https://www.youtube.com/watch?v=RaS8lGipUkc
菫の花が咲く頃に(When the violet blooms)
癒やしの音楽Relaxing Music
ハープ、ビブラフォン、フルートなどを使って可愛い雰囲気の曲を作り、「スミレ」の花の写真とともに、春らしい雰囲気の動画にしました。
早春の雪解けとともに、濃い紫色の花を咲かせる「スミレ」。「小さな幸せ」、「謙虚」などの花言葉があります。野や道端でつつましく咲くスミレの花を見かけると、心がほっとしますね。そんな控えめな姿が、「小さな幸せ」というかわいい花言葉の由来です。
花は左右対称で、5枚の花びらのうち下側の1枚が大きくなっています。
スミレの仲間は世界に広く分布していますが、特に南北に細長い日本では、世界の半数近い250種が自生、分布率は世界一で、日本は世界に誇るスミレ王国だということです。
ただ、日本では、春は桜の花が注目を浴びて、みんなが頭上の桜に見とれている頃に、スミレの花は足元でひっそりと花を咲かせています。
スミレは、「パンジー」や「ビオラ」の原種で、かつては大輪のものを「パンジー」、小輪で株立ちになるものを「ビオラ」と呼んで区別していましたが、現在は、品種改良や種の分化が非常に進んで、区別できなくなっています。
日本語…菫(スミレ) フランス語…violette(ヴィオレット)英語…violet(ヴァイオレット)
イタリア語…viola(ヴィオラ)
フランスのナポレオン1世のスミレ好きは有名で、妻ジョセフィーヌの誕生日には、いつもスミレを送っていたとのことです。
島流しになった際も、「スミレが咲く頃には戻ってくる」と言い残したという話もあります。
また、イギリスのヴィクトリア女王もスミレが好きで、日記にスミレについての記述が何度もあり、とくに晩年はスミレの栽培が盛んだったコート・ダジュールで、毎年休暇を楽しんだということです。
日本では、万葉時代から人々の生活に密着しており、こんな和歌が残されています。
春の野に すみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ 一夜寝にける (山部赤人)
https://ameblo.jp/pheme-japan/entry-11837150261.html 【スミレについて ~ナポレオンとジョゼフィーヌ妃~】より
毎年、散歩の途中で見かける道端のスミレですが、ウィリアム・ワーズワースの詩を想いださせてくれます。
『スミレは、コケの生えた石の下で半ば人目に隠れて咲いている 空に一つ光っている星のように美しい』。
雨に打たれて花びらも散りましたが、今年も元気をわけてくれて有難う。来年もまた 宜しくと挨拶をしておきました。
逸話かもしれませんが、スミレの花で有名なのは今から200年前の1814年にナポレオン・ボナパルトがライプツィヒの戦いに敗れ、エルバ島に追放される際に、ジョゼフィーヌ妃にのこした言葉「スミレが咲く頃には戻ってくる」でしょうか、ジョゼフィーヌ妃はエルバ島に追放された年の 1814年5月29日に病のためになくなり、ナポレオンが1815年にパリに戻った時にはこの世の人ではなくなっていました。
ジョゼフィーヌ妃の最後の言葉は「ナポレオン」だったそうで、ナポレオンも1821年5月5日に幽閉先のセントヘレナ島で亡くなる際にのこした言葉は「ジョゼフィーヌ」だったと記されています。ナポレオンはスミレが好きで、ジョゼフィーヌの誕生日5月29日にはスミレの花を贈っていた とか、どの様なスミレを贈っていたのか知りたいところです。
ヴェルサイユ宮殿を今日の姿に築いた太陽王ルイ14世も、臨終に立ち会ったマントノン妃に『どうして泣くのだ、私が不死身だと思っていたのか、私はずっとあなたを愛し続けている。この世の心残りはあなたの事だけだ、ああ、私は馬鹿だった』と、晩年のルイ14世も、野にひそやかに咲くスミレ 好きだったようです。
ナポレオンやルイ14世の派手な面しかとり上げられないのですが、ジョゼフィーヌ妃にしてもマントノン妃にしても、包容力と母性に溢れていた女性 であったと思います。男性はこの様な女性に弱いので・・・たぶん
私ごとではありますが、疲れた時や気持ちが沈みそうになる時には温かいエールや、事がうまく運ぶように神社へお参りに行ってくれたりと心優しい方 がおられます。今日もお参りに行って頂き感謝しております。そんな貴女に、クラウディア・ユングの曲をお届けいたします。
伴奏はリチャード・クレイダーマンの美しい曲を・・・感謝の気持ちにかえて。
https://www.youtube.com/watch?v=9_tgBimq7Io&t=1s
Facebook宇宙からの呼びかけ投稿記事
バシャール:自分にもっと優しくなりましょう!
