Facebook関守 研悟さん投稿記事
清水教育企画監送別会にて。春は別れの季節でもありますね。それぞれの使命に従い、前へ歩んでゆきたいと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=aJuJOkvrRtY
https://www.youtube.com/watch?v=Zw98o_979P4
https://freegreen.jimdofree.com/%E7%AC%AC13%E5%8F%B7/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%9D%B1%E4%BA%8C/ 【18、「いのちの讃歌」を歌い続けた大重潤一郎】より
大重潤一郎のいのちが今にもこの世から去っていこうとする時に、埼玉県大宮の家で大重との別れの言葉を書きつけようとしている。いろいろなことを思い出すたびに目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちる。
今となって、わたしにとって大重潤一郎がどれほど大切な人だったかが身に沁みてくる。弁慶-義経とか、海賊と山賊とか、半ば冗談めかして、その実本気で言いたいことを言い合った。大宮のこの家にも何度か来て泊り、築地で仕入れてきた魚を捌いて家族5人にふるまってくれた。当時、猫が3匹いたから、家族8人前の大盤振る舞いだった。
大重潤一郎の豪胆なようで、本当に繊細な心をいつも感じていた。わかりすぎるほどよくわかるので、わざと感じないように鈍いそぶりをしたこともあった。
そんな片割れのような半身の「海賊」を喪うことは身を切るよりも辛い。いずれ向こうで会えるとは思っていても、今生でもう言葉も交わせないかもしれないと思うと、寂しさが募る。これまで父母を含め、どんな近親者が死去しても、寂しいと思ったことはないが、まだ大重潤一郎が死んでもいないのに、寂しいという気持ちが募って来て涙ぐんでしまう。
何だろうか、この感情は。かけがえのない友を失う。そうでもあるが、それ以上だ。そんな通り一遍の言葉では収まり切らない感情の塊。その塊が迫ってくる。
この3月初めだったかに調子が悪いと電話があった時、できるだけ早く行くからと3月末に沖縄に行く予定だったが、体調を崩し、40度近い高熱を出して1週間まるまる臥せったために予定が完全に崩れ、沖縄に行って大重潤一郎を会うことができなかった。またその時点で、「久高オデッセイ第三部 風章」の進捗を現場でチェックすることもできなかった。
結局、沖縄に渡ることができたのは、5月末の5月27日から30日までの3泊4日だった。その内、2日間は、女優の鶴田真由さんや比嘉真人助監督や高橋あいさんや伊豆有加さんと久高島に渡ったので、正味2日、実際には3日一緒に話しをすることができた(1)。そして次が、6月21日(日)に久高島で行なった上映会の時。上映会を終えてすぐに大重のいる沖縄映像文化研究所に向った。その時、久高島での上映会の成功を伝えたのだった(2)。
そして7月5日の東京・両国のシアターΧでの島外初上映会。300席で満席のところ、316人の方々が観に来てくださった。最後の4日間は定員オーバーで予約お断りをせざるをえない反響だった(3)。
大重潤一郎は、シアターΧのスクリーンにスカイプでつないだ沖縄映像文化研究所の自分のベッド上で悠然と煙草をくゆらし、あまつさえビールを飲み干す余裕のパフォーマンスを見せた。観客は度肝を抜かれただろう。今にも末期癌で死にかけているこの69歳の男、2015年1月9日の沖縄タイムズで「余命1年」と大きく見出しに書かれ、7月4日、上映会前日の朝日新聞にも大きく今度は「余命半年」と書かれた男が、肺にまで癌が転移して死を目前にしながら悠然と煙草をくゆらしているとは。弁慶も顔負けの一世一代のパフィーマンスであった。
そしてそれは楽しげな笑いを誘い、大喝采を受けた。オオシゲ、いいぞ、がんばれ、と。そして、みんなそこで不屈の大重の魂の所在を感じとったのだった。大重潤一郎らしい、と思った。
