磐座探訪雑記帳 ①

http://www.message.ne.jp/iwakurasp/blog.html 【磐座探訪雑記帳 池田清隆】より 

25.天神山

 岡山藩三一万五二〇〇石の首邑・岡山は、「岡山三山」とよばれる石山・岡山・天神山(てんじんやま)を中心に発展してきた。まるで藤原京における「大和三山」のようだが、かつては海に浮かぶ島だったという。町の礎(いしずえ)は、戦国時代、宇喜多直家による岡山城と城下町の建設に始まり、宇喜多氏が滅んだあと小早川秀秋が入城するが、わずか二年で亡くなり、安定期に入るのは、寛永九(一六三二)年、鳥取藩主だった池田光政が入国してからだ。

 城は最初、三山のひとつ石山に築かれたが、その後、石山の東にある岡山に本丸を移して城郭を拡張し、町を整備した。この山の名が、市名、県名の起源となった。天神山は、磐座が存在したためか、「神の山」として信仰され、城下の聖なる一翼を担ってきた。石山の北西、県立美術館の北側にあたるところだ。天神山の地名は、天神社が祀られていたことから名づけられたという。『岡山県大百科事典』に、「いずれも花崗岩の岩株(がんしゅ)を持つ」とあるので、三山それぞれに磐座が存在していたのかもしれない。事実、城が築かれる以前、石山には石山明神、岡山には岡山明神(岡山神社)が鎮座していたという。

 いわば、岡山市のど真ん中ともいえる場所だが、ここに広大な磐座が存在する。現在は、天神山文化プラザがあり、磐座があるところは「天神山古跡」として遺されている。江戸期には、鴨方池田家の屋敷があり、磐座はその庭園の一部として存続していたようだ。北側の「土光敏夫記念公園」から見上げると、崖のような景観をみせ、まさに「山」であることが実感できる。磐座は、山の北側に集中、または散在し、一部手が加えられたような立石もあるが、今なお往古の姿を留めているように思える。移動されたものもあると思うが、その在りようは今なお健在で、拝する者に迫ってくる。とくに、頂上部分に遺る巨石の群れは、樹木の根がからみつき、神籬(ひもろぎ)のような雰囲気とともに、地霊がほとばしるような存在感が伝わってくる。

 城下町の形成期には、天神社があり、江戸期には鴨方池田家の屋敷が建てられ、明治になると県庁舎や県会議事堂がつくられるなど、変化の波に洗われながら、県政の中心地としての位置をしめてきた。それでも、この一画だけは往古と変わらない姿を保ってきたと思われる。信仰の対象とされる「磐座」があったからだ。勤めた会社の本社が近くにあったため、よくこの界隈を散歩した。そのときは必ずといっていいほど、天神山を訪ね、磐座を拝したものだ。

24.巨大な岩穴に鎮座する「岩穴宮」

 なぜこうしたところを信仰の対象としたのか。磐座を訪ねるたびに自問することだが、高諸神社に続き、福山市内にある印象深い神社を紹介したい。『百選』にいれるべきか、迷ったところだ。岩穴にあるので「岩穴宮」、または「岩屋権現」とよばれている。なんともわかり易い神社だが、正式名は「多祁伊奈太伎佐耶布都(たけいなだきさやふつ)神社」といい、舌を噛みそうな難しい名がつけられている。意味するところは、砂鉄を求め、出雲からこの地に進出してきた鍛冶氏族・伊奈太(稲田)氏の剣(佐耶布都)を祀る神社ということらしい。祭神は、ここにしか祀られていない下道(しもつみち)国造の祖・兄彦(えひこ)命とされるが、当初、高諸と同じスサノオ(素戔嗚)を祀っていたという。しかも、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに用いた剣が創祀だというのだ。スサノオといい、剣といい、高諸と由来が似ているが、なにか鍛冶氏族と関係があるのだろうか。興味深い類似だが、それ以上はわからない。

 神社は、福山市の郊外、馬乗山(うまのりやま)の中腹、原谷の山中に鎮座する。鳥居近くに駐車場があり、そこから山道を三五〇メートルほど登ると、薄暗い杉木立のなかに巨大な岸壁が見えてくる。県の天然記念物に指定された「上原谷石灰岩巨大礫」だ。説明板には「驚異に値する巨大な石灰岩塊」とあり、高さ三〇メートル、幅三三メートル、奥行三五メートル以上と書かれている。やがて、しめ縄が張られ「大願成就」と刻まれた石柱の先、赤みを帯びた縦縞模様の岩壁が圧するように迫ってくる。赤いというより、うすむらさきのようにも見えるが、地殻変動によってできた石灰岩だという。重量感のある岩壁の基部が岩窟になっており、穴の右手に本殿と摂社・赤濱宮の社殿が並び、最も奥にある青黒い岩塊の不気味さとともに、湿り気を帯びた神秘感が漂っている。それもそのはずで、青黒い岩塊の左には、さらに奥へと続く穴(鍾乳洞)があり、絶え間なく水が流れ出ているのだ。

 もと、岩穴宮の「神体」は馬乗山であり、岩穴に祭壇を設けたのが始まりとする古い伝承があるという。神奈備(かんなび)としての馬乗山、中腹の大岩壁、岩壁の下に口を開けた洞穴、奥から流れ出る水、さらにいえば、穴の最奥にある青黒い岩塊とその奥に続くさらなる穴、そうしたいくつもの神秘的なありようが、神社創祀以前の姿だったと思われる。山中の岩塊に神を見出し、薄暗い穴に母性を感じ、清らかな湧水に豊穣を祈る。ここには、自然崇拝を基層とした山岳信仰とともに、岩屋信仰や水神信仰など、複合的な信仰要素が見事にそろっている。

23.岩島だった高諸神社

 岩の島だったという斜面に築かれた石垣の周りは、大小の海石が無造作に積み重なり、かつ拡散し、まるで波打ち際のような光景が広がっていた。そのためだろうか、ふと磯の香がしたようにも思えた。重森美玲は、「人工において構築した磐境」と表現しているが、人工の形跡はよくわからなかった。というのも、社殿が営まれている丘の周りには岩石が群れ、そのあり様を活かしながら石垣を築いているからだ。いわば自然の岩礁そのままに石垣を築き、社殿を営んでいるように思える。見ると、ところどころ石垣からそうした石が顔を出している。もとは、島そのものが信仰の対象であり、厳島(宮島)のように、神が「斎(いつ)く島」として崇拝されていたのだろう。できるだけもとの姿を遺そうとした氏子(うじこ)の「想い」が伝わってくる。 ところは、広島県福山市今津。かつての海岸線を西国街道(旧山陽道)が走り、塩田と下駄の街として発展してきた。今津とあるように、この辺りまで海が迫り、神社のある丘は、松永湾に浮かぶ岩島だった。ここに新羅の国王を祀る高諸(たかもろ)神社が鎮座する。スサノオ(素戔嗚)とツルギヒコ(剣比古)を祭神とし、剣大明神ともよばれている。夏の大祭には瀬戸内の島々からの参拝も多く、満ち潮に乗って参り、引き潮に乗って帰っていくので、「潮間の市」といわれたという。のち、島の周囲は干拓によって塩田と化し、福山藩の財政をささえた。

 それにしても、異国の王を祀る神社はめずらしい。わずかに『播磨国風土記』にみえる新羅皇子・アメノヒボコ(天日槍)の例があるだけだ。伝えによると、天武天皇の御世、この島に新羅国王が乗った船が漂着し、対応した田盛という村長(むらおさ)が朝廷に報告したが、返事が来ないうちに国王が亡くなった。のち、田盛の夢に国王があらわれ、「吾はスサノオなり、今まで新羅にいたが、日本に帰ってきた。吾が宝剣を吾が心として祀れ」と告げたという。神体は、剣形をした石だというが定かではない。そのころの年表には、唐が新羅に攻め入ったことが載っている。とすると、王族の一部が逃れてきた可能性もあるが、想像の域をでない。

 ただ、こうした遺構は、荒れ易い。神が降臨する「磐境」という信仰が薄れると、必然、神域を守る手が入らなくなり、単なる岩場と化す場合が多い。神社で最も神聖なところながら、変化に富んだ広い空間のため、清浄を保つための手間が必要だからだ。それができるかどうかは、ひとえに、地域の人たちの「信仰」にかかっている。訪ねたのは、一三年も前のことだが、今も神域は守られているだろうか。

