http://www.message.ne.jp/iwakurasp/blog.html 【磐座探訪雑記帳 池田清隆】より
50.伊勢神宮・巌社
二〇年に一度、アマテラス(天照大御神)の住まいを建て替え、引っ越すという神宮の「式年遷宮」は、山口祭(やまぐちさい)から始まる。山口祭は、遷宮の開始を告げる合図であり、用材を伐りだす御杣山(みそまやま)の山口に坐す神に、木を伐る許しを願い、遷宮の安全を祈る儀式のことだ。直近の遷宮は、平成二五年だったが、その号砲ともいえる山口祭は平成一七年五月二日におこなわれている。以後、八年間にわたり神事が続くことになる。
平安中期の歌人、藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』に、「いちじるき山口ならばここながら神のけしきを見せよとぞ思ふ」という歌がある。稲荷大社の下社に参詣したときのもので、霊験あらたかな山の入口ならば、ここでその験(しるし)を示し、願いをかなえてほしい……という意になる。山口には、山の神霊が坐すというのだ。祭りでは、神饌が供えられ、祝詞とともに鍬や鎌などで草木を刈る所作「刈り初めの儀」がおこなわれる。山に入る許しを乞うのだ。
赤福本店脇の新橋を渡り、神宮司庁へ向かうと、旧街道の分かれ道に樹木が生い茂った小山がある。岩井田山と呼ばれるが、ここに巌社(いわおのやしろ)という巨大な岩塊が横たわり、かつ、聳えている。巌を回り込むように斜面を登ると平坦地があり、巌の頭が顔をだしている。この前で山口祭がおこなわれる。矢野憲一氏の『伊勢神宮』によると、鎌倉期、古来よりの土豪である磯部氏が、巌を神体とする「山神岩社」で氏神祭りをしていたという。矢野氏は、巌社が内宮以前の聖地だったと推測しているが、私も同じ想いを抱いている。そのわけは、磯部氏という在地豪族の存在と、御杣山(神路山)の山口という場所にある。巌の裾から古墳時代の祭祀遺物が出土していることも内宮以前の祭祀を想わせる。さらに、内宮にはこれだけ巨大で、神秘的な巌は見当たらない。しかも、御杣山は中世以降、用材を求めて各地に移ったが、この祭場だけは古来より変わっていない。というより、変えられなかったというべきか。山口祭とは、遷宮の始まりながら、いわばアマテラス以前の原点回帰ともいえる名残なのかもしれない
いま、「式年遷宮」などの影響で、伊勢神宮ブームだという。最近、久しぶりに訪ねたが、巌社のあたりは訪ねる人もなく、久しく手入れされた様子もなかった。祭場となる広場には落ち葉が積もり、倒木や伐採された木々が放置されていた。麓から見上げると巨大な男根にも見え、頂上から見ると、丸みを帯びた姿が女性を想わせる。生命の根源である陰と陽が同居しているような「磐座」だと思った。ここには、ブームとは縁のない静謐な神気が漂っている。
令和2年1月10日 目次の先頭へ戻る
49.冬至正月
今年の冬至は一二月二二日だった。八ヶ岳南麓の山中に移り住んで春秋二〇年、いつのころからか、季節の移ろいを受容できる心構えといったものができてきた。たとえば冬至のころ、午後三時を回ると体感温度が下がり、山の端に夕陽が当たり始める。風の強い日が多くなり、散り積もった落ち葉が吹き溜まりをつくる。つくばいの氷が厚くなり、敷地を歩くとザクザクという霜柱の音がする。裸木と茶色を主体とした景色のなか、アセビ(馬酔木)とクリスマスローズの緑が彩を添え、雑木の枝の先には新しい命が顔をだしている。リスがドングリを地中に蓄え、小鳥が群れを成してついばむ。じんわりとだが、春を迎えるという気配が漂ってくる。
もういくつ寝るとお正月 お正月には凧あげて こまをまわして遊びましょう はやく来い来いお正月……。童謡「お正月」の歌詞だが、ここにも季節の移ろいを待ち焦がれる心境がつづられている。「はやく来い来いお正月」というくだりに、春を待ちわびる庶民の想いが凝縮されている。遠い昔、正月は冬至の日を指していた。人びとは長い経験のなかで、太陽が一年で最も南にかたより、正午の高さが最も低く、影が最も長く、日照時間が最短となることを見知っていたからだ。冬至に昇る太陽が「初日の出」であり、この日を境に少しずつ日の出が早くなり、日の入りが遅くなるということを。やがて中国・周の時代、冬至は新しい太陽の誕生日とされ、年の初めとする「冬至正月」の暦がつくられた。以来、漢の武帝が年の初めを立春に改めるまで冬至月が一年の正月とされた。一陽来復(いちようらいふく)という易の言葉も、そのことを表している。やっと陰気が極まり、陽気が戻ってくる……。
自宅近くにある縄文後~晩期の「金生遺跡」は、祭りの場であることがわかっているが、冬至の日、南西に位置する甲斐駒ケ岳(二九六七メートル)の頂に陽が落ちる。同時に、影をひいていた配石遺構も陽が当たらなくなる。つまり、遺跡は、甲斐駒ケ岳と日没が一致していることになる。祭りの場は、そうしたところを選んで営まれ、季節を測っていたというのだ。比べて、茨城県大洗町に鎮座する大洗磯前神社。祭神が依りついたという神磯には、冬至の日の出に向かって鳥居が立っている。この日を境に太陽の光が強くなり、春が近づいてくる。ワクワクして叫びたいような喜びが、岩礁の鳥居に象徴されている。太平洋を背景にした神磯の光景は、無限に広がる空と水平線にとけこみなんとも神々しい。冬至が過ぎると、歴史の節目となった令和元年も暮れていく。来年こそ、安寧な年であってほしい、そう願わずにはいられない。
令和元年12月25日 目次の先頭へ戻る
48.太郎坊宮と天狗
前項の観音寺山から南東に三キロほど、太郎坊山(三五〇メートル)という岩山がある。赤神山とも呼ばれるが、その中腹に「夫婦岩」という巨大な岩塊があり、太郎坊宮(阿賀神社)が鎮座する。ここに天狗の太郎坊が棲むというのだが、天狗とはそもそも何ものか。『広辞苑』をみると「深山に棲息するという想像上の怪物。人のかたちをし、顔赤く、鼻高く、翼があって神通力をもち、飛行自在で羽団扇をもつ」とある。加えれば、人をさらったり、悪さをすることもあるが、鬼のように殺したり、食べたりはしない。得体の知れない怖い存在ながら、ある部分好意的に受け止められ、禍をなすが、福を与えてくれる霊神としても信仰されてきた。
いろいろ調べてみると、おおよそこんなことが書いてある。天狗は、木霊(こだま)のようなもので、不思議な物音が天狗とみられていた。大木が倒れるような「天狗倒しの音」、「天狗の高笑い」、「天狗囃し」などと呼ばれているもので、特徴的なことは、呵々大笑することだという。大きな笑い声が聞こえるのだが、姿は見えず、気這いとして感じられる物の怪(物の気)と表現されている。深山の高い樹木の三又に居を定め、常に清浄を好み、剣術や兵法を学び、酒を好んで山中で宴会をおこなう。ときには、姿を隠して悪戯をすることもあるが、金品を略奪することもなく、逆に必要なものを与えることがあるという。とすると、京都の鞍馬山で源義経に兵法や剣術を教えたのもその類(鞍馬天狗)なのだろう。
さて天狗が棲むという夫婦岩。高さ二〇メートルという岩塊が八〇センチほどの裂け目でもって相対し、男岩と女岩による陰陽を成している。裂け目の長さは六メートルほどか。初めてこの情景を見たときは、巨大な女陰を想い描いた。嘘をつく者が通ると挟まれてしまうという俗信があり、自身を含め、誰でも身に覚えがあるようで、恐る恐る通る姿が印象深い。まるで閻魔大王に睨まれているような感覚だが、胎内くぐりといったほうが近いかもしれない。人がようやく通れるほどの産道(参道)のようで、その先に、社殿が鎮座する。いわば禊であり、生まれ変わったような心地になる空間でもあったろう。社殿から眺める蒲生野(がもうの)は、万葉の昔、天智天皇と大海人皇子(天武)が支えあっていたころ、額田王たちと遊猟をおこなったところとして知られる。帰路、振り返ると、円錐形をした岩山が雲の影に入り、まるで映画のセットのような家並みが印象に残った。人の営みと信仰の山が同居しているような光景、おそらく麓の人たちにとって、太郎坊天狗は恵みを与えてくれる「霊神」そのものだったに違いない。
令和元年12月10日 目次の先頭へ戻る
47.雨宮龍神社
