移住者がやってきて、もっとも多いときには150人を超える集落になりました。1882年には木造の教会も建てられ、静かな祈りの日々が続くことになります。

高度経済成長と集団離村

戦後、日本が復興して高度経済成長を遂げる中、野崎島の住民はだんだんと減っていくようになりました。就学や就職で島を離れた若者が戻ってこなくなったのです。

終戦時には34戸あった舟森の集落は、1965年には13戸に減り、翌年には集団離村してみな小値賀島に移住しました。野首集落では1950年に28戸171人いた住民は1970年には6戸28人にまで激減し、翌年に集団離村して福岡や北九州へ移住しました。

数十年に渡り潜伏して信仰を守り続け、はれて教会を築いて一世紀近く、野首と舟森は再び無人の地となったのです。現在では木造の家屋は朽ち果ててしまい、野首教会堂が残るだけとなった姿は非常に寂しく感じられます。しかし、もともとは人が住むには適さない土地に、潜伏して信仰を継承するために移住してきたことがはじまりです。これを鑑みると、日本がようやく近代化して信仰や居住地の自由が認められるようになり、隠れの地としての野首と舟森の役割が終わったと捉えることもできます。


https://christian-nagasaki.jp/stories/11.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第11話

信徒発見と長崎の悲劇】より

第11話について

有馬晴信がイエズス会に寄進した浦上では、禁教の時代に入っても根強く信仰が継承されていきました。そして幕末から明治のはじめにかけては、信徒発見や浦上四番崩れなど宗教史上重要な事件が続いて起こります。

紆余曲折の末、キリスト教禁制の高札撤去により信仰の自由を得たのはつかの間、最大の悲劇は昭和に入ってから起こったのです・・・

長崎と浦上のその後

かつて有馬領であり、有馬晴信がイエズス会に寄進した浦上は、キリスト教が根強く信仰される村となりました。同じく長崎の6ヶ町もイエズス会の領地となっており、数多くの教会が建てられ信仰の拠点となっていました。

その後、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、長崎と浦上を没収します。宣教師は追放され、教会は破壊されていきました。1596年には京都で捕らえられた宣教師や日本人信徒26人が長崎まで送られ、西坂の丘で十字架にかけられるという事件が起こりました。

この26人の中にはルドビコ茨木というまだ12歳の少年がいました。処刑を前にした幼い彼を助けようと思った役人が「ここで信仰を捨てなさい。命は助けるから。」と説得します。しかしルドビコ茨木は信仰を捨てると天国に行けなくなるとこれを拒みます。それどころか「わたしの十字架はどれ?」と小さな自分の背丈にあわせて用意されていた十字架のもとに走り寄り、「パライソ(天国)、イエス、マリア」といって喜びを表現したと伝えられています。彼らは四千人あまりの群衆が見守る中、両脇を槍で刺し突かれて殉教しました。

弾圧と潜伏の時代

しかし秀吉の時代にはまだ長崎の信者たちへの弾圧ははじまっていませんでした。いくつかの教会も残っており、信者も増えていき、慶長の禁教令が出される前には約3万人のキリシタンがいたといいます。

禁教令のあと潜伏した宣教師や信者たちは次々と捕らえられ、600人以上が西坂の丘で殉教しました。村民のほぼ全員がキリシタンだった浦上では、村の中心人物の一家が見せしめのために処刑されています。

こういった弾圧から逃れるため、また、宣教師がいない中でも信仰を継承するため、浦上では「帳方」「水方」「聞役」という指導役からなる信徒組織がつくられました。信者たちは盆踊りを装って祈りを捧げるなどして、約250年間潜伏することとなります。

プチジャン神父の信徒発見

時代は幕末まで下り、日本とフランスの間で日仏修好通商条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになりました。彼らは日曜日に礼拝する教会がほしいと希望し、1864年に大浦天主堂が建立されます。フランス人のためにつくられた教会なので、当時は「フランス寺」と呼ばれていました。

1865年、大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後、歴史的な瞬間が訪れます。杉本ユリをはじめとする浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂にやってきたのです。彼らは堂内で祈りを捧げていたプチジャン神父に近づき、こう囁きました「ワタシノムネ、アナタトオナジ」・・・つまりキリスト教を信仰しているということの告白です。厳しい禁教令と宣教師がいないという状況が250年間も続いたにもかかわらず、信仰が受け継がれているということが、このとき初めて外国人に対して明らかになったのです。プチジャン神父は非常に驚き、また大いに喜び、彼らをマリア像の前まで導きました。この「信徒発見のマリア像」は現在も大浦天主堂に安置されています。

この件は世界中のカトリック関係者に伝わるとともに、五島や外海の潜伏キリシタンにも口伝えで広まりました。みな「フランス寺の見学」と装って大浦天主堂に出向き、礼拝したり洗礼をうけたといいます。

浦上の悲劇

大浦天主堂という大きな精神的支柱を得た浦上の信者たちは、1867年に「これからの葬式は仏式でなくキリスト教によって執り行なう」という口上書を庄屋に提出しました。驚いた庄屋は長崎奉行所に届け出ますが、時代は幕末の混乱期です、うかつにキリシタンを迫害すると諸外国から非難される恐れもあり、慎重に状況が調べられました。その結果、信者ら68人が捕縛され激しい拷問を受けることになります。浦上四番崩れという弾圧事件の発端です。

