Facebook加藤隆行さん投稿記事【自己肯定感が育たない仕組み】
お仕事でコンピュータを触ってプログラマーをされていて「アレもコレもできないんです。」
「自分は本当にダメなんです。。」って言うクライアントさんがいました。
で、どう見てもその方、理系じゃないし、コンピュータが得意とかそういう雰囲気でもない。
話を聴いてみるとそもそもバリバリの文系。プログラマああいうことが出来る人になれたらいいなと もう10年以上いろんな会社に入って働いてきたが全然できないという。
で、ボクは「それは「できない」というか「向いていない」のではないか?」「そもそもプログラミング好きですか?」とやんわりとお伝えしたところ「いや、がんばれば 出来るようになるんじゃないですか?」「苦手を克服してこそですよね?」「働かないと食べていけないのです」こう返事が返ってくる。
いやね、ボクが聴いているのは「向いていないのではないか?」「好きなのか?」なのですが、全く1mmもその答えが返ってこない。これが『克服思考』。
人生がうまく行っていない人自己肯定感が下がっている人ってかならず(常に)『克服思考』でいます。『克服思考』とは「人生とは困難を 『克服』していくものだ」「自分のできないところを『克服』することが人生の主題」と無意識にも捉えているということ。
だからいつも苦手なことや不得意なことを『克服』することばかりに注目していて、そこにガッツリとハマっていきます。
そんなん、苦手なことばかりやっててうまくいかないことだらけなんだから自己肯定感バリ下がるに決まってるやん。
運動神経ゼロなボクが野球が好きだからといってプロ選手の中で、一生懸命素振りしとっても無理だって。
『克服思考』とは簡単に言えば「できない自分を認められない病」のことです。
まあプログラマーになってみたいなという思いが叶えられなかったのは残念ではありますが、
「あ、これ向いてね―や」「違うことやろっと」っていう思考が『克服思考』だとできない。
すぐに⇒「自分がダメだからだ」⇒「とにかくがんばらないと」とハマっていく。
いやね、それだと雇った側もアナタ自身も誰も幸せになれないんよ。
あとね、こんな女性もいた。その方、肩幅もあって体型も結構がっちりしてるの。タッパもある。顔もかわいいとか繊細じゃなくて精悍でカッコいい系。
多分女性にモテる。で、彼女は「女性っぽくならなきゃ」って思っていて柄物のワンピースばかり着るのよ。で、ワンピース姿を鏡に映しては「似合わない…」「女性っぽくない…」
「どうやったら似合うか」「とにかく痩せなきゃ痩せなきゃ」そうやってダイエットばかりしてる。でもどんどん自己肯定感は下がっていく。
で実は彼女は周りの友人たちから「もっとビシッとした パンツはいた方がカッコいいよ」
「シンプルなシャツとか ジャケットとかめちゃ似合うよ」って言われ続けて来ていたのさ。
今は「カッコいい」シンプルな服を来て女性らしいボーイッシュな色気を魅せながらスタイリッシュに生活してます。
こーいうこと。
まあこの『克服思考』は昭和の日本人のお家芸なのでわれわれ世代とわれわれの親世代はガッツリはまっています。でね、『克服思考』が全面的にダメだ、と言っているのではないのです。『克服思考』はそうやって”自己否定”に使うものではなく自分らしく生きている中でもやってくる”ここはガンバリどころだ””ここは向き合うところだという”ここぞ”という時にだけ
一時的に使うものなのです。
この仕組みをわかってないと、勝手に自分でハマって自己否定沼から抜け出せなくなります。
で、人生がうまく行っていない人はほぼコレです。
マイナス面ばかりを見ててもプラス面になんて絶対気づけない。
あなたの人生の答えはあなたの見ている反対側にあります(^ω^)
Facebook相田 公弘さん投稿記事 【まさに、今という時代】
ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…
吉田松陰 高杉晋作 野村望東尼 ジョン万次郎 坂本龍馬「サムライ」の語源は「さぶらふ」という動詞です。「さぶらふ」とは「大切なものを守る」という意味です。
自分の命を超えて大切にしたいものを見出し、そこに生きる理由を見出した5人。
その意味において、この5人を「サムライ」と表現させてもらいました。
「カッコいいって、こういうことだ!」
そんな生き方を貫いた5人の生き方に惚れるとき、あなたのなかに「生きる理由」が立ち上がってくる仕掛けです。
「生きる理由」、それを本書では「ココロザシ」と呼んでいます。
この本は、何も歴史を知ってもらうための本ではありません。