織田信長が磐座を信仰していたのではないかと思い始めたころ、何度も安土城跡へ通い、安土山を歩いたことがある。どこかに、頂上に運び上げたという「蛇石」が埋もれているのではと思ったからだ。まだ大手道が発掘中で、全貌を現す前のことだが、そのときは安土山に連なる観音寺山(四三三メートル)にも足を延ばした。繖山(きぬがさやま)とも呼ばれ、てっぺんには巨大な磐座とともに、西国第三二番の札所である観音正寺という古刹があった。山中の随所に崩れかけた石垣があり、山全体を城塞化したような佐々木氏の城跡が遺っていた。
その観音寺山から北に連なる尾根沿いに、巨石を神体とする雨宮龍(あめみやりゅう)神社が鎮座する。かつては、八大竜王、降雨明神、雨の竜神などと呼ばれていたというが、雨乞いの神として信仰されてきた。神社への参道は、五個荘の石馬寺(いしばじ)口から始まる。途中で石馬寺と六所神社に向かう分岐点があるが、その先に雨宮龍神社へと延びる参道が延々と続いている。麓から、優に千段はあるだろうか、段差の大きい石段をひたすら登ったことを思いだす。やがて、尾根沿いの平坦地に出ると、巨大な岩塊が出迎えてくれる。おそらくこの岩塊も信仰の対象だったと思うのだが、神社の神体石はこれではないようだ。岩塊の先に鳥居があり、そこを登ると玉垣に囲まれた巨石が見えてくる。これが雨宮龍の神体だ。磐座と神籬が同居しているような空間だが、ここに龍の頭を想わせる巨石が顔を出している。
竜神信仰は、日本古来の水神(蛇)と古代中国の竜が習合して生まれたものだが、雨をもたらす神として篤く信仰されてきた。柳田国男は「竜王と水の神」において、水の神という呼び名の根源には、海神(わたつみ)を「海童」とか「小童」と書くように、妖怪ではない「河童」のような神格が存在したのではないか、と推測しているが定説はないようだ。ただ、妖怪以前の呼び名として、龍宮小僧、水神少童、ミヅチ(水霊)などという表現もあり、興味がつきない。
頂上からは、眼下に安土城跡を望むことができる。それにしても、なぜ支峰のような安土山に城を築いたのか。おそらくこのころの信長は、籠城という考えはなかったと思われる。天下はほぼ、かれの掌中にあったからだ。やがて、葺石を敷いた巨大古墳のように、全山を石で覆った総石垣の山に造り変え、頂には、あたかも神殿のような天主がそびえ立つ。が、皮肉なことにわずか三年後、本能寺において「天の主」に召されることになる。四九歳だった。意図したことではないかもしれないが、この「石山」が、かれの依代ともいえる奥津城となった。
令和元年11月25日 目次の先頭へ戻る
46.重森美玲という「磐座」作庭家
上古(じょうこ)ではどこの神社も社殿はなく、山中の巨岩などが神霊の宿る聖地とされていました。その場所を磐座、或いは磐境と言います……。重森美玲(しげもりみれい)の絶作、松尾大社の「上古の庭」に立つ説明文の一節だ。上古とは、遠い昔とか古代という意だが、上古の信仰空間である磐座を表現し、現出させた庭として知られる。事実、重森はこの庭を「磐座・磐境の庭」と語っている。庭という文字がはじめて文献に見えるのは、『日本書紀』の「斎庭(ゆにわ)」だが、高天原に存在するという「清浄なところ」を意味するという。神の庭とでもいうのだろうか。いわば、庭という言葉そのものが聖地という意を含んでいる。
八ヶ岳の山中で庭をつくり始めたころ、各地の庭を見て回ったが、重森という作庭家の力感溢れる大きさについていけなかった。生涯で作庭した数は、一九四に及ぶというが、もとより訪ねたのはその一部でしかない。が、立石を主体とした石組のあり様は、個性が強過ぎて馴染めなかった。いい意味で灰汁が強いというべきか、ほとばしるような勢いに、腰が引けるのだ。と言いながら、怖いもの見たさとでもいうのか、つい気になり、足が向いた。
出会いは、倉敷市の阿智神社に印された重森の「足跡」だった。境内の磐座や磐境を綿密に調査し、詳細な記録を残していたからだ。こうした祭祀跡を、日本庭園の源流として注目し、数多くの例を紹介しているが、かれを「磐座」作庭家と理解したのは、生家跡に遺る処女作の写真だった。二八歳の作品だが、巨大な立石を主体とした石組は、「吉備高島宮」の伝承地、児島湾に浮かぶ高島の磐座を彷彿させた。さらに、東福寺の「八相の庭」など、かれの視線の先には磐座がある、そう感じたのだ。生家跡から始まり、節目節目に磐座のような世界を表現し、松尾で締めくくったような作庭遍歴。これだけ、上古の世界を遊泳した作庭家をほかに知らない。
さて上古の庭について。七八歳の絶作ながら、上下左右に神気がみなぎり、力がほとばしっているような石組。それぞれが別の方向を向きながら、なにか語らっているようなざわめき。上古の世界ながらも現代的な造形美……。重森の磐座にたいする想いが、まるで神霊が漂うように伝わってくる。かれはここを作庭したとき、「神としての石の命令を受けて、石の言葉ならぬささやきに神経をとがらせ、松尾大社の猛霊の意のままに石を扱った」と語っている。松尾の猛霊とは、松尾山の頂に坐す「神跡磐座」のことだと思うが、その猛霊に導かれたのだろうか、石組が完成してわずか三か月後、心不全のため還らぬ人となった。
令和元年11月10日 目次の先頭へ戻る
45.上賀茂神社の神山
久しい以前から登拝することを切望し、『百選』の有力な候補と思いながら、断念したものに上賀茂(賀茂別雷)神社の神山(こうやま)がある。標高三〇一メートル。神体山であり、頂上に賀茂の神が降臨したという磐座(降臨石)があるのだが、禁足地で登ることができない、そう思い込んでいたからだ。神山の揺拝所として成立したという上賀茂神社。競馬(くらべうま)がおこなわれる馬場から拝していたにも関わらず、ついに登ることはなかった。
ところが、である。上賀茂神社の旧社家・梅辻家三八代当主の梅辻諄氏が、賀茂歴史勉強会文集・『みたらしのうたかた』に「神山と三輪山」という一文を寄せ、「禁足地であって、誰も登ることはできないと思われていたのだが……現代では祭祀の場ではないので禁足地としての掟はなくなった」と記していることを知った。さらに、自らの登山体験や降臨石の写真とともに、地図まで添付されている。賀茂縣主(あがたぬし)同族会の「賀茂縣主だより」にも、毎号のように降臨石の写真が掲載され、『山と高原地図 京都北山』には、茨谷町からの登山ルートが記されている。なんとも迂闊なことだが、そのときの「忘れ物」をしたような虚脱感をわかってもらえるだろうか。今回は『百選』の上梓以降に訪ねた、番外ともいえる探訪記となる。
神山へは、茨谷町の立命館大学柊野総合グラウンド口から頂上をめざした。ただ、登山道は見る影もないほど荒れていた。至るところに倒木が横たわり、道がほとんど消えている。ところどころに、目印のような赤いビニールテープが残っているが、地図に載っている登山ルートはどこにいったのか、そう思えるほどの荒廃ぶりだ。それでも、藪のような斜面をかき分けながら、ひたすら上へ上へと登り、なんとか頂上にたどり着いたときは、正直ホッとし、安堵した。
頂上の三角点から少し下った灌木の中に、ごつごつとした岩塊が、あたかも湧出したかのように顔を出している。年に二回ほど、縣主同族会の人たちが「神山奉仕」として、周辺を掃き清めているためか、神域としての厳かさは保たれている。降臨石の周囲には大小の岩石が群れ、もはや祭祀の対象ではないものの、未だ神気が漂っているように想える。いわば「しるべ」のない道なき道を、喘ぎながら登ってきたためか、本来の禁足地とは、このようなところをいうのではないかと思った。人が意図的に立ち入りを禁じるのではなく、自然の営みそのものが、結果として人を寄せつけないという「神意」のようなものを感じたからだ。別ルートに登り易い道もあるというのだが、神を拝することの有難さを、「畏る畏る」体感した登拝となった。
令和元年10月25日 目次の先頭へ戻る
44.天下人に珍重された「悲劇の石」
源平合戦のさなか、源氏が海峡の対岸、備前児島の藤戸(ふじと)に陣を張る平氏を攻めたとき、地元の漁師から浮州岩(うきすいわ)近くに浅瀬があることを聞いた佐々木盛綱が先陣をきり、平氏を破るという手柄を挙げる。このとき盛綱は情報が漏れることを恐れ、非道にも漁師を殺してしまう。にもかかわらず、この浮州岩は、一番乗りを果たした「藤戸石」として名を馳せる。のちに京都に運ばれ、権力者に珍重されるが、殺害現場にあった「悲劇の石」が、皮肉にも勝利を呼ぶ石として尊ばれたという話でもある。
