いのちの理由

https://news.yahoo.co.jp/articles/41e899091f6c15eb1566be47bfae688feabd1db3【谷川俊太郎、92歳の新たな挑戦「今まで経験したことのない何かを感じたい」】より

92歳になった谷川俊太郎。多くの著名人からリスペクトされ続けている存在(撮影:水野竜也)

92歳になった今でも、精力的に創作活動を続ける谷川俊太郎。

アート名言集『生きてるってどういうこと?』の発売にあたり、「ずっと自分自身に問いかけてきたことをみなさんと分かち合っていきたいと思って」と語った。

――ウクライナの戦争やコロナウイルスなどで混沌とした状況が続く中、生きるということについて改めて考えるようになった人たちが増えています。

僕の場合は、小さいときから戦争が始まっていて、小学生から中学生にかけて東京が空襲されて焼け野原になったりしているのを目の当たりにしてきたんですよ。戦争のリアリティというのを割と小さい頃から知っていたんですね。

だから、いま、ウクライナとロシアが戦争しているということも、当たり前のことのようにして見ちゃうんです。

やっぱり戦争は嫌なんだけれど、これはもう、人間の運命というか、宿命みたいなもので、いくら未来になっても戦争は終わらないだろうという感じを持っていますね。

一種の諦めのようなものなのだけれど、そこにあるリアルな感じというのを持っていたほうがいいのではないかと思います。

人間はやっぱり争うからね。勝負事が結構好きでしょう?

だから、割と、いろんな事件が起こっても、もう平気になっちゃいましたね、年取ったら。

――40~50代には、日々の生活に追われながらも自分の生き方に迷いを抱いている人が多くいます。そんな人たちに何かアドバイスをいただけますか。

もうそんな生意気なことできないね、年寄りだから。

年寄りは、若い人と違って、全然発想が変わるんですよ。

だから、諦めてもいいとか、絶望してもいいとか、そういうマイナスの価値が自分でもありのままに認められるようになったというところがありますよね。

言ってみればすごく自由になっていて、自分が感じることは全部リアリティがあるんだと思うようになって、あんまり、こういうふうに感じちゃいけないとか、こんなことを思っちゃいけないとか、というふうにはなってなくて、「何でもありだ」という感じになってますね、今や。

――今回発売した本は、谷川さんの詩と宮内ヨシオさんの絵を組み合わせた合作ですね。

僕は若い頃から、来る仕事で、自分ができそうな仕事は全部受けていたんです。何しろ、大学にも行ってないし、手に職もないし、とにかく食っていかなきゃいけなかったから。

そういうわけで、例えば歌詞を書くとか、誰かのイラストに言葉を書くとか、自分とは違うジャンルの仕事っていうのをいっぱいやってきているわけ。それが結構、自分のエネルギーになっていたんですね。一人でやるのではなく、いろんな人とやるということが。

それは本当に、自分じゃなくて、他の人のおかげで今までやってきたという気持ちはすごくありますね。

だから結構、合作のほうが力を得るというか、エネルギーが湧くことが多かったりするんですよ。

自分にないものが出てくると、自分の中からまた何か出てくるんですよね、一人でやるよりも。

ほかのジャンルの作品を見せてもらって、そこから自分の中の何かが湧いてくるということがありますからね。

――創作活動において、何か影響を与えているものはありますか。

僕は子供のころから自然に触れて生きてきて、それが詩にも大きな影響を与えていると感じています。

自然というのは自分の創作の原動力になっているんですよね。言葉の世界というのは一種人工的でしょう。どうしても、その言葉の世界のもとにある芸術というのに触れたくなるんですが、それが究極的には自然なんですよね。

だから、やはり、東京にいるだけじゃなくて、ときどき自然の中に出たくなったりしましたね。

――今後、どんな創作活動をしていきたいですか?

