https://www.sake-asaka.co.jp/blog-mononobe/20180610/ 【第九章 神器の創造と変遷<前編>】より
出雲王朝出現まで栄えた唐古鍵遺跡出土の勾玉
歴代天皇が継承する「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)は、記紀に書かれた神話の中で「天孫」(てんそん。太陽神アマテラスの孫)ニニギが「降臨」(こうりん。天から地上に下ること)してもたらしたヤサカニの曲玉(まがたま)、ヤタの鏡、クサナギの剣の三宝を指します。
ただ現実として、記紀が書かれた8世紀の時点では鏡と剣の「二種の神器」でした。不思議なことにその剣は二種類あります。一つはクサナギの剣(別名アメノムラクモの剣)。もう一つはフツミタマの剣。これについては第七章で述べました。
この章では神話と神器が創られた経緯と理由、神器が祀られる場所とその変遷を整理してたどって行くことにしましょう。
写真1:出雲王朝出現まで栄えた唐古鍵遺跡出土の勾玉
1.神器の創造
第七章物部氏と石上神宮でも触れましたが、先ずは神器が考え出された理由を整理しておきましょう。
中国では王朝の交代を「革命」として肯定します。即ち、滅んだ王朝の皇帝に徳がなかった為に天命が革(あらた)まり、新しい王朝ができたとします。王朝間の連続性は天命によって断たれます。新しい王朝は、その正当性を天によって与えられたとします。
一方、日本では新しい王朝はその前の王朝の神話や歴史を自身の歴史に組み込む「万世一系理論」によって正統性を持たせます。王朝の連続性を仮想することによって新しい王朝の権力基盤を安定させる方法です。
この考え方で編まれたものが記紀です。神武(じんむ)天皇に始まる天皇の血筋が一貫して日本を統治してきたとされました。それを証拠立てるものとして「神器」を考案しました。「私は正統なる後継者である。その証拠に神世(かみよ)から受け継がれてきた神器を持っている。」という訳です。
賢明な読者の皆様には申し上げるまでもないことですが、「神世から受け継がれてきた神器」など実在するはずもありませんし、前政権がやすやすと神器を渡してくれるはずもありません。神器はあくまでも概念上のものです。天皇家でも、神器を祀る各々の神宮でも、神器を象徴する形ある物として剣や鏡を持っているのです。
2.王朝の変遷
出雲の四隅突出型古墳模型(弥生の森3号墓)
記紀では、初代神武天皇がいわゆる出雲王朝を降した後、万世一系の天皇家が統治したことになっています。即ち王朝の変遷は出雲から天皇家への一回のみです。しかしながら纏向遺跡の発掘調査が進んだ結果、出雲王朝はなかったことが判明しました。そこで考古学の成果と記紀の分析を通じて、次のように王朝の変遷をまとめます。
先ず3世紀初頭にヒミコ(卑弥呼)を王に立てて新設された連合国家・ヤマト(邪馬台)が広い意味での日本国の始まりです。記紀は二人の初代天皇を記します。神話時代と歴史の間に位置する神武天皇(初代じんむ)、歴史時代の崇神天皇(10代すじん)です。後者に因んで崇神王朝と呼びます。この王朝を特色づけるものは、前方後円墳、鏡、太陽信仰です。
聖なる山・三輪山(桜井市)
それから200年ほど経った5世紀初め、九州から秦氏と共に東征してきた応神天皇(15代おうじん)に始まる王朝がこれに代わります。特色は、巨大前方後円墳、大土木工事、鉄製甲冑、馬具、鉄製農具、須恵器、機織り、畑作の普及です。この王朝の天皇は「物部」と形容されることから物部(もののべ)王朝とします。
約百年後、西暦507年に即位する継体天皇(26代けいたい)に始まる王朝は蘇我王朝です。蘇我王朝は645年の乙巳の変で蘇我本家が滅んだことを以て終わり、現代に続く天皇家の時代になります。
写真2:出雲の四隅突出型古墳模型(弥生の森3号墓)
写真3:聖なる山・三輪山(桜井市)
3.最初の王朝交代
記紀によれば初代神武天皇は九州から東征し、奈良盆地に入ります。神武天皇は天から降臨したニニギの子孫です。奈良盆地は同じく天から降臨したニギハヤヒ神を信じる登美(とみ)長髄彦(ながすねひこ)が治めていました。記紀にナガスネヒコと出雲の関係については書かれていませんが、ナガスネヒコは崇神王朝ができるまえの奈良盆地を中心とする広い地域の支配者ですから出雲王朝の王です。
ナガスネヒコは、神武が「天神之子」(太陽神アマテラスの子孫)であることを知りますが従わず、ニギハヤヒ神に殺され、一族は神武に服従します。
その後、神武は大物主(おおものぬし。奈良盆地東部の三輪山に祀られる神。出雲の神・大国主に同じ)の孫・ヒメタタライスズ姫(古事記では、大物主の娘)を娶ります。
