仏教伝来による、波紋と対立

https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/masumasu/taika/taika01/index.html 【仏教伝来による、波紋と対立】より

spot1 向原寺(豊浦宮・豊浦寺跡)

『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552年)10月、百済の聖明王より献上された仏像を、蘇我稲目は、小墾田(おはりだ)の向原(むくはら)の家を浄めて祀った。この向原の家が日本仏教伝来根元最初の寺。しかし当時、国内で疫病が流行し、物部尾輿はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判。向原の寺を焼き、仏像を難波の堀江に投げ込んだ。

現在、甘樫丘近くに建つ向原寺(こうげんじ)は、蘇我稲目の「向原の寺(家)」とされ、後に推古天皇が豊浦宮を造営。10年後、小墾田宮へ移った際、蘇我馬子に授与された。馬子は法興寺の妹寺、本格的な寺院の2番目として豊浦寺(とゆらじ)を建立。日本最古の尼寺であり、百済仏教伝来の寺、元善光寺である。

近年の発掘調査により、向原寺境内地及び周辺地から、豊浦寺創建当時の講堂跡、金堂跡、塔跡等が見つかり、さらに豊浦寺遺構の下層からは推古天皇豊浦宮跡かと目される遺構が確認された。

向原寺にある絵巻

向原寺にある絵巻には、難波の堀江に仏像が投げ込まれた様子などが描かれている

「なんば池」の文字が刻まれた石灯籠が構える「百済伎楽伝来の地」顕彰記念碑

推古天皇20年(612年)に百済より伎楽が伝わり演じられた「百済伎楽伝来の地」顕彰記念碑

池の真ん中に小さな祠が立つ

難波池

物部尾輿が「向原の寺(家)」を焼き払った際、仏像を「難波(なにわ)の堀江」に投げ込んだ。しかし、その後も疫病は続き、仏像は再度「難波の堀江」に投げ込まれる。現在の向原寺の寺域内には、これにちなんだ「難波池」があり、思わず池の底を覗き込んでみたくなる。

「難波の堀江」の名は、長野県の善光寺の創建にも登場する。『善光寺縁起』によると、信濃の住人・本多善光が都へ上都の際に「難波の堀江」の前を通りかかると、物部氏に投げ込まれて池に沈んでいた仏像が金色の姿を現し、「善光こそが聖明王の生まれ変わりである」と告げる。善光はこの仏像を背負って信濃に帰り、自宅の西の間の臼の上に置いて手厚く祀ったといい、それが善光寺の始まりとされている。

飛鳥寺

本尊を安置する本堂。安居院(あんごいん)とも呼ばれる  塔の心柱を立てた塔心礎(中心の礎石)があった場所  本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)

本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)は609年造仏。現存の仏像では日本最古とされる

spot3 飛鳥寺

権力闘争に勝利した馬子は、先進文化の仏教を基盤として、厩戸皇子とともに国造りを行っていこうとした。馬子は「仏法興隆」の拠点として、東西210m、南北320mの寺域に、3つの金堂を持つ本格的寺院を建立。それが、法興寺とも元興寺ともいわれる飛鳥寺だった。当時、板葺きの建物が一般的だったなかで、瓦葺き寺院の飛鳥寺は、華やかで新しい大陸の文化を映し出していた。寺院建設には渡来人の技術が多く使われ、それまでの掘立柱式の建築から、石の上に柱を立てる礎石の技法へと建築方法が一変した。

石舞台古墳

春になると桜のライトアップもされる  横穴式石室をもつ方墳としては、日本最大級

地元から敬われ、ひっそりと供花されている

spot4 石舞台古墳

蘇我馬子の墓とする学説もある石舞台古墳。古墳時代後期の方墳で、東西約55m、南北約52m。花崗岩を積み上げて築かれた横穴式の石室が露出する。石舞台古墳がある「島庄(しまのしょう)」の一帯は、強大な権力を誇っていた蘇我氏の居住地だった。自然の中に邸宅があるのが一般的だった当時、馬子はわざわざ庭園を造り、それゆえ「嶋(しま)の大臣(おとど)」といわれたという。(もともと「しま」は「嶋」ではなく、「山斎」の意。「山斎」とは庭園のこと)