僕は、これからあと何年やるか分かんないですけど、今まで経験したことのない何かが感じられるといいなというのは思います。

だから、もう九十歳を超えていればほとんど時間はないわけだけど、やっぱり、前からの経験じゃなくて、何か新しい、九十歳を超えたからこそ感じるものがあるだろうと思うのね。それをなんらかの形で言葉にしたり表現したいとは思うんだけど、これも結構難しいんですよ。

何か自然に降りてくるとか、湧いてくるとか、やっぱり自然とのつながりって、年を取れば取るほど強くなりますね。

谷川俊太郎92歳、今も変わらず好奇心旺盛で意欲的に創作活動を続けている。


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

自分が変わるということ

 93歳になる詩人の谷川俊太郎さんが「未来を生きる人たちへ」と題して、紙上でお話そされていました。その中にこんな文章があり、私自身とても共感したのでご紹介したいと思います。

「違うものを書くには、自分が変わらなきゃいけないっていう意識がずっとありました。

自分を変えるためにはやっぱり、真面目に人生を送っていくっていうことしかないんじゃないかな。そうすると、嫌でもどっかで年齢に即した変化がありますよね。

「真面目に」っていうのが何を指すのか、簡単には定義できないと思ってるんだけど、生活を大事にするということかな。漠然とですけどね。自分が何となく考えてる、あるいは守ってる生活の意識みたいなものを大事にする。」

「描く」も同様です。

長く作品をつくっていくには、自分自身の変化が必要です。好奇心や意欲、世界への関心を維持していきながら、自分の中に蓄積していくものが変化につながるのですね。自分が成熟して、ようやく作品も成熟する、そんなふうに言えると思います。

陶彩画のテーマは、つまりは私自身のテーマです。自分がなにに向っているか。自分の発展時代というか、人生に即しているわけです。

その背景を谷川さんは、「真面目」という言葉で表わしています。その真面目が、いわば生活態度(一日一日を丁寧に生きる)ですが、実直とかとは違って、自分の感覚を大切にするということなのにも納得です。人と比べるものではないのですね。

「自分が変わったということに気づくっていうことも大事ですよね・・・気づくためには、自分に疑問を持てばいい」。未来を生きる人たちだけでなく、未来を手渡す私たちも。


Facebook新田 修功さん投稿記事

どうせ、みんな死ぬんだもの……⁉️😇💕 読書セラピー「賢者の一言」 斎藤一人

人生ってね、旅路なの。旅っていうのはね、目的地にたどり着くことが目的じゃなくて、旅をしている間、楽しく過ごすことが目的なんだよ。もっと、もっと気楽なものなの。

気前のいいあなたが歩く人生の旅路には、神さまが「気前よく」奇跡を起こしてくれるからね。「気前よく」の奇跡 より

………………………………✨✨✨

人生のエンディングは、もちろん「死」です😱

(こちらでの終わりは、あちらでの始まりでもあります。だから亡くなった人のことを、「生前は主人がお世話になりました」なんて言いますね。)

社会の慣習で死というものを、不吉なものとして忌み嫌って、見ないようにしてきました。

でも、間違いなく、やがてみんなに死が訪れるのです😇💦

それは何十年も先の話かもしれないし、何年か、何ヶ月か、ひょっとして明日かもしれません😱

だから、生きている間は精一杯人生を楽しんで、やりたいことにどんどんチャレンジして、いっぱい失敗して、たくさん愛して、たくさん泣いて、時々怒って、悩んで、落ち込んで、大笑いして、何かを成し遂げて……😄😭😡🤔

もっと、もっと気楽に旅を楽しみましょう🏃‍♀️🎶💕

どんなに未来を心配したって、人間死ぬまでは決して死にませんから🤣

本当の自分を、ケチケチして出し惜しみしないで「気前よく」生きていきましょう💕🙆‍♂️

昔、一世を風靡したコメディアンで、名優の植木等さんが歌ってました。

「見〜ろよぉ〜青い〜空ぁ〜、♪白い雲ぉ〜、♬そのうちなんとか、なるだぁろぉ〜🎶」

今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕


https://www.asahi.com/relife/article/15197554 【さだまさしさん 「若い人に何が残せるか」お金より大事なこと 軽妙な語りと熱唱】より

 3月4日に東京都内で開かれた大人の文化祭「朝日新聞ReライフFESTIVAL2024春」で、Reライフフェス初出演のシンガー・ソングライター、小説家のさだまさしさんが、ギターによる弾き語りとトークショーで集まった観客を魅了しました。母との思い出など子どもの頃の話や、人生を後半をどう生きるかなどについて、笑いを交えながら語るとともに、「案山子(かかし)」や「関白宣言」など代表曲5曲を披露しました。

生きようという気持ちと助け合う気持ちがあれば、お金がなくても「どうにかなる」

 今日はReライフということで、人生をやり直したいという方がたくさんおいでなのかもわかりませんね。今日は「スペシャルトーク&弾き語りライブ」で、歌は「&」ですから、メインはスペシャルトーク。

