https://imidas.jp/genre/detail/D-121-0080.html 【シオニズム(シオン主義)】より
ユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ文化を復興させようとしているユダヤ人の運動で、イスラエルの地での故郷再建運動。旧約聖書に記されたシオンとはエルサレムにある丘の名で、エルサレムの象徴。古来から迫害を受け離散(ディアスポラ)したユダヤ教徒には「シオンへ帰ろう」という願望があった。これを政治運動に転化したのがオーストリア人のユダヤ系ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルである。ヘルツルは1897年バーゼルで第1回シオニスト会議を主催している。1917年にイギリスのバルフォア卿により、パレスチナにおけるユダヤ人居住地建設を約束したバルフォア宣言が出されたが、30年代に入ると、ナチズムによるユダヤ人迫害が起き、多くのユダヤ人がヨーロッパから脱出。それにともない、シオニズムの中心はアメリカに移る。その後、イスラエル国家の建国は、47年の国連によるパレスチナ分割決議を経て、48年、ベングリオンらの指導のもとで、成し遂げられる。しかし、そのことがパレスチナ問題を生んだ。
https://www.zion-jpn.or.jp/israel_history03.html 【ディアスポラ後のユダヤ人】より
ローマは反乱の制圧後も、ユダヤ人たちがイスラエルの地に住むことを認めていましたが、2世紀にユダヤ人たちは再びバル・コクバの乱を起こし、再び失敗します。そこで、ついにローマはイスラエルの地からユダヤ人を追放。エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤと呼ばれていたイスラエルの土地を「パレスチナ」と改称しました。
そして離散を余儀なくされたユダヤ人は、ヨーロッパや中東、北アフリカなど地中海周辺各地に移住して行きました。
タルムードの成立
離散の地で、ユダヤ人の生活・信仰の規範となる法典「ミシュナ」(紀元2世紀ごろ)、さらにその注解である「エルサレムタルムード」(紀元4世紀末)と「バビロニアタルムード」(紀元5世紀末)が編纂されました。ユダヤ教はかつての神殿祭祀ではなく、ラビの指導による聖書やミシュナ及びタルムードの研究解釈と言うシステムを確立して行きました。 また各地に祈りの場としてのシナゴグを建設し、ユダヤ教の信仰と民族のアイデンティティを守り続けました。
特にユダヤ教の定めである「安息日を守る、割礼を行う、食事規定」といった厳密な戒律は、他宗教との軋轢を生みましたが、ユダヤ人が他民族と同化して消えてしまうことを防ぐ役割も果たしました。
キリスト教とイスラム教
313年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認され、以後パレスチナは4世紀からキリスト教国家ビサンチン帝国の統治下に入ります。 キリスト教が公認されると、ユダヤ人たちは「キリストを殺した犯人」と言う名目のもと、殺害、暴行、略奪、職業の制限などの迫害を受けはじめました。
7世紀半ばから13世紀まで、西アジアから北アフリカ、南ヨーロッパ一帯を、イスラム教帝国が支配しました。 またムハンマドがエルサレムで昇天したとされたことから、エルサレムはイスラム教の第3の聖地となり、エルサレムの神殿跡にはイスラム教の寺院が建てられました。 これが現在の「黄金のドーム」です。
こうして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも神から与えられた約束の継承者が自分たちだと主張する図式が出来上がりました。 しかし、イスラム教は当時、ユダヤ人に比較的寛容な政策を取っていたため、イスラエルの地には多くのユダヤ人が住むようになりました。
十字軍
十字軍によるアッコーの町の占拠
11世紀になると、キリスト教徒たちは「異教徒からの聖地奪還」を目指した十字軍を始めました。 異教徒とは、直接的には当時パレスチナを支配していたイスラム教徒を指していましたが、それにはユダヤ人も含まれていました。 ですからキリスト教徒たちは、聖地に行く途中で、多くのユダヤ人を殺害しました。
1099年に、十字軍本隊は聖地エルサレムに到着しますが、エルサレム及び周辺の街々でもイスラム教徒と共にユダヤ人は虐殺され、当時パレスチナに住んでいたユダヤ共同体は、消滅したと言われています。
