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https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15668997?categoryIds=4502625 【古代海人族 ①】
https://www.shoai.ne.jp/hirakata-s/furusato-minwa-f151001/ 【枚方の民話 第3話『王仁博士(わにはかせ)』】より
枚方に伝承される「日本の漢字のはじまり・・・」のお話
私たちの町枚方には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、 次世代に伝承し易くまとめられました。そこで枚方発見の新企画として、伝えられている民話を一話づつ紹介するとともに、その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。
なお、昔話の内容は市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成いたしました。今回は第3回目として「日本の漢字のはじまり」の話を紹介します。
●はじめに●
和田寺
伝王仁塚の石碑
王仁博士のお墓
古事記・日本書紀によると、「王仁博士」は4世紀の末頃 応神天皇の招請で、古代朝鮮半島百済の国から、論語十巻・千字文一巻を携え、日本に渡来した。朝廷の人達に学問を教え、儒教と漢字を最初に日本に伝えたと言われます。
年代などは定かでないが、漢字の広がりが日本文化の基礎となったことは疑う余地のないところです。江戸時代に入り京都の儒学者並川誠所が、禁野の和田寺にあった古文書の記録から、交野郡藤坂村御墓谷(現在の藤阪東町)にある円形型の自然石が昔から「オニ墓」とよばれ、祀られていることが判り「王仁博士の墓」と考証しました。
1938年(昭和13年)大阪府史跡「伝王仁墓」に指定されました。1940年(昭和15年)墓域周辺に玉垣を造営。現在、墓碑のまわりには韓国から取り寄せた『むくげ』無窮花の樹が200本余植えられ6月下旬~10月上旬まで特に7月は白やピンク、一重の底紅・八重の花など色とりどりに咲き乱れます。
韓国風の休憩所には、「王仁博士」の生誕地、大韓民国 全羅南道霊岩郡の王仁廟の写真を展示し「王仁文化祝祭」の様子など伺うことができます。王仁塚の環境を守る会は、1987年(昭和62年)大韓民国 全羅南道霊岩郡に王仁廟が竣工されて以来交流を続け、その長年の交流が実り、2008年(平成20年)3月1日に枚方市と霊岩郡との友好都市提携が実現しました。
大阪府指定史跡
百済門
墓前の灯籠(千字文・論語)
【昔話】王仁博士・・・・・日本の漢字の始まり
千字文1
これは、400年ごろから始まった話です。このころは、朝鮮の百済の国から海を渡って、日本へ、次々と人が移り住みました。
そして、蚕の飼い方・酒の作り方・家や道具を造る大工の技術など、暮らしに必要な進んだ文化をいろいろ伝えました。おす馬・めす馬の名馬二頭をみつぎ物にしてやって来た「阿直岐」という学者も、その中の一人です。
皇子に学問を教えたりしていると、天皇に「百済の国に、阿直岐よりすぐれた学者はいるだろうか」とたずねられ、その場で「王仁博士という、すぐれた学者がいます」と答えました。
千字文サンプル
天皇は二人の使者を送り、百済の王様に、「王仁博士に、日本で学問を教えてもらえないでしょうか」とたのみました。それを聞いた王仁博士は、日本へ行くともう帰れないかもしれないと思い、ずいぶんまよいました。すると、王様は「日本へ、この土産を持って行き、学問を広めるとよい」とすすめられ、「論語十巻」と「千字文一巻」をわたされました。
王仁博士は、日本に着くと、皇子や朝廷の人たちに学問や文字を教え、政治の記録などの仕事もしました。しかし、心の中ではふる里の百済がなつかしく、仕事になれると、同じ百済から移り住んだ人の多い交野地方を、度々訪れて過ごしたようです。「こんにちは。いらっしゃいませ」「暮らしに不自由はありませんか」など声をかけられ、励まされました。
落ち着いた王仁博士は結婚し、子や孫がたくさんでき、この人たちも学問を教えたり、文字を書く仕事をしたりして「河内の文氏」といわれました。 「論語十巻」「千字文一巻」が伝えられた日本では、木の板の”木簡”や紙に漢字が使われるようになり広がっていきました。奈良時代になると、「古事記」や「日本書紀」の歴史が書き表されました。
むくげ祭りの案内