美しく生きたサムライを題材に、あなたの未来を最高、最良、最強にシフトするための物語です。いま、この星は、ありとあらゆるところで行き詰まりをみせています。
再び、時代は風雲を告げ、幕末のような混乱期に突入しています。
「現代」と「幕末」は、伝染病のコレラが上陸したり大地震がきたり、不思議なほどリンクしシンクロしています。
「幕末」を知ることで、いま何をすべきか、「未来の兆し」もまた見えてくるわけです。
何もかも行き詰っていた幕末は、すべてを新しくするチャンスになったのです。
そして、いまこそ新たな「革命」が求められているのです。
そう、今度は僕らが、カッコいいサムライになるときなんです。
100年後の人たちはいうことでしょう。
いまという時代は、幕末なんてもんじゃないくらい激動期だったんだ、と。
いわば、ドラマでいうと、すべてが変わる一番おもしろい時代(シーン)を僕らは生きているんです。
ライフスタイル、生き方、制度、すべてが激変した幕末。
ちょんまげが切られ、着物から洋装になり、殿様からいまの議会制民主義にといった具合に何もかもが変わった明治維新には、時代に取り残され、時代に翻弄されたまま人生を終えた人たちがたくさんいました。
だからこそ、激動の幕末のケースを知り、どうすれば新世界をつくっていけるのかを見出してほしいのです。
時代に翻弄されるか、時代を創造していく側にまわるか。あなたを、新世界のニューヒーロー(サムライ)にする。それがこの物語の最大のミッションです。一緒に最高の未来を迎えにいこう♪
心は安心、安定を求めますが、魂は違う。魂は成長を求めています。魂は進化を求めています。いまこそ進化が問われている激動の時代です。
《人生で一番大事な日は二日ある。生まれた日と、なぜ生まれたかがわかった日である》(マーク・トウェイン/作家)
『人生最後の日にガッツポーズして死ねるたったひとつの生き方』A-Works
この本の巻頭にはこんな言葉が書いてある。
『命とは「時間」のことです。
こうしてページをめくる間にも、あなたの寿命は縮まりました。
100年後、あなたはこの星にいません。
死ぬと決まっているのに、なぜ、僕らは生まれてくるのでしょう?
人生の最後の瞬間、これまで得たモノ、すべてを手放すのが人生のゴールです。
しかし、人生最後の瞬間、持って還れるものがひとつだけあります。
それが…「思い出」です。
人生最後の日、あなたはどんな「思い出」を持って還りたいですか?』
「いまという時代は、幕末なんてもんじゃないくらい激動期」
この大変革期に生まれてきた我々には、どんな使命があるのだろうか。
ひとりひとりに、何らかの使命があり、大きな意味があるはずだ。
ITの変革、デジタルの社会に突き進んでいく中、まさに今、コロナの大きな問題が起きた。
おそらく、今年から来年にかけて、多くの企業や店がバタバタと倒産する100年に一度の大変な時代になるだろう。
幕末では、時代の変革に取り残された人たちが続出した。
だが反対に、それを乗り越え、激的に変化し、進化した人たちも多くいる。
だからこそ、この今、乾坤一擲(けんこんいってき)、のるかそるかの大勝負のとき。
「一期は夢よ ただ狂え」(閑吟集)所詮、人生は短い夢のごとし。
だからこそ、ただひたすら、狂ったように勝負する。そして、たとえ倒れたとしても、前のめりになって倒れる。最後の最後まであきらめず…自らを進化させ続けたい。
※【人の心に灯をともす】のブログより
http://de-ossi.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-b7c8.html 【人生で一番大事な日は二日ある】より
“ 人生で一番大事な日は二日ある。生まれた日と、なぜ生まれたかを分かった日。”
マーク・トウェイン
心を打つ、素晴らしく詩的な名言だ。
アメリカ文学の始祖、マーク・トゥエインは良い言葉をたくさん残しているが、ユーモアがある上に短い文章の中にドキッとさせるものがある。
なぜ生まれたかを分かった日。その日がいつ来るのか。あるいは、その日が本当に訪れるのか。言葉では表せないものなのかもしれない。
人生の中で模索し紆余曲折を経て、そのときの最善を計り、進むべき道を行く。
自信がなかったことにも自信がついていく。
もしくは、自信があったものに自信が失くなり、精進の足らなさに気付くこともあるだろう。
それが 「知る」 ということであり、成長・進化と呼べるものなのかもしれない。
自分自身を振り返ってみて、ふと気付いたことがある。いや、ふと思い出したのだ。
何のために音楽をやっているのか?音楽を生業とすることに何の価値があるのか?