この後、ユダヤ教徒とキリスト教徒の交際が禁止され、ユダヤ人に対する公職追放令が出されるなど、ユダヤ人の職業選択の自由が制限されていきました。 わずかに選ぶことのできた職業の一つが、汚れた職業である金融業でしたが、それは後に、ユダヤ人は「金に汚い高利貸し」と見られる原因になったのです。
ユダヤ人迫害の歴史
13世紀になると、ユダヤ人たちはさらに自由を制限され、スペインなどでは、改宗するか他国に移住するかの選択を強要されました。 やむなくキリスト教徒となったユダヤ人もいましたが、彼らはマラノ(スペイン語で豚の意)と呼ばれ、改宗後も侮蔑と差別の対象となり続けていました。 また、カトリックは異端審問制度を確立させ、ユダヤ人が少しでもユダヤ的な風習を守ったり、ユダヤ教で禁止されている豚を食べなかったりするだけで、拷問や火刑など残虐な刑罰が科せられました。 この制度は1801年まで続いたのです。
13世紀後半からは、ユダヤ人を追放しなかった国々でも、ユダヤ人隔離の政策を取るようになり、各地で後に「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人の隔離住居区が作られました。
ユダヤ人の解放と反動
しかし、1789年のフランス革命の後、フランス議会でユダヤ人にも平等の権利が認められます。 その後ゲットーが解放され、その流れはヨーロッパ各地へと広がって行きました。 各地のゲットーは解体され、職業選択も規制を解かれ、各界にユダヤ人が進出し、ユダヤの社会構成も激変していきました。 これを啓蒙運動「ハスカラ」と言います。
しかしながら、現実的にはユダヤ人への差別は解消されず、反ユダヤ主義と民族主義のもと、かえってひどいユダヤ人迫害が各地で起こりました。
ロシアでは、1881年からポグロムと呼ばれるユダヤ人大虐殺が何度も起り、犠牲者は数十万人に及んでいます。 また1894年、フランスのユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスが、スパイ容疑で逮捕される「ドレフュス事件」が起こります。 これは彼がユダヤ人であったため、犯人にでっちあげられた冤罪事件でした。
シオニズム運動の誕生
このような背景を受けて、ユダヤ人の中から、ユダヤ人の国家建設を目指す運動が起こってきます。 この運動は「シオンの丘に帰ろう」と言う言葉をスローガンにしたことから、シオニズム運動と呼ばれています。
1897年には、テオドール・ヘルツェルの呼びかけで、第1回世界シオニスト会議が開かれ、パレスチナにユダヤ人国家を建設することが決議されました。 その後19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポグロムを逃れたユダヤ人やヨーロッパからの移民が、パレスチナの地に住み始めました。
第一次大戦後、パレスチナはそれまで続いたオスマントルコ(イスラム教)の支配からイギリスの委任統治領となります。 荒れ果てていたイスラエルには、多くの人々が集まり、活況を呈してきました。
イギリスは1917年、ユダヤ人の国家再建を約束する「バルフォア宣言」を行います。 しかしイギリスは、バルフォア宣言以前にも、アラブ側に同じような取り決め(サイクス・ピコ書簡)を行っていました。 当時の二枚舌政策が、今日に及ぶパレスチナ紛争の火種の一つとなっていきます。
ホロコースト
このような中、第2次世界大戦において、ドイツで政権を掌握したナチスがユダヤ人を滅亡させるため組織的、計画的にユダヤ人を虐殺(ホロコースト)しました。 死の収容所と呼ばれる施設で、数百万人を殺害し、死体を炉で焼くという、前代未聞の計画が実施されたことは、よく知られています。
にわかには信じがたいこの事件の背景には、キリスト教が長年の間に積み上げてきたユダヤ人への差別感情があります。 当時のヨーロッパには、ユダヤ人は動物と同等の存在だという空気があったのです。
https://kyouinohey9.amebaownd.com/posts/3825932/ 【日本語とシュメールとヘブライ語】より
ユダヤ人の発祥地はイスラエルです。
神話時代、それこそモーゼがいた時代にイスラエルが12に分散しました。 そのうちの一つが日本ではないかという説があります。
日本語とヘブライ語が似ているというのはご存じでしょうか。
ワラベ(童)=ワラッベン(子供)
ホロブ(滅ぶ)=ホレブ(滅ぶ)
サムライ(侍)=シャムライ(守る者)
トリイ(鳥居)=トリイ(門)