この後、明治維新によって日本は新しい政権に移り変わりますが、明治政府は神道国家を掲げ、江戸幕府と同じくキリシタン弾圧を踏襲することを名言します。政府はキリシタンの村を摘発し根絶しようとしました。浦上では三千人以上の信者たちが流罪に処され、その先で過酷な拷問を受けます。この状況が改められるのは1873年になってのことでした。「信仰の自由を国民に与えない国は野蛮である」という諸外国の軽蔑が、平等な条約を結ぶための障害になっていることに政府がはじめて気づいたのです。こうしてようやくキリスト教禁制の高札が撤去されることになりました。

1879年、浦上には小さな聖堂が建てられ、その後大正の時代に入ると煉瓦造りの浦上天主堂が完成しました。しかし1945年8月9日、浦上は最大の悲劇に見舞われます。浦上天主堂のほどちかくに原子爆弾が投下されたのです。多数のカトリック信徒が天主堂に来ていた時間で、原爆による熱線により全員が犠牲者となりました。日本を開国させ信仰の自由を与えるきっかけとなった国によって、教会の上に原爆が落とされるという、胸がつぶれるような惨劇でした。


https://christian-nagasaki.jp/stories/12.html 【「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第12話 世界遺産として語り継ぐこと】より

第12話について

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は現在、ユネスコの世界遺産暫定リストへ掲載されており、世界遺産への登録にむけてさまざまな手続きが進められています。

これまで「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」にまつわる歴史をたどってきましたが、450年間に渡る激動の歴史は決して宗教だけにとどまる内容ではなく、この土地の潜在力や可能性までも示唆してくれます。

ローマ教皇の言葉

2014年1月15日、世界のキリスト教カトリック信徒約12億人の頂点に立つフランシスコ・ローマ教皇がバチカンのサンピエトロ広場にてこのように話しました・・・「日本のキリスト教徒は17世紀初めに厳しい迫害を受けた。司祭は追放されていなかったが、キリスト教徒は潜伏しながら信仰と祈りを守り、子どもが生まれると父母が洗礼した。洗礼のおかげで生き延びた。この出来事から私たちは多くのことを学ぶことができる。」

聖職者不在のなかで約250年間、長崎の潜伏キリシタンたちが自分たちで洗礼を授け、信仰を守り続けてきたことをローマ教皇は「模範」とたたえたのです。

教皇が言及した長崎・浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂に訪れ、プチジャン神父と出会った「信徒発見」からおよそ150年、今あらためてこの宗教史上の奇跡が見直され、注目されつつあります。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:高浜海岸(五島市)高浜海岸(五島市)

語りかけてくる遺産

ユネスコの世界遺産暫定リストへ掲載されている「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、城郭跡や教会など12の資産で構成されています。近代以降に建てられた小さな教会、あるいは石垣が壊され建物が一つも残っていない城跡など、これらは歴史を知らなければ見過ごされそうなものばかりです。

私たちがふだん「世界遺産」と聞いて連想するヨーロッパの荘厳な教会や、中国の大自然などとくらべると、どうしても見劣りしているように感じられるかもしれません。しかし、どのようにしてこの教会が建てられたのか、またなぜこのような遺構になったのかを知ると、全く違った価値観で見つめ直すことができます。

これまでたどってきた激動の歴史からは、生きる上での信仰や宗教とは一体何なのか、また統治支配と宗教がどのように関わってきたのか、多くのことを学び取ることができます。そして、250年間にわたる潜伏キリシタンの知恵と工夫、そして忍耐は、困難な状況をどう乗り越えるかということについて様々なヒントを与えてくれます。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:キリシタン洞窟(新上五島町)キリシタン洞窟(新上五島町)

土地がもつ遺伝子

さらにこの450年間の歴史からは、島原・長崎・五島・天草の土地がもつ遺伝子をも読み取ることができます。海岸線が長く、天然の良港を数多く有するこれらの地はキリスト教の伝来と繁栄の時代にはヨーロッパにつながる窓口としての役割を果たしました。そして禁教時代にはその入り組んだ海岸が他の地域との隔絶をもたらしてくれたのです。

接続と隔絶。一見すると相反するようなこの2つの性格がここには同時に存在しています。それは新しいものを受け入れる文化と、持続的に受け継いでいく文化の共存を可能にし、この土地の魅力を形成していきました。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:原城跡より口之津方面をみる原城跡より口之津方面をみる

世界遺産と未来

大航海時代に宣教師たちが往来したキリスト教の布教拠点、ポルトガルのリスボン、インドのゴア、中国のマカオなどではすでに、多くの関連遺産が世界遺産に登録されています。宣教師たちの最果ての到達点であるこの地が世界遺産に登録されれば、西から東までの航海ルートがつながり、世界の宗教史の中で、この地で起きた出来事の重要性と意義が改めて見直されることになるでしょう。

現在、多くの人々が国境を越えてさまざまな国を行き来するようになりました。世界中にたくさんの文化が存在する中で、どのように調和していくかということは、全人類の大きな課題でもあります。

私たちは将来進むべき道を決めるときに、歴史を参考にすることができます。何が最良の選択なのか、そして同じ過ちを繰り返さないためにはどうすればいいのか、歴史から多くのことを学ぶことができます。これからの時代を考えるにあたって「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が語りかけてくるストーリーは、非常に多くのヒントを私たちに与えてくれるのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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