さくらの日

暦生活 @543life

今日は「#さくらの日」。

日本の歴史や文化、風土と深くかかわってきた「さくら」をとおし、日本の自然や文化について国民の関心を高めるため、日本さくらの会が制定しました。

「3×9(さく)=27」の語呂合わせと、桜の開花時期と重なることから。


https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/past_shinngikai/shinngikai/kondankai/bungaku/index.html 【「歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会」-日本文学に見る河川-】より 

1)懇談会の趣旨

    日本文学などを題材として、日本人がどのような想いを抱きながら川と接してきたのか、川と日本文化との関わりはどうであったか、「川と風土」等を探ることを目的として、「歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会」-日本文学に見る河川-を設置しました。

 この懇談会では、時代毎に日本人は河川をいかに表現し、河川に対してどのようなイメージ・河川観を持っていたのか、現代と比較して変わった部分、変わらない部分は何かなどを議論するとともに、万葉集にみる佐保川、明日香川などのイメージとそれを復活・復元するための川づくりはいかにあるべきか等、歴史と風土の観点から見た望ましい河川像とは何かを考察することとしています。

2)懇談会の進め方

  日本文学、芸術、景観、河川工学、など多方面の有識者の方々を委員に迎え、毎回、各委員の方々からの話題提供、講演を基に自由闊達にご議論いただくことにしています。

3)委員名簿

4)懇談会の開催状況

  第 1回 平成12年 8月24日(木) 第 1回議事録

第 2回 平成12年12月 1日(金) 第 2回議事録

第 3回 平成13年 7月 6日(金) 第 3回議事録

第 4回 平成13年10月26日(金) 第 4回議事録

第 5回 平成14年 6月 7日(金) 第 5回議事録

第 6回 平成14年 9月13日(金) 第 6回議事録

第 7回 平成15年 1月24日(金) 第 7回議事録

第 8回 平成15年 5月23日(金) 第 8回議事録

第 9回 平成15年11月13日(木) 第 9回議事録

第10回 平成17年 2月28日(月) 第10回議事録

第11回 平成17年 5月31日(火) 第11回議事録

5)報告書

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会

-日本文学に見る河川-報告書(平成15年5月)(pdfファイル 2,603KB)

※デフォルトでは全てA4版で印刷されます(33~35ページはA3版で印刷すると見やすくなります)。

 なおB5版で印刷する場合には、33~35ページはB4版で印刷すると見やすくなります。

記者発表(平成15年5月23日発表)


https://www.nhk.or.jp/fudoki-blog/200/129055.html 【ふるさとを思う夏】より

「新日本風土記」事務局スタッフです。

オリンピックが終わり、いまは甲子園で熱戦が繰り広げられていますね。高校生のスポーツが、決勝だけでなく1回戦から全国放送され、世間を沸かせるというのは、日本くらいではないでしょうか。子どもの頃は格好いいお兄さんたちに憧れ、同世代になると同じ年頃の学生の頑張りに胸を熱くし、大人になると息子や孫を応援するような気分で・・・と、子どもから大人まで楽しめるのが高校野球だと思います。しかも、自分の故郷の都道府県を応援できるのが、また楽しいポイント。たとえ自分の出身校でなくても、熱く応援してしまいます。お盆もそうですが、夏というのは、自分の故郷を思い出す機会が多いような気がします。子どものころの記憶とともに懐かしく思い出す故郷。日本の夏、好きです。

「新日本風土記」も「もういちど、日本」も、日本各地の話題をとりあげています。8月は、「新日本風土記」は再放送が中心でしたが、8月31日の「奥の細道」を皮切りに、再び様々な土地の物語を描いていきます。皆さまの故郷の話題が出るのも間近かもしれません。どうぞ、ご期待下さい!

https://www.nhk.or.jp/fudoki/120831broadcast1.html 【奥の細道】より

福島県 宮城県 岩手県 山形県

松尾芭蕉が記した紀行文集の集大成「奥の細道」は、今も東北を語る上で欠かせない旅のバイブルのひとつ。

1689年。弟子の河合曾良を伴い、老体に鞭をうって約150日間に渡り東北・北陸を旅した芭蕉。美しい自然や文化・風土に出会い、辿り着いた境地は「不易流行」。変わっていくものと変わらないものは不即不離の関係にある、という考えだ。