他にも困る、住む、座る、憎むなど「読み方と意味が全く一緒」な言葉が多々あります。 日本語は島国で発達したガラパゴスな言葉が多く、中国語でさえ漢字は読めても読み方が全く違うものばかり。それなのに遠い国の言葉と似てるってなんなんでしょう。
またちょっと都市伝説の様ではありますが、「君が代」。 これを先ほどのヘブライ語で日本語歌詞っぽく置き換えてみると
クムガヨワ(立ち上がれ)テヨニ(シオンの民)ヤ・チヨニ(神に選ばれし者)
サッ・サリード(喜べ・人類を救う民として)イワ・オト・ナリァタ(神の預言が成就する)
コカノ・ムーシュ・マッテ(全地で語り鳴り響け)
『神よ!立ち上がって来てください!シオン、神の選民!残りの民は喜び、救いを待ち望みます。神が御顔を見せてくださる。すべての基はキリストにあり。』
など、それっぽい意味のある言葉になります。
また、シュメール人(Šumeru)はスメルとも読める為、スメラ(天皇)ノミコトとは シュメルのミコトではないか?といった話もあります。
シュメールや古代バビロニアには、日本の『三種の神器』のように日像鏡、月像の首かざり、武神のシンボルである剣という三種の神器があります。 さらに一致を見るのは、日本神話では8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに得た草薙の剣であるのに対し、シュメールでも7つの首を持つ竜を退治したときに、三種の神器の剣を得ているのです。
シュメール人とはメソポタミアに存在した民族で出てきたのは紀元前9000年前、または紀元前3500年前と言われています。
数学、天文学、政治、文学、その他多くの文化を作り出しました。この文化の発想をどこで得たのかは歴史上の謎となっています。
さらにシュメール人は紀元前2000年前に忽然と姿を消しています。滅亡理由は飢饉だったり敵国からの侵略だったりハッキリとした理由はわかっていません。
イスラエルが分散したのは紀元前931年前。
彼らはどこへ行ったのか。
一説ではシュメール人が文明を作り、イスラエルへ逃げ、それから12に分散した。
イスラエル人の祖先の「アブラハム」はメソポタミア出身らしいのですが、正直そこまで行ってしまうと神話と実史が混ざってしまい、そうであろうという憶測が飛び交っています。
またアジア圏へ移ったとも地中海側へ行ったとも言われていますが、憶測でしかありません。
日本元祖説
日本元祖説というものがあります。これはイスラエル、シュメールと日本の文化があまりにも似ているから。シュメール人の風貌も縄文人に似ているとか。
とある話で「縄文人は古代日本を出発し、メソポタミアに行き、イスラエルで大洪水に遭遇し、ノアの方舟に乗り、中国を経由して再び日本に帰ってきた」と書いてあります。
これは日本人類発祥説ですね。
また古代イスラエル人はアジア人だったそう。
日ユ同祖論のユダヤ人もアジア人セファルディムで、よくよく調べるとイスラエル、シュメール、ユダヤの中に『アジア』という言葉が見え隠れしてきます。
調べるとキリがないぐらいシュメールと日本とイスラムの共通点が出てきます。
逆に気になるのがイスラエル人が12に分散し、そのうちの2つが ユダヤとイスラエルとなっており、日本もその一つではないか、日本の元はイスラエルではないかと言う人と、 先ほど書いた様に、縄文人(日本人)が旅に出て文明広めたのではという人。
スメラノミコトが先か古代イスラエル分散が先か。
イスラエルはキリストが生まれた土地でもありますし、ソロモン王がいたりアブラハムがいたり、神話に近い国なんですよね。不可思議な文明が進んだ国。
日本の不思議
不思議な民族といえば「弥生人のDNAは日本以外どこにもない。突然出てきた日本固有のDNA」であり、どっかからいきなり出てきたとしか説明が出来ないそう。
もしかしたら世界各地で異星人が人間を作り出したのかも。 また江戸時代に書かれた「うつろ船」というUFOそっくりな船の出てくる話があります。 日本の海岸に漂着した謎の船と、それに乗っていた異国の女性。 しかも日本各地で同じような内容の話がある。 この女性が弥生人なのかな。 しかしこの話では驚いた発見者が船に女性を押し戻しまた流してしまいます。ひどい。
とは言ってもこの話は完全に創作話です。
しかしもしかするとこのもとになった話があり、 そっちの方はちゃんと女性を助けたのかもしれません
https://ameblo.jp/staydream2017/entry-12394773014.html 【未知なる扉から「日ユ同祖論」前編】より
こんにちは。皆さんは聞いたことがあるでしょうか?
