https://xn--ameblo-9d4exea5686e2eweina153z.jp/ayame-aoi/entry-12421187903.html 【「兜率天の巡礼」】より
「兜率天の巡礼」
この短編は、『ペルシャの幻術師(司馬遼太郎著)』という文庫本に収められています。
これは5世紀頃、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルでキリスト教の権力闘争に敗れたネストリウス一族が中国を経て日本に辿り着いたという想定の小説です。
1625年、中国の農夫によって大きな碑が発見されました。
そこには中国王朝にキリスト教を信じる人々が手厚い庇護を受けて栄えていた時代の事柄が書かれていました。
司馬遼太郎はそのことをサンケイ新聞記者時代に取材し、短編を書いたらしいのです。
物語は社会科学の学者が主人公で、少女のように従順な妻が病床で突然発狂し、主人公に向かって反逆の言葉を吐いて亡くなります。
彼は妻の発狂の原因を遺伝と考え、その係累の調査を始めます。
その過程で、ユダヤの血をひく人々が遠い昔、故郷を追われてはるか東方の日本に流れ着いた場所とその証拠に出会うのです。
前半は、ネストリウス一族が追われ、その支持者だった人々が長安の都にたどりついて暮らします。
後半は、太秦の広隆寺が出てきて、聖徳太子と帰化人の秦河勝の関係や、何故、広隆寺が弥勒菩薩なのかということも書かれています。
主人公が「兜率天の曼陀羅」の天女の壁画を求めて最後にたどり着いたのは、嵯峨野にあった上品蓮台院弥勒菩薩堂です。
その剥げ落ちて染だらけの壁画を照らす一本の蝋燭の光の中で、 主人公は川や海や山や樹、そして何処から来て何処へ行くのかもわからないのに動いていく人、 個を絶した人の姿を見ます。
彼はその中に妻の顔を見て呻くようにその名前を呼びます。
この弥勒堂は昭和22年8月31日に炎上し、中に一体の焼死体が発見されました。
史実と想像を巧みに組み合わせ、構成されている内容です。
「弥勒はキリストに当たり、天国は兜率天に似る」
これは司馬遼太郎の推論に依ります。
日本では末法と呼ばれた時代に、弥勒浄土から阿弥陀浄土に乗り換えてしまいましたが、それ以前は弥勒が信仰されていました。
これが本格的な歴史ロマンというべきでしょう。
http://nodokadayori.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_bca2.html 【司馬遼太郎「兜率天の巡礼」】より
この物語は司馬氏のまぼろしのデビュー作として文春文庫が数年前に出した「ペルシャの幻術師」という文庫本に収められていた。これは、5世紀の東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルでキリスト教における宗教権力闘争に敗れたネストリウス一族が中国(景教)を経て(ここまでは史実で証明されている)、日本にたどりついたという想定で書かれた小説である。この事柄に興味を持っている友人がいて、太秦の広隆寺や兵庫県赤穂の比奈にある大避神社を調べたりしているのと、最近高野山に「景教碑」があるのを知って、読みたくなった本だ。
1625年、中国の農夫によって大きな碑が発見された。そこには中国王朝にキリスト教を信じる人々が手厚い庇護を受けて栄えていた時代の事柄が書かれていたが、これは、偽作という判断がされ、闇にほうむられた。1894年、日本の高楠順次郎博士らの調査で、偽作でないことが証明された。司馬氏はそのことをサンケイ新聞記者時代に記事にされたようで、この小説はそのおり、取材された事柄をもとにして書かれたものらしい。
物語は社会科学の研究をしてきた学者が主人公で、少女のように従順でおとなしかった妻が病床で突然発狂し、主人公に向かって反逆の言葉を吐いて死ぬ。彼は妻の死とそのことがショックで「国家の存在などは、個人の人生にとって、妻の存在に比すればはるかに卑小なものではないか」という感情に捉われ、大学を去り、妻の発狂の因を遺伝と考え、その係累の調査を始める。その過程で、ユダヤの血をひく人々が遠い昔、故郷を追われてはるか東方の日本に流れ着いた場所とその証拠に出会っていく。
ネストリウスが追われ、その支持者だった人々が長安の都にたどりついて暮らす前半は、「空海の風景」に書かれていたこととかなり重複していた。後半の日本における調査の部分は、私の高校のすぐ近くにあった太秦広隆寺が出てきて、聖徳太子と帰化人秦川勝の関係、なぜ、広隆寺が弥勒菩薩なのかということも書かれていて興味深かった。
