https://note.com/zenika/n/n76b53e39c325 【古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史① アイヌ史研究が迫る日本史再検討】より
ベラボウに詳しい情報がネットに押ちていたが、HPでまとまってるわけではない。検索して順番バラバラに見つけて並べ直して読まなければいけない。なんでこんな凄い情報が、煩雑な起き方なんだ??(;・∀・)
あっても簡単に読める量ではないのだが、天皇・朝廷に侵略さてたという証拠は十分読んだ気がする。(;´Д`A
古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史①
アイヌ史研究が迫る日本史再検討 堀込 純一
はじめに
アイヌ民族の歴史に関する研究は、1990年代に入って格段と発展した。しかし、アイヌ史研究には、もともと大きな制約がある。アイヌ民族はもとより文字を使用しなかっただけでなく、19世紀になっても自ら記録を行なわなかった(豊かな口承文芸はある)。したがって、アイヌに関する文献史料は、すべて他民族のものである。資料となる絵画や彫刻もまた、他者のものである。
しかし、考古学にかかわる資料の面では、他の民族と同じ条件であり、実際、発掘・研究の進展で、アイヌ史研究の発展に大きく貢献している。
アイヌ史の研究は、日本人民の歴史にとっては、まさに反面教師となるものである。古代、大和王権の版図拡大は、南方の熊襲・隼人などとともに、北方の蝦夷が主な対象である。鎌倉幕府は、古代につづき東北地方に、御家人一族などを大勢送り込み、植民させた。
幕末の欧米諸国の「開国」・通商要求は、米のペリーよりも実はロシアの方が70数年も早い。アイヌ民族の生活の場は、ロシアとこれに対抗する徳川幕府の間で分割され、多くのアイヌ民族が日本に組み込まれた(内国民化)。
アイヌ民族に対する「和風化」=同化政策は、徳川時代から始まっているが、明治維新以降、本格化された(古代でも蝦夷に対する同化政策は行われた)。近代日本の北海道に対する諸政策は、台湾・朝鮮などへの植民地支配の「予行練習」にもなっている。
明治政府は、北海道を「無主の地」として、アイヌが狩猟・漁労で使っていた地域を和人に払下げ、さらにアイヌの居住地をも「当分総(すべ)テ官有地」とし、アイヌの人々の生活の術(すべ)を冷酷にも奪い取っていった。1899年に公布された「旧土人保護法」は、アイヌ民族を半強制的に農耕民に変えさせるための法律だが、アイヌの人々を一人前に遇せず、「保護」の対象としている。
「旧土人保護法」は制定以来、約100年ぶりに廃止され、1997年に「アイヌ文化振興法」が成立した。これにより先住民としてのアイヌ民族が法律的にも認められ、誤った「日本単一民族」論は打破られた。しかし、同法は歴史的に迫害され困窮生活に追いやられてきたアイヌ民族の生活を根本的に立て直す点では、大きな限界をもっており、今日でもこの課題は実現されていない。アイヌ民族の生活を抜本的に改善する課題は、アイヌ民族を名乗ることができる差別のない社会をつくりあげる課題と共に、依然として当面の重要な課題である。
以下、本稿は、アイヌの歴史を学ぶ前提として、古代天皇制国家とエミシの間での戦争と交易を中心に検討を進めることとする。
Ⅰ 北海道史の時代区分
(1)アイヌ民族の歴史的起源
かつて、アイヌの起源について、コーカソイド説(皮膚の色と主要居住地域から白色人種とも呼ばれたが、濃色の集団もあるし、アジアやアフリカにも分布する)、モンゴロイド説、オーストラリア先住民説などの説が提唱されてきた。しかし、国際的な研究の進展で、コーカソイド説やオーストラリア先住民説が否定され、結局、現代のモンゴロイド成立以前の「原モンゴロイド」なる仮想集団を想定し、それにアイヌも帰属させている。
日本国内では、古代の蝦夷について、アイヌ説と非アイヌ説とが存在し、戦後も論争は続いた。蝦夷アイヌ説は、エミシがアイヌの先祖にあたるというものである。これは、江戸時代の新井白石にさかのぼり、近代では金田一京助などが主張している。
他方、蝦夷非アイヌ説は、その主流は「蝦夷辺民説」といってよく、また「蝦夷日本人説」といってもよい。これは、1910年代、人類学者・長谷部言人の「蝦夷はアイヌなりや」という主張に始まる。
これらに対して、工藤雅樹氏は、「……蝦夷アイヌ説と蝦夷非アイヌ説とはいうものの、蝦夷アイヌ説では古代蝦夷の実体のうちの北海道的な部分を強調しており、蝦夷非アイヌ説では蝦夷の文化の日本的な面を取りだしていると整理することも可能になり、実は対立する説と見なくとも良いといえる」(『蝦夷と東北古代史』吉川弘文館 1999年 P.338)と主張している。
また、1960年代からアイヌと縄文人の比較研究が盛んになり、「最近では、北海道の続縄文時代人や擦文(さつもん)時代人骨の形態学的研究も進み、北海道のアイヌが縄文人や続縄文人を母体にして成立した人たちであることは、今や学界の定説となっている。」(『世界大百科事典』平凡社 百々幸雄氏執筆)と言われている。
(2)続縄文文化と遠距離交易
左表(蓑島栄紀著「古代北海道地域論」―岩波講座『日本歴史』第20巻 2014 に所収 P.14)は、北海道の時代区分を旧石器時代―縄文時代―続縄文文化期―擦文文化期―アイヌ文化期―近現代としている。
旧石器時代が終わり新石器時代が始まるが、それが日本列島では縄文時代といわれる。だが、一般的な新石器時代は、農耕・家畜・土器・定住などを特徴とし、それと比べると、日本列島の場合は、農耕が生活の基本となっていないこと、犬を除いては家畜を大々的には飼養していなかったことが特質と言われる。
縄文時代の次は、日本列島の多くでは弥生時代と言われる。弥生時代は、稲作が普及した(稲作は、西北九州では縄文晩期に始まる)。稲作の普及は人口の増大をもたらし(一説には、西日本各地では縄文晩期の20~50倍に増加)、政治制度が発達する。また、大陸との交流がひんぱんとなり、鏡・青銅器・鉄器などが大陸から導入された。
しかし、稲作文化が普及したのは、日本列島のすべてではなく、北海道などでは、縄文時代の生活伝統を継承して、狩猟・漁労・採集に生活の基盤を置いた。これが、北海道地方の続縄文文化期である。
そして、「考古学の成果を参照すると、すでに四世紀代以来、道奥(陸奥)の北上川流域から津軽を経て北海道の石狩低地帯へ連なる交易ルートによって、北方から続縄文文化の後北(こうほく)C2・D式、北大(ほくだい)式土器が、おそらくはアシカ等の海獣やヒグマの毛皮、昆布、久慈地方産の琥珀(こはく)などとともに南方へもたらされ、逆に穀物などを入れた大量の土師器(はじき)が鉄とともに北方へと送られていたとみられる。
この遠距離交易を主に担ったのは、各集落に在住する続縄文文化の負荷集団である」(田中聡著「蝦夷と隼人・南東の社会」―日本史講座第1巻『東アジアにおける国家の形成』東大出版会 2004年 に所収 P.273)と言われる。
(3)擦文文化の爆発的進出
擦文時代は、北海道の続縄文文化が、日本本州の東北地方の古墳文化・土師器文化などの影響を受けて変容し成立した文化である、と言われる。
蓑島栄紀氏によると、「擦文文化は当初、北海道の道央・道南を中心地として成立する。その早期―前期においては、土器の無文化が著しく、土師器の地域的ヴァリエーションとしてとらえられることもある。住居も基本的に本州と同じカマド付きの方形竪穴住居となり、小規模な『北海道式古墳』も出現する。狩猟・漁撈・採集を基礎としつつも、農耕とそれに伴う文化複合をかなり本格的に受容したようだ。石器の使用はほぼ全面的に払拭され、鉄器文化としての性格が色濃い。文化・社会の再生産に不可欠となった鉄器の入手は、擦文社会が対外交易に大きく傾斜していく前提条件となった。」(蓑島前掲論文 P.14~15)と言われる。
擦文土器は、縄文文様が失われ、器の内外に木製のヘラ状工具による擦痕(さつこん)、あるいは刷毛目(はけめ)痕が付けられている。擦文土器には、製法・器形において、東北地方の土師器の影響が強くある。末期には、例は少ないが、内耳鉄鍋を模したとみられる内耳土鍋(炎が弦に当たらないように内面に吊り耳をつけた鍋)が現れる。なお、擦文土器は、北海道で使用された最後の土器である。
