ナガスネヒコ

https://note.com/jomonpeace/n/n25f3e1a3ce96 【ニニギ尊とニギハヤヒは飛騨王朝出身?① ~争いを好まず、東北に向かったナガスネヒコ?!~】より

縄文を調べていると、必ず登場する4人の人物がいます。

ニニギ命とニギハヤヒ命、そしてナガスネヒコ。あと、神武天皇。

飛騨の伝承では、ニニギノ命とニギハヤヒ命、神武天皇は飛騨族出身。

約2000年前、ニニギ尊、ニギハヤヒ、そして神武天皇の3人により、「日本」が誕生します。しかし縄文後期、大和には先住民ナガスネヒコがいました。神武天皇はナガスネヒコを破り、初代・天皇として即位します。

これがヤマト王権の始まりです。

その前に、この4人はどういった人物なのでしょうか?

ざっとまとめてみました。

・ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)

アマテラスの孫で、宮崎の高千穂に降臨した天孫降臨伝説は有名。ニニギ

という名は「天地が豊かに賑わう神」を意味し、降臨の際、稲作を地上にもたらし、産業における農業の神としての性格面が強い。このため御神徳には、五穀豊穣や商売繁盛の他、国家安寧、殖産振興などがある。

・ニギハヤヒ(邇芸速日命)

ニニギ命より先に天降りしていた伝承をもつ。祭祀を司どる物部氏の祖神であり、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されている。「日本」の名付け親ともされ、大和国(近畿地方)に稲作文化を伝えたとされる。

・ナガスネヒコ(長髄彦)

日本神話に登場する伝承上の人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。神武天皇との戦い(神武鎮圧)に敗れた。

・神武天皇(飛騨口伝では、名前はサヌ)

奈良盆地一帯の指導者のナガスネヒコらを滅ぼして一帯を征服し、大和を鎮圧した日本国の創始・初代天皇。アマテラスをはじめとする天津神の末裔。

しかし、近畿一帯の指導者ナガスネヒコは、本当に神武天皇に敗れたのでしょうか?神武天皇とナガスネヒコが衝突したのは、大阪の生駒山。

生駒に伝わる「生駒神話」によると、ナガスネヒコは争いを好まず、近畿を去り、東北地方に落ち延びたことになっています。

さらに詳しく調べると「ナガスネヒコと同盟と組んでいた、ニギハヤヒ尊が神武天皇に味方したため、結果的に、ナガスネヒコは敗れた」とあります。

ニギハヤヒが神武天皇に味方した理由は、二人が同族だったから。

飛騨口伝では、ニギハヤヒとニニギ尊。ニニギの孫の神武天皇が飛騨出身。

今回はそんな飛騨から天孫降臨した王子たちと、争いを好まなかった?縄文系王族・ナガスネヒコの謎解きがテーマです。

目次

・ニニギノ命とニギハヤヒは飛騨出身?~古事記は飛騨から~

・飛騨から九州に向かったニニギ尊

・飛騨から近畿地方に向かったニギハヤヒ命

・同族の神武天皇を選んだ?!ニギハヤヒ命?

・ニギハヤヒとナガスネヒコの子孫は藤白神社の宮司の家系! ~熊野口伝~

・ナガスネヒコの血脈を誇りにする秋田氏 ~縄文系氏族~

・ニニギノ命とニギハヤヒは飛騨出身?~古事記は飛騨から~

ナガスネヒコ(長髄彦)は縄文ファンの間で有名な人物。

今から約2000年前、神武天皇が軍を率いて近畿地方にやって来た際、すでに近畿地方には、大和を治めていた指導者がいました。

それが、ナガスネヒコと、その顧問をしていたニギハヤヒ命です。

ニギハヤヒ命は神武天皇と和睦します。ですがナガスネヒコは神武天皇と戦い、敗北して殺害されたとも・・。

なぜニギハヤヒは神武天皇と争うことなく、すぐに和睦したのか?

それは、神武天皇とニギハヤヒは同族だったから。

縄文後期、朝鮮半島や大陸からさまざまな渡来系民族が日本にやってきました。彼らの中には、あまり性質の良くない民族もいたと言います。

そんな渡来系民族が日本に住みじめ、今後の日本の未来を心配した飛騨族たちは、平和な日本の国造りをしようとします。

なぜ飛騨が日本統一を願ったのか?