喜びはもちろん、苦悩もありながらもこの音楽生活を楽しみながら生きてきたが、ずっとその悩みのようなものを抱えていた。
かつては、だ。
ほんの3,4年ほど前まではあったかもしれない。
見えないふりをしながらも長らく背負っていたそいつが、そういえばいつの間にか見当たらなくなっている。
決して明確な理由や意義を見つけられたわけでもなく、疑問を抱き始めればいくらでも悩めるのだがどこか罪の意識にも似た重荷のようなものがなくなっているな、と気付いたのだ。
「なぜ生まれたのか」 に至るような壮大な話ではない。
そこまでの存在意義はまだちょっと… いや到底見つけられそうにはない。
もはやそれは音楽云々は関係なさそうだ。
しかし、もし自分がこのまま音楽と共に生きて行くことを許されたのなら
もしかしたらその人生の先に、なぜ生まれたかが分かる日があるのかもしれない。
静かな胎動のような一年だった2016年。いや、これまでの年月すべて———
やはり意味のある年だったのかもしれないな。
否、それを意味ある年月にするのはこれからの自分にかかっている。
人生に無意味なものも無意味な瞬間もない。意味のある人生にしたならば、だ。
https://www.mishimaga.com/books/tokushu/001627.html 【鎌田東二先生にきく! 宇宙の遊び方(1)】より
2009年10月に 発刊した『超訳 古事記』。生老、病死、愛憎、諍い、霊など、全ての物語の要素が詰まった、日本最古の神話である『古事記』に、宗教学者であり、フリーランス神主、神道ソングライターでもある鎌田東二先生が、いまの言葉で息を吹き込んだ一冊です。発刊から10年経ったいま、鎌田先生はどのようなことに関心を持たれて、研究されているのだろう。気になったタブチが、鎌田先生へインタビューを敢行しました。宇宙との交信の仕方や神話のこと、そして気になるバク転の話など、盛りだくさんでお届けします!
(聞き手、構成:田渕洋二郎)
日常に「宇宙」をもてば
ーー 今の現代人が日々を生きる中で、宇宙を感じる瞬間が少なくなってしまったことを寂しく思います。結果的に「自分」というものが大きくなりすぎて、心の病など、さまざまな新しい問題に直面しているように感じるのですが、いかがでしょうか?
鎌田 それはとても重要な問いですね。ちなみに、私は毎日宇宙を感じて生きています。というのも日常には実は宇宙を感じられる瞬間というのはたくさんあって、たとえば本の中にも宇宙があるわけです。一冊一冊のなかに宇宙があると思うし、本が並んでいる本屋さんも宇宙です。いい本屋さんには、本の並びにリズムやハーモニーがあって、その空間に音楽を感じるんです。中に詰まっているのは言葉ですけれども、その言葉は楽譜のようなもので、たとえば弦楽四重奏や交響曲が聴こえてくるように感じて手にとってしまう。そうやって身近なところにある宇宙を感じられるかどうかがポイントですね。
ただ、同じ本屋さんでも売れ行き中心で並んでいるのは、コンビニに似ているというか、どうも落ち着かないですね。すごくノイジーで、本がざわざわしてしまっているのは苦手です。音がクリアーに聴こえてこないし。
ーー ほかにも宇宙を感じる瞬間はありますか?
