https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202109090000/ 【古代史はどこから攻めても蘇我氏にぶつかる。】より
秦氏が政治の舞台に現れたのは欽明天皇期以降で蘇我氏の時代にピタリ重なる。私たちの教えられた日本史では蘇我氏は国賊扱いであったが、蘇我氏の活躍した100年余りの間(蘇我系の王朝とされる欽明から皇極朝)に彼らが我が国の文化創成に果たした業績は簡単には拭い去ることができないくらい大きい。それが秦氏たちの後ろ盾を得てのものであったことは見落としてはならない。
蘇我氏本宗家は三代目に至り壊滅するが、それは常に物部、中大兄との対立がクローズアップされるだけに終わっているが、その背後にはいつも中臣氏がいたこと。したがって、冷静に眺めてみると古代の日本史は蘇我対中臣の覇権争いであったことが見えてくる。そして、中臣氏は蘇我氏と同じ手法を採用して政権中枢に繋がり、律令を盾にのし上がっていく。最終的には神祇伯の中臣から律令制導入にすべてを託し改姓した藤原氏の千年王国に絞られていくのだが、その間、職能集団であった身分の低い秦氏たちは律令制度の外で命脈を保つあらゆる手段を講じていったと思われる。
それが秦氏たちの夢みた仏教であり、伎楽演芸の道であったのではないか。そんな視点から初期万葉の代表歌人の額田王も読み解きたいと思っている。
写真は、立杭から見た丹波篠山の中心部からやや東北部へ外れたところにある味間集落のかんなび山の白髪岳である。お隣りの小峰は松尾山。いずれも頂上部には立派な磐座がある。ふもとの味間は奈良盆地の田原本町の味間を、松尾山は京都嵐山の松尾大社を、白髪岳は白鬚や新羅をただちに想定させる。いずれも秦氏にゆかりの深い地名ばかりである。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202103240000/ 【蘇我氏の定説を疑う】より
古代史の世界で王家と覇権を競うまでになった葛城氏を雄略天皇が円大臣を殲滅したことで、襲津彦に連なる葛城の勢力は絶えたが、そののちも依然大きな勢力を温存していたことは間違いない。そののち、継体天皇の御世に頭角を現した蘇我氏は、その葛城氏の正当な後継者として権勢をほこるようになる。私は、この10年余り古代の葛城氏、物部氏、蘇我氏の息がかりの神社仏閣とその土地柄を訪ね歩き、教科書の定説となった蘇我氏の真価を探ってきた。甘樫丘の近くに豊浦寺があるが、ここの住職(写真下)は、今に続く蘇我氏の末裔でいろいろお話を聞くことができた。
皇国思想の整備の中で、蘇我氏は国賊級の人物に仕立て上げられたが、私のきのこ目の日本史は、蘇我氏の再評価とその顛末を探る事でもある。聖徳太子、秦河勝をはじめ、蘇我氏に連なる人たちは当時もっとも開明な政治方針を貫き、我が国の国際化に貢献したが、その急進性ゆえにふたたび乙巳の変(一般には大化の改新)で殲滅される運命にあったことは実に痛々しい。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202103250000/ 【蘇我氏とは-2 飛鳥は蘇我の本拠地】より
豊浦寺の講堂礎石
豊浦寺は現在向原寺と呼ばれています。この向原寺の下層から豊浦寺の講堂の礎石と遺構が見つかっています。蘇我氏の係累は、明治以降昭和の敗戦まで随分肩身の狭い思いをされてきたことでしょうが、蘇我氏の功績は列島の国際化に必須な宗教文化として仏教の国教化に努めたこと。律令制以前の列島の秩序を宗教倫理と経済の面で整え、物部・中臣の百済偏重外交に対し、多極外交を目指したことなどがあげられます。
豊浦寺の遺構。
廃仏の難波の堀江とは
仏教導入を群臣に問うた欽明天皇に対し、中臣・物部の猛反対を押し切り向原(むくはら)の自邸を寺院に、小墾田(おはりだ)の自邸に仏像を安置し、我が国最初の尼僧を育成するなど、尽力を惜しまなかった蘇我氏ですが、まもなく疫病が広がり、それを蕃神を敬ったための神々の怒りとして寺を焼き払い、物部尾輿が仏像を難波の堀江に捨てたと書紀にあります。「その堀江とは向原寺の境内脇にあるこの池です」と住職は遠慮がちに語っていた。