日本から西に遠く離れた「イスラエル」という国に住むユダヤ人が、遠路はるばる日本に渡来し帰化していたなどという話を・・・
「イスラエル」その国の前を聞くと “危険” “戦争” “テロ” そんなイメージを抱く方も多いと思います。が実は、国際的な大企業の創業者だったり、ノーベル賞受賞者の少なくとも20%を占めていたりと、そんな “噂” が後を絶たないのが、イスラエルを建国し、今でも世界各国に離散しているユダヤ人なのです。過去の歴史において、日本に渡来し帰化した外国人は多くいます。高校の日本史の授業でも習いますしね…
ユダヤ人が帰化いたからといって、決してし不思議ではないのです。
『日ユ同祖論』とは、文字通り現在の日本人とユダヤ人が祖先を同じくしているとする考え方です。
その歴史は、1875(明治8)年、スコットランドの商人ノーマン・マックレオドが、日本を訪れて出版した著作『日本古代史の縮図』《epitome Japanese ancient history》にはじまります。明治の初期、アジア各国を回ったマックレオドは、日本の歴史に深く興味を持ちました。
そして日本各地の祭に、衣服や食物、様々な伝統行事を調査し、その結果を書籍にまとめました。マックレオドは、日本人だけが、アジアの中で極めて異質な文化や行動様式を持っていることに興味を抱いたのでした。
もちろん彼は歴史的な説明は受けました。
しかしながら、その説明だけでは、「なぜそうなったのか?」が説明できないと感じたことから、2,500年前に忽然と姿を消した “失われた古代 イスラエル十支族” が日本列島に定住したと主張したのです。
そう、日本人の生活が、古代イスラエルの生活様式に類似していると推測したのでした。
つまりはマックレオドの記録が、文化、言語、経済、衣服など、その地域の民族に関するあらゆる事柄を網羅していたのですが、結果的に、東洋における日本文化の特異性が、より歴然と浮かび上がってきたわけなのです。
またマックレオドは、イスラエルから中央アジア、そして朝鮮半島を得て日本列島に至るまでの詳細なルートも推定しています。
これは今日においても、「日ユ同祖論」における民族移住ルートとして、ほぼ定説となっており、多くの研究者の手助けとなっています。
では、具体的な類似点を見ていくことにしましょう。
そもそもその前に、歴史の狭間に消えたイスラエルの民 = “失われた十支族” とは何なのでしょうか?
『日ユ同祖論』の根底にあるのは、我々がよく知らない古代イスラエルの歴史・・・それも『旧約聖書』の記述です。
この『旧約聖書』によれば、ヤコブ ー イスラエル民族(ユダヤ人)の祖 には12人の息子がいるのですが、それぞれの名前を…
ルベン シメオン レビ ユダ イッサカル ゼブルン ヨセフ ベニヤミン
ダン ナフタリ ガド アシェルと言いました。
この12人の息子の子孫たちが増え、それぞれがイスラエルという国の支族となりました。
これをイスラエル十二支族と言います。
ただ現在では、レビ族は祭祀専門として数える変りに、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムに分けて、十二支族とする方が一般的のようです。
その後この十二支族は…
■ 北のイスラエル王国
ルベン族 シメオン族 イッサカル族 ゼブルン族 エフライム族 マナセ族
ダン族 ナフタリン族 ガド族 アシェル族
◼ 南のユダ王国
ユダ族 ベニヤミン族 に分裂しました。
さて問題はここからです
紀元前8世紀頃、勢力を拡大したアッシリア帝国が北イスラエル王国を滅ぼし、十支族を捕囚してしまうのです。そしてユダ王国もまた、新バビロニア王国に滅ぼされ、有名な「バビロン捕囚」が起こりました。
そしてアッシリアの滅亡後、どういうわけか十支族は再びイスラエルの地に戻ることがなく、戻らないどころか、忽然と地上から姿を消してしまったのです。
これが “古代イスラエル 失われた十支族” というわけです。
当然ながら、現在のイスラエルにいるのは、残りの2支族 = ユダ族とベニヤミン族だけということになります。
もちろん! 消えたと言っても一人や二人ではありません・・・膨大な数の人々です。
おそらくは危険を避けて、どこかに移動したに違いないと後世の人々は考えました。
真っ先に浮かぶのは東方であり、そこにはヒマラヤから中国を越えて、遥か日本へと続く長い長い道 = “シルクロード” が伸びていたのです。
端的に言えば、『日ユ同祖論』では、東へ移動し行方不明になった十支族が、日本列島へたどり着いたのではないかというのです。
現在でも、失われた十支族の行方を追い続けているラビ・アビハイルによれば、彼らが東に向かったことは間違いない事実だと言います。