そして、平安時代には片仮名・平仮名・変体仮名の日本文字も生まれて、漢字はしっかり根づいていきました。しかし、博士のことはすっかり忘れられていきました。ところが、1000年も過ぎた江戸時代に、並川誠所という学者が、「漢字を伝えてもらった論語と千字文は、人の生き方の手本にもなる」と博士に感謝して、禁野村・和田寺の古文書から、藤阪(藤坂)のお墓をやっと探しあてました。
それ以来、この場所は、王仁博士の墓としてまつられています。王仁博士とこうした縁があって、枚方では「漢字まつり」が行われるようになりました。毎年8月に「むくげ盆まつり」が行われ、韓国の博士が生まれた”霊巌”とも市民交流を深めています。 (完)
【この頃の枚方(古墳時代中期)百済王と枚方の関係】
百済寺跡
百済王神社
百済王神社本殿
四世紀末、大和朝廷は朝鮮半島の百済・新羅・任那を従え、属国のように支配していました。これらの国から得た戦利品・貢納物や帰化人などが朝廷の実力と権威を高めた。
大和の三輪地方に発祥した朝廷が、河内に勃興した大王家によってとってかわられたとする考えが出されており「古事記」「日本書紀」における神武天皇の朝鮮半島侵略に伴い、海人集団を支配下に組織して成長した河内大王家(応神天皇が始祖)が三輪の大王家を倒す大内乱が起こり四世紀末の応神朝以降を河内王朝としてとらえられます。
中国大陸北部や朝鮮半島には肥沃な土地が少なく、人々が温暖でより住みやすい土地を求めて南下してきたのが交流の始まりです。この活動に、中国大陸や朝鮮半島での政変を受けて、その迫害から逃れて日本に庇護を求めてやってきた人たちの動きが加わり、地政学的に交流が頻繁になっていきました。
中国の隋・唐王朝の政治的圧力により、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が興亡をを繰り返しその戦いに敗れた人たちが同盟国である、平和な日本を頼りに来朝し、日本の大和朝廷に庇護を求めました。多くは大和朝廷の臣下に迎えられ、日本の各地に定着し、日本民族に同化していきました。
この潮流の中で、大和朝廷の臣下となり僻地の東北地方に赴任していた百済国宗家の子孫の集団が赴任地で金を採掘し聖武天皇の大仏建立時に、黄金900両献上しました。その褒美としてこの河内国(枚方市中宮)が与えられました。
百済王と枚方の関係1:百済王神社の看板より
百済王と枚方の関係2:百済王神社の看板より
王仁神社
● 感 想 ●
大坂城跡と並び大阪府内に2つしかない国の特別史跡「百済寺跡」は、百済国王の末裔が 建立した寺院跡として有名な様に、400年ごろの日本と百済は友好関係ができていたと 推測できます。
現在は経熱政冷と表現されるように、経済の熱い関係に対して、政治の関係は冷え切っています。 視点をどこに置くかで、変わるのでしょう。
日本の漢字の始まりを調べていて、王仁博士のように 日本の発展に貢献された方が、大勢おられることを知りました。 そのベースが枚方にあり、王仁公園や王仁プールの名称で、市民に親しまれている事が嬉しく思います。
いろいろ調べていくと、王仁博士のお墓が、東京上野公園の清水観音堂の裏手にあり、 5世紀初、日本に『論語』『千字文』を伝えたという百済人・王仁を記念して建てられた「王仁博士記念碑」と、 その由来を記した碑があります。大阪市北区大淀中3丁目の八阪神社内にも王仁神社があり敬愛されていた事が解ります。
近くの香里ケ丘図書館や、枚方中央図書館にも、枚方に関する資料が数百冊整備されていることを初めて知りました。時間を見つけて勉強できる環境があり、 同時に枚方に住んでいることに誇りを感じることが出来たのが、大きな成果です。 「おいでやす枚方に!」
今までの2つの民話と違って、かなり信憑性があり、また情報が多すぎてまとめるのに少し苦労しました。
https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2023/12/29/235915【第1404回 神話の境界】より
『始原のコスモロジー』が到着して、わりと早い段階で写真についての感想をいただいていたが、文章の方は、今になってようやく感想をいただけるようになった。
この本は、ピンホール写真にも特徴があるけれど、やはり文章世界が軸になっているので、少しずつでも文章を読んでいただければ有難い。
この本の中で私が文章で掘り下げようとしているのは、一言で言えば「神話の境界」だ。
現代文明の弊害が様々なところに現れている今日の世界において、神話なんて時代錯誤だと思っている人もいるし、逆に、「現代に神話を取り戻さなければ」と考えている人もいる。
