https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/bf6678692c40469f27c705d18492523c714b9e7d 【家康股肱の臣、石川数正はどの石川氏の末裔か】より
森岡浩姓氏研究家 伊勢亀山城址(筆者撮影)
「どうする家康」に初回から登場、酒井忠次とともに家康股肱の臣として活躍している石川数正。23日の放送でも、浅井方に転じようとした徳川家康に対して先を見越して判断するように諫めるなど、重要な役割を演じている。
この「石川」という名字は地名に由来するもので、全国各地に「石川」地名があることから、石川氏も各地にみられる。数正はどの石川氏の流れを汲んでいるのだろうか。
古代豪族の石川氏
歴史的にみると、最も古い石川氏は古代豪族蘇我氏一族の石川氏である。蘇我氏は大化の改新で滅んだが、生き残った一族が天武天皇13年(684)石川朝臣と改姓した。大和国高市郡石川に因むとも、河内国石川郡に因むともいわれる。奈良時代に石川年足や石川豊成が活躍した。
続いて、平安時代中期に活躍した武蔵国の武士団、横山党の一族が武蔵国久良岐郡石川村(横浜市南区堀ノ内町)に住んで石川氏を称したことが知られている。
各地に生まれた石川氏
その後、各地で地名に由来する石川氏が誕生した。
最も有名なのが河内源氏嫡流の石川氏である。源頼信が河内国石川郡石川荘(大阪府羽曳野市)に居を構えたのが遠祖で、源義家が六男義時に石川荘を分与したことで独立し、石川氏を称した。治承4年(1180)以仁王の令旨を受けて全国の源氏勢が蜂起した際、平清盛の策略で鳥羽(京都市伏見区)まで一族が誘い出され包囲されて殲滅された。
その際、長男の義兼は石川にいたため難を逃れたものの、生け捕りとなった後に幽閉された。その後、木曽義仲の入京にともなう平家の都落ちで脱出、河内に戻って河内源氏を再興、鎌倉時代には幕府の御家人となった。
陸奥国石川郡(福島県)からは清和源氏満快流の石川氏が生まれた。源頼遠が義家に従って前九年の役に従軍し、その討死後に子有光が石川郡に所領を与えられ、康平6年(1063)白河郡藤田郷(福島県石川町)に住んで石川氏となったという。戦国時代には陸奥南部の大名となったが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことから所領を没収され、江戸時代は仙台藩重臣となった。
常陸国の有力武士だった大掾氏の一族が同国茨城郡石川(茨城県水戸市元石川町)に住んで名乗った石川氏もある。こちらも鎌倉幕府の御家人となり、戦国時代まで続いている。
この他にも、中世には陸奥国、丹後国など各地に地元の地名に因む石川氏がいた。
石川数正のルーツ
では石川数正の出た石川氏のルーツはどれかというと、同家では河内源氏石川氏の末裔と伝えている。
義兼から5代目の義忠は小山氏に預けられ、子孫は小山氏を称していたが、子孫政康の時に三河国碧海郡小河城(愛知県安城市)に移って石川氏に復し、その子親康の時に松平氏に仕えたという。数正は親康の曾孫にあたる。
ネタバレを言えば、数正はのちに徳川家を出奔して豊臣秀吉に仕え、信濃松本で8万石を領している。この出奔の理由は諸説あり、「どうする家康」でどう描かれるかも今後の注目の1つである。
なお、江戸時代子孫は伊勢亀山藩主となった。
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12665484266.html?frm=theme 【石川臣と蘇我氏】より
出雲王家の伝承によれば、越後地方(三国)の蘇我氏と石川氏は、ずっと昔に分かれた家系(250年)で、同族とは言い難い、ようだ。(「飛鳥文化と宗教騒乱P43)
石川氏は、大阪の石川をその出身地とする。
「出雲と蘇我王国」p73で、<『新撰姓氏録』は「平群朝臣は武内宿祢の息子・平群都久の後と書いている。この記事は、若子宿祢が抜けている。ともかく平群木菟は、武内宿祢から、男系でつながる子孫である。(系図略)
で、若子宿祢に関連して、三国国造がいる。
[三国国造 ( 越 )]三国国造 ( 越 ) (nihonjiten.com)