主人公が「兜率天の曼陀羅」の天女の壁画を求めて最後にたどり着いたのは、嵯峨野にあった上品蓮台院弥勒菩薩堂・・・このはげおちてしみだらけの壁画を照らす一本のろうそくの光の中で、主人公は川や海や、山や樹、そして何処から来て何処へ行くのかもわからないのに動いていく人、個を絶した人の姿を見る。彼はその中に妻の顔を見てうめくようにその名前を呼ぶ。この弥勒堂は昭和22年8月31日に炎上し、中に一体の焼死体が発見されたとか。
いつもながら史実と想像を実にたくみに組み合わせ、構成されていて、さすが・・・という感じがした。主人公が大避神社の禰宜と会話しているときの描写や、最後に壁画を眺めている場面など、実に迫力があった。
また表題の「ペルシャの幻術師」も時間と空間を超えて13世紀のまぼろしをみているようで、妖しい魅力にあふれている。
https://ameblo.jp/igirisumonya/entry-12664287814.html 【秦氏はネストリウス派のキリスト教をもたらした西方人で、日本に帰化するために大陸からやってきた氏族】より
紀元66年、イスラエルで、ユダヤ人のゼロス党がローマの守備隊を襲撃した事件。
当時、地中海を支配していたローマ帝国に対するユダヤ人の独立戦争。
紀元68年、皇帝ネロはローマ軍を派遣して反乱鎮圧。
エルサレムの第二神殿を完全に破壊した。この破壊跡は、今では「嘆きの壁」として知られる。
ユダヤ人は広大なローマ帝国から追放され、多くはシルクロードづたいに、東へ向かった。
中央アジアの「弓月国」を経由して、中国に到る者もあった。
ユダヤ人原始キリスト教徒のエルサレム教団がいて、大秦国(ローマ帝国)から来た秦氏を名乗った。
秦氏が日本へ帰化した経緯
『日本書紀』によると、秦氏の先祖は弓月君と言われる。
千葉県、芝山遺跡のユダヤ人風な人物埴輪、『日本神話と同化ユダヤ人(田中英道著、2020年)』P.248
秦氏はネストリウス派のキリスト教をもたらした西方人で、日本に帰化するために大陸からやってきた氏族。
以下は『日本書紀』の口語訳
「弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが、新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで、応神天皇十六年八月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭を加羅に派遣され、新羅国境に展開させた。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。」
日本にやってきたユダヤ人の名を、ハダ氏と受け取ったという説あり。
『古語拾遺』によると、「秦」を当初「ハダ」と発音したという。
ユダヤ人がもたらした絹が、「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」
とある。
由来は、「ユダ族」を意味する「(ヤ)ハダ」という発音を当てて読んだのではないか、と指摘されている。
『古語拾遺(こごしゅうい)』は平安時代の神道資料で、官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。
https://www.historyjp.com/article/404/ 【秦氏とユダヤ系王族の関係】より
日本文化の発展に貢献した秦氏の出自とは
アジア大陸の豪族であった秦氏の出自とは
秦氏が日本に渡来してきた経緯については諸説があります。アジア大陸において秦が滅びた後、一族が国外に脱出して亡命してきたという説をはじめ、万里の長城建設などの苦役に耐えられず、秦韓に落ち延びた後、日本へ亡命してきたという説、秦の末裔を名乗ることで異国において優遇されようと目論んだという説など、秦氏の出自については枚挙にいとまがありません。
「新撰姓氏録」には秦氏の出自が秦始皇帝に由来していることが明記されています。その信憑性には議論の余地が残るも、可能性については留意する必要がありそうです。日本の歴史において重要な役割を果たしてきた秦氏ですが、一族の記述については「日本書紀」や「新撰姓氏録」などに少々残されている程度です。また、中国の史書においては不思議とその出自に関する記述を殆ど見出すことができません。秦の末裔というのが事実なら、中国にも秦氏の出自に関する記述が残されているはずですが、皆無に等しいのです。果たして秦氏は、如何にして都の造営に携わるほどの政治・経済力を携えてアジア大陸を移動し、日本にまで辿り着いたのでしょうか?
