② 古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史

https://note.com/zenika/n/n76b53e39c325 【古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史③】より

隋による国家統一、隋崩壊と唐王朝の興起、隋唐の高句麗遠征、新羅による朝鮮統一、大和王権の支配地での階級形成・階級矛盾など、6世紀末から7世紀にかけての東アジアの激動によって、日本は8世紀初頭までに律令制国家を構築・完成した(大宝律令の完成は701年)。

朝鮮への侵出を阻止された日本(663年白村江での大敗、668年新羅の朝鮮半島統一)は、防御のために強化された軍事力を後に北方に向け、版図の拡大を図った。     

(1)東北辺への版図拡大の諸段階

大和王権の地方支配は、東北辺では、国造制(服属した地方豪族に一定の範囲の支配を委ねる仕組み)が布かれていた地域を基盤として、7世紀半ば頃に、道奥国・越国が成立する。

道奥国の表記は、のちに陸奥国と改められるが、「それは京から東にのびる東山道の前身の道の最末端の国、いいかえれば中央政府の支配領域の最末端の国という意味である。」(『宮城県の歴史』山川出版社 1999年 P.34~35)といわれる。

図1は、『宮城県の歴史』(P.31)から転載したものであるが、これは大和王権と律令国家が7世紀半ばから9世紀の初めにかけて、評あるいは郡の設置をもって、版図拡大を進めたことを分かりやすくするために5つの地域に区分したものである。

版図拡大の第一段階は、7世紀半ばで、A区に当たる。A区は、曰理(わたり)・伊具(いぐ)・信夫(しのぶ)以南の宮城県南端と福島県域である。

第二段階は、7世紀後半で、B―1区、B―1´区である。陸奥では名取・宮城・最上以南に、越では石船(いわふね)以南に、評(こおり)が設置される。

第三段階は、710~720年代で、B―2区に「黒川以北十郡」が一斉に設置される。この10郡とは、黒川・賀美(かみ)・色麻(しかま)・富田・玉造(たまつくり)・志太(しだ)・長岡・新田(にいた)・小田(おだ)・牡鹿(おしか)の各郡である。

第四段階は、760年代いこう〜9世紀初めの頃で、C―1区にあたる。8世紀後半には桃生・栗原郡が設置される。この時代は、エミシの激しい抵抗が起こり、C区全体を巻き込んだ「38年戦争」(後述)が展開された。

越後国では、8世紀初めに越中国の頸城(くびき)・古志・魚沼・蒲原(かんばら)の4郡、さらに新設の出羽郡を管轄下に置くようになる。712(和銅5)年には、この出羽郡と陸奥国最上(もがみ)郡・置賜(おきたま)郡を併せて出羽国が建国される。出羽国は、8世紀後半には雄勝・平鹿の建郡となる。

第五段階は、9世紀初めであり、C―2区に当たる。この時期には、岩手県北上川中流域に胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波郡が置かれる。

これらの版図拡大は、エミシとの厳しい戦いを通して行なわれるのであるが、必ずしも一直線に進んだわけではない。

     

 (2)日本型華夷秩序から内国民化へ

古代天皇制国家の東北辺での版図拡大は、「陣地戦」が基本である。それは、一方で、城柵建設や先住民との戦争によって占領地を拡大し、他方で、饗給(きょうきゅう *酒食を以てもてなし、恵みを与えること)で先住民を懐柔し、さらに先住民の生活する場に律令国家の民を植民しながら、先住民すなわちエミシを支配する政策である。

「蝦夷の場合、陸奥・越後・出羽三国の国司に特別な職掌として加えられる饗給〔きょうきゅう〕(大宝令では撫慰〔ぶい〕)・斥候・征討(職員令大国条)がその基本的方策であった。

唐の都護(とご *異民族を間接支配する都護府が辺要に置かれたが、その長官)の職掌である『撫慰諸蕃』『貼候(てんこう *敵の様子をさぐること)姦譎(かんけつ *よこしまで偽ること)』『征討携離(けいり *分断)』(『大唐六典』巻三〇)に相当するが、賜宴・賜禄を通じて蝦夷に服属を促してその政治的関係を維持・拡大し(饗給)、蝦夷の動向を常に探り(斥候)、機に応じ軍事力により服属の強制を行う(征討)というもので、饗給がその基本である。」

