壬申の乱

https://kikimanyo.info/jinshin/column-otomo/【戦況から振り返る“大友”が敗北した本当の理由】より

※以下史実をもとにした筆者独自の考察、見解が含まれます。

壬申の乱は、天智天皇(てんじてんのう)の皇太子「大友皇子」(おおとものおうじ)と天智天皇の弟「大海人皇子」(おおあまのおうじ)による皇位継承を発端とした内乱です。約1か月間の内乱に勝利したのは、後に天武天皇(てんむてんのう)となる「大海人」。

乱に勝利した大海人は後に天武天皇となり、日本を律令国家にするためにさまざまな政策を打ち出しました。もし、大友が勝利していたら、日本の国家成立が遅れていた可能性もあり、壬申の乱は古代日本のターニングポイントとなる大事件でした。

乱が勃発した通説となっているのは「大友が大海人に奇襲をしかけ、大海人は止むに止まれず反撃を開始した」というものですが、実際はそうではなかったのではないかとも言われています。その理由は、壬申の乱に関する記録が、大海人側によって作られた「勝者の歴史」だから。

では、実際の壬申の乱とはどのようなものだったのでしょうか?

通説なっている「大友=悪者、大海人=善人」という構図は事実なのか?

大友と大海人の関係性や乱の戦況などを振り返りながら、壬申の乱の真実に迫ってみたいと思います。

ライター藤井勝彦

1955年、大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。編集プロダクション・フリーポート企画代表を経て、2012年より著述業に専念。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』『邪馬台国』『神々が宿る絶景100』など日本古代史にまつわる著述が多い。また、『三国志合戦事典』『三国志英雄たちの足跡』『図解三国志』などの三国志本の他、『図解ダーティヒロイン』『中国の世界遺産』『世界遺産富士山を行く』『世界の国ぐにビジュアル事典』などの著書もある。現在、日刊紙『交通新聞』にて、「古代史の旅」(全88回を予定)を連載中。

大海人の「やむなく挙兵」は作り話

「何ぞ黙して身を亡さむや」

天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、皇位を甥である大友皇子に譲らんと、自ら清く身を引き、吉野へ隠棲したというのが『日本書紀』が記す情景です。

吉野山

▲吉野花矢倉展望台から大海人が隠棲した吉野山を望む

吉野へ向かったのは、天智天皇4(665)年10月19日のことでした。それから半年、大海人に仕えていた舎人(とねり)・朴井連村雄君(えのいのむらじおきみ)が、気になる報告をもたらしてきました。大友率いる近江朝が、天智天皇の山陵(墓)を築くとしながらも、その実、人夫に武器を持たせているというのです。さらに、吉野への糧道まで塞いでいるとも。

これを耳にした大海人が、大友の開戦準備が進んでいることを知って、咄嗟に口を衝いて出たのが、冒頭の悲痛な叫び声だったのです。「このまま黙って身を滅ぼしてなるものか!」と、降りかかった火の粉を振り払うかのように、開戦の決意を表明しています。壬申の乱といえば、大海人と大友が皇位継承をめぐって繰り広げられた内乱ですが、その戦闘開始の合図ともいえるのが、このひと言でした。

津風呂湖

▲矢治峠から望む津風呂湖。吉野から出陣した大海人は、矢治峠を越えてこのあたりで隊伍を整え、宇陀に向かった

ところが、慌てて吉野を脱出したといいながらも、その後の展開は、実に効率の良いものでした。大海人は即座に不破道(ふわのみち/東国と西国をつなぐ重要な道)を塞いだばかりか、東国の兵をも結集。各地で繰り広げられた戦闘のほとんどが連戦連勝。わずか1か月足らずで戦いを制して勝利を掴みとったという、実に手際の良いものだったのです。

予期せず戦いをけしかけられ、止むに止まれず反撃を開始したとはとても思えない周到ぶりに、違和感を覚えざるを得ません。いうまでもなく、大海人の「やむなく挙兵」というのは、『日本書紀』編纂者の創作。そもそも、戦いの計画を練ったのも仕掛けたのも、大海人側の方だったとしか考えようがないのです。

万葉の森・船岡山公園にあるレリーフ

▲滋賀県東近江市の万葉の森・船岡山公園にあるレリーフ。

 天武と天智が仲良く狩りをしている

夫婦仲良く戦いの準備を行う では、その首謀者は、大海人だったのでしょうか?