向原寺の隣にはひっそりと甘樫坐神社が佇んでいた。いますとあればだれそれという祭神の名がつづくところであるが、その祭神の名が抜けているところとても奇異な感じの社である。祭神は推古天皇というのは江戸期になってのことだが、調べてみれば、この神社は古代、盟神探湯(くがたち)の神事が行われた重要な場所である。あの熱湯に手を入れて事の真偽を占う神事であった。
このむくはらの地は甘樫の丘の北端やや東にあり、そのやや北に小墾田、やや南には飛鳥寺が近接し、蘇我氏の気配が濃厚な土地柄である。そして蘇我氏の息のかかった女帝推古天皇の都のはじまりは小墾田宮であったことも重要だ。
奈良盆地は、東の三輪族、西の葛城族、北の春日族がそれぞれ占め、やがて盆地を転々とした天皇家が南の飛鳥の地に落ち着き、次第に力をつけていく。その手足となったのが葛城の後継者たる蘇我氏だった。やがて外交問題のこじれから当初押され気味だった古代最大の雄族物部を遂に打倒し、その河内に本拠をおく守屋の所領の大半を手に入れた蘇我氏は、国王になるのも可能なほど強大な勢力となって天皇家の筆頭家臣となった。
が、それも馬子の時代まで。蝦夷、入鹿は、崇峻天皇を白昼殺害し大逆罪を犯したことで風向きが変わってくる。この事件以来、秦氏を敵に回してしまったことは致命的であった。
この蘇我氏転落の最大の契機について史家はさらりと流すのみである。天皇殺しは、彼ら以前には眉輪王が父の仇と知らされ安康天皇を殺害した前例があるのみであった。それがのちの我が国に「天皇は神聖にして犯すべからず」の典拠となっていく。
それはさておき、古代チーズの蘇を売っていた飛鳥寺にも触れておこう。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202103260000/【蘇我氏とは-3 飛鳥寺】より
わが国最古の寺院は豊浦寺(現 向原寺)だが、本格的伽藍としては、ここ飛鳥寺が日本最古の寺院といわれる。蘇我馬子が建立。創建時は、元興寺、法興寺と呼ばれていた。
安居院の裏手、甘樫丘方向に再現された元興寺遺構址。
現存する中金堂(写真上)が安居院として公開されている。
安居院には通称飛鳥大仏の修復の跡が著しい金銅・釈迦如来像が祀られている。蘇我氏の氏寺である。この金銅仏造立の知らせを聞いた高麗王は、黄金を馬子に贈ったといわれる。蘇我氏が多面外交を重んじた証しである。
蘇我氏本宗家壊滅後もこの寺は大切に扱われ、平城京の時代になっても近鉄奈良駅近くの奈良町に移されて元興寺として今も健在である。書紀によれば、乙巳の変で入鹿が殺害されると東漢氏が警護する甘樫丘に籠もる蘇我蝦夷に対し、中大兄皇子と中臣鎌子の勢力がここに籠もって臨戦態勢を敷いたところとされる。
安居院の境内の端には、甘樫丘を日夜見つめる位置に伝・入鹿首塚の五輪塔が置かれている。前方の丘が蝦夷、入鹿時代の蘇我氏の居宅。甘樫丘に警護の固い邸宅を構えた頃から蘇我氏は、乙巳の変の起こるのを自ら予感していたようで、朝鮮半島の動向を見据えた外交政策の違いは露わとなって独自路線を強行しはじめたようである。当時の甘樫丘は要塞めいて、指呼の間にある飛鳥の皇極朝にとって脅威の存在となりはじめていたことと思われる。
わが国の歴史は往古より現在にいたるまで、新羅系と百済系の覇権争いとみるとよく分かるといわれるが、その端緒を切った対決が蘇我と中大兄(のちの天智天皇)だったと思われる。もちろん、それは東漢氏を配下にした新葛城族と中臣(のちの藤原)との代理戦争であった。
仏教がもはや消しがたい宗教文化として人心をとらえてしまったと感じた神祇勢力の中臣の中から、法制度による支配こそ新しい時代を画するとみた藤原が台頭するのは、すでに蘇我氏本宗家殲滅のこの時点で決定していたように思われる。秦氏は、なぜか氏族として扱われてきたが、彼らは血族集団としての絆はうすく、今でいうところの経済連のようなもので政治とは無縁の職能集団であったから、これらの動きを苦々しく思い、両勢力から等しく距離を置いたと思われる。
