4000年の出雲口伝

https://tenkataihei.blog/?p=8371 【4000年の出雲口伝】より

2人の国造様に出逢ってもね、ごめんなさい。

僕の出雲への想いは、もう13年ほど前より秘密の出雲口伝の情報を受け取り、隠された”富王家”のことでいっぱいなの。

縁結びの神様ってカップルが賑わったり、神在月・神在祭って1万人も押し寄せたり、

それはそれで盛り上がって良いけど、僕の中で出雲ほど血塗られた場所と歴史はないほど、ここは怨念の塊のような地。

もっとも正確に古代の歴史を後世の人々に残すのは、書き物では改竄されてしまったり、消される可能性も高いので「人から人への”口伝”」が有効的であり、出雲の本当の歴史は”語部(かたりべ)”と呼ばれる特殊な一族によって4,000年もの口伝の伝承がある。

その口伝を代々引き継いで来たのが東出雲王家であった富家。

現在の当主の先代の口伝者である”富當雄さん”という元サンケイ新聞のお偉いさんが、裏の顔は出雲口伝者であり、太古より引き継がれて来た門外不出の真実の出雲伝をうっかり口外してしまったことからとんでもないことが発覚した。

出雲の国譲りなどの綺麗事の神話・歴史は微塵にもなく、出雲王朝は、侵略者である天孫族によって国を奪われ、先祖は皆惨殺されて来た。

それも近代にまで、その出雲末裔の迫害は続いて来ており、少しでも出雲の真実を口に出そうものなら毒殺されたりも当たり前だった時代もあった。

今でこそ、すべてが表に出て明るみになる時代であるものの、出雲に隠された闇は深く、そして天孫族、つまりは歴史の勝者である天皇家の真の歴史は、まだまだ奥が深いもの。

千家国造家にしろ、北島国造家にしろ、もとは天孫族アメノホヒノ命の後裔の国造家であり、侵略者側であると…。

そう、出雲大社の拝殿は参道からまっすぐ参拝できないようになっており、これは”祟り神”を祀る、いや封印する構造であり、代々の宮司は霊獄の看守のような立ち位置と言っても過言ではないもの。

僕は出雲大社を訪れる度に、頭によぎるのは富家の怨念であり、今日もまた明日に神迎神事がある”稲佐の浜(出雲族が抗議の自殺をした場所)”に1人立ち寄ると、富家の先祖供養となる。

すると出雲大社から東へ徒歩15分ほどにある「出雲井社(いずもいのやしろ)へ行きなきゃ」と、ふと思い立ち向かう。

そういえば、あそこが富家の継承者が16歳になって10年間、質問することも許されずに口伝伝承が行われた特別な神社だ。

これまで出雲に来ても訪れたことがなく、今回初めて訪れたけど、かなり入り組んだ民家の奥地にあり、そして驚くほど小さなお社の神社。

なのに、出雲随一、驚くほど超強烈な神氣を放つ…。

裏には御神体となる磐座が鎮座しているが、明らかに人の手によって書き記されたペトログラフなどがある。

ここぞ、富家をはじめとする古代出雲王家の祖神「クナト大神」が祀られている。

出雲口伝によると4000年前、古代出雲族はインドからやって来たドラヴィダ族であり、アーリア人によって侵略され、クナト王に率いられてガネーシャ(サルタヒコ)など三神と一緒に日本列島へ、青森三内丸山遺跡を経て出雲へやって来た。

龍蛇族のドラヴィダ族は、元はシュメールからやって来ており、シュメールもまた元はムー日本列島からやって来たとなると、里帰りのようなものかもしれないが、少なくとも民族移動の中心地はインド。

朝鮮より渡って来た戦闘的なスサノヲ(牛族)とは、根本的に違う一族であるとも。

何重にも隠された歴史のある出雲、そして日本という国。

出雲どころか、伊勢だって、もっと闇が深い歴史があり、それを言ったら日本の神社の多くは侵略者の歴史ばかりでもある。

でも、それらの恨みつらみもまた、すべて受け入れて、包み込み、大調和・大統合の令和の今。

もうすぐ本当の日本の歴史が始まり、本当の神話の物語も今から始まる。

そんなイメージをしながら出雲井社でお祈り。

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新装版・謎の出雲帝国(吉田大洋)シリーズ人間「4000年のタイムトンネルに生きる男」