東日本大震災で、甚大な被害を受けた東北にも、変わったもの、そして320年の時を越え今もなお変わらないものが共存している。

江戸時代の「田植え唄」を歌い継ぐ須賀川の農婦たち。津波で多くの人と街を失った石巻の地で出される「鎮魂の御輿」。芭蕉が愛でた紅の花が夏を彩る「尾花沢」。芭蕉の句に心揺さぶられた男性が、奥の細道を追体験する「馬旅」。嵐の中、亡くなった人を思い、死と再生の祈りを捧げる人が集まる霊山「月山」。

老いと死を覚悟しつつも過酷な旅に挑み、傑作を誕生させた芭蕉。「奥の細道」を道しるべに、今再び、東北の魅力を再発見する。


http://manabinome.com/archives/1887【方言を調べると日本語の歴史が見えてくる】より

東北大学大学院文学研究科/東北大学方言研究センター教授

専攻=日本語学、方言研究小林 隆 先生

お年寄りも方言を使わなくなっている

 東日本大震災の後、地名を入れた「がんばっぺ○○」というスローガンが目立ちました。非常事態の中、「がんばっぺ」という方言が、被災者が一体感を持つためにも、支援者が応援の氣持ちを表すためにも適切だと感じられたからではないでしょうか。心を支え、絆を結ぶという方言の現代的な役割が、再確認された事例だと言えると思います。

 しかし大きく見れば、方言は消滅の危機にあります。今でもお年寄りは方言をよく使うし、よく知っているというイメージがあるかもしれません。しかし仙台で最近行われた調査では、およそ50年前の1960年代とは全く違った結果が出ました。当時と今の70歳代の人を比べると、仙台方言はかつての半分ほどしか使われなくなっています。雷を指す言葉で、いずれも雷様から転じた「ライサマ」「オレサマ」などがその典型です。今、方言は急速に滅びようとしているのです。

 明治維新を経て近代的な統一国家が建設されたとき、東京の言葉をベースに作られた共通語の推進・普及が始まりました。各地の方言は否定され、方言撲滅運動さえ展開されます。共通語を標準語と言うことがありますが、「標準」という言葉そのものに、共通語には価値がある、逆に言えば方言には価値がないという意味が、すでに含まれているのです。

 方言に否定的な社会状況はその後も続きますが、1970年代、高度経済成長が終わったあたりで流れが変わります。人々が足元を見つめ、自分や自分の暮らしている地域のアイデンティティ、個性を求めるようになったのです。方言が「使うと落ち着く」「あたたかみがある」などと評価されるようになり、それまでは笑いの対象にしていたテレビでも、方言が肯定的に扱われ始めます。方言は大切な地域文化として保護され、小中学校の国語の教科書にも取り上げられるようになりました。しかしそれでも、メディアの発達をはじめとするさまざまな理由から、方言の衰退は続いています。

 そして今方言は、「アクセサリー化」というもう一つの危機に直面しています。皆さんの中には、「今の若者はけっこう仲間どうしで方言を使っている」という方もいらっしゃるでしょう。実は今、若者を中心に、方言が一体感を演出するための道具として使われることが増えています。若者が親しい相手に送る電子メールに方言を交えたり、テレビで方言を話すタレントが人氣だったりするのは、本来は生活に根ざした実用的な言葉である方言が、心理的な効果を狙って使うものになりつつあるからです。自然に話されていた方言が、意図的に使うものへと変質してしまうことは、やはり方言の危機なのです。

方言は歴史的な日本語の宝庫

 「違和感がある」ことを示す「いずい」を、東北を代表する方言の一つだと思っている方も少なくないでしょう。しかし同様の言葉は、九州にもあるのです。これに限らず、本州から九州にかけての列島の北と南の端に、非常に良く似た方言が存在する例は数多くあります。

 各地の方言を調べ、それを記号に置き換えて地図に記していく「方言地図」からは、実に興味深いことが分かります。たとえば「梅雨」のことを「ナガアメ」のように呼ぶのはほぼ東北地方と琉球列島だけで、他の地域にはありません。実は近畿地方を中心として、ほぼ同心円状に同じ言葉、似た言葉が分布している言葉が数多くあることが分かっています。『遠野物語』の著者としても知られる民俗学者の柳田國男は、カタツムリの呼び方を典型的な例として挙げました。これを「方言周圏論」と言います。

