https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12132904307?query=%E8%98%87%E6%88%91%E5%85%A5%E9%B9%BF%E3%82%92%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E3%81%99%E3%82%8B%20%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D 【古代律令国家の日本における宗教の二重性とはどうゆうことでしょうか】より
神道と仏教ですね
相容れない2つの宗教が並存し、天孫降臨神話と全く結びつかない仏教を、大和朝廷も公認していたことです
飛鳥時代の587年、丁未の乱(ていびのらん=崇仏戦争)において、神道擁護派で仏教弾圧を行った物部守屋が、仏教推進派の蘇我馬子に撃たれ、最大の軍事豪族:物部氏が滅んだことで、仏教導入を阻害する者がいなくなった事が契機です
物部守屋は、朝廷に、仏教が原因で体調が悪いので仏教を退けて欲しいと願い出たり、奈良の大神神社(畿内の最古社、伊勢神宮の元宮)の近くで、仏教の尼僧を裸にして鞭打った程でした
物部氏と蘇我氏の戦いには、聖徳太子も皇子として参加しており、仏に戦勝を祈願して、物部を討ち果たしたことから、お礼として大阪に四天王寺を建立したのですね。
実際に建設にあたったのは、秦氏の一族の秦河勝でした
仏教が日本に入ってきたは、552年で、百済からもたらされたものです
蘇我氏と物部氏が、仏教を巡って対立する状況で、仏教導入に積極的な蘇我氏だけが仏教を受け入れるように裁断されていました
しかし、丁未の乱(崇仏戦争)で蘇我氏が権勢を強め、仏教を認める空気が強くなりました。
更に皇族で、蘇我氏とも血縁のある「皇子」の地位にある聖徳太子が、皇族で最初に仏教に帰依しました。
事実上の仏教公認状態となりました。
用明天皇の第二皇子である聖徳太子が、仏門に入ったことは大変な意味があります。
後世、聖徳太子は馬屋で生まれた為、厩戸皇子(うまやど)と言い、現在の教科書ではこの名前が記載されています
これは、釈迦が、馬屋で生まれた逸話にダブらせて居るわけで、聖徳太子と仏教の密な繋がりを象徴します
「天孫降臨」、つまり天皇は、天照大御神の子孫であり、天皇は最高神官を兼ねる「現神人」で、仏教徒とは相容れない存在であるという考え方は、何時頃からあったのか諸説あって、ハッキリしません
しかし、少なくとも、日本書紀(720年成立)や古事記(712年)には、天孫降臨神話が確定し、国史である日本書紀に記載されているわけですから、遅くともこの時代には「天孫降臨」神話が確定し、天皇地位を担保していたことになります
こうなると、仏教と神道は全く辻褄が合わないのですが、蘇我氏-聖徳太子の存在が、仏教のの並存=宗教の2重性を確実にしてます
なお、蘇我馬子の妻は、物部守屋の妹だった為、遺産を相続するとして、物部氏の資産他全てを強奪しました
中臣氏も、物部とともに神道を推しており、蘇我氏によって殺害されてます。
しかし中臣氏は、滅んで居らず、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と蘇我4代が続いて権勢を握りますが、中臣鎌足と中大兄皇子らが、蘇我入鹿を撃って、蘇我氏を滅ぼしてます(645年 大化の改新)
尚、中臣氏は、鹿島神宮の氏人出身の氏族とされており、物部の遺産も引き継ぎました。
物部氏が滅びるまでは、日本には神宮が2つしか無く、伊勢神宮と石上神宮(いそのかみじんぐう、奈良県天理市)だけでした。
石上神宮は、物部氏の氏神で百済から神功皇后に送られた七支刀も保管する、大和朝廷最大の武器庫でもありましたが、物部氏が滅んだため、石上神宮も没落し荒れ果てました。
石上神宮に代わって、中臣氏由来の、「鹿島神宮」と近縁の「香取神宮」が新たに「神宮」となり、神道は、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三神宮体制になりました