橘寺

太子建立7寺の一つ。本堂には、聖徳太子坐像が安置されている

寺の参道には、聖徳太子誕生の地を記す碑が立つ  達磨大師の化身とされる、太子の愛馬「黒駒」の像

spot5 橘寺

厩戸皇子(聖徳太子)の名は、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が宮中を散歩していたとき、厩戸に来たところで産気づき出産したのが由来ともいわれている。橘寺は、厩戸皇子出生の地と伝えられている。寺伝によると、かつてこの地に「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり、皇子は572年にここで誕生したとされている。

また皇子は606年、推古天皇に請われて、この地で「勝鬘経(しょうまんきょう)」を三日間にわたって講説。すると、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり、南の山に千の仏頭が現れて光明を放ち、太子の冠から日月星の光が輝くなど、不思議なことが起こったという。驚いた天皇は、ここに寺を建てるよう皇子に命じた。それが橘寺の始まりとされている。

於美阿志神社(檜隈寺跡)

静謐に包まれる社殿 大陸から渡来した阿知使主を祭神とする 於美阿志神社 十三重石塔

檜隈寺跡に立つ十三重石塔は平安時代作

於美阿志神社(檜隈寺跡)

東漢(やまとのあや)氏は、応神天皇の時代に大陸から渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ)を祖とする氏族で、檜隈の地に居住していたという。

於美阿志神社(おみあしじんじゃ)は、東漢氏の氏寺だった檜隈寺(ひのくまでら)跡に位置している。檜隈寺は、西側に中門があり、その門を入ると正面に塔、左手に講堂、右手に金堂が配置されていたという。現在は大きな礎石が残り、柵に囲まれて重要文化財の十三重石塔が建っている。この寺の存在を書き記した公の記録は少なく、『日本書紀』によると「軽寺、大窪寺とともに30年に限って封戸100戸を与えた」と記されるのみ。

■『日本書紀』(校注/坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 発行/岩波文庫)を参考にしました。

https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/masumasu/taika/taika02/index.html 【乙巳の変、そして大化へ】より

伝飛鳥板蓋宮跡

上層は飛鳥浄御原宮と後飛鳥岡本宮、中層は飛鳥板蓋宮、下層は飛鳥岡本宮の跡だったとも

遺跡の東側に立つ案内板  遺構が復元されている

spot1 伝飛鳥板蓋宮跡

645年6月12日。皇極天皇の飛鳥板蓋宮にて、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が天皇に貢物を捧げる儀式が行われようとしていた。『日本書紀』によると、宮殿に赴いた入鹿は、俳優(わざひと)に剣を手放すよう促される。入鹿は用心深い性分だったが、このときは俳優の滑稽な仕草につられ、剣を手渡した。

天皇の前に、古人大兄皇子、入鹿、石川麻呂らが進み出た。柱の陰には、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を持った中臣鎌足、そして佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)ら2人の刺客が息を殺して身を潜めている。

石川麻呂が上表文を読み始めるのを合図に、刺客が飛び出して入鹿を斬りつける手はずだった。しかし刺客は入鹿を恐れて飛び出せない。石川麻呂の声が震える。不審がる入鹿に、「帝の前だから畏れ多くて緊張しているのだ」と答える石川麻呂。その瞬間、柱の陰から中大兄皇子が飛び出し、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。

「私に何の罪があるのでしょうか」、血を流してうめく入鹿。「皇子を殺して、天皇の力を衰えさせようとしている」と中大兄皇子。驚いた皇極天皇は奥へと立ち去った。刺客2人がさらに斬りつけ、入鹿はついに息絶えた。

中大兄皇子と中臣鎌足らによる入鹿暗殺。その舞台といわれているのが、現在の伝飛鳥板蓋宮跡だ。発掘調査により掘立柱や石敷き、大井戸跡等が発見され、その後の調査により3時期の宮殿遺構が重なることが確認された。