しかしながら、記紀の記述を頼りに日本の宗教文化を振り返ると、意外にも秦氏一族が都の造営に携わるほどの政治・経済力を携えてアジア大陸を移動し、日本にまで辿り着いた可能性が見えてきます。しかも秦氏が大陸よりもたらした優れた文化と芸術的感性、そして特異な宗教的背景から察するに、秦氏一族は元来、高貴な王族級の出であることが想定されるのです。
「日本書紀」によると、弓月君(ユヅキノキミ)が3世紀末、朝鮮半島より渡来したことが秦氏の基であると記されています。当時、中央アジアには弓月国が存在し、そこに弓月部族が居住していました。そこはイスラエルの祖先が居住していた地域であり、西アジアからも近く、景教の一大拠点としても知られています。また、シルクロードの通過点となる場所に位置していたことから、多彩な文化の交流とともに、キリスト教の布教も熱心に行われた地域でした。秦氏は景教の信奉者であることからしても、つじつまが合います。よって、日本書紀の記述にあるとおり、秦氏の故郷が、この中央アジア近辺の弓月国に関わっていたと考えて間違いないようです。
秦氏が建立した大酒神社
秦氏が建立した大酒神社その秦氏は景教の信奉者として日本に渡来した後、各地に神社を建立し、さらにはエルサレムの都に倣ってデザインされた平安京の造営に、多大なるく貢献をしたことが知られています。全国で見かける八幡神社は、八幡様や八幡宮等を含めると少なくとも1万社以上も存在し、稲荷神社と並んで日本人にとっては大変なじみの深い神社です。その八幡神社の創設にも秦氏が深く関与しています。日本神道の宗教的な土台を築き、しかも莫大な資産を保有し、平安京の建設に必要な土地までを提供したという史実からしても、秦氏はアジア大陸の豪族であったと想定されます。
秦氏はユダ族の王系である理由
数多くの神社の建立から垣間見える秦氏の特異な宗教観や、秦始皇帝との血縁関係の可能性から察するに、秦氏はアジア大陸でもさらに西に存在するイスラエル国のユダヤ王系の一族であったと推測されます。
イスラエルの荒野から死海を望む
イスラエルの荒野から死海を望む秦氏がイスラエル民族であり、しかも王系のユダ族である理由として、まず、「秦」という名称を検証します。「古語拾遺」には「秦」を当初「ハダ」と発音した根拠として、「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」と書かれています。また、「新撰姓氏録」には、秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、そこには「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波多」と書かれています。「ハダ(ハタ)」の読みに定説はありません。
南ユダ王国に属するユダ、ベニヤミンの2部族の末裔は、今日「ユダヤ人」と称され、ヘブライ語でיהודי(Yehudi、イェフディ) と呼ばれています。中でも王権を継承する役目を担ったユダ族はיהודה(Yehudah、イェフダ) と呼ばれました。その綴りは、ヤーウェーの神を意味するיהוה(yhwh) に一文字ד(d) を付け足しただけです。そしてユダ族の「イェフダ」から神を意味するי(y) を除くと、「フダ」となり、「ハダ」とほぼ同じ発音です。よって、「イェフダ」が「秦」の語源になったと考えられます。つまり、秦氏は「ユダ族」の出自であり、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(イェ)フダ」を語源として「フダ」または「ハダ」という名称になり、その読みに、「秦」の漢字をあてたと推測されます。
秦氏の出自がユダ族であることは、「秦」の漢字表記からも理解することができます。旧約聖書の創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブらイスラエルの先祖は、民衆を治める指導者という意味において、「族長(パトリアーク)」と呼ばれています。語源は、ギリシャ語の「父」を意味する「pater」と、「指導者」。「王」の意味を持つ「archon」が組み合わされたものです。その後、キリスト教では「パトリアーク」は「司教」という意味で使われるようになり、中国の景教では「波多力」と書き表されました。
つまり「波多」という漢字は、イスラエルの指導者、ユダヤの父なる指導者を示唆する言葉だったのです。そのイスラエルの指導者を称して「波多力」と書き、それが「秦」とも書かれるようになり、「ハタ」と読まれるようになったということは、秦氏がまさに、ユダヤ系の指導者なる一族の血統をくんでいることの証と考えられます。
秦氏がイスラエルの指導者であり、神の都を再建する使命を担ったユダ族の末裔であると理解することにより、ユダ族の中でもイスラエルの王権を継承する王系一族であった可能性が見えてきます。だからこそ秦氏一族は、大陸より日本に渡来した直後から皇族が住まわれる京都界隈にすぐさま出向くことができただけでなく、皇族との親睦も深め、その地域一帯を自らの拠点として開発することができたのでしょう。
秦氏の出自はイスラエル?
