https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12242632178.html 【「出雲と蘇我王国」 ① 吉備と物部東征】より
さて、タイトルを変えてみました。、「出雲と蘇我王国」という本についてですが、記事の引用は「出雲と大和のあけぼの」からもあります。
出雲の伝承を考慮すると、吉備から出雲を攻めたのは2回あった事になります。同じく、九州の物部が東征したのも2回あったようです。
1回目は、孝霊天皇の時。村雲系の王朝だった吉備王国は、銅剣などの資源を求めて出雲(国)へ圧力をかけていた。前にも書いたかもしれないが、この年代を「出雲と大和のあけぼの」p105では、147~188年(倭国大乱)にあてている。
<→追記2017.6.2:孝霊天皇が、播磨に侵入したヒボコを追い払いついでに吉備にも進軍したらしい。孝霊の息子・吉備津彦。この人の墓と呼ばれる吉備の中山は、西暦200年頃のもの、という事になるか。合わせて、吉備津彦の姉とされるモモソヒメもこの頃の人。もし箸墓がモモソヒメの墓というのなら、その墓はやはり200年頃のものになるか。大和から吉備を攻め、吉備津彦が吉備王国を作ったのなら、その実家である大和にも特殊器台が出る可能性はある。吉備と大和が同一文化圏となるからだ。また、吉備津彦が侵入する以前の吉備は、楯築遺跡や鯉喰神社にみられるように特殊器台全盛期の王国があり、また吉備と出雲の古墳からの出土遺物の類似性から一時期に親族であったと考えられ、このことは、吉備は出雲のエリアと考えていた、という斉木氏の伝承も裏付けられる。で、私がここで書きたかったのは、鯉喰神社にある墓などの年代が非常に曖昧である、と以前ブログに書いたが、出雲伝承を参考にすれば、この墓は倭国大乱147~188より前のもの、という事になり2世紀前半以前の年代があてられる事になる。 >
吉備王国は葛城王国と匹敵するほど強くなり、大和内(本州?)に国主がいない状態となった。(九州ではわからないが、そちらもそうであろうか?)
出雲・吉備を休戦状態に追い込む為?に、大和の富氏は、当時、九州から紀伊熊野に移住していた物部氏を大和に引き入れる事にした。
「出雲と大和のあけぼの」P115付近
これより前、除福の次男系の子孫・五瀬とウマシマチは物部王国の遷都の計画を立て、好機を狙っていた。葛城王国が内乱状態になると進軍を開始した。進軍経路は、有明海から薩摩半島に抜け、四国の南、土佐を過ぎる。(瀬戸内海は、吉備王国から攻められる恐れがあるから避けた。)物部軍が通過し名前がついた土佐湾の物部。物部王国のシンボルは大型銅矛だったが、移住に際してシンボルを銅鏡に変えることにした。
船団は紀ノ川を遡ろうとしたが、葛城王国(紀国の高倉下系か)の軍勢が現れて、熊野へ向かった。だが夜討・朝攻めのゲリラ攻撃を受けた。
→はっきり書いていないのですが、これが第一次物部東征という事になりそうです。物部ウマシマチはすぐに大和入りしたわけではなかったようです。で、上記のように、大和内部の富氏(ヤタガラス)の手引きで、機会を得、東からさしたる戦闘もなく宇陀から侵入し、橿原の宮で即位した、、との事。
ここでの年代はいつ頃なんでしょうかね?東・西出雲国、吉備と物部王国があった事を考えると、まだ倭国大乱中、という所でしょうか。147~188年(倭国大乱)。「出雲と大和のあけぼの」p135にはそうであるらしい事が書いてあります。
<→2017.6.2追記:九州での徐福の居住地は吉野ヶ里であると斉木氏は書いています。で、吉野ヶ里を調べると吉野ヶ里は弥生終末期に突然、集落が終わっているらしいです。古墳時代には墓しかない。これは、物部氏の集団が遷都して移住した伝承と一致するでしょうか、そしてこの集団が、布留式土器を持ち込んだ事になるのでしょうか。>
また、「出雲と蘇我王国」には、夫(九州の日向にいた崇神天皇)の意志を継ぎ、物部第二次東征を計画したのは卑弥呼だと書かれています。(p44)
とするならば、第一次東征を計画したのは、日向にいた崇神天皇という事になりますでしょうか。けれど、崇神天皇は短命で日向で亡くなったようです。とすれば、ウマシマチは、これとは別の、将軍クラスの人物、という事になるでしょうか。尚、この後に出てくる垂仁天皇(イクメ大王)は九州の日向から大和征服した大王(物部第二次東征の一派)ですが、彼の侵入経路は瀬戸内海~生駒山なので、ウマシマチとは別の航路・指揮官だとわかります。