ここで、神武登場まで真面目に日本書紀を読んできた人なら「何でやねん!」と大きな疑問が湧くはずです。神話時代が終わって、ようやく初代天皇の件(くだり)になったと思っていると、現実世界で征服された出雲王が信じていたニギハヤヒ神を差し置いて、「179万2千4百70余年」以上前に登場した大物主神の孫娘が出てくるのです。その理由は、後編17.天孫降臨と神武天皇の創造で述べます。
ともかく、姫の名の「タタラ」は製鉄の溶鉱炉、「イスズ」は水辺に鈴なりになる原料の褐鉄鉱。出雲の製鉄技術を継承したことを暗示します。二人の間に生まれるのが第二代綏靖(すいぜい)天皇です。記紀の上では出雲から崇神へ、二つの王朝を接続する神話が創られたのです。
4.最初の神器の可能性
崇神王朝は、後にフツミタマと呼ばれる神器剣を創った可能性があります。記紀の記述では、フツミタマの剣は神武が登美ナガスネヒコを征伐する過程で、窮地を脱する時に使われました。
日本書紀ではニギハヤヒに「饒速日」という字が当てられています。太陽神です。ニギハヤヒは「天神之子」と書かれています。神武天皇も太陽神アマテラスの子孫で「天神之子」。共通する「天神之子」という表現を以て、ニギハヤヒも太陽神アマテラスの子孫であることが暗示されています。
その共通の祖先神アマテラスを象徴する神器としての鏡を創った可能性もあります。崇神王朝が造営した前方後円墳には多くの鏡が副葬され、鏡への嗜好が明確です。この点については、後に述べます。
実はこの時点では共通の太陽神をアマテラスとは呼んでいません。前章で述べたようにアマテラスは7世紀末、藤原不比等(ふひと)と持統(じとう)天皇が生み出した名称です。
崇神王朝は太陽神を何と呼んでいたのか。ニギハヤヒと呼んだはずです。それは次の物部王朝にもニギハヤヒ信仰が引き継がれたことで解るのです。
5.接続神話
記紀によれば物部氏は、ニギハヤヒと出雲王朝最後の王・登美ナガスネヒコの妹との間に生まれたウマシマジを祖先としています。
ニギハヤヒは太陽神、即ち神ですから現実として結婚はありえず、征服者であろうウマシマジを正当化する為に作られた王朝間の接続神話のようです。とするならばこの神話を作ったのは崇神王朝であり、物部氏は前王朝の神話を受け継いだことを意味します。
上記3.最初の王朝交代で記紀に書かれた出雲王朝から崇神王朝への接続神話を記しましたが、ここで最初の王朝交代における接続神話の当初の形を確定すると共に、後に記紀において記された内容との対比を行っておきましょう。
当初の形は太陽神ニギハヤヒが十種神宝(とくさのかんだから)を持って降臨し、太陽神を信仰する前王朝の王(神)の妹と結婚。生まれたのが征服者(継承者)のウマシマジです。即ち、太陽神の降臨があり、その太陽神は共通の信仰の対象であり、その太陽神と被征服者の神の妹との婚姻により生まれたのが征服者であるとして、征服者の正統性を担保するという形でした。
次は記紀。先ず太陽神アマテラスの孫・ニニギが三種の神器を持って降臨し、ニニギの子孫で、神話と歴史の間に位置する神武天皇が前王朝を征服し、前王朝の神・大物主の(孫)娘と結婚し、生まれるのが継承者・綏靖天皇(2代すいぜい)です。神武は初代天皇として統治も行っていますので、神と征服者を兼任しています。
太陽神ニギハヤヒの役割は、太陽神アマテラス、その孫・ニニギ、その子孫・神武天皇が担うことになりました。日本の歴史を長く見せるために神を分化し複雑にしたのですが、これについては後に述べます。
ウマシマジの征服者としての役割は神話と歴史の中間にあたる神武天皇が、前王朝の継承者としての役割は婚姻によって生まれた綏靖天皇が担うことになりました。この綏靖天皇は日本の歴史を長く見せる為の架空の存在で(欠史八代。18.歴史の延長で述べます)、実態は崇神天皇です。
物部王朝は前王朝の歴史も自身のものに組み込みました。崇神王朝最後の仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の間に生まれた応神(おうじん)天皇が物部王朝初代です。やはり王朝間の接続話を創ったのです。それは王墓の形状として前方後円墳を継承したことで裏付けられます。
6.物部王朝の神器
石上神宮宝物(同宮絵葉書より)
今日、物部氏ゆかりの石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)は、ニギハヤヒが天から地上にもたらした十種神宝に宿るフルミタマ神を祀ります(十種神宝は現存せず)。
この章の冒頭にニニギが天孫降臨によって三種の神器を地上にもたらしたと記紀に書かれていることを述べましたが、それに先だってニギハヤヒが天より降臨する神話が創られていたことが解ります。
十種神宝は、剣1種、鏡2種、比礼(ひれ。振ることによって力を持つ、神事に用いる道具)3種、玉4種です。この十種神宝は、後に生み出される三種の神器の前の形であろうと推測できます。