 スタッフの方に、「今日は何をぼやいてもいいですか」ときいたら、「あんまりぼやかないでください。明日に希望が持てるような話をしてください」と言われたんですけど、明日に希望が持てる話が最近ないですよね。それは私たちが悪いんですよね。今日は、年をとった私たちが、ちゃんとした若い人を育ててこなかったっていう反省会にしたいと思っております。

 政治家が未来の日本を語らない時代です。目先のお金の話ばっかりでね。我々は脅迫のようなことを感じているんです。でも、大丈夫です。どうにかなるんです。どうにかなるっていうのは我が家の家訓です。

 お金があろうがなかろうが、生きようと思いさえすれば生きられるんです。日本人はそうやっていままで生きてきました。戦後の混乱期も、助け合って生きてきたわけです。この30年間は給料が上がらない不遇の時代ですが、ブツブツ言いながら、どうにかみんな頑張ってやってきました。おそらく、助け合うという気持ちと、生きようという気持ちだけあれば、どうにかなる。今日の結論を先に申し上げておきます。

♪「案山子」の弾き語り

「お前を信頼しています」 母の手紙が「案山子」のベースに

 「案山子」という曲は25歳で書きました。当時は気味悪がられました。25歳の若造が、故郷で子どもを心配している親の気持ちをなぜ歌えるのかと。これを説明するととても時間がかかるので簡単に説明しますと、私は子どもの頃、天才だったんです。バイオリンの天才で、当時の学生音楽コンクールで入賞しました。それで中学の1年生のときから東京に出てきて下宿生活をしました。

 母は毎週手紙をくれました。手紙の最後に「お前を信頼しています。母より」と必ず書いてあった。この1行は重たいですね。魔の手が忍び寄っても、常に「お前を信頼しています。母より」って文字が浮かぶ。脳裏に刻まれているんですよ。「案山子」は、母の手紙がベースになっているかもしれないですね。「お金はあるか」という歌詞の入った最初の歌謡曲じゃないかと思います。子どもの頃から、お金で母が苦労しているのを見てきました。

 「あんた、今日は何食べたかとね」と母に言われても、母の財布の中がパッと開いたときにふと見ると、ろくなお金が入ってないのがわかって、「うどん」って、私はこう言うわけですよ。「またうどんね。なんか他の……」「いや、うどんがよか」。子どもながらに、うどんが一番安いことを知っているから。私は長男ですし。弟は違う。あほうですから「いや、肉がよか」って。「ちょっとこっち来い。うどんがよかと!」「たまには肉がよか~」「たまにでよかと!今日はうどんにしろ!」と弟を脅迫しておりました。

 母が気が向くと「あんた、何がいいね」っていうときは、「本当はおいしいものを食べさせてあげたいけど、お金がないんだけど、その中でどのぐらいで我慢してくれる?」って聞かれているということだと、子どもながらにわかっていました。

「早く大人になりたい」 母に苦労させない自信がなぜかあった

 そんな家族でしたが、母は明るかったというのがせめてもの救いでした。ご近所に母の同級生が住んでいたので、「手紙持って走ってきなさい」なんて母に言われて、お米を借りに行くこともありました。

 あの当時は、お米の貸し借りなんて普通でした。でも、お米を5合借りたからお米が5合返ってくるという時代ではありません。芋が2キロになって返ってきたり、しょうゆになって返ってきたり。みんなで助け合っていた時代ですね。

 親類にお金を借りるときでも、妹や弟の手を引っ張って、「丘を越え行こうよ~」と歌を歌いながら山一つ越えて、みんなで行きました。お金を借りに行っているということに気づいていたのは僕だけですけどね。弟や妹は、ただピクニックに行ったんだと思っていました。

 父は本当に真面目で、明るくて人がよくて、だまされてばっかりで、また借金こしらえて、というのを見ていました。「早く大人になりたいな」と初めて思ったのは、小学校4年生のときです。大人になったら母にお金の苦労だけはさせない自信があった。なぜそんなことを考えたのか、よくわかりませんけど、働く自信だけはあったんですね。

♪「無縁坂」の弾き語り

17歳でぶち当たった壁 「自分は何者か」

 どんな人生になるか不安で、17歳の高校2年生の頃、ノイローゼになったことがあったんです。不安で不安で寝られない。普通、寝られないとみんな焦るらしいですけど、僕はあんまり焦らなかった。長い夜をどうやって過ごすかに悩んだんです。