自分に優しくなること、これは幾つになっても変わらないマントラかもしれません。人に優しくなるためには、まず自分自身に優しくなることが重要です。でも、自分に優しくなることは、決して自分を甘やかしましょうという意味で言っているのではありません。
自分にもっと優しくなるという意味は、ハートからの想いを受け取って行動することを意味しています。
つまり、自分を赦すことです。自分を押し込めることでも、自分に無理を言うことでも、我慢することでもなく、自分らしく生きることを許可することです。
ですから、もっと自分のあり方、自分の弱さ・強さを受け取ることを自分に許可してください。いつまでもクヨクヨ考えるのは自分に優しくありません。そのマイナスな想いを手放して解放してください。
つまり、自分自身から『要らないお荷物』を外し、もっと自分を解放して自分に優しくなりましょう。
新しい地球のスターシード達へ the PLANET from NEBULA
Facebook相田 公弘さん投稿記事【他宗教に対して寛容な日本人】
曹洞宗・安泰寺住職、ネルケ無方氏の心に響く言葉より…
日本人は宗教に無関心である。これは事実だ。日本人は無宗教である。これは事実に反する。
よく、「日本人は、正月には神社に初詣に行き、結婚式は教会のチャペルで挙げて、葬式には坊主を呼ぶ」と言われる。日本人に宗教を問うと、「特には…」と曖昧だ。
「仏教徒だ」と言う人も少なくないが、自宅にはなぜか仏壇と神棚がある。
日本人の多くは、どこかの寺の檀家であるが、自身の宗派の教義をきちんと理解している人は稀(まれ)であろう。
日本人は決して無宗教ではない。
日本人は、外国からの様々な物事を受け入れ、カスタマイズし、生活全般に反映している。
宗教も同様である。日本人は「非常に寛容な宗教心」を持っているのだ。私はそう思うようになった。キリスト教には、明確なドグマ(教義)がある。イエス・キリストというはっきりとした象徴がある。三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊)がある。それがキリスト教を信仰している人々の支えになっている。しかしキリスト教は、他宗教を否定する。
イスラム教やユダヤ教を基本的には認めていない。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、もともとは同じ神を信仰しているのに、お互いを否定して対立している。
キリスト教内でもカトリックとプロテスタントに分かれ、ときにお互いを否定する。
ところが、日本にはそういった宗教間の対立がほとんどない。日本人同士は宗教のことでいっさい喧嘩をしない。仏教と神道が争うことはない。いまの日本人はキリスト教を否定しない。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では、神様はひとり、「一神教」だ。
神様はひとりだから、神様は喧嘩しないが、教徒たちは絶えず喧嘩をしている。
西洋人が日本人から大いに見習うべき点は、ここだろう。
日本には、八百万(やおよろず)の神様がいる。仏教にも釈尊もいれば、阿弥陀様もいる。
その他にも仏はたくさんいる。実は、私が住職を務める安泰寺の本尊は、何仏であるかわからない。曹洞宗であるから釈迦如来であるはずだが、阿弥陀さんに見えるという人もいる。
また、大日如来ではないかという説もある。仏像の専門家に見せてもわからない。
住職である私にもわからない。本尊が何仏であるか、わからなくても日本では住職を務められる。悪く言えばいい加減で曖昧だが、柔軟性があるとも言える。この柔軟なところが肝要だ。
「柔軟さ」が、世界宗教になくてはならないひとつの要素である。
柔軟性を失い、固くなってしまえば、固い宗教、偏っている宗教、喧嘩せざるを得ない宗教になる。それは人の役に立たない。人に害を及ぼす宗教だ。そのこだわりが、相手の宗教を否定してしまうことにつながる。宗教にこだわりすぎている人には、本当の宗教心がない。
宗教が必要だと強く主張する人には、宗教心が足りない。宗教心が本当に自分の中にあふれていれば、宗教を問題にする必要がないからだ。
日本人にとっての宗教は、空気を吸って吐くように自然なものではないだろうか。
宗教心があふれているからこそ、無宗教に見える。
だから、他宗教に対して寛容にもなれるし、宗教を理由に他人を否定する必要もない。
宗教に無関心である日本人は、最も宗教的な人々だと私は思う。
ドイツにあって日本にないものは何か。それは宗教の授業だ。
ドイツの子供たちは14歳になるまで親の宗教に準じて、学校の宗教の授業を受ける。
そして14歳になると、自分がどの宗派に属するかを選択する。日本には宗教の授業はないが、悲観する必要はない。
日本の学校では給食が出る。給食の前には全員で「いただきます」と言い、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言う。
部活動で、仲間の大切さや協調性を体で覚える。自分たちが使っている教室やトイレは自分たちで掃除する。これは、禅の教えを実践していることなのだ。
子供たちが当たり前のことのようにしている給食や掃除などは、とても大切な行いである。
ドイツの子供たちは聖書の教えを授業で学ぶが、それが行動に反映されていない。
イエス・キリストの教えを頭に詰め込んでも、その教えを実践する機会が学校内にはまずない。『日本人に「宗教」は要らない』ベスト新書
ネルケ無方氏は本書の中でこう語る。
『安泰に入門したとき、疑問に思ったことがある。
「私は、禅を極めるために日本に来た。掃除や料理をしに日本に来たわけではない。仏道の修業をしに来たのに、なぜ雑用をしなければいけないのか」
この疑問に対して、私の師匠はこう答えた。
「掃除をしないで、料理をしないで、何が仏道修行か。履物をきれいに並べることも非常に大事なこと。脚下照顧(きゃっかしょうこ)、足元を見なさい。
いまでは、私も師匠の言葉の意味がわかる。
掃除や料理を差し引き、履物の並べ方も差し引き、雑用にみえていたそれらすべてを差し引いて、いったい何が残るのだろう。何も残らない。
いま生きているその瞬間をないがしろにして、ほかに何をするのか。
座禅以外の日常生活も修行なのだ』
また、日本人の日常会話はとても宗教心にあふれているという。
「ありがとう」「すみません」「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」「お互いさま」「お蔭さま」など。「日本人は無宗教ではない」なぜなら、日常の言葉や行動そのものが宗教的だから。他宗教に対して寛容である日本人に誇りを持ちたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより
https://www.facebook.com/hitonokokoro
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