しかし、だれがこの石を京都まで運ばせたのか。調べた限りでは、足利義満と義政の名が浮かんでくる。どちらも作庭に執念を燃やした権力者なので判断が難しい。手掛かりと思われることは、幼少の義満を支え、幕政を主導していた管領の細川頼之が、児島の対岸である讃岐の宇多津を本拠地とし、備前の守護を兼ねた時期があったということだ。義満が北山殿(金閣寺)を造営したときには、頼之の跡を継いだ頼元が「細川石」と呼ばれる奇石を寄進している。どうもこの辺りに「答え」があるように思えるのだが、知っている方がいれば教えていただきたい。
どちらにしても、将軍が取り寄せたという伝承から、名石としての遍歴が始まる。以後、この石は細川管領家に移り、織田信長、豊臣秀吉という「天下人」を渡り歩く。信長は足利義昭のために二条御所を築くが、そこに細川邸から藤戸石を運ばせている。最後の主は、豊臣秀吉。秀吉は信長亡きあと、この石を聚楽第に移していたが、亡くなる半年ほど前、「醍醐の花見」を思いつき、三宝院の守護石として運び込ませた。ここが、藤戸石の「安住の地」となった。
玄関から表書院に進むと、右手に手入れがされた庭が広がり、土橋の先に何だか偉そうな石が立っている。はるばる、藤戸から運ばれたといういわくつきの巨石だが、それだけではない特別な「意味」があったはずだ。前方を睨むように見すえ、なにか叫んでいるような風貌。肩を怒らせ、鎧武者を彷彿させるような佇まい。天下人は、この石に己の姿を重ね、あたかも自身の「依代」のような想いを抱いていたのではないだろうか。漁師の命を奪った石だが、勝利を導いた栄光とは比較にならない。そうでなければ、天下は取れぬ。とはいえ、穢れを帯びた石ゆえに、浄めの霊力への期待もあったろう。彫刻家であり、作庭家でもあった流政之の「作庭口伝」と題した詩に、「ひとりの王のための庭 人を殺す血のにほひを忘れんとつくりし……」という一節があるが、よく見ると天下人の「墓標」にも想えてくる。
令和元年10月10日 目次の先頭へ戻る
43.長明方丈石
できもしないくせに、ただ漠然と憧れている言葉がある。「隠遁」だ。「俗世間を捨てて、ひっそりと隠れ暮らす」という意だが、しがらみから離れて自由になりたいと想うだけ。ないものねだりのようなものだが、そんな生き方をした人物がいる。『方丈記』の作者である鴨長明だ。長明にちなむ「方丈石(ほうじょうせき)」を案内したい。
ところは、京都市伏見区日野。親鸞誕生の地とされる法界寺(ほうかいじ)近くの山中に、長明が隠遁したと伝わる草庵跡が遺っている。鎌倉初期のことだが、なぜか、その場所が今に伝わっているのだ。わけは、草庵が「方丈石」と呼ばれる巨石の上にあったためらしい。二百年ほど前の『都名所図会』に、「長明方丈石は日野村の東五町ばかり、外山の山復にあり。石床三間四面、高さ二丈許。一説に名を千引石(ちびきのいし)といふ」とある。上部の広さは約五・五メートル四方というから、方丈(四畳半ほど)の広さは確保できたのだろう。石の高さは五~六メートル、千引石と表現されているので、かなり大きい石と思われていたようだ。
ここに草庵を結び、「もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、自ら休み、自ら怠る。妨ぐる人もなく、また、恥づべき人もなし」という、世の厭わしさから逃れ、悦楽ともいえる孤独に浸るのだ。しかし、ここの生活がいかに過酷なものであったか、石の上に立ってそう想う。「しずかなるを望みとし」と強がりも言っているが、新月のころなど、フクロウや猿の声を聞きながら、漆黒の中になにを見ていたのか。月を眺めては故人を偲び、寂しさに耐え、窮乏し、自問しつつ終焉を迎えようとしている「さま」は心を打つ。とはいえ、命が尽きるまで食べなければならない。山菜を採り、木の実や落穂などを拾っていたようだが、近くに鎮守の萱尾(かやお)神社もあり、里人との接点はあったと思われる。おそらく、托鉢のようなこともしながら身過ぎをしていたのだろう。世を捨てたつもりが、世の人に助けられるという日々ではなかったか。
草庵跡には、「長明方丈石」と刻まれた石標と略歴を記した石碑が立っている。沢に沿う山道は荒れているが、それがかえって当時の面影を偲ばせる。訪ねたとき、成年の男女三人が、まるで謡曲のように抑揚をつけながら『方丈記』を朗読していた。巨石ゆえに、千引石と呼ばれてはいるが、いわゆる信仰の対象ではなかった。しかし、『方丈記』の愛読者にとって、ここはもはや「長明信仰」ともいえる聖地そのものに思える。長明はここで、春は藤波を見、夏は郭公(ほととぎす)を聞き、秋は日ぐらしの声、耳に満てり。冬は雪をあはれぶ……という最晩年の日々を生きた。享年六二歳。終焉のさまは不明だという。
令和元年9月25日 目次の先頭へ戻る
42.我が家の「タノカンサア」
庭の一角に、頬っぺたをふくらませ、にこにこと笑いながら、首を傾げるようにちょこんと立っている神さんがいる。握り飯のような顔をしているが、タノカンサア(田の神さあ)を模したと思われる石の像だ。後ろにまわると、男のシンボルを想わせる愛嬌者で、思わず手を合わせたくなる。九州の産だというが、それ以上のことはわからない。たまたま縁があって、はるばる八ヶ岳の山中に来てもらったが、環境の変化に驚いていることだろう。名の通り、田んぼのあぜ道などに祀られた石の像で、田んぼを守り、豊作を願う神として信仰されている。
調べてみると、かつての薩摩藩(南九州)を中心とした事例が数多く紹介されており、さらに大護八郎の『石神信仰』に詳しい報告がまとめられている。それによると、比較的新しい神さんで、江戸中期に薩摩藩領で発生したものらしい。大護は「近世に入って諸々の石神が全国的に造立されるようになったにもかかわらず、その姿を本州に見ることはほとんどない」とし、「旧島津藩領に数多くの丸彫りを主とした田の神像があることは、石神信仰の上から極めて注目すべきこと」と記している。さまざまな形があるようで、おおむね僧侶型、神主型、農民型に分けられるという。我が家のタノカンサアは、托鉢をしている僧侶を想わせ、苔むしてはいるが、比較的新しいように思える。小ぶりで、簡素なつくりなので、個人が所有していたものだろうか。
長袴をはき、藁でできた甑簀(しき)をかぶり、首に頭陀袋(ずだぶくろ)をかけ、右手にシャモジのようなもの、左手に飯椀を持っている。後ろ姿は、なるほど逞しい男のシンボルそのものだ。簡略化されているが、それなりに特徴をとらえている。小野重朗の『田の神サア百体』をみると、その数千五百体以上といい、白く化粧したもの、赤い着物を着たもの、ベンガラで顔を着色したもの、様々な事例が紹介されている。が、石像がつくられる以前は、自然の石や一抱えほどの丸石を置いて祀っていたという。なかには、自然石に顏を描いたものもある。
やはりそうか、と思う。私たちの祖先が、竪穴式住居に石棒(男根)を立てたように、丸石を道祖神にみたてたように、田んぼのあぜ道に自然石を立て、稲の生育を託し、豊作を願ったのだろう。それが僧侶や神主などを模した石像に変わり、やがて農民の姿に変化したと思われる。さらに興味深いことは、タノカンサアは、神ではあるが神ではない、きわめて人間くさい神といわれていることだ。我が家の「タノカンサア」を見てほしい。なんとも穏やかで微笑ましく、思わず頬ずりしたくなるではないか。土の臭いと体臭を感じる庶民の神がここにいる。
令和元年9月10日 目次の先頭へ戻る
41.バラバラに割れた「磐座」
由緒ある「磐座」があるのに覆われていて見えない。大阪の磐座を調べていたとき、気になっていた神社のことだ。坐摩と書いてイカスリと訓むのだが、地元では「ざまさん」という通称で親しまれている。大阪のどまんなか、御堂筋と中央大通りの交差点近くに鎮座する。ただ、この地は豊臣秀吉が大阪城を築く時に、替地を命ぜられたところで、もとは大阪城近くの石町(こくまち)にあった。現在でも「お旅所」として祭祀が継承され、坐摩神社行宮(あんぐう)と呼ばれている。古代のコクフ(国府)が転じてコクマチ(石町)になったという説もあるのだが、ここに行宮ゆかりの石が存在する。神功皇后が休息したという「鎮座石」だ。