それは天孫降臨を、一番最初の行ったのが飛騨族だったから・・。

飛騨王朝はもとは乗鞍岳のふもとにあったと伝えられています。

乗鞍岳は古くは、「位山」という呼び名でした。

そして朝廷が日本最古の歴史書物「古事記」をつくる際も、飛騨の口伝をもとに、古事記がつくられます。

奈良時代の7世紀後半の天武朝に天皇の命を受けて、飛騨出身の稗田阿礼(ひえだのあれ)を古事記作成のため呼び寄せます。

そして稗田阿礼が記憶していた歴史をもとに、太安万侶(おおのやすまろ)が古事記を作成していきました。

当時の朝廷が「日本の縄文史は飛騨が知っている」と確信する何かがあった。だからこそ、飛騨出身の阿礼の口伝をもとに、古事記がつくられます。つまり日本の真の古代史は飛騨に隠されている、といえるのかも・・。

そんな飛騨口伝では、縄文後期、飛騨王朝は、平和な「日本」の国家成立を直系の王子を二人、各地に送り出します。

一人は九州に派遣し、もう一人は近畿地方に・・・。

その二人の王子が、ニニギノ命と、ニギハヤヒ尊。

飛騨から旅立った二人の王子が、これらの地方に降臨したことを、「天孫降臨」と呼ぶようです。

・飛騨から九州に向かったニニギ尊

まず九州地方に行ったのが、ニニギノミコト。

宮崎の高千穂に降臨した天孫降臨伝承は有名です。

ニニギ尊はアマテラスの孫となっています。

ニニギ尊は九州地方を一つにしようとしますが、時間がかかってしまい、生きている間にはできませんでした。

それを成し遂げたのが、ニニギ尊の孫のサヌであり、のちの神武天皇。

サヌは九州を治めた後、飛騨との約束通りに、近畿地方に向かいます。

・飛騨から近畿地方に向かったニギハヤヒ命

次に飛騨から近畿地方に行った王子が、ニギハヤヒ命。

飛騨の口伝では、ニギハヤヒとニニギ尊は兄弟です。

熊野の口伝では、神武天皇は九州を鎮圧した後、中国地方で数年間滞在します。その後、神武天皇は近畿地方に向かいます。

ですが神武天皇が近畿地方に向かった頃、すでにその地方を治めていた豪族がいました。それがナガスネヒコ。

熊野の口伝では、ニギハヤヒは(大きな行政組織の)顧問をして、ヤマトに入る前は、藤白(和歌山県海南市)にいました。

ニギハヤヒはナガスネヒコの娘と結婚して、子供も何人もいました。

その後、ナガスネヒコの勢力拡大に伴って、ニギハヤヒは子供二人を残し、ヤマトに移ります。

一説によると、ナガスネヒコは、出雲出身。またナガスネヒコは天孫降臨以前の、天皇家より古い氏族となります。

・同族の神武天皇を選んだ?!ニギハヤヒ命?

ちなみに、ニギハヤヒが妻に迎えたナガスネヒコの娘が三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)。(※日本書記では、三炊屋媛は妹となっています)

ですが、ニギハヤヒは神武天皇がやってきた際、妻の父であるナガスネヒコではなく、神武天皇を支持します。

同盟関係にある義理の父よりも、ニギハヤヒは、同じ飛騨族出身だった神武天皇をとったということになります。

ですが、妻の父を殺すことはできなかった・・。なので殺したふりをして、ニギハヤヒは、こっそりナガスネヒコを東北地方に逃がしたとか?!

まとめると、「日本」という国は、約2000年前の縄文後期、ニニギノミコト、ニギハヤヒ、そして神武天皇(サヌ)より誕生します。

そして、敗北したナガスネヒコは東北地方に向かい、そこで縄文系王国をつくったと言われています。この伝承が伝えられているのが、生駒(いこま)山に残る、「生駒神話」です。

そして天孫降臨とは、飛騨族出身のニニギ命とその子孫の神武天皇のこと。

これら飛騨族出身の王子が九州と近畿に降り立ち、ヤマトという国づくりがはじまった・・。それが意味するのは「天孫降臨」は飛騨から始まったということであり、それゆえ、朝廷が古事記もつくる際も、飛騨の口伝を参考につくったのかもしれません。

つまり「日本」誕生は「飛騨」から始まったという説です。

・ニギハヤヒとナガスネヒコの子孫は藤白神社の宮司の家系! ~熊野口伝~

ニギハヤヒ尊がヤマトに移る際に、藤白に2人の子供を置いてきたという言い伝えが熊野に残っています。そして現在も、ニギハヤヒと三炊屋媛の子孫は続いているそうです。その子孫が、和歌山県の藤白神社の宮司。