五輪塔

入鹿を供養するために建てられたという五輪塔

飛鳥寺西門跡。寺の四方の門のなかで最も大きく、一説では寺の西に槻の木の広場があったためともいわれている

発掘調査時の飛鳥寺西方遺跡。「槻の木の広場」は飛鳥寺西側に南北200m、東西120mの範囲で広がっていたと推定される

飛鳥板蓋宮での事態を知った入鹿の父・蝦夷は、甘樫丘の邸宅にたてこもった。蘇我氏と関係の深い東漢氏(やまとのあやうじ)の兵達も集結。一方、中大兄皇子や改革派の豪族達は、飛鳥川を挟んで甘樫丘の東にある法興寺(飛鳥寺)を城として立て籠もり、蘇我氏の反撃に備えた。

6月13日、中大兄皇子は使者を送り、蝦夷についていた兵たちを武装解除させた。孤立した蝦夷は、翌日邸宅に火を放ち自殺。これにより稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代に渡って権力を握っていた蘇我氏の本家は滅亡した。中大兄皇子、中臣鎌足らが蝦夷・入鹿を倒したこのクーデターを、「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。このとき、中大兄皇子20歳、鎌足32歳であった。

現在、飛鳥寺の西には、「入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔があるが、飛鳥板蓋宮で暗殺された入鹿の首が約600m離れたここまで飛んできたと伝えられている。

またこの一帯は、「乙巳の変」以前に、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」の推定地とされている。『日本書紀』によると、「槻の木の広場」で蹴鞠会(けまりえ)が行われたとき、中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて革の靴を飛ばしてしまう。それを見ていた鎌足が皇子の靴を拾って、ひざまずいて恭しく差し出すと、皇子もひざまずいて恭しく靴を受け取った。これを機に、二人は親交を深め、心中を明かし合う関係になったという。

水落遺跡

日本最古の水時計の跡。国の史跡に指定されている

水時計建物の内部(絵・穂積和夫)。写真提供/奈良文化財研究所明日香村埋蔵文化財展示室

すぐ北側にある明日香村埋蔵文化財展示室では、村内で出土した遺物を展示

spot3 水落遺跡

中国の先進文明を積極的に取り入れ、急速に中央集権的国家の体制を整えようとする中大兄皇子は、政治や人々の生活を明確な時刻制によって秩序づけるため、わが国で初めて水時計を造り、それまで曖昧だった人々の時間の観念を一変させた。『日本書紀』には、斉明天皇6年(660年)5月、「皇太子、初めて漏剋(ろこく)を造る。民(おほみたから)をして時を知らしむ」とある。

水時計は、当時の中国の水時計を真似て造られたと考えられている。サイフォンの原理で、一定量の水を垂らすことによって、時を刻む仕組み。いくつかの水槽を階段状に積み、水を補充しながら水位の変動をおさえ、正確に時を計る構造となっていた。

現在、「水落遺跡」は整備され、発掘調査で見つかった25本の柱と導水のための銅管、木樋などの位置が表示され、柱を支える地中の石や基壇周囲の貼石を見ることができる。なお、飛鳥資料館には水時計の模型が展示されている。

大原神社

大原神社の前には、大原の里を詠んだ万葉歌碑や「産湯の井戸」の案内板がある

大原神社の拝殿 境内裏手の竹薮の中にある「藤原鎌足産湯の井戸」跡

spot4 藤原鎌足誕生地(小原の里)

中大兄皇子と中臣鎌足による改新政治が進んでゆくが、中大兄皇子は長らく皇子のままだった。中大兄皇子が即位し、天智天皇となるのは668年。改新から実に20年以上も後だった。

即位後しばらくして、鎌足は病に倒れる。『日本書紀』によると、天智天皇は床に伏している鎌足の家へ赴き、自ら見舞った。それから間もなく、鎌足は亡くなる。天皇は鎌足に、朝廷の最高位である大織冠と内大臣の位を授け、藤原の姓を与えた。この藤原の姓は鎌足の子孫へと受け継がれ、平安時代にその絶頂期を迎える藤原氏の系譜につながってゆくこととなる。