p43~44辺り<第一次東征は、巫女のいない物部勢力が、大和磯城政権の三輪山太陽神の巫女の権威に、太刀打ちできずに失敗した、とも言える。崇神天皇は、九州・宇佐で人気のあった月神信仰の豊王国の巫女を迎える為に、豊魂姫(卑弥呼)を妃とした。崇神天皇は短命だった為、卑弥呼は皇太后として女王として君臨した。卑弥呼は崇神天皇の意志を継いで、物部第二次東征を行い、大和の磯城王朝を倒し、新しい王朝をつくる計画を立てた>
これを読むと、やはり、第一次物部東征を計画したのは、日向の崇神天皇だとわかります。進駐軍は熊野でとん挫してしまったので、今度は軍の結束を謀るべく、宇佐の卑弥呼と結婚した事がわかります。
尚、この二人の間には、豊来入彦・豊来入姫がいるそうです。豊来入姫=大和入りしたトヨ、だそうです、魏志倭人伝に出てくる。
一次と二次の東征には、たいした時間差はないとも思われます。本には、卑弥呼の度重なる中国への朝貢の目的は、「豪族に与えて味方に加える為の銅鏡(三角縁神獣鏡ではない)と、戦争に使う幡を貰う為」と書かれています。物部・豊連合王国を強化するため、女王は各地の有力者を都に集めた。その朝貢の通訳としてタジマモリ(難升米)が採用された。
また、武内宿禰はもともと、高倉下の子孫なので磯城王朝系だが、父方の祖母(イカガシコメ?)が物部氏だったので「載斯烏越(ケシウエツ)」として朝貢に同行した、そうだ。しかし、朝貢では卑弥呼により軽く扱われ、魏国から良い位を貰えなかった。ので、帰国後、父の磯城王朝大和側に鞍替えしたという。そして、磯城王朝の為に、三角縁神獣鏡を量産させた、という。
→物部一次東征で、紀ノ川の名草あたりで戦闘になったウマシマチの相手は、高倉下の葛城軍だと思われる。その勢力である武内宿禰に、卑弥呼が高いポジションを与えるはずはない。また、武内の後の行動から推測すると、あらかじめスパイとしてこの朝貢に参加した可能性も捨てきれない。ただ「宿禰」というのは物部王朝から与えられた称号らしい。「三角縁神獣鏡を量産させた」という記述については、古墳から発見されるのは4世紀なので、年代的にどうかな、、、、とは思う。
もしこの伝承が正しいのであれば、三角縁神獣鏡が量産され各豪族に配られたのは3世紀の第三四半期ころから、となろうか。
p45
<第二次東征は瀬戸内方面と山陰側とに分かれて進軍した。東征軍総指揮者の卑弥呼は、途上で病にかかり安芸の宮島で没した。その後、宇佐の本殿中央の二之間に姫神としてまつらた。>
→これは、アカルヒメさんの伝承と一致する。それっぽい石棺も確認されている事から、卑弥呼の埋葬地は宇佐神宮の第二殿でいいんではないでしょうか。この頃が、西暦250年頃。
p45
その後、軍を率いたのは崇神天皇の息子・垂仁天皇。垂仁天皇は、宮崎の生目でうまれたのでイクメ大王と呼ばれたそうだ。母は卑弥呼ではなく、薩摩のアタツヒメだという。
垂仁天皇は吉備王国の征服を目指した。(つまり瀬戸内海を進軍した、という事になる)
山陰道は日矛系のタジマモリと攻撃軍本隊・物部十千根。ここで出雲は国譲りさせられる。
→吉備王国進軍の垂仁天皇はどうなったのだろうか?はっきりとは書いていない。だが、
p48
物部東征軍は最後の上陸戦を河内で終えた。大王の彦道之宇斯が和邇を都として勢力を持っていた。その都の跡には、今は和邇下神社が鎮座している。物部軍は和邇を目指して、生駒山地に進んだ。その(生駒山)の東の佐保川方面には、大王の兄弟・佐保彦の大軍が守備していて、容易に進軍できなかった。イクメ大王(垂仁)が長くその山地にとどまったので、生駒山という。
→さて、上の記述によると、垂仁天皇は吉備を征服したのち?、またはそこを通過して?大阪に上陸し、生駒方面から和邇を目指した事になる。物部一次東征では、橿原で即位したウマシマチの勢力がいたはずなのだが、全く出てこないとなると、ウマシマチは吉備王国の目をそらす為に一時的に大和に侵入しただけで、すぐに熊野に後退し、<物部一次東征は失敗>した事を裏付ける。ウマシマチが大和・橿原に物部王国を築いていたのなら、近くの和邇や佐保に磯城王朝の大王がいるはずがない。
また、磯城王朝最後の大王・彦道之宇斯は「丹波道主王」「丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうし/たには-)」と表記されるが、旧事本記では、「彦多津彦」と記され、稲葉国に追われて稲葉国造になったという。(p57)
→2017.6.2追記:
上記の記述と矛盾しますが、ウマシマチの大和侵入後、磯城王朝が残るシナリオはあります。ウマシマチが磯城王朝の女性をめとって大王になる事です。
うーん、それが和邇氏のヒントなのでしょうか?