中臣鎌足は、天智天皇(中大兄皇子)から、藤原姓を頂き、藤原鎌足と名乗りました。
日本古来の名家、藤原氏の始まりです
息子の藤原不比等が持統天皇(天智天皇の娘)の側近として辣腕をふるい、日本書紀編纂に尽力したとされてます
八百万の神は、藤原不比等の策略と言われており、この日本書紀が神道の根幹神話となり、天皇家の天孫降臨神話が造られたのですね
因みに、持統天皇は、藤原氏の邸宅で即位した天皇であり、遷都(694年)して、奈良に城郭都市である「藤原京」(現橿原市)を造った天皇です
正規の国史である「日本書紀」が成立したことで、天孫降臨神話が確定しました
結果、仏教と神道は並存しますが、つじつまが合わなくなりました
平安時代の9世紀に「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」が唱えられ始め、神道の神は、仏教の菩薩などが化身した「権現」であるという考え方が唱えられるようになりました
本地垂迹説によって神道の神と仏教の菩薩如来が繋げられ、つじつま合わせが行われてます
天照大神 = 大日如来、十一面観世音菩薩
八幡神 = 阿弥陀如来 = 応神天皇
熊野権現 = 阿弥陀如来、善財王とその妃・王子(熊野曼荼羅)
日吉 = 天照大神 = 大日如来
市杵島姫 = 弁才天
愛宕権現 = 智明権現 = 勝軍地蔵菩薩
秋葉権現 = 観音菩薩
須佐之男命=素盞鳴 = 牛頭天王= 薬師如来
更に宇多天皇が、897年、譲位して上皇になり仏教に出家しました。
最初の「法皇」誕生です。
天皇が出家(僧侶になる)する場合、天皇位から離れて上皇として出家したわけです。
しかし、実権を握っており、上皇(法皇)として、院政を行いました
平安時代には、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇などが、「法皇」として院政を行ってます。
天皇は、神社神道に関する権限を持っている最高神官です。
天皇が、徳川家康を「権現」(東照権現)としたことで、神社の祀神となれたわけです。
江戸時代にも、霊元法皇が生まれており、最後の法皇です
結果、江戸時代が終わって、明治政府が神仏分離令を発するまで、仏教と神道は習合状態(神仏混交)でした
その為、未だに、大きな寺の境内には、たいてい神社があります。
また、独立した神社を寺の坊主が、所有管理したりしてます
その為、社務を僧侶が行っている神社が多数あるわけです
また、神仏分離令を契機に、仏寺が神社に衣替えした例が多数あります。
国家神道に都合の悪い神を取り替えて、社名を変更した神社も多数あります
関東と静岡の第六天神社(約4000社)がそれで一斉に祀神変更したり、撤去したりしました。
第六天神は、元々ヒンズー教のシヴァ神であり、仏教の悪魔:第六天魔王波旬とされてるからです。
江戸時代に盛んに信仰された、「花のお江戸の天神様」とは、第六天神のことです
第二次世界大戦後、神仏分離令の効力が失せたことから、神社では、密かに祀られていた、仏教の神格=菩薩などを復興して、境内に再興したり、第六天神社を復興する動きが、盛んになってます
https://hijas.hosei.ac.jp/20081003-1103report 【アルザスシンポジウム「日本文化の中の天皇—天皇とは?」】より
・主 催::フランス国立科学研究学院(UMR8155)ストラスブール・マールブロック大学日本学部
主 催 :法政大学国際日本学研究所
・日 時: 2008年10月30日(木)〜11月1日(土)
・場 所: アルザス欧州日本学研究所[CEEJA] (フランス・キーンツハイム)
会場の様子