擦文時代の初期には、江別市や恵庭市などの道央部で発見された北海道式古墳がある。この古墳からの出土物には、土師器(はじき)、直刀、蕨手(わらびで)刀、鉄斧、鉄釜、?帯(かたい *帯の金具)金具、勾玉(まがたま *装身具の一種)などがある。
この時代は鉄器が普及するが、鉄器は本州からの移入品が多かったと考えられる。しかし、フイゴ(鍛冶屋が火をおこすための送風器)の羽口(はぐち *送風口)の出土例があるところから、既存の鉄器を簡単に加工する程度の技術はあったと思われる。
鉄器の中には、鍬の先、斧、鎌などの農耕具があり、大麦・アワ・ソバなどの種子の発見と合わせてみると、擦文時代の生業は狩猟・漁労・採集をベースにしながらも、初歩的な農業もあったとみられている。
住居は、一辺が4~5m(あるいは7~8m)の方形の竪穴式で、屋内の中央には炉があり、東側の壁には煙道が外に通ずるカマドが付けられたものが多い。住居は、海岸部や内陸の河川や湖沼に近い段丘上に建てられている。
他方、続縄文期の途中・5世紀頃から、オホーツク海岸を中心にしたオホーツク文化が、サハリン南部と北海道の宗谷地方に進出する。擦文文化が盛んな頃には、オホーツク文化が、根室半島を越えて北海道太平洋岸の東部や、宗谷岬を越えて日本海岸の北部の利尻・礼文島まで広がっている。
しかし、擦文人の広がりには、目をみはるものがある。「……九世紀の終わりになると、擦文人は全道へ一気に進出した。それまで擦文人は、オホーツク人が占拠していた道北や道東オホーツク海側の地域を避けて暮らしていたが、これらの地域でも九世紀末の擦文土器が出土している。/この進出により、オホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けた『トビニタイ文化』に変容し、擦文人の進出を避けるように知床半島から道東の太平洋岸にその中心を移していった。……しかし、ビッグ・バンをおもわせるこの擦文人の全道進出は、道東ではそのまま定着しなかった。おそらくそこには、オホーツク人の残党でもあるトビニタイ人との確執がかかわっていただろう。しかしその後、擦文人は一〇世紀にオホーツク海沿岸、一一世紀から一二世紀にかけて道東太平洋沿岸にふたたび進出する。擦文人の攻勢のなかでトビニタイ人は次々擦文人に同化し、その分布圏を縮小していった。かれらは、擦文文化が終わる一二世紀末~一三世紀はじめには、ほとんど同化されていたとみられる。サハリンでもほぼ同じころ、土器から鉄鍋に移行してオホーツク文化が終焉を迎えていた。」(瀬川拓郎著『アイヌの歴史』講談社選書メチエ 207年 P.34)といわれる。
アイヌ文化には、この擦文文化から連続する要素がいくつも存在する。たとえば、サケやマスに依存する生活と、それにかかわって集落の立地もアイヌのコタンと類似している。擦文文化の回転式離頭銛(仕留めた獲物の体内で90度回転し、はずれにくい仕組みのはなれモリ)は、アイヌのキテに連続する。また、擦文文化の遺跡から発掘された繊維製品とアイヌのオヒョウ、イラクサなどから作られた着物の織り方の類似性、擦文土器の低部によくあるヘラ記号とアイヌのイクトパ(男の祖印)の類似性などである。
Ⅱ 両文化の間に立つ東北の意味
本稿のテーマとの関係で、東北地方の歴史的地理的位置を確認しておくことは、極めて重要である。
東北地方にも、弥生文化は前期の内に波及し、水田稲作が開始された、とよく言われる。しかし、そうは言っても、「その文化内容は、他の地域、特に西日本とは同一ではなかった。大陸系磨製(ませい)石器、稲作に伴う信仰、鉄器の製造技術、高床(たかゆか)倉庫と貯蔵穴、青銅製品、階級差を示す墓などが、東北地方の弥生文化には欠落していることが指摘されている。同時に、石器や信仰に関わるものについて縄文時代からの連続性が強いことも指摘されている」(「古代史の舞台 東北」〔藤沢敦氏の執筆部分〕―列島の古代史1『古代史の舞台』岩波書店 2006年 P.67)のである。
そして、弥生後期になると、発掘された遺跡の状況から水田稲作の比重が低下し、畑作など水田稲作以外の農耕への依存が強くなったようである。すなわち、生業の中でも、狩猟・漁労・採集の活動の比重が再び増大した可能性がある。このような変化の要因は、気候の寒冷化があるのは確かであるが、他地域との交易が発展し、石器の減少・鉄器の普及が進んだことも関係がある、と思われる。
また東北は、日本列島の中でも最も南北に長く、その南部は関東や畿内との関係が、その北部は北海道との関係が、それぞれ深い。このことも、極めて重要である。
藤沢氏によると、「古墳時代の東北地方は、南部には古墳文化が、北部には続縄文文化が広がる。この違いは、古墳時代後期まで続いていく。」(同前 P.69)と言われる。
古墳文化に伴なって、土師器や方形竪穴住居が普遍的に分布するのは、基本的に東北でも南部一帯とみられる。太平洋側では宮城県域、日本海側では山形県の庄内平野までである。だが、「東北南部とは対照的に、東北北部には、北海道の続縄文文化が広がっていく。
一部には弥生時代後期から始まっていた北海道の続縄文文化が南下してくる現象は、古墳時代前期には、東北北部全域で認められるようになる。……住居の発見例がないこともあり、東北北部の続縄文文化の内容を、具体的に解明することは難しい。ただ少なくとも、農耕が社会を支える主要な生業であったと考える証拠はない。北海道の続縄文文化と同様に、狩猟・漁労・採集を中心とした社会であったと考えるべきであろう。」(同前 P.73)とされる。
大和王権や律令国家が東北に版図を拡大する前の時代の、東北地方の南北はこのような社会であった。 (つづく)
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/567emisi.html 【古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史②】より
中国思想を真似て差別・野蛮視
Ⅲ 大和王権によって差別されたエミシ
アイヌ文化の時代が確立(13~15世紀)する以前の日本古代においては、東北地方・北海道の一部の人々はエミシと呼ばれた。
『日本書紀』は、最終的には8世紀初めに出来上がっているが、その神武(架空の人物)紀の歌謡には、万葉仮名で次のように記されている。
愛瀰詩烏(エミシを) ??利(ひだり *一人) 毛々那比苔(ももなひと *百々な人) 比苔破易倍廼毛(ひとはいへども *人は云へども) 多牟伽?毛勢儒(たむかひもせず *抵抗もせず)
この戦勝祝歌の意味するところは、「エミシは一人当百(*一人で百人に匹敵する)ぐらい強い兵と人は言うけれど、来目部(くめべ *神武東征の際の神武護衛隊)に対しては、全然、抵抗しない。(だから俺らはこんなに強いのだ)」というものである。
それは違うんじゃないかな?ワシも前後読んでないから何ともだが。
「エミシを一人(ひたり)、百(もも)な人 人はいへども 手向ひもせず」
ワシ翻訳「エミシは一人。百人、人は居れども 手向いもせず」
ワシ解説:昔も勇者は1人、100人は烏合の衆の愚民。
和人が、東北地方などの人々をエミシと呼んだのは、何時頃までさかのぼれるかは不明である。だが、少なくとも『日本書紀成立』以前までには、エミシと呼んでいたことがわかる。(土橋寛著『古代歌謡全注釈 日本書紀編』〔角川書店 1976年〕によると、この歌は遅くとも5世紀頃までにはできている、と言われる。)
エミシの語義については、アイヌ語説や日本語説がある。アイヌ語説では、樺太(サハリン)方面で使用されているエンチウ(「人」の意)がエミシの語源である、というのである。だが、「現在では、エミシがアイヌ語起源の言葉でエゾと同一の語源から出たとする考えは否定されている。」(児島恭子著『アイヌ民族史の研究』吉川弘文館 2003年 P.108)という。