その10日後の7月15日、大重潤一郎に、高木慶子上智大学グリーフケア研究所特任所長や島薗進上智大学グリーフケア研究所所長やスタッフのみなさんと相談して、10月3日(土)15時から「久高オデッセイ第三部 風章」上映会とシンポジウムを上智大学10号館1階の800人も入る講堂で開催することが決まったことを伝えた。すると大重は、「ありがとう。ありがとう。たのむ。かまっさん、でも、もう限界。明日あさってが。ゆるして。ゆるして。」と力ない声で言うのだった。思わず泣きそうになって、「ゆるすよゆるすよゆるすよ。あんしんして。もうずいぶんがんばったよ。大重さんのいいところは全部映画に込められているから、それをみんなに伝えていくよ。」と叫んでいた。もちろんわたしが「ゆるす」も何も、そんな大それたことは一切何もないのだが、またそんなことできるわけもないのだが、少しでも安心してほしいのでそのように言ったのだった。
7月16日朝、高木慶子シスターに大重潤一郎に電話してほしいとお願いした。安心するからと。高木シスターは1995年か96年かに大阪で『光りの島』(1995年製作)の上映会を開催してくれたのだが、そこに800人の人が観に来てくれたという。これまで『光りの島』の1回での上映動員数の最高記録ではないだろうか。
16日の昼に大重に電話すると、直接彼が出て、「高木先生から電話があった」と嬉しそうに語っていた。だが、前日の15日に一人息子の大重生さんが神戸から沖縄に渡り、赤十字病院で主治医から病状を確認すると、癌細胞が肺の別の場所と両あばら骨に転移しているとのことだった。そして、癌細胞が悪さをして呼吸機能や嚥下機能を低下させ、身体の痛みを増加させているとのことだった。
そのような事態の中での高木慶子シスターの電話は、大重の心に届いたと思う。高木シスターはわたしの「大姉様」であるが、電話の後、次のような2つのメールを送ってくれた。
<早速に、大重監督にお電話いたしました。すぐに取っていただき、長いご無沙汰にもかかわらず、昨日までお目にかかっていたような感じで、お話しできました。
「お祈り申し上げております・・」と申し上げましたら、「それが一番うれしいことです。お願いたします。・・」と何度もお言葉を繰り返しておられました。
「先生、向うで待っていていただけますか。私がそちらに参りましたときには、お迎えをお願いいたしませね・・」と申し上げましたら、「よろこんでお待ちしております・・」と。
「先生の映画は、出来る限り多くの方々に見ていただけるようにいたします・・・」と申し上げましたところ、「うれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。・・」とのことでございましたので、先生とのお約束は果たしたいと念じております。
とてもはっきりとした、明るいお声でしたので、ビックリするほどでした。
大重監督の志を私どもが継いでいきたいと、こころから願っております。>
<私にとりましても、今日は、特別な日となりました。先生から大重監督の病のことを伺ってから、毎日、今日はどうなのかな・・・と、考えておりましたので、ターミナルとは考えられない程の張のあるお声でしたので、私の方が、元気をいただいたように思っております。きっと大重監督も、私に心配を掛けないためのご配慮だったと思います時、胸が詰まってしまいました。
しかし、向うで待っていただく方が、また一人増えることを思います時、私も安心して逝っていけると、心を強められた思いでございます。鎌田先生、誠に貴重な機会をお与えいただきましたこと、深く感謝し、もっともっと神様が、大重監督を安らかにしていただけますよう、こころからお祈り申し上げます。>
本当にありがたいことである。グリーフケアの専門家で、筋金入りのカトリックの修道女の高木慶子大姉様から「祈り」を届けられたのだから。最後は祈るしかない。祈りしかないと本当に思う。かつて、山尾三省は次のように祈りの詩を書いた。
祈りのことばは わたくしが 人間としてたどりついた 最初のことばにすぎないが
最終の ことばでもある 「祈りのことば」山尾三省