国際日本学研究所が主催する「国際日本学」を掲げた国際シンポジウムは,2005年のパリ・シンポジウムから始めて,今回で4回目を数える。日本と日本文化とを内外の二つの視点から同時に照射し,そこにこれまでにない立体的な視像を得ていこうという国際日本学の試みは,これまでは,そのような方法論から生じるであろう原理的・理論的な問題をそのものとして問うことで展開されてきた(「国際日本学とは何か」2005年,「ことばとことばを越えるもの」2006年,「翻訳不可能性」2007年)。そのような基礎作業を踏まえて,国際日本学の方法論を具体的に適用することの第一弾として,「日本文化の中の天皇—天皇とは?」をテーマに行われたのが2008年アルザス・シンポジウムであった。
日本の社会や政治を論じる際に,天皇や天皇制を語らずに済ますことは無論できない。他方で,日本の文化を比較的狭く論じる際にも,天皇および天皇制との関わりを無視することは恐らくできないのである。日本文化は,それが産みだしたものの多くで,天皇および天皇制を様々に扱ってきたし,また天皇および天皇制は,日本の文化が何かを産みだす作業そのものに,潜在的に,様々な影響を与え続けてきたのである。日本の文化的産出力の行く末が世界基準できびしく問われている今日,「日本の文化が文化であること,また文化であり続けていることに,これまで天皇および天皇制はどんな役割を果たしてきたのか,また今後どんな役割を果たしうるのか」をあらためて問うことは無意味ではないのである。
しかも,日本の特殊性のいわば象徴ともされている天皇および天皇制の問題は,内外からの視点をすり合わせる,いわば試金石の位置を占めるものとも言いえよう。天皇および天皇制についての内からの視点に関して言えば,そこで語られることがどこまで客観的・普遍的なものとなりえているかが常に問われうる。他方,外からの視点に関して言えば,そこで語られることがどこまで問題の特殊性に達しえているのかがやはり常に問われうる。
このような問題のむずかしさ,重さに鑑みて,今回はシンポジウムに先立ち3回の勉強会も執り行った。勉強会の個別の報告は別ページでなされているのでここではこれ以上立ち入らないが,それぞれの回に日本史の専門家にお越しいただき,歴史的に見た場合の日本の天皇・天皇制の特徴について,詳しくレクチャーをしていただいた。3回のテーマと講師は以下である.1.2008年6月14日「中世における天皇について」(法政大学 河内祥輔氏),2.2008年7月12日「「王権」研究の現状」(専修大学 荒木敏夫氏),3.2008年9月27日「二つの「密教」と二つの「顕教」−日本憲政史の中の天皇」(東京大学 坂野潤治氏)
さてこのような準備も経ての3日間のアルザス・シンポジウムでは,日本(法政)から参加の8名(小口雅史,王敏,田中優子,ジョゼフ・クライナー,相良匡俊,安孫子信,星野勉,市村弘正)とヨーロッパから参加の7名(Francois MACE[パリINALCO],Bernard SCHEID[オーストリア科学アカデミー],Andre KLEIN[アルザスCEEJA],John BREEN[京都日文研],Josef KYBURZ[パリCNRS],Sepp LINHART[ウィーン大学],Eric SEIZELET[パリ・ディドロ大学])の計15名が研究発表を行い,また各発表後には参加者間で,またフロアーの聴講者も交えて,活発な議論が展開された。
見開きに掲載のプログラムを参照していただきたいが,発表の大まかな内訳を述べれば,時代的には,主に古代天皇・天皇制を扱った発表が2編(小口,MACE),江戸時代のそれを扱ったものが1編(田中),明治の天皇・天皇制を扱ったものが3編(相良,BREEN,安孫子),明治以降昭和までの諸天皇を扱ったものが3編(王,KYBURZ,LINHART),昭和の天皇・天皇制を扱ったものが3編(星野,市村,SEIZELET),通史的であったものが1編(SCHEID),他の王政との比較を行ったものが2編(KREINER, KLEIN)であった。またベースにしている学問領域も多様で,明確な線引きはむずかしいものの,歴史学に基づくものが6編(小口,MACE,KLEIN,相良,BREEN,SEIZELET)、文学に基づくものが2編(田中,王)、社会学に基づくものが1編(LINHARD)、思想史・哲学に基づくものが4編(SCHEID,安孫子,星野,市村)、人類学に基づくものが2編(KREINER,KYBURZ)と一応区分されよう。以上に加えて,発表と討議の言語も多様で,日本語,英語にフランス語が入り混じるといった状態でシンポジウムは進行されていった。