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12242937379.html 【「出雲と蘇我王国」 ② 吉備と物部東征】より
出雲攻めと物部東征が何回あってもいいじゃないか、、、2回位あったんじゃないの?と思われる人も多いと思います。でも、私は気になります。
それは、これらの伝承を通じても、まだ日矛系伽耶勢力について、十分に書かれていないのではないか、と思ってしまうからです。
1回目の出雲攻めは天村雲系。でも、これは国譲りまでいきません。
2回目の出雲攻め。これは、物部十千根とタジマモリ(日矛系)の九州・山陰方面からの進軍。しかし、タジマモリの日矛系は、東出雲を攻めたのち、大和・田原本町・但馬を一時占拠しますが、出雲のノミノスクネによって河内や淡路島に追いやられた。(p50)
私が気になっているのは、「謎の出雲帝国」で、
・吉備氏が天日矛の後裔である ・気比神社の祭神が天日矛である事
p183<ヒボコ族=息長氏=吉備氏=角賀氏、気比神社を立てたのは角賀氏>
息長帯姫の系譜は、母(葛城高額姫)方が但馬の日矛系、父(息長宿禰王)方が息長氏、つまり姫は父方の姓を名乗っているのです。息長という姓は、息長宿禰王の3世前の彦坐王(の妻)のあたりから現れる名前です。
天村雲の吉備王国がどのように大和朝廷の配下になったのか、出雲の伝承ではわかりません。(本当はあるのに知らされていないだけかもしれません)
垂仁天皇は、村雲の吉備王国を攻める前に、大和に行ったのか。
だとすれば、大和から吉備を攻めた事になる。「謎の出雲帝国」p174では、
<私は神床家の伝承や、吉備津神社の社伝、大和の大兵頭神社の祭神などから、日矛のルートは、新羅ー出雲ー出石ー近江ー大和ー播磨ー吉備であったと考えている>と書かれている。
また、「出雲と大和のあけぼの」p109には、
<日矛の命の名前が歴史に残ったのは、子孫に、日向国西都原の王者・沙穂彦と、有名な息長帯姫が品陀和気を産んだから>というような神床氏の言葉が載っている。
日向国西都原の王者・沙穂彦って誰?
日矛が最初に来たのは紀元1世紀だという。
その後、播磨に侵攻し、孝霊天皇に追われ、その一部の勢力が日向に逃げ込んだのは2世紀後半~3世紀初頭だろうか?
畿内の箸墓と吉備の浦間茶臼山と宮崎の古墳の相似性。
木槨墓 ②
<西都原81号墳は調査の結果、奈良県纒向石塚とほぼ等しい比率をもつ墳形を確認した。本墳の築造時期は3世紀後葉と推測される。>
ヒボコの勢力はこの辺に逃げ込み、当時、起こりつつあった伽耶(北方勢力系)と結び、(もともと日矛の故地だから)、、、、なんて事があるんでしょうか?
おお、この記事を書いていたら、こんなブログに当たりました。
出雲伝承に近い内容です。
http://ameblo.jp/dorabida1207/entry-12041203620.html
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12243209824.html 【「出雲と蘇我王国」 ③ 蘇我氏】より
そう、出雲の伝承には息長氏の存在が抜けているんですよね、、、、。まあ、よその家系の事をとやかくかけるわけもないかもしれないですが。(が、それにしては、天火明系の除福については詳しく書いていますよね、まあ、親密な姻族なんですから親族と同じでしょうが)
息長氏や吉備征服、垂仁天皇と日向勢力についてはまだ検討を重ねるとして、今回は、蘇我氏についてとりあげたいと思います。
出雲伝承で、蘇我武内宿禰と姻族になったのでその伝承が残っているようです。
私も、蘇我氏については、小伽耶出身ではないか、または百済の木氏ではないか、などと色々書きました。
でも、「出雲と蘇我王国」には、かなり詳細にその出自がかかれており、今のところ、私個人としては納得いくものとなりました。
学者の書いた蘇我氏の本、については、「蘇我氏ー古代豪族の興亡」倉本一宏著
「蘇我氏の古代」吉村武彦著 岩波新書で書き、私自身の見解でも、蘇我稲目を考えるのあたりで(も)沢山書きました。
まあ、蘇我氏や尾張氏、それから天皇系譜を考える上で、かなり伽耶や百済を意識していますけどね、、、以前は。
また、「天皇の陰謀」に書かれていたように、奈良の箸墓に始まる古墳は伽耶バイキング系の王朝だといまだに考えてはおります。まあ、それはおいておいて。。
で、掲題の件の「蘇我氏」ですが、家系的には、天村雲の子孫です。(除福の長男系で、丹波から大和にいき、初代の大和大王になった人)
勿論、孝元の皇子の後裔となっている事からわかるように、嫡流ではありません。6.7代経たのち、同族の高倉下の子孫の嫁をもらいます。高倉下は、丹波から大和を経由して紀伊国へ進出した除福後裔です。(珍彦にみられる倭氏はこの高倉下の後裔のようです)
そして武内宿禰が生まれますが、武内宿禰が出雲入りし、蘇我石川宿禰が生まれるようです。蘇我氏は葛城氏や長江ソツヒコとして後裔は繁栄します。
武内宿禰(239年にヒミコの使いで魏にいった人物)の墓は、神原神社古墳との事です。(p59)景初三年の三角縁神獣鏡は、武内宿禰が磯城王朝の為に作った鏡、との事でした。
で、この古墳は4世紀中頃、とされていますが、3世紀末か4世紀初頭のものではないか、と思われます。