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(転載開始)

黒人作家が自分の祖先を約227年、アフリカまで遡った『ルーツ』が世界中の話題をさらっている。一方、日本には、4千年の歴史を伝える“語部(かたりべ)”がいまも存在しているという噂を聞いた。

事実ならばその人は日本の“根”を知っているはず。

記者の前に現れたのは、意外にもモダンな老紳士だった。富當雄さん(67才)、元サンケイ新聞編集局次長。じつはこの人、出雲王朝4千年の歴史を継ぐ、大国主命直系の子孫だという。しかも古代王朝の史実を、先祖から代々、口づたえに伝承してきて、その詳細を全部、脳裏にきざみこんでいる。

カタリベ(語部)というものを、あなたは知っているだろうか?

遠い上古、私たちの祖先が文字を知らなかったころ、氏族の歴史は“カタリベ”とよばれる人によって、記憶され、口から口へ語りつたえられてきた。

日本の神話『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)というカタリベが物語ったものを、漢字で記録したもので、和銅5年(西暦712年)のこと。漢字が輸入されてから、カタリベの必要はなくなり、当然、そうした慣習も人も消え失せてしまった、、、と、誰もが思っていた。

ところが昭和の現代、なんと、4千年来の歴史を文字にせず、脳細胞の中に封じこめて生きている人がいたのだ。富さんのその生涯を決定づけたのは、いまから52年前、16才のときのことである。

この年、彼は大分地方裁判所の判事だった父のもとを離れて、本家の富饒若さんの養嗣子になった。そして迎えた最初の冬、12月下旬のひどく寒い夜であったという。

「當雄、風呂場で身を清めてきなさい」

養父が命じた。いったい、なにがはじまるのか?

尋ねようと思ったが、養父がいつになく厳しい形相になっているので、声も出ずに、風呂場へはいった。

全身を入念に洗い清めて、水をかぶってあがると、白い麻で織った衣服がそろえられていた。それは埴輪などで見たことのある古代服で、素肌にまとうと、麻のざらつく感触が、不意に彼の心を現世から引きはなすようだった。

養父に従って、ハダシで玄関へおりた。養母が祈りをこめる目で彼をみつめ、火打ち石を鋭く鳴らした。切り火で清められた彼と養父は、お供の下男がかかげる提灯(ちょうちん)のあかりをたよりに星も見えぬ藪の中の細い道をたどった。

出雲大社の東、宇伽山のふもとにある出雲井神社まで約15分、一言も口をきかず、ただ一心に足を速めた。出雲井神社は、竹藪の中にひっそりと忘れられたように建っている4メートル四方ほどの小さな社だ。だが、ここには富家の遠つ神祖(かみおや)、久那戸(くなとの)大神が祀られている。久那戸大神は、日本列島を産み出したもうた伊奘諾、伊邪冊の大神の長男。つまり出雲王朝の始祖なのである。

社殿の階(きざはし)に、葦で編んだ敷きものがひろげてあった。中央には塩が盛られ、養父は左に、16才の彼は右に正座して相対した。下男は帰された。まっくらな闇の中に二人きり、簸川平野をふきぬける寒風がごうーっと竹藪をゆすってゆく。彼はガチガチと奥歯を鳴らし、息をつめていた。

・・・と、父が口をきった。

「これから語ることは、わしが言うのではない。神祖さまがおっしゃるのだ。心して聞け。そして、しっかり覚えよ。いずれ、おまえが子に伝えるまで、たとえ兄弟たりとも他言無用。いのちにかけて、これを守れ!」

父の声は、日ごろのものとは一変して、現世ではない遠い世界からひびいてくるかのようだった。その声を耳にした瞬間、彼の震えはぴたりと止まった。全身が緊張で熱くなり、脳髄が研きあげられたかと思うほど澄みきった。

日本列島に人間が住みついたのは1万年前か、6、7千年前か、考古学の上ではそれすらはっきりしない。だが、富當雄さんは、4千年前から口誦伝承されてきた祖先の生きざまをこの夜から10年間にわたって、連続反復して、養父から聞かされたのだった。

