https://ameblo.jp/asdfghjkl-001/entry-11801380967.html 【松尾芭蕉の桜の29句!】より
桜前線が北上中です。福岡では、開花は3月19日。東京、靖国神社の開花は3月25日の予想。満開は4月1日。大雪で枝折れした、桜の樹も少なくありませんでした。影響は大丈夫でしょうか。さて・・・。今年は何度、花見できるでしょうか。
芭蕉の桜の句、29句。
糸桜こや帰るさの足もつれ 命二つの中にいきたる桜かな
植うる事子のごとくせよ児桜 うかれける人や初瀬の山桜
姥桜咲くや老後の思ひ出 うらやまし浮世の北の山桜
扇にて酒くむかげや散る桜 思ひ立つ木曽や四月の桜狩り
顔に似ぬ発句も出でよ初桜 風吹けば尾細うなる犬桜
木のもとに汁も膾も桜かな 声よくば謡はうものを桜散る
鸛の巣に嵐の外の桜哉 木の葉散る桜は軽し檜木笠
咲き乱す桃の中より初桜 桜狩り奇特や日々に五里六里
桜より松は二木を三月越し さまざまのこと思ひ出す桜かな
草履の尻折りて帰らん山桜 年々や桜を肥やす花の塵
似合はしや豆の粉飯に桜狩り 畑打つ音や嵐の桜麻
初桜折りしも今日はよき日なり 春の夜は桜に明けてしまひけり
目の星や花を願ひの糸桜 山桜瓦葺くものまづ二つ
夕晴れや桜に涼む波の華 吉野にて桜みせうぞ檜笠
両の手に桃と桜や草の餅
中でも、好きな句は・・・。
♪さまざまの こと思ひ出す 桜かな あの時の桜、この時の桜、想い出は、桜と重なります。桜の美しさが、記憶を鮮明にするようです。
そして、共感のもう一句。♪思ひ立つ 木曽や四月の 桜狩り
これは、つい数年前、実感しました。偶然の4月の信濃路で、その年の2度目の花見となりました。川辺に満開の桜。芭蕉は、木曽路で半月遅れの桜をみたのでしょう。得した気分です。
さて、今年も芭蕉のように「思い立って」・・・。
何処の桜に出会えるか。 ♪あの里の 桜にあわせて ひとり旅
日々日常があるなか、週末に満開が重なればそれもよし。あの桜と定めて、訪ねようとすると、スケジュール調整なくして見ることはできません。
あの桜・・・。JR東海のキャッチコピーではありませんが、「そうだ、あの里の桜を見に・・・」 「○○へ 行こう♪」
Cole porter作曲「My Favorite Things」が聞こえてきそうです。www
https://www.youtube.com/watch?v=33o32C0ogVM
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498750857.html 【命二つの中にいきたる桜かな 松尾芭蕉】より
命二つの中にいきたる桜かな 松尾芭蕉(いのちふたつの なかにいきたる さくらかな)
私が一番好きな桜の句は、さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉 だが、掲句も同じくらい好きである。
とにかく、命二つという表現がもの凄い。この句は芭蕉最初の紀行文『野ざらし紀行』にある。(正確には『おくのほそ道」以外、紀行文と呼ぶべきではないのだが、ここでは紀行文とする。)
水口にて、二十年を経て故人に逢ふとある。水口は今の滋賀県にある東海道の宿場町。
私も東海道踏破の旅で歩いた。 東海道を歩く 水口宿
古い街並みが残り、かつての東海道の面影を色濃く残しているところである。
この「故人」とは、亡くなっている人、という意味ではなく、古い知人のことで、伊賀上野の弟子・服部土芳(はっとり・とほう)のことである。
芭蕉が滋賀大津を立ち、東海道を下った、と聞いた土芳は、なんとか芭蕉に会いたいと思い、追いかけ追いかけ、ここ、水口で追いついた。芭蕉は20年ぶりの再会、そして、わざわざここまで追いかけて来てくれたことを喜び、掲句を詠んだ。
芭蕉は寛永21年(1644)の生まれ、土芳は明暦3年(1657)生まれ。二人が再会をしたのは貞享2年(1685)であるから、この時、芭蕉は約40歳、土芳は約28歳。
で…「20年ぶりの再会」であるから、芭蕉は20歳、土芳はなんと8歳の時以来である。
その8歳だった少年が、郷里の先輩で、天下に名を轟かせる芭蕉に憧れ、俳諧の志を持ち、わざわざ訪ねて来たのだ。芭蕉もさぞうれしかったことだろう。
この句は、西行法師の駿河・小夜の中山での和歌、年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行法師(としたけて またこゆべしとおもいきや いのちなりけり さよのなかやま)
【訳】
