八の意味と七の意味

Facebook蛯原 春比古さん投稿記事

『八咫烏』その一〜八の意味と七の意味

白波の寄そる浜辺に別れなば いともすべなみ  夜多妣(八度・やたび)袖振る

大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ) 万葉集第二十巻4379

【歌意】

白い波が寄せ来る浜辺で別れてしまったら、もうどうしようもない。

だから、今は何度も何度も、何度も何度も袖を振るのだ。

足利郡(栃木県足利市周辺)の大舎人部祢麻呂(おおとねりべのねまろ)という人が、防人(さきもり)として九州への旅に向かう途中で詠んだ歌。

〜楽しい万葉集参考

「八の意味」

七回の次、八度、つまり何回もという意味。繰り返すこと。

数の多い意味(例*八つ裂き、八方塞がり、千代に八千代に等など)

「七の意味」

「七」という数字は主に中国から伝わった影響があります。

中国では奇数「一、三、五、七、九」を吉とする習慣があります。

これは数値が大きいほど吉なのですが、「九」は恐れ多いので中国は元より一般では使われません。そのため日本では「七」が最大の吉とされることもあります。

七転八倒で次に訪れるものは何でしょう?答えはそれより大きい幸せ・幸福です。

それは八回目で起きた場合でも同じです。それまでより大きい幸せが訪れることを予兆しています。ちなみに七転八倒や七転八起の「七」と「八」はいずれも吉数です。「八」は末広がりで、中国では「九」の次にめでたい数字とされています。「八」は上下を除くあらゆる方向を指すのです。

「咫と尺は長さの単位」

日本には唐制が導入され、大宝元年(701年)の大宝律令で大尺・小尺を制定している。ただし異説もあり、日本には大宝令以前に高句麗から渡来した大尺より2寸長い高麗尺が普及していたので、これが大宝令の大尺とされ、唐の大尺が小尺にされたともいう。この説では、後に現れる曲尺1尺2寸の呉服尺は高麗尺に基づくものであるとする。また、新井宏は寺院等の実測分析から高麗尺ではなく0.268mの尺が使用されていたという古韓尺説をとなえている。なお岩田重雄は、隋代に小尺となる尺が朝鮮において5世紀中頃には26cm代に伸張し、その後約150年変化しないとし、それを新井宏が古韓尺と呼んでいると説く。唐の大尺は現在の曲尺で9.78寸(296.3 mm)であり、それ以来ほとんど変化していないことになる。

律令制崩壊後は、全国一律の尺は維持されなくなり、各地で様々な尺が使われるようになった。竹尺として代表的なものが京都系の「享保尺」であり、鉄尺の代表的なものが大坂系の「又四郎尺」である。享保尺は又四郎尺に対して0.347%ほど長い。享保尺と又四郎尺を平均したものが折衷尺である。

つまり、尺の長さは単位を意味するだけで、その長さは様々である。

古代中国の嘉量による尺

漢代の尺 : 約23.09 cm  隋代の大尺 : 約29.4 cm   隋代の小尺 : 約24.6 cm

唐代の大尺 : 約29.4 cm  唐代の小尺 : 約24.6 cm  大宝律令の大尺 : 約356 mm

高麗尺に由来。土地の計量など。大宝律令の小尺 : 約296 mm(小尺一尺二寸=大尺一尺)

唐尺に由来。平安時代以降はこれが一般的になる。

又四郎尺・鉄尺 : 約302.58 mm

永正年間に京都の指物師又四郎が定めたとされ、大工が主に用いた。

享保尺・竹尺 : 約303.63 mm

徳川吉宗が紀州熊野神社の古尺を写して天体観測に用いたとされる。

折衷尺 : 約303.04 mm

伊能忠敬が測量のために又四郎尺と享保尺を平均して作ったとされる。明治度量衡取締条例における曲尺の根拠とされた。

曲尺(かねじゃく)(明治度量衡法) : 約303.030 mm

明治度量衡法で、10/33mと定義された。又四郎尺、享保尺、折衷尺などを勘案して明治期に定められた。通常は「尺」といえば曲尺のことをいう。

鯨尺(くじらじゃく) : 約378.788 mm(曲尺の一尺二寸五分(1.25倍)に当たる。)