三炊屋媛はナガスネヒコの娘なので、藤白神社の宮司の家系は、ニギハヤヒとナガスネヒコの両方の血脈を受け継ぐことになります。

ですが戦時中、ナガスネヒコは神武天皇に逆らった朝敵とされ、ナガスネヒコの子孫たちは肩身の狭い思いをしました。

そのために、先祖の名前から「ナガスネヒコ」の名前を外す旧家もあった、と熊野の口伝は伝えます。

実際に調べたところ、藤白神社の宮司の先祖は、ニギハヤヒ(饒速日命)のみ記され、ナガスネヒコの記述はありませんでした。

藤白神社 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

・ナガスネヒコの血脈を誇りにする秋田氏 ~縄文系氏族~

しかし東北地方には、落ちのびたナガスネヒコが先祖であることを誇りにする一族がいます。それはナガスネヒコと、その兄の子孫・・。

一説によれば、ナガスネヒコは東北で王国を築きます。

中世になっても、ナガスネヒコの子孫の中には、東北の覇者になった氏族が存在し、現在もその家系は続いています。それが秋田氏。

秋田県の地名の元になった氏族です。

ナガスネヒコの血脈を受け継ぎ、天孫降臨以前の氏族であることを誇りにする秋田氏・・。

しかしそんな秋田氏は、明治時代、宮内庁からやんわりと?プレッシャー(圧力??)のようなものを受けたと言います。

次回は、争いを好まず、東北に移り住んだナガスネヒコと、その子孫・秋田氏の誇りについて書いていきます。


http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-312.html 【地名が語る日本のルーツ 12 神武天皇と戦ったナガスネ彦とは?】より

地名が語る日本のルーツ

今回は前回の続きとなる、神武天皇と戦ったナガスネ彦について語らせて頂きたいが、この人物は神話の中に登場するのだが、長髄彦と記述されており、長い髄(スネ)を持った人物とされるのが一般的である。記紀には登美能那賀須泥彦(トミノナガスネヒコ)、あるいは登美彦として載っているが、その官名であるトミノナガスネヒコに豊日(トビ)之長(ナガ)津兄(ツネ=之ケイ=之軽)彦と此方で勝手に当て字してやれば、豊日長津軽彦となり、その名は間違いなく長柄(ナガラ)豊崎(ホザキ)宮から軽(ケイ=カル)津の蝦夷にまで結び付き、結局孝徳天皇の別名でもある「天万豊日天皇」の名にまで結び付くのである。尚、トミという地名は、「十三」と書いてジュウソウと読む大阪にも分かり易く残っているが、これもトミ=豊日の名残と思って頂いてもよいだろう。一部の風土記にナガスネ彦は東北の津軽に逃げたとされているが、この時点ではまだ東北までには逃げていない筈である。この津軽は軽の津(毛ノ津)であり、今の毛間橋辺りと考えられるが、このストレートに発音した毛間(ケイマ)を軽国(ケイマ)と当て字するだけで、自分の描いたストーリーも信憑性を帯びてくるのである。取り敢えず地図は載せたので、気になる方は一度場所を確認して頂きたい。

         難波長柄豊崎宮推定地長柄豊崎宮推定地

陸奥とされるむつ(六)国は、今の東北青森県で津軽地方に当たるが、リクオウの国(六合国)、あるいはミチハセ、ミチノクとも呼ばれ、古くは蝦夷(エミシ=カイ)の国とも呼ばれた。蘇我氏一族は間違いなく長い年月を経て、この津軽の国まで逃れていたのである。近畿中央政権からすれば、鬼門とされる東北は、いわゆる倭人(オニン=鬼)との領域を遮るものであり、その復讐に恐れをなした中央政権によって、初めて鬼門という言葉が生まれたとも考えられるのだが、推測の域は出ないものである。次の政権である天智天皇は、蝦夷の都からは東北に当たる、「近江神宮」に都を移しているのであるが、蝦夷一族はよほど忌み嫌われたのであろう、、、、