今日、石上神宮の主祭神はフツミタマです。フツミタマの元はこの十種神宝の剣であったものが、後に天武天皇が石上神宮創建にあたって「フツミタマ剣に宿る神」として独立させたものと私は考えます(注)。
第七章で述べましたが、物部王朝は神代から受け継がれる神器である十種神宝の実在感を高めるために神宝(神器)を祀る社(やしろ)を建てました。それが石上神宮の前身、石上社です。
注:日本後紀桓武天皇延暦23年(804)2月、石上社の兵仗(ひょうじょう。神器ではない武器)を移したところ天皇が病気になり怪異が起こる。この時の鎮魂の対象がフツミタマではなく十種神宝に宿るフルミタマであったことからフツミタマの原点は十種神宝にあったことが解る。
「兵仗を移した」理由について。桓武天皇は物部の血を強く意識しており(第五章天武天皇10.桓武の郊祀をご参照下さい)、物部王朝が考案した神器・十種神宝を祀る石上神宮の純化を図るためにそれ以外の武器類の保管場所を別に求めたものと筆者は推測する。
写真4:石上神宮宝物(同宮絵葉書より)
7.物部王朝の神話と歴史
この当時、天皇の呼称はまだ使われていませんが、天皇という語を使って物部王朝の神話と歴史を整理すれば次の通りです。
太陽神ニギハヤヒの降臨(十種神宝の創造)
↓
出雲王朝の滅亡
↓
ニギハヤヒと出雲王朝の神の妹の結婚、
ウマシマジの誕生(王朝間の接続神話)
↓
崇神王朝の成立
↓
仲哀天皇と神功皇后の結婚、
応神天皇の誕生(王朝間の接続話)
↓
物部王朝の成立
8.蘇我王朝
蘇我王朝の初代継体(けいたい)天皇は、前王朝の初代応神(おうじん)天皇の五世孫。王朝間の接続は容易でした。
現実としても蘇我王朝は前王朝の物部氏と姻戚関係を結びました。物部氏の勢力は強く残存しており、継体は太子、皇子と共に殺され8年間の抗争が起きます(第三章1.継体天皇の次世代を参照下さい)。やがて即位した欽明(きんめい)天皇、次の敏達(びだつ)天皇は蘇我と物部のハーフです。
587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼしますと物部の血は不要ですが、その後も物部の血が入った天皇を傀儡(かいらい)として擁立し続けました。蘇我と物部の混血が天皇の血筋となり、今日に続く天皇家の概念が生まれます。
その天皇家から聖徳太子という素晴らしいリーダーが生まれたのは蘇我氏の誤算でした。死後も太子の評価は上がる一方です。それにつれて太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の人望も高まったため、蘇我氏は643年に一族を皆殺しにします。
そこに天皇家の逆襲が待っていました。645年、天皇家によって蘇我本家が滅ぼされるのです。蘇我王朝の滅亡、そして今に続く天皇家の時代の始まりです。
9.歴史書編纂
672年、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武(てんむ)は、天皇を中心とした中央集権国家の建設に邁進します。「天皇」の呼称を始めたのが天武天皇です。中国の「皇帝」を意識してのことでした。それまでは「大王」(おおきみ)だったのです。
天武は日本を中国に対抗できる立派な国家にしようと考えました。中国は広大な国土と膨大な人口を擁します。そして長い文明と歴史を持ちます。日本も長い歴史と文明を持ち続けてきたという記録を残さなければなりません。
中国は絶対的な権力を持つ皇帝が統治します。日本も絶対的な力を持つ天皇が神代(かみよ)から統治してきたとする歴史を作り、天皇を神格化し、未来に向けて天皇による統治を容易にする歴史書を作ることにしました。
10.二つめの神剣
出雲建雄神社
天武は、太陽神ニギハヤヒが地上にもたらし出雲王朝の征服に役立った剣を「フツミタマ」として、十種神宝から独立した神剣として祀ることにしました。その上で二つめの神剣を創造します。クサナギの剣です。
第七章に書きましたが石上神宮の摂社・出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)に書かれた由緒では、「出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐す。今を去ること千三百余年前、天武天皇朱鳥元年、布留川上日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、『今、此の地に天降り、諸の氏人を守らん』と宣り給い、即ちに鎮座し給う。」とあります。即ち、天武天皇治世の末年に石上(いそのかみ)で祭祀が始まりました。
写真5:出雲建雄神社
11.二つの理由
なぜ二つめの神剣を創る必要があったのでしょう。天武はフツミタマの剣に欠陥があることに気づきました。なぜならこの剣は最初の出雲王朝の征服に役立ったものであり、出雲王朝から継承されたものではないからです。