明治度量衡法で、25/66 mと定義された。主に呉服について用いられる。六尺褌や三尺帯といったときは鯨尺の長さのことである。またタオルなどの織物の場合、織機に使われる筬の鯨尺1寸(約37.88 mm)当たりの本数によって密度が決められる。

呉服尺(ごふくじゃく)、呉服差し(ごふくざし) : 約363.636 mm(曲尺の一尺二寸(1.20倍)に当たる。)

明治度量衡法では定義されていない。鯨尺より五分短く、呉服の裁断に用いる。

〜wik参考

『八咫烏』そのニ 〜烏の目と七つの子

夕焼小焼で 日が暮れて 山のお寺の 鐘がなる お手々つないで 皆かえろ

烏と一緒に 帰りましょう

子供が帰った 後からは 円い大きな お月さま 小鳥が夢を 見る頃は

空にはきらきら 金の星   〜中村雨紅作詞

からす なぜなくの からすは 山に かわいい 七つの 子があるからよ

かわい かわいと からすはなくの かわい かわいと なくんだよ

山の ふるすへ いってみてごらん まるい目をした いい子だよ

かわい かわいと からすはなくの かわい かわいと なくんだよ

やまの ふるすへ いってみてごらん まるい目をした いい子だよ

〜野口雨情作詞 本居長世作曲

本居長世は1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。

『七つ』という言葉が「7羽」を指すのか「7歳」を指すのかは明らかになっておらず、度々論争の種となっている。カラスは一度に7羽もの雛を育てることはなく、7年も生きたカラスはもはや「子」とは呼べないためである。

「7歳説」への有力な手がかりとして、野口雨情記念館の館長である雨情の孫娘が主張する、雨情の息子がこの歌のモデルであり、その息子が7歳のころに作られた歌であるという事実がある。

これは身内による主張であるため、説得力があるとする見方が存在する。

また、7歳という年齢は野口雨情自身が母親と別れた年齢と合致することから、そこに関連性を見出す説もある。

また、この歌の元歌である「山烏」という詩が、1907年頃に作られており、その中でも「可愛(かわい)七つの、子があれば…」と書かれていることからも野口雨情自身の母への思慕の情や実体験からくる子供への思いが歌のなかで「七つ」という言葉が一つのキーワードとしてあてられているのではないかと思われる。

なお、日本語の「七つ」という言葉はしばしば「多い」の意味で使われる。

〜wik参考

カラスはまだ日が昇りきらない早朝から活動しはじめ、夜明けより約30分前にねぐらを飛び立ち、採食しに出かけます。

食べ物をあさって満腹になると、昼間は休息したり、遊んだり、水浴びをしたりして過ごします。夕方は、日没近くになるとねぐらにむけて移動し、直接ねぐらには入らず、付近で小規模な群れを作ったり離れたりを繰り返してから、 日没後にようやくねぐら入りして眠りにつきます。

ハシブトガラスもハシボソガラスも、夜間は人と距離をある程度保つことのできる森林で何羽も集まって夜を過ごし、眠ります。

さらに秋から冬にかけては、個々の群れが集まり一ヶ所で夜を過ごすようになります。

これを「集団ねぐら」と呼びます。

集団でねぐらを作るのは、体温調節やえさ場などの情報交換のため、外敵から身を守る、つがいを見付ける機会を増やす、などの理由があります。

カラスのねぐらは、本来、大きな常緑樹などの暗い森林、例えば山の中腹の森や鎮守の森などに作られてきましたが、都会では、規模の大きな緑地の公園や神社などに集まります。