気になっていたのは、石の形状と祭神のことだ。なんともややこしいが、坐摩神とは、宮中の地鎮祭に登場する五座の神を総称した神名とされ、土地を守る意の居所知(いかしり)が転じたものだという。『神道事典』には、神武天皇が宮中に大宮地之霊を祀ったのが起源といい、神功皇后のとき、行宮付近に鎮座したという。でもなぜ、この神が祀られたのか。山根徳太郎は『難波の宮』で、応神の「大隅の宮」は、現在の行宮あたりとし、仁徳の「高津宮」も、大隅宮からわずか一・五キロの法円坂にあったと推測している。ヤマト王権の重要拠点である難波津にも近い。いわば、王権の聖地ともいえるところだ。宮地を鎮め、宮都の弥栄を願い、地鎮の神(坐摩神)を祀り、依り代としての鎮座石だったのではと、想いが廻る。
さて、行宮は小さな祠となり、ビジネス街の只中、ちょこんとビルの谷間に佇んでいる。しかし肝心の石は、祠の前、アルミ柵で囲われて拝することができない。享保年間に編纂された『摂津志』には「方五丈許」とあり、かつては、この石の上に社殿が営まれていたという。隙間から覗くと、石らしきものが見えるのだが、全体はわからない。が、どうもバラバラに割れているらしい。皇后ゆかりの「聖石」ながら、なぜか。安産の神でもあるので、「お守り」にするために割られたのでは、とも思ったが、神社に聞いたところ、意外にも「経年劣化です」という答えが返ってきた。長年の風雨により劣化が進み、ひび割れ、剥離したらしい。これ以上、割れるのを防ぐため、覆屋を設け、柵で囲ったというのだ。
そうか、磐座も劣化するのか……と、少し戸惑った。当たり前といえば、当たり前だが、磐座は単なる岩石ではない、堅固で永遠な存在という想いがあったからだ。自然崇拝の根源を成すような磐座。その磐座さえ、「大自然」の営みには逆らえない。形あるものはいつか必ず、大地に還る。そう鎮座石が語りかけてくるようだ。今回は、いわば「幻の磐座」となった。
令和元8月25日 目次の先頭へ戻る
40.大阪城の「蛸石」
織田信長が、桶狭間で今川に勝利したあと、美濃攻略のために築いた小牧山城が、発掘にともない近世城下町の源流としての姿を現しつつある。そのなかで、興味深いことは、城の中心部である主郭が上下二段からなる総石垣づくりだったということと、主郭の入口に城主の権威を示す巨大な「鏡石(かがみいし)」が存在していたという事実だ。信長がその創始といわれるが、権威の象徴とともに、邪気の侵入を防ぐ塞神(さえのかみ)を模しているようにも思える。
加賀藩で石垣普請の穴生方(あのうがた)を勤めた後藤家に伝わる「後藤家文書」に、「鏡石ところを知りて築くべし、必ず神もいますぞと知れ」とあり、さらに「鏡とは石垣づらの惣名なり、全て面を鏡とは知れ」と続いている。また「陰陽和合之縄張積方」といった表現もある。陰(横石)と陽(縦石)を組み合わせると完全になるというのだ。石垣なれども、単なる石垣にはあらず。石には神が宿っている。神の霊力でもって城を守る、その心得のもと、石と向き合わねばならない……、そう語り継がれているのだ。なんと意味深い言葉だろうか。
鏡石を代表するものに、大阪城桜門枡形にある「蛸石(たこいし)」がある。城内でもっとも大きなもので、高さ五・五メートル、横一一・七メートル、畳約三六枚分だという。全国一の大きさを誇る。岡山藩の池田忠雄が、領内の犬島から運んだもので、城内にある巨石のほとんどが犬島や小豆島など、瀬戸内の島々から運ばれたものだという。
もうひとつ紹介したいのは、名古屋城の鏡石。東二之門の正面にあり、俗に「清正石」とよばれている。高さ二メートル、横六メートル、畳約八枚分という。ただ、ここを担当した施工大名は、黒田長政なので、「長政石」とすべきだが、そうでないのは、清正の人気にあやかったものらしい。清正は、天守の石垣を担当したが、その見事な出来栄えから「清正流三日月石垣」と呼ばれている。城内で一番大きな石だが、それでも蛸石の四分の一ほどの大きさでしかなく、全国では一四番目だという。一番から一三番目までは、すべて大阪城にある。なぜだろうか。
名古屋城は、関ケ原合戦のあと、家康が大坂の豊臣に備えたもので、軍事的要塞の役割が大きい。比べて大阪城は、豊臣を滅ぼしたあと、その痕跡を消すかのように、秀吉が築いた城の上に土を盛り、再構築したものだ。戦う城より、徳川の力、権威を見せつけるものでなければならない。とにかく、すべて「でかいもの」がよかったのだ。結果、これ見よがしに名古屋城を上回る巨石が集められた。権威と見栄には、とかく労力とお金がかかるものだ。
令和元年8月10日 目次の先頭へ戻る
39.神さまの「置き土産」
昔、オオナムチ(大汝命)とスクナヒコネ(小比古尼命)が、「堲(はに)を担ぐのと、糞(くそ)をしないで行くのと、どちらが遠くまで行けるか」と競ったとき、オオナムチは糞をしない方を選び、スクナヒコネは堲(粘土)を担ぐ方を選んだ。数日後、オオナムチは「もう我慢ができない」と座って糞をした。そのとき、スクナヒコネも笑いながら「わたしも限界だ」と言って堲を岡に投げ捨てた。だから、堲岡(はにおか)と呼ばれ、糞をしたとき、笹がはじけて着物にくっついたので、波自賀(はじか)村と名づけた。そのときの堲と糞は、今も石となって残っている……。『播磨国風土記』に載る、神さまの「我慢比べ」だ。
なんとも天真爛漫な話だが、四年ほど前、堲が石になったという大岩を訪ねた。神河町比延(ひえ)に鎮座する日吉神社だ。オオヤマクイ(大山咋命)とともに、オオナムチとスクナヒコネを祭神とする。風土記にはさまざまな地名伝承があるが、いわば、これだけ尾籠(びろう)なことを、微細に伝える例をあまり知らない。堲はそれなりに理解できるが、糞まで石になるという話は、滑稽でもある。神さまのことながら、地元としてはあまり喜ぶべき伝承ではなかったかもしれない。ただこうした「下ネタ」は、人びとの口にのぼりやすく、好奇さとともに愛される要素を含んでいる。つい「神さんがナ……」としゃべりたくなるのだ。
岩山は、神社に隣接する民家の背後に聳えている。遠くから見ると、樹木に覆われており、よくわからない。民家を訪ねたところ、ご主人が在宅しており、快く案内してもらった。民家の裏庭のようなところで、覆いかぶさるように岩塊が迫ってくる。高さ、幅とも二〇メートル以上とされるが、間近すぎて全容が見えない。と、書いたが、最近、樹木が伐採され、巨大な岩塊が現れたことを知った。写真を見たが、むき出しになった岩は、なぜか気恥ずかしい。全容が見えなかった光景を知るだけに、神さまの秘密が暴かれたようで、落ち着かない。「秘すれば花」ではないが、隠されてこその「はなし」だと思うのだが、皆さんはどう思われるだろうか。 風土記によると、土地の肥沃度は、最下級の「下(しも)の下」とあり、痩せた土地だったことが記されている。これにちなみ、『古代播磨の地名は語る』に面白い説が載っている。痩せた土地なので、オオナムチは肥料(人糞)を運び、スクナヒコネは粘土によって水路や農地改良をしようと頑張ったが、途中で断念し、不成功に終わったというのだ。日本国の基礎を創ったとされる二神であっても、「できないこと」があったということか。
令和元年7月25日 目次の先頭へ戻る
38.石坐の神山
イワクラという言葉は、磐座・岩座・石坐・石位などと表記されるが、神さまが座る石のことだと理解すればいいと思う。磐・岩・石という文字が使われているが、どれもイワと訓む。たとえば磐座という文字について。磐とは堅固なことを称える意を含み、座(くら)とは神を迎えるところを意とする。堅固で永遠な存在であってほしいと願う言葉でもあるのだろう。
……石坐(いはくら)の神山(かみやま)といふは、此の山、石を戴く。又、豊穂命(とよほのみこと)の神在(いま)す。故(かれ)、石坐の神山といふ……。
これは、『播磨国風土記』神崎郡(かむさきのこおり)に登場する「石坐」だ。
ここにいう「石坐の神山」は、姫路市香寺町に所在する。風土記には、的部(いくはべ)の里と記されている。的部とは、現在の香寺町岩部(いわべ)が遺称地というが、その響きそのものが石坐という気這いを伝えている。山頂近くに石坐とされる岩壁があり、基部に毘沙門堂がある岩屋があるため毘沙門山(二三一メートル)と呼ばれている。かつては、近くに岩蔵山万福寺があったため、岩蔵山とも呼ばれていたという。これも石坐に因むものか。ただ、岩壁は、頂上に近いけれど、いわゆる頂上ではない。このあり様は「石を戴く」という描写にはそぐわない。しかし、頂上にはそれと思われる巨石はないという。とすると、やはりこの岩壁を石坐と表現したのだろう。高さは約八メートル、横幅は一五メートルほどだろうか。大きく三つに割れたような岩盤の基部は岩屋になっており、割れ目には祠があり、窪地には水が溜まっている。こうした岩壁を古代の播磨人は「神在す石坐」と感応したのだろうか。