※ラビとはユダヤ教においての宗教的指導者
その証拠としてアビハイルは、シルクロードの周辺に現在も点在して暮らしている十支族の子孫と思しき人々をあげています。
まずは、アフガニスタンやパキスタンに住むというパシュトゥン人・・・
彼らの法律体系は、なぜかユダヤ人の「トーラー」と共通事項が多いと言われています。
また、十支族の内のラバニ族はルベン族、シンワリ族はシメオン族、レヴァニ族はレビ族などの末裔ではないかと考えられています。
さらに中国の開封には、古くからユダヤ人のコミュニティが存在していました。
そしてこのルートを辿っていった先の日本列島には、マックレオドが紹介したように、多くの古代イスラエル的な文化や習慣が残されていました。
となれば答えは自ずと決まります。が、
但し、『日ユ同祖論』では、「現在の日本人が100%ユダヤ人をルーツとする」まで主張しているわけではありません。
何故ならば、日本民族が、歴史的に複数の混血によって形成されたことは “自明の事実” だからです。
しかしながら、それでもなお消えない文化や痕跡が、今日の日本の土壌にはのこされているのです。
その不思議を探ることこそ、『日ユ同祖論』の目的なのではないでしょうか。
※良く耳にするパレスチナとは、ユダヤ人によってイスラエルが建国される以前に、その地で生活をしていたアラブの人々が、土地を追われイスラエル国境内に設た自治区
・ヨルダン川西岸地区 ・ガザ地区
では、どのような文化や痕跡が残されているのかを、具体的に述べたいと思うのですが…その前に・・・
ここで謎の渡来人 “秦(はた)氏” について…
『日ユ同祖論』において重要な位置を占めているのが渡来系豪族の “秦氏” です。
秦氏は第15代・応神天皇の時に、大陸から渡来してきたのですが、この時10万もの人々が日本に帰化したと伝えられています。
5世紀半ば雄略天皇の時に、京都太秦を本拠地とし、その後、一族のトップだった秦河勝は、“聖徳太子” の側近(ブレーン)としても知られています。
そして秦氏は、それまで日本にはなかった土木、農耕、養蚕の知識や技術を持っており、それらを背景に、日本国内で力をつけていき1000年の都・平安京造営に関しても尽力しています。
さらに、秦氏創建と言われる寺社も多く、太秦の広隆寺、松尾大社、伏見稲荷大社などは秦氏の手によるものとされています。
そもそも渡来人といえば、遠路はるばる日本列島へ訪れた技術者集団を想起させますが、秦氏は単なる技術者集団ではなく、日本の仏教や神道といった宗教的な部分とも大きく関わっていました。
しかしながら、この秦氏のルーツについては極めて謎に満ちています。
その文字 = 秦から “秦の始皇帝” の子孫であると称していたとも言われています。
『日本書紀』にも、応神天皇14年に、弓月君(ゆづきのきみ)が朝鮮半島の百済から、大勢の人を率いて帰化し、これが秦氏の元となったと書かれています。が、
この弓月君なる人物が、始皇帝の末裔だという根拠がありません。
では弓月君とは何者なのでしょうか?
弓月君 = 弓形の月とは、イスラム教国家を象徴するデザインです。
そしてユーラシア大陸の西域に、かつて弓月王国が存在していたことは、揺るがない歴史的事実だそうです。
つまり弓月君が秦氏の祖先ならば、彼らのルーツはアジア西域のイスラム国家という可能性になります・・・始皇帝ではない (--;)
そしてここからが驚愕の話となるのです!
1908(明治41)年に、『太秦を論ず』という小論文が発表されました。
筆者は、歴史学と言語学が専門の佐伯好郎博士で、中でも中国の景教研究にかけては、世界的権威とされた人物です。
この論文の内容・・・
なんと⁉ そこでは「秦氏はクリスチャン = キリスト教徒だった」と結論づけられているのです!!
但し、カトリックやプロテスタントと言った今日的なキリスト教ではありません。
博士の専門である景教とは、ネストリウス派キリスト教と言われるもので、今日のキリスト教とは全く違います。
むしろユダヤ教に近いもので、秦氏はこのネストリウス派キリスト教徒だったというのです。
景教は5世紀には西アジアからペルシャへと渡り、7世紀には中国にも伝わるのですが、つまり博士は、秦氏が中国にいた頃に、ネストリウス派キリスト教の教徒だったと説いているのです。
もうお分かりでしょう・・・
もし仮に、秦氏がキリスト教徒ならば、例えカトリックやプレテスタントなどの宗派の違いはあれ、キリスト教が通説よりも異常なくらい早く伝来したことになります。
「1549年(いごよくひろがる)キリスト教!」などと、暗記している場合ではありません。
これが事実ならば、歴史はひっくり返ってしまいます!