他方、『アイヌ民族の歴史』(関口明・田端宏・桑原真人・龍澤正編 山川出版社)の立場は、日本語説である。それは、「『ユミシ』=『弓ー師』が『エミシ』に転訛(てんか)した」(P.37)というものである。児島恭子氏は、エミシの語源については諸説あるが、「古代の日本語、としておいたほうがよいと思われる。」(同前 P.114)と述べている。
(1)差別に満ちたエミシの漢字表記
ところで、古い文献史料では、漢字で「毛人」や「蝦夷」で表記されているのが多い。
「毛人」表記で有名なのは、倭の五王の一人・武の上表文(君主に文書を奉ること。またその文書)で使用されているものである。南朝梁の時代、沈約(441~513年)が撰んだ『宋書』倭国伝は、武(いわゆる雄略天皇に当たる)の順帝(劉宋最後の天子 在位477~478年)への上表文(478年)の冒頭部分について、次のように記している。
昔より祖彌(そでい *父祖)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を?(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう *歩き廻ること)し、寧處(ねいしょ*おちついて居ること)に遑(いとま *ひま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。……
五代の晋の時代、劉?(887~946年)が撰んだ『旧唐書(くとうじょ)』もまた、次のように述べている。
日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在(あ)るを以て、故に日本を以て名と為(な)す。……其の国の界、東西南北各々(おのおの)数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なりと。……
これらの毛人がエミシを指すと、一般的に言われている。
児島恭子氏によると、「上表文中の『毛人』は中国の『毛民』(*中国の古典『山海経』にみえる語)をとりいれたものと考えてよいだろう。直接には中国の毛民が東北の住民だったからにほかならない。」(児島前掲書P.56)といわれる。
しかし、中国の古地理書である『山海経(せんがいきょう)』の「毛民」は、実態を正確に反映したものでなく、中国の古くからの華夷思想によって、差別の相で観念されたものである。(華夷思想は、中国の周りを野蛮人と決めつけ、東夷・北狄・西戎・南蛮の野蛮未開国と称した)
実態を正確に反映したものでなく・・ここが華夷思想=ユダヤ人臭い大事なところ。
(2)『日本書紀』に多い「蝦夷」表記
「毛人」表記は、『古事記』や『日本書紀』になると、「蝦夷」に変わる。児島恭子氏によると、「蝦夷」表記は、『古事記』では1回(倭建命〔やまとたけるのみこと〕の東征―景行紀)だけであるが、『日本書紀』では、俄然(がぜん)多くなる。
景行紀12回、応神紀2回、仁徳紀4回、雄略紀3回、清寧紀1回、欽明紀1回、敏達紀3回、崇峻紀1回、舒明紀5回、皇極紀3回、孝徳紀3回、斉明紀35回、天智紀2回、天武紀2回、持統紀7回である。(児島前掲書 P.50)である。
『日本書紀』の各巻の中では、斉明紀が最も多く、次いで多いのが景行紀である。景行紀の日本武尊(倭建命・ヤマトタケル)は、明らかに架空の人物なので論外とすると、斉明紀(西暦655~661年)のころに、大和朝廷とエミシとの「本格的な」交渉・交流が始まった可能性が大である。
ところで、エミシの漢字表記は、「毛人」あるいは「蝦夷」である。だが、「毛人」も「蝦夷」も、人名にも使用されている。たとえば、蘇我蝦夷(そがのえみし *毛人とも表記)が有名であるが、他にも小野朝臣毛人(おののあそんえみし)、鴨朝臣蝦夷(かものあそんえみし)、佐伯宿禰毛人(さえきのすくねえみし)などである。蘇我蝦夷は逆賊であるから後に蝦夷と書かれたという説もあったが、これは俗説である。というのは、その後も、功臣にも蝦夷は人名として使われているからである。
エミシはもともと勇者の美称であったが、華夷思想が強くなるなかで、勇者は「強暴な人」に通じ、エミシがエビスに転訛(てんか *元々の音がなまって変わること)してからはもっぱら賤称として使われたようである。
〈弘法大師・空海のエミシ像〉
鎮護国家の真言宗の開祖であり、入唐の経験もある空海(773~835年)は、『性霊集』で毛人を次のように描いてる。その中の、「野陸州に贈る歌」(小野朝臣岑守〔小野篁の息〕が陸奥守に任じられた時に贈った歌)では、
日本の麗城(れいせい *美しく立派な国)三百の州。就中(このなか)に陸奥(りょくおう *むつ)最も柔(やはら)げ難(がた)し。……毛人(ぼうじん)羽人(うじん)境界(けいかい *国境)に接す。猛虎豺狼(猛々しい虎やヒョウ・オオカミ)処々に鳩(あつま)る。老?(ろうあ *老いたカラス)の目〔*エミシの目の形容〕、猪鹿の裘(かわごろも *皮製の衣服)。髻(もとどり *髪の毛を頭の上に束ねた所)の中には骨毒の箭(や)〔*骨製のヤジリに毒をぬった矢〕を挿(さしはさ)み著(つ)けたり、手の上には毎(つね)に刀と矛(ほこ)とを執(と)れり。田(た)つくらず、衣(きぬ)おらず、麋鹿(びろく *トナカイ)を逐(お)ふ。
ここでは、日本全国で陸奥が最も鎮めにくいと言い、それはエミシ(『山海経』の毛人〔体中に長毛がはえている〕や羽人〔長い羽をはやしている〕にたとえている)に境が接しているからだ、とする。そして、エミシの生活実態について、その「野蛮さ」を誇張する形で描いている。先の語句にすぐ続けて、晦(かい)とも靡(な)く明(めい)とも靡く〔*昼夜の別なく〕、山谷に遊ぶ。羅刹(らせつ *大力ですばやく、人を食する悪鬼)のたぐいにして非人の儔(たぐい)なり。時々、人の村里に来往して千万の人と牛とを殺食す。馬を走らしめ、刀を弄(もてあそ)ぶこと、電(いなびかり)の撃つが如し。弓を彎(ひ)き、箭を飛ばす、誰か敢(あ)えて囚(とら)えん。苦しい哉(かな)、辺人常に毒を被って歳々年々に常に喫(くら)わるる愁(うれ)いあり。……毛人面縛(めんばく *両手を後ろ手に縛られ、面を人に見せる)して城辺に側(そば)だてり。
ここでは、後世にまで残る歪曲されたエミシ像が描かれている。「羅刹のたぐいにして非人の儔なり」は、明らかに中傷であり、差別的な決めつけを公然と行なっている。「時々、人の村里に来往して千万の人と牛を殺食す。」は、具体的な時期と場所を示さずに一般的に描いているが、そもそも侵略を進めたのは大和王権の側からなのであり、エミシの狩猟生活を侵し(一部農耕も行なわれたが、まだまだ狩猟は重要)、生活基盤を奪い取ってきたのは和人の側なのである。
(3)中国史書での「蝦夷」表記
中国史書でも古くから「蝦夷」表記が見られる。『通典』(唐の杜祐〔735~812〕の撰)の「辺防典」では、「辺防一 蝦夷」として、「蝦夷国海島中小国也 其使鬚長四尺 尤善弓矢挿於首令人載之而四十歩射之無不中者 大唐顕慶四年十月随倭国使人入朝」と記述されている。
唐の顕慶四年とは、西暦でいうと659年にあたる。蝦夷(エミシ)が、中国史書に初めて現れるのは、この時である。
北宋時代の宋祺(998~1061年)が撰んだ『新唐書』にも、蝦夷のことについて次のように述べられている。「未だ幾(いくばく)して孝徳死し、其(その)子天豊財(あめとよたから *皇極、重祚した斉明のこと。孝徳は同母弟であり、親ではない)立ち、死し、子天智立つ。明年(*663年)、使者(*日本の遣唐使)蝦夷人とともに朝す(*朝廷に参る)。蝦夷もまた海島の中に居る。其の使者髭(ひげ *鬚)の長さ四尺許(ばか)り。箭(や *矢)を首に珥(はさ)み、人をして瓠(こ *ひさご)を載せて数十歩に立たしめ、射て中(あ)たらざる無し。」と。
この二書では、蝦夷の特徴として、①ひげが濃いということともに、②弓矢に長じていることを強調している(これは、同じ史料を出典としていると思われるが)。②については、前出の空海の『性霊集』でも語られている。
ただ、『通典』と『新唐書』では、日本からの遣唐使が蝦夷とともに皇帝に謁見した年が異なっている。
そんなことあったの!