天武は王朝間の連続性を強化するほど長い歴史の頂点に自身が立つことになり、盤石な中央集権国家が形成できると考えました。その為には最初の出雲王朝から受け継がれた剣が必要でした。
まず天武は太陽神ニギハヤヒとは別に、ニギハヤヒの祖先として太陽神オオヒルメを創造しました。おそらく出雲で祀られていたであろう神・スサノオをオオヒルメ(古事記、日本書紀編纂時に「アマテラス」に改変)の弟ということにします。
スサノオは天下り、退治した八岐大蛇(やまたのおろち)からクサナギの剣を得ます。そしてスサノオの子が大国主(おおくにぬし)、即ち出雲王朝の王(神)ということにしました。クサナギの剣こそ初代出雲王朝が成立する前から存在し、連綿と受け継がれてきた神器となったのです。
天武天皇が創造した神話と歴史は次のようなものだったと推測できます。
創造神イザナギとイザナミの結婚
↓
太陽神オオヒルメの誕生
↓
オオヒルメの弟・スサノオの降臨
↓
八岐大蛇退治(クサナギの剣の神話)
↓
スサノオとクシイナダ姫の結婚、
大国主の誕生、大国主による国造り
出雲王朝の成立
↓
太陽神オオヒルメの子ニギハヤヒ神の降臨
(フツミタマ剣の神話)
↓
大国主(大物主)の国譲り
↓
ニギハヤヒ神と大物主の妹の結婚、
ウマシマジ(綏靖天皇)の誕生(王朝間の接続神話)
崇神王朝の成立(これ以前は神話、以後は歴史)
↓
ヤマトタケルの遠征(クサナギの剣の神話)
↓
仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の結婚、
応神(おうじん)天皇の誕生(王朝間の接続話)
物部王朝の成立
↓
継体(けいたい)天皇(応神天皇の五世孫)
(蘇我王朝)
↓
天武天皇
12.神器鏡の再生
石上神宮楼門(重要文化財)
天武は太陽神オオヒルメの象徴として神器鏡を創造しました。その鏡を祀るために伊勢神宮を、フツミタマの剣を祀るために石上神宮を創建しクサナギの剣を加えました。天武が創った「神宮」とは、「宮」の文字が示すように神器を安置し祭祀を行う役所・斎宮(さいぐう)のことでした。
石上神宮拝殿(国宝)
天武が神器鏡を創造したのは、初めて神器の鏡を創造したであろう崇神(すじん)王朝を意識してのことでした。なぜそのようなことが言えるのか。
崇神王朝が奈良盆地に最初に造った大前方後円墳・箸墓(はしはか)古墳は同王朝の始祖王・崇神天皇墓(ヒミコ墓の可能性が高い。第十五章で述べる)とみられますが、その古墳と、そのそばの太陽を祀る桧原(ひばら)神社、伊勢神宮斎宮跡が同緯度に並んでいるからです(小川光三氏が発見した「太陽の道」。詳しくは第十五章で述べる)。
太陽は始祖王墓の真東(まひがし)、伊勢神宮の彼方から昇ります。明確に太陽と鏡を意識して斎宮の場所を選んだことが解ります。
写真6:石上神宮楼門(重要文化財)
写真7:石上神宮拝殿(国宝)
13.山の神
天武が創った神器の鏡は、太陽神のみならずもう一つの神を象徴していました。生死を司り、豊穣をもたらす山の神です。山の神の象徴は蛇。「カガミ」の「カカ」は蛇の古語。「ミ」は身。鏡は蛇神を映すもの、山の神の象徴でもあったのです。
この山の神信仰は弥生時代に始まるもので、その前の唐古・鍵(からこかぎ)遺跡を残した人々にも共通したものでした。崇神王朝も持っていたはずです。天武は鏡と共に山の神信仰も再生したのです。山の神信仰については第十四章で詳しく述べます。
天武は山の神を神話と歴史に織り込みましたが、後に記紀が編纂される時にその記述は削除されてしまいます。意図的であったかどうかは解りませんが、次の箇所には明確に残りました。
天武はクサナギの剣を創造し、その実在感を高める為にヤマトタケルの東国遠征のくだりを挿入します。第12代景行天皇の世、皇子ヤマトタケルはクサナギの剣を持ち東国遠征に向かいます。
「クサ」は猛々しいという形容詞で、クサナギの剣とは「ギラギラ光る切れ味抜群の剣」といった意味ですが、その剣で草をないで危難を切り抜けたので草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったとする駄洒落(だじゃれ)のような一説も記して印象を高めています。その後、剣を持たずに出かけたヤマトタケルは伊吹山(いぶきやま)で山の神との戦いで消耗し、これが死につながります。
クサナギの剣自体、スサノオが退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出たものです。大蛇に呑まれようとするクシイナダ姫、その老父母アシナヅチ、テナヅチ、その祖先ヤマツミ神の名は全て蛇神を意味しています。即ち、それぞれ「櫛稲田姫」、「足無つ霊(ち)」、「手無つ霊」、「山つ蛇(み)神」です。