秦氏がイスラエルの出自であり、しかも元来ユダヤ教の一派であった景教の影響を強く受けた民族であることの証しは、「新撰姓氏録」からも理解することができます。そこには秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波多」と書かれています。つまり景教で「族長(パトリアーク)」「司教」を意味する「波多力」に由来する言葉がそのまま使われているのです。
そしてヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」に「波多」(ハダ、ハタ)の漢字を当てたと考えられることから、「秦」という名称には、イスラエルの指導者としての「波多力」と、王系ユダ族の血統である「(ヤ)フダ」、両方の意味を読み取ることができます。
始皇帝(三才図会より)
始皇帝(三才図会より)また、秦氏については「秦始皇帝の後なり」、と記載されていることに注目です。秦氏本系帳にある系図においても、秦始皇帝をはじめとして歴代の秦氏の名前が確認できることから、秦氏は秦始皇帝の子孫であるという説の根拠とされています。
その秦始皇帝の実父は呂不韋(リョフイ)と呼ばれ、その名前の意味はヘブライ語で理解することができます。「神のくびき」をヘブライ語では、עוליהוה(yhwh aol)と書き、それを左から右に逆さ読みすると「ロフヒ」となります。よって、神の僕として仕えた秦始皇帝の実父は、自らの名を「神のくびき」、すなわち呂不韋(リョフイ)にしたと考えられるのです。
これが事実ならば、秦始皇帝も神の一族、つまりイスラエルの中でも生粋のユダヤ人であった可能性が見えてくるのです。始皇帝の肖像画を見ても西アジア人特有の鷲鼻が際立ち、言い伝えでは「目は青く西洋人のようであった」ということからしても、秦始皇帝の先祖がイスラエル出身であった可能性は否定できません。そして秦氏がユダ族の出自であるのも、秦始皇帝がユダヤ人であることを意味することになり、歴史のつじつまが合います。
秦氏のユダ族出自が否定される理由
イスラエルのユダ族である秦氏が建立した古代の神社が、八幡(ヤハタ)神社です。その名称は、ヘブライ語でユダ族を意味する「イェフダ」、יהודהを語源として考案されたようです。「イェフダ」「ヤフダ」と「ヤハタ」の発音はほぼ同一であることから、八幡の語源は、ヘブライ語の「ユダ族」という言葉であったと推測されます。秦氏がユダ族であるということは、イスラエルの王系一族の末裔である可能性も示唆しています。よって、中国の歴史を塗り替えた秦の始皇帝との姻戚関係も、高貴な王族というつながりにおいて理解しやすくなります。
しかしながら、これだけの確たる理由があるにも関わらず、「秦氏はユダ族」と唱える学者はこれまで多くありませんでした。その理由は、アジア大陸より日本に渡来したイスラエル人は、「失われた10部族」であり、その中にユダ族、ベニヤミン族は含まれてないという説が、古くから流布されてきたからに他なりません。ユダヤ系学者にとって、日本に渡来したのはイスラエルの10部族のみ、という説は根強く、それ以外の部族との関連性については、これまでほとんど議論されることはありませんでした。つまり、南ユダ王国に属するユダ族とベニヤミン族が古代、日本列島まで渡来することはありえず、あくまで他の10部族のみが失われたという信念に基づいているのです。
よって、たとえ八幡(ヤハタ)という言葉がユダ族を意味する「イェフダ」の発音に酷似していても、検討外とされてしまうようです。そして代替案として提言されたのが、ヘブライ語で「ヤー・エハッド」、「唯一の神」という言葉であり、それが「ヤハタ」の語源であるという解釈が広められてきました。「ヤー・エハッド」が「ヤハタ」のルーツ語である可能性は残されていますが、「秦」の名前との関係を説明できるわけでもなく、「唯一の神」という神社の名称も、古代を想定するとピントがずれているようです。古代の神社は、神、人そのものの名前を元に命名されることが多く、やはり「ユダ(イェフダ)神社」、「ヤハタ神社」と呼ぶのが自然です。