確かに、7世紀の中国の都・長安には、大秦寺(だいしんじ)という景教寺院がありました。
人々にも受け入れられたようで、その流行ぶりを記した石碑も発見されています。
長安には、大秦寺がありましたが、前述した通り秦氏の日本の本拠地は、太秦(うずまさ)と言いました。
ここには、秦氏の氏寺である広隆寺がありますが、この寺はまたの名を太秦寺(うずまさでら)と言います。
違いは “大” と “太” でしかありません。
ここから佐伯博士は、太秦寺も中国の大秦寺と同じ景教 = ネストリウス派キリスト教の寺院だったのではないかと推測しました。
もし仮に、これが事実とするならば、秦氏も当然ながら、景教徒 = キリスト教徒だったということにつながるわけです。
ダビデの星 = 六芒星
ただ当然ながら、いわゆる学会というところでは、佐伯博士の説は異論とされ、厳しい批判が浴びせられました。
京都・太秦寺が完成したのは622年 かたや景教が唐に伝播したのは635年 景教寺院が建立されたのは638年 さらにこの寺院が、“大秦寺” に改名されたのは745年という時間のずれでした。
唐に景教が伝播してから、100年以上の月日が流れており、年代的には日本の太秦寺の方が古く、計算が合わないというのです。
余りにも最も過ぎるご批判です。
これに対して佐伯博士は、唐への635年という伝播年は、あくまでも残っている最古の記録に過ぎず、それ以前に伝来していなかったとは言えないし、それどころかシルクロード経由で、それ以前に中国さらに日本列島まで伝わっていた可能性は十分にあると主張します。
そうなのです・・・
佐伯博士が反論した「それ以前に伝来していなかったとは言えない」という主張を裏付ける “日本とユダヤの恐ろしくいほどの類似点” が、日本国内において多数判明しているのです。
歴史的事件や出来事が、真実かどうかを判断する場合、いわゆる “5W1H”・・・いつ(when) どこで(where) 誰が(who)何を(what)なぜ(why)、そしてどのよう(how) を具体的に検証していくものです。
特に年代が明らかになっていることは非常に重要なことです。
しかしながら、洋の東西を問わず歴史書の類いのものは、残念ながら時の為政者たちに都合良く書き替えられたものと疑ったほうが間違いはないでしょう。
ということは・・・
今回の年代が合わずに時間のズレが発生しているケースも、何者かの手が加わり改ざんされた可能性を、完全に否定は出来ないということを付け加えておきましょう。
次回へと続きます…☆
https://ameblo.jp/staydream2017/entry-12395444069.html 【未知なる扉から「日ユ同祖論」後編】より
こんにちは。今回のテーマは『日ユ同祖論』・・・日本人の祖先は、遠路はるばる大陸を越えてきたユダヤ人と先祖を同じにするというものです。
そしてその根拠となる証拠を、いよいよ解説したいと思うのですが・・・その前に✋
まだまだ 引っ張ります!!と言うのも、こちらの尊く、そして日本の歴史上知らない人はいない人物 = “ 聖徳太子” の正体について・・・触れざるを得ないのです。
ユダヤ系帰化人・“秦氏” の足跡が多く残る京都太秦・・・その中でも、代表的なものは広隆寺と言えるでしょう。
この寺は、聖徳太子の側近として有名な秦氏の代者 = 秦河勝が建立したもので、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、それを安置したのが広隆寺です。
聖徳太子といえば、用明天皇の第2皇子で飛鳥時代の皇族であり、またその優れた能力で「冠位十二階」や「十七条憲法」などを定め、日本の歴史において、大きな働きをした人物ですよね。しかしながら、最近の学校の歴史の教科書には、聖徳太子という名前は載っていないのです!?
あれほどの偉人を、なぜ教えないのかと不思議なのですが、その代わり「厩戸皇子」という名前が出てくるのです。つまり聖徳太子の本名らしいのです。
そしてこの厩戸王子という名前が、私たちに非常に面白いことを教えてくれるます。
なんと⁉ 厩戸王子という名前は、厩戸 = 馬小屋から来ており、馬小屋で生まれた王子さまという意味になります。が、
この “馬小屋” という呼称は、仏教的な考え方にも、日本の農耕民族の伝統にも、馴染まないものと思われます。
けれどもこのエピソード・・・どこかで聞いたことありませんか?