このような細部の報告をするのは,このようなことが,国際日本学の現在の到達点を,具体的に,かつ積極的に示していると考えるからである。これだけ多様な視点やベースから出発し,これだけ多様なテーマを通して,天皇・天皇制が3日間徹底して論じられたのである.そのことで,参加者はほぼ全員がいわば思いがけない仕方で学問的な視野を拡大させ,考察を深化させえたと言いえる。そのことの意味は大きいし,それの成果は各参加者がそれぞれの場所で,近い将来に必ず公にしていくであろう。国際日本学研究所としては,今後は,事前の準備も含めて,このような国際的かつ学際的な学問的エンカウンターの場設定の精度を高め,そのような成果がこのような場で直に,目に見える形で得られるよう,工夫と努力を重ねていきたい。
さて,このような多様な発表が押しなべて扱ったのは,もちろん天皇・天皇制の問題であるが,さらに言えば,それの,現実的(政治的)でありながら,また同時に独特な仕方で聖的(文化的・宗教的)であるという二重の性格である.この面で具体的な議論の簡単な紹介を行えば,以下のようになる。
1.中国皇帝に関するものとの比較で,日本の天皇に関する律令規定を読み解き,日本の天皇に,役割としての神聖性がどこでどのように賦与されていったか,その過程を明らかにしようとしたもの(小口)や,日本の天皇の聖俗の二面性の成立を天武朝の事跡全般の検討を通じて再確認しようとしたものがあった(MACE)。
2.江戸時代の天皇の存続がやはりその二重性のもとにあったと指摘し,「直し」と呼ばれたその際の神聖性の内実がどのようなものかを明らかにしようとしたものがあった(田中)。
3.天皇の神聖性は決して宗教とはならずに一貫して儀式的なものにとどまり続けたとし,それに相応する,神道における,文化的伝統の担い手を自認はするが宗教へは向かわない傾向の確認を行ったものがあった(SCHEID)。
4.日本の天皇の神聖性の特徴を,神聖ローマ帝国皇帝のそれ(KLEIN),また,沖縄王朝王のそれ(KREINER)と比較検討したものがあった。
5.明治天皇の神聖性の確立維持にイメージ(写真・絵)がどのような貢献をなしたか(相良),また逆に,外国(特に戦争相手国)では同じイメージ(絵葉書)が日本の明治以降の天皇の神聖性破壊にどう貢献したか(LINHARD)を,実例で説明したものがあった。
6.明治天皇の内外での神聖性の確立に勲章制度が果たした役割を明らかにしたもの(BREEN),また,お印という制度が日本の天皇に,きわめて独特な神聖性を与えていると指摘したものがあった(王)。
7.神聖性の陰で,それでは天皇の身体・身体性はどう見られ,どう語られてきたかを,明治以降昭和に至るまでの3人の天皇に関して,明らかにしようとしたものがあった(KYBURZ)。
8.それ自身一つの神聖性とも言いえる新憲法での象徴天皇規定が,どのような政治的力関係の下で,どのような過程で導入されるに至ったのかを明らかにしようとしたものがあった(SEIZELET)。
9.たとえば西周(安孫子)や和辻哲郎(星野),さらに丸山真男・藤田省三(市村)といった明治以降現代に至るまでの哲学・思想の主だった担い手たちが,天皇,とくに天皇の神聖性と思想的にどのように戦い,しかしどのように折り合っていったかを吟味したものがあった。
以上の発表は近刊のシンポジウム「報告集」に全文収録の予定である.詳しい議論はそこで確認していただくことができる。今回のアルザス・シンポジウムは,天皇・天皇制問題の大きさと複雑さ,にもかかわらず,国際日本学の方法論の力強さと有効性とを再認識させてくれるものであったと考える。
【記事執筆:安孫子 信(法政大学国際日本学研究所所長、文学部教授)】
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