ところで『播磨国風土記』は、『古事記』より新しいものの、『日本書紀』より古く、日本最古の人文地理書といわれていることをご存知だろうか。ちなみに『古事記』は七一二年、『播磨国風土記』は七一五年、『日本書紀』は七二〇年の完成とされる。以前も触れたが、風土記の編纂は、今から一三〇〇年ほど前、和銅六(七一三)年に始まる。この年、全国六〇余国に、地名に二字の好ましい字を用い、地名の由来、特産物、土地の肥沃度、古老の伝承などをまとめて報告するよう詔がだされた。二年後、全国に先駆けて播磨国から報告書が提出された。これが今に伝わる『播磨国風土記』だ。この功績の背後には、楽浪河内(さざなみのこうち)という有能な官人の存在が指摘されている。国府に勤める百済系の渡来人二世だというが、百済国の滅亡が、結果として日本文化の醸成と発展に寄与したことは否めない。
令和元年7月10日 目次の先頭へ戻る
37.関守石という結界
八ヶ岳南麓に家を建てたとき、和室に面した坪庭に、飛石を打った。そのとき、庭の師匠でもある「作庭処かわぐち」の川口さんが、関守石(せきもりいし)をプレゼントしてくれた。球形に近い座りのよい石で、置いたときから坪庭の景色が引き締まり、辺りの空気が「ぴーん」と張りつめたように感じた。画竜点睛とは、このようなことか、そう思った。
ここから先には行かないでほしい……と、さりげなく訴えている小さな石。茶室という聖域に至る道すがら、飛石などの岐路に、据えられる石のことで、関守石と呼ばれる。内と外、聖と俗とを区切る「結界石」でもあるという。跨ごうと思えば、跨ぐことができるのだが、だれもそれをしない。というより、できないのだ。それをしないことで、無言のまま、本来の正しい道に導いてくれる。阿吽の呼吸、言わずもがなの世界がそこにある。
関所を守る「関守」に由来するというが、留め石、置石、関石とも。この思想は、茶庭の手水鉢(ちょうずばち)にも当てはまるという。手水することによって、心身の穢れをすすぐことを意味し、心のけじめ(結界)をつけ、禊に通じる。始まりは千利休とされているが、利休のころは、このような形ではなく、壺や香炉を「関」の印として茶室の入口に置き、また、単に飛石の上に小石を二個のせただけと伝わる。
神代の昔、亡くなったイザナミ(伊邪那美)を黄泉の国に訪ねたイザナギ(伊邪那岐)は、穢れたイザナミから逃れるため、黄泉の国との境を、巨大な「千引(ちびき)の石(いわ)」で塞いだ。ここから先に来てはならない、本来居るべきところに留まってほしいと、この世とあの世の結界を巨石に託したのだ。その大きさは比べようもないが、ここに、関守石の原点をみる。そうしたことが、邪神の侵入を防ぐ塞神(さえのかみ)や集落の境を守る道祖神に通じ、聖と俗とを結界する関守石に繋がっているのだろう。
さて、我が家の関守石。赤子の頭ほどの丸石を、ワラビ縄で四方結びにしたもので、結び手がチョンマゲのようにひょいと立ち上がっている。簡素な作りながら、味わい深く、凛とした気品が漂う。小さいけれど、周りの風景に溶け込み、その存在感を訴えている。だれもがもち運びができる大きさでありながら、それなりの重さがあり、安定感がある。実と美を兼ね備えた優れものだ。あくまでもさりげなく、でもその「心」が理解できなければ意味をなさない。心のけじめを小さな石に託したもの、それが関守石だと理解する。
令和元年6月25日 目次の先頭へ戻る
36.柳生の里
同じような経験をした方も多いと思うが、高校から三十代後半、夢中になって「歴史小説」を読んだことがある。笑われるかもしれないが、ある作品では、普通の姿勢ではもったいなく、正座をして読んだことを思いだす。出会いは、高校一年の夏、吉川英治の『宮本武蔵』だった。以来、海音寺潮五郎、山本周五郎、井上靖、大佛次郎、司馬遼太郎、津本陽、藤沢周平など、むさぼるように読んでいった。新刊を待ちきれず、発売日になると書店に駆けつけたものだ。
そうしたなかで、いつしか「柳生」という地名が記憶の中に沈殿し、その想いが淡い景色のように浮かんでは消えるようになった。池波正太郎の剣聖、上泉(かみいずみ)伊勢守を描いた『剣の天地』に、柳生に招かれた伊勢守が「まるで、夢の中にでも出て来るような、小さな、可愛ゆい土地じゃ」と感嘆する場面がある。さながら、桃源郷のような山間地だが、いつか訪ねてみたい、そう思った。やがて、あらためて柳生の存在を意識するようになった。数多くの「磐座」が息づいていたからだ。そのひとつ、天石立(あまのいわたて)神社を紹介したい。
柳生家の菩提所である芳徳寺の近く、まさに巨石重畳、戸岩谷と呼ばれる神域がある。ここに前伏磐、前立磐、後立磐という三つの巨石が存在する。天岩戸(あまのいわと)の扉が飛んできたという伝説もあり、「戸岩さん」とも呼ばれるが、神社の神体として祀られている。
じつは、紹介したいのは、この戸岩ではない。ここからさらに奥へ進むと杉木立の間に二つに割れた巌が見えてくる。俗にいう「一刀石(いっとうせき)」だ。長さ八メートル、幅七メートル、高さ二メートルだという。「柳生新陰流の始祖、柳生宗厳(石舟斎)が天狗を相手に剣の修業をしていて、天狗と思って切ったのがこの岩だった」と記されている。天狗を相手にしたかどうかは別にして、石舟斎がここで修業に励み、新陰流の奥義を極めたことが今に伝わる。
気になるのは、場所と形状の異様さだ。神社は、谷の入口付近だが、一刀石は谷の奥に位置する。いわば、奥宮ともいえるところだ。三つの巨石は、天磐戸別(あまのいわとわけ)命、豊磐門戸(とよいわかど)命、櫛磐門戸(くしいわかど)命とも称しているが、もとは同一神の別名であり、「この神は御門の神なり」と『古事記』に載る。ということは、一刀石を守護する、いわば神門のような存在だったのではないだろうか。森厳とした谷間に横たわる、引き裂かれたような巨石。孵化寸前の卵のようにも見え、今にも天岩戸のように裂け目が開き、何かが現れるような気這い。こうしたドキドキするような感覚が一刀石の始原に思えてくる。
令和元年6月10日 目次の先頭へ戻る
35.巌を押し分けて出で来りき
新天皇が即位し、「令和」と改元された。初代とされる神武から数えて一二六代という。こうした代替わりでは、即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)など、さまざまな行事がおこなわれてきた。なかでも大嘗祭は、一世一代限りの儀式として荘厳化された。新穀をもって神々を饗する収穫祭に起源があるとされ、即位後に初めておこなう新嘗祭(にいなめさい)を、年ごとのものと区別して大嘗祭と称するようになった。区別されたのは、天武・持統朝のころだとされる。今回は、大嘗祭に欠かせぬ「クズ」と呼ばれた「山の民」がいたことを紹介したい。『記・紀』などに、国巣、国樔として登場する土着民で、国栖、国主とも表記された。
神武のおくり名は、イワレビコ(磐余彦)だということは前項でも述べた。イワレビコが熊野から吉野に至ったとき、三人の「国つ神」に出会うが、そこにクズの祖とされる山の民が登場する。『古事記』に「また尾生ひたる人に遇ひたまひき。この人巌を押し分けて出で来りき」とあり、「汝は誰ぞ」と聞くと、「僕(あ)の名は石押分之子(いわおしわくのこ)」と答え、天つ神の御子が来ると聞き、出迎えにきたというのだ。「尾生ひたる」とあるので、毛皮を腰に巻いていたのか。それにもまして、巌を押し分けて出てきた「石押分之子」という表現が意味深い。
嬉しかったはずだ。ここまで、さまざまな受難を乗り越えてきたイワレビコ。精神的にもぎりぎりの状態だったと思われる。そうしたとき、土着の神が出迎えてくれた。敵の本拠地はすぐ近くに迫っている。つかの間の安らぎであり、純朴なもてなしは心に沁みたことだろう。のち、この地は、天武や持統がこよなく愛した「宮滝」としてその名を遺す。
