https://www.sankei.com/article/20160504-XTSJT4OXYBNUNAYFDANQIZY3X4/ 【空海から始まった私の仏教論 司馬さんとは一時期、微妙な関係に 哲学者・梅原猛さん】より
「私の仏教論は空海論から始まったのです」。哲学者、梅原猛さん(91)にとっての空海は明快だった。
「元来、京都学派の伝統では、仏教といえば禅と親鸞(浄土真宗の宗祖)なんです。でも、空海の著書を読んで、それまで単なる貴族仏教、祈祷(きとう)仏教とされてきたのがどうもそうではなくて、これは素晴らしい人だと思った。私が仏教に目覚めたのは空海によってであり、仏教研究も空海からでした」
独創的な思想と仏教・古代研究などで知られるが、もともと西洋哲学からスタートし、行き詰まりを感じていたころ、東洋・日本思想に目を向け「思想的転向」を果たした。そのときに出会ったのが密教であり、空海だった。
著書『空海の思想について』(講談社学術文庫)では、理論人で政治家や実業家のような実際人でもあったという二面性を備えた空海の人物像から始まり、明治以降に日本のインテリに嫌われた空海、後に再発見される空海、さらに、難解な著書をひもときながらその思想に迫っていく。
空海の再発見については、仏教学者にとどまらず「湯川秀樹氏のような日本を代表する自然科学者、あるいは司馬遼太郎氏のような日本を代表する文学者に、空海がとりあげられることによって、いっそう、確固たるものになった感がある」と書いた。
「室町以前」めぐり論争
一方で、空海をめぐって司馬さんとの間が一時期、微妙な関係になったことは有名だ。改めて聞いてみると、開口一番、「いや、司馬さんには申し訳ないことをしたと思っているんですよ」と苦笑。「厳しい議論をしましたし、批判もしましたが、実際、私は司馬作品のたいへんな愛読者でしたからね。戦国時代以降のもの、特に坂本龍馬や乃木希典を描いた作品などが好きで、評価しています。乃木将軍については、不器用な人間の良さみたいなものをとてもうまく書いていてね。素晴らしい才能の持ち主でした」と振り返る。
ただ、「司馬さんは近代主義者で宗教嫌いなところがあったが、ある種の宗教性がないと室町時代以前をテーマにした小説は書けないと私は思っているんです」。
明治から昭和初期にかけて活躍した東洋史学者、内藤湖南の説として、室町時代以前は日本ではないという考え方があると指摘。「司馬さんはその影響を受けたんじゃないかと思いますが、飲み屋で会ったときに、空海のことを書きたいが、室町以前は日本じゃない、だからせいぜいその風景しか書けない、と言ったんです」。司馬さんも高く評価し、京都大教授でもあった内藤は「日本を知りたいならば、室町以降を知れば十分である」とした学者だ。
「そんなことはない、ちゃんと調べれば空海の思想について生々しく語ることはできる。ただ、空海をやるには1年はかかるだろう、もっと著書や詩を勉強してください、と私は言ったんですが、まもなく本が出ましてね。それで私は、ちょっと手厳しい批判を書いた。でも、私は(仏教学者の)鈴木大拙や(批評家の)小林秀雄も批判しましたからね。どうも私にはそういうところがあるんですよ」
「思想」か、「風景」か
その後2人は、和辻哲郎文化賞の選考委員で一緒になり、和解した。
ところが、「選考会でもまた意見が合わないことが時々あり、(もう一人の選考委員の)陳舜臣さんが間に入って、気の毒でしたねえ」と笑う。
「思想」という軸から内なる空海を追究した哲学者の梅原さんと、「風景」という外からのアクセスでその像を浮き彫りにしようと試みた作家、司馬さん-ということになるだろうか。議論を呼び、名著を生んだのも、空海という傑出した存在あってこそである。(山上直子)
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うめはら・たけし 大正14年、宮城県生まれ。京都大文学部哲学科卒。立命館大教授、京都市立芸大学長などを歴任。国際日本文化研究センター(京都市)の初代所長を務めた。『隠された十字架 法隆寺論』『水底の歌 柿本人麿論』など著書多数。平成11年、文化勲章を受章。
https://www.worldtimes.co.jp/japan/20231111-176306 【国家鎮護のため創建された東寺 空海生誕1250年、親鸞生誕850年】より
ハスの花が咲く浄土真宗本願寺派本山の西本願寺=京都市下京区