22.いわゆる「ハロウィン」のこと

 渋谷に大勢の若者が集まり、「ハロウィン」という名目のもと、わけもなく騒ぎ、ごみの山をつくり、車をひっくり返しているニュースが流れていた。ハロウィンが日本で定着し始めたのはわずか二〇年ほど前だという。にもかかわらず、いつからこのようなことになったのか。

 ハロウィンは、古代ケルト人が起源と考えられている「サウィンの祭り」のことで、秋の収穫を祝い、冬の始まりに際し、悪霊などを追いだす宗教的な行事だった。いわばキリスト教以前の自然崇拝を基層とする土着の宗教行事だったのだ。なぜキリスト教の祭りでさえないものを、なんのためにおこない、騒ぐのだろうか。わけがわからない。それをマスコミがこぞって、多少批判の姿勢をみせつつも、おもしろおかしく取り上げている。今までも日本人は様々な宗教や文化を受け入れ、咀嚼(そしゃく)してきた。でもそれには「根っこ」があったように思える。

 ケルト人は前三〇〇〇年に起源をもつとされ、前二〇〇〇年ごろには高度な文化をもっていたことが知られている。文字は持たず、伝承はすべて口伝で継承された。存在するすべての自然物を崇拝し、なかでも、大きな石や岩に神性を認め、深く信仰したという。確認される遺跡から「巨石聖徒」とよばれている。イングランドにある「ストーンヘンジ」も、ケルト人が築いた「神殿遺構」ではないかといわれているが、天文台や太陽崇拝などの説もあり、結論はでていない。

 いったい日本人における「信仰」とはなんだろうか。神社や寺へ参るのは信仰なのか。お盆に起きる「民族の大移動」は、信仰心があるからか。さらにいえば、クリスマスは、バレンタインは、そしてハロウィンはなんなのか。そうしたいわば「根無し草」のような現状が、わけもなく騒ぎ、ごみの山をつくるありさまにみえてくる。利便さや利益を追求するあまり、本質から離れていき、人間が本来もっている「心」が退化してきたのだろうか。架空の世界へと振り子が振れ過ぎ、戻らなくなるような危惧すら覚えるのだが、皆さんはどう思われるだろうか。

 人は土から生まれ、土に還る。日本の季節には四季という節目がある。このあたりで、自然と共生し、大地に根付いてきた本来の営みを確認するときではないだろうか。磐座信仰は、そうした大地から自然発生的に生まれてきたものだ。われわれを育んでくれた自然の摂理と真摯に向き合わない限り、人の未来は危うい。そう想えてならない。写真は、私が祀っている「磐座」と「石神」の二柱だが、どちらの石も、以前からこの地に存在していたものだ。落ち葉に埋もれているが、もうすっかりわが家の「土着神」として根を張っている。

21.忌宮神社の「鬼石」

 長府五万石の城下は、多くの武家屋敷と城下町らしい佇まいがのこり、雨上がりであったためか、しっとりとした風情がなんとも心地よかった。長門(ながと)の国府が置かれていたこともあり、どこか都の香りとともに、武家の面影が漂っているような街だった。そうしたまるで歴史が沈殿しているような一画に、「忌」という字を冠した神社が鎮座する。忌宮(いみのみや)神社だ。仲哀(ちゅうあい)天皇の行宮(あんぐう)、豊浦宮(とよらのみや)の伝承地だが、この地に仲哀のときから千八百年続くというスホウテー(数方庭)という奇祭が伝わり、由来となった「鬼石(おにいし)」が祀られている。

 歴代天皇と皇后で「神」という文字を冠したのは、神武・崇神・応神の三人と仲哀の妻である神功(じんぐう)皇后だけだ。仲哀はヤマトタケル(日本武尊)の皇子とされ、ふたりとも架空の存在とする説が有力だが、それにしてもなぜこれだけ多くの「神功皇后伝説」が遺されているのか不思議でならない。そのほとんどが「三韓征伐」にちなむものだ。ことの発端は、熊襲(くまそ)の反乱から始まる。熊襲を討とうと筑紫にいたとき、皇后が神がかりとなり、神託がくだる。「熊襲を討つより、海の彼方に金銀の国・新羅がある。この国を与えよう」というのだ。だが仲哀は神託を疑い、神の怒りにふれて崩御する。皇后は仲哀の喪を秘し、遺体を豊浦宮に移して殯(もがり)をおこない、三韓征伐のあと、河内の長野(ながの)に埋葬したと伝わる。

 鬼石伝説は、ふたりが豊浦宮にいたときの話で、新羅の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動して攻めてきたとき、仲哀自ら弓矢をとり、塵輪を打ち取ったという説話に基づく。かなりきわどい勝利だったようで、皇軍は歓喜のあまり、矛をかざし、旗を振りながら屍の周りを踊りまわったという。これが祭りの起源とされ、塵輪の顔が鬼のようであったことから、首を埋めて覆った石を鬼石とよんだ……。長径八五センチ、短径五〇センチほどの平たい石で、六角の亀甲形で囲われている。訪ねたとき、昨夜来の雨で水が溜まり、落ち葉に埋もれていた。

 殯の地は、神社から南方約一キロにある土肥山(といやま)と伝わり、「御殯斂地(ごひんれんち)」として円墳状の塚が存在する。忌宮はイムミヤともよばれる。忌むは、「斎(い)む」に通じる。とすると、仲哀の死を忌み、かつ、仲哀を斎む神社と解していいのだろうか。架空とはいえ、今もって、ふたりの悲しみが漂っているような小さな塚。考えようによっては、なんとも存在感のある夫婦だ。ひょっとすると、ふたりは「実在」していたのかもしれない。

20.雑木林に「磐座」をつくる話

 いつのころだったか。雑木林のなかに住んでみたいと想うようになった。きっかけのひとつとなったのは、「今朝の秋」というテレビ番組だった。蓼科を舞台とした物語で、笠智衆と杉村春子のいぶし銀のような淡々とした演技とともに、黄色が主体となった晩秋の風景と、死と向き合う家族の心境が心に沁みた。柄にもなく、わたしもいつか、自然の移ろいのなかに身を置いてみたい。そう思ったのだ。あれは、磐座を本格的に訪ね始めたころと重なるようにも思えるが、今回は、ちょっと一休みという意で、わが家の「庭」のことを語ってみたい。

 八ヶ岳南麓、標高一二五〇メートルの雑木林に出会ったのは、五〇歳を過ぎたころ、まだ現役の「企業戦士」だった。境界の西を沢が流れ、ゆるい高低があり、変化に富んだ地形だった。樹木も多彩で、訪ねたその日、迷いなく即断した。ただ、久しく人の手が入っておらず、藪のような状態だった。それがかえってよかった。雑木林を残しながら、「磐座」が点在するような石の庭をつくろうと思ったのだ。まず、家を建てる場所の縄張りをし、敷地を歩きながら散策路を決めた。そうしたデッサンができたうえで、敷地からでてくる石を、自らの想いをぶつけるようにひとつひとつ据えていった。そのなかからふたつ「作品」を紹介したい。

 ひとつは、移り住んで初めて試みた石組。苔むした石を、八ヶ岳連峰の権現岳に向けて、それぞれが礼拝しているように据えてみた。八ヶ岳は、イワナガヒメ(磐長姫)を神霊とするが、醜女(しこめ)として知られ、山の神のモデルとされる神でもある。『記・紀』では、天孫のみならず、人の寿命をも短命にした霊力の強い神として知られる。が、ニニギ(邇邇芸命)に見初められた美貌の妹・コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)とくらべ、その影は薄い。

 もうひとつは、石を組むという意識を明確にもち、磐座をイメージしながら据えたものだ。どちらも馴染みの庭師さんの手を借りながら、「あーだ、こーだ」といいながら形にした。日本最古の造園書である『作庭記』に、「石の乞(こ)はんにしたがふ」という言葉がある。石を据えるには、まず主要な石を立て、次はその石が「望むように」立てていきなさいというのだ。いわば、石の意のままに……ということだが、この「石の意」というのがなんとも難しい。写真にある石組もそのようにしたつもりだが、どう思われるだろうか。だれに見せるわけでもないのだが、晴れた日は、庭作業のかたわら、ひねもす、石を眺め、石を据えている。