宮滝の柴橋から上流を眺めると、「岩原」と呼ばれる岩盤が両岸から川にせりだし、裂け目のような峡谷を成している。絶景だが難所でもあった。クズにとって、屹立する岩盤は、信仰の対象であり、聖地でもあったのだろう。イワオシワクノコは、聖地である岩原で出迎えたのではないだろうか。それがまるで「巌を押し分けて」出てきたように見えたのだ。
さて大嘗祭は、大嘗宮を造営して祭場とする。核心をなすのは「大嘗宮の儀」と呼ばれるもので、皇祖神と初穂を共に食し、祖霊と合体するという秘儀にある。この儀式にクズが招かれ、御贄(みにえ)を献じ、山の風俗を色濃く残す「古風」と呼ばれる歌舞を奏した。でもなぜ、クズが招かれたのか。柳田国男は『山の人生』で、「山から神霊を降すため」と考察したが、基層にあるのは、「巌の神」ともいえるイワオシワクノコとの出会いだったと思われる。
令和元年5月25日 目次の先頭へ戻る
34.磐余と大津皇子
五年前に上梓した『古事記と岩石崇拝』の取材をしていたとき、足繁く通った場所がある。古代、磐余(いわれ)と呼ばれ、ヤマト王権がこよなく愛したところだ。飛鳥に宮都がおかれる以前、五代にわたって宮が置かれ、王権の「聖地」ともいわれている。磐余の範囲はさまざまな説があり、特定されてはいないのだが、おおよそ桜井駅の南を流れる寺川から天香具山(あまのかぐやま)にかけての地域を指すようだ。なかでも丹念に歩いたところは、谷・阿部・吉備とよばれる地域で、「磐余山」に比定される阿部山の周辺にあたる。いわば、古代史の懐に抱かれたようなところなのだが、隣接する飛鳥にくらべ、なんとも影が薄い。
磐余とは、磐が余ると書くが、岩石の所在を意味するといい、イワムレ(石村)、つまり「岩が群がっているところ」を意味するらしい。ただ、そこがどこなのかわかっていない。神武天皇の和風諡号(しごう)は、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)とされるが、当初は、イワレビコ(磐余彦)、つまり、「磐余の漢(おとこ)」とよばれていたのだろう。でも、なぜ磐余が王権の聖地とされたのか、なぜ神武は磐余彦とよばれたのか。小著にも書いたが、初期のヤマト王権は、三輪山のような神奈備信仰と磐座祭祀をおこなっていたと考えており、どこかに岩が群れていた「痕跡」があるのでは、と思ったからだ。その想いはいまも続いている。
イワムレの痕跡は見つからなかったが、『日本書紀』に、イワレビコが大和に至ったとき、敵対する兄磯城(えしき)の軍が磐余邑(いわれのむら)に溢れていたという記述があり、磐余邑の場所が、吉備の春日神社周辺とされている。近くには、「磐余の池」もあったというが、その神社に謎の「磐座」が祀られている。拝殿に掲げられた祭神の筆頭に、「磐座大津皇子」という神名があり、社殿の奥にしめ縄が張られた立石が垣間見える。この立石が、皇子の磐座なのだろうか。天武天皇の皇子ながら、天武亡きあと、叔母である持統天皇によって謀反の疑いをかけられ、申し立ても許されないまま、磐余にあった自宅で処刑された。
百(もも)伝ふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ……辞世の歌だ。今日を限りとして死の世界に赴くという、血を吐くような歌を残し、従容として死に臨んだという。二四歳だった。亡骸(なきがら)は、当初、馬来田(まくだ)に葬られ、のち、二上山の雄岳に移葬されたという。とすると「磐座大津皇子」とはなにを意味するのだろうか。磐余という地名とともに、謎を秘めた「皇子の磐座」に想いがめぐる。
令和元年年5月10日 目次の先頭へ戻る
33.「虫喰岩」と呼ばれる奇岩
なんとも怖い話だが、「熊野詣」の途中で餓死してしまった亡者の魂が、ダル(餓鬼)と呼ばれてうろつき、旅人に取り憑くことがあるという。覗くと飢餓感に襲われるという「餓鬼穴」の存在も伝わる。でも、なぜ取り憑くのか。亡者が生者と重なり、果たせなかった熊野詣を託すためなのか。そうしたダルがうろついているような岩山が、「大辺路」の古座・地蔵峠ルート、池野山という集落に存在する。魔物に喰われたという「虫喰(むしくい)岩」だ。
さて、これは奇岩というべきか。怪石と表現すべきか。なんとも奇妙で得体が知れない。角度によっては醜く歪んだ人面のようにも見える。亀裂を伴う穴だらけの形状は奇怪である。この珍しい造形を美観と感じる人もいるようだが、不気味さに目を背ける人もいるという。が、ただ珍しいだけではない、なにか怪しげな奇(く)しき岩という印象が強い。「奇」という文字が並んだが、それだけ奇妙奇天烈(きてれつ)な存在なのだ。説明板によると、「熊野カルデラ」の形成に伴い、約一五〇〇万年前にマグマが噴出したもので、幅約八〇メートル、高さ約三〇メートルだという。長年の風雨などによって浸食され、虫が喰った跡のように変化をとげた自然の造形美と説明されている。こうした風化穴を、地質学では「タフォニ」と呼んでいる。
『紀伊続風土記』の三前郷(みさきのごう)に、近くの「ボタン岩」とともに、「巌の奇形殆書画の如し」とあり、「土人是を虫喰岩といふ。大石所々穴をなして、其形状、蟲(むし)の食めるが如く最奇形あり」と記されている。奇形だけれど、書画のようだと驚嘆しているが、祭祀の対象とはされていない。ただ、人智の及ばない「不可思議」な対象と思われていたようで、岩の基部に移されたが、かつては、頂上付近の穴に祠が置かれ、観音像を安置していた。また、穴の開いた小石を供えて念ずれば、耳の病気が治ると言い伝えられている。
野本寛一氏は『熊野山海民俗考』で、こうした岩壁を、「磐座以前」ともいうべき、信仰や祭祀の対象には至らないものの、形状をもって命名をされ、景仰の対象となったものと考察している。祭祀の対象ではないが、「特別視」された存在だというのだ。出会ったのは、那智の滝から古座川の河内島へ向かう途中でのこと、岩山が視界に入ってきたときから、その異様さに気がついていた。「これはなんだ」というのが第一印象だった。そうした驚きは、熊野古道を歩いた旅人も同じだっただろう。神聖視されてはいないが、なぜか奇妙な存在が気になる。思わず立ち止まり、仰ぎ見ざるをえない。「プレ(前)磐座」のような奇岩がここにある。
平成31年4月25日 目次の先頭へ戻る
32.那智の滝
初めて「那智の滝」を訪ねたときの印象は、「音」という文字そのものだった。ドーンという地鳴りのような滝の音は、遠雷のようにどこまでも追いかけてくるようで、滝から遠く離れた阿弥陀寺まで聞こえていたような記憶がある。今でも、那智の滝と聞くだけで、不気味だった阿弥陀寺とともに、ドーンという音が耳の奥で鳴っているような気がしてくる。
さて、もう十年も前のことだが、那智の滝でどうしても確認したいことがあった。滝が流れ落ちる岸壁の姿だ。なぜこの滝が神体とされてきたのか、そのわけは、滝とともに、滝を受けとめる岸壁にあるのではないかと想っていたからだ。見上げると、三筋の流れが途中で合流し、半ばで岩盤につきあたり、千々に乱れている。じっと見ていると、飛沫(しぶき)の奥に、それらしきものが浮かんでくる。高さ一三三メートル、日本一の落差を誇り、オオナムチ(大己貴命)を祭神とし、本地仏を千手観音とするが、神仏分離まで、飛瀧(ひろう)権現とよばれていた。地震のため崩落したというが、かつて岩壁には千手観音に見立てられた岩塊があったという。その原形が残存しているのではと願っていたが、幸いにもその面影はまだ遺っていた。
滝に詣でたひとりに、「二の滝」近くで修行をしたという花山院(かざんいん)がいる。かれが詠んだ歌に「石走(いわばし)る滝にまがひて那智の山高根を見れば花の白雲」というのがある。「石ばしる」は、神奈備山などにかかる神事の枕詞とされるが、ここにいう石は滝の岩壁を指しているのだろう。藤原道兼にだまされて、わずか二年で退位、出家したあとに詠んだものだが、桜を愛でる心境から、もう既に、その無念さから解き放たれた歌のようにも思える。
もうひとり、やはりこの世に絶望して詣でた平維盛(これもり)がいる。かれは、清盛の孫であり重盛の嫡男ながら、源氏との戦のさなか、屋島の陣営を離脱し、高野山で出家する。最後に熊野詣でを希望し、那智の滝を訪れたあと、熊野の海に入水するのだが、『平家物語』に「三重にみなぎり落つる滝の水、数千丈までうちのぼり、観音の霊像は岩の上にあらはれて……」というくだりがある。ここにいう岩上の観音霊像こそ、先に述べた岩塊のことだと思われる。