(熊田亮介著「古代国家と蝦夷・隼人」―岩波講座『日本通史』第4巻古代3 1994年 P.192)と言われる。

饗給は服属儀礼に伴って行なわれるものである。服属儀礼は特別には上京して行なわれるが、一般には東北辺に構築された城柵で行なわれた。

古代天皇制国家は、中国の華夷思想をまねて、日本型の華夷秩序を志向した。天皇の統治権が及ぶ範囲を「化内(けない)」とし、及ば


【古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史④】より

版図拡大に次々と蜂起で対抗

                                    堀込 純一

7世紀頃、エミシはすでに農耕生活に入っていたとはいえ、それは狩猟・採集生活と融合したものであり、その生活を維持するには自然との共存・共生が不可欠である。それが律令国家の版図拡大に伴う「和人」の移植によって、原生の地を勝手に開拓され、農耕地が拡大されればされるほど、先住民のエミシと衝突するのは、理の当然である。事の正否は、「和人」の植民・侵略に責があるのであり、エミシに「凶賊」と言いがかりをつけ、侵略を続けるのは本末転倒である。

      (1)709(和銅2)年のエミシ蜂起

「和人」の勝手な行動に対し、エミシの怒りは爆発し、ついに蜂起する。和銅2(709)年3月5日の記録では、「陸奥・越後二国の蝦夷は、野蛮な心があって馴(な)れず、しばしば良民に害を加える。」と述べられている。ここでは、エミシの蜂起の原因を「野蛮な心があって馴れず」としているが、それは勝手な言い草であり、「和人」の植民・開拓がエミシの生活の場を破壊していることには、一顧だにしていないのである。

そして、先にすぐ続けて、「使者を遣わして、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発し、左大弁・正四位下の巨勢(こせ)朝臣(あそん)麻呂(まろ)を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大輔・正五位下の佐伯宿禰(すくね)石湯(いわゆ)を征越後蝦夷将軍に任じ、内蔵頭(くらのかみ)・従五位下の紀朝臣諸人(もろひと)を副将軍に任じて、東山道と北陸道の両方から討たせた。そのため将軍に節刀と軍令を授けた。」(『続日本紀』―講談社学術文庫 訳は宇治谷孟氏。以下の「」での引用は特に断わりがない限り、同書。下線部は引用者がつけた)のであった。

エミシの蜂起に対する鎮圧軍の戦いが長引いたためなのか、同年(709年)7月1日、従五位上の上毛野(かみつけの)朝臣安麻呂を陸奥守に任じ、蝦夷を討つために「諸国に命じて、兵器を出羽柵に運び送らせた」。7月13日には、「越前・越中・越後・佐渡の四国の船百艘(そう)を、征狄所(せいてきしょ *エミシ鎮圧の根拠地)に送らせた。」のであった。

(2)繰り返される「和人」の植民

今回の鎮圧軍は、709年8月下旬には引き揚げたようであるが、大がかかりな制圧軍を組織せざるを得なかったため、同年9月26日、鎮圧作戦に参加した諸国の兵士で、「征夷の役に五十日以上服した者には、租税負担を一年間免除」している。

律令国家は、引き続き版図拡大を推し進めるために、和銅5(712)年の出羽国建国に続き、翌年の12月2日、陸奥国に丹取郡を建てている。

そして、和銅7(714)年10月2日、「勅が出され、尾張・上野・信濃・越後などの国の民、二百戸を割いて、出羽の柵戸(きのへ)に移住させた」のである。翌年の霊亀元(715)年6月4日には、「相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の、富裕な民千戸を陸奥国に移し住ませた」とある。出羽方面と陸奥方面の両方に、植民政策が推進されたのである。

では715年の1000戸というのは、一体どのくらいの規模の植民であろうか。「黒川以北十郡」は710~720年代に設置されたが、それは大量の「和人」の植民によってなされた。50戸=1郷であるから1000戸は20郷にあたる。のちの9世紀に、この「黒川以北十郡」の地域は32郷であるから、1000戸の植民はその約63%に当たるのである。(『宮城県の歴史』P.52)