 かつて都のあった京都で生まれた新しい言葉は、人の口から口へと伝わって日本中に広がりました。従って近畿で使われている言葉がもっとも新しく、東北や九州の端には、もっとも古い言葉が残っているという説明が成り立ちます。実は方言は、歴史的な日本語の宝庫でもあるのです。

 「日本語の歴史」と聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは、学校で習った古文でしょう。『源氏物語』も『枕草子』も素晴らしい文化遺産ですが、書かれた当時でさえ、日本人が皆これらの文章のような言葉を話していたわけではありません。むしろ京都の貴族階級というごく一部の人々が読み書きしていた言葉と考えるべきで、話し言葉は別であり、社会階層や地域が変われば、使われる言葉も相当に違っていたはずです。

 そうした言葉を文献から明らかにすることは困難です。しかし実は、方言研究から各時代に各地で実際に話されていた、日本語の姿に迫ることができるのです。たとえば馬を「駒」と呼ぶ例は、文献上では平安時代の和歌をはじめとする上品な表現に限られます。しかし方言研究と、古文の教科書には載らないようなマイナーな文献を徹底的に調べて突き合せることによって、庶民の間では「こま」と言えば雄馬だけを指し、雌馬は別の呼び方をしていたということが分かるのです。

 先ほどの「方言周圏論」も、現代の研究ではさらに深まっています。たとえば九州では古い言葉がそのままの意味と形で残りやすいのに対して、東北では使い道が大きく広がったり、思いがけない意味や形に転じたりする例がしばしば見られます。こうした言葉に対する態度の差が、地域の風土や個性と密接に関係していることは言うまでもありません。

方言を大切にすることで多様な価値を守る

 日本語は時代とともに変わって行きますし、それを押しとどめることはできません。テレビのアナウンサーが話す共通語や、私たちが「伝統的な美しい日本語」だと思っている言葉も、歴史の中で変化を重ねてきたものなのです。

 従って私は、「近年は日本語が乱れている」「若者の誤った言葉遣いが許せない」という意見には、簡単には同調できません。「ら」抜き言葉は広く定着しつつありますし、アルバイト店員のマニュアル言葉として問題にされる「コーヒーの方お持ちしました」という言い方にも、尊敬の対象を口にする際、意図的にあいまいな表現をする日本語の特質が表れていると言うことができます。

 しかし日本語が変化することと、方言が失われてしまうことは別の問題です。共通語が正しい日本語で、方言は崩れた言葉だと考える人は、今も少なくありません。関西の方言と違って、東北の方言に劣等感を持つ人も多いでしょう。また方言は、あまりに身近で日常的であるために、人々の関心が低かったり、学問研究の対象と考えられにくかったりということもあって、今日の危機を招いたと言うこともできます。

 そう言う私も、実は東北大学に入るまで方言が学問研究の対象になるとは思ってもいませんでした。地理学とどちらにしようか迷ったあげくに言語学を学ぼうと入った大学で、地理学と言語学とが重なり合う方言学に出会ったのです。言葉の分布を視覚的に表現できる「方言地図」の素晴らしさと面白さには、特に魅せられました。

 昨年の夏、私たちの研究室では、気仙沼地方に入られるボランティアや医療・行政関係者のために、『支援者のための気仙沼方言入門』というパンフレットを作りました。「ネコ」が「一輪車」を、「サブキ」が「咳」を、「ワガンネ」が「駄目だ」を意味することや、シがスと発音されるため、地名の鹿折(ししおり)が「ススオリ」に聞こえるということなどを紹介し、被災者とのコミュニケーションに役立てていただいています。

 方言が失われ、国じゅうが一つの言葉になってしまうと、言葉を使ってなされる「思考」もまた、均一化されてしまうに違いありません。地域それぞれに歴史があり、個性があり、多様な発想があることが価値だとするならば、その意味でも、方言はもっと大切にされるべきではないでしょうか。私たち研究者もまた、方言の良さ、価値を分かっていただくために活動しなければならないと考えています。