古来より主役は滝そのものだったかもしれないが、背後にそびえる広大な岸壁があってこその滝だったのではないか。流れ落ちる長大な滝は、飛沫をあげて岩壁にぶつかり、轟音を発しながら水煙とともに舞い降りる。水煙の向こうには神の姿が浮かんでいる。これこそ「那智の神」だと観じたことだろう。滝と岩壁と轟音、三位一体となった飛瀧権現の神影をここにみる。
平成31年4月10日 目次の先頭へ戻る
31.宇倍神社の双履石
記録に残る世界最高齢者は、フランス人女性のジャンヌ・カルマンさんで一二二歳。日本人では、昨年亡くなった一一七歳の田島ナビさん。世界歴代三位、やはり女性だ。ということは、現在の医療レベルで生きられるのは、一二〇歳前後ということか。では日本の歴史(神話)ではどうなっているのか。調べると、長寿者のほとんどが、ヤマト王権草創期に集中している。たとえば、初代の神武は一二七歳、一二代景行と一六代仁徳は一四三歳だという。天皇ではないが、初めて大臣(おおおみ)に任じられ、景行から仁徳の五代にわたり二四四年間仕えたという武内宿禰(たけのうちのすくね)は、なんと二八〇歳とも、三六〇歳とも記録に残る。伝説といえばそれまでだが、「総理大臣」の祖として、また日本史上の最高齢者として名を留める。
その宿禰を祀る神社が鳥取市に鎮座する。宇倍(うべ)神社だ。式内社であり、因幡国一宮として崇拝されてきた。本殿裏の亀金山(かめがねやま)に、宿禰が一足の履(くつ)を残して昇天したと伝わる聖地があり、「双履石(そうりせき)」とよばれる磐座が存在する。『因幡国風土記逸文』に、「大臣武内宿禰は、御年三百六十余歳にして、当国に御下向あり。亀金に双(ふたつ)の履を残して御陰所(みかくれどころ)知れず」とあるのがそれだという。きちんと履物をそろえて姿を消したというのだ。でも、この石はなぜか寂しさが漂う。三六〇年も生きてきた身として、自らがその生を絶たない限りけじめをつける術はなかったのだろうか。かれは、弟の讒言によって応神に疑われ、死罪を言い渡されるが、熱湯に手をいれる探湯(くがたち)という裁判によって疑いを晴らしたという過去がある。応神の父である仲哀天皇や、母・神功皇后にも仕え、応神が生まれたときは自らの手に抱き、我が子のように慈しんだという。あれだけつくしたのにという想いは大きかったはずだ。「もうこのへんでいいだろう」そう思ったか。忠臣らしい最後だが、覚悟ある自殺者のようでもあり、石に漂うはかなさが印象に残る。
石段を登ると簡素だが、しっかりとした玉垣があり、苔むした石がふたつ並んでいる。なるほど、履のように見えなくもないが、宿禰の伝承にあわせて置かれたものだろう。というのも、この岡は、竪穴式石室をともなう古墳時代中期の円墳だという。石室からは銅鏡・管玉・鉄剣などが出土し、周辺からも数多くの遺物が出土している。境内全体が祭祀遺跡だった可能性が高いというのだ。双履石は、こうした聖地に、律儀な忠臣らしく行儀よく並んでいる。
平成31年3月25日 目次の先頭へ戻る
30.もうひとつの「猪岩」・赤猪岩神社
またオオクニヌシ(大国主命)の話か……。と思われるかもしれないが、出雲国の東隣、伯耆国(ほうきのくに)にも、オオクニヌシゆかりの「猪岩(ししいわ)」が存在する。『百選』でも少し触れたのだが、全国でも珍しい「岩でもって岩を封印する」例として紹介したい。ところは鳥取県南部町。島根県との県境に近いところで、ここに「赤猪岩(あかいいわ)」と呼ばれる神社が鎮座する。オオクニヌシがまだかけだしのころで、八十神(やそかみ)といわれる兄神たちの荷物持ちとして、大きな袋を背負い、トコトコと後をついて歩いていたころの話だ。
兄神がヤガミヒメ(八上比売)に求婚するため因幡に向かう途中、兄神に騙された白兎を救った功徳でオオクニヌシがヒメを娶ることになるが、兄神の恨みをかい、出雲に帰る途中、二度殺されることになる。幸い、二度とも生き返るのだが、最初の場面に赤猪岩が登場する。兄神が「赤い猪がこの山にいる。追い下すので、待ち受けて捕らえてくれ」といい、真っ赤に焼けた大石を転がり落す。受け止めたオオクニヌシは、抱いたまま焼け死んでしまうという話だ。
それにしても、なぜオオクニヌシには「石」にまつわる話が多いのか。この謎解きを試みたのが、歴史学者の村井康彦氏だ。村井氏は『出雲と大和』のなかで、三輪山に祀られているオオモノヌシ(大物主神)に注目し、出雲族が東進して邪馬台国を創ったという説を唱えている。オオモノヌシはオオクニヌシの異名だが、出雲族の信仰形態が「磐座信仰」だったというのだ。だからオオクニヌシの足跡には、巨石伝説が付きまとう、ということらしい。とすると、卑弥呼がおこなっていた「鬼道」とは、磐座祭祀のことだろうか。なんとも興味深い説だと思う。
さて、赤猪岩のことだが、「大国主大神御遭難地」と刻まれた石柱の先、一段と高い斜面上に玉垣で囲まれた一画があり、二つの平たい巨石が蓋をするように置かれている。巨石と玉垣との間にはびっしりと石が敷き詰められ、石の重みでもって、悪霊を閉じ込めているような不気味な緊迫感が伝わってくる。説明板に、「この岩は、地上にあって二度と掘り返されることがないよう土中深く埋められ、大石で幾重にも蓋がされ……」とあり、黄泉国(よみのくに)との境を塞ぐ「千引岩(ちびきのいわ)」を連想させる。想像するに、ここには、赤猪岩と伝わる巨石があったのだと思われる。しかし、「厄の元凶」のような石を祀るわけにもいかず、封じ込めるしか手段はなかったのだろう。穴を掘り赤猪岩を埋め、幾重にもわたって石を重ねたのだ。その教訓でもあるのか、「受難・再生・次なる出立の地」として、再起を願う人の参拝が多いという。
平成31年3月10日 目次の先頭へ戻る
29.天の下所造らしし大神
「アメノシタツクラシシオオカミ」と訓む。あのオオクニヌシ(大国主命)のことだ。『出雲国風土記』の主人公であり、随所に「所造天下大神」という尊称で登場する。出雲大社の項でも触れたが、文字通り、天下を造った偉大な神として日本神話にその名を遺す。今回も、「神座(しんざ)」としての佇まいを色濃く遺すオオクニヌシゆかりの磐座を紹介したい。
まず、『出雲国風土記』について触れておきたい。そもそも『風土記』とは、奈良時代の和銅六(七一三)年、朝廷が全国六〇余の国に対して、地名に好ましい字を用いたうえで、その地名の由来、特産物、土地の肥沃度、古老の伝承などを調査、報告するよう命じたもので、各国がそれに応え、提出した「地誌」のことをいう。が、平安期には、そのほとんどが失われ、ほぼ完全な形で残っているものは『出雲国風土記』だけになった。いわば、日本の「宝」ともいえるものだが、この存在によって日本の古代史がどれだけ彩られたものになったか計りしれない。
さて磐座だが、意宇郡(おうのこほり)、宍道郷(ししぢのさと)の条に、「オオクニヌシが狩りで追いかけた猪(しし)の像が、南の山に二つある。ひとつは周り一七メートル、もうひとつは周り一二メートル。猪を追う犬の像もある。どちらも石になっているが、猪と犬以外のなにものでもない……」とあり、石になったという「猪岩」が存在する。ところは、松江市宍道(しんじ)町。「女夫(めおと)岩遺跡」と呼ばれている。家畜市場近く、山陰自動車道の女夫岩トンネルの真上にあたるところだ。じつは猪岩とされるものが、近くの石宮神社にもあるのだが、平地にあるため、「南の山」という表現に合わないことから、女夫岩が有力視されている。
女夫岩は、その名が示すように、同じような巨石が向き合い、対になっている。高さは五メートルほどだという。間に樹木が根を張り、絡みついているが、もとはひとつの岩だったと思われる。女夫(めおと)と呼ばれているように、本来、猪岩という言い伝えはなかったのではないだろうか。あれば、それなりの名が付けられていると思うからだ。ただ、信仰の対象として、これ以上の「神体」はないように思える。その溢れるような存在感は、拝する者に迫ってくる。古代の人は、寄り添うような巨石に男女を重ね、生命の神秘を想い、子孫繁栄を祈ったのだろう。斜面には祭壇のような二段の石積みが築かれており、樹木にはしめ縄が張られている。古墳時代の遺物が出土しており、巨石の前で祭祀がおこなわれていたことを物語る。帰り際、ふと視線のようなものを感じて振り向くと、ぎょろり……と、女夫岩が巨大な「トンボの眼」に見えた。