櫛は蛇の象徴であり蛇は稲田の守護神、蛇には足も手もありません(吉野裕子著「山の神」第一章)。クシイナダ姫とスサノオの子が出雲の王(神)大己貴(おおあなむち。大国主に同じ)です。
太陽神の弟であるスサノオが天から降臨し、稲作農民を象徴する山の神の娘・クシイナダ姫と結婚し、その間に生まれた子で太陽神の子孫でもある大国主が出雲を征服し、そして日本を支配したとする神話です。
私は本章5.接続神話 で、「物部氏は、ニギハヤヒと出雲王朝最後の王・登美ナガスネヒコの妹の間に生まれたウマシマジを祖先としています。(中略)征服者であろうウマシマジを正当化する為に作られた王朝間の接続神話のようです。」と述べました。
出雲王朝の初代であり征服者の大己貴(大国主)と崇神王朝の初代であり征服者のウマシマジが相似関係にあることが解ります。
https://www.sake-asaka.co.jp/blog-mononobe/20180710/ 【第九章 神器の創造と変遷<後編>】より
14.神話の完成
686年に天武(てんむ)天皇が亡くなると藤原不比等(ふひと)の時代がやってきます。不比等は天智(てんち)天皇の子であり天皇家に娘を嫁がせる藤原家の実質上の初代です。天武は天智を暗殺し、壬申(じんしん)の乱で天智の子である弘文天皇を自決させたことは第五章で述べました。不比等は天武を憎んでいます。
690年、中国・唐の高宗の皇后・武則天(ぶそくてん)が皇帝に即位し、国号を周と改めました。国の乗っ取りです。都も長安(ちょうあん)から洛陽(らくよう)に遷し、神都(しんと)と改名しました。武則天は、中国史上初、そして唯一の女帝です。
不比等は天武天皇の皇后を持統(じとう)天皇として擁立しますが、周にならってその即位年を武則天と同じ690年にします。建設途上の藤原京に代えて、神都と同緯度に平城京を建設します(第十四章で詳しく述べます)。
不比等は、天皇を中心とした中央集権国家建設の一環として天武が編纂した歴史書に手を加えます。神話を更に長く複雑なものにし、歴史時代の始まりを千年近く遡らせて延長することで、日本が長い歴史をもつ立派な国であるように偽装しました。完成したものが古事記と日本書紀です。天皇家の神格化は一層進み、頂点に立つ天皇の地位は一段の高みに上がりました。
主たる改変は、神話時代から実質上の初代天皇である崇神(すじん)にかけての部分で行われました。次にその流れを記します。不比等が新たに盛り込んだ部分には左側に「*」と、以下で触れる段落の番号を付けました。
創造神イザナギとイザナミの結婚
↓
太陽神オオヒルメの誕生
↓
*15 イザナミの死
↓
*15 太陽神アマテラスの誕生
↓
アマテラスの弟・スサノオの降臨
↓
八岐大蛇退治(クサナギの剣の神話)
↓
スサノオとクシイナダ姫の結婚、
大国主の誕生、大国主による国造り
出雲王朝の成立
↓
*16フツヌシとタケミカヅチの降臨
(フツミタマの剣の創造)
↓
*16大国主の国譲り(一回目。神話時代)
↓
*17 ニニギの天孫降臨(三種の神器の創造)
↓
*17 神武天皇の誕生
↓
登美ナガスネヒコの国譲り(二回目。歴史時代)
↓
初代神武天皇と大物主の孫娘の結婚、
二代目綏靖天皇の誕生(王朝間の接続神話)
↓
*21 二代目から九代目まで架空の天皇(欠史八代)の創造
↓
第十代崇神天皇(実質上の初代天皇。これ以降歴史時代)
15.アマテラスの創造
山の神信仰を含んだ太陽神オオヒルメは不要です(山の神信仰が太陽信仰と結びついたことについては第十四章で詳しく述べます)。「皇祖神」(皇室の祖とされる神)の概念を明確にし、純粋な太陽神アマテラスを皇祖神として創造します。
その方法はかなり杜撰(ずさん)です。天武が創った太陽神オオヒルメはそのまま残し、重ねて太陽神アマテラスを生むことにします。即ち、創造神イザナギとイザナミ夫婦が日本列島、オオヒルメ、月の神ツクヨミ、スサノオを生んだ後、女神イザナミが死にます。
男やもめになったイザナギがアマテラスを生み、ツクヨミ、スサノオを重ねて生みます。多くの「一書」(別の書物)を引用してオオヒルメの別名がアマテラスであるかのような記述も盛り込みました。
矛盾に満ちた複雑で長いものになりましたが、それは不比等の狙ったところでした。長くて複雑なほど日本は中国に対抗できる長い歴史と文明を持つことになるからです。
伊勢神宮斎宮の南東には手つかずの照葉樹林に覆われた丘陵地が拡がります。不比等と持統天皇はここにアマテラスが住む神殿を建てます。これが今日まで続く伊勢神宮であることは前章で述べました。
伊勢神宮斎宮(さいぐう)は維持しますが、祭神をアマテラスに変え、それを象徴する鏡を取り替えたであろうことは想像に難くありません。
16.二度の国譲りとフツヌシ神の創造