しかし、歴史の表舞台に現れた聖徳太子、秦河勝の意志を継承する秦の勢力は、この頃からアメノヒボコやツヌガアラヒトにつながる北つ海勢力の後裔を自覚するようになり、地下にもぐって平城から平安遷都までのはるかなシナリオづくりに着手していったと思われる。
十一面千手観音像と法界の文字がしたためられた道標(飛鳥寺址)
私が道のべのきのこや石仏の語りに耳傾けるのは、そんな歴史の流れを地表下で支えてきた勢力の正しい評価なのだ。
地蔵菩薩石柱(飛鳥寺址)
その膨大な下層民の沈黙の重さこそが、私を大地の語り部・きのこや石仏へと向かわせる。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202103280000/ 【蘇我氏とは-4 豊浦寺の伎楽伝来の地の碑】より
向原寺(旧豊浦寺)は、その遺構から、ここが推古天皇の宮処址であったことも分かってきた。蘇我氏の邸宅はまず豊浦寺となり、ついで推古天皇の即位当初から宮廷としても用いられたということだ。
その向原寺境内には「伎楽伝来の地」の碑がある。
谷川健一によると、この寺の傍らに桜井という井戸があり、桜井の地名はこれに由来するという。桜井のまたの名は、榎葉井(えのはい)、また朴井(えのい)と呼ばれた。
崇峻紀に「学問尼善信等百済より還りて桜井寺に侍り」とある日本最初の仏教尼は、海石榴市で物部尾輿によりみせしめのため公開で鞭打ち刑にされた蘇我氏の息のかかった尼僧であるが、彼女もこの蘇我氏の邸宅からのちに向原寺となった桜井寺に居住したようだ。
物部守屋の子・物部連雄君は、榎井連小君(えのいのむらじおぎみ)と称し、壬申の乱で功績のあった大海人皇子の舎人で、この朴井の地は本来物部守屋亡き後の物部の後裔氏族本貫の地であったことがわかる。
更にこの地に百済から伎楽がもたらされて味摩之(みまし・あじまし)がここに住まわされ、推古紀20年に百済人味摩之が帰化し伎楽を伝えたとある記述に重なっていく。それが『明宿集』では秦河勝の子に三子あって武芸を伝えた長谷川党、猿楽を伝えた金春、そして四天王寺の伶人(楽人)を伝えたとある。「河勝の子にはじまり、秦氏安を中興の祖とし、円満井金春へと続く」金春禅竹はこのように語っているのだ。この碑はそれらの経緯をさりげなく語っている。
朴井(えのい)から円満井(えまい)とはごく自然である。さらに向原寺はかって円満院と呼ばれたこともあったそうだ。
今に続く四天王寺の伶人たち
四天王寺で毎年の4月22日開かれる聖霊会の光景
私は、きのこ目の日本史・初学の頃、大和の方々を歩くと蘇我、物部、中臣の旧地には必ずといってよいほど、この3者が仲良く並んでいることに奇異の感を否めなかった。
ここ四天王寺でも聖徳太子廟の裏側には宿敵であるはずの物部守屋の祠がひっそりと佇んでいる。
何度となく訪れたがそのたびにきれいになっていく守屋の小祠
やがて、これらの奇異さ加減が、我が国の歴史が世界史からは隔絶した「東洋のガラパゴス」である所以と私は考えるに至った。私の日本人論の基本は、この奇異さに根差すものだ。
さて、いよいよ物部、蘇我、そして秦氏が重なってきたところで、その味摩之を地名に残す大和の田原本町にある味間集落を訪ねてみたい。
丹波篠山郊外の秦氏の関与の著しい味間集落については以前に述べたが全国数か所に味間と名の付く集落は残されている。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202104010000/ 【蘇我氏とは-5 味間集落】より
近鉄橿原線の笠縫駅の東にひろがる味間の地は、麦畑が広がりタテハチョウが舞う田園風景の中にあった。
味間の北の端には笠形の地名が残る。笠形とは春日田の転訛であろう。案に違わず笠形には春日神社があった。
そして味間のど真ん中には須賀神社。須賀は蘇我に通じる呼称である。
裕福な農家が続く味間。
世阿弥が晩年この地で過ごしたという補厳寺(ふげんじ)。元、律宗の寺院で14世紀に禅寺に代わった大和地方最古の禅院である。世阿弥の能楽に禅宗の影響が色濃いのはここに参学して禅に親しんだからだという。
山門の脇には世阿弥参学の地の石碑がある。