大重潤一郎監督の記録映画に、『ビック・マウンテンへの道』2001年製作(ナレーション:山尾三省)がある。屋久島に住み、農を営みながら詩を書きつづけた霊性の詩人・山尾三省(1938年-2001年)は、NPO法人東京自由大学立ち上げから2001年8月に亡くなるまで、東京自由大学の顧問を務めてくれた。わたしは1997年夏だったかにゲーリー・シュナイダーたちと共に行なった女神シンポジウム終了後、山尾三省に初めて逢い、翌年行なった「神戸からの祈り」の顧問になってもらったのだった。
そして山尾三省を大重に紹介し、アメリカ先住民のナバホ族とホピ族の聖地「ビック・マウンテン」を護るおばあちゃんたちを支援する運動のドキュメント『ビック・マウンテンへの道』のナレーションが完成したのだった。その後わたしは2003年に武蔵丘短期大学を退職した退職金で、その大重の映画『ビック・マウンテンへの道』をDVDにした。2004年、大重が「小川プロ訪問記」を引っ提げて、ベルリン国際映画祭正式招待に応じる前のことだった。もちろん、大重が脳内出血で倒れる前のことだ。大重映画を世界に発信したいと思ったのだった。
今、NPO法人東京自由大学では毎年10月に山尾三省を顕彰する「三省祭り」を実施している。もしかしたら今年は「三省・大重祭り」になるかもしれない。そして10月3日の上智大学での上映会も「大重祭り」の一環となるかもしれない。
大重とのことでしばしば思い出すのが、「神戸からの祈り」の寄附を集めにあちこちを頭を下げて回った時のことである。1998年の夏のことであった。某出版社の某社長にお会いして寄附をお願いしたが、京都駅まで炎天下を歩いたことである。その時、1970年に二人が、当時大阪大学医学部学生の共通の友人であった長谷川敏彦の世話になっていたことが判明し、京都駅前の道路脇の公衆電話ボックスから長谷川敏彦に直接電話して、大いに盛り上がった。あの暑い夏のことをしばしば思い出す。わたしたちには金は一銭もなかったが、志と情熱と行動力だけはあった。そして数百人のボランティアが集まって、「神戸からの祈り」と「東京おひらきまつり」が実現した。神戸の実行委員長を大重が務めてくれた。1998年、夏のことだった。
1970年、大重は阪大医学生の長谷川敏彦の主催で処女作『黒神』(1970年製作)を上映した。同年5月、わたしは大阪心斎橋で「ロックンロール神話考」と題する芝居を作演出していたが、そこに長谷川敏彦が何度も観に来てくれて励ましてくれていた。以来、長谷川敏彦にはいろいろとお世話になったのだった。その長谷川が二人の大切な友人であったことを1998年の炎天下の京都で気づき、「縁」というものは本当に不思議なものだと思ったのだった。
そんな大重潤一郎との「縁」が新しい段階に入るのだろう。もう、この世での海賊・山賊コンビの「楽しい世直し」はこれ以上果たせないかもしれないが、この17年間、大重と出逢って、わたしは面白く、楽しく、愉快に、豊かに、幸せに過ごすことができた。ありがとう、ありがとう、ありがとう、大重潤一郎。さようならを言う時が近いかもしれないが、しかし、いつもそばにいることに変わりはない。深い縁は切ろうとしても切ることができないのだ。それがこの世であっても、あの世であっても。その縁に心から感謝する。そして、大重の一貫した生き方に心からの敬意と愛を捧げる(4)。
時が来て生の汀に打ち返す 君がいのちの引き潮を見る
https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/past_shinngikai/shinngikai/kondankai/bungaku/5/5-ref3.html 【最上川・北上川の和歌・祭りについて】より
最上川の和歌・祭り
1. 最上川について
最上川は、その流域が山形県土の約80%を占めており、山形県の「母なる川」と呼ばれている。
この最上川は、古代(平安前期)には既に舟運の盛んな河川として知られており、盛んな舟運は、流域内の米や紅花といった物産品や金山杉といった木材を下流の都市や都に運ぶとともに、都の文化や風土を奥州の地に運び、東北の文化を育む一つの要因となったものと考えられる。