結論から先に言うと、その妻・鸕野讚良(うののさらら/後の持統天皇)こそが首謀者だったと考えるべきでしょう。意外と思われるかもしれませんが、そう主張する識者が実は少なくないのです。

もともと天智天皇亡き後、皇位を継ぐはずだったのは大海人の方でした。皇位を継ぐ資格の一つとして、母が皇族出身者であることが当然のごとく思われていた時代ですから、母が地方豪族の娘であった大友が皇位を継ぐとは誰も思っていなかったでしょう。ところが、近江大津に都を遷された頃から、状況が変わってきました。大津宮に遷都したこと自体、大友の継承を意識したものと推測されるからです。

なぜならその辺りは、伊賀を含めて大友を養育した豪族・大友氏の本拠地だったからです。それでも、天智天皇がそこで即位した後、しばらくは弟の大海人を次期後継者としていました。天智天皇にまだ迷いがあったのでしょうか。ところが、それから2年後、大友が太政大臣(だいじょうだいじん/最高位の官)に任命されたことで、状況が一変。皇位継承者が大友に移ったことを、暗に表明したようなものだったからです。

これに危機感を抱いたのが、実は大海人本人ではなく、その妻・鸕野讚良だったと思えるのです。鸕野讚良には、大海人との子である草壁皇子(くさかべのみこ)に皇位を継がせたいとの篤き思いがありました。もし、大友に皇位が移れば、その次の皇位は、大友の子・葛野王(かどののおう)へと移ってしまいます。当事者である大海人にとって見れば、葛野王は娘・十市皇女(とおちのひめみこ)の子、つまり、自身の孫に皇統が継がれるわけですから、それほど不服はないのですが、鸕野讚良だけは必死でした。実力を行使、つまり戦火を交えてでも、大友の皇位継承を阻止したいとの思いがあったのです。

家系図

夫・大海人に反旗を翻すよう口説いたのも、おそらく彼女だったのでしょう。吉野隠棲から東国への出奔に到るまでの計略を練ったのは夫である大海人だったかもしれませんが、その夫を終始叱咤激励していたのが彼女だったのです。

鸕野讚良こと後の持統天皇といえば、草壁皇子の皇位継承の障害となった大津皇子(おおつのみこ)を除くため、大津皇子に謀反の罪を着せて自害に追いやったほどの人物でした。単に皇后として天皇を陰で支えるようなしとやかな女性ではなく、むしろ野心あふれる女帝だったのです。大海人は、夫唱付随(ふしょうふずい)で、用意周到、謀略を駆使して戦いに挑んだと考えられるのです。

不破道(ふわのみち)を塞いだことで勝利を手に

では、なぜ大海人は吉野へと隠棲したのでしょうか? それは、疑心暗鬼な天智天皇の目を欺くためということはもちろんのこと、挙兵準備のための時間を稼ぐためでもありました。

舎人の朴井連雄君に近江朝の動向を探らせるとともに、美濃国安八麿郡(あはちまのこおり)の大海氏ばかりか、同族であった尾張氏にも協力を要請するのに時間が必要だったからです。全ての準備が整い終えたのが6月24日。まさに、吉野出立の日だったのです。

野上の行宮跡

▲野上の行宮跡。大海人はここに入って、大友の軍と戦った

伊賀から伊勢へと向かううちに、先発隊から当初の予定通り、不破道を塞いだとの報告がありました。この近江朝による徴兵は、各地に派遣された国司(こくし/国の行政官。中央から派遣された官吏)が朝廷の意を受けて命じたものですが、地元の豪族を大海人側が取り込んだことで、不破道封鎖後、国司の意思など無視して容易に寝返らせることができたのです。

いずれにしても、不破道を塞がれたことで、兵を近江朝に送ることができませんから、そっくりそのまま大海人側のものになったことに変わりはありませんでした。つまるところ、不破道を塞いだ時点で、大海人側の勝利は、ほぼ確実なものになっていたのです。

ちなみに、西国は白村江の戦い(倭・百済軍と唐・新羅軍との戦い)に兵を駆り出されて疲弊していましたから、頼りになりません。しかも、近江朝はさらなる新羅派兵を目論んでいましたから、戦いを忌避したいと願う西国の人々は、近江朝に与したくなかったのです。

「王者の風格」が足を引っ張った?