そして笠形の更に北の大和川にそう村屋郷には、村屋坐弥冨都比賈神社が残されていた。大国主命が国譲りの際に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)がその娘を与えたという三穂津姫を祭神とし、三輪山のオオモノヌシと重ねられて三輪の別宮とされた複雑な経緯をもつ神社である。この村屋は守屋に通じ、物部の係累がこの社を代々守ってきたと思われる。壬申の乱の際に大海人皇子軍軍勢に神主が神がかりして助言を与えたというから物部そのものである。このあたりは守屋を名乗る家が多く、この神社の脇の屋敷も守屋の表札を高々と掲げていた。(写真下)
このように田原本町には藤原、物部、蘇我がいたるところにひしめいているのがお分かりいただけだだろうか。
そしていよいよ味間の味間たる所以の場所へ足を運ぼう。
笠縫駅の西側は秦庄といってまさに秦氏の集落である。向原寺の榎葉井(えのはい)から大和申楽四座のひとつ、円満井(えんまい)に繋がることは前に述べたが、興福寺、春日に宮仕えした金春(代々秦姓を名乗る)が、先祖のために秦楽寺を建て、その門前に金春屋敷を構えたとされる。
この秦楽寺は、円満井座の別称竹田座の竹田にあったとされる。その竹田の地とは、そもそも物部の大和川を挟んで東の蔵堂、西の杜屋郷(村屋神社所在地)を指し、そこにあった楽戸の寺を秦庄に移したとされる。このように伎楽、申楽を巡っても物部、春日、蘇我、秦氏が深くかかわっていた。そしてそれらを貫く赤い糸が楽戸の秦氏であり、秦楽寺は楽戸秦連の氏寺なのである。
のどかな田園のひろがる田原本町で私が体感したのは、ここが歴史の底を流れる暗流のスクランブル交差点だということだ。
それらをつなぐキーワードが味間であり味摩之であり、みましが転じた水沼であり秦氏であることなのだ。
秦楽寺はわが心中の興奮とは裏腹に、珍しい中国風の土蔵門と森閑と鎮もりかえった本堂とさつきの花が盛りの林泉が広がっていた。
小一時間、ここで心のどよめきを楽しんで、完熟のコツブタケに軽く礼を述べてから退散した。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202104040000/ 【蘇我氏-6 談山神社】より
乙巳の変の対立は、神祇と仏教の導入問題はごく末梢的な問題で、朝鮮半島の動向での外交問題が最も大きな要因であった。高句麗と百済における政変と新羅の台頭があり、大和の王権は大きく動揺していたことが背景にある。しかし、史書の記述からは、乙巳の変でも、その後の白村江の戦いでも鎌足や大海人皇子の姿は見えぬまま進行している。
そんな藤原氏の謎をさぐるため、2013年5月私たちムックきのこクラブはシャクナゲの花咲き乱れる多武峰妙楽寺(現・談山神社)を訪れた。談山神社国宝・東大門(写真上)
おそらく中臣鎌足は乙巳の変の首謀者であったにも拘わらず、黒幕に徹したようである。
彼は乙巳の変以前から僧・旻(みん)の仏堂で『周易』の購読に参堂していたし、「興福寺縁起」でも、丈六の釈迦像をつくり、そののちに山階寺の造営がはじまったとある。
また、蘇我本宗家殲滅ののち、蘇我氏の飛鳥寺を領有したようで、飛鳥寺にパトロネージュし、度々寄進を行っていたことが伝わっている。
鎌足の脳中には、我が国がすでに神祇仏教という世を挙げて宗教国家へと傾いていく中にあって、儒教精神による政治立国への強い意志があり、蘇我氏との対立以前から神祇伯という「名負いの氏」の身分を足かせに感じていたようで、神祇伯任官のすすめを断って仮病を使って自宅に閉じこもったことも伝えられている。
その悲願は鎌足逝去の前日、天智天皇は大海人皇子を使いとして大織冠の冠位と藤原を名乗る許可を与えたと「書紀」にはある。
談山神社の眼光するどい藤原鎌足像
この鎌足の思いは河内の田辺史の許で育てられていた藤原史がそっくり受け継ぎ大宝律令を大成させ、藤原家千年王国の礎を築くことになる。