ねぐらは数十羽ほどの小さなものから、大規模なものだと10,000羽近くまでになるといわれています。

数100~数1,000羽程度のものが最も多く、全体の7割程度とされています。

ただし、ねぐらに集まる数は季節によって変動があり、春から繁殖期にかけては、子育て中のつがいがねぐらではなく巣で夜を過ごすため、減る傾向があるようです。

秋になるとその年に生まれた幼鳥が加わって数も増し、冬は最もカラスの数が多くなります。

ハシボソガラス 全長50cm  ハシブトガラス 全長56cm

【烏と鴉】

「鳥(とり)」にあって「烏(からす)」にないこの上部の線は、もともと目を表す部分だったそうです。しかし、カラスの体は真っ黒ですから、通常の鳥と比べると、目の位置が非常に分かりづらいのです。そのため、目の部分の横棒がなくなり、いまの「烏」表記になったと言われています。象形文字である「鳥」という字の「目」を表す一本の横棒をなくし、全身が真っ黒で目の部分が見えないカラスを示しています。

日本では、カラスの鳴き声を「カア、カア」と表現しますが、

古代中国の人々は、「アア、アア」と表現しました。

そこから、嘆いたり、感嘆したりしたときに出る人間のため息を、「烏」に「呼ぶ」と書いて「嗚呼(アア)」と読むようになりました。

もう1つの表記「鴉」の方ですが、こちらは「牙」という字が入っています。しかし、カラスにあるのはクチバシであって、牙ではないですよね。

この「牙」という字、実は当て字だそうで、カラスの鳴き声から来ているそうです。

カラスの独特な「カーカー」とも「ガーガー」ともつかない声を、昔の人は「牙」という文字で現しました。

そのため、本来カラスが持たない「牙」という字が入っているのですね。

こちらの「鴉」は形声文字ということになります。

「烏」と「鴉」~カラスに2種類の漢字が当てられている理由参考

『八咫の鏡と八咫烏』その三 〜太陽を運ぶカラスとアマテラス

古代中国の殷では、10個の太陽が存在して、それが毎日交代で上り、10日で一巡りすると考えられており、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)はそれぞれの太陽につけられた名前と言われています。

この太陽が10日で一巡りすることを「旬」と呼ぶ。上旬、中旬、下旬と言う呼び名もこれに由来するのです。

中国には、堯帝の時代に10個の太陽が一度に出、草木が燃えるほど暑くなってしまったので、堯帝が弓の巧みな羿という者に命じて、9つの太陽を撃ち落とした、という神話があり、この説を裏付けています。

【三足烏】

『淮南子』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。

この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという。

『淮南子』の巻七(精神訓)では、月日説話に「日中有踆烏 而月中有蟾蜍」の記述もあり、太陽と烏の関連を示している。

後の『春秋元命苞』に「陽数起於一、成於三、日中有踆烏」がみえ、太陽の中に鳥がいるという話は古いが三本足を有することについては後のことではないかとされる。

また、大昔には10の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。

しかし尭帝の御世に、10の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、9つの太陽に住む9羽の烏を射落とさせた。

これ以降、太陽は現在のように1つになったといわれる。

〜wik参考

以前に八咫鏡が内行花文鏡とするとその連孤紋は「太陽が昇り、沈む」その連続性(永遠性)を表していると解釈してきましたが、同じ八咫とつく「八咫烏」は太陽が昇り、沈み、そして再び昇るという時間経過の中に存在する烏、つまり太陽を運ぶ鳥「三足烏」だと考えられるのです。

さらに鴨氏の祖「鴨建角身命」の別名が八咫烏で「鴨」という漢字を分解すると「甲」と「鳥」になり、以前の投稿で下鴨の御神紋の「双葉葵」の「葵」は「癸」と解釈してきました。

この二つの「甲」と「鳥」と「葵(癸)」には字合わせの意味があり、「十干」は一番目「甲」と十番目「癸」になり、60ある干支を組み合わると「甲子」は一番で「癸亥」は60番目になります。(最初と最後、つまり全てを指す、永遠に繰り返す暦)

さすがにこれは偶然ではなく、意図的に陰陽(暦)を名前や御神紋に表していると考えられるのです。

*十干とは

古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支と合わせて干支(かんし、えと)といい、暦の表示などに用いられる。