おそらく、大海人の突如の吉野出立(近江朝からみれば謀反)に驚いたのは、大友の方でしょう。両陣営の戦力を比較してみれば、近江朝の方が上でした。万が一戦うことになっても、大友は負けることなどあり得ないとタカをくくっていたことでしょう。

しかし、実際に戦が始まると、大友の見込みに反して戦は展開していきます。この戦いぶりを見る限り、大友は大海人の謀に気がつかなかったとしか思えないのです。何の心づもりもないまま手をこまねいているうちに敗れてしまった…と言うのが、壬申の乱の実情だったのではないでしょうか。

黒血川

▲両軍の兵士が流した血で川が黒く染まったという黒血川

では、開戦後の勝敗の決め手は、何だったのでしょうか?

それは、2人の性格の違いにヒントが隠されているようです。大海人は、兄・天智天皇と同じく、父は舒明天皇(じょめいてんのう)、母は宝皇女(たからのおうじょ/皇極、斉明天皇)です。ただし、これは『日本書紀』に記されたもので、2人は実の兄弟ではなかった、あるいは兄と弟の年齢が逆転するなど諸説が飛び交い、その関係は謎めいています。

鸕野讚良をはじめ兄の娘を4人も弟が娶っているのも奇妙です。なんらかの思惑があったことは間違いないでしょう。また、弟の妃であった額田王(ぬかたのおおきみ)は、後に兄が寵愛したことで、三角関係が取りざたされることもありました。

ともあれ、絶大な権力を誇る兄・天智天皇に対して、弟である大海人は常に兄の顔色を伺いながら生き延びざるを得なかったのは確かなようです。猜疑心の強さも、そんなところから芽生えてきたのかもしれません。

一方、細心の注意を払って生き延びざるを得なかった大海人と違って、父・天智天皇から期待を寄せられ続けてきた大友は、王者の風格さえ漂っていたことでしょう。猜疑心というような邪心を抱くことを忌避する傾向があったのかもしれません。それゆえに、叔父・大海人の謀に気付かなかったのでしょう。

本来なら、大海人が挙兵した時点で、即座に兵を送り込んで討伐すべきだったにもかかわらず、なぜか、しばし静観してしまいました。王者が関わる戦いなのですから、捨て置いても問題ないとでも思ったのでしょうか。速やかなる追撃をしなかったことも敗因の一つでした。「破れることはない」との過信があったに違いありません。

これが結果として、兵の弱体化にまで繋がっていきました。最後の戦いの舞台となった瀬田大橋において、大友自身が威厳を見せ付けようと、戦場にのこのこと姿を見せたことも逆効果でした。かえって、敵の戦意を盛り上げてしまったからです。この辺りの機微に欠けるところも、大きな欠点でした。

自害峯の三本杉

▲大友の首を葬ったという自害峯の三本杉

茶臼山古墳

▲大友と重臣たちの塚がある茶臼山古墳

最後には、敗走して戦況を立て直す意欲も見せぬまま、あっけなく自害。ここでも、「王者の風格」が足を引っ張りました。叩き上げの苦労人なら、どこまでもしぶとく生き抜いて、最後の最後に勝利を掴み取ってやるとの執念で逃げのびたでしょうが、哀しいかな、大友には、そんな泥臭いことはできませんでした。

私には、大海人の謀略を見抜くことができなかったばかりか、戦いに際しても「王者の風格」にこだわり続けたことが敗因だったと思えてならないのです。


【壬申の乱はなぜ起こったのか?勝者が天皇となった壬申の乱のポイント4つ】より

壬申の乱が起こった原因

壬申の乱(じんしんのらん)は飛鳥時代に、大海人皇子(おおあまのおうじ)と大友皇子(おおとものおうじ)のふたりが繰り広げた皇位を争った内乱です。大化の改新と呼ばれる政治改革を進め、中央集権国家の建設を目指していた天智天皇(てんじてんのう)が671年に崩御。彼らが争うことになったきっかけは、その天智天皇の掟破りの心変わりにありました。