平成31年2月25日 目次の先頭へ戻る
28.佐太神社の元宮
ときどき、「最も印象に残る磐座はどこか」と聞かれることがある。いくつかあり、ひとつに絞ることが難しいので、「うーん」と言葉を濁しているが、あえてそのひとつを挙げると、松江市にある佐太(さだ)神社の元宮だろうか。対面したときは、全身に電流が走ったような衝撃をうけた。意図的に造営されたものだが、古代の人たちが想い描いていた「神座(しんざ)」とはどのようなものかを語っているようで、強く琴線に触れた。と、書きながら、あまり知られたくない、そっとしておきたい……などと、逡巡している自分が可笑しい。
出雲へは何度足を運んだことか。行くたびに底知れない魅力に引き込まれ、その不思議な懐かしさに心を奪われ続けている。よく「神々のふるさと」という表現がされるが、ふるさとというより、現在もそこに神々が息づいているのを目の当たりにしてきた。今回の話は、『百選』でも採りあげた「加賀の潜戸」で誕生したという佐太大神に由来する。この神は『出雲国風土記』に登場する神だが、狭田地方の祖神として篤い崇拝をうけてきた。出雲の神事、「神在祭(かみありまつり)」が行われるのは、出雲大社と佐太神社だけという事実がそれを裏づける。
はるかな昔、島根半島は東西に横たわる島であったという。「国引き神話」では、ヤツカミヅオミツノ(八束水臣津野命)が、「出雲は幅の小さい布のような国なので、新しくつくって縫い付けよう」と、新羅や隠岐などから「国来(くにこ)・国来」と引き寄せ、半島を作りあげるという雄大な説話が語られる。佐太神社は、隠岐から引き寄せたという「狭田(さだ)国」に鎮座する。狭田という国名は「山間に開墾した細長い水田」の意だという。平地の少ない地形からして、けっして豊かな国ではなかったはずだが、それをせっせと開墾し、勢力を広げていったと思われる。『風土記』における「出雲四大神」の一柱という位置づけとともに、平安後期に成立したという大社造りと三殿並立の威容が、かつての栄華を物語る。
元宮があるところは、三殿の背後にある三笠山。その中腹に、まるで、古代の気が漂っているような空間があり、年月が風化したような石積みがひっそりと佇んでいる。「萩の一本(ひともと)社」と呼ばれているが、半ば崩れ落ちた円形状の玉垣のなかに、神気が籠っているような十数個の自然石が寄り添うように群れている。想像するに、まず中心となる主石を据え、ひとつひとつ石を抱き、大神の「神意」を聴きながら、慈しむように組んでいったに違いない。まさに「神座」とは、このような佇まいのことではないだろうか。
平成31年2月10日 目次の先頭へ戻る
27.出雲大社の「原風景」
「縁結び」の神として親しまれている出雲大社のことを語ってみたい。『百選』にはいれなかったが、磐座信仰が原形を成していると思えるからだ。『延喜式』に「杵築大社(きづきのおおやしろ)」と記され、オオクニヌシ(大国主命)を祀る神社として名高い。でもなぜ、オオクニヌシは縁結びの神とされているのか。この由来も大社の原形といえるものだが、最近、若い女性が神社などに興味をもち、訪ねる人が多いという。好きな言葉ではないが、「パワースポット」といわれるものだ。その目的のひとつが「結縁」というご利益を願ってのことだという。
まず、縁結びのことだが、『日本書紀』の国譲りの条に、オオクニヌシがその条件として、高天原の神と約束を交わす場面がある。「現世の政治は、高天原の皇孫がおこなうので、オオクニヌシは幽界の神事(かみごと)を受けもってほしい」というのだ。結果、オオクニヌシは全国の神々を率いることになり、年に一度、神々を出雲に集め、「男と女の縁」を相談する……という信仰が広まったという。また、オオクニヌシは、百八十神(ももやそかみ)もの子どもをもうけた艶福家であり、色男の名をほしいままにした恋多き神としても知られる。なんとも多感で多情な神だが、こうしたことも縁結びの神とされる由縁なのだろう。
さて、もうひとつの磐座について。本殿は、禁足地である八雲山を背負い、周りを二重の玉垣で囲い、わが国の神社建築で類を見ない広大な社殿として知られる。その本殿の背後、最も奥まった垣の外に一段高く、スサノオ(素戔嗚)を祀る「素鵞社(そがのやしろ)」が鎮座する。八雲山の裾にあたるところだ。この社殿の奥に、巨大な岩塊(磐座)が露出している。おそらくこの磐座が大社の原点ではないかと思うのだが、それを裏づける資料は見当たらない。が、その可能性を示唆するものとして、境内の最奥、本殿の真後ろに存在するという位置。さらに、本殿より一段高いところに祭神の先祖であるスサノオが祀られているという事実。また、この社の床下に参籠、祈念し、砂を持ち帰ると、霊感が得られるという神事の存在がある。
おそらく、社殿ができる以前、磐座の前で、八雲山を拝し、神の降臨を願う神事がおこなわれていたのではないだろうか。全国から神々が招集される神在月(一〇月)のころ、「竜蛇(りゅうじゃ)さま」と呼ばれる海蛇が稲佐浜に寄ってくるという。また、八雲山は、往古「蛇山」と呼ばれていた。こうした神奈備山、蛇、磐座という自然崇拝の形こそ、大社の始原ではなかったか。ここにオオクニヌシ以前の「原風景」を見るのだが、皆さんはどう思われるだろうか。
平成31年1月25日 目次の先頭へ戻る
26.星の神について
日本神話における太陽の神はアマテラス(天照大神)、月の神はツクヨミ(月読命)とされるが、星の神はほとんど知られていない。いることはいるのだが、『日本書紀』の「葦原中国の平定」にだけ登場する神だ。イザナギ(伊邪那岐)が黄泉の国から逃げ帰り、禊(みそぎ)をしたとき、左の目を洗うとアマテラスが、右の目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノオ(須佐之男命)が誕生したとされるが、ここに星の神は登場しない。星にまつわる神話が極端に少ないということが、日本神話の謎といわれるが、太陽や月が登場しながらも星の気配はない。
余談だが、『古事記と岩石崇拝』を書いていたとき、なぜ目と鼻を洗い、口や耳を洗わなかったのか、という疑問をもったことがある。そのときは、「黄泉の国の穢れを目で見て、鼻でかいだから」という解釈に触れ、しぶしぶ矛を収めたのだが、穢れたイザナミ(伊邪那美)と口で会話し、耳で声を聞いたことは「穢れ」にならないのか、という想いは今もくすぶっている。
さて、星神のことだが、『日本書紀』では、アマテラスに最後まで従わなかった悪い神・アマツミカボシ(天津甕星)として描かれ、「アマツミカボシという悪い神がいるので、まずこの神を征伐してから……」と表現されている。意外なことだが、星神は、最初に滅ぼす神、邪神として扱われているのだ。ちなみにミカボシは、金星を神格化した神とされている。
そうした星を冠した神社が、岡山市真星(まなぼし)の星神山に鎮座する。まるで星づくしのようだが、「星神社」と呼ばれている。縁起によると、この地に突如雷電が発し、山中鳴動すること三五日、山上に星のごとく光るものがあり、天から落ちてきた三星三石だという。里人がこれを祀り、地域の繁栄を願ったことが神社の始まりとされる。本殿に隕石が納められているという伝承もあるが、定かではない。また、ミカハヤヒ(甕速日命)を祭神としているが、星との繋がりはなく、地区の氏神は「星神(ほしかみ)大明神」だったという伝承に説得力がある。
社殿は山頂にあるため、一直線に伸びた長い石段を登らないといけない。鳥居から見上げると随神門が見え、さらにその先に石段が伸びている。落ちてきた三石とされるものは、本殿の裏側にあり、本殿横の玉垣内にひとつ、本殿背後に二つ存在する。最も大きな岩は高さが三メートルほどか。見る場所によって大きく印象が異なるが、本殿の真後ろから眺める二つの巨岩は凄みがある。寄り添うように屹立するさまは神が降臨する磐座の雰囲気そのものだ。反りのある屋根に乗る兜のような千木(ちぎ)と巨岩、その絶妙なありように思わずカメラを向けた。
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