それでも植民者の数は足りなかった。霊亀2(716)年9月23日、従三位中納言の巨勢朝臣麻呂が、次のように言上している。「出羽国を建ててすでに数年を経たにもかかわらず、官人や人民が少なく、狄徒(てきと *エミシのこと)もまだ馴れていない状態であります。しかしその土地はよく肥えており、田野は広大で余地があります。どうか近くの国の民を出羽国に移し、狂暴な狄を教えさとし、あわせて土地の利益を向上させたいと思います。」と。

この言上に対して、天皇は「これを許された。そこで陸奥国の置賜・最上の二郡および信濃・上野・越前・越後の四国の人民を、それぞれ百戸宛(あて)出羽国に付属させた。」(同前)と言われる。さらに、養老3(719)年7月9日には、「東海・東山・北陸の三道の人民二百戸を出羽柵に入植させた。」のであった。(「和人」の植民は以降も繰り返される)

(3)720(養老4)年のエミシ蜂起

律令国家の「陣地戦」の下、「和人」の大量植民と農耕地の拡大が続くことに対して、危機感を懐くエミシは、養老4(720)年またもや蜂起する。同年9月28日、陸奥国から、「蝦夷が反乱して、按察使(あぜち)・正五位上の上毛野朝臣広人(ひろひと)を殺害しました」と報告があった。これは、文献史料で見る限りでは、史上初の大規模反乱である。

翌29日、朝廷はただちに「播磨の按察使・正四位下の多治比(たじひ)真人(まひと)県守(あがたもり)を、持節(ぢせつ *天皇から節〔しるし〕を賜った)征夷将軍に任じ、左京亮(すけ)・従五位下の下毛野朝臣石代(いわしろ)を副将軍に任じ、軍監三人・軍曹二人を配し、従五位上の阿倍朝臣駿河を持節鎮狄(ちんてき)将軍に任じ、軍監二人・軍曹二人を配し、その日に節刀(せっとう *天皇が賊徒討伐のしるしとして将軍に賜った刀)を授けた」のであった。(按察使〔あぜち〕とは、畿内と大宰府を除く諸国を数か国ごとのグループに分け、その国司たちを監督する役割を持ち、719年に設置された。)

戦いの厳しさを物語るのか、同年11月26日、次のような勅が下される。「陸奥・石背(いわしろ)・石城(いわき)三国の調・庸と租はこれを減額せよ。ただ遠江・常陸・美濃・武蔵・越前・出羽の六国は、征討軍の兵士と廝(かしわで *炊事夫)・馬従(馬の世話係)らの調・庸とその出身の房戸(ぼうこ *郷戸の下の単位で、2~4の小家族で編成された戸)の租を免じよ」と。(租は田の面積に応じて課された租税。調は絹・糸・綿・布などの繊維製品を中心に鉄・塩・海産物など地方の特産物、庸は労働役の代わりに布などが納められた。)

戦いは、激烈をきわめたようである。征夷将軍・多治比真人県守、鎮狄将軍・阿倍朝臣駿河らは、翌年の養老5(721)年4月9日に、ようやく帰還した。しかし、『続日本紀』の当日条には東北辺の陸奥方面の戦いの「戦果」は、一言も述べられていない。それは、同年7月7日条の、隼人征討の副将軍らが帰還した際、「斬首した者や捕虜は合せて千四百人余りであった」という報告とは、対照的であった。

養老4(720)年のエミシの蜂起に対して、律令国家は全面的な体制立て直しを迫られたようである。「具体的には、陸奥按察使管内における調庸制の停止と新税制の施行、鎮守府および鎮兵制の成立、玉造等五柵と黒川以北十郡の成立、新たな国府としての多賀城の創建、石城・石背両国の再併合などで、おおよそ養老末年に始まり、神亀元年(七二四)頃に整えられたと考えられている。」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』吉川弘文館 2008年P.48)と言われる。