 「そうだ」と思ってね、イライラしている原因を突き止めようと模造紙を買ってきて机の上にバーンと広げて、自分のいま持っている不平不満を書いたんです。箇条書きです。何々について不安だ、何々が嫌だ。何々が嫌いだとか。1日目はいっぱい書きました。翌日、また寝られませんから、また書くわけです。

 僕の場合は4日しか徹夜できませんでした。寝られるようにはなっても、不平不満を書くことは続けました。でも、1カ月は続きませんでした。物事の続かない男ですから。それでも2週間はがんばって書きました。

 ある時、「これを書いていてどうするんだ」と思って、解決したものをマジックで消したんです。そうしたら、残っているものは二つしかなかったんです。一つは、私は何のために生まれてきたのだろう。もう一つは、私はどうやって生きていったらいいんだろう。哲学の問題だなっていうことがわかったんです。そうか、俺は自分が何者かがわからなくて悩んでいるんだと。

 これで一気に解決しました。だって17歳が、自分が何者かがわかるはずがないでしょう。だから、「俺が何者かがわかる年齢はいくつだろう」と想像したんです。自分の中で「45」って出た。なぜ45かわからないですよ。ただ、漠然と45歳にもなれば仕事も安定しているだろうし、仲間もできているだろうし、思想の一つはできているだろうし、それから、地位もあるだろうし、その頃には自分が誰かがはっきりするだろうと。17歳から45歳までを仮の人生にしたんです。

 (仮)っていうのは楽なもので、目の前にある面白いものを全部やっちゃおうと思ったんです。その一環として、バイオリニストとして駄目になった自分が、音楽に関わり合って生きていくなら、歌謡曲の作曲ぐらいならできるんじゃないかと思った。これも生意気な考え方ですけど、それで歌い出した。本当に運が良くて、すぐにヒットしちゃった。誰も歌ってくれないから、しょうがないから自分で歌っただけなんですけど。

答えは出なくても、音楽だけは一生懸命やってきた

 45歳になったら「自分は誰か」がわかりそうなもんじゃないですか。でもね、まだわからなかった。45歳の誕生日の前後に、僕は2週間ノイローゼになりました。「俺は何者か」を自分で説明できなかったんです。どうしようと思って悩みましたね。

 結論は、「45歳ぐらいでは、まだ自分が何者かわかってたまるか。60歳になればわかるんじゃないか」。60歳まで投げたんですね。60歳になる直前には悩みませんでした。80に丸投げしました。こうしていまを生きております。

 大切なことを後に丸投げするような人生で、本当に恥ずかしい人生ですね。自分で一つ一つ克服して生きてきたということは、音楽のうえだけです。それだけは一生懸命やってきた自信はあります。期待して来てくださったお客様にどうやったら楽しんで帰っていただけるか、お金を払って来てくださったお客様に見合ったことをしているんだろうか。そういう恐怖心は常にあります。

 もちろん、70を過ぎても、いまの自分はわかりません。死ぬまで自分の肩書がわからないということがわかりました。小説を書き始めたのは49歳でした。これからまだまだ書かなければいけない小説がたくさんありますので、万が一、これからヒットするような小説を書ければ、自分が死ぬときの肩書は変わるかもしれないという希望だけは捨てていません。

「関白宣言」、言いたいことは最後の2行

 これは関白宣言っていう曲のイントロです。非常に歌いにくい時代になりました。パワハラだ、モラハラだ、セクハラだ。関白宣言についても「お前」って言うな、なんて言われるんですよ。「御前」というのは元々神様に対する控えめな気持ちですからね。

 これは歌だから、歌の中で誰かが誰かにこう言ったという話はフィクションです。それを「あんなこと偉そうに言いやがって」ということが言われて久しいですが、本日はオリジナリティーを尊重して、現在では通用しない言葉も言い回しも出てくるかもしれませんが、原曲通りにお届けしてみようと思います。

 ♪「関白宣言」の弾き語り

 いまお聞きいただいた中で、女性蔑視という感じになった方がどのぐらいおいでになるでしょうか。私はこれで女性を男の方が上で女が下だと言いたかったわけではありません。あの林修先生がこの歌詞を読んで、作者の言いたいことはどれか抜き出せと言われたら、(「忘れてくれるな俺の愛する女は、愛する女は生涯お前ただ一人」という)最後の2行ですよねって。国語の先生がおっしゃっていたくらいですからね。