天武天皇はフツミタマの剣の欠陥に気付き、最初の出雲王朝成立前から受け継がれるクサナギの剣を創造しましたが、フツミタマはそのまま残されました。
不比等は、国譲りの話を一回増やして二回にし、フツミタマの欠陥を補います。
先ず、タケミカヅチとフツヌシの二神が降臨し、出雲王朝の大国主が国を譲ることにしました。フツヌシ神はフツミタマの剣に宿る神を象徴しています。その後神武天皇が東征し、フツミタマの剣で窮地を切り抜け、登美ナガスネヒコが国(出雲王朝)を譲ります。
即ち、出雲王朝を二つに分け、神話時代に設定された出雲王朝は大国主が国を譲り、歴史時代に設定された初代神武天皇の東征においては登美ナガスネヒコが国を譲ります。その二回の国譲りにおいてフツミタマが役に立ちます。
フツミタマの剣は出雲王朝成立以前から皇祖神アマテラスの住む天の世界に存在したという設定であり、フツミタマの剣は、地上で得られたクサナギの剣より古く尊い存在になったのです。
実は、日本書紀に先行して完成した古事記には肝心のフツヌシ神の降臨が抜けています。古事記編纂時点では、以下に述べる歴史の延長を目的として先ずは「二度の国譲り」を創造し最初の国譲りではタケミカヅチだけを降臨させました。
第十四章で述べますが、タケミカヅチは平城京の守護神として創造されたものです。8年後の日本書紀完成までにフツヌシ神を創造してフツミタマの剣の欠陥を補ったことが解ります。
17.天孫降臨と神武天皇の創造
そもそも国譲りで出雲王朝に国を譲らせたのは、降臨した太陽神ニギハヤヒでした。本来「国譲り」は神話時代に押し込められた出雲王朝から現実の王朝への接続神話です。
不比等はこれを二回に分け、一回目は新しい神タケミカヅチとフツヌシを降臨させました。二度の国譲りを設定した不比等としては二回目は歴史時代の出来事にしなければなりません。神を降臨させる訳にはいきません。そこで初代神武天皇を登場させました。神武の在位は76年とし、この後述べる「歴史の延長」にも利用します。
神武登場を具体的に見てみましょう。不比等は新しくニニギ神を創造し、神話時代の国譲りの後、三種の神器を持って降臨したとし、海幸彦(うみさちひこ。隼人の祖先)と山幸彦(やまさちひこ。神武天皇の祖父)の神話を挿入した上で、ニニギ降臨から「179万2千4百70余年」後に神武(じんむ)が東征し、国を譲り受けることにします。
神武の結婚相手は、神話時代の出雲の王である大国主の孫・ヒメタタライスズ姫(3.最初の王朝交代 をご参照下さい)。実在を前提とする初代天皇にもかかわらず何十万歳かの嫁をもらったわけで、明らかに神武は神話と歴史の中間の存在になっています。
こうして太陽神ニギハヤヒの果たした役割を太陽神アマテラス、タケミカヅチとフツヌシ神、それにニニギ神と神武天皇が分担することになり、ニギハヤヒ神の出る幕がなくなってしまいました。ニギハヤヒ神は隅っこに追いやられたのです。その追いやられ方はひどいものです。征服した側から外され、単に征服された登美ナガスネヒコが信じる神になったのです。
18.海幸彦と隼人
海幸彦が出たところで隼人について考察しておきましょう。
記紀は、応神天皇の北部九州から大和への東征における海上輸送と水軍、秦氏の朝鮮半島から大和に至る移住を助けた海上輸送、物部王朝の海上交通と交易、雄略天皇による百済再興のための大規模な兵力の輸送を担った者の記述を欠きます。しかし意図的に一切の記録を消す理由はなく、何かしらの手掛かりが残るはずです。
記紀に隼人の祖は海幸彦とあります。日本書紀の海幸彦山幸彦の神話は4つの異説(「一書」)を挙げるなど長文であり、意図的に重点を置いたことは明らかです。記紀に「天皇と同じ太陽神アマテラスの子孫である『海幸彦』を祖とする」と設定された隼人こそが航海の民であり、物部王朝の盟友として海上輸送、海上兵力を支えたものと私は考えます。
隼人の拠点はどこにあったのか。これも記紀に手掛かりがあります。ニニギは日向(ひゅうが。現在の宮崎県と鹿児島県。後に薩摩と大隅が分離)の高千穂に降臨し、コノハナサクヤヒメとの間に海幸彦、山幸彦が生まれます。
高千穂は霧島連山にあり、その東は大淀川水系を成し下流は宮崎平野。南は菱田川水系を成し、鹿児島県大隅半島東側、志布志湾に流れ込みます。この地域には4世紀中頃から5世紀後期にかけて大古墳が築かれ(宮崎県の生目古墳群と西都原古墳群、大隅半島北部の唐仁古墳群と横瀬古墳)、相応の地方勢力の存在が推定できます(注)。
日本書紀に隼人の居住地が最初に記されるのは天武天皇11年(682)7月。大隅と阿多(現在の鹿児島県南西部)の隼人が朝廷で相撲を取ったとあります。日向国から薩摩国が分離するのは702年、大隅国が分離するのは713年ですから、この時点で日向国の南部(宮崎県南部から鹿児島県)は隼人の根拠地であったことが確認できます。ニニギが降臨したとする高千穂は隼人の聖なる山だったのです。