藤原氏の祖・鎌足の誕生地として伝わるのが、「小原の里」だ。『万葉集』でもたびたび詠まれるこの地に鎮まる大原神社、その裏手には、鎌足が産湯に使ったとされる井戸がある。また神社すぐ近くにある「大伴夫人の墓」は、鎌足の生母の墓とされる円墳だ。なお、大原神社と「大伴夫人の墓」の前の道は、鎌足を祀る談山神社への表参道とも。

山田寺跡

当時の山田寺の様子が描かれた案内板 金堂の基壇が残る。この地に立てばかつて大寺院だったことが実感できる  蓮弁を彫刻した礎石や基壇の縁石などが復元されている

spot5 山田寺跡

石川麻呂が641年に発願した山田寺は、飛鳥時代を代表する初期仏教寺院の一つだ。発願から2年後に金堂が完成するも、649年に石川麻呂が死去したため造営は中断。その後、石川麻呂の孫の鵜野皇女(うののさららのひめみこ。後の持統天皇)の援助によって本格的に再開され、676年に塔が完成。685年に本尊・丈六仏(じょうろくぶつ)の開眼供養が行われた。後世、その仏頭は現在の興福寺(奈良市)に運ばれ現存する。

山田寺跡には今も、建物の基壇や礎石が残っている。1976年以降の発掘調査によって、山田寺は東西118m、南北185mもの寺域を持つ大寺院であること、また、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であることなどが明らかになった。

水落遺跡と水時計の模型。 写真提供/奈良文化財研究所

山田寺の東回廊の復原。保存処理に14年費やされた。 写真提供/奈良文化財研究所

ひと際目立つ石人像の看板

spot6 飛鳥資料館

奈良文化財研究所が飛鳥で発掘した遺跡や宮跡の出土品などを展示する飛鳥資料館。その第1展示室には、当コース「3.水落遺跡」の遺構を復原した模型が展示されており、水時計の構造や当時の様子がよくわかるようになっている。

第2展示室には、「5.山田寺跡」から発掘された東回廊を復原展示。東側の柱間3間分の部材を使い、当時の建築構造と規模がわかるように再現されている。

東回廊は、1982年の発掘調査の際、倒壊した状況のまま土中から見つかった。飛鳥時代の大寺院の建築様式を知ることができる貴重な資料として、2007年には国指定の重要文化財に。その後も発掘調査を重ね、東回廊の建築部材が1000点以上確認されている。

高さ148mの小高い丘。展望台からは飛鳥の里や大和三山まで望むことができる

万葉植物が植栽されており、ハイキングにもぴったり

甘樫丘からは天皇が住む飛鳥の宮をも見下ろせる。蘇我氏の権力の大きさが窺い知れる

甘樫丘

『日本書紀』によると、644年11月、蝦夷・入鹿父子は家を甘樫丘に並び建てる。蝦夷の家を「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿の家を「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼び、家の外に砦の柵を囲った。門の脇に武器庫を設けて、常時護衛が警護するなど、まるで要塞のような邸宅だったという。

甘樫丘の東の山麓で発掘調査を行ったところ、7世紀中頃の焼けた壁土や炭化した木材などが出土した。この遺跡は「甘樫丘東麓遺跡」と命名され、入鹿の邸宅跡ではないかと話題に。今も発掘調査は続いており、果たして…。

気都和既神社

社殿はなく、祠が2つあるのみ 神社庁への登録名称は「氣都倭既神社」 鎌足が腰をかけたと伝わる石

鎌足が飛鳥板蓋宮で入鹿を暗殺したとき、追いすがる入鹿の首を振り切り、ここまで逃げてきたという伝承が残る地。ここまで来れば「もう来ぬだろう」と言ったことから、社の鎮座している地域は「茂古(もうこ)の森」と呼ばれている。