19.磐境神明神社

 はるかな昔、白髭の翁が天降り、「この谷は聖地なり。神を祀り、宮内と改めよ」と告げたという徳島県美馬市穴吹町宮内に、磐境を冠した不思議な神社が存在する。磐境神明(いわさかしんめい)神社とよばれているが、いわゆる社殿はなく、神明山の山頂部に「石積神殿」と表現される石垣囲いの遺跡が遺されている。この造形が他に類を見ないもので、説明板に「南北約七メートル、東西約二二メートルの範囲を長方形状に囲郭する異形の祠」と書かれている。石垣の幅は、一・五~二メートル、高さは一・五メートルほどだろうか。南側を正面として三ヵ所の神門を設け、北側には五つの祠が座している。「五社三門」ともよばれる由縁だ。

 鳥居から山頂へ続く石段を見上げたとき、エッと思った。聞けば一三〇段あるという。苔むした石段が一直線に伸びている光景は、神域へといざなう神の道でもあるのだが、勾配が急過ぎて後ずさりをするほどだった。隣接する「白人(しらひと)神社」の奥宮と伝わり、地元では「天の川に続く階段」といっているが、遺構の存在が、天上界を連想させるのだろうか。

 その構造がユダヤ教の礼拝所に似ているとして、イスラエル大使が訪れたこともあり、しばしば、日本人とユダヤ人は兄弟民族であるとする、「日猶(にちゆ)同祖論」の根拠として採りあげられることもあるという。なかには、ユダヤのソロモン王家が阿波に渡来したという説まであるというから驚く。それほど珍しく異形な祠ということか。築造年代は不詳だが、神社の由来をみると、現在の姿は、江戸後期に改修したものとされ、比較的新しいといわれている。遺構の原形となるものがあったようだが、それがいつのものか不明だという。磐境という文字を冠しているので、祭祀遺跡だと思うのだが、それ以上のことはわからない。

 それにしても、この石積みの配置と造形の不思議さは類がない。『阿波名勝案内』には、「石堤は磐境なるべし」とあり、磐境と表現している。材質は、結晶片岩、いわゆる「阿波の青石」とよばれる板石で、硬いけれど割りやすいことから古墳の石室や阿波地方に多く見られる積石塚などにも利用されている。じつは、昭和三〇年ごろ、ここに財宝があるとして、発掘した「不届きもの」がいるという。平家の落人伝説や源為朝の来訪伝承が残る地域なので、それに因む財宝が連想されたのだろう。そのため、石垣の地盤が揺らぎ、崩壊寸前になったという。修復したというが、一部分、石垣が波打ったように見えるのはそのためだろうか。

18.宇夫階神社

 重さ三百トン以上と推定される巨大な石が、宇夫階(うぶしな)神社の本殿裏に「どーん」という感じで鎮座している。高さ五・五メートル、直径四メートルだという。とにかく大きい。黄色味がかった柿渋色と丸みを帯びた形状のためか、巨大なタコがうずくまっているようで、いかつい感じもするが、どこか愛嬌ある雰囲気も漂う。巨石の前には、祭壇のような扁平な石が横たわり、その上にしめ縄が巻かれたヒョウタンのような小さな石が乗っている。そのあり様から意図的に据えられたようにも見えるが、自然の営みが創りだしたものだろう。おそらく、長年の風雨で周りの土砂が流され、露出したものだと思われる。眼下に塩田跡を再開発した宇多津(うたづ)の街が広がっているが、かつてはこのすぐ下まで波が打ち寄せていたという。

 もう五十年も前のことだが、東京の大学に在学していたころ、四国に帰郷するには、「宇高連絡船」を利用することが主な手段だった。東京から岡山を経て宇野まで国鉄を利用し、宇野から高松へは連絡船に乗り換え、高松からは、松山を経て長浜に向った。その途中、坂出から宇多津にかけて広大な流下式塩田が広がっていたのをはっきりと覚えている。宇多津で本格的な製塩が始まったのは明治になってからだが、最盛期、海岸線は塩田で埋めつくされ、日本一の塩都として名を馳せた。そういえば、「コクテツ」という響きも懐かしい。

 宇多津は、鵜足(うた)郡の船着場の意に由来するという。水運の要衝として栄え、平安末期にすでに集落が形成され、津ノ浦、鵜足津などとよばれていた。神社がある小高い丘は、青ノ山の北端に位置しているので、海に面した岬のようなところだったと思われる。巨石は、その頂上付近に存在する。周辺には、神饌(しんせん)を供えた「御膳石」など、累々と岩石が群れ広がり、壮大な神域が現出している。説明板は、巨石そのものを「いわさか」としているが、社殿のないころ、丘陵全体が広大な磐境(いわさか)であり、祭祀の場所だったと思われる。

 創建年代は諸説あり、祭神は、オオナムチ(大己貴命)となっているが、古くは「宇夫志那大神」と称していたというので、もとは、鵜足郡を守護するウブスナノカミ(産土神)そのものだったのではないだろうか。いわば神社の神体ともいえる存在だが、社殿のないころ、鵜足郡の人たちは、岩石が群れる岬に集い、巨石に宿る「ウブシナ神」に地域の弥栄(いやさか)を祈ったことだろう。それにしても、この巨石が放つ存在感には、ただ圧倒されるばかりだ。

17.如法寺山頂巨石遺跡

 最初のブログ「磐座との出会い」でも触れたが、私のふるさとは伊予大洲藩に属していた。大洲は、大洲盆地の中央に位置する城下町で、江戸初期まで「大津」と呼ばれていた。城は、肱川に面した地蔵ヶ岳と呼ばれる小高い丘に築かれている。城の始まりは、鎌倉末期だが、関ヶ原合戦前後、大洲を統治したのは藤堂高虎だった。その後、脇坂氏のあと、一六一七年、大洲六万石は加藤貞泰(さだやす)に与えられ、明治期まで続くことになる。

 『百選』で採りあげた「高山の立石」から東南を望むと、大洲盆地をへだてて如法寺(にょほうじ)山(三二〇メートル)がなだらかな山容をみせ、その姿から富士山(とみすやま)とも呼ばれている。中腹には、二代藩主・加藤泰興(やすおき)が建立した如法寺が存在する。泰興が深く帰依した臨済宗の盤珪(ばんけい)和尚を開山としたもので、以来、藩主の香華の寺として篤く遇され、裏山には奥旨軒(おうしけん)と呼ばれる盤珪専用の修行地も整えられた。さまざまな伝説が遺されているが、そのひとつ「盤珪座禅石」なるものを紹介したい。

 盤珪は、型破りとでもいうべき独創的な修行をしたことで知られるが、逸話のひとつに「そこな山に入っては、七日も物を食べず、ここな巌に入っては、じかに尖った岩の上に坐を組むが最後、命を失うことも顧みず、自然とこけて落つるまで座を立たず……」ということが伝えられている。尖った岩の上であろうが、一度座ったら転げ落ちるまで動かなかったというのだ。かれの禅は「不生(ふしょう)禅」と呼ばれ、「人には、生れながらに仏心がそなわっており、そうした清浄無垢な心で接すればすべてがうまくいく」という意を民に説いた。

 そうした盤珪が「座禅をしたかもしれない」と説明板に記された巨石が、如法寺山の頂上付近に存在する。「如法寺山頂巨石遺跡」と呼ばれているが、ドルメン説、座禅石説、祭壇石説など諸説あり、定かなことはわからない。ただ、「座禅をしたかもしれない」という表現はなんとも可笑しかった。教育委員会が設置したものだが、本当に教育委員会が記したものだろうかと思ったほどだ。巨石は二つあり、大きな石のかたわらに盤珪と思われる石像が存在する。一見したとき、「石仏か」と思ったのだが、どうも盤珪のようだ。座禅説に基づくものだろうか。市の資料をみると、「付近に母岩の露出が全くないうえに、相当水による摩滅があることから、肱川から引き揚げたもの」という祭壇石説、つまり磐座説を取っている。が、まだ定説はない。