<三国国造は三国国(現・福井県坂井市・あわら市周辺)を支配したと言われ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代に宗我(蘇我)臣(そがのおみ)の祖であり武内宿禰(たけうちのすくね)の父又は祖父・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の4世孫にあたる若長足尼(わかながのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。国造の世襲は三国君(公)が最有力視されているが、日本書紀では継体天皇の子・椀子皇子(まろこのみこ)が三国公の祖とされている。ちなみにあわら市にある横山古墳群は三国氏族の墳墓と見られている。>
上の記述と照らし合わせると、若子宿祢の子に、若長足尼(わかながのすくね)がいた事になる。彦太忍信命の4世孫。(系図略)
という系図になろうか?継体大王が平群王朝の娘婿に選ばれたのは、蘇我本宗家の当主であり、平群氏と近い勢力だと思われていたから、とある。
姓氏録では、紀角は石川朝臣同祖、とされている。
また、石川氏については、PDFFile05252112.pdf (kyoto-be.ne.jp)にもあるように、
<(蘇我氏)彼らが改姓(石川氏)した時期については、賜氏姓や氏上の選定が行われ、律令の編纂や帝紀及び上古の諸事の 記定なされた天武10年(681)9月から同12年10月頃までの間とするのが妥当だといいます。 こうして石川氏として再生した蘇我氏は天武13年(684)11月、阿倍・巨勢・紀・物部・平群・ 中臣(藤原)など24氏のマヘツキミ氏を含む52氏の1つとして八色の姓の第2格(官人としての実 質上は第一)である朝臣姓を賜り、石川朝臣として律令国家の建設に従事することになりました。>
とあるように、684年頃に、蘇我氏から石川氏に改姓し、石川朝臣となった、と書かれています。つまりこの石川朝臣同祖、というのは、蘇我朝臣同祖、というのと同じような意味合いになります。
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12665497065.html?frm=theme 【石川氏と蘇我氏②】より
これも重要な記述だ。「三国国造家の出身のカナヒ大王の子孫が、飛鳥時代に権力をふるった蘇我氏であった」(「出雲と蘇我王国」p83)
安閑は息子がいないので、宣化の息子で、それらしいのは、倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ、『古事記』に倉之若江王で男性) 欽明天皇の妃。
必ずしも、男系の子孫とは限らないが、、、、これが、蘇我稲目という事はあるのだろうか?
自分の昔の仮定で、これが稲目になった、という記事を書いた事がある。
稲目は石川臣稲目で、巨勢臣男人の養子になり、巨勢臣稲目を名乗る。稲目の息子の一人・麻子は石川家を継ぎ、石川臣麻子(蘇我馬子)となる。(「飛鳥文化と宗教騒乱」P29)
「石川臣麻子は河内石川郡から、大和国高市郡(現大軽町)に移住した。そこから、東南方面は「遠つ飛鳥」と呼ばれるようになった。剣ノ池は石川池と呼ばれた」(同P44)
石川臣麻子は、馬子の事であるが、私見では、馬子は、稲目と高句麗の美女媛(おみなひめ)との間の子だと考えている。
稲目は彼女を、「軽の曲殿」に住まわせていたから、馬子は、母に与えられた土地をそのまま引き継いだのだと思う。
私には、蘇我氏という名前は、菅ノ八耳からの蘇我、だと思われる。継体大王からを蘇我王朝と言っているが、つまり、蘇我王朝とは出雲の王朝、という事に他ならない?
継体天皇の代に、奈良に曽我町で玉造りをする。(P24)
北陸の石川家も、蘇我と名乗っていたかどうか私にはよくわからない。
倉之若江王=石川稲目であったのなら、稲目は石川宣化天皇の息子であり、出雲富彦太氏は、越後の石川氏に養子に入り、その後、石川氏を抜けて平群氏の娘と結婚した事になる。平群王朝を蘇我王朝とは言わないから、つまり、蘇我王朝とは蘇我八島ジヌミ出雲王朝、という事だ。男系出雲の王朝?