また、『義経記』によると奥州平泉に逃れようとする義経主従が最上川を遡ったとされ、江戸時代には、奥の細道の旅中にあった松尾芭蕉も本合海から乗船し最上川を下ったとされる。
一方、最上川は急流としても知られており、芭蕉の著名な句も、急流に驚いた芭蕉が「五月雨をあつめて涼し」と詠んだものを「五月雨をあつめて早し」と改めたことがよく知られている。
また、かつては最上川に合流していた赤川においても、最上川の盛んな舟運の影響を色濃く受けており、舟運がもたらした文化は沿川各地に名残をとどめている。
2. 最上川の和歌・俳句
最上川においては歌枕である「最上川」とともに、上述の舟運を取り上げた歌が多く見られる。
最上川の和歌・俳句
最上川…… この歌枕の本歌は、上記の「最上川上れば下る稲舟………」であり、多くの歌に「稲舟」と呼ばれる川舟が行き交っていた様子が詠まれている。なお、古代では最上川が詠まれたのは、この「稲舟」と「否」を掛詞として用いたものが多い。
芭蕉の乗船地とされる山形県新庄市本合海地区では、芭蕉などの一連の句碑・歌碑を建立し、「最上川うたのみち」として整備が行われており、観光ポイントとなっている。河川整備を行うにあたっては、斎藤茂吉の歌にみられる船着場の復元を平成12年に行い、舟運の復活を通じた地域の活性化に寄与している。
3.最上川の祭り
上述のように最上川流域は古くから盛んな舟運により都の文化が伝わった地域であり、様々な形で当時の姿が残されている。ここでは、文献などによって把握された川に関わる祭りについて紹介する。
1) 向長崎の金比羅樽流し(山形県東村山郡中山町)
祭りは、渡し場があった集落で水難事故を逃れるために、船の航海安全を司る神である金比羅権現を祭るようになってから始まったものである。
祭は、毎年4月15日に行われ、小型の樽に酒を入れ、「奉納金比羅大権現」と書き、旗を樽に立てて、寒河江川に投げ入れるといったものである。
祭り自体は、川に樽を投げ入れて終了するが、4月に行われるため、樽は雪解けの濁流にのり、最上川の河口に流れ、その後、日本海の潮にのって瀬戸内海まで流れると考えていた。さらに、瀬戸内海では、この樽を引き上げ、香川県の琴平町の金刀比羅宮に奉納すると大漁を得るという信仰があると信じ、いつの日かはこの樽が拾われ、金比羅様の神前に自分が捧げた神酒が届くと考えていた。 香川県の金刀比羅宮に納められた金比羅樽
2) 黒川能(水焔の能)(赤川:山形県櫛引町)
戦前戦後の赤川方水路の開削まで最上川の支流だった赤川には、流域の代表的な伝統芸能である黒川能がある。これは13世紀~16世紀にかけて庄内地方を領有していた武藤氏が京より能役者を連れて帰ったのが始まりとされている。この能は世阿弥が大成した後の猿楽能の流れを汲みながら現在上演されているどの流れにも属していない独特の形を持っているといわれており、櫛引町を南北に流れている赤川を境として上座と下座に分かれて、互いに競い合う形で演じられるものである。昭和59年からは、元来能が野外で演じられていたことから、その原点に立ち返り、赤川の河川敷において「水焔の能」が演じられている。
北上川の和歌・祭り
1. 北上川について
北上川は、岩手県北部にその源を発し岩手県、宮城県を流下する河川で、宮城県内では旧北上川、北上川に分派し、石巻湾と追波湾に注いでいる。
この地域は日本書記に出てくる日高見国(ひたかみのくに)であるとされており、この「日高見国を流れる川」が変化して、北上川となったと言われている。
今から1200年ほど前には、この地域は朝廷に抵抗する蝦夷の王アテルイが支配していたが、その後、坂上田村麻呂の前に降伏し、東北地方は朝廷の支配を受けることとなる。この朝廷支配のもと安倍氏の支配となり、次いで藤原氏、奥州藤原氏へと支配者が遷り変っていくこととなる。この中でも支川の衣川周辺に拠点を構えた藤原氏は隆盛を極め、平泉に中尊寺、毛越寺に代表される黄金文化を築き上げたことが良く知られている。