京都駅の近くにある真言宗総本山教王護国寺(東寺、京都市南区)は平安京遷都まもなく国家鎮護のため創建された官立寺院で、桓武天皇を継いだ嵯峨天皇により弘仁14(823)年、弘法大師・空海に託された。
その後、大師は伽藍(がらん)の造営に取り組み、講堂には密教の主尊である大日如来を中心に21の仏像を安置し、立体曼陀羅(まんだら)の世界を表現し、東寺の近くに日本初の私立学校・綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立し、庶民に教育の機会を提供した。
東寺長者の飛鷹全隆師
東寺長者の飛鷹(ひだか)全隆(ぜんりゅう)師によると、弘法大師は唐の長安にある青龍寺で師となる密教第七祖の恵果(けいか)に出会い、すべての命に個性があり平等であるとの宇宙の真理を習得、それを諸仏の絵に表現したのが曼陀羅である。
日本で真言密教の教理を完成させた弘法大師は承和2(835)年、高野山で入定(にゅうじょう)した。入定とは「禅定(ぜんじょう)に入る」という意味で、ことに真言宗では空海が生死の境を超えて、弥勒菩薩(みろくぼさつ)出世の時まで衆生(しゅじょう)救済のために永遠の瞑想(めいそう)に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で入定しているとされる。これが「大師信仰」で、延喜21(921)年に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られたのを機に生まれ高野聖(こうやひじり)らの活動で、空海は「お大師さま」として人々の信仰を集めるようになる。
国宝「講堂立体曼荼羅・五菩薩像」=東寺講堂
日本宗教史における空海の役割を考えると、天皇の帰依を得て後七日御修法(ごしちにちみしほ)のように仏教が朝廷の宗教儀礼に組み込まれたことが大きい。空海が2年、滞在した当時の長安は世界一の国際都市で、交易を通じてキリスト教やイスラム教、ゾロアスター教などアジアの宗教が集まっていた。空海が目指したのは密教を超えた普遍宗教で、そのため中国の道教や儒教をはじめ渡来の宗教施設を訪ね、学び、吸収している。日本古来の神道を取り入れたのも当然であった。
空海の帰国後、唐の皇帝武宗は道教に傾倒して仏教を迫害するようになり、密教は衰退してしまう。残ったのは、山林に逃れ、自給自足してきた禅宗と念仏を唱える浄土宗で、中国密教は日本に渡ることでその命脈を保てた。
今年は真言宗では空海生誕1250年だが、浄土真宗では親鸞生誕850年。仏教の最後に現れた大乗仏教の最終ランナーが密教で、チベットと中国に伝わり、後者が空海を介して日本に届き、教義として社会的宗教として定着した。
大師信仰が庶民にも浸透していくのに活躍したのが高野聖で、興味深いことに彼らは念仏を唱えながら弘法大師の功徳を説いた。救いの実感、仏恩を感じるのに、それが最も効果的だったからである。
浄土真宗は信者数では日本最大の宗派で、「南無阿弥陀仏」を広めた第一の功労は時宗の一遍とされる。伊予の水軍、河野氏の生まれで、武家を継がず浄土宗に帰依し、宇佐神宮の八幡信仰や熊野信仰も吸収しながら、遊行(ゆぎょう)の途上で自然に生まれた「踊り念仏」が一世を風靡(ふうび)した。時宗は鎌倉仏教の最終ランナーで、密教と同じくそれまでのすべての教えを集約する役割があるのかもしれない。ちなみに、空海も一遍も四国の生まれである。
一般的に、釈迦(しゃか)の教えに最も近いのが禅宗で、最も遠いのが浄土真宗と言われる。しかし、釈迦は親鸞と同じことを言っている。釈迦がいなくなった後、どう生きればいいのかと聞く弟子に、釈迦は「自燈明、法燈明」と答えた。自分自身を灯(ともしび)とし、宇宙の真理に従えとの意味。「私のように生きなさい」と言ったのではない。
親鸞の弟子唯円(ゆいえん)が書いた『歎異抄(たんにしょう)』によると、どうしても阿弥陀如来の救いが信じられないと言う唯円に親鸞は、「私もそうだ」と答えている。それは、自分で探求し、体験し、それぞれの境地にたどり着くしかないからだ。
明治以降の近代化を急ぐ日本で、親鸞の教えが若者の心を捉えたのは、近代的自我の確立と軌を一にしていたからである。
奈良・平安時代の鎮護国家の仏教が、江戸時代に政治に組み込まれて「寺の宗教」になり、明治になって「私の宗教」として定着して今日に至る。それが空海から親鸞への日本仏教の歩みと言えよう。
(多田則明)
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