すみれ草のかがやき

https://fragie.exblog.jp/32417761/ 【すみれ草のかがやき。—―生者の気迫にみちた句集】より

ご近所の丸池公園の夕暮れの芒。風が吹いていたのでちょっとピンボケ。

「メレンゲではなくてコンニャクでお願いします」って言って電話を切った。

それを聞いていたスタッフの文己さんが、笑いながら言う。

「電話だけ聞いていると、どこかの食べ物屋さんと電話をしているみたいですね」。

「ああ、確かに!」で、実は、わたしは紙屋さんと電話をしていたのである。

ある用紙に名づけられた名前が、「メレンゲ」であり「コンニャク」であり、ほかにも使用しているのが「ソバ」、さらに「ライム」「バナナ」「モモ」「トウフ」などなどあってどれもわたしの好きなものばかり。楽しくなってくる。

この用紙をつくった人の遊び心に拍手をおくりたい。

「カカオ」や「キナコ」や「アケビ」などもいつか使ってみたいな。仕事をしても和んでくる。。。新刊紹介をしたい。

奥坂まや句集『うつろふ』(うつろう)

四六判上製カバー装帯あり 212頁 二句組

俳人・奥坂まや(おくざか・まや)(1950年生れ)の第四句集となるものである。前句集『妣の国』(2011年)より10年を経ての上梓となった。もうあれから10年が経つのか、、、と感慨深い。現在「鷹」同人。俳人協会会員、日本文藝家協会会員。NHK文化センターや朝日カルチャーセンターなどで俳句を教えておられる。現役で仕事もしておられ、たいへん多忙な日々であると思う。前句集『妣の国』上梓よりの10年間を著者の奥坂さんは、「あとがき」においてこのように語っている。

『妣の国』を上梓した平成二十三年には、東日本大震災という未曾有の災厄が起こり、今またコロナという未知の疾病(えやみ)の跳梁の最中です。この十年の間、同年代の友の死も幾度か経験し、特に小学校以来の親友の逝去に対しては、心の傷が疼いてやみません。

奥坂さんにとって明るくははなかった10年間である。震災やコロナの被害については、その傷みの度合いにもよるが奥坂さんのみならずわたしたちもその時間を奥坂さんと同じように経験はしてきている。しかし更に奥坂さんは多くの大切な人との別れもあった10年間だったのだ。いくつもの別れの痛みがその心身に刻印された10年間だったのだ。そして、

『妣の国』は、俳句の師や先達との別れ、両親の看取りなど、私にとって死者を送る句集でした。『うつろふ』は、自ら死と向かい合う句集となったと感じています。

本句集『うつろふ』について、著者自身の思いをつげている。70代となり死はいよいよ他人事でなく、死の影はわが身におよぶ年齢となりつつある。「気散じ」などによって死にゆく者として自身をごまかしたり目をそらしたりすることなく、真っ向から死に向き合う作者の見える句集となった。そういう意味においては生者の気迫にみちた句集であると私は思う。

 十薬の花はしづかに退かぬなり    プールより出づるや影がわれに憑く

 せつせつと桃むさぼりて穢れけり

最初の方の句を紹介したが、すでに生の手応えを十分に感じている作者がいる。「十薬の花」の句についてもそこに自己投影をしている作者を見る。死にゆく者としての認識をふかめながらも生のエネルギーを充満させて物に向き合う作者がみえてくる。それはただ生を謳歌するのとは反対に、「死」すべきもの、朽ちてゆくもの、との緊張関係のなかで自身の生を掴み取ろうするそういう能動性だ。安易な無常観など奥坂さんにおいては願い下げだ。

 ひるがほや死はただ真白な未来        炎天が炎天を押し上げてゐる

 曼珠沙華目をやるたびに殖えてゐる      本ひらくやうに冬青空仰ぐ

 万象枯れ人間の声なまぐさし         日の射してやや濁りたる氷かな

 女雛にも髪衰ふといふことあり

死に向きあいながら生きる「我」をきれいごとですまそうとはしない作者がいる。「死」は「真白」であっても、地上に存在しつづけるということは、汚れ穢れ崩れながらであることであり、それもまた死に対峙するエネルギーなのだ。