 今自分たちが使っている言葉をあらためて意識することは、方言学に限らず、古典を含む国語学、言語学、あるいは歴史学などへとつながっています。皆さんもぜひ、方言と向き合うことから学びを広げ、深めてみてください。


https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/kusumoto/2011-06-24-8153.html 【戦後俳句を読む(5 – 1) ―「風土」を読む―  楠本憲吉の句 / 筑紫磐井】より

枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば  昭和49年。第2句集『孤客』より。

「風土」というテーマを選んでおきながら、憲吉には風土的な俳句は少ない。大阪の北浜に生まれたから、大阪が風土?そんなことはありはしない。初代灘屋萬助が天保年間に大阪で料理屋を開業、2代目が明治になってから長崎料理の味を加えて大阪今橋に料亭「灘萬」を開く。3代目は第1次世界大戦講和会議の日本全権大使である西園寺公望公爵の料理人として随行、灘萬を世界に知らしめた。経営の才に闌けていた3代目は、食堂やらスーパーマーケットなどの新機軸を打ち出し、大衆化路線も兼ね備えた。それが功を奏したのが戦後で、大阪の本店を、東京のホテルニューオータニ山茶花荘に移し、昭和61年東京サミットの公式晩餐会をこの山茶花荘で開催した。この時の首脳は、中曽根康弘首相、レーガン大統領、サッチャー首相だったとか。関係ないことながら、昨今のサミット首脳の何と小粒になったことか。憲吉はこの店のぼんぼんとして育ち、専務を務めていたから、憲吉の風土は「灘萬」だったと言わねばならない。伝統的でありながら、洒落ていて西洋かぶれで、大正デモクラシーのうきうきとした気分に乗った楠本憲吉は灘萬の中から生まれた男であったといえよう。憲吉の師の日野草城もそうした風土にある時期なくはなかった。

今回選んだのは、そうした外在的な風土ではなく、自らがつくり出した風土である。今見ても女性に好かれそうなタイプ、というよりは俳壇史上もっともいい男で金があった【注】から至る所で遊びまくり、自らも語り周囲もそれを知っていた。その家庭がどういう状況になっているかは想像するに難くない。先日も、夜中まで遊びまくってタクシーで自宅に帰ったが、奥方は先に寝てしまっており、憲吉先生は勝手口からそっと家に消えていった話をその場で見送ったお弟子さんからじかに聞いたが、これは「風土俳句」の舞台である東北より、もっと修羅の地であった。

掲出句、ある和睦が成り立って酒を酌み合っているが、いつ何時噴火が始まらないとも限らない緊張した平和である。つぶてとなって飛んでくるのは、言葉か、枝豆か。武器こそ違えここは戦場なのである。なお、どう見てもここで飲んでいる酒はビールである。成功した俳句は、何も描かなくてもそうしたディテールを浮かび上がらせてくれる。独特の言語世界が存在している。

だからこうした家庭風土俳句は枚挙のいとまもないほどであるが、みなそれぞれに成功している。

ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし 52年4月

ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し  52年5月

言っておくがこれはよく見る「連作」ではない。心を新たにして俳句を読むのであるが、家庭風土がちっとも変わらないからついつい翌月も自己模倣的に同じテーマで詠んでしまうのである。嘘が充ち満ちている家庭、妻は恐ろしく、夫は哀しいと作者は言うのだが、元凶は99%自分である。第一、ちっとも深刻でないことが憲吉の反省のなさを物語っている。しかしこれが文学であるのだ。詩人や純文学者が認めてくれるかどうか知らないが、「黄表紙」「洒落本」の世界に通じる、2流志向の本格文学である。昨今の1流志向の末流文学(俳句)とは違うのである。その証拠に、我々は癒される。

【注】憲吉は俳書の収集家としても有名で、憲吉が死んだときは、蔵書が市場に出回るのではないかと言うことで、神田では俳句関係の古書が値崩れを起こしたという伝説がある。


https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/kikuno/2011-06-24-8197.html 【戦後俳句を読む (5 – 1) ―「風土」を読む― 稲垣きくのの句 / 土肥あき子】より

みつまたに岐るる川や秋の風

厚木に生まれ、関東大震災を機に座間へと転居。疎開先は信州小諸から一里半ばかり入った浅間山麓の農村だというが、その後の東京生活は赤坂、平河町、新宿という都心での転居を繰り返したきくのの風土性は、目を凝らさなければ見えてこない。きくのの俳句に生まれた土地が折り込まれているのはさらに少ない。