(4)日本型華夷思想の誇示
『日本書紀』斉明紀の蝦夷関連の記事で、唯一、中国史書によって「裏付け」があるのは、「五年(*659年―『通典』と一致)七月戊寅 道奥蝦夷男(をのこ)女(めのこ)二人を以(ゐ)て、唐(もろこし)の天子(みかど)に示(み)せたてまつる。」というカ所である。遣唐使が蝦夷男女2人を率いて、唐の天子に示したのである。
「道奥蝦夷の男と女を二人をもって、唐の天子に見せせたてまつる。」
『日本書紀』では、この部分で割注を付け、「伊吉連博徳書曰はく」として、唐の天子が、大和の大王・重臣の様子や治安の状況を使節に尋ねた後、蝦夷のことに関しても尋ねた様子が次のように述べられている。
天子(みかど)問ひて曰(のたま)はく、「此等(これら)の蝦夷(エミシ)の国は、何(いずれ)の方に有るぞや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「国は東北に有り」とまうす。天子問ひて曰はく、「蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留(つかる)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熟(にき)蝦夷と名く。今(いま)此(これ)は熟蝦夷なり。歳(とし)毎(ごと)に、本国(やまとのくに)の朝(みかど)に入(まゐ)り貢(たてま)る」とまうす。天子問ひて曰はく、「其の国に、五穀有りや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「無し。肉を食(くら)ひて在活(わたら)ふ」とまうす。天子問ひて曰はく、「国に屋舎(やかず)有りや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「無し。深山の中にして、樹(こ)の本(もと)に止住(す)む」とまうす。
ここで、蝦夷を「都加留」、「麁蝦夷」、「熟蝦夷」の三種に分けているが、それは交流・交易や親愛度などに応じて分けられたものである。「都加留」とはほとんど交流もなく、情報も少ないようである。「伊吉連博徳の書」においても、蝦夷が狩猟民として描かれていることがわかる。
しかし、『日本書紀』のここでの記述でもっとも重要なことは、遣唐使が蝦夷の男女二名を引き連れて、皇帝に拝謁していることである。すなわち、文明が遅れたと決めつけた蝦夷(華夷思想では、狩猟民であることそのものが野蛮人の証左である)を皇帝の前に帯同して、挨拶させることは、日本が蝦夷を服属させ、教化させている何よりの証拠であり、そのように日本の文明化をアピールしているのである。したがって、逆に言えば、蝦夷(エミシ)はそれこそ野蛮人そのものでなければならないのである。 (つづく)
古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史③
饗給・斥候・征討による支配地拡大
堀込 純一
タイトル未設定
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隋による国家統一、隋崩壊と唐王朝の興起、隋唐の高句麗遠征、新羅による朝鮮統一、大和王権の支配地での階級形成・階級矛盾など、6世紀末から7世紀にかけての東アジアの激動によって、日本は8世紀初頭までに律令制国家を構築・完成した(大宝律令の完成は701年)。
朝鮮への侵出を阻止された日本(663年白村江での大敗、668年新羅の朝鮮半島統一)は、防御のために強化された軍事力を後に北方に向け、版図の拡大を図った。
(1)東北辺への版図拡大の諸段階
大和王権の地方支配は、東北辺では、国造制(服属した地方豪族に一定の範囲の支配を委ねる仕組み)が布かれていた地域を基盤として、7世紀半ば頃に、道奥国・越国が成立する。
道奥国の表記は、のちに陸奥国と改められるが、「それは京から東にのびる東山道の前身の道の最末端の国、いいかえれば中央政府の支配領域の最末端の国という意味である。」(『宮城県の歴史』山川出版社 1999年 P.34~35)といわれる。
図1は、『宮城県の歴史』(P.31)から転載したものであるが、これは大和王権と律令国家が7世紀半ばから9世紀の初めにかけて、評あるいは郡の設置をもって、版図拡大を進めたことを分かりやすくするために5つの地域に区分したものである。
版図拡大の第一段階は、7世紀半ばで、A区に当たる。A区は、曰理(わたり)・伊具(いぐ)・信夫(しのぶ)以南の宮城県南端と福島県域である。
第二段階は、7世紀後半で、B―1区、B―1´区である。陸奥では名取・宮城・最上以南に、越では石船(いわふね)以南に、評(こおり)が設置される。
第三段階は、710~720年代で、B―2区に「黒川以北十郡」が一斉に設置される。この10郡とは、黒川・賀美(かみ)・色麻(しかま)・富田・玉造(たまつくり)・志太(しだ)・長岡・新田(にいた)・小田(おだ)・牡鹿(おしか)の各郡である。
第四段階は、760年代いこう〜9世紀初めの頃で、C―1区にあたる。8世紀後半には桃生・栗原郡が設置される。この時代は、エミシの激しい抵抗が起こり、C区全体を巻き込んだ「38年戦争」(後述)が展開された。
越後国では、8世紀初めに越中国の頸城(くびき)・古志・魚沼・蒲原(かんばら)の4郡、さらに新設の出羽郡を管轄下に置くようになる。712(和銅5)年には、この出羽郡と陸奥国最上(もがみ)郡・置賜(おきたま)郡を併せて出羽国が建国される。出羽国は、8世紀後半には雄勝・平鹿の建郡となる。
第五段階は、9世紀初めであり、C―2区に当たる。この時期には、岩手県北上川中流域に胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波郡が置かれる。
これらの版図拡大は、エミシとの厳しい戦いを通して行なわれるのであるが、必ずしも一直線に進んだわけではない。
(2)日本型華夷秩序から内国民化へ
古代天皇制国家の東北辺での版図拡大は、「陣地戦」が基本である。それは、一方で、城柵建設や先住民との戦争によって占領地を拡大し、他方で、饗給(きょうきゅう *酒食を以てもてなし、恵みを与えること)で先住民を懐柔し、さらに先住民の生活する場に律令国家の民を植民しながら、先住民すなわちエミシを支配する政策である。
「蝦夷の場合、陸奥・越後・出羽三国の国司に特別な職掌として加えられる饗給〔きょうきゅう〕(大宝令では撫慰〔ぶい〕)・斥候・征討(職員令大国条)がその基本的方策であった。
唐の都護(とご *異民族を間接支配する都護府が辺要に置かれたが、その長官)の職掌である『撫慰諸蕃』『貼候(てんこう *敵の様子をさぐること)姦譎(かんけつ *よこしまで偽ること)』『征討携離(けいり *分断)』(『大唐六典』巻三〇)に相当するが、賜宴・賜禄を通じて蝦夷に服属を促してその政治的関係を維持・拡大し(饗給)、蝦夷の動向を常に探り(斥候)、機に応じ軍事力により服属の強制を行う(征討)というもので、饗給がその基本である。」
(熊田亮介著「古代国家と蝦夷・隼人」―岩波講座『日本通史』第4巻古代3 1994年 P.192)と言われる。
饗給は服属儀礼に伴って行なわれるものである。服属儀礼は特別には上京して行なわれるが、一般には東北辺に構築された城柵で行なわれた。
古代天皇制国家は、中国の華夷思想をまねて、日本型の華夷秩序を志向した。天皇の統治権が及ぶ範囲を「化内(けない)」とし、及ばない地は「化外(けがい)」とする。
化外は、「隣国」=唐国、「諸蕃」=朝鮮諸国、「夷狄」=隼人・南島人・蝦夷の三種とした。
日本の四夷観念については、さまざまな議論があるが、東夷=蝦夷(陸奥の蝦夷)、北狄=蝦狄(越後・出羽の蝦夷)、西戎=隼人、南蛮=南島人とみるのが有力と思われる。
だが、これらはあくまでも観念的なものである。当時、遣唐使の派遣などに見られるように、日本はつぎつぎと中華文明を取り入れている時代なのであり、唐を対等な「隣国」とするのは、願望の現われでしかない。
「諸蕃」は、具体的には新羅と渤海をさす。渤海(698~926)は、ツングース系の靺鞨(まっかつ)人と高句麗の遺民とによって創られた国である。日本はこれら「諸蕃」に対し、常に自らよりも下位のランクに置こうとする態度が強く、特に朝鮮に対する差別視は後世まで長く続いている。特に有名なのは、751年、玄宗皇帝が臨席する朝賀の式で、遣唐使が新羅の使節と席次(序列)を激しく争った事件である。