そして、その蘇我家の、大刀自(女後継者)に、出雲の男系が入り婿したのが、継体天皇との事です。当時、蘇我氏は、北陸に勢力を持っていました。蘇我大刀自は、後、継体が天皇になる事を条件に離縁させられ、安閑・宣化と欽明の二王朝対立を招いた、そうです。
はっきりと書いていませんが、そうなると、蘇我大刀自=尾張目子郎、という事になります。
以下は私が思う所ですが、
安閑・宣化が成人の頃、継体オオド王が新妻を迎えたとすると、その息子(欽明)と宣化の息子(蘇我稲目)は同じ位の年齢と思われます。
つまり、蘇我稲目は、宣化天皇と仁賢皇女・橘仲皇女の間にできた<倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ、『古事記』に倉之若江王で男性) 欽明天皇の妃>の、倉之若江王であった、かもしれません。
宣化天皇は、稲目(倉之若江王という自分の息子)に屯倉設置を行わせます。宣化の母の実家は北陸(の蘇我氏)なので、尾張に出てきたのは、宣化自身の時かもしれません。尾張の屯倉に稲を運ばせたのは稲目です。
そうすると、稲目は、北陸蘇我氏の家督をついで、尾張に進出した氏族であり、Y染色体的にはオオド継体譲りの出雲族で、さらに欽明天皇の異母兄(宣化天皇)の息子、という事になります。(でも、欽明とは年が近い)
勿論稲目は大王ではなかったはずです。欽明後の敏達そして馬子(馬子は稲目の、晩年の子だと思われます)の時代になり、その勢力が逆転した、事になります。
馬子は敏達死後、皇位継承のある皇子達を追いこみ(殺害し)、自分が大王につきます。(系図は用明天皇)
そして600年、隋に記された「アメタリシヒコ」は「アマ」=除福系の姓「アマ」=蘇我氏の姓、を名乗ります。馬子の名前は、姓「アマ」名「タリシヒコ」。太子のミカミタフリとは、聖徳太子、という事になります。
現王朝は、継体天皇から繋がっているので、蘇我王朝である、というアカルヒメさんの提言もまた、正しい、と言えます。
いえ、オオド王が出雲の男系なら、出雲王朝、というべきでしょうか。これなら、Y染色体はDであってもよさそうですが、、、。まあ、入り婿なんて沢山あったし、系図もほんとにぐちゃぐちゃなので、染色体を根拠になんて全然できませんけどね。。。
記紀は何故、オオド王を何故、息長氏に関連づけたんでしょうね、、、?出雲と蘇我(除福系)を出したくなかったんですかね。。。でも、なら何で息長氏はいいのでしょうか?まあ、息長氏もなぞなぞだらけですが、。。。。
尚、蘇我氏を隠したかったのは、世間で言われているように、藤原不比等が、家名の体裁(鎌足による大化の改新クーデター)を守るため、極力排除した、と予想できます。
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12243548870.html 【「出雲と蘇我王国」 ④ 葛城の鴨社・大和神社】より
以前も、この辺で色々書きました。出雲出雲国造神賀詞② 大和神社大和神社 2
で、よくわからなかった祭神について、本を参考にあらためて書いてみます。
鴨都波神社=富家の都美波八重事代主(八重波都身)を祭っているようです。祭ったのは、この地に来た天日方奇日方。お父さんを祭ったとの事です。
高鴨神社=天日方奇日方を頼ってでてきた、同族のタキツ彦が、父のアジスキタカヒコネと叔母の下照姫とその婿・天稚彦を祭った。そして、本からはわかりにくかった下の神社ですが、
<葛木御歳神社 御祭神 御歳神(みとしのかみ) 相殿 大年神(おおとしのかみ)高照姫命(たかてるひめのみこと)
私たちが正月に祭り親しんでいる年神様(としがみさま)は、この大年神、御歳神、若年神といわれています。
鏡餅は御歳神へのお供え物であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを 「御歳魂(おとしだま)」と呼んでいたものが今の「お年玉」の起源であります。
本社は、鴨氏の名社で、御所市にある高鴨神社(上鴨-かみがも社)、鴨都波神社(下鴨-しもがも社)とともに中鴨社(なかがもしゃ)として親しまれています。
古事記には須佐之男命(スサノヲノミコト)と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されています。
相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神であります。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています。>
本では、この社で高照姫を祭っていると書いてありました。
確かに、相殿に高照姫を祭っている。ただし、主祭神と相殿に同じ神を祭るわけはないので、
主祭神の御歳がだれなのか古事記から判断すると、
①スサノオー神大市姫(高照姫)この二人の息子が ②大年神(五十猛/香語山)-香用姫(穂屋姫)の息子が、③御歳神(天村雲)という事になり、丹波から大和入りした除福系統の天村雲の事だとわかる。 御歳神=天村雲命
さらに、大和神社の祭神を確認すると、大和神社 大国魂神・八千矛・御歳神