本句集は多分に演劇的な物語性をもつ句や、読み手をはっとさせるような一句のなかに飛躍のある句もあって、読者を飽きさせない。いくつかあげたい。

 やや老いて写真館出づ罌粟の花       銃声を誘ふごとき夕焼なり

 秋天にふと糸車廻つてゐる        鵙が鳴く天の何処かで扉(と )が開く

 桜咲く鏡のなかの方が広い

わたしは「罌粟の花」と「桜咲く」の句がすきである。とくに「桜咲く」の句はわかる。桜咲く季節であればこそ、鏡が映し出す桜の咲く世界は、わたしたちを招き入れようとする異郷の不思議さに満ち、それは鏡のこちら側よりもあるかに奥深く広い世界が展開していそうだ。一度は足を踏み入れてみたい、ああ、でもこわい、そんなことを思わせる鏡の中。

以下はわたしの好きな句。たくさんある中から、

 天高し軍手をはめてやる気になる     製本の小口きりりと秋日和

 膝に手を重ねて年を送りけり       深き淵へ降りゆくごとし稲の花

 寒晴の釘いきいきと打たれけり      啓蟄やどかどか干され柔道着

 ひろびろと波打つ布のやうに春

本句集の装釘は菊地信義氏。奥坂まやさんのこれまでの句集をすべて手掛けてこられた。

外側のデザインから、内側の本文まで。

菊地さんの装釘は、やはりその文字のレイアウトの美しさが際だっている。文字と文字の関係をこれほど綿密に案配し、美しく配置するデザイナーはいないのではないだろうか。また用紙の材質感にもこだわる。シンプルであっても重厚感がある。気迫と言ってもいいかもしれない。その気迫は、奥坂まやさんの表現者としての気迫とよく響き合っているとわたしは思う。

第一句集以来総ての句集を、最も心惹かれる装幀者である菊地信義さんに装幀していただけたことは、最高の喜びです。ありがとうございました。

と「あとがき」にある。

「うつろふ」という文字を支配するこの絶妙な色遣い。

さすがだと思う。

扉。

カバーの折り返し。

白の花布と白の栞紐。

 春の星この世限りの名を告ぐる

水を豊かに湛えたこの星において、束の間の生を共にする季語への思いも、ひとしお深いものとなりました。一日の生で終わる蜉蝣も、何十億年か存在する銀河も、季語はすべて、「うつろひゆくもの」「滅びゆくもの」です。私も「うつろひゆくもの」のひとつとして、願わくば死を迎えるその時まで、季語に捧げる俳句を詠み続けたいと願っております。(あとがき)

最近お目にかかることもできない奥坂まやさんに近影のお写真をおねがいしたところ送ってくださった。

奥坂さんのお住まいはふらんす堂の近くである。

むかしは、仙川をあるいていたりするとお会いしたことなどもあったのだが、最近はそんなこともなくなってしまった。残念である。

上梓されたご感想をうかがいたく簡単なしつもんをいくつかしてみた。

〇今回句集を上梓したことによって、見えてきたものあるいはことはありますか。

「あとがき」にも記しましたが、10年間の句をふりかえって、こんなにも「死」「死者」を身近に感じていたのだと驚きました。句集を編まなければ、過去の作品に目をやることはありませんので。

〇ご自身に課しているテーマはありますか。

ただただ、季語と交感し季語に喜んでもらえることを心掛けています。

〇今後の方向性は?

全く分かりません。

何年か後にまた句集を編む時に、こんな方向に来たのだと自分で驚くことになるのでしょう。 

 声は去り門は朽ちたりすみれ草

集中、とても好きな一句である。「声は去り」が人間のみならず声をもつ生あるものすべてを語っている。そこに朽ち果てた門。門とは人の暮らしの象徴か。まるで世界の終わりのようである。「すみれ草」がいい。ひとすじの光りを放っている。すみれ草に作者の希望のすべてが託されている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000