「夷狄」の南島人は、多禰(たね *種子島)・掖玖(やく *屋久島)から、現在の奄美諸島、沖縄諸島などに住む人々とみられる。隼人は、九州南部に住む先住民である。
エミシも含む「夷狄」と分類された人々は、未だ国家を持たない集団であり、律令国家は諸蕃とは異なり、日本へ併合(内国民化)する対象であった。従って、隼人にも城柵を設けて服属を迫り、大宝2(702)年、和銅6(713)年、養老4(720)年には律令国家による征討が行なわれている。
隼人の朝貢はほぼ6年ごとに行われたが、延暦20(801)年に停止された。それは、その前年12月に、大隅・薩摩両国に班田制が施行され、隼人は夷狄ではなく正式に公民として扱われるようになったからである。だが、蝦夷は最後まで日本の支配に抵抗し、律令国家の変質・崩壊の要因の一つとなったのである。
もちろん、服属させられた蝦夷も少なからず存在し、「……服属させられた蝦夷は、『蝦夷』『俘囚(ふしゅう)』という身分秩序に組み込まれた。本来の部族的集団性を保って服属したものが、『蝦夷』で君〔きみ〕(公)姓を与えられ、集団性を失って個別に服属したものが『俘囚』で吉弥侯部(きみこべ)などの部姓を与えられた。『夷俘』は身分ではなく『蝦夷』『俘囚』の総称とみるべきである。また位階および六ランクのいわゆる蝦夷爵による序列化も行われた。」(熊田前掲論文 P.192)と言われる。
(3)城柵の機能とその展開過程
城柵について、かつては砦と理解されていたが、発掘調査・研究が進む中で、城柵の中心に政庁の存在が見られるようになり、城柵は東北辺での政治工作の場と理解できるようになった。
「城柵の施設としての特徴は、中心に政庁を置き、周囲に実務官衙を配し、全体を築地塀(ついじべい)・材木塀などの外郭施設で囲むことである。城柵が外郭施設を持つのは、外観を威厳あるものにして、蝦夷に対して国家の権威を誇示するとともに、城柵が蝦夷の攻撃を受ける恐れのある政情不安定な地に設置されるからであり、それに対する防御の意味があった。
これに関するのが、城柵が軍団兵士や鎮兵によって常に防御されていたことである。/城柵には国司が派遣されて城司と呼ばれ、これらの兵士を統率するとともに、公民支配・蝦夷支配を行った。これに対応するのが国府でない城柵も国府型の政庁をもつことである。城柵の政庁は、広場を中心に、北に南向きの正殿(せいでん)を、東西に東脇殿・西脇殿を向い合せて置き、全体を塀で囲む構造を持っている。これは都の大極殿(だいごくでん)・朝堂院を簡略にしたもので、一般諸国における国府の政庁とも共通する。国府型政庁は、中央から派遣された国司が、天皇の権威を帯びつつ政務・儀式を行う神聖な空間であった。城柵の場合、そこに蝦夷が朝貢して国家への服属を誓約し、城司は天皇に代わって朝貢を受け、饗給を行った」(鈴木拓也著「律令国家と夷狄」―岩波講座『日本歴史』第5巻 200??年 P.324)と言われる。
阿部義平著「考古資料から見た律令国家」(国立民俗博物館編『考古資料と歴史学』吉川弘文館 1999年)によると、図2(同書 P.106)に示されるように、東北辺での城柵はⅠ期(7世紀後半)、Ⅱ期(8世紀前半)、Ⅲ期(8世紀後半)、Ⅳ期(9世紀初)と、展開される。
城柵の展開過程は、Ⅰ期からⅣ期までの展開をみると、日本の版図の拡大傾向を示している。だが、それは一方的なものではなく、蝦夷と古代天皇制国家との激しい戦争によるせめぎ合いであり、特にⅢ期では一進一退を繰り返した末での版図の拡大であった。
7世紀後半のⅠ期では、淳足柵(ぬたりのき *新潟市沼垂)、磐舟柵(いわふねのき *新潟県村上市岩船)、仙台市郡山遺跡が、造営されている。
『日本書紀』によると、淳足柵は647年に、磐舟柵は648年に造られ、越(こし *越国は持統朝〔686~697年〕までには、越前・越中・越後に分割される)や信濃の民が植民され、柵戸(きのへ)となっているようである。
仙台市郡山遺跡は、第Ⅰ期官衙の開始時期が7世紀半ば前後にさかのぼり、第Ⅱ期官衙の開始も7世紀末から8世紀初頭と言われる。阿部前掲論文によると、「仙台市郡山遺跡では、7世紀末の、柵木列をまわし櫓(やぐら)を林立させた方形城柵とそれに先行する七世紀後半の柵木列で囲んだ施設が判明している。」(P.105)と言われる。
『続日本紀』によると、文武天皇元(697)年10月19日―「陸奥(みちのく)の蝦夷が、その地の産物を献上した」、同12月18日―「越後の蝦夷に地位に応じて物を与えた」、同2(698)年6月14日―「越後国の蝦夷が土地の産物を献上した」、同10月23日―「陸奥の蝦夷が土地の産物を献上した」、同3(699)年4月25日―「越後の蝦夷百六人に、身分に応じて位を授けた」と、記録されている。
ここでは、丁寧には記録されてはいないが、朝貢交易においては、夷狄などからの貢物に対して、天子はその代わりに相手に賜物する。これは、一種の「公的レベルの交易」であるとみることもできる。のちに交易が盛んな時代になると、「公的レベルの交易」に付随して同道する私的商人にも、国家統制の下で交易が許される。
この時代、擦文人は、北方世界(サハリン、大陸、千島)と交易を続けるだけでなく、古代天皇制国家とも交易を行なっている。したがって、律令国家に服属した一部のエミシも、その継続を願って服属したと思われる。むしろ、服属したエミシの中で、古代天皇制国家に心服して服属した者などは、圧倒的に少数だと思われる。
したがって、交易において不正がまかり通り、収奪が激しい際には、服属したエミシでも、反乱に決起することは、十分にあるのである。 (つづく)
古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史④
版図拡大に次々と蜂起で対抗
堀込 純一
タイトル未設定
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Ⅴ エミシのテリトリー破壊に蜂起
7世紀頃、エミシはすでに農耕生活に入っていたとはいえ、それは狩猟・採集生活と融合したものであり、その生活を維持するには自然との共存・共生が不可欠である。それが律令国家の版図拡大に伴う「和人」の移植によって、原生の地を勝手に開拓され、農耕地が拡大されればされるほど、先住民のエミシと衝突するのは、理の当然である。事の正否は、「和人」の植民・侵略に責があるのであり、エミシに「凶賊」と言いがかりをつけ、侵略を続けるのは本末転倒である。
(1)709(和銅2)年のエミシ蜂起
「和人」の勝手な行動に対し、エミシの怒りは爆発し、ついに蜂起する。和銅2(709)年3月5日の記録では、「陸奥・越後二国の蝦夷は、野蛮な心があって馴(な)れず、しばしば良民に害を加える。」と述べられている。ここでは、エミシの蜂起の原因を「野蛮な心があって馴れず」としているが、それは勝手な言い草であり、「和人」の植民・開拓がエミシの生活の場を破壊していることには、一顧だにしていないのである。
そして、先にすぐ続けて、「使者を遣わして、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発し、左大弁・正四位下の巨勢(こせ)朝臣(あそん)麻呂(まろ)を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大輔・正五位下の佐伯宿禰(すくね)石湯(いわゆ)を征越後蝦夷将軍に任じ、内蔵頭(くらのかみ)・従五位下の紀朝臣諸人(もろひと)を副将軍に任じて、東山道と北陸道の両方から討たせた。そのため将軍に節刀と軍令を授けた。」(『続日本紀』―講談社学術文庫 訳は宇治谷孟氏。以下の「」での引用は特に断わりがない限り、同書。下線部は引用者がつけた)のであった。
エミシの蜂起に対する鎮圧軍の戦いが長引いたためなのか、同年(709年)7月1日、従五位上の上毛野(かみつけの)朝臣安麻呂を陸奥守に任じ、蝦夷を討つために「諸国に命じて、兵器を出羽柵に運び送らせた」。7月13日には、「越前・越中・越後・佐渡の四国の船百艘(そう)を、征狄所(せいてきしょ *エミシ鎮圧の根拠地)に送らせた。」のであった。
(2)繰り返される「和人」の植民