若者の転職の時代、自分が何が好きかわからないことが問題

 いまは転職の時代です。僕らのように、どの仕事を選ぶかというときに、三つぐらいしか選ぶものがない人間は幸せでしたね。考えに考えてこっちを選んだら、それで一緒に生きていくっていう覚悟があったから。終身雇用であれば、自分の人生設計ができるわけです。

 いまはそんな時代じゃありません。自分がなぜこの仕事を選んだのかわからないっていう若者の時代です。もっと自分を生かしてくれるところへと転職する。どこにいても自分で自分を生かす努力をしなくなりました。これは問題ですね。僕が会社の社長だったとして、こいつは見どころがあるなと思ってガーッと鍛えて勉強させて、いろんな経験をさせて、よしこれからっていうときに、「すいません、もっと高く自分を買ってくれるところがありましたから出てきます」って言われてごらん。「チェッ!」って言いますよ。

 そういう時代ですからね、会社は自分のお金をためるばっかりになりますよ。昔は、この会社を選んでくれた、この会社で苦労してくれる、だから、もうかったからみんなで分けようじゃないか、という気持ちにはなったけども、いまはそういう時代じゃありません。

 テレビを見ていて、がくぜんとしたコマーシャルがありました。食える大人に育てるっていう言葉がテレビから流れてきたときに、この国はいよいよ終わりだなと思いました。食うことっていうのは、とても大切なことだけど、食えるということがすべてなのか。好きだから努力できるし、好きだから悪口言われて、好きだからボロボロに言われたときでも、そこに立っていられたのはそれが好きだから。好きだからって仕事を選べばいいのに。自分が何が好きかがわからないことが問題だと思うんです。

若い人に何が残せるか、お金よりもっと大事なことは

 まだ間に合うと思うからこんな話をしています。話をすること、誰かと話をすることが一番大切な気がします。年をとったら若い人と話してください。若い人と話をすると、若い人は、「ああ、そうか。そういう考え方もあるのか」と気づいてくれることがあるかもわかりません。

 昔は家の中におじいちゃんやおばあちゃんが家にいました。おやじやお袋にたたかれそうになっても、おばあちゃんのところへ逃げ込んだりしましたね。おばあちゃんが「もうわかったけん、わかったけん。この子は後で言うとくけん、よかさ、そげん、怒らんでも」。こうふうに祖母という弁護士、祖父という弁護士が子どもにはついてくれていました。

 僕はもう、いつ何があってもおかしくない年に入ってきました。やり残したことはたくさんあるから、たくさんやっておかなきゃいけないと思うけど、ただ言えることは、若い人は殺したくないなと思います。人間だけですよ、戦地に若者を送るっていう馬鹿なことを続けている生き物は。

 若い者を守りましょうよ。本当にそういう気がするな。若い人に何を残せるのかな。お金じゃなくて、もっともっと大切な何かを残すには、何があるだろうって思いますね。

♪「キーウから遠く離れて」の弾き語り

天国の父や母に会ったときに恥ずかしくない生き方をしよう

 僕の父は89歳でみまかりました。母は90歳で亡くなりました。それまでにはまだちょっと間があるんですけども、自分が年を取ってくると、なんだか存在感が近づきますね。

 年を取っていま思っていることは、年寄りなりに、恥ずかしくなく生きていくにはどうしたらいいかなってことです。やがてすぐ父や母に会いますので、会ったときに恥ずかしくない老人ってどんなんだろう、と思います。それをいま探っているところです。

 60歳から老人だとすると、老人でいる期間はびっくりするぐらい長いですよ。老人になってから会社を起こしても十分、一部上場まで育てられるんじゃないかっていうぐらいの時間がある。僕は年寄り株式会社っていうのをつくりたいと思います。ノウハウも知恵も技術も持っているから、面白い仕事ができるんじゃないかな。今年ぜひ、ホームページで募集してみようと思ったりしてね。

 みなさん、大きな夢はもうお持ちでないと思います。だから小さな小さな、それでも大きな大きな夢を話しました。どう頑張ったって、あと10年間頑張ってくれれば1千億円払うよっていう契約は私たちには存在しないわけですから。彼(大リーグの大谷翔平選手)もあれだけ頑張ったから手に入れたわけですからね。

 父や母に会ったときに恥ずかしくない老人でいよう。これが今日の結論です。どうぞくれぐれもお元気で。そしてまたどこかで元気でお目にかかる日が来ますように、最後までお付き合いありがとうございます。

♪「いのちの理由」の弾き語り

https://www.youtube.com/watch?v=u6nqSPHPi1s

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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