それは、神と人とが対話する形式で語られた。質問はゆるされない。疑問を抱くなどはもってのほか。養父の言葉を、そのまま一語も洩らさず丸暗記するのである。

彼の脳裏にきざみ込まれた出雲王朝から現代に至るまでの富家の歴史は、悲惨この上ない血みどろの物語だった。そして確かにこれは、他人には絶対に語れない内容であった。

なぜならば出雲族は天孫族(天皇家の祖先)と長い闘争のあげく、帝位を奪いとられて、徹底的に滅亡の道へ追いやられたからだ。

その屈辱と怨念の歴史を、どうして天孫族の支配がつづく世の中で、口外できるだろうか。ただひたすら、親から子へ、子から孫へと語りつたえて、いつまでも忘れずにあれと願うほかはない。

しかも、この伝承者に選ばれた者は、獣肉を口にできなくなる。また、自分の跡継ぎ以外は肉親であろうと“敵だ”と思わなければならなかった。いつの世でも、親類縁者がもっとも危険な敵となるからだ。

富さんは言う。

「私にとって、女房は他人です。娘が結婚して、もうじき孫が生まれますが、私は娘夫婦の家を訪ねたことがない。訪ねてはいかんのです」

記者は、この人が出雲大社の裏手、稲佐浜に立ったときのすさまじい表情を思い返した。夏は海水浴場として賑わうその浜は、神話の“国ゆずり”の場として有名だ。

天孫族の大軍団から使者として来た武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、この砂浜にホコをつき立て、「否(いな)、然(さ)」(イエスかノーか?)と迫り、この談判で出雲大帝国の王、大国主命は降服を決意したという。

富さんは、旅館の番傘を手にして、雨けむる浜辺に立った。すると、それまで柔和だった顔が、見る間に紅潮して、眉がつりあがった。

「ここへ来ると、血が逆流する。2千年前、ここで私の祖先がッ・・・」

うめく声がふるえ、語尾が口の中で炸裂した。

この瞬間、富さんは時間も空間も躍り越えて、まちがいもなくタイムトンネルの中へ突入したようだった。

「私の先祖は、侵略者の目の前で、抗議の自殺をしたんだ。ここでだ、ここで!」

社会のはげしい動きを追って、それを文章にする新聞記者であり、局次長にまでなった富さんは、つまり活字文化の先端を歩んでいたわけだ。それなのに、なぜ伝承したものを文章化しないのか。

「文字は、ただの記号です。本当の感情を伝えることができるものは肉声しかない。しかも文章にして残せば、敵方に奪われ、迫害され、その記録を焼かれ、書きかえられてしまうおそれがある」

彼の情熱の源泉は、つねに「おれは滅亡させられた王者の末裔だ」と思うことにあった。大国主命から出雲の国を奪った天孫族は、大国主命の血筋を完全に寝絶やしにするため、どれほど苛酷な迫害をくり返したことか。

簸川郡富村に、富家の先祖を祀った富神社がある。その紋章は、亀甲のなかに大根が2本、交差した図柄だ。荒れ果てたその社殿の前で、富さんは大根の紋章を見つめた。

「うちの紋章は、亀甲の中にホコが2本、交差したものだったのです。それを貞観2年といいますから、平安時代に大根に変えさせられたんですよ、ときの権力者にね。ホコは王権の象徴ですから」

紋章ばかりではない。富という性まで変えさせられた時代がある。大社の町の旧家では、富さんのことを、「向(むかい)さん」と呼ぶ。平安時代から明治維新まで、富になったり向になったり、合計11回も家名を変えたものだという。

「敵の力が強いときは、向になるんです。情勢がよくなれば誇りをもって富に戻す機をうかがって、流れに逆らわずに生きる。これが出雲人なんですよ」

先祖の中には、毒殺された者が数名。つい数代前の当主は、迫害から身を守るために狂人のまねをした。

作家の司馬遼太郎氏は、つぎのように言う。

「私もサンケイ新聞の記者だった時代、富さんは大先輩でね。出雲王朝の末裔だという話を聞いたことがあります。じつにロマンチックですよね。実証は不可能ですが・・・」

(転載終了)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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