ちなみに大阪の天満(テンマ)、そこには長柄も豊崎も桜ノ宮(=倭ノ宮)も未だ地名として全て残っており、孝徳天皇=ニギハヤヒの都は、逃亡するまでは難波長柄豊崎宮の名が語るように、間違いなくこの大阪(倭坂)の地にあったという事になるのである。もちろんそこからの逃走経路には、鳥見(トミ)の白庭山(=ハクデイと発音すれば百済のハクゼイ)、あるいは富雄(トミオ=豊日王)といった色んな地名を奈良県に残しているが、その途中にあって法隆寺のある斑鳩(イカルガ)は降臨地(=天下り地)ともされている。ちなみに「斑鳩」はイカルと呼ばれる鳥の名前、これをなぜイカルガと読むのかずっと謎であったが、イカルは倭軽(イカル=オオカル))と当て字が可能、更にガを毛(ケ=ギ)と当て字すれば王(ギ)、即ち倭軽王(イカルギ)の名が完成する。これは倭坂(オオサカ=倭速日)王であった「倭」と、軽王(毛王=エミシ王)と呼ばれた「軽」の頭文字で、当然豊日彦の別称でもある。仮に斑鳩をマダラキュウとそのまま読めば馬大国(マダラ)宮(キュウ)となり、ここでも馬子はウマで大国(倭国)主の意味、やはりどこまでいっても馬子(ウマコ=ウマシマジ)は厩戸(ウマヤド)皇子で、全て聖徳太子に結び付いてしまうのである。

更にこの斑鳩の地は聖徳太子が明日香より移り住んだ地ともされているが、明日香と斑鳩のどちらが先としても、その逃亡先には変わらないと思えるし、孝徳天皇(=用明天皇)の皇子が厩戸皇子(聖徳太子)とされる史実を思えば、皇子が逃亡先となった斑鳩に宮殿を新たに興したというべきかもしれない。どちらにしても、これらは全てニギハヤヒが逃亡中に移動した証拠ともいえる地名なのである。これでお分かり頂けたとは思うが、ニギハヤヒもナガスネ彦もアベノヒラブと戦った同一人物なのである。もっと正確に言えば、ニギハヤヒはこの蘇我氏親子の事件や業績がそのまま投影されたものであり、この後に触れる事になるウマシマジの帰順(裏切り)を思えば、聖徳太子(ウマシマジ)がニギハヤヒで、孝徳天皇(蘇我蝦夷)がナガスネ彦であった可能性も充分有り得るのである、なぜなら上に登場した人物は全て官名であり個人名ではないからである、、、、、何とか真相を解明したいのだが、ニギハヤヒに興味を持って今日に至るまで、情けないが既に数十年も経ってしまった。素人研究家ではここまでが限度といったところか、、、、

逃走先である飛鳥(=アスカ)はそのまま読めばトビトリとしか読めないが、「飛」を豊日(トビ)と当て字し、「鳥」をオと発音すれば正しくトビ王(=豊日王)、これは紛れもなくトビ彦のトビであり、神話の中で少し脚色された感のある、神武天皇を導いたとされる金色(コンジキ=チン之王)の鳶(トビ)の呼称は、もちろん天万(テンマ)=天神(テンジン=金神=コンジン))とされる豊日(=トビ=鳶)王もの、神武天皇(天智天皇)に帰順し、それを導いた金の鳶(とび)とされるものは、決して鳥ではなく登美(トビ)彦、即ちトビノナガスネ彦という事になり、それは帰順を示したウマシマジ(馬子=大国皇子=有馬皇子=聖徳太子)という事にもなるのである。ニギハヤヒ=ナガスネ彦は明日香で仮の都を設立したが、神武天皇を助けた金の鳶が物語るように、最終的には政権を渡して天智天皇の軍門には下ったのである。倭国はこの時点で、政権は新羅王である天智天皇に奪われ、人民も官僚も天智政権に組み込まれていったと思われるが、倭国の本体でもある蘇我氏は、明日香で反撃の機会を密かに狙っていたと思われる。それがこれから後に続く、古代史上最も有名な「壬申の乱」という事になるのであるが、これは倭国が日本という国に統一される為の最大の事件!その模様は何れかいつまんでお話する事になるが、スサノオが邪馬台国の政権を奪う以前の話、あるいはスサノオにとっては最重要人物となる、丹波道主王の業績など、まだ語り足りない部分も多く残っているので、次は大化の改新からは400年も遡る事になる、この二王の話をさせて頂きたい。

https://www.youtube.com/watch?v=nbGt4PmhCvg

https://www.youtube.com/watch?v=PXa6QH0oYs4

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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