神社の創建は不明だが、「延喜式」神明帳に記される式内社。祭神は気津別命・天児屋根命。明日香村に流れる冬野川の守護神である。

けまり祭

中大兄皇子と中臣鎌足とが出会った蹴鞠会にちなんで毎年4月29日、11月3日、けまり祭が行われる。 写真提供/談山神社

談山神社 本殿朱塗りの本殿。社紋は「上り藤」「御相談所」碑

本殿裏山(談い山)の中腹にある「御相談所」碑。ここで入鹿暗殺計画が練られたと伝わる

御破裂山(標高618m)の頂にある「藤原鎌足公墓」

木造十三重塔としては唯一のもの

多武峯縁起絵巻

『多武峯縁起絵巻』談合の図。右が中大兄皇子、次が鎌足。多武峯山中で大化改新の談合をする様子を描く。 写真提供/談山神社

談山神社(多武峯)

藤原鎌足公をご祭神とする談山神社。『多武峯縁起(とうのみねえんぎ)』によると、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(くらつくり。蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将(ひき)いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず」とあり、中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が藤の花の盛りの頃、談山神社の本殿裏山で極秘の談合を行ったと伝えている。以来、多武峯は「談峯」「談(うた)い山」「談所が森」などと呼ばれるようになり、「大化の改新 談合の地」の伝承が残った。

鎌足公が669年に没すると、墓は摂津国阿威山(現在の大阪府高槻市)に造られるが、678年、唐より帰国した長男・定慧(じょうえ)が鎌足の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立。妙楽寺と称したという。さらに701年、方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが談山神社の始まりとされる。

この山麓一帯を本拠としていたのが中臣一族で、天皇家の神を祭ること


https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/masumasu/taika/column01/index.html 【大化の改新コラム1「仏教伝来の地」】より

「仏教伝来之地」の石碑 金屋河川敷公園に立つ、高さ3.8mある「仏教伝来之地」の石碑

海石榴市 『万葉集』にも「海石榴市」の名が詠まれている

遣隋使の様子 飾騎の像

上/壁面には遣隋使の様子が描かれている 下/公園内には飾騎の像も

桜井市の三輪山の南麓に流れる初瀬川の畔に、「仏教伝来の地」の碑が立つ。

古代、この辺りには、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最初の大きな市があったという。

山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸の交通の要衝であり、摂津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する、舟運の終着地でもあった。ゆえに、多くの物資が集まり、交易の中心として栄えた。

近くには欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったとされる。付近一帯は、外国の使節が発着する水上交通の要所としても利用されるなど、外国からの人、物、文化を迎え入れる玄関口だったようだ。

『日本書紀』によると、欽明天皇13(552)年(※)、百済(くだら)の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされる。

また、聖徳太子に優れた才能を見いだされた遣隋使の小野妹子が帰国したのもこの地。隋からの使者である裴世清(はいせいせい)も下客(しもべ)12人とともに降り立ち、朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたそうだ。

※『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年と記されている


https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/masumasu/taika/column02/index.html 【大化の改新2「南淵請安の墓」】より

南淵請安の墓

地元で大切に守られている。墓の背後には、鎌足を追慕する談山神社の祠がある

塚へと続く坂道の下にある石碑  春になると見事な桜が塚を覆う

南淵請安は、渡来系氏族の学問僧。推古天皇16年(608年)、遣隋使・小野妹子に従い、8人の学問僧の1人として派遣された。隋から唐へと時代が移り変わるなか、儒学など大陸の先進の学問を学び、32年の歳月を経て、舒明天皇12年(640年)に帰国。

『日本書紀』によると、帰国後、「周孔の学」(儒教)を教えていた請安のもとに、法興寺の槻の木の下で近づいた中大兄皇子と中臣鎌足が、ともに書物を持って通ったと記されている。二人はその道中、蘇我氏打倒の計画をひそかに練り、その考えはことごとく一致したとある。

645年の「乙巳の変」の後、請安とともに隋・唐へ留学していた高向玄理(たかむこのくろまろ)や僧・旻(みん)は新政権にて国博士(政治顧問としての官名)となるが、請安が関わった形跡はなく、その直前に没したという説もある。

寛文2年(1662年)建立の南淵請安の墓は、明日香村稲渕の高台にひっそりとたたずむ。


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