2. 北上川の和歌・俳句
古代から支配者の移り変わりとともに、平泉の黄金文化などの文化を育み、多くの歌人・俳人を惹きつけた北上川流域では多くの和歌・俳句が詠まれている。
衣川……… 衣川は、平泉町の中尊寺近くで北上川に合流する河川で、古代には、この地は対蝦夷の最前線として位置づけられ、奥州古関の1つである「衣の関」が置かれていた。なお、この地の歌枕は、「衣川」あるいは「衣の関」の二つがあげられる。
北上川との合流点北側の衣川柵旧跡で、前九年の役(1051年)に、追撃する源義家と敗走する安倍貞任とが「衣のたてはほころびにけり」「年をへし糸の乱れの苦しさに」と連歌を詠みかわした逸話がある。
北上川…… この「北上川」は俳枕で、近現代の歌人が詠む歌がほとんどである。また、流域には、石川啄木記念館(渋民村)や日本現代詩歌文学館(北上市)などの施設があり、北上川流域で数多くの詩歌がよまれていたことを裏付けている。
この平泉では、北上川の堤防整備を計画していた地に、奥州藤原氏の政庁跡とされる柳之御所遺跡が発掘された。石川啄木の歌「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」のとおり、「柳」は北上川の象徴であることから、堤防整備の計画は平成7年度に変更された。
なお、柳之御所を含む「平泉の文化遺産」は、平成12年11月に世界遺産の暫定リストに登録され、地元平泉町でも、平泉文化を中心としたまちづくりが進められている。
柳之御所跡と計画変更の様子(青線→赤線へ)
3.北上川の祭り・伝統芸能
平泉には、和歌だけでなく、平泉文化を発祥とする伝統芸能も残されている。近世に入ってからは、芭蕉の句のとおり平泉は「兵どもが夢の跡」となったが、川って下流域が伊達藩の行った河川改修によって一大穀倉地帯となり、これにまつわる祭りが行われている。
1)毛越寺(平泉)の年中行事・伝統芸能
毛越寺は、中尊寺と時を同じくして西暦850年に開山され、
藤原基衡によって再興された奥州藤原氏の文化を代表する寺院である。往時は中尊寺をしのぐ規模と華麗さを誇っていたとされている。
この毛越寺においては、「延年の舞」などの古典芸能のほか、平安の名残をとどめる境内の鑓水では「曲水の宴」も行われている。
延年の舞と曲水の宴;
2) 衣川村の伝統芸能
衣川村内には国指定の無形民俗文化財である「川西大念仏剣舞」を始め、「大平念仏剣舞」「川内神楽」「池田胴念仏」などの伝統的な郷土芸能が伝えられている。
・ 川西大念仏剣舞
今から900年ほど前、藤原清衡が前九年の役、後三年の役で亡くなった武将の霊を供養し、仏都の平安を祈るために、作らせたものが始まりとされており、国の無形民俗文化財に指定されている。
・ 三輪流神楽
現在、衣川に残っている神楽は三輪流と呼ばれ、川内・大原・大森・川東の四団体がある。演目は数十種類もあり、「衣川神楽まつり」などで上演される。
17世紀前半、伊達正宗の命により、川村孫兵衛重吉が行った北上川の洪水防御と舟運の活性化により、北上川下流一帯は、東北の一大穀倉地帯となった。この祭りは、川村孫兵衛重吉の偉業に感謝し、あわせて水難による物故者の冥福を祈るために大正5年(1916)から始まった祭りで毎年8月1~2日に行われている。
初日には、川村孫兵衛の墓前祭が行われ、市内の神社神輿が市内を練り歩き、職場や町内会などが参加する孫兵衛船競漕が二日間行われる。夜には北上川の河畔で花火大会が開催され、翌日夕方には浴衣など着て踊る大漁踊りが繰り広げられる。
Facebook地域学研究会 南 陽子 投稿記事
地域学序論 五島高資
1. 辞書的「地域」の定義
区切られた土地。土地の区域。[広辞苑]
政治・経済・文化の上で、一定の特徴をもった空間の領域。全体社会の一部を構成する。 [大辞林]
2. 様々な「地域」の捉え方
Region : 境界・範囲に関係なく漠然とした領域 空間的分類
Area : 土地の区分(Regionより狭い)
District : 特に行政上での区分 機能的分類