16.空海の原点・室戸岬

 三年前、九四歳で亡くなった母は、空海のことをいつも「お大師さん」と呼び、私が病気で寝込んだときは、仏壇から真っ黒に煤けたお大師さんの立像を取り出して、なにかつぶやきながら身体を撫でてくれた。時おり、女遍路が我が家の二階に泊まることがあったが、母がかいがいしく「お接待」をしていたことを覚えている。また、遍路が「門付け」に来たときは、なにがしかのお金を包み、渡すことが常の風景として心に残る。四国で生まれ育った者として、いつも身近に感じていた弘法大師・空海。かれの原点を想像してみたい。

 司馬遼太郎は『空海の風景』で、空海は超自然的な力に感応しやすい能力、つまり「巫人(ふじん)能力」をもっていたのではないかと記している。いくつか、修行をしたとされる場所を訪ねたが、いずれも大地のエネルギーを感じるところだった。とくに、御厨人窟(みくろど)がある室戸岬は、今もって大地が隆起を続けている地殻変動の最前線といわれている。世界ジオパークにも認定されたところだ。こうした「地霊」がほとばしるような場を選んだことが、空海たる由縁のように思える。かれが修行した千二百年前、洞窟の近くまで海が迫っていたというが、今は海岸まで一〇〇メートルほど歩かねばならない。それだけ地殻が動き、隆起しているのだ。空海は、ここで、「谷響(ひびき)を惜しまず、明星来影(らいえい)す」という神秘体験をすることになる。周辺は遊歩道が整備され、地殻変動で垂直に回転してできたとされるビシャゴ岩や烏帽子岩などが存在する。いわば地球の鼓動が聞こえてくるようなところだ。

 記録に遺る修行地は、わずかに、阿波の大滝嶽、土佐の御厨人窟、伊予の石鎚山と金山出石寺の四か所だが、いずれも岩山や岩窟などの岩場だった。でもなぜ、こうした場所で修行したのだろうか。それはどうも、空海という法号にその答があるように思える。その由来については所説あるが、おそらくかれは、桁外れともいえる巫人能力をもっていたに違いない。巫(ふ)の本質は、神を招き、神を降し、神を動かすこととされるが、神霊がおのれを呼び、もてなしてくれていると実感したのではないだろうか。草木すら言問い、樹間を吹きぬける風さえも神の訪れを感じたはずだ。文字通り、空と海、大自然にとけ込み、一体化することを願ったのだろう。さらにいえば、室戸岬での引き裂かれるような神秘体験。だからこそ、土俗信仰や山岳信仰などを捨てきれず、現世肯定とでもいうべき密教体系を創りあげたのだと思われる。

15.伊都国の聖域に鎮座する「細石神社」

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで……。ご存知、日本の国歌・「君が代」である。「さざれ石」は、細石という文字をあてるように、小石(さざれ)のことで、成長して大きな巌になるという信仰が基層を流れている。柳田国男は、こうした伝承を「生石(いきいし)伝説」と名づけた。なお、各地で見られる細石は、小さな石が集まってひとつの塊(かたまり)になったものだが、本来は「成長する石」という生石伝説が基本にある。石はあたかも生きているように成長するというのだ。

 その細石を冠した神社が、福岡県糸島市三雲(みくも)に存在する。ここは『魏志倭人伝』に記された「伊都国」に比定されている地域で、その王都と目されているところだ。周辺には、王や王妃の墓とされる遺跡群があり、径四六・五センチという国内最大の鏡など、銅鏡一二〇面を含む玉や剣などが出土したことで知られる。いわば「三種の神器」の出土地でもあるのだが、古田武彦は、ここを「王家の谷」と呼んだ。おそらく、邪馬台国の時代において、この遺跡群ほど質と量が充実しているものはどこにもない。松本清張は、邪馬台国は卑弥呼がいる宗教地で、伊都国が政治経済の中心地であり、伊都国王が邪馬台国連合の執権だったと解釈している。イワナガヒメとコノハナサクヤヒメを祀り、豊臣秀吉に神田を没収される以前は「広麗なる御社」とあるのみで、それ以前のことはわからないという。『糸島郡誌』に「神体は小石の由云へり」とあるので、神社名はこの小石に因むのだと思うが、その由来もよくわからない。

 いわば謎だらけなのだが、地名や伝承などから、この地を天孫降臨の舞台とする説が根強くあり、境内には、ニニギとコノハナサクヤヒメの子・ホホデミの生誕地(八龍の森)から移されたと伝わる立石(八大龍王)が存在する。この立石がなんとも神秘的で印象深い。まるで襷をかけたようにしめ縄が張られているさまは、ホホデミがそこに立っているように思える。厚さ一〇センチにも満たない扁平な石だが、正面から見ると石の上部に龍の顔が浮かび出ているように見えてくる。よく目を凝らして写真を見てほしい。八大龍王の顔が浮かんでこないだろうか。

 伊都国のいわば聖域にあり、神体とされる「さざれ石」とホホデミの生誕地に存在したと伝わる立石。祭神の一柱であるイワナガヒメ。まるで神話の扉を開く「鍵」のような地に、岩石崇拝の息吹が濃厚に漂い、錯綜(さくそう)しているように思える。さらにいえば、この神社の土中に、卑弥呼時代のとてつもない歴史が、未だ眠っているような気這いすら感じている。

14.唐津の佐用姫岩

 皆さんは、佐賀県唐津地方に伝わる「佐用姫(さよひめ)伝説」をご存知だろうか。羽衣、浦島と並ぶ「日本三大悲恋物語」とも言われるが、呼子の田島神社を調べていたとき、境内に「佐與姫神社」があり、社殿の床下に佐用姫が石になったという「望夫石(ぼうふせき)」が祀られていることを知った。さらに、唐津のホテルに泊まったとき、ホテルの近くに「佐用姫岩」なるものが存在することを教えてもらった。

 伝説の要旨を記すと、「昔、松浦の里に滞在していた大伴狭手彦(さでひこ)は、長者の娘佐用姫と恋に落ちるが、やがて新羅出兵を命じられ、船出の日が訪れる。佐用姫は鏡山の頂より領巾(ひれ)を振って名残を惜しみ、ついには船を追って呼子の加部島へ渡り、悲しみのあまり石になってしまった」というもので、この石を望夫石といい、佐用姫が鏡山から飛び降りたところが佐用姫岩だという。ただ、望夫石は、社殿の床下にあるため、普段、拝することはできない。伝え聞くところによると、女性が伏せているような形をしているというが定かではない。

 さて、狭手彦を追って鏡山から飛び降りたという佐用姫岩は、河口から二キロほど遡った松浦川のほとりにあり、一目でそれと分かる造形をしている。巨石が群がり、累々と積みあがったさまは、まさに石の山だ。この岩山の上に佐用姫が飛び降りたというのだ。大岩の前には小さな祠があり、岩の上部には佐用姫の足跡がうっすらと残されているという。以前は、松浦川の中に浮かぶ岩島であり、干潮のときにだけ歩いて渡れたというが、今は入り江のようなところに雄大な姿を横たえている。今でも周囲は水が満ち、往時をしのばせてくれるが、川中に浮かんでいたころは、さぞかし神秘的な佇まいであったろうと想像される。領巾を振ったという鏡山から三キロほどのところだが、佐用姫はここまで空を飛んだのだろうか。

 時は宣化(せんか)天皇二(五三七)年、今から一五〇〇年近くも前の伝説だ。日本史の年表で五三七年をみると「大伴連狭手彦、任那(みまな)に渡り、百済を救う」と記されている。伝説といえばそれまでだが、狭手彦が渡海して任那の回復に当たったことは事実だろう。穿った見かたをすれば、男の身勝手さが生んだ悲劇でもあるようで、いつの時代も置き去りにされるのは女だということか。この物語には、男に対する女の悲しみと怨みが凝縮されており、やがてその想いが「石の霊」に昇華するという、いわば怨念伝説として今に伝わる。

13.もうひとつの「天道」聖地

 『百選』で、対馬に遺る天道(てんどう)信仰の聖地、「豆酘(つつ)・八町郭」について触れたが、もうひとつの聖地とされる「天神多久頭魂(あまのたくずたま)神社」を紹介したい。難しい字が充てられているが、タクズタマ(多久頭魂)という神名は、対馬に二座、大和に一座あるだけの珍しいもので、意味は不明ながら、日の神・天神のことだとされている。俗にいうオテントウサマのことだ。式内社で、対馬の北端・佐護(さご)に鎮座する。