今回の鎮圧軍は、709年8月下旬には引き揚げたようであるが、大がかかりな制圧軍を組織せざるを得なかったため、同年9月26日、鎮圧作戦に参加した諸国の兵士で、「征夷の役に五十日以上服した者には、租税負担を一年間免除」している。
律令国家は、引き続き版図拡大を推し進めるために、和銅5(712)年の出羽国建国に続き、翌年の12月2日、陸奥国に丹取郡を建てている。
そして、和銅7(714)年10月2日、「勅が出され、尾張・上野・信濃・越後などの国の民、二百戸を割いて、出羽の柵戸(きのへ)に移住させた」のである。翌年の霊亀元(715)年6月4日には、「相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の、富裕な民千戸を陸奥国に移し住ませた」とある。出羽方面と陸奥方面の両方に、植民政策が推進されたのである。
では715年の1000戸というのは、一体どのくらいの規模の植民であろうか。「黒川以北十郡」は710~720年代に設置されたが、それは大量の「和人」の植民によってなされた。50戸=1郷であるから1000戸は20郷にあたる。のちの9世紀に、この「黒川以北十郡」の地域は32郷であるから、1000戸の植民はその約63%に当たるのである。(『宮城県の歴史』P.52)
それでも植民者の数は足りなかった。霊亀2(716)年9月23日、従三位中納言の巨勢朝臣麻呂が、次のように言上している。「出羽国を建ててすでに数年を経たにもかかわらず、官人や人民が少なく、狄徒(てきと *エミシのこと)もまだ馴れていない状態であります。しかしその土地はよく肥えており、田野は広大で余地があります。どうか近くの国の民を出羽国に移し、狂暴な狄を教えさとし、あわせて土地の利益を向上させたいと思います。」と。
この言上に対して、天皇は「これを許された。そこで陸奥国の置賜・最上の二郡および信濃・上野・越前・越後の四国の人民を、それぞれ百戸宛(あて)出羽国に付属させた。」(同前)と言われる。さらに、養老3(719)年7月9日には、「東海・東山・北陸の三道の人民二百戸を出羽柵に入植させた。」のであった。(「和人」の植民は以降も繰り返される)
(3)720(養老4)年のエミシ蜂起
律令国家の「陣地戦」の下、「和人」の大量植民と農耕地の拡大が続くことに対して、危機感を懐くエミシは、養老4(720)年またもや蜂起する。同年9月28日、陸奥国から、「蝦夷が反乱して、按察使(あぜち)・正五位上の上毛野朝臣広人(ひろひと)を殺害しました」と報告があった。これは、文献史料で見る限りでは、史上初の大規模反乱である。
翌29日、朝廷はただちに「播磨の按察使・正四位下の多治比(たじひ)真人(まひと)県守(あがたもり)を、持節(ぢせつ *天皇から節〔しるし〕を賜った)征夷将軍に任じ、左京亮(すけ)・従五位下の下毛野朝臣石代(いわしろ)を副将軍に任じ、軍監三人・軍曹二人を配し、従五位上の阿倍朝臣駿河を持節鎮狄(ちんてき)将軍に任じ、軍監二人・軍曹二人を配し、その日に節刀(せっとう *天皇が賊徒討伐のしるしとして将軍に賜った刀)を授けた」のであった。(按察使〔あぜち〕とは、畿内と大宰府を除く諸国を数か国ごとのグループに分け、その国司たちを監督する役割を持ち、719年に設置された。)
戦いの厳しさを物語るのか、同年11月26日、次のような勅が下される。「陸奥・石背(いわしろ)・石城(いわき)三国の調・庸と租はこれを減額せよ。ただ遠江・常陸・美濃・武蔵・越前・出羽の六国は、征討軍の兵士と廝(かしわで *炊事夫)・馬従(馬の世話係)らの調・庸とその出身の房戸(ぼうこ *郷戸の下の単位で、2~4の小家族で編成された戸)の租を免じよ」と。(租は田の面積に応じて課された租税。調は絹・糸・綿・布などの繊維製品を中心に鉄・塩・海産物など地方の特産物、庸は労働役の代わりに布などが納められた。)
戦いは、激烈をきわめたようである。征夷将軍・多治比真人県守、鎮狄将軍・阿倍朝臣駿河らは、翌年の養老5(721)年4月9日に、ようやく帰還した。しかし、『続日本紀』の当日条には東北辺の陸奥方面の戦いの「戦果」は、一言も述べられていない。それは、同年7月7日条の、隼人征討の副将軍らが帰還した際、「斬首した者や捕虜は合せて千四百人余りであった」という報告とは、対照的であった。
養老4(720)年のエミシの蜂起に対して、律令国家は全面的な体制立て直しを迫られたようである。「具体的には、陸奥按察使管内における調庸制の停止と新税制の施行、鎮守府および鎮兵制の成立、玉造等五柵と黒川以北十郡の成立、新たな国府としての多賀城の創建、石城・石背両国の再併合などで、おおよそ養老末年に始まり、神亀元年(七二四)頃に整えられたと考えられている。」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』吉川弘文館 2008年P.48)と言われる。
「玉造等五柵」とは、牡鹿柵・新田柵・色麻柵・玉造柵に不明の柵の5柵を指す(前号の図1を参照)。「玉造等五柵」は、「黒川以北十郡」(前号を参照)を支配する拠点となった。多賀城以前の国府は仙台市郡山遺跡にあったと考えられている。
(4)724(神亀元)年のエミシ蜂起
724(神亀元)年2月、元正天皇が譲位し、聖武天皇が即位する。だが、一月余りのちの3月25日、陸奥国から「海道(*現・宮城県北部、北上川下流域を中心とした地域)の蝦夷が反乱をおこし、大掾(だいじょう *国司の第三等官)・従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(こやまろ)を殺した」という報告が入った。
朝廷は、4月7日、「式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合(うまかい *藤原式家の祖)を持節大将軍に任じ、宮内大輔・従五位上の高橋朝臣安麻呂を副将軍に任じた。この他判官(じょう)八人・主典(さかん)八人を任じた」。海道の反乱エミシを征討するためである。
次いで4月14日には、「坂東の九ヵ国の兵士三万人に、乗馬・射術を教習させ、布陣の仕方を訓練させた。また綵帛(あやぎぬ )二百疋(ひき *布地の単位)・?(あしぎぬ *太く粗い絲〔キヌ糸〕で織ったキヌ)千疋・真綿六千疋・麻布一万端を陸奥の鎮所に運んだ。」と記録されている。
この戦いで、どのくらいの兵士を陸奥に送り込んだかは、文献史料では明らかにされていない。しかし、坂東の兵士三万が軍事訓練を行なったということは、少なくとも大規模な臨戦態勢に入ったことを示している。他方で、朝廷はさまざまな布を鎮所に運び入れている。これらは、まぎれもなくエミシたちを懐柔するための材料である。とりわけ綵帛は、美しく彩(いろど)った高級品であり、エミシたちの関心を引くものであっただろう。
さらに朝廷は、5月24日、「従五位上の小野朝臣牛養(うしかい)を鎮狄将軍に任じ、出羽国の蝦夷鎮圧を命じた。それに軍監二人・軍曹二人を任じた。」という。今度は、日本海側の蝦夷を征討しようというのである。
(5)俘囚を西国などに分散隔離
この年(724年)の11月29日、征夷持節大使・藤原宇合(うまかい)、鎮狄将軍・小野牛養らが帰還する。明けて神亀2(725)年正月22日、「(聖武)天皇は朝堂に出御(しゅつぎょ)し詔(みことのり)して、征夷将軍以下の千六百九十六人に対し、地位や功労に応じて勲位を授けた。」と言われる。しかし、ここには鎮狄将軍・小野牛養の名前は見えない。功労がなかったのである。
だが、今回の戦いも厳しいものであったことが窺(うか)がえる。それは、エミシの捕虜に対する処遇で明らかである。同じ神亀2年の閏正月4日、「陸奥国の蝦夷の俘囚百四十四人を伊予国に、五百七十八人を筑紫に、十五人を和泉監(いずみのげん)にそれぞれ配置した。」のである。
俘囚を各国に分散配置することは、文献史料上では初めてのことである。これは、侵略に対して頑強に戦うエミシの俘囚を現地に止まらせず、遠く離れた「和人」の地に分散配置し、エミシ全体の弱体化を図るものである。(これは、古代中国王朝が行なった徙民(しみん)政策を見習ったものと思われる)
だが、同年(725)年3月17日、「常陸国の百姓で、蝦夷の裏切りで家を焼かれ、財物の損失が九分以上の者には、三年間租税負担を免除し、四分以上の者には二年間、二分以上の者には一年間、それぞれ租税負担を免除した。」という記録がなされている。