注:主要古墳一覧
古墳名 墳形 所在地 墳丘長 築造時期
生目古墳群3号墳 前方後円墳 宮崎市 137m 4世紀中頃
唐仁大塚古墳 同 鹿児島県肝属郡 140m 4世紀末
女狭穂塚古墳 同 宮崎県西都市 176m 5世紀前半
男狭穂塚古墳 帆立貝形古墳 宮崎県西都市 176m 5世紀前半
横瀬古墳 前方後円墳 鹿児島県曽於郡 137m 5世紀中-後半
19.隼人と大王
久津川車塚古墳後円部(城陽市平川車塚。5世紀前半)
記紀では応神天皇と仁徳天皇が日向の媛を娶ります。媛は隼人の王女のはずです。応神天皇は泉長媛。この婚姻により隼人の海上輸送と水軍の協力を得て応神は朝鮮半島南部を支配すると共に、物部王朝を開くことができたのでしょう。
皇子の仁徳は髪長媛。二人の間に大草香皇子と若日下部王が生まれ(第二章13.番狂わせ系図をご参照下さい)、若日下部王は雄略天皇の皇后になります。
日本書紀の隼人初出は、仁徳天皇没後(420年頃)の王位継承争いとみられる墨江中王の乱。中王を裏切る近習として登場します。雄略天皇の葬儀(503年と推定)にも近習の隼人が悲しみのあまり食事が喉を通らず死ぬ記事があります。
5世紀を通して隼人の一定の地位のある者が大王(天皇)と極めて近い関係を維持していたようです。第二章前編で「仁徳天皇が磐之媛のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定め」葛城が百済の拠点となっていたこと、「百済から極めて地位の高い王族が、おそらく途切れずに日本に派遣され」いわゆる大使の役割を果たし、「天皇に嫁いだ百済王女を支援すると共に、次の天皇もしくは次期天皇と目される皇子に百済王の媛を嫁がせることを主たる任務としていた」ことを書きました。隼人と王家の関係もこれと同様であったと私は考えます。
船が描かれた円筒埴輪(久津川車塚古墳出土。城陽市歴史民俗資料館展示物)
二つの記事の「近習隼人」は隼人の王族であり、地名から京田辺市大住(おおすみ)を中心とした地域を拠点にしたと推測できます。大住は木津川が巨椋池に流れ込む地点にあり、巨椋池から淀川を30km下れば大阪湾(瀬戸内海)に至ります。
木津川を挟んだ対岸の城陽市にはこの地域最大の前方後円墳・久津川車塚古墳(5世紀前半。墳丘長180m)があり、この古墳には三角の帆を張る船が描かれた円筒埴輪が並べられました。
大草香皇子は妹・若日下部王と大長谷王(後の雄略天皇)の結婚をめぐって殺されます。百済と隼人の間で、媛を天皇や皇子に嫁がせる競合があったのです。
西都原古墳群の女狭穂塚(めさほづか)古墳(5世紀前半)は、上石津ミサンザイ古墳(5世紀初頭-前期。堺市西区石津ヶ丘。宮内庁は履中天皇陵とするが、筆者は築造年代から仁徳天皇陵と推定。第13章注書きを参照下さい。墳丘長365m)と相似形で、前者は後者の墳丘長の48.3%、後円部高52.9%です。大草香皇子が母の母国日向の女狭穂塚古墳に葬られ、父・仁徳の墓の1/2の規模で造成されたと考えれば辻褄が合います。
写真8:久津川車塚古墳後円部(城陽市平川車塚。5世紀前半)
写真9:船が描かれた円筒埴輪(久津川車塚古墳出土。城陽市歴史民俗資料館展示物)
20.隼人の凋落
隼人は、天智天皇の百済再興を目指した朝鮮半島出兵の海上輸送と共に水軍の主力を担い、白村江の敗北(663年)の結果、勢力が衰えたものと私は考えています。
隼人は713年、大隅国の設置に伴い反乱を起こします。その後日本書紀が完成する720年にも大規模な反乱を起こしますが鎮圧され、律令体制に組み込まれます。
不比等は記紀編纂にあたり、隼人の反乱を鎮め、統治を容易にする為に隼人の聖地・高千穂をニニギ降臨の場所に選んでニニギを天皇家と共通の祖先神としました。飴です。
古事記はニニギの妻・コノハナサクヤヒメの本名をカムアタツヒメ(アタの女神)と記します。アタ(阿多)は鹿児島県南西部。隼人を追いやりたい辺境地アタの地名を入れてそこがあたかも隼人の母国であるかのように記したのです。
日本書紀の海幸彦山幸彦神話第二の「一書」の最後に「是以火酢芹命苗裔諸隼人等至今不離天皇宮墻之傍代吠狗而奉事者矣」(海幸彦が神武天皇の祖父である山幸彦に仕えるようになったので、海幸彦の後裔である諸々の隼人は、今に至るまで天皇の内裏の傍らを離れず番犬になりお仕えしているのだ)とあります。
隼人はその始まりから今に至るまで番犬に過ぎなかったという朝廷に都合の良い歴史を創ったのです。そして隼人の反発を和らげる為に、4つもの「一書」を並べてその中に埋もれる形にしました。その上でそれを実体化する目的で朝廷に「隼人司」を置きました。
尚、宮崎県西臼杵郡(にしうすきぐん)にも高千穂があります。隼人の元の聖地はここであったものが、船材用の木材資源の枯渇から本拠を南方に移したとも考えられます。