壬申の乱のポイント4つ

大海人皇子と大友皇子は叔父と甥の関係

大海人皇子は天智天皇の弟、大友皇子は天智天皇の子ども。ふたりは叔父と甥の関係です。

当時の天皇家のルールでは、天皇に同じ母から生まれた弟がいる場合は、現行の天皇の後継者は弟であるとされていました。つまり大海人皇子が正統な後継者です。

ところが、天智天皇は弟よりも自分の子どもである大友皇子を後継者にしたいと考えました。天智天皇の決断をきっかけに、彼らは皇位を巡って争うようになったのです。

大海人皇子は一度吉野で僧になっている

天智天皇は、本来は大友皇子を後継者にできないことはわかっていたため、一計を図りました。病床に大海人皇子を呼び出して、「皇位を譲る」と伝えたのです。返答によっては、大海人皇子を亡き者にする手筈でした。

ところが、大海人皇子は機転を利かして天智天皇の提案を断ります。

「病気がちだから国家を守ることはできません。出家して吉野にこもります」と返答したのです。

宣言通り、大海人皇子はその後出家して、妻とともに都である「大津京」(現在の滋賀県)を出て吉野宮にうつりました。ちなみに、この妻とは、後の「持統天皇(じとうてんのう)」です。

大海人皇子を吉野に行かせたことについては、「虎に翼をつけて放てり」と評されたと伝えられており、朝廷から危険視されていたことがわかります。

一説によると妻である後の持統天皇が、大海人皇子に皇位を継承させるために、「吉野に退き戦争の準備をして、天智天皇の崩御後に大友皇子を滅ぼそう」と説得したともいわれています。この説が正しければ、大海人皇子を吉野に行かせることは、まさに虎に翼を授けたようなものですね。

大海人皇子は吉野に身を隠したことについて、後に「み吉野の 耳我の嶺(みみがのみね)に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は零りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隅もおちず 思ひつつぞ来し その山道を」と歌っています。

要約すると、「吉野の耳我の嶺にはずっと雪が降っていた。雪や雨が絶え間なく降るように、沈んだ気持ちで山道を行き吉野に来た」という内容です。「虎に翼を」と評されたものの、本人は決して意気揚々と吉野に行ったのではなく、まさに都落ちの気持ちで吉野へ向かったことがわかります。

天智天皇が崩御後、朝廷では大海人皇子を滅ぼそうと吉野に食料を運ぶ道を閉ざそうとするなどの動きがみられました。また、朝廷側が天智天皇の墓を作る作業員を集めていた際、彼らが武器を持っていたという情報を入手します。

このような状況下で、「むざむざ討ち滅ぼされるよりも先手を打つのが得策」と考えたのか、大海人皇子は挙兵を決断します。

壬申の乱の経過:何回かの戦いを経て、672年に大海人皇子の勝利で収束

672年、大海人皇子が挙兵しました。日本古代史最大の戦である「壬申の乱」です。挙兵したときはわずか20人の従者と女官だけであったと伝えられています。

壬申の乱の戦場となったのは、現在の奈良県、三重県、滋賀県、岐阜県、大阪府です。地図で確認すると各地で転戦していることがわかります。この際に、桑名で大海人皇子が宿泊したとされる「桑名郡家」は今も天武天皇社として祀られています。

大海人皇子は、朝廷と東国を分断するべく美濃国(現在の岐阜県)に向かいました。各地の豪族や舎人(下級官人)は、大海人皇子の動きに呼応して反乱に乗じます。最初は少なかった大海人皇子の戦力は、朝廷側に不満を持っていた豪族らの参加により、にわかに増強。最終的には大海人皇子が勝利しました。

最大の決戦は「瀬田唐橋の決戦」といわれています。その戦いの翌日、敗北した大友皇子が自害。大海人皇子が吉野で挙兵してからおよそ80日経過しているので、2ヶ月以上も続く戦いとなりました。

壬申の乱の結果、673年に大海人皇子が即位し「天武天皇(てんむてんのう)」となります。その後、天武天皇は皇族を中心とした天皇政治を強化していきました。

自ら命を絶ったといわれている大友皇子ですが、その終焉の地は定かではありません。

戦う場所に関ヶ原が関わっている

実は壬申の乱には、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」の舞台として有名な後の関ヶ原古戦場も関係しています。大海人皇子が本拠地を置いたのは現在の関ケ原町の丘陵地で、当時は「野上行宮(のがみあんぐう)」とされています。