掲句は第一句集『榧の実』に所収され「水無瀬より橋本に渡る」の前書がある。

先日、きくのの姪にあたる野口さん(仮名)に、きくのが眠っている墓所に案内していただいた。寺は、きくのの父親の生家である座間の先にあり、父親の生家は相模川で舟宿を営んでいたという。

画用紙を広げたような梅雨空がはらはらと雨をこぼすなか、相模川のほとりの寺に着いた。見おろせば相模川、晴れていれば正面に大山が見えるという地に、きくのは眠っていた。両親や弟が眠るこの墓に、生前きくのは親族を率先して熱心に墓参していたという。

山門を入ってすぐに大きな榧の木が茂っており、野口さんは「子どもの頃、来るたびに実を拾わされた」と思い出すように大樹を見上げている。

きくのの第一句集名は「榧の実」だが、集中榧の実どころか、樹木としてさえ見当たらず不思議に思っていた。70代となった「春燈」53年1月号では

榧の木がかやの実こぼす墓まゐり

と、真正面から詠んでいるが、きくのには最初からこの清冽な香りを放つ榧が、故郷を象徴するシンボルツリーだったのだろう。

墓参には田んぼがずっと続く畦道を歩いて、土筆を摘んだり、蛙をつかまえたりしたという土地も、今ではカラフルな住宅が並び、すっかり整備されていたが、幅広い堰と大きな水門が残る相模川の姿はそのままであるという。周辺を歩いていると、古くからこのあたりに住んでいるという方から声を掛けられ、あれこれと尋ねられたが、それは特定の名字を言えば、どこそこの誰であるかがたちまち判別できるといったような、小さな集落特有の「くちさがない」環境であることをじゅうぶんに示唆するやりとりだった。

ひと、われにつらきショールを掻合はす 『榧の実』

一瞥に怯みし伏目春ショール 『冬濤以後』

人のくらしに立入り禁止花ざくろ 『花野』

人との機微にことさら敏感だったきくののこと。どれほど愛着を感じても、この地に永住することは決してできなかっただろうと確信した。

きくのが徹底して都会を好んだのは、人間関係が淡白で済まされることがなにより大きかったと思われる。そして、都会で暮らすことは、つねに仮住まい感覚であり、家を放って旅に出ることになんの躊躇も感じなくてもすむ。

青胡桃旅を栖といふことば 『冬濤』

と、涼しい顔で言い放つきくのの俳句に「旅」の文字が入っている作品は73句にものぼる。先のふるさとと比較すると、どれほどの比重であるかがわかる。

しかし、それでもきくのの俳句にも確固たる風土は存在する。幼い頃育った環境に山があり水があり、心の景色に刻んでいたものがふと去来するといったそれらの表出の仕方には、捨てても捨て切れないという粘度はない。

軽井沢を好み、夏になるたびに二ヶ月もの長い期間を過ごし、多くの句を残していることを思うと、きくの自身も自分のなかにある懐かしい記憶が消えてしまわないように、時折確認する必要があったのだと思われる。都会に暮らし、旅を重ねているだけでは、自分の芯が消えてなくなってしまうような不安を覚えたのかもしれない。

軽井沢の山や川は、故郷を思わせ、それでいて自分との距離を置いてくれる最適の場所であったのだろう。軽井沢での作品は、馴染みの地であることの心安さが生んだ親しさで詠まれている。

山の日のすでに秋めけりパン買ひに 『榧の実』

落葉松の秋風をこそ聴くべかり 『冬濤』

栗育つ朝はあさ霧夜は夜霧 『冬濤以後』

澄む水のゑくぼの生れては消ゆる 「春燈」昭和45年11月号

しかし、どれほど愛しい第二の故郷であっても、ひとわたり確認が終われば、「また来年」と手を振るように、ごくあっさりと帰京する。

晩年、鵠沼に戻ったり、東京に転居したり、終の住処となる場所はどこにいっても、なかなか持てないきくのに、風土性にこだわらなかった淡白さがここに災いしたのかもしれないと、思わず身につまされるのだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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