で、大和神社では、<「大和神社の神々」 当初は、日本大國魂大神一座が祀られていたものと考えられるが、延喜式神名帳には三座とありいずれも名神大社と記されていることから、延喜年間(901~923年)には三座が祀られていたことになります。大國魂大神以外の二座については、諸説あるようですが、現在は「大倭神社注進状(平安末期の1167年に大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司宛てに提出したもの)に従って、中央本殿に大國魂大神、左殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られています。
大國魂大神は、「大倭神社注進状」によりますと、大巳貴神(おおなむちのかみ。大国主命の別名)の荒魂(あらみたま)で大地主神(おおとこぬしのかみ)とも言い、八尺瓊(やさかに。玉の意)を御神体としている。
日本書記神代上、八岐大蛇(やまたのおろち)の条の一書六にも、大国主命は大物主(おおものぬし、大和神社の祭神)神とも、大巳貴神とも言い、また、葦原醜男命(あしはらしこおのみこと)、八千矛大神、大國魂神、顕國玉(うつしくにたま)神とも言うと記されています。
古事記では、素盞鳴尊(すさのおのみこと。イザナギノミコトが築紫の日向の橘の小門の阿波岐原での稧で鼻を洗った時に成り出た神で八岐大蛇を退治した)の子である大年神と伊怒比売(いのひめ、いぬひめ)の間にできた子(大国御魂神)とされています。大國魂大神は、その名の通り国土の神霊です。しかし、万葉集に山上憶良が唐遣使の航海の安全を、この神に祈る歌が出てきます。国土の神霊に航海安全の霊力があったのでしょうか。
左殿八千矛大神は、前述しましたように、大国主命の別名で、たくさんの武器を持つ神の意で、戦の神と考えられ、剣を御神体としています。古事記には「八千矛大神の妻の問い」として、越国に妻を娶りに出かける(平和的に越国を征服する)物語が記されていますので越国に深く関係した神と考えられます。
日本書記的には、同じ神が名前を変えて中央本殿と左殿にお祀りされていることとなりますが、大国主命は固有名詞ではなく、地祇(くにつかみ)を挿す普通名詞だとする説も唱える学者もおられますので別の神が祀られているともとれます。
右殿御年大神は、古事記によりますと、素盞鳴尊の子大年大神と香用日売(かよひめ)の間の子で父と同じように一年の穀物を掌る神と考えられ、鏡を御神体としています。
古事記のうえでは、御年大神と大国魂大神は母が異なる兄弟となります。>と書いています。
大和神社の宮司は倭氏。
この倭氏は、富家の伝承によれば、丹波・大和を経由して紀国に進出した高倉下とその子孫・珍彦(椎根津彦/倭国造)の家系だという。
尾張氏と同族、という見解をたまにみるが、除福系の同族であると言える。
上の御歳神の系図に追記すれば、
①スサノオー神大市姫(高照姫)
この二人の息子が
②大年神(五十猛/香語山)-香用姫(穂屋姫)
の息子が、
③御歳神(天村雲)
また
②大年神(五十猛/香語山)-伊怒比売(大屋姫)
の息子が
④大国魂命(高倉下)
で、初代葛城大王(大和の大王)の天村雲命の異母兄弟が(高倉下)倭氏の家系である、という事になります。(系図も古事記の記述であっています)
宮司の倭氏は、大和神社では、
祖先の大国魂命(高倉下)を主祭神とし、八千矛(大穴持=出雲神)と御歳(天村雲)を祭っている、と「大倭神社注進状」に書いて提出した事になります。
神主が自分の祖先を主祭神にするのは当たり前の事なので、私的にはこれですっきり、です。
(尚、系図に関しては、「出雲と大和のあけぼの」p144.145にあります)
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12243579311.html 【「出雲と蘇我王国」 ⑤ 箸墓古墳と周辺遺跡】より
さて、本には、「崇神は畿内にいた事になっているが、実は九州の日向で没した短命な王であり、この(後妻)夫人に卑弥呼がいた」ように書かれている。
で、畿内に入って大王になれたのは、崇神の長子・垂仁天皇だという。(第二次・物部東征)
これだけでも、ほ~、スゴイ、という情報になる。
(ただし、アカルヒメさんの、トヨ死後、崇神天皇が東征を開始した、という伝承とは異なる)
で、垂仁は、九州のイキメ(生目)から畿内に入ったので、「イキメの皇子」と言われるそうである。九州の生目・西都原の辺りには、畿内前方後円墳と相似形の古墳がある。また、瀬戸内海の通過地点の岡山にも、(何度も書いているが)浦間茶臼山古墳が箸墓の相似形だ。
とするなら、箸墓が九州から畿内に入ってきた初代大王・垂仁天皇の墓である可能性がある。
そして、九州にある箸墓と相似形の生目古墳は、その父、崇神天皇のものかもしれない。
勿論、本にはそのようには書かれていない。
垂仁天皇の墓は、奈良の尼辻(つまり宝来山古墳)、その妃のヒバスヒメは佐紀にあり、その古墳を古墳先進国であったノミノスクネの子孫が作った、と書いている(p53)
しかし、宝来山古墳は4世紀半ば(350年頃)の古墳とされている。
250年頃に開始した第二次物部東征の指揮官・イキメ大王の墓が350年頃というのもおかしい。
で、巻向遺跡が第二次物部東征の成功によって作られた遺跡であるなら、やはり初代大王のイキメ大王(垂仁)の墓は箸墓であると思わざるを得ない。
で、思いだすのが箸墓伝承の、「昼は人が造り、夜は神が造った」
つまり、神(賀茂氏=出雲神族)が造った、という事なんではないだろうか。
箸墓古墳は、モモソヒメの墓ではなく、垂仁天皇の墓であり、その近くの東殿塚古墳がヒバスヒメの古墳であったとしたら。。。。?