また関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が陣を置いたとされている「桃配山(ももくばりやま)」に本拠地を置いていたともいわれています。実はこの桃配山は、大海人皇子が村人から献上された山桃があまりにもおいしかったため、兵たちに配ったエピソードにちなんで名付けられたという説もあるようです。

壬申の乱からの学び

壬申の乱で注目したいのは敗者になった大友皇子の記録上の取扱いと、即位した大海人皇子が家族と交わした盟約です。

「歴史は勝者が記録すること」がわかる日本書紀での大友皇子の取扱い

時系列をおさらいすると、天智天皇が崩御してから大海人皇子が壬申の乱で勝利をおさめるまでの期間は約7ヶ月。大友皇子はその間、天皇として政治を行っているはずです。

ところが当時の日本の重要な史料であるとされている「日本書紀」には大友皇子が即位したとは記載されていません。即位する前に自害したとされているのです。

しかしながら、7ヶ月間も天皇が空位になるとは考えにくく、実際には即位していたはず。さまざまな史料に、大友皇子の子どもを「皇太子」と記してあり、大友皇子が即位していたと考えるほうが自然です。

なぜ、日本書紀は「即位前」としたのでしょうか。この矛盾については、江戸時代の歴史家伴信友によっても問題提起されています。日本書紀は日本の正史として藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって編纂されました。

実は、日本書紀を編纂したメンバーのひとりが「舎人親王(とねりしんのう)」という大海人皇子の第三皇子だったのです。

「大友皇子が即位した」と記載すれば、大友皇子らを討ち滅ぼした大海人皇子は「朝敵」となります。現行の天皇を死に追いやった重罪人です。父であり天皇である大海人皇子が、後生非難されるような記録は残したくないと考えるのは当然のこと。なお、明治維新後に、大友皇子は即位したとして「弘文天皇(こうぶんてんのう)」と名付けられています。(ただし、本当に即位していたのか否かについては現代においてもなお議論されています)

このように事実認識に対して現代の視点から異説が生まれることは、歴史上では珍しいことではありません。歴史は、「常に勝者によって記録されている」ということは歴史を学ぶ上でとても大切な視点です。

古文書や歴史書で調べる際は、「誰がなんのために書いた記録なのか」と問うことが大切です。この「疑う姿勢」は歴史の記録だけでなく、インターネットに投稿された文章や動画などにも当てはまります。「情報の正しさを疑う姿勢」は、情報が溢れる現代社会に生きる私たちにとっては、欠かすことのできないスキルです。

天武天皇から子どもたちへ向けたメッセージ

679年、天武天皇は皇后と子どもたちを連れて吉野宮に赴きます。大海人皇子には幾人もの妻がおり、17人の子どもがいました。そのうち高市皇子ら四人を連れて吉野で「お互いに助け合う」と誓いあったとされています。

自身が甥っ子である大友皇子と争った苦い経験から、子どもたちには同じ失敗をして欲しくないと考えたのでしょう。

天武天皇の願い通り、天武天皇の崩御後は兄弟間での皇位継承争いは起きず皇后が「持統天皇(じとうてんのう)」として即位しました。これは天武天皇と皇后の間の子どもが即位可能な年齢になるまでのつなぎであったといわれています。皇子が複数いたにもかかわらず、女性が天皇になったということは皇子たちの統制がとれていたからではないでしょうか。皇子たちは天武天皇の教えを守ったといえます。

壬申の乱が起こった原因について知ろう

これまでお話ししたように、壬申の乱は叔父と甥が皇位を争った戦いでした。壬申の乱のきっかけは大海人皇子の兄であり、大友皇子の父である天智天皇の「掟破り」です。

ルールでは大海人皇子が皇位を継承すべきところを、息子の大友皇子に継がせたいと考えたことから壬申の乱が発生しました。

結局、壬申の乱では大海人皇子が勝利。天武天皇として即位します。

大海人皇子こと天武天皇が開眼した「薬師寺」に行ってみましょう

世界遺産「薬師寺」は大海人皇子が皇后である後の持統天皇の病気平癒を祈願して創建したお寺です。「凍れる音楽」との異名を持つ東塔や薬師三尊像などの文化財が今なお残っているので、当時の文化をふんだんに感じ取れます。

大海人皇子が生きた時代に花開いた白鴎文化の素晴らしさを現代に伝える貴重な文化財の数々の実物をぜひ見に行ってみましょう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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