しかし、この取り戻すべき神話が何を指しているのか、明確に答えられる人は少ない。
神話には大きく分けて二つのタイプがある。ローラシア型とゴンドワナ型と呼ばれているが、名称はどうでもよく、前者は、「天地創造や、王や貴族が誕生した理由」のようなものが多くて、後者は、「人間が自然界の中でつながりをもって生かされている」ことを暗喩的に示しているものが多い。
そして後者は、ハワイやポリネシアに多く残っているのだが、こちらのゴンドワナ型神話こそが、文明社会において取り戻すべき神話だと指摘する学者もいる。
しかし、この二つの神話の違いは、地域的な違いによるものというより、その地域の共通文字化が、いつ行われたかの違いによるところが大きい。
太平洋の島々に限らず、アフリカ内陸部でもそうだが、他の地域と隔絶された場所では、共同体の中の同一化が進んでおり、共通文字の使用が必然的なものではなかった。そのため、口承の時代が長く続いてきた。
大陸など異なる文化背景を持つ人々が交流しやすいところは、共通文字が早い段階から発展した。そして、今回の「始原のコスモロジー」でも言及したが、共通文字の登場は、異なる人々を共通の秩序の中に治める必然性が生まれた王権秩序の登場と重なっている。そして、王権秩序が始まった後に作られた神話は、必然的に、天地創造や、王や貴族が誕生した理由が示されるローラシア型神話になる。
しかし、王権秩序化が進んだ地域においても、御伽噺のような形で、ゴンドワナ型の神話は残り続けている。現代人の思考では解釈が難しい謎めいた説話の形で。
「人間が自然界の中でつながりをもって生かされている」というゴンドワナ型の神話は、文字化以前のコスモロジーであり、文字化された現代人の思考や精神とは異なっているのだが、それでも現代人の多くは、文字を学ぶ前の子供達に、ゴンドワナ型神話である御伽噺を読み聞かせることが、子供の心の成長に大切だと心得ている。
日本において、この二つの神話の境界にあたるのが、「始原のコスモロジー」の中で何度も言及している西暦500年頃で、第26代継体天皇が即位した頃だった。
その後に編纂された「古事記」などは、文字化後の王権秩序を整えていく段階での神話だから、西暦500年以前のことは、境界の向こうの出来事になる。だから、始原のコスモロジーの中で書いたように、古事記の中の様々なエピソードは、すべて西暦500年頃の精神の変化を、異なる形で何度でも描くという方法がとられており、コスモロジーの異なる西暦500年以前の歴史を時系列に並べているわけではない。初代神武天皇も、第10代崇神天皇も、神功皇后の新羅討伐も、イザナギが黄泉から逃げ帰ったのも、スサノオの八岐大蛇討伐も、アマテラス大神が岩戸に篭ったのも同じ時代であり、西暦500年頃に起きた社会変化が反映されている。
ただ、日本の古代の興味深いところは、文字化以前のローラシア型神話の段階と、文字化以降のゴンドワナ型神話の段階のあいだをつなぐものが残されているところにある。それが「風土記」であり、「始原のコスモロジー」の中で言及した浦島太郎の伝承や、古事記の中で登場する口のきけないホムツワケの物語の原型としての、出雲風土記のアジスキタカヒコネの伝承が、それに該当する。
「現代に神話を取り戻さなければ」という時、まずは、この文字化以前と文字化以降の変化を把握するところから始めなければならない。
しかし、それは、『古事記』の解釈を見直すという大事業であり、日本の歴史の根幹を捉え直すという極めて重要で、壮大な試みになる。
それこそが、私が「始原のコスモロジー」で掘り下げようとしたことなのだが、その解釈について専門家がどう言おうが、関係ない。
なぜなら、私の念頭にあることは、その先にあり、古事記の解釈に拘泥するわけにはいかない。
日本におけるローラシア型神話とゴンドワナ型神話の境界を整理し直したうえで、ローラシア型神話の世界の扉を開くこと。それが、本当の意味で、「現代に神話を取り戻す。」ということになる。
そして、それを可能にするコスモロジー(世界観と人生観)が、実は、日本には残されている。
その鍵は、今回の本の中でも取り上げた海人が握っている。
海人というのは、縄文時代から続く、海や河川を通じて各地と交流していた人々。縄文時代の日本列島は、現在よりも沖積平野が少なく、山岳地帯と海を結ぶ河川と海のネットワークで各地域間の交流が行われていた。糸魚川のヒスイが北海道や沖縄で発見され、青森の亀ヶ岡式土器が沖縄に流通し、八ヶ岳の黒曜石も青森や北海道まで行き渡っていた。後に安曇氏などと名付けられたのは、それらの海人たちを束ねる必要ができ、その統率者の役割が氏姓制度によって決められたからだが、海人とは、そうした血統とは関係なく、古代、日本列島に生きることと、水上交通とは切り離せないことであり、縄文人=海人だったのだ。