五行に当てはめて、2つずつを木(もく、き)・火(か、ひ)・土(と、つち)・金(こん、か)・水(すい、みず)にそれぞれ当て、さらに陰陽を割り当てている。日本では陽を兄、陰を弟として、例えば「甲」を「木の兄」(きのえ)、「乙」を「木の弟」(きのと)などと呼ぶようになった。「干支」を「えと」と読むのは、この「兄弟」(えと)に由来する。

〜wik参考

『続日本紀』大宝元年(701)正月条に、藤原宮の正門前に烏形の幢(はた)を立て、その左右に日月像と四神幡を立てて、元日朝賀の儀式を行った様子が記録されています。

日月像と四神幡は陰陽五行を象徴し、五行が規則正しく循環する姿を幢幡で表現し、理想的な国家統治を願ったものなのです。

中央に位置する烏形の幢は、『文安御即位調度図』には、中央に描かれた銅烏幢の脇に「烏足有三」と注記され、この烏を三足烏としています。

また、弘仁14年(823)の『淳和天皇御即位記』に「立八咫烏日月形」とあり、八咫烏説の根拠となっています。

日月像と四神幡を陰陽五行で解釈すると、木気(青竜)・火気(朱雀)・金気(白虎)・水気(玄武)となり、それに日像、月像、中心は烏形の幢ですから、五行では土気(黄色)になり、金烏になるのです。

金烏は中国や日本においてこのように呼ばれるほか、陽烏(ようう)、黒烏(こくう)、赤烏(せきう)とも称され、太陽にいる鳥がカラス(烏)であるとする解説は古代から中国にあり、『楚辞』天問の王逸注にも「日中の烏」という語がみられます。

これは、皇祖神アマテラス(日嗣は天皇)を中心とする政は太陽が天上に存在し、天下を広く照らしているという意味があるのです。

また、『山海経』(大荒東経)などではカラスが太陽を載せて空を移動してゆくとも記されていて、日の出と日の入りの時間帯に移動をするカラスの生態を表しているかのようです。

〜wik.国立奈良文化財研究所ホームページ参考

『八咫烏から金鵄へ交換された名前』前編

〜鵄はミミズク、記紀には八咫烏は三本足とは書いてない

【日本書紀 仁徳天皇】

仁徳天皇が生まれた日、産屋に木菟(ミミズク)が飛び込んできた。

平群木菟も同じ日に生まれ、鷦鷯

(ミソサザイ)が飛び込んできた。

瑞祥だとして「木菟」「鷦鷯」の名を付け、名を交換した。

〜日本書紀 仁徳元年正月

「天皇、生れます日に、木菟(ツク)、産殿(うふとの)に入(とひい)れり」〜

【平群木菟】

『日本書紀』仁徳天皇元年正月条によれば、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。

その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという。

ただし上記伝承以前にも記事があり、同書応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、木菟宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。

これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。

そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。

続けて同書応神天皇16年8月条によると、葛城襲津彦が朝鮮から久しく戻らないため、天皇は新羅が妨げているとし、木菟宿禰と的戸田宿禰を精兵を従えて加羅に遣わした。

木菟宿禰らが新羅の国境まで兵を進めると、新羅王は愕然として罪に服し、弓月君の民を率いて襲津彦と共に日本に来たという。

また、同書履中天皇即位前条では、住吉仲皇子(履中の弟)が太子(履中)に対して反乱を起こした際、物部大前宿禰・阿知使主とともに太子に啓したが信じなかったため、3人で太子を馬に乗せて逃げたという。

その後、瑞歯別皇子(のちの反正天皇)の仲皇子討伐に従ったが、仲皇子から離反し仲皇子を殺した刺領巾について、自分たちにとっては大功だが主君には慈悲がないとして殺害している。

そして履中天皇2年10月条において、天皇が磐余に都を作った時に、蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らと共に国事を執ったと記されている。

『古事記』では事績に関する記載はない。

平群木菟に関しては仁徳天皇との名前の交換説話(易名説話)が知られるが、このような易名説話は天皇家と武内宿禰および平群氏との君臣関係の締結を示すとされる。

出産の最中に鳥が入り込むことはありえないため、古墳時代の出産ではミミズク・ミソサザイに見立てた鳥形呪具が使用されていたことが伝承成立の背景になったと推測する説がある。