21.歴史の延長
中国の初代王朝・夏(か)ができたのは紀元前二千年。不比等が生きた時代に中国は二千七百年の歴史を持ちました。一方日本は、3世紀にヤマト国(邪馬台国)ができてから五百年の歴史しかありません。不比等は、歴史を延ばそうと考えました。方法は簡単です。
神武天皇の即位を九百年余り遡らせ、紀元前660年(昭和15年を皇紀2600年とした場合)とします。浮いたその九百年間に架空の天皇八代を設定したのです。第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化(かいか)天皇まで。この間、記紀には事績や物語がほとんど書かれていません。これを「欠史八代」(けっしはちだい)と言います。
第十代崇神(すじん)が実質上の初代天皇。日本書紀も神武天皇と同様、「ハツクニシラス」(初代天皇)とします。
初代神武天皇と欠史八代で九百年を埋めるのは困難ですので、崇神天皇の即位も実際よりはかなり古く設定され、寿命も百二十歳。この後の天皇も延長した歴史を埋める為に16代仁徳天皇に至るまで長寿にされます。
22.鹿島神宮と香取神宮
物部王朝が祀り始めた住吉大社
神器に戻りましょう。
不比等は皇祖神アマテラスを祀る神殿を建設しました。斎宮にはアマテラスを象徴する神器鏡を祀りました。次は、二つの神剣を祀る神社の建設です。
不比等は、二つの剣のみならずニギハヤヒ神がもたらした十種神宝(とくさのかんだから)や物部王朝の宝物を併せて祀る石上(いそのかみ)神宮に代わって、純粋に神器剣を祀る鹿島(かしま)、香取(かとり)、熱田(あつた)の三つの神社を造ります。
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)にはタケミカヅチ神が祀られ、フツミタマの剣を神宝としています。香取神宮(千葉県香取市)にはフツヌシ神を祀ります。フツヌシ神がフツミタマの剣を象徴していることは第七章5.二種類の神剣で述べた通りです。
これら二社が石上に代わってフツミタマを祀る存在になりました。二社になった理由は、先に述べたように平城京の守護神として先ずはタケミカヅチを創造し、タケミカヅチだけを祀る鹿島神宮を建設しましたが、日本書紀ができるまでの間にフツヌシを創造しましたので別に香取神宮を建設せざるを得なくなり、そうすると神器と関係のないタケミカヅチの重みが減る為、やむなく鹿島神宮もフツミタマの剣を祀ることにしたのでしょう。
物部守屋を追悼する善光寺
石上は国家級の祭祀を行う場所ではなくなりました。平安時代、927年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢、鹿島、香取の三社のみが神宮で、石上が抜け落ちています。
尚、鹿島、香取は「神宮」とは言うものの、斎宮は伴っていません。高い格付けを表す為に「神宮」の呼称が使われるようになったのです。
写真10:物部王朝が祀り始めた住吉大社
写真11:物部守屋を追悼する善光寺
23.熱田神宮
もう一つの神剣・クサナギは熱田神宮(名古屋市)に祀ります。熱田は鹿島、香取に比べて神階が低かったのですが、いつのまにか神宮を名乗るようになります。
熱田神宮では、ヤマトタケルの死後、その妃が剣を熱田に祀ったのが神宮の始まりとしています。
日本書紀には天智天皇7年(668)、「新羅僧道行が盗んで新羅に持ち帰ろうとしたが、船が難破し戻った」とあります。熱田神宮では、熱田神宮から持ち出されたものが宮中に戻され、朱鳥元(686)年、天武天皇崩御前の病気を機に熱田に戻されたとします。朱鳥元年といえば石上で祀り始めた年です。熱田が石上にとって代わったことを示します。
24.熱田神宮その後
熱田神宮は鎌倉時代にも栄えます。源頼朝(みなもとのよりとも)の生母が熱田神宮の大宮司藤原季範(ふじわらすえのり)の娘だったのです。室町時代も守護・斯波(しば)氏の保護を受け、織田信長の寄進も得ました。一時衰退しますが、貞享3年(1686)、徳川五代将軍綱吉が再興。綱吉が帰依した真言宗豊山派の寺として生まれ変わります。
明治維新の廃仏毀釈により、ほとんどの建物は破壊され、記録も失われてしまいました。新たに国家神道を担う熱田神宮としての再出発です。記紀に書かれた三種の神器・クサナギの剣を祀っていることが権威付けに役立ちました。
大日本帝国拡大の為に戦争が続きましたので「戦の神」として大繁盛しました。しかし、敗戦を経て平和国家になった現代日本では、何とも収まりの悪いことになってしまいました。ただ今日も多くの参拝者で賑わいます。それは伊勢、鹿島、香取、石上と同様にこの国の成り立ちに関わる神器に宿る神が祀られているからに他なりません。
第九章終わり
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