「玉造等五柵」とは、牡鹿柵・新田柵・色麻柵・玉造柵に不明の柵の5柵を指す(前号の図1を参照)。「玉造等五柵」は、「黒川以北十郡」(前号を参照)を支配する拠点となった。多賀城以前の国府は仙台市郡山遺跡にあったと考えられている。

(4)724(神亀元)年のエミシ蜂起

 

724(神亀元)年2月、元正天皇が譲位し、聖武天皇が即位する。だが、一月余りのちの3月25日、陸奥国から「海道(*現・宮城県北部、北上川下流域を中心とした地域)の蝦夷が反乱をおこし、大掾(だいじょう *国司の第三等官)・従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(こやまろ)を殺した」という報告が入った。

朝廷は、4月7日、「式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合(うまかい *藤原式家の祖)を持節大将軍に任じ、宮内大輔・従五位上の高橋朝臣安麻呂を副将軍に任じた。この他判官(じょう)八人・主典(さかん)八人を任じた」。海道の反乱エミシを征討するためである。

次いで4月14日には、「坂東の九ヵ国の兵士三万人に、乗馬・射術を教習させ、布陣の仕方を訓練させた。また綵帛(あやぎぬ )二百疋(ひき *布地の単位)・?(あしぎぬ *太く粗い絲〔キヌ糸〕で織ったキヌ)千疋・真綿六千疋・麻布一万端を陸奥の鎮所に運んだ。」と記録されている。

この戦いで、どのくらいの兵士を陸奥に送り込んだかは、文献史料では明らかにされていない。しかし、坂東の兵士三万が軍事訓練を行なったということは、少なくとも大規模な臨戦態勢に入ったことを示している。他方で、朝廷はさまざまな布を鎮所に運び入れている。これらは、まぎれもなくエミシたちを懐柔するための材料である。とりわけ綵帛は、美しく彩(いろど)った高級品であり、エミシたちの関心を引くものであっただろう。

さらに朝廷は、5月24日、「従五位上の小野朝臣牛養(うしかい)を鎮狄将軍に任じ、出羽国の蝦夷鎮圧を命じた。それに軍監二人・軍曹二人を任じた。」という。今度は、日本海側の蝦夷を征討しようというのである。

(5)俘囚を西国などに分散隔離

 この年(724年)の11月29日、征夷持節大使・藤原宇合(うまかい)、鎮狄将軍・小野牛養らが帰還する。明けて神亀2(725)年正月22日、「(聖武)天皇は朝堂に出御(しゅつぎょ)し詔(みことのり)して、征夷将軍以下の千六百九十六人に対し、地位や功労に応じて勲位を授けた。」と言われる。しかし、ここには鎮狄将軍・小野牛養の名前は見えない。功労がなかったのである。

だが、今回の戦いも厳しいものであったことが窺(うか)がえる。それは、エミシの捕虜に対する処遇で明らかである。同じ神亀2年の閏正月4日、「陸奥国の蝦夷の俘囚百四十四人を伊予国に、五百七十八人を筑紫に、十五人を和泉監(いずみのげん)にそれぞれ配置した。」のである。

俘囚を各国に分散配置することは、文献史料上では初めてのことである。これは、侵略に対して頑強に戦うエミシの俘囚を現地に止まらせず、遠く離れた「和人」の地に分散配置し、エミシ全体の弱体化を図るものである。(これは、古代中国王朝が行なった徙民(しみん)政策を見習ったものと思われる)

だが、同年(725)年3月17日、「常陸国の百姓で、蝦夷の裏切りで家を焼かれ、財物の損失が九分以上の者には、三年間租税負担を免除し、四分以上の者には二年間、二分以上の者には一年間、それぞれ租税負担を免除した。」という記録がなされている。

エミシの反乱で、常陸の百姓が襲われたというのである。このエミシが、閏正月に諸国に移配させられたエミシの一部なのか、それとも以前から常陸に忍従し残っていたエミシなのかは不明である。

(6)陸奥と出羽を結ぶ道路開削

 天平9(737)年1月23日、陸奥按察使・大野東人らが、「陸奥国より出羽柵に至る道路は、男勝(おかち *雄勝)を廻り道して行程が迂遠であります。そこで男勝村を略して直行路を貫通させたいと思います。」と言上した。