〜wik参考

仁徳天皇の名は「大雀」「大鷦鷯」と書かれ「オホササキ」と読む、「ササキ」は「みそさざい」という小鳥のこと「みそさざい」の異名、別名や方言に「みそくいどり、はかとり、みそさんざい、みそなめどり、みそつつき、みそきち、みそさんざに、さざい、さざえ」などがある。

「みそくいどり」はまさに「溝咋」になります。

仁徳天皇が陵地を定めて陵を建築したとき鹿が走り込んできて倒れて死んだ、耳から百舌鳥が飛び出た、耳中は咋い(食い)割け剥げていた。

それでその地を百舌鳥耳原という。

ここから「モズ食い耳」から「ミゾ・クヒ・ミミ」となる説がある。

「溝咋耳」から連想して作られた地名説話か、あるいは、逆に「溝咋耳」から連想された伝承かは不明。

〜歴史・言語談話室参考

【觜宿の星官】

觜(し、とろぎ)

ミミズクの頭上の毛、あるいは鳥の嘴

【鵄(とび)】

鵄とは、みみずく/ふくろう/とび/とんび/タカ科の鳥類などの意味をもつ漢字。

【金鵄(きんし)】

『日本書紀』に登場し、神武天皇による日本建国を導いた金色の鵄。

『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。

ただし、『古事記』に金鵄は登場せず、神武東征の際に熊野から大和へ東征軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。金鵄と八咫烏が同一であるか、それとも別の存在であるかはっきりしないが、いずれにしろ日本建国に関わった霊鳥として、吉事や勝利あるいは建国の代名詞として使われ、特に大日本帝国時代には金鵄勲章をはじめ、意匠や名称が多方面で採用された。

また、平安時代から存続する賀茂神社においては、金鵄および八咫烏ともに、賀茂建角身命の化身とされており、この二つを合わせて「金鵄八咫烏」と呼び祀っている。

中国星座二十八宿の畢宿と参宿の間には「参旗」という畢宿の星官があります。

意味は参宿の持つ旗、または弓矢で、これが金鵄がとまった神武天皇の弓を表しています。

参宿の上にある觜宿の金鵄が畢宿の星官の参旗にとまる事で導く八咫烏と同体となるのですね。

【賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)】

日本神話に登場する神である。鴨建角身命とも呼ばれる。

別名には八咫烏、八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)、三嶋湟咋(みしまのみぞくい)、三島溝咋、三島溝橛耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)、陶津耳命(すえつみみのみこと)、陶津耳、天日方奇日方武茅淳祇(あまひがたくしひがたたけちぬつみ)がある。

山城の賀茂氏(賀茂県主)や葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

〜wik参考

鴨建角身の角身はミミズクの耳かもしれませんね。

『八咫烏から金鵄へ交換された名前』後編

〜八咫烏から金鵄、そして金烏へ

【觜宿の星官】

觜.ミミズクの頭上の毛、あるいは鳥の嘴

八咫烏は三足烏をモデルとしていますが、三足烏は太陽を運ぶ存在として既に認知されています。

しかし、伊勢大神(海人の神)はオリオン座(参宿、觜宿)ですから、觜宿の星官にはミミズク(耳)を意味するアステリズムがあり、仁徳天皇と平群木菟の易名(名前交換ミソザザイとミミズク)の故事に倣い、觜宿のミミズク(木菟、鵄)、鵄の字はトビだけでなくミミズクなどの鷹類を意味する字ですから、烏と鵄の名前を交換(祥瑞)し、八咫烏を金鵄とし、伊勢大神からアマテラス(日神)、日神の日嗣である天皇の象徴として、大極殿(北極星)に金烏の幢を陰陽五行の土気(金色)の位置に立てたのだと思います。

畢宿の七曜は「月」で、象徴する動物は「烏」です。

天上では昴宿、畢宿、参宿の順番で東から西へと星宿は移動します。

太陽にいる三足烏、月にいる烏、この二つの陽(太陽、八咫)と陰(月、畢)が融合し調和されたのが「八咫烏」となるのです。

文・蛯原春比古

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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