 余談だが、対馬へは飛行機で渡った。飛行機は苦手なのだが、フェリーだと約五時間、高速船だと約二時間、比べて、飛行機だと僅か三〇分という誘惑には勝てなかった。実質空を飛んでいるのは二〇分くらいだろうか。福岡を離陸したと思ったら、もう着陸態勢にはいっているというのが実感だ。キャンディーが配られたが、まだ口の中に残っているうちに着いてしまった。

 神社は、佐護港近く、天道山を拝する海辺にある。近くの千俵蒔山(せんびょうまきやま)からは釜山の夜景が見えるという。古代、防人が配置されたところだ。社殿はなく、鳥居の奥に禁足地であるカナグラと呼ばれる祭壇があり、鏡が置かれている。祭壇の手前には高さ三メートルほどの石塔が二基あり、神域を区切る結界となっている。周囲はこんもりとした森が広がり、林相の深さに聖地の雰囲気が漂う。『神道事典』に、「天道信仰の聖地である天道地は、シゲと呼ばれる茂った森のなかに、カナグラと呼ぶ祭壇を設ける」とあるが、こうした森がシゲとよばれるのだろうか。カナグラは「神座」とされ、磐座と同じ意味合いをもつといわれている。 強く印象に残ったものは、自然石を積み上げた二基の石塔だ。鳥居と並ぶ配置の妙もさることながら、ざっくりと積み上げられた造形と、最上部に置かれた海石の存在が神の降臨を語っている。豆酘の天道法師塔も石積みの塔だが、それとはまた一味違った雰囲気を醸しだしている。磐座のひとつの典型だが、粗削りながらも、素朴で均整のとれた造形に心を魅かれる。神体山の懐に抱かれた社殿のないシゲとカナグラ、対馬に伝わる古層の信仰が今に息づいている。

 なお、日本神話に登場する「高天原」は、対馬や沖ノ島を含む「天国(あまくに)」と呼ばれる対馬海流圏であり、天道にちなむ「日神信仰」は、対馬市美津島の「阿麻氐留(あまてる)神社」に繋がり、やがて太陽を神格化したアマテラス(天照大御神)になったという説があることを付け加えておきたい。アマテラスは、天道信仰の島・対馬が「原産地」だというのだ。

12.倒壊した阿蘇神社

 未だ手がつかず……。阿蘇神社の象徴である重文の楼門と拝殿や翼廊が、ペチャンコになっていた。それはまるで、阿蘇氏の祖神・タケイワタツ (健磐龍命)が尻餅をついて、へたへたと座りこんでいるように見えた。大自然の容赦のない営みと、なすすべのない惨状に息をのんだ。幸いに も重文に指定されている三つの神殿は一部破損があるものの、全壊は免れたという。訪ねたのは平成二八年九月二七日、「熊本地震」で倒壊して約 五か月後のことだ。

 阿蘇氏は、阿蘇地方を支配した国造(くにのみやつこ)を継承する名家で、中世には大宮司と称し、併せて武士の棟梁としての顔をもっていた。 南北朝のころには、菊池氏と並ぶ勢力を持つにいたるが、豊臣秀吉によって断絶され、のち加藤清正が再興、江戸期からは阿蘇神社の神官とし て現在に至っている。ちなみに現在まで続く「国造家」は、出雲・紀伊・阿蘇の三家のみといわれている。神社が倒壊したのは四月一六日未明。 熊本地震の本震によるもので、甚大な被害を阿蘇地方にもたらした。写真のひとつは、拝殿と翼廊だが、まるで「ドミノ倒し」を想わせるような あり様が写っている。もうひとつは、倒壊した楼門の屋根を境内から撮ったもので、まさに茫然自失といった感が漂う。新聞やテレビなどで被害 の概要は見知っていたが、この光景を見たときは、言葉を失った。タケイワタツが押しつぶされているように思えたからだ。

 日本の神は、よく八百万(やおよろず)の神々と表現される。が、なぜか地震を表す神は存在しない。たとえば、火の神はカグツチ(迦具土 )、山の神はオオヤマヅミ(大山津見)、海の神はオオワタツミ(大綿津美)という神名で表現される。しかし、地震の神は単に「地震神(ない のかみ)」という神格で表現されている。唯一、それを想わせる神にスサノオ(素戔嗚)がいるのだが、地震神の神名ではない。どうしてだろう か。以下、想像を膨らます。

 足もとの大地が揺れる。神はあるときキバをむき、祟るときがある。祟りの威力が霊験を示す尺度ともなる。大地が揺れると、山が崩れ、津波 が押し寄せ、火山が噴火する。同時に数々の災害が起き、一瞬にしてすべてが無に帰す。もうこれは、神という観念では語れない。神の域を超え た「なにか」が絡み合って大地を揺さぶっている。いくつもの神が複合しているのだ。そもそも大地を創ったのはイザナギ(伊邪那岐)とイザナ ミ(伊邪那美)だ。とすれば、大地を揺するのはこの二神しかいない。神名などつけようがない。だから、地震神としか書けなかった。

11.宇佐神宮の禁足地・奥宮

 今までに、女人禁制や男子禁制という、いわばタブー視された習俗に触れたことがあるが、今回は「禁足地」という聖域について語ってみたい。同じ「禁」という文字を冠しているが、そもそも禁とはどのような意味をもつのか。『漢語林』をみると、「示+林。示は神の意味。林におおわれた聖域の意味を表す」とあり、「覆い閉じこめる意味から、忌み避ける意味をも表す」と書いてある。硬い表現だが、なにか畏れ多い気這いが、漂っているような感覚になってくる。禁という文字そのものが、神の存在を示唆しているからだろう。文字通り、足を踏み入れてはいけない「秘所」のようなところと理解すればいいのだろうか。

 禁足地を代表するものとして、宇佐神宮の奥宮がある。『百選』の選考過程で断念した磐座のひとつだ。神宮の始原は、二之御殿に祀られている比売大神(ひめおおかみ)が降臨したとされる御許山(おもとさん)にあり、山頂(六四七メートル)に大神が降臨したと伝わる磐座が存在する。「原始の八幡」ともいわれるが、ここに東面する三個の石体があるというのだ。伝えられる磐座は、「中央の石体は最も大きく、高さ広さ各一丈五尺、烏帽子形をしている。向かって右の石体は大きさこれにつぎ、形は同じである。左の石体は最も小さく、高さは四尺程度、人工を加えた形跡が見られる」と表現されている。可能ならば対面してみたいと思うが、鬱蒼と茂る樹林のなかにあり、立ち入りはおろか、その姿を拝することはできない。 ただ、例外があるようで、ひとつは、宇佐大宮司が家督相続のとき、奥宮に詣で、祖神を拝するという。また、二十一年に一度おこなわれた「峰入り」のときに拝したというが、昭和三四年に復活したものの、久しく途絶えていたため、現在、どうなっているのかわからない。

 奥宮には拝殿と石の鳥居があるのみで、本殿はない。拝殿から鳥居の奥に鎮座する石体を拝するかたちをとっている。鳥居の奥が宇佐神宮の「神体」なのだ。よく見ると、鳥居には厳重に有刺鉄線が張り巡らされており、立ち入ることができない。物々しい感じもするが、本来、禁足地とはこうあるべきだと思う。比べて、神域だからと写真撮影を禁じながら、「入山料」を取っている神社もあるが、なんとも不自然で、違和感を覚える。それにしても、奥宮と彫られた石額と鳥居のもつ存在感の大きさはどうだろう。禁足地を示す結界ながら、もうそれだけで、石体を拝したような想いになってくる。ここでは、鳥居そのものがもはや「磐座」と化している。