今日のイスラエル人にとって、自分たちがユダ族の末裔であり、日本に渡来したイスラエル人はあくまで「失われた10部族」であるという信念を貫く気持ちはわかります。しかしながら歴史が残してきた数々の名称の繋がりから察するに、やはり、「ヤハタ」はユダ族を意味する「ヤフダ」が普通に訛ったものと考えるのが自然です。また、国家が崩壊した後、南ユダ王国の民が日本に渡来できない理由も特にありません。ユダ族の末裔である秦氏が日本に渡来してきたと考えることにより、秦始皇帝が同じくユダ族の出自であることともつながり、歴史の流れをわかりやすく理解できるようになります。よって、秦氏のみならず、日本の皇族も同様にユダ族であっても何ら不思議はないのです。だからこそ、秦氏が建立した八幡神社にはユダ族の象徴である獅子が置かれ、多くの皇族が参拝に訪れるのではないでしょうか。
葺田八幡神社 (小豆島)
葺田八幡神社 (小豆島)秦氏は、自らの氏寺である広隆寺だけでなく、全国各地に数多くの寺社を建立しました。全国で見かける八幡神社は、八幡様や八幡宮などを含めると、少なくとも1万社以上も存在し、3万社もあると言われている稲荷神社と並んで日本人にとっては大変馴染みの深い神社です。
秦氏の関連する地名や氏神の名前は、ヘブライ語で重要な宗教的意味合いを持っているものが少なくありません。秦氏の氏寺である広隆寺の境内近くには、「イスラエル」の国名に酷似する伊佐良井(イサライ)があり、外枠の石に「いさら井」と彫り込まれた古い井戸があります。その名称は景教の経典に書かれているイスラエルを意味する一賜楽業(イスライ)に酷似しています。これらはイスラエルを意味して命名されたのではないか思われます。
秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰においても、その「ギオン」という名前の語源が、神が住まわれるイスラエルの聖地、ציון(zion、ツィオン)と考えられるのです。秦氏とその拠点となる京都の多くの儀式や祭りの数々に、古代ヘブライ信仰との類似点が多く存在することにも注目です。
平安京の歴史を振り返る
もはや、秦氏の貢献をオブラートに包み隠す必要はありません。日本文化の発展に多大なる貢献をもたらし、神を崇め祀る神社信仰のルーツを日本列島に築きあげた秦氏こそ、まぎれもなく神の選民であるイスラエル民族であり、中でも生粋の王系、ユダ族のリーダー的存在であったと想定するならば、歴史の流れが理解しやすくなります。
再建を待ち望むエルサレム神殿の城壁
再建を待ち望むエルサレム神殿の城壁それはユダヤ王族の末裔である秦氏が、卓越した大陸文化とイスラエルの遺産を携えながら、長い年月を経て大陸を横断し、朝鮮半島を経由して日本へと辿り着いたことを示唆します。そして先祖代々の夢であるエルサレムの都の再建を目論んだ秦氏が、あらゆる手段を用いて一族の願望を実現するために惜しみなく協力し、完成したのが平安京でした。ダビデ王の末裔である秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統を共有する皇室と共に国政を担ったと推測されるのです。それ故、古代の日本社会では特に宗教面において秦氏の貢献は大きく、イスラエルの宗教文化に由来するしきたりが、日本各地で息吹くことになります。
古代社会において、秦氏が日本建国の歴史を培った一族のひとつであると言っても、決して過言ではありません。イスラエルの律法に基づき、神宝の管理を含む宗教体制は、イスラエルの祭司役を担ってきたレビ族の末裔に任されることとなり、その影響を多分に受けた秦氏だからこそ、日本各地で神社の建立を手掛けたのではないでしょうか。そしてその貢献は、単に神社の建立や都の造営にとどまらず、失われたイスラエルを彷彿させる膨大な国家事業だったのです。それは正に、ユダ族の王が君臨するイスラエル王国の復元を目指していたと言えます。
日本の宗教文化、そして調和と繊細な美を大切にする日本人の心のルーツに秦氏が存在にあるということは、神の選民の血が日本人のうちに流れていることを意味しています。それこそが日本人の誇りであり、神の選民としての一端を担うことになる私達の使命なのです。
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