エミシの反乱で、常陸の百姓が襲われたというのである。このエミシが、閏正月に諸国に移配させられたエミシの一部なのか、それとも以前から常陸に忍従し残っていたエミシなのかは不明である。
(6)陸奥と出羽を結ぶ道路開削
天平9(737)年1月23日、陸奥按察使・大野東人らが、「陸奥国より出羽柵に至る道路は、男勝(おかち *雄勝)を廻り道して行程が迂遠であります。そこで男勝村を略して直行路を貫通させたいと思います。」と言上した。
これを受けて、聖武天皇は、持節大使で兵部卿・従三位の藤原朝臣麻呂(藤原氏四家の一つ京家の祖)、副使で正五位上の佐伯宿禰(すくね)豊人(とよひと)、常陸守で従五位上・勲六等の坂本朝臣(あそん)宇頭麻佐(うずまさ)らを陸奥国へ進発させた。
多賀柵と出羽柵を結ぶ直通道路の開削作戦については、長文の「藤原麻呂の報告書」が掲載されている。
それによると、麻呂たちは2月19日に多賀柵に到着し、鎮守府将軍大野東人と会って協議する。そして、将軍大野東人は、藤原麻呂が引き連れてきた上総・下総・武蔵・上野・下野など六カ国の騎兵1000人のうち、選ばれた196人、鎮守府の兵499人、陸奥国の兵5000人、帰順した狄俘249人を率いて、2月25日に多賀柵を出発する。持節大使・藤原麻呂の率いる部隊は、459人が玉造など5柵へ配置され、残りの345人は多賀柵を鎮守した。
大野東人の部隊は、4月1日に、出羽国大室駅(最上郡玉野か)に到着し、出羽国守田辺史(ふひと)難波(なにわ)の部隊(管内の兵500人、帰順した狄俘140人)と合流する。
報告書の中には、大野東人の報告として、道路開削に関して、次のように述べられている。
東人は自ら主導して一六〇里(*約84・2キロ)の道を新たに開通させました。岩を砕いて樹を伐り、渓(たに)を埋めて峰を通すような難工事でした。賀美郡(*陸奥国)から出羽国最上郡玉野に至る八〇里は、すべて山野で、地形は険阻であるものの、人馬の往復にさほど困難はありません。玉野から賊地(*エミシたちのテリトリーのこと)の比羅保許(ひらほこ)山に至る八〇里は、地勢は平坦で危険はありません。従軍した狄俘らは、「比羅保許山から雄勝村に至る五〇余里も、その間は平坦です。ただし二つの河があって、増水するたびに船を用いて渡らなければなりません」と申しました。そして、四月四日に、賊地の比羅保許山に駐屯しました。
従来、太平洋側と日本海側とが、直接、迅速に合流してエミシ征討を行なうことが困難だった状況を打開するために、奥羽山脈を横断し陸奥国と出羽柵を直通させる道路の開削を行なったのである。これにより、征夷軍と鎮狄軍が合流して、対エミシの共同作戦が飛躍的に進むというのである。
この作戦でのもう一つの特徴は、帰順した狄俘の利用が際立っていることである。鎮守府将軍・大野東人が率いる部隊にも、出羽国守田辺難波の率いる部隊にも、狄俘軍が存在することは、前述した。
その他にも、今回の作戦については、「夷狄たちは皆疑いと恐れの念を抱いております。そこで農耕に従事している蝦夷で、遠田郡(*陸奥国)の郡領・外従七位上の遠田君(きみ)雄人(おひと)を海沿い(*太平洋岸)の道に遣わし、帰順した蝦夷の和我(わが)君(きみ)計安塁(けあるい)を山中の道に遣わし、それぞれ遣使の趣旨を告げてなだめ諭(さと)し、これを鎮撫しました。」と、報告書は述べている。
4月4日、大野東人は、突然、雄勝村侵攻を中止する。それは、田辺難波の建議に基づくものであった。田辺は、雄勝村の俘長ら3人が来降し、戦闘中止を懇願してきたことを報告し、「強圧的に侵攻すれば、俘らは恐れ怨んで山野に遁走するでしょう。」と諌めるのであった。
これまでも、「強圧的な侵攻」で、エミシたちが「恐れ怨んで山野に遁走する」ケースがあったのであろう。大野東人は、雄勝村侵攻を中止し、農繁期を理由に軍士の解散を決定するのであった。だが、奥羽山脈を横断する道路は開通し、作戦目的の大方は実現しているのである。
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/567emisi.html 【中国思想を真似て差別・野蛮視】より
堀込 純一
Ⅲ 大和王権によって差別されたエミシ
アイヌ文化の時代が確立(13~15世紀)する以前の日本古代においては、東北地方・北海道の一部の人々はエミシと呼ばれた。
『日本書紀』は、最終的には8世紀初めに出来上がっているが、その神武(架空の人物)紀の歌謡には、万葉仮名で次のように記されている。
愛瀰詩烏(エミシを) ??利(ひだり *一人) 毛々那比苔(ももなひと *百々な人) 比苔破易倍廼毛(ひとはいへども *人は云へども) 多牟伽?毛勢儒(たむかひもせず *抵抗もせず)
この戦勝祝歌の意味するところは、「エミシは一人当百(*一人で百人に匹敵する)ぐらい強い兵と人は言うけれど、来目部(くめべ *神武東征の際の神武護衛隊)に対しては、全然、抵抗しない。(だから俺らはこんなに強いのだ)」というものである。
和人が、東北地方などの人々をエミシと呼んだのは、何時頃までさかのぼれるかは不明である。だが、少なくとも『日本書紀成立』以前までには、エミシと呼んでいたことがわかる。(土橋寛著『古代歌謡全注釈 日本書紀編』〔角川書店 1976年〕によると、この歌は遅くとも5世紀頃までにはできている、と言われる。)
エミシの語義については、アイヌ語説や日本語説がある。アイヌ語説では、樺太(サハリン)方面で使用されているエンチウ(「人」の意)がエミシの語源である、というのである。だが、「現在では、エミシがアイヌ語起源の言葉でエゾと同一の語源から出たとする考えは否定されている。」(児島恭子著『アイヌ民族史の研究』吉川弘文館 2003年 P.108)という。
他方、『アイヌ民族の歴史』(関口明・田端宏・桑原真人・龍澤正編 山川出版社)の立場は、日本語説である。それは、「『ユミシ』=『弓ー師』が『エミシ』に転訛(てんか)した」(P.37)というものである。児島恭子氏は、エミシの語源については諸説あるが、「古代の日本語、としておいたほうがよいと思われる。」(同前 P.114)と述べている。
(1)差別に満ちたエミシの漢字表記
ところで、古い文献史料では、漢字で「毛人」や「蝦夷」で表記されているのが多い。
「毛人」表記で有名なのは、倭の五王の一人・武の上表文で使用されているものである。南朝梁の時代、沈約(441~513年)が撰んだ『宋書』倭国伝は、武(いわゆる雄略天皇に当たる)の順帝(劉宋最後の天子 在位477~478年)への上表文(478年)の冒頭部分について、次のように記している。
昔より祖彌(そでい *父祖)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を?(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう *歩き廻ること)し、寧處(ねいしょ *おちついて居るこ
と)に遑(いとま *ひま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。……
五代の晋の時代、劉?(887~946年)が撰んだ『旧唐書(くとうじょ)』もまた、次のように述べている。
日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在(あ)るを以て、故に日本を以て名と為(な)す。……其の国の界、東西南北各々(おのおの)数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なりと。……
これらの毛人がエミシを指すと、一般的に言われている。
児島恭子氏によると、「上表文中の『毛人』は中国の『毛民』(*中国の古典『山海経』にみえる語)をとりいれたものと考えてよいだろう。直接には中国の毛民が東北の住民だったからにほかならない。」(児島前掲書P.56)といわれる。
しかし、中国の古地理書である『山海経(せんがいきょう)』の「毛民」は、実態を正確に反映したものでなく、中国の古くからの華夷思想によって、差別の相で観念されたものである。(華夷思想は、中国の周りを野蛮人と決めつけ、東夷・北狄・西戎・南蛮の野蛮未開国と称した)
(2)『日本書紀』に多い「蝦夷」表記