その鎌足は、物部本宗家殲滅の後の蘇我大臣の政治的な手口をじっくりと調べ上げ、それをもっと巧妙かつ綿密に根回しし、王権の周囲を藤原で固めていった。彼は中大兄皇子とも、大海人皇子とも、壬申の乱の大友皇子とも親密な関係を築き、着々と藤蔓を王権に絡ませていった。彼ほどなりふり構わずバランス外交をかろうじてうまく乗り切った人物はいなかったと思われる。それにしても、すべてに超越する権威は法にありと確信し、儒の国の政治学を最優先した鎌足と不比等親子の先見の明はすごい。
そんな藤原氏の繁栄は、半面教師としての蘇我氏にあったというべきであろう。蘇我氏はそれほどすごい勢力だったのである。蘇我馬子が王権の中枢にいて、蘇我氏をすべてに超越した身分としたこともちゃっかり学び取り、鎌足、不比等も律令世界からも藤原をすべてに超越した存在に仕立て上げていく。そして満を持して蘇我三代目の蝦夷、入鹿親子のちょっとしたおごり・たかぶりを大逆罪に仕立てて殲滅してしまうのだ。稲目、馬子が生きていたら叱責したであろうに、彼らの所業をただす存在がすでに周りにはいなかったことが致命的であった。
しかし、藤原は、中臣の出自であったこと、山階寺を興福寺として移築し平城京における彼らの氏寺としたこと、律令の大成者となったこと、すべてを力の源として一族のものとし、神祇と仏教と政治それぞれの頂点に君臨することになる。それほどおそるべき切れ者の一族だったのである。
この妙楽寺だが、鎌足の長子が唐の留学から戻り僧・定慧となってまもなく鎌足の墓をここに移し、十三重塔をその上に建てたことから藤原氏ゆかりの寺となったが、天台宗寺院で推移したため、皮肉なことに興福寺の僧侶たちや大峰金峰山の僧たちにより何度も焼き討ちにあっている。
しかし、この十三重塔は後世の再建にもかかわらず、現存する木造十三重塔としては世界で唯一最古のものだとされる。
定慧は不比等のお兄さんだが、こののち暫くして変死を遂げている。
この爽やかな一日、10数名のムックきのこの旅人たちと思い思いに過ごしながら、私はこの山塊のきのこたちのこんな語りに耳傾けていた。
写真は、樹の洞から顔をのぞかせた談山神社のヤナギマツタケ。この日は、さまざまなきのことギンリョウソウまでが勢揃いしてくれてわれわれを楽しませてくれた。
https://plaza.rakuten.co.jp/madaranov/diary/202104060000/ 【蘇我氏とは-7 蘇我氏と馬、そして秦氏】より
わが国の史書の記述は、継体天皇の時代から俄然精彩を帯びてくるが、その継体朝にのし上がってきた葛城を強く意識した勢力が蘇我氏であった。
それは継体天皇が即位後も長年大和入りをせず河内潟(現大阪)の淀川べりに執着したことからも明らかである。5世紀に入って画期的な出来事の一つとして馬匹(ばひつ)文化の導入があげられるが、それは畿内では河内牧(かわちまき)と関わりがあった考えられる。継体天皇を近江の三尾(越前の三国)から呼び出したのが河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびと あらご)だったのも気になる。そしてその馬の飼育の文化を持ち来った渡来民全体を統轄していたのが蘇我氏ではなかったかと私は考えている。蘇我馬子の馬は輝かしい馬の文化のパイオニアにふさわしい命名だったと思うし、蘇我氏系の推古天皇が幼名を額田部皇女(ぬかたべのひめぎみ)と呼ばれたのも額田部が馬の額につむじ模様をもつ駿馬を産した部民に由来する。さらに聖徳太子と馬の切っても切れぬ関係を見てもそれは明らかである。蘇我系の天皇であり仏教受容に積極的だった欽明天皇の時代に馬を用いて深草と伊勢とを行き来して水銀の交易を行っていた秦大津父(はたのおおつち)の記事も参考になろう。
そして、その河内には太秦の地名が残されており、茨田氏(まんだし)をはじめ秦氏と同族意識をもつ氏族がひしめいていた。蘇我氏と秦氏の関係は、想像以上に濃密なのだ。
冒頭の写真の大神神社あたりにあった近代都市の成立を画した崇神朝以来王権と秦氏とのかかわりは濃厚だったと私は考えてきたが、それは蘇我氏の時代にようやく歴史の表舞台に見え隠れしはじめたようだ。
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