10.宮崎県小林市の巨大な陰陽石

 天に向かって直立している巨大な陽石(男根)が見えてきたときは、驚くとともにドキッとした。なにしろ男の見事な一物が辺りを睥睨(へいげい)するかのように聳えているのだ。男根の高さは一七・五メートル、胴回りは一二・七メートルだという。それだけではない。男根の左下には、これまたリアルな陰石(女陰)が横たわっている。その周囲五・五メートル、日本最大の陰陽石として知られる。ふつう、陰陽石と呼ばれるも のは、別々の陰石と陽石が対になって祀られているものだが、この巨大な陰陽石は、ひとつの岩塊でできている。すぐ脇を浜の瀬川が流れているので、川の浸食作用によってできたのだろうか。いわば、自然が創りだした造形だが、なんとも奇抜な「自然神」だと思わずにはいられない。

 大護(だいご)八郎が『石神信仰』で、「性器信仰」について、「日月風雨といった自然神と同様、性器の霊力も極めて視覚的・現実的な存在で あり、いわば身近な自然神の一つといえるものであった」と綴っているが、この陰陽石を見てなるほどと思う。

 でもなぜ、陰が女で、陽が男なのだろうか。アマテラス(天照大御神)は、女神だけど、太陽神でもある。そして、なぜ、陰が先なのか。調べると、中国古代哲学の宇宙観と人生観に行きつく。中国では周代から陰と陽の二元をもって自然および社会の事象を説明してきたという。面白いと思ったのは、暦にまつわる話だ。太陽の出没と昼夜の別に基づく「太陽暦」は知られているが、人類が暦を意識したとき、最初に注目したのは、 月の満ち欠けによる周期だという。いわゆる「太陰暦」だ。さらにいえば、月の満ち欠けによる一周(一か月)は約二九日半で、女性の生理の周期に近い。陰と女性は、なぜか月の満ち欠けと繋がっているのだ。易に言う「一陽来復」という言葉は、陰気が極まって陽気が生ずるという意だという。まず陰があり、陰が極まった先に陽が生まれる。そういえば、女の象徴は「女陰」と書く。

 詩人の野口雨情は、「浜の瀬川には二つの奇石 人にゃ言うなよ 語るなよ」と詠んだ。明治維新政府は、神仏分離令のもと、性器を模った陰陽神を弾圧した。それでも庶民の素朴な信仰は生き残り、甦った。人は男根と女陰の交わりによって生まれる。この生命誕生の厳然たる事実は否定できない。理屈や思想ではない、いわば、時の権力などの遠く及ばない自然の摂理が、この陰陽石に投影されている。

9.奄美の石神さま・イビガナシ

 フボー御嶽(うたき)の項で、男子禁制についてふれたが、神女のみが入れる御嶽の奥に、最も神聖な場所とされるところがあり、そこに「イビ 」と呼ばれる自然石が置かれていることが知られている。岡本太郎は『忘れられた日本』で、イビのことを「隅の方に三つ四つ、石ころが半分枯葉 に埋もれてころがっている」と書いている。イベとも呼ばれるが、御嶽・川などで祀られる神とされ、「威部」が語源ともいわれる。沖縄関連の辞典をみると、御嶽にある老樹や神聖な石(神石)を指すとあり、「神が宿る場」と解釈されている。

 そうしたイビに因むものとして、「平瀬マンカイ」を取材したときに、奄美在住の知人に「イビガナシ」と呼ばれる石神の存在を教えてもらい、 案内してもらった。このイビガナシもイビに繋がるものだという。ガナシは敬称とされるので、「石神さま」という意だろうか。ここでは瀬戸内 町油井(ゆい)のイビガナシを紹介したい。

 油井は奄美大島の南端近くに位置し、瀬戸内町の中心部・古仁屋から車で西に一五分ほど走ったところ、大島海峡を挟んで加計呂麻(かけろま) 島に相対している。オボツヤマ(カミ山)と呼ばれる油井岳(四八四メートル)を背負い、海岸近くには油井小中学校を中心にして、集落が広がっ ている。その一角にミャー(宮)と呼ばれる広場があり、大きなガジュマルとデイゴの下に自然石が四柱立っている。四柱のイビガナシは奄美で も珍しいというが、集落の守り神として大切に祀られている。このイビガナシは、「カミ道」を通ってオボツヤマから持ち降ろしたものだという が、山宮(オボツヤマ)に対し、里宮としての役割をもっているのだろう。

 イビガナシの前には、土俵があり、旧暦八月一五日、県の無形民俗文化財に指定された「油井の豊年祭り」が、この土俵を中心におこなわれる。 由来は明らかではないが、土俵を田んぼや臼に、人間を摺り臼や杵に見たて、稲作の作業を表現したものだといわれている。このときに、神酒や 力飯などをイビガナシに供え、ともに豊年を祝うという。

 油井からの帰り、奄美市住用町見里に立ち寄り、イビガナシと同じ意をもつと思われるカミイシ(神石)を訪ねた。民家の庭のようなところだ が、人形(ひとがた)に似た自然石がさりげなく祀られている。もともと、疱瘡(ほうそう)の侵入を防ぐ「塞神(さえのかみ)」だったようだ が、今は、地域の無事安泰を願うマムリガミ(守り神)として大切に祀られている。

8.男子禁制という習俗

 以前、女人禁制について触れたが、沖縄に残る「男子禁制」という習俗についても語っておきたい。ところは久高島のフボー御嶽(うたき)。御 嶽とは、神が降臨する聖域のことをいうが社殿はなく、本土における鎮守のごとく、樹木の茂る聖地であり、そのほとんどが美しい山や樹林のなか にある。フボー御嶽は二度訪ねたことがあるが、最初は二〇〇三年、斎場(さいは)御嶽を訪ねたあと、久高島に向かった。二度目は二〇一五年 、このときも同じコースをたどり、久高島のカベール岬を訪ねたときに立ち寄っている。神の島・久高島を代表する御嶽だ。

 柳田国男の『海南小記』に、「沖縄の島々には、女性ばかりが御祭に仕え、巫女(ふじょ)を通じての神託によって、神の御本意と時々の御心 持とを理解し、これに基づいて信心をした」と記されているが、沖縄では、神と交わるのは女だけの資格であり、ふつうのことだった。ここでは女 人禁制にいう「血の穢れ」の観念がないどころか、女の方が霊的に優位とされてきた。久高島はその習俗が、最近まで色濃く残っていたところで もある。

クリックで拡大 『百選』でもふれたが、久高島には、十二年に一度行われる「イザイホー」と呼ばれる神女誕生の祭儀があった。島の人口が激減したため、一九七 八(昭和五三)年を最後に途絶えてしまったが、この祭儀の舞台ともなるフボー御嶽は男子禁制だった。島の女だけが御嶽に集い、神と交わり、 神の声を聞いたのだ。そこに男が入る余地はなかった。

 初めてフボー御嶽を訪ねたとき、入口には、由来とともに、「男子禁制」とかかれた説明板が立っていた。が、二度目のときは、「ご協力くださ い」という呼びかけとともに、「神々への感謝の心と人々の安寧を願う場所でもあるため、何人(なんびと)たりとも出入りを禁じます」という 説明板に変わっていた。男女を問わず、神女以外の立ち入りを禁止したのだ。

 聞くところでは、斎場御嶽でも男子禁制の「復活」を検討しているという。観光客の増大とマナーの悪さから、聖地が荒れてきているからだ。現 在は、「斎場御嶽の休息日」として、試験的に年に二回、入域制限を行っているが、男子禁制は行われていない。もし実現できれば、聖地の観光 化に警鐘(けいしょう)を鳴らす英断となることは間違いない。いろいろな意見があることは承知しているが、こうした南城市の試みを歓迎した い。市のホームページにあるように、斎場御嶽は観光地ではなく「聖地」である……という主張にエールを送りたい。

7.「お水取り」に行ってきた

 前項でもふれた東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)に行ってきた。修二会は、三月一日から三月一四日までおこなわれる火と水をともなう行(信仰儀礼)のことだが、そのハイライトといえる一二日、二月堂に向かった。この日は、本行中に毎夜点灯される「お松明(たいまつ)」のなかで最も大きな籠(かご)松明が登場し、夜半には修二会の通称ともなった「お水取り」がおこなわれる日でもあり、毎年、多勢の参拝客であふれる。