年老いて、また、この小夜の中山を越えるなど、思っていただろうか。いや、思ってもみなかった。命があったからこそなのだなあ…、小夜の中山よ。を踏まえて詠んだ句と言われている。この和歌の鑑賞についてはこちらを見ていただきたい。
東海道 金谷~日坂3 小夜の中山
俳句では「命」「心」などは軽々しく使うな、とよく言われる。俳句とは「命」を詠うものであり、「心」を詠うものだからである。つまり言わずもがな…なのである。
しかし、芭蕉はこの時、「命」を堂々と詠んだ。今、命を詠わずしていつ詠うのか…。
私の命、君(土芳)の命、この二つの命の中に、今、桜が生きているのだ、と高らかに詠いあげた。この「桜」は20年という月日、大きな時の流れの象徴であろう。
こんな句を、未来に燃える若者に贈ることが出来る芭蕉の力は本当に凄い。
土芳はのち、伊賀蕉門の重鎮として、芭蕉の教えを書き残した「三冊子」を未来に残した。
「三冊子」は、芭蕉俳諧研究の最高峰の俳論として今も重用されている。
きっとこの句があったからこそ…であったに違いない。
ミーハーだが、私もこの「命二つ」という言葉を使って、いつか優れた句を詠みたいと願っている。余談だが、30代の頃、角川春樹さんと句会をし、春樹さんが、
命二つ冬の銀河を渡らうかという句を出した時、この句に驚愕し、心底嫉妬したのを懐かしく思い出す。
http://www.basho.jp/senjin/s0803-1/index.html 【水口にて二十年を経て故人に逢ふ
命二ツの中に生きたる桜哉 芭蕉(野ざらし紀行)】より
「新しい自画像への挑戦」(谷地快一)、である『野ざらし紀行』の旅にあった芭蕉は、 貞享二年三月、水口宿で二十年ぶりに服部土芳と再会した。句はこの時の感動を伝えている。土芳の著述とされる芭蕉伝には次のようにある。
「是ハ水口ニテ土芳ニ玉ル句也。土芳、此年ハ播磨ニ有テ帰ル頃ハ、はや此里ヲ出ラレ侍る。ナヲ跡ヲシタヒ、水口越ニ京へ登ルニ、横田川ニテ思ハズ行逢ヒ、水口ノ駅ニ一夜昔ヲ語シ夜ノ事也。明の日ヨリ中村柳軒ト云医ノモトニ招レテ、又此句ヲ出シ、廿年ノ旧友二人挨拶シタリ、ト笑ワレ侍る」(『伝土芳筆全伝』)
「街道一の人留め場」として賑わったと言われる水口宿(東海道五十番目の宿駅、現甲賀市水口町)に芭蕉句碑を見にでかけた。米原、草津、貴生川で乗り換え、近江鉄道水口駅下車。たった一人の駅員さんが、芭蕉句碑のある「大岡寺」は「ダイコウジ」と読むこと、「無人の寺で寂れています」と残念そうな口ぶりで道順を教えてくれる。旧東海道に入るとすぐに山門が見える。境内は思いの外広く、説明板によると白鳳十四年(六八四)の建立、東海道の交通の要衝の地のため度々の兵火にあい、現在の寺は正徳二年(一七一五)の再建とある。
芭蕉句碑は放生池のそばにあった。ちょっと尖った、形の良い自然石が二段の石の台座の上に据えられている。横に円筒形の石塔もある。句は『野ざらし紀行』に推敲される前のかたちである。
いのちふたつ中に活きたるさくらかな 翁
水口町歴史民俗資料館の解説によると、この句碑は寛政七年(一七九五)の建立で、台座には、建碑に関わった水口藩士外十一名の俳人の名が刻まれ、『伊勢参宮名所図会』(寛政九年序)にも出る。
句の解釈は、推敲の前後で変わりはなく、「いま目の前に美しく咲く桜に相対し、二人の命がすぎてきた歳月と運命を思うと感慨深いことよ」となろうか。西行の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中やま」(新古今)、運命を共にする二人という意味の「命二ツ」(謡曲「七騎落」)を踏まえるといわれる。おそらく唐詩の「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」も発想の背景にあるであろう。芭蕉が江戸に向けて伊賀上野を出るとき、まだ十歳の少年であった土芳は二十九歳になっていた。
今回の旅で興味深く思ったことは、水口町史の資料に、この時芭蕉が泊まったとされる近くの蓮華寺に、「不断桜」という四季咲きの名木があったと伝えていることである。
また芭蕉を慕い追いかけてきた土芳が、思いがけず行き逢う「横田川」は、実際は野洲川で、現地の解説板によると「野洲川のこのあたりを横田川と言い、幕府により通年架橋が許されず、渇水期を除き、舟渡が行われた」とある。現在も文政五年(一八二二)に建てられた、高さ十メートル余りの「横田の常夜灯」があり、往時がしのばれる。土芳が後に、芭蕉のいのちを継ぐような「三冊子」を残したことを思うと感慨深いものがあった。
(文) 根本文子
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