これを受けて、聖武天皇は、持節大使で兵部卿・従三位の藤原朝臣麻呂(藤原氏四家の一つ京家の祖)、副使で正五位上の佐伯宿禰(すくね)豊人(とよひと)、常陸守で従五位上・勲六等の坂本朝臣(あそん)宇頭麻佐(うずまさ)らを陸奥国へ進発させた。

多賀柵と出羽柵を結ぶ直通道路の開削作戦については、長文の「藤原麻呂の報告書」が掲載されている。

それによると、麻呂たちは2月19日に多賀柵に到着し、鎮守府将軍大野東人と会って協議する。そして、将軍大野東人は、藤原麻呂が引き連れてきた上総・下総・武蔵・上野・下野など六カ国の騎兵1000人のうち、選ばれた196人、鎮守府の兵499人、陸奥国の兵5000人、帰順した狄俘249人を率いて、2月25日に多賀柵を出発する。持節大使・藤原麻呂の率いる部隊は、459人が玉造など5柵へ配置され、残りの345人は多賀柵を鎮守した。

大野東人の部隊は、4月1日に、出羽国大室駅(最上郡玉野か)に到着し、出羽国守田辺史(ふひと)難波(なにわ)の部隊(管内の兵500人、帰順した狄俘140人)と合流する。

報告書の中には、大野東人の報告として、道路開削に関して、次のように述べられている。

東人は自ら主導して一六〇里(*約84・2キロ)の道を新たに開通させました。岩を砕いて樹を伐り、渓(たに)を埋めて峰を通すような難工事でした。賀美郡(*陸奥国)から出羽国最上郡玉野に至る八〇里は、すべて山野で、地形は険阻であるものの、人馬の往復にさほど困難はありません。玉野から賊地(*エミシたちのテリトリーのこと)の比羅保許(ひらほこ)山に至る八〇里は、地勢は平坦で危険はありません。従軍した狄俘らは、「比羅保許山から雄勝村に至る五〇余里も、その間は平坦です。ただし二つの河があって、増水するたびに船を用いて渡らなければなりません」と申しました。そして、四月四日に、賊地の比羅保許山に駐屯しました。

従来、太平洋側と日本海側とが、直接、迅速に合流してエミシ征討を行なうことが困難だった状況を打開するために、奥羽山脈を横断し陸奥国と出羽柵を直通させる道路の開削を行なったのである。これにより、征夷軍と鎮狄軍が合流して、対エミシの共同作戦が飛躍的に進むというのである。

この作戦でのもう一つの特徴は、帰順した狄俘の利用が際立っていることである。鎮守府将軍・大野東人が率いる部隊にも、出羽国守田辺難波の率いる部隊にも、狄俘軍が存在することは、前述した。

その他にも、今回の作戦については、「夷狄たちは皆疑いと恐れの念を抱いております。そこで農耕に従事している蝦夷で、遠田郡(*陸奥国)の郡領・外従七位上の遠田君(きみ)雄人(おひと)を海沿い(*太平洋岸)の道に遣わし、帰順した蝦夷の和我(わが)君(きみ)計安塁(けあるい)を山中の道に遣わし、それぞれ遣使の趣旨を告げてなだめ諭(さと)し、これを鎮撫しました。」と、報告書は述べている。

4月4日、大野東人は、突然、雄勝村侵攻を中止する。それは、田辺難波の建議に基づくものであった。田辺は、雄勝村の俘長ら3人が来降し、戦闘中止を懇願してきたことを報告し、「強圧的に侵攻すれば、俘らは恐れ怨んで山野に遁走するでしょう。」と諌めるのであった。

これまでも、「強圧的な侵攻」で、エミシたちが「恐れ怨んで山野に遁走する」ケースがあったのであろう。大野東人は、雄勝村侵攻を中止し、農繁期を理由に軍士の解散を決定するのであった。だが、奥羽山脈を横断する道路は開通し、作戦目的の大方は実現しているのである。

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