「毛人」表記は、『古事記』や『日本書紀』になると、「蝦夷」に変わる。児島恭子氏によると、「蝦夷」表記は、『古事記』では1回(倭建命〔やまとたけるのみこと〕の東征―景行紀)だけであるが、『日本書紀』では、俄然(がぜん)多くなる。景行紀12回、応神紀2回、仁徳紀4回、雄略紀3回、清寧紀1回、欽明紀1回、敏達紀3回、崇峻紀1回、舒明紀5回、皇極紀3回、孝徳紀3回、斉明紀35回、天智紀2回、天武紀2回、持統紀7回である。(児島前掲書 P.50)である。
『日本書紀』の各巻の中では、斉明紀が最も多く、次いで多いのが景行紀である。景行紀の日本武尊(倭建命)は、明らかに架空の人物なので論外とすると、斉明紀(西暦655~661年)のころに、大和朝廷とエミシとの「本格的な」交渉・交流が始まった可能性が大である。
ところで、エミシの漢字表記は、「毛人」あるいは「蝦夷」である。だが、「毛人」も「蝦夷」も、人名にも使用されている。たとえば、蘇我蝦夷(そがのえみし *毛人とも表記)が有名であるが、他にも小野朝臣毛人(おののあそんえみし)、鴨朝臣蝦夷(かものあそんえみし)、佐伯宿禰毛人(さえきのすくねえみし)などである。蘇我蝦夷は逆賊であるから後に蝦夷と書かれたという説もあったが、これは俗説である。というのは、その後も、功臣にも蝦夷は人名として使われているからである。
エミシはもともと勇者の美称であったが、華夷思想が強くなるなかで、勇者は「強暴な人」に通じ、エミシがエビスに転訛(てんか *元々の音がなまって変わること)してからはもっぱら賤称として使われたようである。
〈弘法大師・空海のエミシ像〉
鎮護国家の真言宗の開祖であり、入唐の経験もある空海(773~835年)は、『性霊集』で毛人を次のように描いてる。
その中の、「野陸州に贈る歌」(小野朝臣岑守〔小野篁の息〕が陸奥守に任じられた時に贈った歌)では、日本の麗城(れいせい *美しく立派な国)三百の州。就中(このなか)に陸奥(りょくおう *むつ)最も柔(やはら)げ難(がた)し。……毛人(ぼうじん)羽人(うじん)境界(けいかい *国境)に接す。猛虎豺狼(猛々しい虎やヒョウ・オオカミ)処々に鳩(あつま)る。老?(ろうあ *老いたカラス)の目〔*エミシの目の形容〕、猪鹿の裘(かわごろも *皮製の衣服)。髻(もとどり *髪の毛を頭の上に束ねた所)の中には骨毒の箭(や)〔*骨製のヤジリに毒をぬった矢〕を挿(さしはさ)み著(つ)けたり、手の上には毎(つね)に刀と矛(ほこ)とを執(と)れり。田(た)つくらず、衣(きぬ)おらず、麋鹿(びろく *トナカイ)を逐(お)ふ。
ここでは、日本全国で陸奥が最も鎮めにくいと言い、それはエミシ(『山海経』の毛人〔体中に長毛がはえている〕や羽人〔長い羽をはやしている〕にたとえている)に境が接しているからだ、とする。そして、エミシの生活実態について、その「野蛮さ」を誇張する形で描いている。先の語句にすぐ続けて、晦(かい)とも靡(な)く明(めい)とも靡く〔*昼夜の別なく〕、山谷に遊ぶ。羅刹(らせつ *大力ですばやく、人を食する悪鬼)のたぐいにして非人の儔(たぐい)なり。時々、人の村里に来往して千万の人と牛とを殺食す。馬を走らしめ、刀を弄(もてあそ)ぶこと、電(いなびかり)の撃つが如し。弓を彎(ひ)き、箭を飛ばす、誰か敢(あ)えて囚(とら)えん。苦しい哉(かな)、辺人常に毒を被って歳々年々に常に喫(くら)わるる愁(うれ)いあり。……毛人面縛(めんばく *両手を後ろ手に縛られ、面を人に見せる)して城辺に側(そば)だてり。
ここでは、後世にまで残る歪曲されたエミシ像が描かれている。「羅刹のたぐいにして非人の儔なり」は、明らかに中傷であり、差別的な決めつけを公然と行なっている。「時々、人の村里に来往して千万の人と牛を殺食す。」は、具体的な時期と場所を示さずに一般的に描いているが、そもそも侵略を進めたのは大和王権の側からなのであり、エミシの狩猟生活を侵し(一部農耕も行なわれたが、まだまだ狩猟は重要)、生活基盤を奪い取ってきたのは和人の側なのである。
(3)中国史書での「蝦夷」表記
中国史書でも古くから「蝦夷」表記が見られる。『通典』(唐の杜祐〔735~812〕の撰)の「辺防典」では、「辺防一 蝦夷」として、「蝦夷国海島中小国也 其使鬚長四尺 尤善弓矢挿於首令人載之而四十歩射之無不中者 大唐顕慶四年十月随倭国使人入朝」と記述されている。
唐の顕慶四年とは、西暦でいうと659年にあたる。蝦夷(エミシ)が、中国史書に初めて現れるのは、この時である。
北宋時代の宋祺(998~1061年)が撰んだ『新唐書』にも、蝦夷のことについて次のように述べられている。「未だ幾(いくばく)して孝徳死し、其(その)子天豊財(あめとよたから *皇極、重祚した斉明のこと。孝徳は同母弟であり、親ではない)立ち、死し、子天智立つ。明年(*663年)、使者(*日本の遣唐使)蝦夷人とともに朝す(*朝廷に参る)。蝦夷もまた海島の中に居る。其の使者髭(ひげ *鬚)の長さ四尺許(ばか)り。箭(や *矢)を首に珥(はさ)み、人をして瓠(こ *ひさご)を載せて数十歩に立たしめ、射て中(あ)たらざる無し。」と。
この二書では、蝦夷の特徴として、①ひげが濃いということともに、②弓矢に長じていることを強調している(これは、同じ史料を出典としていると思われるが)。②については、前出の空海の『性霊集』でも語られている。
ただ、『通典』と『新唐書』では、日本からの遣唐使が蝦夷とともに皇帝に謁見した年が異なっている。
(4)日本型華夷思想の誇示
『日本書紀』斉明紀の蝦夷関連の記事で、唯一、中国史書によって「裏付け」があるのは、「五年(*659年―『通典』と一致)七月戊寅 道奥蝦夷男(をのこ)女(めのこ)二人を以(ゐ)て、唐(もろこし)の天子(みかど)に示(み)せたてまつる。」というカ所である。遣唐使が蝦夷男女2人を率いて、唐の天子に示したのである。
『日本書紀』では、この部分で割注を付け、「伊吉連博徳書曰はく」として、唐の天子が、大和の大王・重臣の様子や治安の状況を使節に尋ねた後、蝦夷のことに関しても尋ねた様子が次のように述べられている。
天子(みかど)問ひて曰(のたま)はく、「此等(これら)の蝦夷(エミシ)の国は、何(いずれ)の方に有るぞや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「国は東北に有り」とまうす。天子問ひて曰はく、「蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留(つかる)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熟(にき)蝦夷と名く。今(いま)此(これ)は熟蝦夷なり。歳(とし)毎(ごと)に、本国(やまとのくに)の朝(みかど)に入(まゐ)り貢(たてま)る」とまうす。天子問ひて曰はく、「其の国に、五穀有りや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「無し。肉を食(くら)ひて在活(わたら)ふ」とまうす。天子問ひて曰はく、「国に屋舎(やかず)有りや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「無し。深山の中にして、樹(こ)の本(もと)に止住(す)む」とまうす。
ここで、蝦夷を「都加留」、「麁蝦夷」、「熟蝦夷」の三種に分けているが、それは交流・交易や親愛度などに応じて分けられたものである。「都加留」とはほとんど交流もなく、情報も少ないようである。「伊吉連博徳の書」においても、蝦夷が狩猟民として描かれていることがわかる。
しかし、『日本書紀』のここでの記述でもっとも重要なことは、遣唐使が蝦夷の男女二名を引き連れて、皇帝に拝謁していることである。すなわち、文明が遅れたと決めつけた蝦夷(華夷思想では、狩猟民であることそのものが野蛮人の証左である)を皇帝の前に帯同して、挨拶させることは、日本が蝦夷を服属させ、教化させている何よりの証拠であり、そのように日本の文明化をアピールしているのである。したがって、逆に言えば、蝦夷(エミシ)はそれこそ野蛮人そのものでなければならないのである。 (つづく)
https://www.youtube.com/watch?v=BUE2ClUIM8A
https://www.youtube.com/watch?v=HVJyi9ca5BU&t=20s
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