鎌田 料理でも、音楽でも、コーヒーの飲み方でも、なんでもいいんです。身近なところに宇宙はたくさんある。食事ひとつとっても、食卓になにを並べるかということもひとつの宇宙の創造です。たとえば北大路魯山人であれば、料理に相応しいお皿やお箸、それからテーブル、といったように、全体のコンビネーションを感知してデザインするわけですよね。そういった秩序を自分で創造していくことが大切です。
―― なるほど。
鎌田 こんな感じで、宇宙に接続する回路をたくさん持っていたほうが、面白く生きやすいと思うんですね。私は身心変容技法という研究を長年してきていますが、これは人間のからだとこころをどうやって世界と調律するか、またどうのようにして理想の状態にしていくかという研究です。たとえば仏教の中でも密教では、大日如来と一体化するための「三密加持」という密教の修行があります。また曼荼羅をみる諸種の観想があり、いろいろな方法論があります。
神聖な宇宙と自分がどう近づいていくかということを、人類はいろいろなかたちで編みだしてきました。デザインにせよ、アートにせよ人間の文化というのはそういう身心変容技法の集積なんですよ。
「配線替え」という創造
宇宙を感じるためのもうひとつの手段は、神話です。日々の生活を忙しく過ごしていくなかで、どうしても宇宙や世界に通じていく「始原のとき」を忘れてしまうんですね。神話というのは、いつも「始原のとき」に立ち帰るためのひとつの方法なんです。
古事記上巻や旧約聖書の冒頭部もそうですし、世界中の神話もそうですけれども、始原の物語を自分のなかに生き生きともつことによって、いま自分がどこにいるのかということを確認できます。
―― おお!
そういえば先日京都大学の宇宙物理学・天文学の柴田一成先生たちと、「宇宙と古事記」というシンポジウムをやったんですよ。そこで、最新の科学による宇宙研究と古代の古事記とが結びつくことで、面白い観点を生み出すことが出来ました。このように、ポイントは小宇宙同士をぶつけあわせることで、新しいものが生まれるということなんです。たとえば、お寺という空間での小宇宙と、料理という小宇宙がぶつかったときに「精進料理」が生まれましたよね。
本来大学というのは、そういうことが自由にできる場所であるべきなんですけれども、今はひとつのアカデミックな学問分野を掘り下げるだけで、なかなか各宇宙同士のぶつかりがありません。それは寂しいですね。だから、いろいろな領域にあるものの配線替えをしてみることによって、撹乱というか、創造的に越境していく行為と環境が必要と感じています。
われわれの世界は、素材も人口も有限であるけど、組み合わせは無限です。また、仮に組み合わせが失敗したとしても、それを修理固成すればいいんだというのが、古事記の考え方です。そうやってものの見方や見え方を切り替えることができれば、世界は曼荼羅のように見えてきてとてもおもろいものです。
冥界へ行くということ
―― 古事記の国生みもそうですよね。
鎌田 そうですね。古事記のイザナギとイザナミもそうですが、世界の神話でもそうです。神話にはそういうパターンがいくつかあって、「冥界くだり」も世界の神話に共通してあります。古事記とともにオルフェウスもそう。大切な人の死など、耐え難い状況になったときに回復への旅をするというものです。再生できるかどうかはわからないけれども、とにかく旅にでてしまう。ある種のグリーフケア(悲嘆のケア)とも言えますし、つまりこれまでとは違った宇宙のあり方に、気づき、それを創造していく過程です。
―― 興味深いです。
鎌田 オルフェウスは妻のエウリディケーを毒蛇にかまれて亡くしてしまうのだけれども、あきらめきれずに冥界へいきます。それで冥界の番人の前で竪琴を弾いて心を動かし、冥界からエウリディケーを連れ戻せることになったんだけれども、「振り返ってはいけない」という約束を破ってしまって連れ戻すことができなかった。古事記でも、妻であるイザナミを失ったイザナギが冥界へ下って、これもまた「のぞき見してはいけない」という約束を破ってしまって現世に連れ戻すことはできません。
結果的には、元の形には戻らなかったけれども、冥界くだりを通して、また別の形で新たに宇宙を創造する一歩を踏み出しているわけです。新しい宇宙の創造というのは秩序を壊すことになるんですけれども、少し時間が経つとそれがまた宇宙になっていく。このような大きな悲劇ではないものの、生きていくなかで、秩序のある世界と秩序の破れという、両極をいききしていくのが人間の人生です。
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