Community : 社会的要因による区分
Zone : 特別な意味を持つ区分
慣用的分類
Country/Provinces(辺鄙)、Local(地元)
3. 「地域科学」の成立
地域科学 (Regional Science) 1950年代にウォルター・アイザード(Walter Isard)によって定義され確立された社会科学の一分野。
対象 : 任意に区分された面域(area) ではなく、地域(region)
定義 : 意味のある地域か諸地域のシステムの発展に影響を及ぼす政治的、経済的、社会的、および心理的諸要因の総合的(統合的あるいは包括的)な分析。 社会とその人々の空間=時間的発展の、それらの社会的、経済的、政治的、および心理的諸次元のすべてにおける研究。 W.アイザード 「地域科学入門(I)」
4. 「地域科学」の変遷
1954年、国際地域科学協会(The Regional Science Association)創設。⇒ 国際地域学会(The Regional Science Association International : The RSAI)と改称。
1962年、日本地域学会設立(国際地域学会日本支部)。 その後、The RSAIを中心とする地域科学は、特定の国や地域の研究に偏ったり、冷戦構造のなかにおける地域研究(Area Studies)と混同されるなど、学問的に低迷していく。
1990年代、グローバリゼーションや地域格差などと相俟って「地方分権・地域主権」など地域主義が再認識され、国家主導や既存の学問体系では対応が不十分な社会状況が出現。地方での経済的困窮のみならず都市部での人間疎外など、様々なかたちで「地域」の疲弊が指摘されて久しい。
5. 風土学
『空気と水とこころ』 Hippocrates (A.C.460-377) 「市民の特性」 Aristoteles (A.C.384 -322) 風土の特殊性が人体の生理や心情、さらには民族性に影響することを指摘。
「人間の精神の風土学」 J. G. Herder (1744-1803) 自然科学的な「知識」ではなく、人間の主体的な「理解」の対象として風土を考察し、土地の固有性を重視。
6. 文化相対主義の二面性
「異なる文化に属する人々は異なる世界に住む」
正しい倫理的原理は人や文化や時代によって異なる。全ての文化は対等であり、相手側の価値観を尊重し、そのありのままを理解しようとする態度。
個人的相対主義の利点 : 自由主義、プライバシーの尊重
「自己言及のパラドックス」
相対主義における「いかなる命題も、絶対に正しいということはない」という含意が、相対主義における命題の自己否定である。「異なる文化に属する人々が同じ世界に住む」現実。
個人的相対主義の欠点 : ゲマインシャフト(伝統的共同体)からゲゼルシャフト(経済的共同体)への移行による人間疎外。
7. 人間存在の風土的規定
『風土』 : 人間学的考察 和辻哲郎 (1889-1960 )
風土は人間の自己諒解の仕方であり、主体的な意味における空間性と時間性による人間存在の型として歴史的現象の解釈によって把握されるものである。
8. 主体的な異文化理解
「言語相対論」 言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する。 Benjamin Lee Whorf 「文化」の語源は、「文治教化」(文徳によって教化すること) 「誠信交隣」 互いに欺かず、争わず、真実を以て交わり候を、誠信とは申し候。雨森芳洲 『交隣提醒』
9. 新しい「地域学」
これまでの「地域学」≒地域科学⊆社会科学 地域(region)を研究対象にする経験的あるいは実証的な諸学問分野(政治学、経済学、地理学、社会学、人類学)にわたる包括的研究。 新しい「地域学」の在り方 人文科学(考古学、歴史学、文学、言語学)、自然科学(生態学、地学)、社会科学にわたるパースペクティブな視座とフィールド・ワークによる主体的な地域(living sphere)研究。 「物語能力(Narrative Competence)」による恕察が大切。