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 実は⁉
・ ・ ・ ・ ・ ・ 聖徳太子とは
あの “イエス・キリスト” の存在に!非常に酷似しているのです。
と言うのも、馬小屋での誕生秘話は、元々はキリストが馬小屋で生まれたという『聖書』の話が、聖徳太子の伝説として取り込まれたという推測がなされているのです。
キリスト教の経典である『新約聖書』の ルカによる福音書 “イエス・キリスト誕生物語” が、そのままの順序で、聖徳太子の誕生物語になっているというのです。
『新約聖書』では、イエス・キリストの母・マリアに、大天使・ガブリエルが現れ、イエスの誕生を告げたと書かれています。
同様に、聖徳太子の伝記によると、聖徳太子の母・間人皇后の夢に救世観音が現れ、聖徳太子の誕生を予告したと書かれています。
救世観音というところが東洋の神秘 ⁉
そして何よりイエス・キリストが、馬小屋で生まれたことはよく知られており、それは聖徳太子が、母親が馬小屋にぶつかった拍子に生まれたということから「厩戸皇子」と呼ばれるようになったことと一致しているのです。
当然ながら、このエピソードが何千キロも離れた場所で、偶然にも誕生とした考えるよりも、後世のストーリーが、何かを参考にして作り上げたと考える方が自然ではないでしょうか。
後世とは、「厩戸皇子」誕生のストーリーに他なりません。
そしてこれはまだ序の口で、よく言われる10人以上の話を一度に聞き分けたという説は、当時の日本では、言語が統一されていなかったとみる見方が有力で、数多くの言葉が使われていた中で、聖徳太子は10か国語を理解できたという意味なのです。
現代のイスラエルにおいても、3~4カ国語は当たり前、10カ国ぐらい話せるというユダヤ人がたくさんいます。
果たして聖徳太子には、このような言語能力に優れた血が流れているのでしょうか。
つまりは、聖徳太子自身が渡来人、あるいはその血筋だったからこそ、複数の言語を身につけていたというわけなのです。
それにしても聖徳太子は本当に実在した人物なのでしょうか?
その答えは全くの個人的な見解ですが、聖徳太子はいなかったが、「厩戸皇子」はいたということです。
それはどういうことなのか?
720(養老4)年、国書となる『日本書紀』を編纂を指揮していた藤原不比等は、この当時最高の権力者でした。
その不比等の父親である藤原鎌足や中大兄皇子らが、かつて有力豪族の蘇我一族を滅亡へと追い込んだ “乙巳の変” が起こりました。
但し、不比等はこの編纂にあたり・・・
と、話がどんどん逸れて行くので、結論を述べれば、「聖徳太子」と言うおおよそ人間の叡知を超えた “聖人” = 偶像 を作り上げる必要があったのです。
そしてそのモデルに選ばれたのが、用明天皇の第2皇子 = 「厩戸皇子」と名付けられた人物だったのです。
では何故に、偶像を作り上げる必要があったのか・・・
それは、以前に私がブログで綴った「歴史探偵が行く」厩戸伝説 その1~3 を参考にして頂ければ幸いです (^^)v
さてここから今回の核心へと迫ります。
前編でも触れた通り、古代ユダヤの人々が日本へとたどり着いていた可能性が非常に高く、日本には古くから、古代ユダヤの文化や風習に酷似した共通点が多く残されてあるのです。
その中でも、私の考える非常に重要な「七つの共通点」をご紹介したいと思います。
ダウン
① 三重県の伊勢神宮参道の石灯篭には、ユダヤの紋章 = “六芒星🔯” が刻まれているのです。三角形と逆三角形を組み合わせた図形が特徴的で、「ダビデの星」とも呼ばれています。ダビデ王とは、古代イスラエルの王であり、そのことから六芒星🔯をダビデの星と呼び、ユダヤ人のシンボルマークなのです。伊勢神宮の内宮から、外宮に至る道路の両側に並ぶ石灯籠には、日本で言うところの “カゴメ紋” = 六芒星🔯が刻み込まれています。石灯篭の数は、なんと⁉700もありますし、何より伊勢神宮という場所にあることに何か特別な意味があるように感じますよね。しかしながら、このことが有名になり、今では石灯篭が撤去されてしまったとか…
② 伊勢神宮の前身とされる京都にある元伊勢籠神社とも呼ばれる籠(この)神社にある絵馬には、六芒星🔯だけでなく三つ巴の家紋 = 悪魔の数字666までが刻印されているのです。さらに籠神社の奥の院である真名井神社の石碑にも、裏家紋としてダビデの星がきざまれていました。が、こちらも伊勢神宮の石灯籠のように、この事が有名となり撤去されるのですが、そもそも籠神社の “籠” は、やはりカゴメであり、ダビデの星 = 六芒星🔯を意味しているのです。