この二つの古墳からは、吉備の特殊器台が出るので、この頃には天村雲系の吉備王国も、垂仁天皇の配下であった事がわかる。
という訳で、箸墓古墳は3世紀末~4世紀初頭(垂仁天皇は長生きだったようなので)の墓だろう、という事にしておきます。
垂仁天皇のあと、景行・成務(成務は短命)と続き、大和物部王朝は終了するそうだ。
では、垂仁が巻向遺跡を作る前、磯城王朝(天村雲~道主王まで)が奈良盆地にあったはずなのだが、その遺跡はどこなのだろうか?
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12243579454.html 【「出雲と蘇我王国」 ⑥ 箸墓古墳と周辺遺跡 Ⅱ】より
では、天村雲系の磯城王朝の遺跡はどこなのだろうか?
御歳神社の位置でもわかるように、奈良が開発されたのは、葛城地方である。
それを示すように、葛城地方には古い遺跡が多い。(縄文~弥生)
そこに入植して弥生文化をもたらした出雲神族の分家(富氏)等の集団に、天村雲が丹波からやっきて、その嫁をもらい、大王として認められる。
さて、天村雲の本拠地はどこなのだろう?
天村雲は故郷から沢山の人を連れてきたそうだ。
という事は「丹波」の地名が残っているかもしれない。
という事で、
丹波についての発見 で以前かいたが、
天理市の天理教の本部があるあたりに、丹波の人が沢山移住してきた、、、とか。
また、近くには唐子・鍵遺跡がある。
ここは巻向遺跡前の弥生集落として有名である。この集落を前後して、巻向遺跡が発展してきたようなので、磯城王朝・最後の道主王の都は、唐子・鍵遺跡である、とする事ができるか。。。?
さて、では、磯城地方に進出した富氏の遺跡はどれだろうか?本によれば、天日方奇日方の息子・健飯勝は磯城に進出し、磯城富家と言われたそうだ。
この一族は、三輪山で祭祀をしたはずなので、その周辺の遺跡だろう。
三輪地域の大国主の遺跡 という以前書いた記事を参考にしてみると、
<http://jumgon.exblog.jp/15163862/ の記事からヒントを得ると、
水垣と言われる場所に遺跡のあった、芝・三輪・金屋遺跡が大国主王国の遺跡と言えるかもしれません。いずれも弥生遺跡です。
3世紀末~4世紀初頭に鉄・馬を持ち込んだ朝鮮半島経由の勢力の移植地は巻向遺跡です。この遺跡は三輪山を向いていません。竜王山を向いています。さらに、先の3遺跡の後に現れた巻向・城島(しきしま)遺跡は、三輪山の水垣内にはありません。
城島遺跡は3~7世紀を中心とする遺跡で、古墳時代から飛鳥時代にかけて営まれたようです。
巻向遺跡・城島遺跡が営まれた頃、三輪山の水垣には集落・墓はなく、祭祀遺構もありません。捨て置かれたエリアになっていると言ってもいいのではないでしょうか。>
という事で、出雲王国の分家・葛城天日方奇日方の息子・健飯勝が、磯城地方にきて祭祀をしたのが、芝・三輪・金屋遺跡であったかも、という事になります。
また、西南の「大福遺跡」なども有名だ。
<http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2009_03_08.htm
大福遺跡の西に隣接する坪井・大福環濠集落は、弥生時代中期頃が最盛期だったことがすでに判明している。
この集落の墓域とされる所から、方形周溝墓が見つかっている。
坪井・大福遺跡の環濠集落は、弥生時代後期になると面白い現象が見られるという。後期の段階でも環濠帯は存続しているが、遺構量は減少していくというのだ。専門家はこの減少を、分村によって住民が周辺に進出していった結果だと見ている。
桜井市の大福遺跡は、橿原市と桜井市のまたいで広がる坪井・大福遺跡の東側に隣接する弥生時代後期の遺跡である。坪井・大福遺跡の東に位置する大福遺跡では、弥生時代前期から中期にかけての遺構はほとんど見つかっていない。遺構が出現してくるのは、弥生時代後期になってからだ。坪井・大福遺跡の人々がこちらに進出してきた結果であると考えられている。大福遺跡では、今までに土器をはじめ、銅鐸片や完形の銅鐸、銅剣の切っ先など弥生時代後期から古墳時代初期にかけて、さまざまなものが見つかっている。そのくせ住居跡がまだ検出されていない変わった遺跡である。
圧倒的に多かったのは土器である。出土品を保管するコンテナケース400箱以上、たぶん600箱に達する量の土器が掘り出されたとのことだ。これらの土器は溝が埋まる過程で捨てられたもので、完形の土器も100から200個は見つかっている。
後述の木製よろいなどの武具類の他に、多数の木製品も見つかっている。槽(そう)、籠(かご)などの容器、鋤(すき)、鍬(くわ)、木包丁、竪杵(たてきね)、横杵などの農具、楽器の琴の一部、梯子(はしご)、杭などの建築部材である。これらの出土品から、近くに大勢の弥生人が住んで農業に従事していたことをうかがわせる、また、梯子の一部が見つかったことは、農作物を蓄える高床式建物が近くに建っていた証拠となる。