 二月堂に着いたのは午後四時五〇分。すでに竹矢来(たけやらい)が組まれた回廊の下は人で埋まり、入場規制が始まっていた。松明に火が灯されるのは、午後七時三〇分なので、まだ二時間半も時間がある。にもかかわらず、立錐の余地もないほどの人が集まっている。もちろん、座る場所などない。警備に当たる奈良県警の警察官が、「松明に火が点火されるときは照明が消され、真っ暗になるので足もとに注意し、前の人を押さないでほしい」といったことを繰り返し放送している。時おり、東大寺側から、修二会とお水取りの由来などが放送されるが、日本語だけではなく英語でも同じ内容が流される。お水取りも国際的になったものだと思わずにはいられない。そういえば、私の周りにも数多くの外国人が立ち並んでいた。

 午後七時三〇分、明かりが消され、会場が静まり返る。やがて、鐘の音が響くなか、待ちに待った籠松明が童子(付き人)にかつがれて二月堂の石段を上ってくる。最初は二月堂前に聳える杉の巨木(良弁杉)に隠れてよく見えないが、すぐその全貌が現れ、火の玉のような松明から火の粉が舞い落ちてくる。長さ約八メートル、重さ約七〇キロといわれる最大の松明だ。火の粉が舞い落ちるたびに、参拝者からどよめくような歓声が上がり、修二会の最高潮という高揚感とともに、千二百年間の信仰と歴史の重さが伝わってくる。修二会は、堂内でおこなわれる厳しく烈しい行法だが、松明から舞い落ちる火の粉が庶民との接点をつくりだし、春を呼ぶ心を伝えてくれる。庶民の感覚では、これが終わると春がくるのだ。

 修二会に遅参した若狭の遠敷(おにゅう)明神が、そのお詫びに「鵜之瀬(うのせ)」から水を送る約束をしたという伝説に由来するお水取り。若狭から奈良まで遥か九〇キロ、その地下をとうとうと水が流れ、東大寺の若狭井に至るという。いわば仏事ながら、原始の水信仰に起因するという「神事」、なんとも遠大な神々の世界が地下の水脈で繋がり、今に息づいている。

6.鵜之瀬・白石神社での「できごと」

 例年、立春が過ぎて、春の足音に耳を澄ませながら、「まだか、まだか」と待ちわびる神事がある。東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)だ。春を呼ぶ行事として、「お水取り」の通称で知られている。江戸中期の俳人・大島蓼太(りょうた)の句に、「水取りや 瀬々のぬるみも 此日より」というのがあるが、関西では、お水取りが終わると春が来るといわれている。

 修二会は、本尊の十一面観音に、「穢れ払い」と「除病延命」を祈る、火と水に対する信仰儀礼といえるもので、三月一日から一四日までおこなわれる行のことをいう。観音さまへささげる香水(こうずい)を汲む「お水取り」は、一二日の夜半におこなわれるが、それに先立つ三月二日、若狭の鵜之瀬(うのせ)で、二月堂の若狭井に香水を送る「お水送り」がおこなわれる。今回は、鵜之瀬に隣接する白石神社での「できごと」を紹介したい。 『百選』にも記したが、この白石神社でなんとも不思議な体験をしたのだ。ふつう、磐座を訪ねたときには、なにかワクワクするような期待や高揚感を伴うことが多く、稀に、「磐座が呼んでいる」と思える感覚になることもあるのだが、このときは、そうした感覚とは別の、全く異質な体験だった。いわば、「よく訪ねてくれた」という迎えのようなものではなく、「ここに来てはいけない」と拒否されているような異界体験ともいえるものだった。

良辨説明板:クリックして拡大 「良辨(ろうべん)和尚生誕之地」と刻まれた石碑の先に、神社の石段があり、境内へと続いているが、その石段を上がり、境内へ足を踏み入れたときから、いつもとは違う「なにか」を感じていた。覆屋の中にある社殿に近づくと、足が竦んで前に進まなくなった。背筋に冷たいものが走り、まるでスローモーションのような動作になっていることに気が付いた。社殿の前になにかいるような気這いを感じ、急に怖れが湧いてきた。「怖い」と思った。慌てて引き返し、石段を降りたが、そこに、なんとも写実的な良弁像の顔写真が載った説明板があった。とすると、あれは良弁の気這いだったのか。それとも白石大明神の気這いだったのか。

 私は、「巫者(ふしゃ)」とよばれるような超自然的な力に感応しやすい人間ではない。ごくふつうの凡人だが、このときばかりは「なにか」に感応したのだ。それがなにかわからない。何十年も、磐座を訪ねてきたが、こうした体験は、後にも先にも、このときだけだった。

5.石仏山のこと

 石仏山(いしぼとけやま)の「神事」を取材したのは、二年前の三月二日だった。前日、輪島市門前町のホテルに泊まり、翌日の早朝、石仏山がある柿生(かきお)に向かった。駐車場がある柿生地区集会所に着いたのは午前八時ごろ、前日来の雪が一〇センチほど残っていたが、やがて、新聞社の記者やカメラマンが神事の開始時間に合わせて集まってきた。 午前九時を過ぎたころ、祭りを告げるトントントトンという「触れ太鼓」とともに神道(じんどう)地区の男たち一〇人が、しめ縄や御供え物を持ち、一列になって山に向かって歩き始めた。農道脇の整備された階段を登り、それに続く参道を進むと、「これより先 女人禁制(にょにんきんせい)」という立て札が見えてくる。男たちは、立て札近くの樹木に結界を示すしめ縄を張り、前立(まえだち)とよばれる磐座がある祭場へと向かい、五穀豊穣を祈願する。

 この神事で興味深いことは、磐座祭祀とともに、未だに「女人禁制」という結界が存在していることだ。結界山とか、潔戒山ともよばれ、日本に残された数少ない女人禁制の山としても知られる石仏山だが、そもそも女人禁制という風習は、いつごろから存在したのだろうか。

 元始、女性は実に太陽であった……と表現したのは、女性解放運動の先駆者として知られる平塚らいてうだが、八世紀以前の日本は、女性を蔑視する観念はなく、神事においてもその地位は高かった。皇祖神とされるアマテラスはもちろん、古代史を彩る卑弥呼や神功皇后を筆頭に、推古天皇や持統天皇など、枚挙にいとまがない。いわば、土偶などにみられるように、縄文時代から引き継がれてきた「産む性」である母系社会の象徴でもあったと言っていい。

 そうした観念が大きく変化したのは、仏教が伝来してからだという。詳しいことは省くが、仏教には女性を蔑視する差別的な要素が基層にあり、その存在が修行者の心を乱すとされ、出産や月経など、女性特有の生理現象(血)が忌避され、穢れの対象とされた。いわば、律令制の家父長制が定着する過程で、生じた風習であり、所産でもあったという。一八七二(明治五)年、政令が発布されて以来、そのほとんどが廃止となったが、今は、石仏山や大峰山、沖ノ島など、僅かにその名残をとどめているに過ぎない。 原始神道の形を今に残す石仏山だが、女人禁制という特異な風習が残る神事であることも付け加えておきたい。

4.初めての「取材」地

 小学生のころから、意味もわからないまま磐座と思われる岩石に興味をもち、大学のころ、それが地域の人びとに信仰されてきた「磐座」であることを知ることになるのだが、「取材」らしきものの始まりは、一九八九(平成元)年の二月一二日だった。当時、四二歳、いわば働き盛りともいえる年齢だが、なぜこのときに取材を始めたのかよく覚えていない。

ただ、これ以来、時間ができれば磐座を探し、出かけるようになった。当初は、子どもを連れて出かけていたが、そのうち、子どもがついてくるのを嫌がるようになった。よしんば、ついてきても、磐座近くの喫茶店や車の中で待っていることが多くなった。やがて、ついてきてくれるのは、家内だけになった。そうした「苦笑」を伴う思い出とともに過去の取材が甦る。

 私にとって初めての取材地といえるのは、神奈川県藤野町(現相模原市)の上岩に所在する岩楯尾神社だった。相模国の式内社である岩楯尾神社の論社のひとつだが、なぜ、最初の取材地がここだったのか、定かではない。ただ、自身のなかで「上岩」という地名と、岩楯尾という神社名が、岩という文字とともに磐座と強く結びついていたことは間違いない。