アカルヒメさんも、現在は蘇我王朝だと言っている。
がしかし、「飛鳥文化と宗教騒乱」には、蘇我氏とは石川氏の事で、宣化大王の子孫とは直接関係があるようには書いていない。
<蘇我家から大王が出た事を隠し、継体大王を応神天皇の子孫のようにみせかけた、しかし、官史は重要な家・蘇我家の名前をどこかに示す事が必要と考え、石川臣家を蘇我臣家と書き始めた。(同P44)>(系図略)
若子宿祢の母は、あるいは、紀角と同じ宇及姫である可能性もなくはないが、そうすると、若子宿祢と紀角は兄弟であった、となる。
まさかの同一人物の可能性もなくはない。(若子宿祢 = 紀角)何故なら、紀氏の本貫は、平群郡平群町紀里だというのだから、平群氏の分家、という可能性もある。伝承によれば、平群ツクは分家を平群に残して、紀国で紀国造家とともに、半島からの税蔵を管理した、そうだから。この分家が紀氏?
すると、(系図略) 平群・分家は紀氏 石川氏なんていう系図になるかも。
その若子宿祢の子、若長足尼が三国国造になったのは、北陸方面に強い出雲系との婚姻があった可能性がある。若子宿祢は、武内大田根が道主王と一緒に日本海側に逃げる時、父の武内宿祢におそらく一緒についていったのか?、とも思う。武内大田根が出雲姫と結婚して羽田八代宿祢をもうけたように、若子宿祢がある程度の年齢に達していれば、北陸地方に安住するために、出雲系の姫を父と同じように娶った可能性もある。
若子宿祢の妻、辺りが、出雲の女性だったのではないだろうか?だからその子孫の若長足尼(蘇我氏祖)の後裔は蘇我家と名乗り、出雲由来の蘇我という家名?平群ツクは次男で奈良平群方面へ進出?
しかしそうすると、大阪の石川氏が、のちに三国に進出し、本家も三国にいたように書いてある伝承には沿わない。だが、大田根-羽田八代-マイトヒメ-ソツヒコ-応神天皇(タカハセキミ)-仁徳(平群ツク)、までの代数が、大田根-若子スクネ-平群ツク、とだいたい同じである為には、若子スクネ~平群ツクに至るまでの代数がもっとある、という事にはなる。
詳しくはわからないが(わかるわけもないが)、出雲族と大田根の一族は姻族としてこの頃から接近し、北陸(出雲の地盤)と「蘇我」(初代ヤシマジヌミは菅とか蘇我とかいう名前に八ツ耳がつく)という非常に出雲色が濃い舞台で、嫁にもらったり婿に行ったりしていた関係が推測される。それは、初代天村雲がその長子に「八耳」という名前をもらったり、王朝4代目以降は磯城王家と呼ばれるようになったり、という血脈のつなぎ方と同じような流れかもしれない。
だから、ある意味、富家次男の太彦殿(後のオオド王)が三国の蘇我家に婿入りするのはぜんぜん不思議ではなかったと言える。
武内大田根の本当の息子は誰だろうか?(子孫である事には間違いないが)
羽田八代スクネ-クメマイトヒメ 若子スクネ-石川・平群・紀氏?
巨勢小柄スクネ(『飛鳥文化と宗教騒乱』P39に小柄は武内大田根の子との記述あり)
で、ソツヒコの息子は、葛城氏怒能伊呂比売?という風に考えると、ソツヒコの息子は2氏族、という事になろうか?
しかしまあ、なんと記紀は、皇室男系先祖に由来する蘇我という名前を、こともあろうに皇室に歯向かった一族蘇我氏として記してしまうとは。しかし、意図的ではあろう、誰も記紀が悪者にしたてあげた蘇我氏が、実は皇室男系の先祖と関係があろうとは思わない。でも記紀を構成・制作した藤原不比等さんとかは、富氏的には、不敬罪、と言われてもしょうがないですよね、実際。何故記紀編纂事業に出雲王家の人物が入っていなかったんでしょうね?
また、忌部氏(斎部氏)に、「ほんとの所、どうなのよ、どこをどんなふうな意図で制作したの?旧家に伝承されている内容はもっといっぱいあるんでしょ?」とか聞いてみたいです。太安麻呂しかり。
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