大量に出土したものに、溝の中ほどから見つかった炭化米がある。コンテナケース10箱分、現在の単位で言えば10升以上はあったとのことだ。そのほとんどは脱穀されておらず、穂付き籾の状態で出土している。穂首刈りを行ったままの状態で保存していた籾が、保存場所が火事にあい燃えてしまったのだろう。食べれなくなった炭化米を仕方なしに溝に捨てたにちがいない。
溝の横断面の観察から、炭化米は西側から捨てられたことが分かるという。ということは、坪井・大福環濠集落の集団が分村化して再編成される過程で、環濠から外へ進出した集団の一部が調査地の西側に居住していたと推定できる。 炭化米が出土した地点の溝の一番上の層の東側から、送風管や青銅の塊、および銅滓(どうさい)など青銅器鋳造関係の遺物が見つかった。送風管は長さが約30cm、直径が4.2cmで先端が曲がっている。青銅塊は重さが82gある。銅滓は椀形をしているところから、取瓶(とりべ)などに付着していたものが剥落したものと推測されている。さらに溝の近辺の包含層からも青銅片が出土している。なんらかの製品の一部と思われるが、用途は不明とのことだ。
こうした青銅器鋳造関係の遺物によって、近くに銅鐸を製造したり、あるいは銅鐸を他のものに造り替えて再利用するための工房があったと推測できる。発掘担当者は現在の調査地の東側を発掘すれば、工房跡が見つかるのではと期待している。
木製よろいであるが、このよろいは調査地の南区の溝の中層から見つかった。時期的には2世紀後半のもの >
他にも、http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_6a25.html の辺りの記事は参考になります。
<完形銅鐸の方は1985年に大福小学校建設予定地の発掘現場から出土した。こちらも方形周溝墓(2号墓)の溝底近くに銅鐸埋納坑が掘られていた(図版)。遺構の切り合い関係から方形周溝墓は弥生時代後期よりも新しい時代に造られており、銅鐸の埋められた時期の上限は弥生時代後期となる(もう少し絞り込むと2号墓周溝の出土土器から弥生時代後期中頃~終わり頃以降)。2号墓に隣接する1号墓の周溝からは古墳時代前期初め頃の土器が出ているので、弥生時代後期の終わり頃~古墳時代前期初め頃にかけて、2号墓→銅鐸埋納坑→1号墓の順になるという。
完形銅鐸は、難波洋三氏によると、突線鈕1/2式の「大福型」と呼ばれる銅鐸で、製作時期は弥生時代中期末~後期初め。完形銅鐸は弥生時代後期後半まで使用されて方形周溝墓底に埋納、銅鐸片の方は弥生時代後期後半に作られ、比較的短期間で破壊され他の青銅器に改鋳されたらしい。>
この辺りの記述は、
p37
<磯城王朝の時代に、筑後の物部氏(除福の次男の家系)勢力が紀伊国熊野に上陸した。この勢力が大和に侵入すると、宗教戦争がおきた。大和が銅鐸の祭りをすると、物部の勢力が集団で襲って銅鐸を壊してまわった。その結果、人々は銅鐸を埋めて隠し、以後は銅鐸祭祀を中止した>
と一致するだろう。それが、弥生後期後半。
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12243608198.html 【「出雲と蘇我王国」 ⑦ 箸墓古墳とその周辺 Ⅲ】より
で、この熊野物部勢力を大和に導いたのは、
p130辺り、
<富家は、出雲王国を滅ぼそうとした吉備王国をけん制する為に、大和葛城地方を統一できる共同政権を作ろうと、熊野にいる物部勢力を大和に引き入れた>
いわゆる、ヤタガラスである。
p108の
<(播磨に侵入した日矛族は)残念なことは、葛城王国を南北から攻める約束をしたのに、物部軍は動かなかった>
ので、日矛は逆に出雲王国のすきをつき、播磨に侵入したという。
播磨を守りにいった出雲軍は播磨を守り切れなかった。ので、葛城のフトニ(孝霊)は、葛城軍を派遣し、さらに吉備まで侵攻して配下におさめた。
これを順番に考えると、
①出雲・葛城連合が本州にあった。但馬には日矛が追従する形で住んでいた。
②九州の物部勢力は、本州が乱れるのを待っていた。
③九州・物部王国は、日矛勢力に南北から葛城勢力を挟みうちしようと持ちかけた。
④計画の日、但馬の日矛軍は動いたが、物部軍は動かなかった。ので、日矛勢力は、南西の播磨に侵入し、防衛にきた出雲軍とたたかった。出雲には勝った。
⑤葛城の孝霊天皇はおこり、播磨に侵入した。日矛軍はちりじりになった。
⑥さらに孝霊天皇は、出雲にまで服従するように迫ってきた。
⑦圧迫されていた出雲王家を助けるべく、分家の奈良の富家は、熊野にいた物部勢力を大和に引き入れた。
⑧熊野勢力が強力になった事を知った吉備軍は、出雲攻撃を中止し防備を固める事にした。
⑨大和に入った物部勢力は、銅鐸を壊してまわり、宗教戦争になった。
=大福遺跡の銅鐸破壊・埋納=弥生後期後半。
で、よく考えると、葛城を南北から攻めよう、と持ちかけた物部軍は、その時、どこにいたんでしょうかね?まだ九州でしょうか、それとも熊野にいたんでしょうか?