 取材メモをみると、神社近くで八〇歳の古老に会い、七つの奇石(磐座)が神社を中心に点在していることを聞き、探したことが書いてある。その時は四つしか見出せなかったが、古老からは、身籠った女が、七つの石を伝いながら、ここ上岩にたどり着き、子どもを産んだという話を聞いた。祭神に、石村石楯(いわむらいわたて)と、その妻・藤木姫(ふじきひめ)の名があるので、この姫のことかもしれない。

 社殿の背後、一段高くなった杉林のなかに、一メートル四方ほどの、七奇石のひとつ「鏡石」が存在する。山並みを想わせる凹凸がある石だが、石の傍らに「石盾社本宮」と刻まれた立石があり、神社の始原地であることを語っている。菱沼勇の『日本の自然神』によると、社殿の床下にも、巨石が先端部分だけ顔をだしていると書かれているが、確認できなかった。

 ただ、磐座信仰という観点から魅力ある神社だが、岩楯尾という神社名からすると、今一つ説得力に欠けると思った。『百選』にも記したが、論社のひとつ、楯のような岩壁上に所在する名倉の岩楯尾神社がそれに近いように思えた。もう三〇年も前のことだ。

3.河原石でできた「洲」の磐座

 前回、砂の磐座ともいえる上賀茂神社の「立砂」について触れたが、今回は、下鴨神社の「舩島(ふなしま)」とよばれる磐座について述べてみたい。いわば小石でできた「洲の磐座」ともいえるものだが、資料によると、「旧泉川の中州状地形に盛土と整地が行われ、一二世紀代に現状に近い形となった」とあり、小石を積み上げたような小さな島が、南口鳥居を入った右奥に存在する。島といっても周囲を奈良の小川が巡る、東西一八メートル、南北二五メートル、高さ一・六メートルの中州で、舩の形をしているところから舩島とよばれている。

 じつは、この舩島の存在は、京都在住の知人に教えてもらうまで知らなかった。私の磐座探訪を応援してくれる「同志」でもあるのだが、かれから、神社で最も「聖なる場所」と思われるところがあると聞き、案内してもらったことが、その出会いだった。 説明板:クリックして拡大 説明板には、賀茂斎王が大祭を前に、祭祀をおこなったところとあり、「古代祭祀遺跡 奈良殿神地(ならどののかみのにわ)」と書かれている。さらに、奈良殿神は、御供え物や器などを司る神であり、川の中の「舩」形の島を磐座としたとあり、神殿を設けない無社殿神地という旨が記されている。平べったい小石の島だが、この島を磐座とし、祭祀がおこなわれていたという事実に心を魅かれた。一二世紀代といえば、平安後期のころだが、神社の創始は奈良中期とされているので、おそらく、それ以前に遡る祭祀だったのではないだろうか。人為的とはいえ、そのころに中州のようなところに石の島がつくられ、磐座として祀られてきたという歴史は、下鴨神社の始原を暗示しているようで興味深い。

 『日本の神々』をみると、神社がある「糺(ただす)の森」は、本来は「タダスノヤシロ」と訓む河合社の森であり、「河合(ただす)森」とよばれ、河合社は「只洲(ただす)社」とも書かれたという。つまり、河合の洲の意であり、水を司る「洲の神」を祀るところであったことを示唆しているように思える。河合という文字が示すように、社地は賀茂川と高野川が合流する水分(みくまり)の地にあり、只洲という文字に秘められた意とともに、斎王が大祭の前に祭祀をおこなったという史実が、舩島の始原を語っているようだ。こうした、河原石を盛り上げたような洲の島も、磐座信仰のひとつであることを知っておきたい。

2.磐座とは何だろう

 磐座という言葉を知っている人は、ほとんどいない。私が磐座という言葉を使うと、ほぼ例外なく「イワクラって何ですか」と聞かれる。『広辞苑』には、磐座・岩座とあり、「神の鎮座する所。神の御座」と書いてある。が、多分、なんのことだかわからないだろう。愛用している『福武国語辞典』や『角川国語辞典』には載っていない。日常生活に馴染みがないからだ。『磐座百選』にも記したが、私が納得し、その基準としているものは、民俗学者の野本寛一氏が『石の民俗』のなかで定義しているもので、このように表現されている。

 神、神の憑依(ひょうい)祭祀施設にかかわる石、岩、岩窟などを一括した広義概念を磐座という語で示す。さらに、この中で、即神的認識の強いものを石神とし、依り代的認識の強いものを狭義的、本義的な磐座とする。さらに、施設的傾向の強いものを磐境とする。

 つまり、大きく分けて、磐座・石神(いしがみ)・磐境(いわさか)という分類はあるが、岩石や岩窟など、祭祀対象となる岩石全般に対する信仰を、イワクラと表現するというものだ。とはいえ、岩石とされるものは数限りなく存在する。大は、岩山や巨大な海蝕洞から、小は、石の極小ともいえる砂に至る。そうした岩石に対する信仰を、イワクラと表現していいのだと思う。

 京都、上賀茂神社の細殿(ほそどの)前に、立砂(たてずな)とよばれる円錐形の盛り砂が、対をなして存在している。神社の説明板には、「神様が降りられる依り代」とあり、盛り砂の頂点には松の葉が挿してある。円錐の形は、神社の背後にある神体山・神山(こうやま)を模したものだという。松の葉は、神籬(ひもろぎ)とよばれる神木にあたるのだろう。いわば、「賀茂の神」が降臨する神山の姿を表現したものでもあるらしい。身近な例としていえば、地霊を招く、地鎮祭の盛り砂が、その系譜をひくといわれる。

 立砂は当然のことながら、雨や風に弱い。形が乱れると、その都度、神職が境内を流れる「奈良の小川」の水で砂を固め直し、形を整えるという。こうした、いわば石の極小ともいえる砂も岩石信仰のひとつ、磐座といえるものではないだろうか。

1.磐座との出会い

 私は愛媛県の西部、瀬戸内海に面した長浜(ながはま)という港町で生まれ育った。肱川(ひじかわ)という愛媛県で最大の大河がつくった三角州のうえにできた小さな町で、廃藩置県までは大洲藩に属していた。今は埋め立てられて、その面影はないが、私が長浜を離れるまで、肱川の河口近くに、「江湖(えご)」とよばれる藩の船囲場(ふなかこいば)や御船蔵(おふなぐら)跡が、ほぼ原形を留めて残っていた。小学生のころ、釣りが好きで、よく江湖に出かけ、「どんこ」とよばれる小さな魚を釣ったことが記憶に残る。磐座と出会ったのは、「どんこ釣り」をしていた小学生のころだった。夏休みの行事だったが、出石(いずし)山(標高八一二メートル)の頂上にある、七一八(養老二)年開基と伝わる長浜最古の金山出石寺(きんざんしゅっせきじ)に登り、宿坊に寝泊まりし、お坊さんの講話を聞いたことが印象深い。

 その出石寺の境内に、「護摩岩」とよばれる巨岩があった。空海が護摩を焚いて修行したと伝わる磐座なのだが、小学生ながら、気になって仕方がなかった。もちろん当時は、磐座という言葉や意味など、知る由もないのだが、とにかくその大きな岩が印象に残っていた。その後も機会があれば出石寺に登り、護摩岩と対面した。やがて、その巨岩が、磐座とよばれる祭祀遺跡であることを知り、大学生のころには、もうすっかり磐座にはまっていた。ということは、もう半世紀にもなるだろうか。本当に長い付き合いだったと思わずにはいられない。

 護摩岩は、駐車場から山門前の石段に至る広場のようなところにどっしりと根を張り、鎮座している。高さは約三メートル、周り七尋(ひろ)くらいとあるので、一二メートルほどか。岩上のみならず、周囲にも樹木が生い茂り、巨岩の姿が覆い隠されているように見える。傍らには熊野権現の社があり、護摩岩の山門側には、修行僧の姿をした若き空海の像が立っている。  空海が二四歳のときに書いた処女作『三教指帰』に、空海の分身と思われる仮名乞児(かめいこつじ)という修行僧が登場し、「あるときは金嶽(かねのたけ)に登って、雪に逢って困窮し、あるときは石峯(いしづちのたけ)に登って、食糧が得られず困難を極めた」と修行生活を語る場面がある。ここにいう石峯とは、四国最高峰である石鎚山のことだが、もうひとつの金嶽が、ここ金山出石寺といわれている。私と磐座の出会いはこの護摩岩から始まった。

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