10. 地域学の学問的位置付け
11.「地域学」の要諦 I
地域学の領野
共時的視座 : 日常生活圏域(Living Area)を対象とした人文科学、社会科学及び自然科学による多元的アプローチ
通時的視座 : フィールド・ワークや「物語能力」等による主体的アプローチ
A.の共時的諸局面をB.の通時的時間軸が貫くという相互交流のなかでパースペクティブに捉えられ、さらに一つの全体をなすシステムにまで敷衍される意味ある立体的領域として「地域(Living Sphere)」が措定される。
12.「地域学」の要諦Ⅱ
「地域(region)」⇒「地域(Living Sphere)」
すなわち
「地域」に生きる ⇒「地域」を生きる
まず自らが住む「地域」を知り、反省的に「地域」を生きる自覚を培い、さらには豊かな人間性の恢復のため、主体的に「地域」の再生に関わることを目指す。
13.「地域学」の要諦 Ⅲ
涼しさを我宿としてねまる也 松尾芭蕉
「ねまる」は、うちくつろいで座ることの出羽方言。奥の細道の旅で尾花沢の鈴木清風を訪ねた際、涼しくしつらわれた座敷をまるで我が家のようにくつろいでいますという意。
俳諧の三要素
挨拶・・・方言の使用は、地域文化に対する尊敬の表れ
即興・・・ただ今、現瞬間を共有
滑稽・・・主客・物我一如を介した詩的昇華(arts)
日本では古来より異境あるいは地方(地域) に対する尊敬の念 が共有されていた。このことは 松尾芭蕉による紀行文『奥の細道』はもとより、古くは『万葉集』全体、特に東歌・防人歌にも多く認められる。こうした日本の古典文学には現代の「地域学」において学ぶところが多く残されている。
Takako Goto 人の心が尊重されているところに共感いたします。地域学って、こんなに素晴らしい学問なのですね!
五島高資 これまでの二項対立的な思考をそろそろ脱してパースペクティブなものの見方が大切になってくると思います。そろそろパラダイムシフトが始まると思いますが、もちろん、既存の科学との調和が前提となります。
畝川 晶子 新しい地域学のパースペクティブ+ナラティブというのは、エビデンス・ベイスト(EB)の医療現場にナラティブ・ベイスト(NB)の視点を導入しようとしている点で、まさに地域学と医学は同じ方向を目指しているのでしょうか。
五島高資 まさに仰るとおりだと思います。エビデンスベースととナラティブベースとの調和が大事だと思います。そういう意味で地域学と医学は同じ方向を向いていると思います。奈良時代における地域市民の医療は、巫覡や僧医あるいは民間療法が担っていた毉療に負うところがほとんどでした。「上医は国を医す」における「国」は「地域」と置き換えても良いかと思います。
畝川 晶子 ご解説、ありがとうございます!拝読して、とても勉強になりました<(_ _)>。
五島高資 ご理解頂けて大変うれしいです。今後ともよろしくお願い致します。
畝川 晶子 こちらこそ、ご指導とともに貴重なお時間を割いていただき感謝いたします。
南 陽子 本能的なテリトリー争い、領土の問題は どのように位置づけられるのでしょう?また地球外生命体、トランスパーソナル的なディープエコはどう位置づけられるのでしょう?
五島高資 排他的な所有欲は阿頼耶識にも悪い薫習をもたらすでしょうね。所有欲に限らず人間にはたくさんの欲望があります。八万四千の法門を光明に変えていかなければならないので大変ですね。
南 陽子 そのような意図をお持ちの「地域学」ということですね。
五島高資 宇宙をマクロコスモス、人体をミクロコスモスとすれば、地域はミドルコスモスのようなものかもしれません。いずれにしても曼荼羅構造あるいはフラクタル的構造と捉えています。
南 陽子 自然の摂理にあった 有機的な 共同体は曼荼羅、あるいはフラクタル構造になる・・・・阻むものを見るより、ソリュションフォーカスとアプローチでしょうか?
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