まだ九州にいたのなら、(四国の南を通り)紀ノ川を遡り葛城に入る予定だったのが、高倉下の軍に苦労し、熊野へ後退せざるを得なかった物部軍は、動いたけど無理だった、可能性も否定できませんね。
もし、物部軍が既に熊野にいて日矛を巻き込んだとしたら、日矛葛城侵入で高倉下の戦力が低下する、のを狙う意図だったのでしょうか?
熊野物部氏は高倉下のゲリア戦にもあっていたようなので、なんとか高倉下の軍をおいはらいたかったはずです。日矛が葛城に侵入し、高倉下の軍が手薄になったら紀ノ川を遡るつもりだったのでしょうか?
いえ、しかし、p131の辺りに、
<(ヤタガラスの案内で)宇陀に集結したおびただしい数の物部軍をみて、旧葛城勢力の各集団は移動を始め、一部は生駒山地で防備を固め、一部は山城国南部に移住した。
(旧葛城軍の多くは吉備に移住して不在だし、残った王族も別れ離れで、兵力は弱体であったという)>
と書かれているように、紀の川流域の勢力は強かったかもしれないが、葛城自体の兵力は強くなかったようだ。
フトニ大王(孝霊)は、熊野の物部氏を恐れたのではなく、首都自体を吉備に移したつもりなんではなかろうか、、、。だから葛城軍のほとんどは吉備に移住してしまっていた、、、とか。
日矛の動きや、九州の動きは気になったはずだ。瀬戸内海を抑えようと思うのは当然の事だ。奈良大和ではちょっと奥すぎる、せめて大阪?
本には、日矛の播磨侵入(日矛と出雲兵抗争)から葛城吉備王国の成立、出雲への圧迫、ウマシマチの大和侵入、吉備・出雲休戦など、全て孝霊天皇と息子・吉備津彦の年代として記されているので、この間はせいぜい20年あったかどうか、という歴史的には短い期間であると思う。
a,日矛播磨侵入→出雲軍と播磨で戦う→今度は葛城軍に攻められる→負ける→葛城軍が吉備王国を作り、出雲を圧迫→大和の富家は別の葛城勢力を作ろうと思うb
b、物部氏が日矛と葛城征服を計画→物部氏が四国をまわり、紀の川を遡る→高倉下にてこずり→熊野へ行き、食糧と兵力を整える→吉備王国をけん制したい大和・富家から密使がとどき、熊野川の支流・北山川にそって大和に侵入する。
まあ、物部軍が日矛との約束を守りたかったけど守れなかったのか、そもそも守る気がなかったのかわかりませんが、物部第一次東征とはこういう内容だったようです。
さて、ほとんど無敵で桜井・イワレに入ったウマシマチはその後どうしたのか?
吉備では、この時代は孝霊の息子・吉備津彦の時代。
p40<孝霊の孫・大彦が物部勢力に破れて摂津三島から琵琶湖東岸に逃れた。(→これがトミのナガスネヒコの事だそうだ)向家に来訪し加勢を求めたが、3世紀に、日向にいる物部政権が出雲を攻めるという噂があったので、これを断り、北陸の豪族を紹介しそちらへ行くようにすすめた。後、(当初、伊賀のアベにいたので)安倍氏となる>
3世紀に日向にいる物部政権が出雲を攻める、という噂は、卑弥呼が計画した第二次物部東征の事であろうか。
系図がどこまで正しいのかはわからないが、孝霊の息子・孝元が吉備津彦とウマシマチ(熊野から侵入)と同じ世代であれば、大彦はその後の世代となる。大和に侵入したウマシマチは、富氏の協力のもと、その息子の世代で一旦、葛城勢力を大和地方から追い払う事に成功したのだろうか。
また、大彦がのがれた琵琶湖東岸・野州は、最後まで銅鐸一大拠点があった場所としてしられる。
とすると、磯城王朝はここで滅びたのか、、、と思われるがそうではないらしい。
磯城王朝が滅びたのは、第二次物部東征の時であり、生駒の方から侵入してきた物部軍(垂仁・日矛・豊軍)に、磯城大王の弟・サホ彦と、和邇に都のあった道主磯城大王が敗れて、磯城王朝は終焉したようです。道主王の娘はヒバスヒメで、垂仁天皇の皇后になりました。
これが巻向遺跡になったのなら、大彦を追いやったウマシマチとその息子はどこにいて、お墓はどれでしょうね?第二次物部東征には合流しなかったのでしょうか?
道主王は、大彦の息子とされています。大彦は琵琶湖東岸に逃れましたが、その息子達は、佐保や和邇にまだ勢力を持っていた事になります。
この本以外に、どこかに物部一次東征の事が書かれている内容があるのかもしれませんが、この辺りは、ちょっと私にはわかりにくかったです。
この辺りにこだわるのは、箸墓は誰の墓なのか、や、吉備の古墳の年代を特定したい、という思いからです。
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