縄文時代、日本には共通文字がなかったので、彼らは、ゴンドワナ型神話の住人だったが、弥生時代になって渡来人が多くやってきた後も、その後の古墳時代も、古くからの海人たちは、物資や人間や文化を、水上ネットワークで運び続けていた。
神話のなかで、天孫降臨のニニギと結ばれたのは、コノハナサクヤヒメだが、これは、別名が神吾田津姫で、南九州を拠点とする海人族の女神である。
海人の存在感は、陰にまわって、日本の歴史を通して、脈々と伝わっていくことになった。
古事記の中で天皇に次いで多く登場する氏族が、海人の和邇氏であるが、和邇氏の後裔は、浅間大社の神官を世襲してきた。浅間大社は、全国の浅間神社の総本社だが、祭神は、コノハナサクヤヒメである。
そして、和邇氏は、後に柿本氏や小野氏となり、多くの文学者を生み出した。
口承で神話が伝えられた時代から、共通文字の普及によって、文学を通して物語が伝えられる時代になった。それを担ったのが、和邇氏で象徴される海人勢力の末裔だ。
紫式部のルーツは、京都の山科の小野郷だ。そして、紫式部の墓は京都の堀川通にあり、その隣が小野篁の墓なのだが、生きた時代が200年違う二人が並んで葬られていることが大きな謎になっているのだが、紫式部の文学も、小野氏の影響下にある。
源氏物語は、紫式部が一人で考え出した物語ではなく、小野氏が記憶してきた物語が、その下地にある。
源氏物語の中で特に重要な役割を果たす神が住吉神であり、須磨の地で光源氏を救ったのも、光源氏が逆境から立ち直るきっかけになったのも住吉神の加護によるものだが、源氏物語というのは、光源氏の栄光の物語ではなく、光源氏の背後、陰に位置する明石一族の繁栄で最後は終わる。この明石一族が奉斎しているのが住吉神である。
そして、「始原のコスモロジー」でも詳しく書いているように、住吉神というのは、近畿の紀ノ川流域の土着神であった丹生都比売が転化した神であり、紀ノ川流域を拠点としていたのが海人の紀氏で、これは、コノハナサクヤヒメと同じく南九州を拠点とし、瀬戸内海にかけて活動していた海人勢力だった。
日本各地を訪れ、様々な栄枯盛衰を見てきた海人たちは、物語の伝承者でもあった。
その伝承は、口承であり、ゴンドワナ型の神話に属するものであった。
そして、過去においても、現代と同じように「万物の尺度を人間に置く」状況となり、社会が歪んだことがあった。
その時代の賢人も、「人間が自然界の中でつながりをもって生かされている」という神話世界の精神を取り戻す必要を考えた。
しかし、文字化以前の物語を、そのままの形で取り戻してもダメだということも理解していた。
そういう軋轢と葛藤の中で創造されたのが、新しい文学である。日本の歴史の中で、その頂にあったのが源氏物語で、その新しい精神こそが、「もののあはれ」だった。
また、源氏物語の前には、浦島太郎や竹取物語など、文字化以前と文字化以降のコスモロジーをつなぐ物語も創造された。
そして、中世の日本文化というのは、幽玄も、詫びや寂も、源氏物語を通して描き出された「もののあはれ」の精神を引き継いでいる。
また、ヨーロッパや中国など、ローラシア型神話が大きな影響力をもっているような地域でも、文字化以前の「ゴンドワナ型神話」のコスモロジーへの回帰の仕方を真剣に考えた先人はいた。
それが、古代中国の老荘思想=「無の思想」であり、古代ギリシャのソクラテスの「無知の知」であり、古代インドの仏教=「無我の境地」だ。これらは、全て2500年前に生まれたコスモロジーだが、1000年前に日本に生まれた「もののあはれ」というコスモロジーと、基本的には同じ精神の境地である。
文字化が進んだ文明社会のなかで、「人間が自然界の中でつながりをもって生かされている」ということを説くためには、衝動的に森の中でサバイバル生活を始めればよいわけではなく、文字化以前と文字化以降のコスモロジーをつなごうとして創造された叡智を、再び取り戻すことが先決である。そういう思いで、私は、今回の「始原のコスモロジー」を制作したのだが、文章を読んでいただいて、そのことが伝わっている人が、どれだけいるかはわからない。
しかし、たとえそれが限られた人であっても、本という形にした意義はあった。なぜなら、次の段階の、文字化以前のコスモロジーの扉を開くためには、ここを通っていくしかないからだ。
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