③ 日本の神社とイスラエルの神殿の構造には多くの共通点があります。元々神殿は、“幕屋” と呼ばれる移動式だったのですが、“幕屋” はその名の通り周囲を幕や板で囲み、中で神に捧げる祭祀を行っていました。その祭祀は極秘とされました。全体ではないのですが、囲むという概念は日本の神社でも見られ、同様に祭祀は極秘です。また有名なソロモン神殿の前には、お賽銭を入れる箱も置かれていたと言われています。
④ 日本の神社には、たいてい狛犬わんわんがあるのですが、かつてイスラエルのソロモン神殿にも同じようにライオン = 獅子しし座の像がありました。日本の狛犬は名前こそ犬ですが、誰がどう見てもライオン = 獅子に見えるのですが…
⑤ 日本の山伏は、頭に兜巾(ときん)と呼ばれる黒い小箱をつけ、法螺貝を吹くのですが、ユダヤ人は祈りの際に、匕ラクティリーという黒い小箱を頭につけ、ショーファールという羊の角で作った笛を吹きます。これらの吹奏器の音は、そっくりだと言います。
⑥ 『旧約聖書の創世記32章』には、ヘブライ人(ユダヤ人の別称)の祖であるヤコブが、天使と力比べをしたと記されているのですが、これが相撲の起源だと言われています。この時勝利したヤコブは、イスラエル(神の戦士)という称号を授けられました。
※ヘブライ人、ユダヤ人、そしてイスラエル人と色々と呼び名はありますが、
⑦ 実は日本とユダヤの共通点が多く謎を解く鍵は、やはりと言うか、かつて秦河勝が本拠地とした京都にありそうなのです。例えば、祇園祭は今から1100年以上前の869年に、疫病の災疫除去を祈って始まったと言われています。巡業に使う鉾は、装飾に旧約聖書やギリシャ神話をモチーフとしたタペストリーを使用している鉾もあります。タペストリーとは、壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物のことで、古くから続く日本の伝統的な京都の祭りに、聖書やギリシャ神話の絵が使われているのです。
さらに、平安京をヘブライ語に本訳すると “エル・シャローム” で、これは古代イスラエル首都のエルサレムと同じです。
さらにさらに、祇園 = GIONの言語、はユダヤのシオン = Zionと同じです
※シオンとはエルサレムの古い別称のことです
① 石灯篭に刻まれたダビデの星
② 籠神社の “籠” はカゴメであり、ダビデの星 = 六芒星
⑤ この類似性はもはや確信犯??
⑥ 天使(左)と相撲(?)をとる12支族の父・ヤコブ
これら7点以外にも、ここで紹介しきれないほどの多くの共通点、類似点があります。が、
これだけではありません!!
ヘブライ語と日本語には、読み方とその意味が近い言語がたくさんあるのです。
ミ・カドー = 偉大な人 ➡ 帝(みかど)天皇
ハーヤ = 早く ➡ 早い
アンタ = あなた ➡ 貴方
バレル = 明らかにする ➡ ばれる
ダベル = 話す ➡ だべる
シェラ = 要塞 ➡ 城
シャムライ = 守る人 ➡ 侍
コオル = 寒い ➡ 氷
ここに挙げたヘブライ語と日本語の類似は、本の一部でしかなく、一説には3,000~5,000もあると言われています。
ここまでご紹介してきたように、ユダヤと日本を結びつけるキーワードは “秦氏” ・・・
前編でも触れましたが、秦氏が渡来人として来日したのが応神天皇の頃・・・学術的に確定しているわけではありませんが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性が高い天皇と見られています。
一方では、異民族から迫害を受けた “失われた十支族” と呼ばれたユダヤ人たちは、東の地へと向かいました。
やがてイスラムの地や中国に永住したかつてのユダヤ人の子孫たちが、日本には無い大陸の最新の技術や文化、風習を持って日本へと辿り着き、その代表的な渡来人が “秦氏” と考えれば辻褄が合うのです。
そしてその流れを汲んで、日本とユダヤの関連性を紐解くきっかけとなるキーパーソンが、聖徳太子のブレーン “秦河勝” だったのです。
いかがだったでしょうか?
今回のお話は、日本人のルーツをたどる非常にスケールの大きな内容です。
にわかには信じられない話ですし、学校の授業で教わる内容ではありません。
むしろ逆に、日本の歴史においてタブー視される内容です。
しかしながら、私が知るところの「都市伝説界」では、もはや伝説ではなく真実 = 確信に近いものです。
またまた、とんでもないデマ話を・・・
と、思ってしまいがちですが、火のないところに煙は立ちませんよね。
信じるか信じないかはあなた次第です。
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